一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは英昭彦が2005年11月に設立した会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。富士門流執着軍団批判は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄だが、「日蓮正宗系」以外の富士門流寺院の調査・研究は「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」の管轄。
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■高野山金剛峯寺2(20145月の高野山旅紀行2)

 

20145月に高野山真言宗総本山・高野山金剛峯寺に行って参拝した時の旅紀行2

 

高野山参拝当日は、阪急十三駅から阪急電車に乗って阪急梅田駅へ。梅田駅からJR大阪駅をかすめて地下鉄梅田駅から地下鉄御堂筋線の電車に乗車。なんば駅で下車して南海電車なんば駅へ。なんば駅とは、南海なんば、近鉄なんば、地下鉄なんば等があるが、もともとは南海なんば駅が難波駅だった。南海電鉄がプロ野球・南海ホークスを持っていたころは、この近辺に大阪球場があったが、今はない。ちょうど野村克也氏が現役選手、現役兼監督だったころのことだ。そういえば、私が乗った阪急電車も、昔はプロ野球球団・阪急ブレーブスを持っていた。阪急ブレーブスや南海ホークスを知っている人は、今はもうだいぶ少なくなっているのではなかろうか。

南海なんば駅で、高野山行き「世界遺産きっぷフリー乗車券」を買う。これには南海電車往復乗車券、行きの特急券、バスフリーきっぷと割引券がついている、なかなか便利なきっぷで、3400円。これは便利です。私は過去に高野山金剛峯寺に行ったことがあるのだが、実は、南海電車に乗っていくのは、今回がはじめて。では、以前はどうやって高野山に行ったのかというと、自家用車で行っています。「終着駅で降りても、またバスを乗り継がなくてはいけないのかな」と思いつつ、南海なんば駅から、南海特急「こうや」号に乗る。ところがこの「こうや」号は、何とたったの4両編成。こんな短い編成の特急列車も、大変珍しい。乗車した日は土曜日ということもあり、特急「こうや」号は全席満席。列車の車内で「特急券は売り切れました。特急券をお持ちでないお客様は、ご乗車になれません」とのアナウンスが流れる。それにしても始発駅の南海なんば駅で、全席満席になってしまった特急「こうや」号。南海なんば駅から終着駅の極楽橋駅まで、停車駅がいくつもあるのだが、だれも乗降せず、ずっと満席のまま。「こんなに列車の中が混んで満席になっているのに、どうして4両編成なんだろうか。どうしてもっと車両を増結しないんだろうか」と、不思議に思って乗っていたところ、終点・高野山極楽橋駅に着いて、その理由がわかった。

南海高野線は、複線電化線なのだが、複線区間は途中の橋本駅まで。橋本~極楽橋は単線電化区間になる。それで高野下駅あたりから、高野線はものすごい山岳地帯に入り、線路は蛇行の連続。電車のスピードも著しくダウンする。切り立った山の中を、這うように走り、トンネルを出たり入ったりの連続。「こうや」号の終着駅・極楽橋駅は、高野山の切り立った山の中を切り開いて造成したかのような駅で、この駅のホームが辛うじて4両が限界。だから特急「こうや」号も4両編成だったというわけである。それにしても、車で高野山に登ったときは、それほど感じなかったが、こうして電車で高野山に登ると、何と高野山という所は、切り立った山岳地帯なんだろうかと思う。

現代人は電車・バス・車に乗って、やすやすと高野山に登るが、平安、鎌倉、室町、安土桃山の上古の時代は、徒歩が主な交通手段だった。平安時代に仏教を信仰していたのは、天皇、公家、貴族などの支配階級の人のみで、そういう人たちは、駕籠などに乗って高野山に登ったとは思うが、ほとんど徒歩しか交通手段がなかった平安時代に、こういう高野山に仏教大寺院を弘法大師空海がよく建立したものだと思う。大変な難工事だったのではないかと偲ばれる。

 

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■高野山金剛峯寺1(20145月の高野山旅紀行1)

 

20145月に高野山真言宗総本山・高野山金剛峯寺に行って参拝した時の旅紀行

 

この項では、201459日、東京を出発して高野山真言宗総本山・高野山金剛峯寺に行ったときのことを書きます。高野山には、これより以前に何度か行っているのですが、いかんせんブログにアップできる写真がない。というわけで、ブログにアップする写真を撮るため、久しぶりに弘法大師廟参拝のため、高野山に行ってきました。東京から日帰りで行けないこともないのですが、いかんせん大阪から高野山に行く移動手段は、南海電車になる。南海電車・難波駅から特急こうや号で行っても、ケーブル高野山駅に着くまで約1時間半はかかる。東京から早朝6時発の東海道新幹線「のぞみ」号で行ったとして、新大阪到着が8時半。難波駅9時発の特急「こうや」号に乗ったとして、高野山駅到着は11時半になる。東京からストレートに行けたとしても6時間弱はかかる。

それで23時に東京駅に到着できる新幹線に乗るには、どんなに遅くとも高野山を17時に出発しなければならない。これは旅の行程としては、いささか、きつすぎる。又、あの広大な高野山の境内を散策・見学・参拝するには、時間が短すぎる。というわけで、高野山参拝の前日に東京を出発。東海道新幹線で新大阪に到着。大阪市内のホテルに宿泊。翌朝、大阪から電車に乗って高野山に行くことにした。

私は、東京を拠点にして全国各地の寺院を巡る旅をしてきているが、電車・バス・航空機を使い、ホテルに宿泊する旅の場合、JTBのビジネスパック(出張応援価)を使うことが多い。この通称・ビジネスパックを使うと、旅費・宿泊費をかなり安く抑えることができる。今回の高野山行きも、もちろんビジネスパックである。今回は往復新幹線とホテル宿泊費で27500円。さらに1泊追加したので、追加宿泊費が6500円。かなりお得な金額である。今回は普通車指定席に乗ったが、グリーン車に乗る場合も、2500円の追加料金でグリーン車に乗れる。JRみどりの窓口で、乗車券・特急券を買い、ホテルを予約するよりも、大幅に安くなる。往復の交通手段として航空機を使うこともできるが、こちらも費用が大幅に安くなる。ただし航空機を使う場合、出発の7日前までにビジネスパックの予約をしなければならない。新幹線を使う場合は、出発の当日でもOKだが、ビジネスパック用の座席、ホテルの部屋が空いていることが条件。またホテルによっては、1200円とか1500円くらいする朝食券を、事前予約で1000円で買うことができるオマケ付きのところもある。

今回は東京発1633分の「ひかり」号に乗車。新大阪到着が1928分。所要時間は2時間55分である。私が子どもの頃は、東京発、名古屋と京都しか停車しない最高時速210キロの「ひかり」号で、新大阪までが3時間10分だった。ところが今は、最高速度が270キロになり、この他に品川、新横浜、豊橋、岐阜羽島、米原に停車し、岐阜羽島と米原で「のぞみ」の通過待ちをして、東京~新大阪が2時間55分。「のぞみ」号だったら、品川、新横浜、名古屋、京都に停車して2時間30分。かつての最速の「ひかり」号より停車駅が多くなったのに、所要時間が40分も短縮している。時代がかわったものである。

 

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■真宗木辺派・錦織寺3(真宗教団連合・十派のちがい)

 

□本尊・教義は同じで歴史・御影堂の読み方・正信偈読誦の和音に違いがある浄土真宗十派

 

浄土真宗が十派に分かれているが、本尊、教義、化儀に違いはあるのか、ないのか。部外者から見ると、そこの所がわかりにくく見える。錦織寺は真宗木辺派の本山で、境内に宗務庁があるので、そこの職員に質問してみようと宗務庁を訪ねた。話しをいろいろと聞くよりも、錦織寺が公式に出版している書籍があれば手っ取り早い。そこで宗務庁の職員に「錦織寺が公式に出版している本はありませんか」と尋ねると、「ありますよ」との返事。それで職員があっちこっちの書棚を探したのだが、一般向けに出しているという書籍がなかなか見つからない。見つからないので、代わりに錦織寺が出している小冊子とパンフをもらった。そこで宗務庁の職員に質問してみることにした。

----浄土真宗十派の本尊、教義、化儀はどこがちがうのですか

「いいえ、十派にちがいはありません。同じですよ。ちがっていたら大変です」

----では十派に、全く違いはないのですか。ちがいがないのなら、どうして十派に分かれているのですか。

「んー、まあ、ちがいといえば、歴史がちがうとか、政治的にちがうとか、あるいは『御影堂』を『みえいどう』と読むのか、『ごえいどう』と読むのか、といった違いでしょうかねえ。あとは、正信偈を読むフシがちがいます」

----和音のことですね。

「そうです。正信偈を読むときは、フシをつけて読むんですね。いわば、これは音楽です。このフシが本願寺派(西本願寺)や大谷派(東本願寺)とは、ちがうんです」

----本願寺派(西本願寺)や大谷派(東本願寺)とのちがいと言えば、本願寺派、大谷派の門首猊下は、宗祖親鸞聖人の直系のご子孫の方ですよね。

「そうですね。錦織寺の代々の門主猊下は、宗祖親鸞聖人のお弟子のご子孫の方だったのですが、途中で血統が途切れて、西本願寺から門主をお迎えしたりしているのです」

ところでこの質疑応答の中、私が門首を「もんす」(monsu)と発音したところ、宗務庁の職員の方から、木辺派は「門主」を「もんじゅ」(monju)とお呼びするとの指摘をいただいた。大谷派は「門首」、本願寺派、仏光寺派、興正派、木辺派は「門主」。国語辞典を調べてみると「門主」も「門首」も、どちらも読み方は、「もんしゅ」(monshu)と載っていた。木辺派では「もんしゅ」(monshu)を「もんじゅ」(monju)と発音しているのだろうか。

正信偈(しょうしんげ)とは、正式には「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」といい、親鸞の著書『教行信証』の「行巻」の末尾に所収の偈文のこと。一般には略して「正信偈(しょうしんげ)」という。親鸞述の『三帖和讃』とともに、本願寺第8世蓮如によって僧俗の間で朝暮の勤行として読誦するよう制定されて以降、現在も勤行や法要の時に読誦されている。

 

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■真宗木辺派・錦織寺2(御影堂・阿弥陀堂・真宗教団連合)

 

□「教行信証」完成の喜びを門弟の請いによって描いた自画像「満足の御影」を祀る御影堂

 

浄土真宗本山寺院に行くと、阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂(本堂)と、宗祖・親鸞を祀る御影堂の二堂が並んで建っていることが、共通点として挙げられる。これは木辺派本山・錦織寺も同じなのだが、ただし錦織寺の場合は、この二堂に加えて毘沙門天を祀る天安堂があり、三堂が並んで建っている。阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂(本堂)と宗祖木像を祀る御影堂の二堂が並んで建つのは、浄土宗総本山・知恩院も同じ。さらに言うと、日蓮宗寺院では、本尊の釈迦如来を祀る本堂と宗祖日蓮を祀る御影堂の二堂が並んで建っているが、堂宇の建て方がこれまた浄土真宗によく似ている。さて堂宇に参拝してみようと、まずは天安堂へ。ところがここは閉扉されていて、ここに参拝するには、錦織寺宗務庁に申し出なければならないとの案内板が出ている。「なんだか閉鎖的なことが書いてあるなあ。日蓮正宗系や不受不施派と似たことが書いてあるなあ」と思い、ちょっと私の中では、印象が悪くなった。それにしてもなぜ浄土真宗の本山に、毘沙門天を祀る堂宇があるのか、という話しになるのだが、錦織寺が発行している「お念仏のふるさと・錦織寺」「真宗木辺派・本山錦織寺」と題するパンフにその答えが書いてあった。

そもそも錦織寺の起源は、天安2(858)、比叡山延暦寺三代座主・慈覚大師円仁の命で、この木部の地に御堂が建てられ、毘沙門天が祀られたことに由来するという。それから三百数十年後に、親鸞が関東から京都へ帰ろうとする途中、この毘沙門天が祀られた天安堂に留まった。そして親鸞は、茨城県霞ヶ浦の湖中から感得したと伝承する阿弥陀如来像を祀り、浄土真宗の教えを説いた。この縁由により、琵琶湖東側地域における浄土真宗の拠点になったという。

親鸞が木部滞在の最中の歴任元年(1238)、天女が蓮の糸で織った紫紅の錦が仏前に供えられ、これを四条天皇に献上したところ、「天神護法錦織之寺」との勅額を受けたとの寺伝がある。これが天神護法院錦織寺の寺号の由来であるとのことだが、天女の寺伝が本当かどうかは定かではない。科学的にはとてもあり得ない話しだが、こういう古来からの伝承・伝説は、錦織寺に限らず、日本全国各地の仏教寺院によくある話しではある。親鸞は木部滞在中に、浄土真宗根本聖典の「教行信証」の中の「真仏土の巻」と「化身土の巻」を述作したと伝承するが、嘉禎3(1237)4月中旬、「教行信証」完成の喜びを門弟の請いによって、真正面に自画像を描いた。それが現在、錦織寺御影堂に祀られる「満足の御影」だという。私が錦織寺に行った日は、御影堂では参拝門徒を集めて僧侶の説法会が行われていた。御影堂の戸は閉め切られていて参拝は不可。しかたがないので、隣の阿弥陀堂へ参拝。ただし阿弥陀堂の戸が開いていたわけでもなく、ここも閉まってはいたが、鍵がかかっておらず、戸を開けて中に入っていった。阿弥陀堂の中に入ると、正面に阿弥陀如来の座像が祀られているのは、わかったが、堂宇の中が暗くてよく見えない。

 

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■真宗木辺派・錦織寺1(真宗木辺派の規模・立て札)

 

□浄土真宗の中では東西本願寺派、高田派、仏光寺派、興正派に次ぐ規模の真宗木辺派

 

真宗木辺派・錦織寺とは、浄土真宗木辺派の本山で、滋賀県野洲市木部826にある。派号は「木辺派」と書くが、住所地は「木部」と書く。正式名は遍照山天神護法院錦織寺。錦織寺は「きんしょくじ」(kinshokuji)と読む。「にしきおりじ」ではない。

真宗木辺派とは真宗教団連合をつくる浄土真宗十派のひとつ。浄土真宗には、十派以外にもさまざまな分派があり、全ての宗派が真宗教団連合に加入しているわけではない。

2013年度版・宗教年鑑で信徒数を調べてみると、浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)が約780万人、真宗大谷派(本山・真宗本廟・東本願寺)が約323万人、真宗高田派(本山・高田専修寺)が約223000人。真宗仏光寺派は約48000人。真宗木辺派(本山・錦織寺)が約46000人。真宗興正派(本山・興正寺)が約35000人。真宗出雲路派が約11000人。真宗誠照寺派が約13000人。真宗三門徒派が約14000人。真宗山元派が約1600人。親鸞頂骨を格蔵していると伝承する新潟県高田市浄興寺を本山とする真宗・浄興寺派が約17000人である。

門徒(信徒)数で言うと、東西本願寺派、高田派、仏光寺派に次ぐ数になっている。

寺院・教会・布教所数で見ると、浄土真宗本願寺派が10369、真宗大谷派が8743、真宗高田派が643、真宗興正派が514、真宗仏光寺派は377、真宗木辺派が215、真宗出雲路派が60、真宗誠照寺派が71、真宗三門徒派が40、真宗山元派が21、真宗浄興寺派が14である。

教師(僧侶)数で見ると、浄土真宗本願寺派が19465、真宗大谷派が17439、真宗高田派が961、真宗興正派が756、真宗仏光寺派は524、真宗木辺派が254、真宗出雲路派が86、真宗誠照寺派が55、真宗三門徒派が59、真宗山元派が38、真宗浄興寺派が16である。浄土真宗は西本願寺を本山とする浄土真宗本願寺派が最大で、これとほぼ匹敵する規模なのが真宗本廟・東本願寺を本山とする真宗大谷派で、この二つが極端に規模が大きい。

これにつづくのが、真宗高田派、真宗興正派、真宗仏光寺派、真宗木辺派の4派で、この4派は

門徒数、寺院・教会・布教所数、教師(僧侶)数ともに、似たり寄ったりぐらいの規模である。浄土真宗十本山の中で4本山(東西本願寺、仏光寺、興正寺)が京都市にあり、4本山が福井県。あとは滋賀県(錦織寺)と三重県(高田専修寺)で、西日本、近畿地方に集中しているのが特徴である。

仏教寺院とは一般的に△△山○○寺という名前の如く、山の中にあるというイメージが強い。仏教各宗派の総本山、大本山、本山寺院を見ても、東京、関東近県や京都、大阪、名古屋等にある寺院は別としても、身延山久遠寺、比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺、福井・永平寺、能登・総持寺祖院、倶利伽羅不動寺、長野・善光寺、日光山輪王寺、千光山清澄寺等、山の中にあるケースが多い。ところが錦織寺がある所は、琵琶湖のほとり、近江平野の真ん中。錦織寺とその周辺の民家・伽藍のまわりは、水田が広がっている。昔懐かしい景観に巡り会える。

 

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■真宗・興正寺1(仏光寺・西本願寺から独立)

 

□もともとは真宗仏光寺と同一で仏光寺から分離→西本願寺→西本願寺から独立した興正寺

 

真宗・興正寺とは、浄土真宗興正派の本山で、場所は浄土真宗本願寺派本山・龍谷山本願寺(西本願寺)に隣接している。だからここには、西本願寺を訪問・参拝したのちに、すぐに訪問・参拝できる。西本願寺の寺域・伽藍があまりにも巨大であるため、興正寺は西本願寺の塔中子院のように見えてしまうのだが、独立した興正派の本山である。正式名は円頓山興正寺という。

浄土真宗興正派とは、真宗教団連合をつくる浄土真宗十派のひとつ。浄土真宗には、十派以外にもさまざまな分派があり、全ての宗派が真宗教団連合に加入しているわけではない。

2013年度版・宗教年鑑で信徒数を調べてみると、浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)が約780万人、真宗大谷派(本山・真宗本廟・東本願寺)が約323万人、真宗高田派(本山・高田専修寺)が約223000人。真宗仏光寺派は約48000人。真宗木辺派(本山・錦織寺)が約46000人。真宗興正派(本山・興正寺)が約35000人。真宗出雲路派が約11000人。真宗誠照寺派が約13000人。真宗三門徒派が約14000人。真宗山元派が約1600人。親鸞頂骨を格蔵していると伝承する新潟県高田市浄興寺を本山とする真宗・浄興寺派が約17000人である。

門徒(信徒)数で言うと、東西本願寺派、高田派、仏光寺派、木辺派に次ぐ数になっている。

興正寺に関する資料・書籍も極端に少なく、興正寺の縁由・歴史についても、定説はなく、さまざまな説がある。これは室町・戦国時代の戦乱で、古文書の多くが焼失してしまったためではないかと考えられる。そこで興正寺の歴史の説については、PHP新書「京都の寺社505を歩く・上・洛東・洛北・洛中編」(山折哲雄監修・槇野修著)から引用してみたい。

正中元年(1324)に了源が山科に一宇を建立。それを大谷廟堂の覚如が興正寺と名付ける。そののち、山科から汁谷(今の京都・渋谷通り・しぶたに)に移り、寺号を仏光寺としたとする説。

もうひとつは、建暦2(1212)に流罪地の越後から京都に戻った親鸞が山科に一宇を建て、順徳天皇から「興隆正法寺」の寺号を拝受。勅願寺になった。それが略して興正寺になったという説。

文明年間(14691487)に、仏光寺第14世経豪は、当時の仏光寺が天台宗妙法院と近かった関係を嫌い、本願寺8世蓮如に帰依して、同士の僧侶らと仏光寺を抜け、興正寺の旧地である京都・山科に寺院を建立。旧名の興正寺を継承した。蓮如は経豪に蓮教の僧名を授与した。

仏光寺から分離した興正寺は、天文法華の乱で一時、大坂に移るが、天正19(1591)に本願寺の京都移転にあわせて、今の地に移転する。本願寺の東西分立以降は、西本願寺に属していたが、宗論の違いから西本願寺と袂を分かち、明治9(1876)に西本願寺から独立した。

よって現在の興正寺は、もともとは仏光寺であり、仏光寺から分離した後は、西本願寺に属した。明治になって西本願寺から分離・独立したという歴史を辿っている。

 

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日蓮本宗本山・要法寺30(本山要法寺公式ウエブサイト)

 

□日蓮本宗本山要法寺公式ウエブサイトで確認された要法寺(ようぼうじ・yoboji)の読み方

 

私は京都要法寺には1990年代から足を運んでいるのだが、さてこの度、富士門流八本山のひとつである日蓮本宗本山要法寺が公式ウエブサイトをオープンさせていたことが判明しました。

□日蓮本宗本山要法寺公式ウエブサイト「師厳道尊に生きる」

http://www.honzanyoboji.or.jp/

本山要法寺公式ウエブサイトの開設日は201496日になっている。

公式ウエブサイトのアドレスは「ホンザンヨーボージ」。(honzanyoboji)これを見て思い出したのだが、「仏教宗学研究会」のブログでも、京都要法寺の訪問記・研究記事を載せているのだが、今から約3年前のこと、2012033112:04にアップした「京都要法寺(2)~大石寺以外の富士門流では最大寺院数の日尊門流祖山・要法寺」の中で、こう書いた。

「『要法寺』の名前なのだが、正式には「ようぼうじ」と読む。「ようほうじ」ではない。」

□「京都要法寺(2)~大石寺以外の富士門流では最大寺院数の日尊門流祖山・要法寺」

http://bukkyoshugakukenkyukai.doorblog.jp/archives/4808510.html

これは、実際に要法寺に足を運んで訪問すれば、要法寺を「ようぼうじ」と読むことぐらいはわかるのだが、ところが東京をはじめとする関東近県で、本や新聞、雑誌だけ読んで、京都要法寺のことを研究した気になってしまっている者たちは、どういうわけか「要法寺」を「ようほうじ」(yohoji)と読みたがるクセがある。特に日蓮正宗、創価学会、顕正会などの「日蓮正宗系」の信者たちは、一様に「要法寺」を「ようほうじ」(yohoji)と読みたがるのである。そこで私がこれらの者たちに

「そうじゃありませんよ。要法寺は「ようぼうじ」(yoboji)と読むんですよ」

と指摘しても、全く聞く耳を持たないのである。

ところが今回、日蓮本宗本山要法寺公式ウエブサイト「師厳道尊に生きる」のアドレスが「ホンザンヨーボージ」(honzanyoboji)になっていることで、はからずしも私の「要法寺は「ようぼうじ」(yoboji)と読む」との指摘が正しかったことが、公式に確認されることになった。まことに慶賀の至りである。

そこで「要法寺」を「ようほうじ」(yohoji)と読みたがる、東京をはじめとする関東近県の石頭の分からず屋の者たちに対して「勝利宣言」を宣告するものと致します。()

要法寺HP1
















 

(日蓮本宗本山要法寺公式ウエブサイト「師厳道尊に生きる」)

 

 

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□「アンチ日蓮正宗」「仏教宗学研究会」直通携帯用メルアドとは違っているのでご注意下さい

 

この度、東京都内にある「仏教宗学研究会」本部・管理人直通のPC用メルアドが開通しましたので、お知らせします。

 

bukkyoshugaku_kenkyukai@jcom.zaq.ne.jp

 

「仏教宗学研究会」の公式サイト「仏教宗学研究会のブログ」のトップページにも貼り付けておきましたので、ご参照下さい。尚、このメルアドは、「アンチ日蓮正宗」「仏教宗学研究会」直通携帯・スマホ用メルアドとは微妙に違っているのでご注意下さい。

尚、以前から書いていますが、新しいメルアドが開通したからと言って、迷惑メール、謀略メール等はお断りします。当然ですね。

日蓮正宗、創価学会、公明党、創価大学、創価学会の外郭団体・企業、富士大石寺顕正会、正信会、大石寺法主、日蓮正宗末寺住職、僧侶、寺族、根檀家、信徒、法華講連合会、法華講支部、理境坊妙観講、富士門流執着軍団等に関する情報は、「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」直通のPC用メルアドのほうへお願い致します、

 

anti_nichirenshoshu@jcom.zaq.ne.jp

 

「日蓮正宗系」や富士門流執着軍団以外の仏教、各宗派、宗教等に関する情報は、こちら「仏教宗学研究会」本部・管理人直通のPC用メルアドにお寄せ下さい。よろしくお願い申し上げます。

奥の院15
















 

(仏教宗学研究会・ロゴマーク)

 

 

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■石山本願寺跡(大阪城公園)4(大阪旅紀行2)

 

□かつては大渋滞の名所で大幅な時間がかかっていた京都~大阪の名神高速・国道1号線

 

私が大阪の交通が不便だな、と感じるのは、東海道新幹線のターミナル駅であるJR新大阪駅からJR大阪環状線に乗れないこと。JR大阪環状線に乗るには、新大阪駅で在来線電車に乗り、1駅となりのJR大阪駅に出て、そこでJR大阪環状線に乗り換えなくてはならない。これが私にとって、とても不便に感じる。東京の場合、新幹線駅がある東京、品川、上野のどの駅からもJR山手線に乗れるのとは対照的に見える。JR新大阪駅もJR大阪駅も、近年、リニューアル工事が行われ、みちがえるようにきれいになり、美化され、便利になった。2045年開業をめざして東京~大阪に中央リニア新幹線を通す計画が進んでおり、2015年から東京~名古屋の工事がはじまる。東京都内のリニア駅は、品川駅にできることが決まっている。大阪府内のリニア駅は、どこになるのだろうか。品川も名古屋も、リニア駅は大深度地下に建設されるというのだが、大阪府内のリニア駅も大深度地下に建設するのなら、JR大阪駅に建設したほうが利便性が高いと思うが、どうなのだろうか。しかしリニア大阪開業の2045年のころは、私も優に80才を超えているから、実際に私がリニアに乗れるかどうか、リニアに乗って大阪に行けるかどうかもわからないのだが…。

今は、私は東京~大阪の移動は、もっぱら東海道新幹線「のぞみ」号での移動なのだが、若い頃は自家用車に乗って、東名・名神高速道路をかっ飛ばして大阪に行っていた。あの当時は、ETCもなく、全て現金払いで高速料金を支払っていた。1990年代のころは、高速道路用のプリペイドカードを買って、使ったこともあった。東京から東名高速道路を大阪方面に向かってかっ飛ばして行くと、米原JCTで北陸高速道路と名神高速が合流する。1990年代のころは、名神高速の米原JCTから大阪市内まで大渋滞だった。あのころは、東名阪道も新名神も名神・京滋バイパスもなし。名古屋~京都~大阪の大動脈は、名神高速だけだった。しかも名神高速は、片側2車線の上下4車線道路で、そこへ米原JCTで北陸高速道路と合流して、北陸道から大量の乗用車、バス、トラックが流入してくるわけだから、米原JCT~大阪が渋滞しないはずがない。米原JCTから名神高速はノロノロ運転。深夜に東名・名神をかっ飛ばして行ったこともあったが、深夜の時間帯でも、名神高速の米原JCTから大阪方面は渋滞していた。

特に昼間の渋滞はひどく、高速道路がなかなか進まないのに、しびれをきらし、「この渋滞はひどいな」と思って、京都東ICで名神高速を出て、国道1号線に入ったこともあったが、その国道1号線もまた大渋滞。あの当時は、京都~大阪の間は、名神高速も国道1号線も両方が大渋滞だった。そういうことを思えば、今は名神高速の他に、東名阪道、新名神、名神・京滋バイパスが開通していて、車でもスムーズに大阪に行けるようになった。20102014年にかけて、私は北陸の実家から、自家用車に乗って北陸道~米原JCT~名神・京滋バイパスで京都・大阪へ行ったことが何度かあるが、昔のような渋滞は全くなく、実にスムーズに車が流れていた。

 

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■石山本願寺跡(大阪城公園)3(大阪旅紀行1)

 

□東京からかなりの割安価格で旅行が出来るJTB「出張応援価」(ビジネスパック)の旅行プラン

 

大阪城公園に行くには、JR大阪環状線・大阪城公園駅が玄関口だが、大阪城天守閣に行くには、地下鉄のほうが便利である。私は大阪城公園も大阪城天守閣も、修学旅行をはじめ、個人旅行でも何度も来ている。2011年の東日本大震災前のころは、中国人、台湾人、韓国人の観光客が大勢来ていた。天守閣の中は写真撮影禁止なのだが、それでも、おかまいなしに、あっちこっちでパチパチとデジカメで写真撮影している中国人旅行者。それを訝しげに見ている日本人旅行者が、とても印象に残った。

私が大阪に行くときは、例によってJTB「出張応援価」(ビジネスパック)などの旅行プランを使う。これは、まともに往復の新幹線乗車券・指定席特急券とホテルの宿泊券を買うよりも、かなりの安上がりになる。12日の旅費・宿泊費で比較して見ると、ビジネスパックを使ったときは、おおむね1泊の宿泊代がタダになる計算になる。また1泊プラスして23日にしても、プラス1泊の宿泊代が割安価格になる。またプラス1000円ないし2000円でグリーン車に乗ることも出来る。まともにグリーン券を買うよりは、はるかに割安であり、私はビジネスパック旅行の帰路は、よくグリーン車に乗る。だからかなりお得な料金で旅が出来る。この他、JTBではポイントカードがあり、JTBを使うと、1年間有効なポイントが貯まる。そのポイントは、次回の旅行の時に割引きになる。ビジネスパックは、人気が高いため、23日前くらいになると、ビジネスパックに割り当てられたホテルの部屋やJR列車の座席が満席になっているというときがある。そういう場合は、ビジネスパック以外の旅行プランを使うが、ビジネスパックよりも割高になる。私は、東京~大阪を移動するときは、若い頃は自家用車に乗って、東名・名神高速道路をかっ飛ばして走っていたが、近年は全て東海道新幹線を利用している。JTB「出張応援価」(ビジネスパック)を使う場合、新幹線か航空機利用になり、自家用車使用のプランはない。東京~新大阪は、56分間隔で、新幹線列車が運転されており、「のぞみ」号もかなり多くの本数が運行されているため、私は東京~大阪の移動は、東海道新幹線が最も便利だと思う。

東京駅から東海道新幹線「のぞみ」号に乗ると、品川、新横浜でどんどん乗客が乗ってきて、普通車指定席はほぼ満席になる。かつては品川、新横浜を通過する列車が設定されていた時代もあったが、新幹線車両がどんどんスピードアップしていくにつれて、逆に品川、新横浜は全列車が停車している。東京始発の「のぞみ」号には、新大阪行き、広島行き(一部、岡山行き)、博多行きの3タイプがある。新大阪行き「のぞみ」号に乗ると、名古屋でドーッと乗客が下車。逆に乗る人はわずかである。京都でも乗客が下車して、車内はどんどん空席が増えていく。ところが広島行き、博多行きの「のぞみ」号に乗ると、名古屋でドーッと乗客が降車しても、逆にドーッと乗客が乗ってくる。だから名古屋を発車する時も、満席状態はほぼ変わらない。これは京都でも同じ。

 

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■石山本願寺跡(大阪城公園)2(大阪城天守閣)

 

□日本人観光客の他、中国、台湾、韓国から来たと思われる団体客が大幅に増えた大阪城

 

石山本願寺跡・大阪城公園に行く最寄り駅は、JR大阪城公園駅になる。大阪城公園に行ったら、石山本願寺跡もさることながら、大阪城天守閣に足が向いてしまう。大阪の象徴と言ったら、やはりこれ。大阪城・天守閣でしょうね。今まで、大阪には幾度となく行っているのですが、大阪城天守閣にも、何度も足を運んでいます。最初にここを訪れたのは、たしか中学生の修学旅行の時だったと思います。その後、大学生のとき、卒業後も大阪に来たときには、何度も来ています。

201010月に大阪に行ったときも、大阪城天守閣に行きました。もちろん、大阪に行ったときは、必ず大阪城天守閣に行っているというわけではありませんが、やはり大阪に行くと、どうしてもここに足が向いてしまう。一回、大阪城に行かなかったことがあると、「次回は、大阪城に行こう」と思い、どうしても足が大阪城に行ってしまう。足が向いてしまうとは言っても、大阪城公園駅から大阪城天守閣までは、大阪城公園の中をひたすら歩いて行くと、およそ2025分はかかる。

歩くとは言っても、私の場合は、大阪城公園の中をいろいろ眺めたり、写真を撮りながら歩くので、実際には30分以上かかっているのではないかと思う。

大阪城天守閣の外観、天守閣の周りは、昔からさほど変わっていないような気がします。

ベンチや写真撮影の所。売店。城郭。石垣。門。天守閣入り口。昔、来たときも、こんな感じだったような気がします。そして、いつ来ても、老若男女、たくさんの人が大阪城天守閣を訪れています。それは平日も土日祝日も関係なく、たくさんの人が来ています。201010月に大阪城天守閣に行ったのも平日の昼間でしたが、たくさんの人が来ていました。どちらかというと中高年の人が多かったように思いましたが、若い男女、家族連れもたくさん居ました。又、目立ったのは、中国、台湾、韓国から来たと思われる団体客。それから欧米人。欧米人は昔から居たような気がしますが、中国・韓国からの観光客は、ここ十年くらいの間のことではないでしょうか。日本人のみならず、外国人観光客にとっても、大阪における一大観光スポットになっているようです。

8階建ての大阪城天守閣の中は、博物館のようになっていて、展示が並んでいる。3F4Fは、豊臣秀吉の時代の大坂城にスポットを当てており、大阪城天守閣の収蔵品の中から、貴重な歴史資料の実物を展示している。5Fは、国の重要文化財「大阪夏の陣図併風」に描かれている各場面を解説。7Fは、豊臣秀吉の生涯を映像、模型、パネルを使って解説している。

大阪城を築いたのはもちろん豊臣秀吉だが、豊臣氏滅亡後は、徳川幕府の大坂城代が住んでいた。大阪城天守閣内にある、さまざまな解説を読んでいると、今の大阪城の遺構は、豊臣秀吉の時代の大坂城というよりも、徳川家康の時代の大坂城の遺構が大半のようである。

しかし、大阪城天守閣内の展示は、なんといっても豊臣秀吉の時代のものが大半。当たり前のことかもしれないが。

 

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■石山本願寺跡(大阪城公園)1(広い大阪城公園)

 

□今の大阪城本丸・二の丸周辺にあったと推定されている浄土真宗・石山(大坂)本願寺

 

現在、大阪府大阪市の大阪城公園は、かつて石山本願寺があった所と伝承されている。

石山本願寺(いしやまほんがんじ)とは、戦国時代から安土桃山時代にかけて、現在の大阪府大阪市中央区大阪城付近にあった浄土真宗の寺院、城郭で、正しくは大坂本願寺という。天文2年(1533年)に本願寺教団の本山となって発展し、戦国時代の一大大名・勢力となった。しかし織田信長との石山合戦(石山本願寺戦争)の末、天正8年(1580年)に顕如が石山本願寺を織田信長に明け渡し、その直後に全焼し消滅した。その後、豊臣秀吉が大坂城を築城したとされる。

その豊臣秀吉が築いた大坂城は、1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で落城、焼亡。豊臣氏は滅亡した。その後、徳川幕府が大坂城を再建。江戸時代にはたびたび火災による損傷と修復を繰り返し、1665年(寛文5年)には落雷によって天守を焼失している。慶応413日(1868127日)、旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって出火。建造物のほとんどが焼失した。

現在の天守閣は、1930年(昭和5年)に再建工事が始まり、翌年に完成したもの。大坂城といえば豊臣秀吉であり、淀君、豊臣秀頼自刃の地として有名であり、石山本願寺を連想する人は皆無ではなかろうか。石山本願寺戦争ののち、豊臣秀吉が本願寺に京都の地を寄進。これが現在の西本願寺である。東本願寺は、江戸時代初期、徳川家康が、本願寺を退出した教如に寄進した土地に建立された寺院である。徳川家康は、巨大宗教勢力だった本願寺教団を東西に二分割する政策をとったとする説が、歴史の通説になっている。

石山本願寺が、どういう伽藍・堂宇があり、どれだけの僧侶がいて、どれだけの門前街があったのか等についての記録はほとんど残っていない。石山本願寺は、顕如の退去後、炎上して焼失。この時に、記録文書等々も焼失してしまったのではないかと思われる。ここに親鸞廟があったかどうかも不明。仮にあったとしても、顕如退出後、石山本願寺が焼亡してしまっていることからして、親鸞廟も焼失したのではないかと思われる。こういったことから、後に西本願寺が、高田・浄興寺から親鸞遺骨の分骨を受けて、浄興寺に礼状を出しているのではないかと推測される。

石山本願寺焼亡後、大坂城を築城した豊臣秀吉は、なかなか世継ぎに恵まれず、50才を過ぎてからようやく秀頼が生まれる。秀頼が生まれたことにより、秀吉の養子で次代関白の豊臣秀次は、高野山に蟄居させられ、その地で切腹。太閤秀吉も1598年に死去。秀頼が家督を相続するが、少年の秀頼に天下は統率できず、豊臣秀吉亡き後は、徳川家康の世になった。その豊臣秀頼は、大坂の陣に敗北。大坂夏の陣で自刃し、豊臣家は滅亡した。この地は、なかなか縁起が悪い地のようである。

 

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■大津・富士山蓮華寺14(日神氏の撮影による『謎の写真』2)

 

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皆様、新年、明けましておめでとうございます。昨年は、いろいろとお世話になりました。

日記やボイスに、イイネやコメントを多数いただき、又、ブログには多くの方々からコメントやメッセを頂戴しました。まことにありがとうございました。

さて、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」と「仏教宗学研究会のブログ」を立ち上げてから、もうかれこれ3年、私が「mixi」ではじめて「アンチ日蓮正宗」コミュを立ち上げてから、今年で10年になります。20141231日で「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」と「仏教宗学研究会のブログ」の「2ブログ」のアクセス数の総計が79pvを突破。アクセスユーザー数ものべ21万人を超えました。昨年は「2ブログ」のアクセス数累計が、富士門流執着軍団の第一次公式ホームページ「富士門流信徒の掲示板」のアクセス数累計を、ぶち抜きました。今年は、長野県の日蓮正宗寺院某寺法華講に所属していると自称する、あの似合わないメガネにヒゲの男が主宰するテレビ名を付けた某ウエブサイトの累計アクセス数をぶち抜き、いよいよ「2ブログ」のアクセス数の総計が100pvの大台を射程圏内に入れることが出来るのではないかと思われます。

本年もまた昨年に引きつづいて、皆様方からのご指導・ご鞭撻を賜ることが出来ますよう、よろしくお願い申し上げます。

奥の院16 

 

 

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■真宗・仏光寺本廟1(仏光寺の親鸞御廟)

 

□仏光寺本廟の親鸞御廟に入っている親鸞遺骨とは高田・浄興寺から分骨されたものなのか

 

真宗大谷派本山・真宗本廟・東本願寺の親鸞廟が大谷祖廟・東大谷、真宗本願寺派本山・西本願寺の親鸞廟が大谷本廟・西大谷であるが、浄土真宗仏光寺派の本山である仏光寺にも親鸞御廟がある。それが京都東山にある仏光寺本廟である。仏光寺本廟も東大谷、西大谷と同じく京都東山にあり、三門もどことなく、東大谷、西大谷の三門とよく似ている。境内の中には、本堂、寺務所、親鸞御廟、一般墓地があるが、そんなに広いという印象はない。

この仏光寺本廟は、私が京都・寺跡調査旅行で宿泊したウエスティン都ホテルの数軒となりにある。仏光寺本廟の南側には、青蓮院、知恩院、円山公園、大谷祖廟・東大谷がある。私もウエスティン都ホテルから徒歩で京都市内の寺跡調査に出るときに、偶然、ここを見つけて入った。

仏光寺本廟の親鸞御廟は、拝殿はなく、石造りの御廟があるだけ。この仏光寺本廟の親鸞遺骨は、どこから来たものなのか。新潟県・高田の浄興寺の話しによれば、仏光寺や高田専修寺にも浄興寺から親鸞頂骨を分骨しているのだという。であるならば、ここ仏光寺本廟の親鸞御廟に入っている親鸞遺骨とは、浄興寺から分骨されたものなのか。ただし、浄興寺は東本願寺、西本願寺、興正寺からの分骨礼状を格蔵していて、宝物殿で公開しているが、仏光寺、高田専修寺からの分骨礼状はなかった。

いろいろ聞いてみようと寺務所に入るが、誰もいない。そのうち、仏間から数人の門徒らしき人が出てきて、そそくさと靴を履いて寺務所から出て行った。そのうち、受付に寺務員の女性が出てきて、いろいろ話しをしたが、この女性、ずいぶんと愛想がいい女性でした。

本廟5





















本廟3





















本廟1



































 

(仏光寺本廟三門)

御廟2





















御廟3



































 

(御廟)

本堂1




















 

(本堂)

寺務所1




















 

(寺務所)

 

 

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■大谷本廟・西大谷2(親鸞真骨2)

 

□石山戦争等からして浄興寺から西本願寺への親鸞頂骨の分骨説がまことに説得力が高い

 

西本願寺を本山とする真宗本願寺派の親鸞廟所が大谷本廟・西大谷であるが、親鸞遺骨の行方を追っていく中で、本願寺の基となった大谷廟堂とその後の大谷本廟成立の歴史は、まことに興味深いものがある。浄土真宗本願寺派・本願寺出版社が出している冊子「本願寺グラフ」には、「本願寺の歴史」と題する次の文が載っている。

「もともと本願寺は、親鸞聖人の廟堂から発展した。親鸞聖人が弘長2(1263)年に90才で往生されると、京都東山の鳥辺野の北、大谷に石塔を建て、遺骨を納めた。しかし聖人の墓所はきわめて簡素なものであったため、晩年の聖人の身辺の世話をされた末娘の覚信尼さまや、聖人の遺徳を慕う東国の門弟たちは、寂寞の感を深めた。そこで10年後の文永9(1272)年に、大谷の西、吉水の北にある地に関東の門弟の協力をえて、六角の廟堂を建て、ここに親鸞聖人の影像を安置し遺骨を移した。これが大谷廟堂である。この大谷廟堂は、覚信尼さまが敷地を寄進したものであったので、覚信尼さまが廟堂の守護をする留守職につき、以後、覚信尼さまの子孫が門弟の了承を得て就任することになった」(冊子「本願寺グラフ」p6)

つまり本願寺の基は、親鸞の遺骨を納めた大谷廟堂だということで、その留守職に大谷廟堂を寄進した覚信尼の子孫(つまり親鸞の子孫)が就任することになり、これが今の本願寺門主(宗主)ということになる。これは西本願寺門主・東本願寺門首も親鸞・覚信尼の子孫である。

ところがこれと異なる見解が本山浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」の中に載っている、盛岡大学長・元上越教育大学長・上越市史編集委員長の加藤章氏が「浄興寺小史」と題する論文である。加藤章氏は次のように書いている。

「親鸞は、しばらくこの地で布教し、貞永元年(1232)ごろ、京都に帰るにあたり、弟子の善性にその跡を譲った…」「浄興寺の宗教的権威を支えるものは、まず本寺(浄興寺)が宗祖親鸞の浄土真宗開教の道場であること。さらに最も崇敬される宗祖の頂骨を護持しつづけてきたことがあげられる。」(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」p2223)

浄興寺の寺伝によれば、浄土真宗の宗祖・親鸞は90才にて京都で遷化(死去)。京都・東山の鳥辺山墓地で荼毘に付されて葬られた。しかし親鸞の頂骨と遺品は、親鸞二十四弟子の一人、善性に相伝され、善性が護持してきたと伝承する。その善性に随って親鸞の頂骨と遺品は、京都から稲田草庵へ、さらに長野へ、そして高田の浄興寺に至るというわけである。

さてもうひとつ、親鸞に関する興味深い研究・論説がある。それは井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」である。井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」8巻から、井沢元彦氏の親鸞に関する興味深い研究・論説親鸞に関する研究・論説の要旨を引用してみたい。

 

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■大谷本廟・西大谷1(御荼毘所・親鸞真骨)

 

□鳥辺山の親鸞「御荼毘所」とは離れた所に建っている真宗本願寺派の親鸞廟所・西大谷

 

真宗本廟・東本願寺を本山とする真宗大谷派の親鸞廟所を大谷祖廟・東大谷と言うのに対して、西本願寺を本山とする真宗本願寺派の親鸞廟所を大谷本廟・西大谷と言う。東大谷も西大谷もどちらも京都・東山にある。東大谷が東にあり、西大谷が西にあるというわけではない。これは大谷祖廟は、東本願寺(真宗本廟)の親鸞廟であるから東大谷、大谷本廟は西本願寺の親鸞廟であるから西大谷と呼ばれているものと思われる。西大谷は、室町時代のころから共同墓地で有名な鳥辺山にある。この鳥辺山は、大石寺・要法寺・保田妙本寺三祖日目の墓所がある日蓮本宗(要法寺門流)實報寺がある、あの鳥辺山である。

大谷本廟・西大谷の三門は、京都・東山五条の交差点脇にある。JR京都駅から東山五条までは、徒歩で行けないこともないが、私はここに行くときは、バスかタクシーを利用する。西大谷の境内は、東大谷と比べてかなり広く、親鸞廟所の拝殿もきちんと整備されている。真宗本願寺派の門徒数は約780万人。寺院・教会・布教所数は10369。教師(僧侶)数は19465。これだけ大規模な宗門であるので、それだけ参詣者も多いということだろうか、親鸞廟所も念入りに整備されているのが印象的。西大谷・親鸞廟所の後方には、広大な門徒(信徒)の墓地が広がっている。このあたりは上古の時代から、鳥辺山墓地とよばれた所である。

実は親鸞が火葬・荼毘に付されたのがここ京都・鳥辺山なのである。親鸞は90才で京都鳥辺山の延年寺で火葬され、荼毘に付されたと本願寺の寺伝では、伝承している。親鸞が荼毘に付された所を、真宗本願寺派では「御荼毘所」と呼んでいて、「御荼毘所」は京都・鳥辺山に今も残る。鳥辺山の中にあるのだが、大谷本廟・西大谷と同一所ではなく、離れた飛び地になっているところが面白い。しかもその飛び地に行くには、同じく鳥辺山にある大石寺・要法寺・保田妙本寺三祖日目の墓所がある日蓮本宗(要法寺門流)實報寺の墓地の中を通って行かないと、行けないのである。

 

□明治維新の時に京都市からの廃寺命令でとっくに廃寺になって消滅していた鳥辺山・延年寺

 

現在、鳥辺山ないしは鳥辺山近辺には、鳥辺山墓地が存在するが、それは實報寺墓地、西大谷墓地、ないしはその近辺にある寺院の墓地であって、延年寺ないしは延仁寺という名の寺院は存在しない。鳥辺山の山道をどんどん登っていくと、「延年寺旧跡墓地」という名の墓地があるが、鳥辺山に延年寺という名の寺院は存在しない。「延年寺旧跡墓地」には、別の管理者がいる。そこで

「延年寺旧跡墓地」管理者(鈴木花店)にお話を伺ってみると、延年寺という寺院は、今日、存在していないという。「いつなくなったのですか」と質問すると、「延年寺は明治維新のときに、なくなりました」との回答。「廃仏毀釈でなくなったのですか」と質問すると、「いいえ、そうではありません。京都市のほうから、廃寺命令が出て、なくなりました」との回答でした。

 

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■真宗・仏光寺3(法脈のパクリ)

 

□大石寺9日有が浄土真宗仏光寺派・専修寺派から輸入した「唯授一人の血脈相承」

 

ひきつづき、浄土真宗の歴史の概略、真宗専修寺派の「唯授一人口決」、真宗仏光寺派の「法脈」の概略については、井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」8巻から要旨を引用してみたい。

----つまり親鸞の血脈を持たない僧侶も、仏光寺なら親鸞の「法脈」に連なることが可能になり、その法脈に連なることができるかどうかの認定権を仏光寺が握った。つまり仏光寺は、「法脈」の看板を与えて、師範にすることもできれば、住職に任命することもできる。又、逆に「破門」にすることもできるわけで、僧侶は「法脈」の絵系図という「免許」を得るために、仏光寺の忠実な奴僕になる。仏光寺は、信者が抱える不安に巧みにつけいり、「名帳」なる名前の「極楽往生決定者名簿」を作り上げて、信者の心をつかんだ。信者の不安とは、

「本当に自分は極楽往生が決定しているのか」「自分の信仰には誤りがないのか」という不安。

仏光寺はここに巧みにつけ込んで、親鸞以来の正しい教えを標榜する「法脈」の他に、「名帳」なる名前の「極楽往生決定者名簿」を作り、この名帳に名前が記された者は極楽往生が決定するとした。これが浄土真宗の信者の爆発的人気を呼び、われもわれもと仏光寺派に入信し、名帳に名前が記されることを願ったというわけである。

では仏光寺と同じ立場にあった専修寺では、どのように本願寺の血脈(親鸞直系の血筋・血統という意味)に対抗したのだろうか。この教派の代表的な僧は如道である。如道は次のように主張した。専修寺派の歴代住職は、親鸞から「唯授一人口決」を受け、親鸞と同格である、というのだ。

例えば剣術には免許皆伝という考えがある。これは師匠と同じ技量に達した、という意味だ。免許皆伝は技術の継承であるから、必ずしも師匠の子孫が受けるとは限らない。いくら実の子でも、技量が不足していてはどうにもならない。つまり、如道は、われわれ専修寺は親鸞から真宗の教義に関する「免許皆伝」を受けている、と言った。如道は親鸞からの「免許皆伝」は、専修寺の系統の僧だけに与えられた、とした。これが「唯授一人口決」である。これも実に巧みな作戦で、こうすれば本願寺は「ただの親鸞の子孫」に過ぎなくなり、「専修寺こそホンモノ」ということになる。如道は、「唯授一人口決」を受けた者(つまり如道自身)は、親鸞と同格になるとも言った。仏を念ずることによって、往生が決定した僧は、阿弥陀如来と同格であり、極楽もその胸のうちにある。したがって念仏も仏像を拝むことも、一切不要であり、逆に信者は仏ではなく、「仏と同格」であり身近にいる僧(もちろん専修寺の僧)こそを崇拝すべきだということになる。仏光寺の了源、専修寺の如道がなぜこんなことを言ったのかと言えば、こうすれば門徒がそれぞれの寺に集まり、教団が発展するからである。----(井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」8巻要旨)

この仏光寺の「法脈」、高田専修寺の「唯授一人口決」は、今の日蓮正宗の「二箇相承」「唯授一人の血脈相承」を頂点とする教団システムに全く瓜二つ。そっくりなのである。

 

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■真宗・仏光寺2(法脈・絵系図)

 

□親鸞の祖廟を親鸞の子孫一族で独占して教勢を拡大しようと計って失敗した親鸞の曾孫・覚如

 

現在、浄土真宗の教団で最大宗派は、門徒数が約780万人、寺院・教会・布教所数が10369、教師(僧侶)数が19465人の浄土真宗本願寺派(西本願寺)である。が、室町時代はそうではなく、最大教団は、浄土真宗専修寺派、浄土真宗仏光寺派であった。この浄土真宗の宗史について、浄土真宗の教団側が出している資料の中に、これらをわかりやすく説明した資料がなかなか見つからず、むしろ井沢元彦氏の「逆説の日本史」の記述のほうが一般には、わかりやすいと思われる。そこで浄土真宗の歴史の概略、真宗専修寺派の教義、真宗仏光寺派の教義の概略については、井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」8巻から要旨を引用してみたい。

----親鸞の死後、本願寺教団は全く勢いがなく崩壊寸前だった。それが復活したのは蓮如という天才的な布教者が出て、一挙に教勢を挽回したから。蓮如以前の本願寺がいかに衰えていたか。開祖親鸞の死後、親鸞の教えを継ぐ者は、第一に親鸞の子孫だった。最澄にも空海にも法然にも栄西にも道元にも日蓮にも、直系の子孫はいない。しかし公然妻帯し四男三女をもうけた親鸞には、直系の子孫がいる。その親鸞直系の子孫が本願寺を建てた。しかし鎌倉時代から室町時代前期のころ、本願寺に参詣する門徒がほとんどいないほど衰え、逆に本願寺以外の真宗教団が隆盛していた。それが浄土真宗仏光寺派、浄土真宗専修寺派である。

浄土真宗仏光寺派も専修寺派も、いずれも浄土真宗宗祖・親鸞の弟子たちが開祖になっている。親鸞には直系の子孫の他に、何人かの直弟子がいた。とはいっても親鸞は、弟子を弟子とは呼ばずに「御同朋御同行」と呼んでいた。今風に言うと「同志」ということだが、親鸞の高弟たちは、親鸞の子孫である本願寺教団には従属せず、次々と独立して布教していった。

親鸞の死後、本願寺は浄土真宗の中で唯一絶対の総本山だったわけではなく、むしろ全国に多数ある浄土真宗教団のひとつにすぎなかった。本願寺は親鸞直系の子孫であり、開祖親鸞の墓を護っていたが、真宗の教義では、極楽往生を保証してくれる救い主は本尊の阿弥陀如来であって、凡夫の親鸞ではない。普通の人に過ぎない親鸞の「墓参り」には関心がなくなってしまったのである。しかしながら浄土真宗の各教団も、初期のころは、いくつかの教団に分裂はしていたものの、宗祖「親鸞」を統合の象徴としていた。それに飽き足らず、本願寺派の教線拡大を狙う親鸞の曾孫・覚如は、親鸞の祖廟を親鸞の子孫一族で独占して、教勢を拡大しようと計った。これが本願寺の起こりで、覚如は、本願寺開祖を親鸞とし、覚如を第3世として、本願寺住職で、親鸞の子孫である本願寺教団の代表者・最高指導者を「法主」と呼ばせた。しかしこれが失敗に終わった。

 

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■真宗・仏光寺1(御影堂・尼門主)

 

□外観も柱、内陣の造りから「見真」額まで西本願寺御影堂とそっくりになっていた仏光寺御影堂

 

仏光寺とは、浄土真宗仏光寺派の本山で、ここは浄土真宗十本山のひとつ。浄土真宗本願寺派 、真宗大谷派、真宗高田派、真宗興正派、真宗木辺派、真宗出雲路派、真宗誠照寺派、真宗三門徒派、真宗山元派の十派は真宗教団連合をつくる。京都洛中の仏光寺通りに面している。

大都市・京都の街中にある寺院なので、境内はそんなに広いという印象はない。しかし阿弥陀如来像を祀る本堂、親鸞御影像を祀る御影堂の二堂は、なかなか立派な堂宇である。御影堂の中に入ってみて、中の造りが西本願寺の御影堂(ごえいどう)とそっくりになっているのが、わかった。御影堂だから、親鸞木像が祀られているのだが、「見真」と書いた大きな額が掲げられていることや、内陣の造り、柱の立ち方までそっくり。おそらく、西本願寺の御影堂の造りを模倣して造られているのではないかと思われる。

ところで真宗・仏光寺ないしは仏光寺派のことをいろいろ調べようと書店で書籍を探しても、浄土真宗に関する書籍は、圧倒的に東本願寺と西本願寺に関するもので、仏光寺に関するものは、ほとんど見つからない。2013年度版・宗教年鑑で信徒数を調べてみると、浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)が約780万人、真宗大谷派(本山・真宗本廟・東本願寺)が約323万人に対して、真宗仏光寺派は約48000人。東西本願寺を本山とする宗派と比べて、極端に信徒(門徒)数が少ない。他の浄土真宗の宗派を見てみると、真宗高田派(本山・高田専修寺)が約223000人。真宗興正派(本山・興正寺)が約35000人。真宗木辺派(本山・錦織寺)が約46000人。真宗出雲路派が約11000人。真宗誠照寺派が約13000人。真宗三門徒派が約14000人。真宗山元派が約1600人。親鸞頂骨を格蔵していると伝承する新潟県高田市の浄興寺を本山とする真宗・浄興寺派が約17000人となっている。浄土真宗本願寺派 、真宗大谷派、真宗高田派に比べると、信徒(門徒)数はかなり少ないが、他の浄土真宗系宗派と比べると、真宗仏光寺派は、そんなに見劣りする宗派ではない。

では寺院・教会・布教所数で見ると、どうだろうか。浄土真宗本願寺派が10369、真宗大谷派が8743、真宗高田派が643、真宗興正派が514、真宗仏光寺派は377、真宗木辺派が215、真宗出雲路派が60、真宗誠照寺派が71、真宗三門徒派が40、真宗山元派が21、真宗浄興寺派が14である。教師(僧侶)数で見ると、浄土真宗本願寺派が19465、真宗大谷派が17439、真宗高田派が961、真宗興正派が756、真宗仏光寺派は524、真宗木辺派が254、真宗出雲路派が86、真宗誠照寺派が55、真宗三門徒派が59、真宗山元派が38、真宗浄興寺派が16である。こうしてみると、浄土真宗は西本願寺を本山とする浄土真宗本願寺派が最大で、これとほぼ匹敵する規模なのが真宗本廟・東本願寺を本山とする真宗大谷派で、この二つが極端に規模が大きい。

これにつづくのが、真宗高田派、真宗興正派、真宗仏光寺派、真宗木辺派の4派で、この4派は似たり寄ったりぐらいの規模である。浄土真宗十本山の中で4本山が京都市にあり、4本山が福井県にある。あとは滋賀県と三重県で、西日本、近畿地方に集中しているのが特徴である。

仏光寺6御影堂
















 

(仏光寺御影堂)


御影堂1




















 

(西本願寺御影堂)

仏光寺2御影堂
















 

(仏光寺御影堂内部)

御影堂中6




















 














(西本願寺御影堂内部)

 

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■大谷祖廟・東大谷2(親鸞頂骨の分骨)

 

□浄興寺から東西本願寺への親鸞頂骨の分骨を史実と認めている盛岡大学長・加藤章氏論文

 

本堂の参拝を終えた後、階段を登って親鸞御廟へ。ここにもたくさんの人が参拝に来て、拝所で焼香をしている。賽銭箱のそばに焼香台があり、焼香ができるようになっている。私も焼香していると、本堂から僧侶が出仕してきて、御廟で読経がはじまった。本願寺とは、もともとは宗祖・親鸞の廟所から発展したもので、廟所は親鸞の代々の子孫の世襲になり、本願寺の起源になった。

しかし本願寺は、最初から今のような巨大教団だったわけではなく、本願寺教団を全国規模に拡大したのは、中興の祖・蓮如である。親鸞廟所が歳月を経るにしたがって本願寺に発展したということは、浄土真宗にとって、親鸞廟所は宗教的権威の源泉と言うべきものと言えよう。

ただし盛岡大学長・元上越教育大学長・上越市史編集委員長の加藤章氏は、本山浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」の中の「浄興寺小史」と題する論文で、真宗本廟・東本願寺が所蔵する親鸞遺骨は、浄興寺から東本願寺へ分骨されたものであると、史実として書いている。

「浄興寺の宗教的権威を支えるものは、まず本寺(浄興寺)が宗祖親鸞の浄土真宗開教の道場であること。さらに最も崇敬される宗祖の頂骨を護持しつづけてきたことがあげられる。それに対し、親鸞の没後十年を経た文永9(1272)、浄興寺から48年おくれて本願寺が創建された。したがって、もともと本願寺と浄興寺の間には、本寺末寺の関係はなかったのである。しかし宗祖を同じくする同派であり、とかも宗祖親鸞の頂骨を浄興寺が安置することから、両寺の交流は深く、また真宗教団の発展に協力して貢献する歴史を有している。とくに本願寺の蓮如の宗門再興をかけて活躍した際や、顕如が大坂石山本願寺を拠点に織田信長と戦った石山合戦前後などは、浄興寺も積極的な援助を行っている」(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」p2223)

「その後、慶長7(1602)、本願寺が東西両派に分裂したことを契機に、浄興寺は十六世教善のとき、門末をあげて東本願寺を支持し、深い関係をもつに至った。東本願寺は、浄興寺をして客分一門として遇し、十六世教善、十七世宣性、十八世琢性の三代にわたって、()本願寺門主の息女を室に迎え、(東本願寺)門主の「猶子」として(東本願寺)門主の連枝と同等の待遇を受けている。また歴代の(浄興寺)住職は、修学をはじめ宗務のためにしばしば京都に赴き、本願寺との交流も深かった。このような近世初頭における本願寺との関係の中で注目すべきは、それまで宗祖の頂骨を独占してきた浄興寺の特権が、万治3(1660)、婚姻関係を理由に本願寺側からの強い要望に応えて、宗祖の頂骨および本願寺三世覚如以降、7人の門主の遺骨を分与したことである。そのことによって、本願寺は寛文10(1670)、東大谷本廟を創立し、名実ともに本山の条件を整えるに至った。」(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」p24)

東本願寺礼状1
















 

(東本願寺から浄興寺に宛てた分骨の礼状・浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」)

浄興寺9




















 

(浄興寺・親鸞頂骨拝殿)

写真集・浄興寺1














































 

(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」)

 

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□「仏教宗学研究会」管理人は「ニセhide」を行う者に重ねて「ニセhide」謀略工作の中止を命ずる

 

「アンチ日蓮正宗」「仏教宗学研究会」のブログに、「ニセhide」が何度も出没して、アラシ行為を繰り返し、管理人が多大な迷惑を蒙り、その後、「宿坊の掲示板」なる名前の掲示板に、「アンチ日蓮正宗」「hide」の名前を無断で騙って、「アンチ日蓮正宗」管理人「hide」になりすまし、とんでもないスレッドを立ち上げたり、「2ちゃんねる」に「ニセhide」が出没して悪質な策略・謀略を行っていたことが発覚。アラシ対策として、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」「仏教宗学研究会のブログ」の表紙に、「悪質な謀略工作・ニセ「hide」にご注意ください」を貼り付けております。

□「ニセhide」「ニセアンチ日蓮正宗」の謀略にご注意下さい

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_1186234.html

□「ニセhide」の謀略・策略にご注意下さい

http://bukkyoshugakukenkyukai.doorblog.jp/archives/cat_1186265.html

□悪質な謀略工作・ニセ「hide」にご注意ください

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/18637884.html

□「下記は「ニセhide」「ニセアンチ日蓮正宗ブログ」の謀略ですからご注意下さい」

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/36802462.html

すると今度は、ある人のコメント欄に、「ニセhide」を騙った謀略コメントが残されていることが発覚しました。

妙本寺ニセhide2















 

(「ニセhide」の謀略コメント)

上記は、「アンチ日蓮正宗」「仏教宗学研究会」管理人の「hide」ではありません。なりすましの「ニセhide」であります。これもまた、まことに悪質極まりない「ニセhide」の謀略ですからご注意下さい。今までも、何度も何度も表明していることですが、「仏教宗学研究会」管理人は、インターネット上の他人が主宰するブログや掲示板に、コメントを残すという活動、あるいはスレッドを立ち上げるという活動は、昔も今も全く行っておりません。今後とも、そのようなことを行う予定は、一切ございません。その最大の理由は、「本物」と「ニセモノ」の区別をはっきりとするためです。

でありますから、日蓮正宗系、富士門流系のブログや掲示板、「宿坊の掲示板」なる名前の掲示板や「2ちゃんねる」も含めて、投稿者名「hide」や「アンチ日蓮正宗」の名前で、書き込みがなされているものは、全て、あたかも私が書き込みしているかのように偽装するニセ「hide」の謀略工作であります。賢明なる皆様方には、この「ニセhide」「ニセアンチ日蓮正宗」の謀略工作に充分にご注意いただくよう、お願い申し上げます。

今回の書き込みを見ると、ずいぶん上から目線で、人を“指導”するが如き、不遜な文言が見られますが、これは生まれて間もなくのころから創価学会員として育てられた者の特徴的な悪弊である。どうやら「ニセhide」「ニセアンチ日蓮正宗」の謀略工作を行っている者は創価学会員か、ないしは元創価学会員であるようですね。「ニセhide」「ニセアンチ日蓮正宗」は「アンチ日蓮正宗」「仏教宗学研究会」及び管理人とは全くの無関係であります。「アンチ日蓮正宗」「仏教宗学研究会」管理人は、この「ニセhide」行為を行っている者に対して、「ニセhide」の謀略工作の中止を命ずるものであります。

 

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■靖国神社4(815日・終戦の日の参拝3)

 

□警視庁の装甲車が周囲を固める物々しい雰囲気の中での終戦の日・靖国神社の参拝

 

今年、2014年も815日の終戦の日に靖国神社に参拝してきました。今年も快晴の炎天下での参拝。自分でも熱射病、熱中症にならないかと心配になるくらい。幸いなことに熱射病、熱中症にならずに済みました。靖国神社には午後13時ころ到着。

靖国5
















靖国4
















 

(2014815日の靖国神社)

警察警備1
















警察警備2
















 

(靖国神社周辺の物々しい警察の装甲車)

今年は靖国神社の周辺から九段下交差点付近まで、警視庁の装甲車、バリケード、機動隊が取りかこむという物々しい雰囲気。靖国神社第二鳥居前の道路は警察官のバリケードで封鎖されていました。

警察警備5
















 

(警察官のバリケードで封鎖される第二鳥居前の道路)

九段下交差点脇では、在日特権を許さない市民の会(在特会)が集会を開いており、指導者がマイク、スピーカーを持って演説している。

在特会1
















 在特会3














在特会4

















(在日特権を許さない市民の会(在特会)の集会)

その在特会の集会を機動隊員が取り囲んで封鎖している。在特会の集会が警察の許可条件に違反して行われているので、許可条件を守らせるという主旨のようです。

警察警備10
















 

(在特会の集会を取り囲み封鎖する機動隊員)

さて今年の終戦の日の靖国神社参拝も、参道は参拝者の行列・渋滞が起きている。

靖国8
















 

(靖国神社本殿参道の参拝者の行列)

参拝のあとは、今年も遊就館を見学。遊就館の常設展は何度も見学しているのですが、今年の常設展もほぼ満員。今年は企画展も行われていました。

遊1
















遊6
















 

(遊就館)

遊8
















 

(遊就館内部)

遊3

















 

(企画展)

 

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■靖国神社3(815日・終戦の日の参拝2)

 

□新装なった遊就館をはじめて見学した2011815日・終戦の日の靖国神社参拝

 

2011年も815日・終戦の日に靖国神社に参拝している。私が815日・終戦の日に靖国神社に参拝する日は、いつも快晴で、しかも炎天下の日になる。雨が降った日の記憶はないですね。この日はちょうど旧PCから新PCへのデータ移動中でバタバタしていた最中で、靖国神社に到着したのが夕方16時すぎ。この時は、参拝人の行列は日中ほど長くはなかった。

参拝が終わった後、新装なった遊就館を見学。

しかし遊就館に入館したのが1640分すぎ。閉館は1730分。

見学に最低でも約1時間はかかるということで、見学の途中で閉館時間が来てしまいました。

8・15靖国神社10



















8・15靖国神社4

















 

(2011815日・靖国神社)

 

 

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■靖国神社2(815日・終戦の日の参拝1)

 

□多くの人の参拝で鳥居から拝殿にかけて参拝人の“渋滞”がおきていた靖国神社

 

私は、毎年欠かさずとまではいかないまでも、時間の許す限り、終戦の日、ないしは終戦の日前後には、靖国神社に参拝しています。ペース的にはだいたい3年ないし4年に1度は815日・終戦の日に靖国神社に参拝しています。そこでここには、2008815日の靖国神社記を、当時の「mixi」日記から転載してみたい。

この日、靖国神社に到着したのは午前11時くらいだったのですが、今日は日差しが強く、気温もかなり上がっており、猛暑の中での参拝となった。私が靖国神社に到着した時、すでに境内には、ものすごい人が参拝に訪れており、鳥居から拝殿にかけて、参拝の人たちの“渋滞”がおきていました。靖国神社周辺は、警視庁の警官や機動隊員が出動しており、あちらこちらに装甲車(?)が止まっていて、ものものしい雰囲気。また境内には、一般の人のほかに、日本国旗の鉢巻きをした人、日本国旗を掲揚しながら行進している人、旧日本軍の軍服姿?で行進・参拝している人、暴走族風のいでたちの人、拝殿の前で声明文を読み上げている人、815日の靖国神社を報道しようとカメラとマイクを構えているテレビ局やマスコミのクルーたち、…

終戦の日の靖国神社には、必ずいる人たちが、この日もいました。そういうわけで、靖国神社の鳥居から拝殿の前に来るまで、かなりの時間を要しました。

いつもながら、靖国神社の拝殿の前で参拝し、日本の国のために亡くなられた英霊のことを思うと、胸が熱くなります。現在、靖国神社には2466532柱の英霊が祀られているということですが、先の太平洋戦争によって亡くなられた一人一人の英霊は、どういう思いで亡くなられたのでしょうか??「天皇陛下万歳」を叫んで亡くなられた方、無念の思いで亡くなられた方、特攻隊員として自ら玉砕された方、戦争には行きたくなかったが戦死された方、異国の地で敵兵に殺されてしまった方、…さまざまであっただろうと思います。そういう英霊のことを思うと、なぜか胸が熱くなります。少なくとも、今の私には、英霊と同じように、日本の国のために死ぬということが、できないと思います。今の日本の繁栄、私たちの生活も、戦争で亡くなられた人たちの犠牲の上に成り立っているというのは、その通りだと思います。今の私には、ただ英霊の前で頭を垂れることしかできないのが、まことに残念です。

拝殿で参拝を終えると、いつも複雑な思いにかられながら、靖国神社をあとにします。

やはり、最低でも一年に一度は、せめて終戦の日ぐらいは、先の太平洋戦争で亡くなられた英霊のことを思い、靖国神社に足を運ぶことは大事なことだと思います。

8・15靖国神社3



















8・15靖国神社1



















8・15靖国神社6



















8・15靖国神社7


















 

(2008815日・靖国神社)

 

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■長崎県2・長崎2・「長崎平和公園」2(平和公園・爆心公園2)

 

□東京から航空機・博多からJR特急かもめ号を乗り継いで行った長崎平和公園・爆心公園2

 

長崎駅は、長崎県の県庁所在地・長崎市の中心駅であると同時に、長崎本線の終着駅にして、ホームには車止めが設置されている。つまりここで「終着・行き止まりの駅」ということ。こういうJR駅は、全国に稚内駅、根室駅、函館駅、青森駅、久里浜駅、城端駅、氷見駅、高松駅、門司港駅、枕崎駅、長崎駅…とけっこうあるが、県庁所在地・市の中心駅としては、長崎駅、高松駅、青森駅だけである。長崎駅の駅舎は、2000年に改装された新しい雰囲気のある駅舎で、今のもので4代目。長崎駅前でまず目につくのは、長崎電気軌道長崎駅前電停。電停とは路面電車の発着場所のことで、停留所と呼ばれるか、電停と呼ばれるかは地域によってちがう。東京では、かつて都電が頻繁に走っていた頃には「電車の停留所」と呼ばれた。現在は「都電の停留所」が一般的な呼び方になっている。逆に長崎では、○○電停と呼ぶのが普通な地域のようである。長崎市内の移動には、この長崎電気軌道の路面電車がとても便利。地下鉄よりも、路面電車のほうがとても利用しやすく、便利に感じました。「長崎電気軌道」というのは、長崎市内で路面電車を運行している会社。路面電車というと、他都市では「市電」と呼ばれていたりするが、市電というと、いかにも長崎市が経営しているかのように聞こえてしまうが、この「長崎電気軌道」は、公営企業でも長崎市経営でもなく、れっきとした株式会社であり、私企業である。現在、5路線4系統を営業しており、通称は電鉄、長崎電鉄。地元住民の間ではJRを「JR」、「列車」または「汽車」と呼び、路面電車を「電車」と呼んで区別している。しかも長らく運賃が100円で据え置かれていて、私が20081月に長崎市内に行って、この路面電車に乗ったときも運賃は100円だった。2009101日より25年ぶりに運賃を値上げし、1乗車120円としたという。その後、消費増税があったので、さらに運賃値上げになっているとは思いますが…。長崎市内の路面電車は、運賃は安いし、とても利用しやすいし、長崎市内の主要地点を移動するには、まことに便利な乗り物である。地下鉄やバスよりも、路面電車のほうがはるかに便利である。ちなみに長崎市の人口は約45万人くらいだが、石川県金沢市の人口が約40万人前後。金沢市にも、私の子どものころには、路面電車が元気に走っていたのだが、道路に車が増えてくるにつれて、どんどん路面電車が廃止になり、今では金沢市内に路面電車はひとつも残っていない。まことに残念なことである。それと比べたら、長崎市の路面電車の元気ぶりは、私にとっては驚きに見える。まあ、もっとも金沢市の場合は、第二次世界大戦の戦災が全くなかった都市なので、昔ながらの家や道路がそのまま残っていて、とても狭い道路が多い。だから車の増加によって、路面電車がたちどころに身動きがとれなくなってしまい、どんどん廃止されて行ってしまった。長崎市の場合は、戦災・復興によって広い道路が多くなり、そのために車が増えても、路面電車が身動きがとれなくなってしまうということがなかったということなのだろうか。私としては、長崎市内を元気に走り回っている路面電車に、エールを送りたい気持ちです。

 

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■長崎県1・長崎1・「長崎平和公園」1(平和公園・爆心公園)

 

□東京から航空機・博多からJR特急かもめ号を乗り継いで行った長崎平和公園・爆心公園

 

毎年8月になると89日の長崎・原爆の日がやってくる。私も長崎には何度か行っており、そのたびに長崎平和公園、爆心公園を訪れている。長崎の地は、東京からはあまりにも遠い所にありますね。「どれくらいの距離があるのだろうか」と、グーグルマップで検索したところ、私の東京の自宅から長崎平和公園まで、道路の距離にして何と1221キロもある。1993年の全国旅行で長崎に行った時は自家用車で行きましたが、2008年初頭に長崎に行ったときは、羽田~福岡までが航空機、博多~長崎は特急かもめ号で往復。JR長崎駅という玄関口から長崎市内に入った。2008年はすでに四十代後半になっていたので、車で東京~長崎を走破する馬力は残っていなかったですね。羽田~福岡まで航空機を利用したのは、航空機の便数の関係だった。

かつて長崎駅からは、東京駅・京都駅・新大阪駅・大阪駅などへの 長距離寝台特急の「さくら」・「みずほ」・「あかつき」があり、 「さくら」と「みずほ」は東京駅まで、「あかつき」は京都駅〈または新大阪駅〉まで1日各1往復走っていたが、今は全て廃止になっている。長距離の移動の主流は、航空機と新幹線になった今の時代、寝台特急が元気だった時代は終わったということだろうか。

東京から長崎に行くには、羽田~長崎を航空機で行くか、ないしは羽田~福岡を航空機で、博多~長崎を特急かもめ号で行くか、どちらかだろう。ちなみに羽田~長崎は航空機で約2時間。長崎駅~長崎空港までバスで約1時間。羽田~福岡は航空機で1時間40分。福岡空港~博多駅まで地下鉄で約10分ほど。博多~長崎を特急かもめ号を利用すると約2時間。東京~長崎駅までは約4時間というところか。東京~博多を新幹線のぞみ号、博多~長崎を特急かもめ号で、というコースもあるが、東京~博多を新幹線のぞみ号で約5時間かかるため、東京~長崎は特急かもめ号乗り継ぎで約7時間以上かかる。これで行く人はほとんどいないのではないだろうか。

福岡空港からJR博多駅までは、電車で10分とかからないくらい便利な所にある。JR博多駅前のホテルで一泊。翌朝、JR博多駅始発の特急かもめ号に乗って長崎に向かう。

かもめとは、JR九州が博多駅~長崎駅間を鹿児島本線・長崎本線を経由して運行している特急電車で、JR九州の看板列車のひとつになっている。かもめ号は、通称「白いかもめ」とハイパーサルーンの「かもめ」と二種類あって、1日に25往復が運行されており、九州の首都・福岡市(博多)と主要都市・長崎を結ぶ大動脈になっている。私が乗車した日は、下り長崎行きも上り博多行きも、普通車指定席には、かなりのお客さんが乗っていた。見るからに、ほとんどのお客さんが、ビジネスマン風の人たちでしたが。博多~長崎は、九州新幹線の西九州ルートが計画されている区間であり、この区間の建設計画と並行在来線問題は、時折、全国ニュースになったりして私の耳に入ったりしてきていた。この問題がけっこう長い間、佐賀県・長崎県とJR九州の間で揉めていたようでしたが、200712月、合意に達したという情報が入ってきた。

「九州新幹線西九州ルート着工に向けた三者合意について」

http://www.jrkyushu.co.jp/071217_news_release.jsp

 

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■広島県1・広島1・「広島平和公園」1(原爆戦没者慰霊碑・原爆ドーム)

 

□確認できなかった広島平和記念公園・原爆戦没者慰霊碑にあるとされるWe」が入る英文碑文

 

毎年8月になると86日の広島・原爆の日、89日の長崎・原爆の日、815日の終戦の日がやってくる。86「原爆の日」は、アメリカ軍が広島に原子爆弾を投下した日。昔は「原爆記念日」なんて言っていたが、原爆が投下された日「記念日」と言っていいものかどうか、という疑問はある。今は「原爆忌」とか「原爆の日」と言うようである。海外では「ヒロシマ」というふうに、原爆投下の日とともに、広島の名前が広く知れ渡っている。

その広島・原爆の日のニュースを聞くと、何度か広島に旅行したときに、広島市の「広島平和記念公園」を訪れたときのことを思い出す。ここへ行ったときは、原爆戦没者慰霊碑の前で、鎮魂の祈りをささげていますが、原爆投下という一瞬の出来事のために、あっと言う間に命を奪われてしまった人たちのことをここで思うと、ホントにいたたまれない気持ちになった。「広島平和記念公園」に何度も行ったが、いずれのときも、原爆戦没者慰霊碑の前に、たくさんの花が添えられていたのは印象に残ります。

「広島平和記念公園」原爆戦没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」という碑文が刻まれている。これは1990年代の頃、「朝まで生テレビ」という番組を見て知った。おそらく19906月の広島ホームテレビでの収録した「激論! 地球新時代の戦争と平知と核」のときではないかと思う。そのテレビ番組やいろんな場で、原爆投下をしたのはアメリカであり、広島をはじめ日本全国の主要都市が焼け野原になるまで戦争をしたのは日本政府なのだから、この「過ちは 繰返しませぬから」という碑文が、「不適切ではないか」という批判を何度も聞いた。