一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは「アンチ日蓮正宗」管理人が2005年11月に設立した会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。富士門流執着軍団批判は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄だが、「日蓮正宗系」以外の富士門流寺院の調査・研究は「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」の管轄。
「一般社団法人 仏教宗学研究会」への誹謗中傷に対する反撃・糾弾は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
さらに正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」の公式サイト「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」から、カルト宗教対策、カルト宗教取締特別立法、カルト宗教拡散防止条約制定の活動部分を独立させたものが「国際カルト宗教対策委員会(Icat-Cult)」

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■京都知恩院2(御影堂・平成の大修理)

 

2019(平成31)年まで「平成の大修理」の素屋根に覆われている知恩院御影堂

 

知恩院の表玄関は、三門である。2002(平成14)年に知恩院の三門と御影堂が国宝に指定されている。今の三門は1621(元和7)年、徳川二代将軍秀忠の建立・寄進によるもの。起工が1619(元和5)年だから、造営に二年の歳月がかかっている。知恩院の見解によれば、三門は高さ24m、横幅50m、屋根瓦7万枚。木造の門としては世界最大級のスケールだという。見るからに巨大な門で、三門前には駐車場が広がり、浄土宗信徒用の和順会館がある。20141月に知恩院に行った時には、駐車場に数台の観光バスが停車していました。団体参拝の人を乗せてきた観光バスではないかと思われます。

この時は、京都東山のウェスティン都ホテルに宿泊し、ホテルから徒歩で三条神宮道の信号から神宮道を歩き、青蓮院の門前を通って知恩院に行ったのですが、このあたりは車や人通りの騒音が全く聞こえない静寂な所。知恩院三門の位置は、京都市街のメインストリート・東大寺通から、少し引っ込んだ所にある。にもかかわらず大通りの騒音は全然聞こえてこない静寂な空間である。三門をくぐって男坂を登り御影堂、法然上人御堂(集会所)、阿弥陀堂近辺まで来ると、参詣者の話し声しか聞こえてこない。法然上人御堂(集会所)で僧侶の読経がはじまると、読経の声がマイクを通して境内に聞こえてくる。こういう雰囲気を味わえるのは、いいですねえ。

巨大な三門をくぐると、その先には男坂と呼ばれる急な石段がある。男坂の横手には、ゆるやかな石段の女坂がある。男坂、女坂の名の坂は、日蓮宗総本山・身延山久遠寺にもあります。

知恩院のメインの堂宇は、男坂・女坂を登り切った所にある御影堂である。ちなみに知恩院「御影堂」は「みえいどう」と読む。これが浄土真宗大谷派本山・真宗本廟(東本願寺)の「御影堂」、浄土真宗本願寺派本山・西本願寺の「御影堂」は、「ごえいどう」と読む。

知恩院「御影堂」は浄土宗開祖・法然の尊像(御影像)を祀る堂宇。御影堂は、入母屋造り・本瓦葺きで奥行き35m、間口45m、瓦の数は約9万枚という巨大な堂宇。堂内には約4000人が収容できるという。ここは1639(寛永16)年、徳川三代将軍家光によって建立されたもの。これも造営に二年かかっており、落慶したのは1641(寛永18)年である。

知恩院は1517(永正14)年に火災にあっており、多くの堂宇が焼亡しているが、法然御影像は焼亡を免れたという。戦国時代の京都は、応仁の乱、天文法華の乱等、市街地が焦土と化す戦災があり、これにより知恩院も災禍を蒙ったものと思われる。その知恩院は1530(嘉禄3)年、後奈良天皇より宸翰「知恩教院」「大谷寺」の勅額を授与され、勢至堂が再興されている。

御影堂の法然像は毎年1225日に御身拭式が行われていたが、平成23年(2011年)1225日には御影堂大修理に伴い、御身拭式の後、御影堂から法然上人御堂(集会所)遷座式が執り行われ、御影堂修理の間、法然上人御堂(集会所)に祀られている。

 

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■京都知恩院1(浄土宗元祖・法然が開山)

 

□歴史上はじめて庶民に仏教を流布した浄土宗元祖・法然が開山した浄土宗総本山知恩院

 

知恩院とは、正式には華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん・ちおんきょういん・おおたにでら)というが、一般では「知恩院」という通称名で呼ばれている。三門にも「総本山知恩院」と書かれている。総本山と書かれているのは、浄土宗総本山という意味である。

いかなる者も一心に阿弥陀如来の名を唱えれば極楽浄土に往生できるという「専修念仏」(せんじゅねんぶつ)の教えを説き、浄土宗を開いたのが法然である。その浄土宗開祖・法然が布教の拠点とした草庵を起源とするのが、この浄土宗総本山知恩院である。

法然は平安時代末期、1133(長承2)47日、美作国(みまさかのくに・今の岡山県)久米南条稲岡庄の押領使・漆間時国の長子として生まれた。幼名は勢至丸。勢至丸が9才の時、漆間時国の館が夜襲され、不意打ちに倒れた時国は、枕辺で勢至丸に遺言を遺す。

「恨みをはらすのに恨みをもってするならば、人の世に恨みのなくなるときはない。恨みを超えた広い心を持って、すべての人が救われる仏の道を求めよ」

ところで、この漆間時国の遺言を読んで、かつて中華民国(台湾)・蒋介石総統が戦後、「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)と言い、日本兵の復員に最大限の便を図ったり、日本への戦後賠償を放棄したことを思い出しました。蒋介石総統の言葉は、漆間時国の遺言とは関係ないのだろうが、この漆間時国の遺言は、だれかに聞かせてあげたいくらいの名言ではなかろうか。恨みつらみでテロや戦争を繰り返す人たち、過去の歴史がどうのこうのとアラ探しばかりする某国の人たち。日本の琵琶湖畔にも恨みつらみから抜け出せない人もいますね。

さて勢至丸はこの父の遺言に従い、菩提寺で修学した後、15才で比叡山に登って剃髪授戒。はじめは円明房善弘と名乗るが、1150(久安6)年、18才のとき、比叡山延暦寺西塔黒谷の慈眼房叡空の弟子となり、法然房源空となる。島田裕巳氏監修の「はっきりわかる日本の仏教宗派」(成美堂出版)によれば、法然の黒谷での約二十年の修行の中で、二つの転機があったとする。

ひとつは源信の著書「往生要集」との出会い。「往生要集」には、厳しい修行に耐えられない者は念仏を唱えるべきと記されていた。ふたつめは中国浄土教の僧・善導の著書「観経疏」との出会い。「観経疏」には「一心に口で念仏を唱えれば往生が叶う」と記されていた。善導の言葉を知った法然は、衆生が救いを得るためには、誰もが出来る称名念仏のほかにないとの答えを得る。(「はっきりわかる日本の仏教宗派」p63)

法然は1175(承安5)年、比叡山を下り、西山広谷を経て吉水の禅房、現在の知恩院御影堂の近くに移り住み、浄土宗を開宗。法然43才の時である。1186(文治2)年、大原談議において旧仏教高僧の前で法然の教説が披露されると、その教えは瞬く間に人々の信仰を集め、法然の教団は急速に拡大した。1190(文治6)年、法然は東大寺にて「浄土三部経」の講説を行う。1198(建久9)年、法然は「選択本願念仏集」を著す。

 

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□「2ブログ」による「富士門流信徒の掲示板」累計アクセス数ぶち抜きがいよいよ射程に

 

皆様には、いつもブログをご愛読いただきまして、まことにありがとうございます。

20142月、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」の累計アクセス数が35pvを突破。「仏教宗学研究会のブログ」の累計アクセス数が17pvを突破。「2ブログ」の総合累計アクセス数が52pvを突破しました。まことに、ありがとうございました。

■アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/

■仏教宗学研究会のブログ

http://bukkyoshugakukenkyukai.doorblog.jp/

どんどん「2ブログ」の総合累計アクセス数が伸びていく中で、いよいよ富士門流執着軍団の第一次公式ホームページ「富士門流信徒の掲示板」の累計アクセス数ぶち抜きが、いよいよ射程に入ってきました。マジックナンバー点灯と言っても過言ではありますまい。

2014222日現在の「富士門流信徒の掲示板」の累計アクセス数は、583455pv

2014222日現在の「2ブログ」の総合累計アクセス数は527126pv。あと56329pvまで迫っております。ここ1年間の「2ブログ」の月間アクセス数はだいたい25000pv3pvぐらいで推移していますので、あと数ヶ月で「2ブログ」の総合累計アクセス数が「富士門流信徒の掲示板」の累計アクセス数をぶち抜けるかと思われます。

さて「2014年、新年あけまして、おめでとうございます。」の中で、「2014年中に、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」と「仏教宗学研究会のブログ」の「2ブログ」のアクセス数累計が、「富士門流信徒の掲示板」のアクセス数累計を、ぶち抜けるかと思われます。」と書いたところ、これを見た「富士門流執着軍団」の面々が、大慌てに慌て、あれやこれやと聞き苦しい言い訳を、あちらこちらで並べるという、まことに見苦しい姿をさらしております。今回も、富士門流執着軍団の面々は、自らの恥も省みず、またも聞き苦しい言い訳を並べるのでしょうか。

まあ、こんな人たちは、ほおっておくとして、今後とも、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」「仏教宗学研究会のブログ」の「2ブログ」を、よろしくお願い申し上げます。

錦織寺11 

 

 

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■長野善光寺4(2014年初詣4)

 

2014年初詣で善光寺内陣にていただいた見事な『書の芸術』・善光寺御朱印

 

以前の当ブログにて、「善光寺御朱印の毛筆は、この上ない達筆。まさに『書の芸術』と言うべきもの。善光寺御朱印の毛筆は、あまりにも芸術的な書なので、見ていると思わず心が洗われるような気持ちになる」と書いたところ、「どんな御朱印なのでしょうか」とのお問い合わせをいただきました。というわけで、2014年善光寺初詣で、本堂内陣にていただいた善光寺御朱印をここにご紹介しようと思います。見事な『書の芸術』を御覧下さい。

2014御朱印1



2014御朱印2 

 

 

 

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■長野善光寺3(2014年初詣3)

 

□極楽の錠前を探り当てる真っ暗な回廊の『お戒壇めぐり』と回廊入り口に祀られている仏舎利

 

内々陣参拝の後は、内陣にある御朱印受付にて、善光寺の御朱印をもらった。ちょうど20134月末の東京両国・回向院での善光寺出開帳の時、善光寺御朱印帳を買い求めており、そこに御朱印をいただいた。数年前、ある所で、僧侶の毛筆が達筆かどうか云々ということが話題になったことがあったが、善光寺御朱印の毛筆は、この上ない達筆。まさに「書の芸術」と言うべきもの。善光寺御朱印の毛筆は、あまりにも芸術的な書なので、見ていると思わず心が洗われるような気持ちになる。これは、善光寺参拝のいい記念になりますね。ただし断っておくが、私はあっちこっちの仏教寺院で御朱印をもらわないと収まらないような、いわゆる『御朱印マニア』ではない。

御朱印のあとは、『お戒壇めぐり』の階下に降りていった。内々陣の右側を通って奥に進むと『お戒壇めぐり』の入り口がある。これは、善光寺如来(一光三尊阿弥陀如来)像が格蔵される瑠璃壇下の真っ暗な回廊を通り、極楽の錠前を探り当てて、絶対秘仏の善光寺如来(一光三尊阿弥陀如来)と結縁するという主旨のもの。2003年の御開帳で善光寺に参拝したときは、『お戒壇めぐり』の真っ暗な回廊には入っていないと思います。20134月末の東京両国・回向院での善光寺出開帳の時、はじめて『お戒壇めぐり』を知ったくらいでしたから。

東京両国・回向院での『お戒壇めぐり』は、にわかづくりの『お戒壇めぐり』だったが、今回は善光寺での『お戒壇めぐり』。真っ暗の回廊を手探りで歩いて行ったが、全く何も見えない。私の後ろから、4人家族連れが歩いてきて、真っ暗な回廊の中で、ガヤガヤと喋りまくっている家族連れ。

この家族連れも、真っ暗な回廊の中で極楽の錠前を探していたようなのだが、歩いている途中で、若い男の子が「コレだ、コレだ」と、ガチャガチャと音をたてながら元気な声をあげていた。しかし回廊は真っ暗で何も見えない。「本当かね?本当にそれが極楽の錠前?」と、半ば狐につままれたような気持ちになった。

さてその『お戒壇めぐり』の入り口前には、釈迦如来像と仏舎利(釈迦如来の遺骨)を納めた厨子が祀られている。この仏舎利は、善光寺発刊の資料によれば、タイ国から日本に寄贈された仏舎利だという。タイ国から寄贈された仏舎利は、善光寺の外、全国各地の寺院にも格蔵されている。

さて再び本堂の外陣に出ると、外陣中央にものすごい人だかりができている。何事だろうかとその人だかりの所に行ってみると、びんずる尊者像のまわりにできていた人だかりだった。びんずる尊者像は、東京両国・回向院での善光寺出開帳の時にも来ていた。が、2003年の御開帳の時に参拝した記憶がない。ただし回向院の善光寺出開帳の時には、びんずる尊者像は白色のホータイでぐるぐる巻きになっていたが、善光寺本堂外陣では、ホータイはなし。びんずる尊者像参拝の長い行列に並んだ後、賽銭を入れて像を撫でて参拝。参拝の人は、全員がびんずる尊者像に触って撫でていた。像をよく見ると、かなり撫でられた痕跡が見られる。

善光寺18 



















(善光寺本堂)

 

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□東京都知事選挙立候補者一覧の中になかった某氏の名前

 

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■長野善光寺2(2014年初詣2)

 

□天台宗・大勧進と浄土宗・大本願が共同管理する『無宗派』の寺院・長野善光寺

 

善光寺の正式名は定額山善光寺。善光寺は天台宗大勧進と25院、浄土宗大本願と14坊によって護持・運営されている。大勧進住職は貫主とよばれ、天台宗名刹の僧が務める。大本願住職は善光寺上人とよばれ、代々公家出身者を住職として迎えている。善光寺住職は大勧進貫主と大本願上人の両名が勤める。このように独自の運営が為されている善光寺は、「無宗派」の寺院とされ、日本で仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であるため宗派に関係なく宿願が可能とされる。天台宗、浄土宗塔頭による共同運営の無宗派寺院といえば、宇治・平等院がある。また無宗派寺院といえば、仏舎利を奉安する名古屋・日泰寺も、十九仏教宗派の共同管理になっている無宗派の寺院である。そして昔から女人禁制があった仏教界で、上古の昔から善光寺が女人救済の寺院であったことも、特色の一つである。

善光寺の入り口に、浄土宗が管理する大本願があり、大本願の向かい側に浄土宗側の塔中が建ち並ぶ。常円坊、淵之坊、兄部坊、正智坊、白蓮坊、堂明坊、堂照坊、浄願坊、正信坊、随行坊、寿量院、善行院、玄証院、甚妙院、常行院、徳行坊、野村坊、鏡善坊、向仏坊である。

そして仁王門をくぐると「仲見世」と呼ばれる売店街があるが、その「仲見世」の裏側に、天台宗側の塔中がある。それが良性院、宝林院、長養院、本覚院、徳寿院、最勝院、玉照院、円乗院、威徳院、常住院、世尊院、蓮華院、尊勝院、常智院、教授院、吉祥院、福生院、常徳院、光明院、薬王院である。駒返り橋を渡ると左側に天台宗が管理する大勧進がある。

大勧進に入ってみると、ここにもたくさんの人が参詣している。大勧進の護摩堂の前では、テントが張られ、新春護摩祈願の受付をしていた。ここで午前10時からの護摩祈願を申し込む。

時刻はまだ午前9時で、護摩祈願の時刻まで約1時間の余裕がある。この間に本堂参拝をしてこようと、本堂に向かった。すでに本堂前にも本堂の中にも、ものすごい数の参拝客が来ている。本堂前では、10代後半くらいの若い人たちの野球チームだかサッカーチームの団体さんが記念撮影をしていた。現在の善光寺本堂は、宝永4(1707)に再建された堂宇で、国宝に指定されている。間口24m、高さ30m、奥行き54mある本堂は、東日本最大の堂宇なのだという。

本堂の中に入り、まずは外陣の賽銭箱に賽銭を入れて参拝。それから500円の内陣参拝券を購入して内陣に入る。内々陣前の賽銭箱に賽銭を入れて参拝。大勢の参拝客の大半は、外陣で参拝してお終い。しかし内陣参拝する人も、けっこうたくさんいた。

内々陣の須弥壇を見ると、戸帳が降りていて中は見えない。資料によれば向かって左側に本尊が祀られていて、右側には本田善光と奥方、子息の像が祀られているという。「お朝事」と呼ばれる朝の勤行のときに、戸帳が上がり、本尊が格蔵されている宮殿を拝することはできるが、本尊の善光寺如来(一光三尊阿弥陀如来)像は、絶対秘仏であるために拝することはできない。

 

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■長野善光寺1(2014年初詣)

 

□マイナス5度の厳寒の長野市内の街中を歩いて参詣した2014年・善光寺初詣

 

2014年の初詣は、長野・善光寺に行ってきました。善光寺に行ったのは2003年の御開帳以来のこと。久しぶりに荘厳な善光寺の雰囲気を肌で感じることができた、私にとってはまことに有意義な初詣になった。今回は、東京駅1924分発の長野新幹線「あさま号」に乗って長野へ。21時かぎに長野駅に到着。長野市内のビジネスホテルに宿泊。東京からは長野新幹線「あさま号」を利用すれば、約1時間3040分前後で長野駅に到着する。長野新幹線は、もともとは北陸新幹線の一部区間で、2015年春には、長野から金沢が開通し、いよいよ「北陸新幹線」としてスタートすることが決まっている。長野新幹線開業以前は、JR信越線経由で在来線特急あさま号が上野~直江津、在来線特急白山号が上野~金沢を運行していた。名古屋方面からは、昔も今もかわらず、中央西線、篠ノ井線経由で在来線特急しなの号が長野駅に乗り入れている。

長野には空港がないため、長野市に行くには電車、バスを利用するか、ないしは自分で車を運転して行くしかない。善光寺の最寄り駅は、新幹線や特急が停車する長野駅で、しかも長野駅から徒歩で行ける距離にあるので、割とアクセスは便利だと思う。ただし長野新幹線の開業で、上野~直江津を走る在来線特急あさま号が廃止になり、新潟・富山・金沢方面から長野への交通が不便になってしまった。がしかしこれも2015年春の北陸新幹線の開業で不便さも解消するものと思われる。長野駅も、長野新幹線開業によって、駅舎が新築され、ずいぶんモダンな駅舎になった。

長野新幹線「あさま号」が関東平野を走り抜け、高崎駅を過ぎた所で上越新幹線と分岐。碓氷峠のトンネルを抜けると長野県に入る。長野駅新幹線ホームに降り立つと、寒さに思わず身が震えてしまう。夜21時の長野市の気温は、マイナス2度。寒いですね。しかし長野市内にほとんど積雪はない。雪無しの状態で気温が低いのである。翌朝の気温はもっと低く、何とマイナス5度。思わず「寒いなあ」と言うと、ホテルマンは「長野で、これくらいの気温は、当たり前ですよ」と言う。

東京でマイナス5度まで気温が下がったことは、私の記憶の中にはない。マイナス2度になったら、それこそ「異常低温だ」「寒波到来だ」と大騒ぎになるだろう。

朝は、ホテルのレストランで、バイキング式の朝食。ホテルから善光寺までは、徒歩で参詣しました。長野駅周辺から善光寺までは、歩いて行ける距離にある。長野市という街自体が、古刹寺院・善光寺の門前街と言うことができる。しかし気温はマイナス5度。吐く息が白い。寒さに震えながら、足早に善光寺へ歩いて行った。

善光寺大門から三門の間には、「仲見世」と呼ばれる売店街がある他、長野駅から善光寺に行く表参道の両脇にも、参拝客をあてこんだ飲食店や商店が建ち並ぶ。仲見世や表参道で目立つのは、手打ちそば店。長野は信州そばの本場ということもあり、そば店が軒を並べている。

正月初詣客が多い時期には、参道にテキ屋の露店も軒を並べる。

 

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□自ら東京都知事選挙に出馬しない場合は「逃亡」したものと認定いたします

 

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■福井・永平寺7(法堂ボヤ事件)

 

□火の気がない所からのボヤは不審火・放火の可能性が報道される法堂ボヤ事件

 

127日午後1240分ころ、曹洞宗大本山永平寺の法堂で木製の引き戸が焦げるボヤ事件が発生した。以下は、ボヤ事件を報道するインターネットニュースからの引用である。

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<永平寺>法堂でぼや 国宝などに被害なし

毎日新聞 127()2128分配信

27日午後0時40分ごろ、福井県永平寺町志比の曹洞宗大本山永平寺で、木製の引き戸が焦げるぼやがあった。寺には国宝や重要文化財などが複数保管されているが、被害はなかった。県警福井署は放火の疑いもあるとみて調べている。

同署によると、焦げたのは法要などが行われる法堂(はっとう)の引き戸。近くで新聞紙が燃えているのを観光客が見つけ、僧侶が付近に積もっていた雪や消火器で消した。法堂は寺の敷地の一番奥にあり、観光客の参拝ルートになっている。

(毎日新聞)

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修行僧が「雪」で消火…火の気はなく放火か?永平寺

テレビ朝日系(ANN 128()1630分配信

寺の境内で火の手が。あわやの事態に、修行僧が雪を使って火を消し止めました。

27日、福井県にある曹洞宗の大本山永平寺の法堂の引き戸の外側で、積んであった新聞紙が燃えているのを参拝客が見つけました。火は、修行僧が消火器と雪でまもなく消し止めましたが、引き戸の一部などを焼きました。警察は、何者かが新聞紙を持ち込んで火を付けたのではないかとみて、28日も実況見分をするなどして調べています。

(テレビ朝日系(ANN)

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永平寺でぼや、雲水らが雪で消し止める 不審火の可能性

朝日新聞デジタル 127()2241分配信

27日午後0時40分ごろ、福井県永平寺町志比の曹洞宗大本山永平寺で、法堂(はっとう)正面の引き戸付近に置かれている新聞紙が燃えているのを観光客が見つけ、寺に通報した。雲水ら数人が近くの雪をかけてまもなく消し止めた。引き戸がすすけたが、建物には延焼はせず、けが人はなかった。周囲に火の気はないため、福井署が不審火とみて捜査している。

(朝日新聞)

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■中山法華経寺5(2013年初詣)

 

□鬼子母神堂の御開帳に参詣人の長蛇の行列ができていた中山法華経寺本院(2013年初詣)

 

2013年の初詣は、千葉県市川市にある日蓮宗大本山・中山法華経寺に参詣しています。

中山法華経寺に参詣すると、それこそたくさんの人が参詣しているのが目に入る。中山法華経寺本院には、総受付があり、ここでは鬼子母神堂の御開帳での祈祷受付を行っており、たくさんの人が祈祷の申し込みをしている。私も初詣で、鬼子母神堂御開帳で祈祷をしてもらってきました。

私もいろいろな仏教寺院に参詣したが、祈祷を行っている寺院、行っていない寺院、護摩を焚く寺院、護摩を焚かない寺院等々、様々である。日蓮宗の場合は、祈祷は行っていますが護摩は焚かないですね。仏教寺院でも、祈祷を行っている寺院、あるいは護摩を焚く寺院は、参詣が多いように思う。

人はだれしも家内安全、交通安全、心願満足、夫婦円満、身体健全、商売繁盛等々の、さまざまな願い事があり、これらの祈祷をしてもらうために寺院に参詣する人は多い。私の2013年・中山法華経寺初詣のときも、たくさんの人が参詣に来ていて、鬼子母神堂には長蛇の行列ができていたくらい。私は、中山法華経寺初詣の時、家内安全、夫婦円満、心願満足、身体健全、商売繁盛、厄除け等を願う人は、どういう寺院に祈祷を願い出るだろうか、ということを考えてみた。

もちろん、祈祷を願い出る人から見て、祈祷を叶えてくれそうな寺院、祈祷が叶うと思われる本尊が祀られている寺院、自分にとって開運招福の寺院、縁起のいい寺院に行こうとすると思う。わざわざ縁起の悪い寺社には参詣しないと思う。

中山法華経寺の場合、宗祖・日蓮の小松原法難のときに、出現して日蓮を守護したと伝承する鬼子母神が庶民の信仰を集め、鬼子母神像を祀っている。きわめて自然なことだと思う。そういう日蓮を守護した守護神にあやかりたいと思うのは、自然な庶民感情ではなかろうか。

それともうひとつ。祈祷を行う行者が、中山法華経寺の場合は、百日の大荒行を満願した修法師が行う。修法師が庶民から開運招福の行者として人々の信仰を集める。これも自然な庶民の信仰心ではないかと思う。

私は、中山法華経寺の初詣の時に「祈祷とは何なのか」「なぜ人は祈祷を願い出るのか」ということを、改めて問い直す機会を得た。中山法華経寺初詣の期間中、中山法華経寺と塔頭・遠寿院では、まさに大荒行が修されている真っ最中だった。

 

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■池上本門寺40(2012年初詣)

 

□多くの参拝客をあてこんで池上本門寺参道にぎっしり並んでいたテキ屋の露店(2012年初詣)

 

2012年の初詣は、池上本門寺に参詣しています。この時も12日の午前中に、皇居の一般参賀に行き、帰りに池上本門寺に参詣しています。ですので初詣は12日ですねえ。

しかし12日とはいえ、池上本門寺にはものすごい数の参拝客が訪れていました。ここも東京都内有数の初詣のメッカのひとつ。参道は参拝客でぎっしりです。ただし此経難事坂を登り、仁王門をくぐって大堂前まで来ると、スペースが広いせいか、ぎっしりの状態ではなかったのですが、それでも大堂前には、かなりの数の参拝客がいました。

その参拝客をあてこんで、テキ屋の露店も池上本門寺参道にぎっしりと並んでいました。人が集まる所、参詣人が多い寺社の前に、テキ屋の露店が並ぶのは世の常である。池上本門寺の行事で、最も多くテキ屋の露店が並ぶのは、何といっても毎年10月に行われる御会式である。御会式の時ほど、数は多くありませんでしたが、それでも正月も池上本門寺参道は、テキ屋の露店がぎっしりと並ぶ。又、池上駅前の商店街も、池上本門寺初詣客をあてこんで、12日にもかかわらず、開店している店もかなり見られました。

池上本門寺の本殿では、大きく扉が開けられていて、ここにもたくさんの人が参詣。本殿では、古いお札・お守りの返納・お焚き上げを受け付けていました。普段の日は、本殿に参詣する人はほとんど見られないのですが、正月の初詣は、たくさんの人が本殿に参詣していました。

大堂は、普段とかわらずそれこそたくさんの人が参詣。ここは普段の日も参詣人が多い堂宇ですが、普段よりも増して大堂の賽銭箱の前は、満員になるほどの人が詰めかけている。

大堂前の広場の一角では、猿回しの猿の曲芸が行われていて、参詣人の目を引き、周囲にはたくさんの人が見物していました。これもたくさんの初詣客をあてこんで行われているのでしょう。

仁王門前では、献血の呼びかけが行われていました。さらに大堂前では、菊の花の展示があり、初詣客をなごませてくれていました。菊の花の展示は、これ以前にどこかの寺院でも、何度か見かけていますね。

池上初詣1



池上初詣2大堂


池上初詣5本殿


池上初詣6本殿


池上初詣10大堂


池上初詣11大堂


池上初詣12仁王門


池上初詣13的屋


池上初詣15的屋


池上初詣18総門


池上初詣19総門


 

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■靖国神社1(靖国神社の初詣参拝)

 

815日の終戦の日の参拝者を上回るくらいの参拝者が訪れる靖国神社の初詣参拝

 

2011年の初詣は、東京・九段の靖国神社に参拝に行っています。この年は、12日の皇居の一般参賀の後、その足で地下鉄に乗り、九段下駅で降りて、靖国神社に初詣に行っています。

靖国神社は、815日の終戦の日ないしはその前後に参拝する所というイメージが強いのですが、正月の初詣には、終戦の日をはるかに上回るくらいの参拝の人が訪れています。

靖国神社正面の大鳥居から境内の中、参道の両側に、的屋の露店が所狭しと並んでいるのには驚きました。終戦の日には、こんなに的屋の露店が並んでいたかな??並んでいなかったような気がしましたが。正月には、ここに的屋の露店が並ぶんですね。

表の靖国通りには、いつもながら右翼団体の街宣車が停まっていましたが、境内には右翼関係者と思われる人たちは、終戦の日に比べると少なかったような気がします。

参拝ののち、靖国神社のおみくじを初めて引いたのですが、「吉」でした。

以下の写真は、2011年の初詣の時に撮影した靖国神社の様子です。

2011初詣・靖国神社1


2011初詣・靖国神社3


2011初詣・靖国神社4


2011初詣・靖国神社6


2011初詣・靖国神社7


2011初詣・靖国神社8 

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■鶴岡八幡宮1(静の舞・大銀杏の木)

 

□朱色の舞殿にて静御前が源義経を慕って舞った『静の舞』が行われる鶴岡八幡宮

 

鶴岡八幡宮(つるがおか はちまんぐう)とは、古都・鎌倉のシンボルであり、中心的存在。

私としては、何年に一度ぐらいの頻度で、ここに初詣に行っている他、鎌倉へは何度も寺跡調査で足を運んでいますんで、そのたびにここへ立ち寄っている。たまたま行った時、偶然に鶴岡八幡宮の境内で「鎌倉まつり」が行われていた時に遭遇したこともありました。

直近の初詣は2008年の初詣で参拝しています。ここに行くと、いつもものすごい人出にほんとにビックリしてしまう。正月の初詣や「鎌倉まつり」の時の人出は、それこそハンパじゃないくらいで、鶴岡八幡宮の周辺は、車の交通規制まで行われるくらいだが、普段の週末なんかでも、若宮大路や鶴岡八幡宮周辺には、ほんとにたくさんの人たちが歩いている。こういうたくさんの人出を見ていると、この古都・鎌倉というところ、鶴岡八幡宮が、一般市民の人気スポットになっているんだなあ、と思う。

鶴岡八幡宮の三之鳥居をくぐるとすぐ右に源氏池、左側に平家池という池があり、中央には石の太鼓橋が架かっている。源氏池には産を意味する三つの島、平家池には死を意味する四つの島が配されている。これは北条政子が源平合戦の源氏の戦勝を祈願して寄進したものだという。この源氏池、平家池には、夏になると、紅白の蓮の花が咲いて、これがまた美しい。

鶴岡八幡宮から由比ヶ浜まで一直線に伸びる若宮大路と呼ばれる大通りの、二之鳥居から三之鳥居まで、通りの中央が一段高くなっている、通称・段葛(だんかずら)と呼ばれる歩道がある。

ここは源頼朝が、妻・北条政子の安産を祈願して1182(寿永1)年に築いたものなのだが、ここの両側には、桜の木がずーっと植えられていて、春には段葛全体が、見事な桜のトンネル状態になる。こう見てみると、鶴岡八幡宮というところは、春・夏・秋を通じて、花のきれいなところなんです。

あと、毎年4月の第二日曜から第三日曜にかけて、鎌倉まつりと呼ばれるビッグイベントが、鶴岡八幡宮を会場にして行われる。中でも有名なのが、静の舞と流鏑馬だ。流鏑馬(やぶさめ)は、4月第二日曜13時から、境内地中央の東西に伸びる流鏑馬馬場で行われる。疾走する馬上から正方形をした三つの的を射落としていくという勇敢な行事で、NHKのローカルニュースなどでも紹介される行事だ。静の舞(しずのまい)とは、4月第二日曜15時から、表参道の途中に建っている朱色の舞殿にて行われる。吉野山で源義経と別れ、鎌倉に連れてこられた静御前が、ある日、源頼朝の求めに応じて舞を踊った。その時、舞った静御前が、源義経を慕う次の歌を詠んだ。

「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」

「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」

ただし当時はまだ舞殿は建立されておらず、実際に静御前が舞ったのは若宮社殿の回廊だといわれている。この故事にならって、境内の舞殿では、古式ゆかしい舞が再現される。

私としては、この鎌倉まつりの静の舞も素晴らしいと思うのですが、NHK大河ドラマ「草燃える」で、この源頼朝(石坂浩二)の前で、静御前(賀来千賀子)が舞う、静の舞のシーンが見事に演じられていて、とても印象深い。正月の初詣以外にも、鎌倉まつりや、きれいに咲く春夏秋の花の鑑賞に行くのも、いいかな、と思いますね。

 

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■熱田神宮1(謎の草薙剣を格蔵)

 

□歴代天皇が継承する三種の神器「謎の草薙剣」を格蔵していると伝承する熱田神宮

 

熱田神宮(あつたじんぐう)とは、愛知県名古屋市熱田区にある神社で、何といってもここは、歴代天皇が継承する三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ。天叢雲剣)を神体としていることで有名である。ただし草薙剣は、神話上重要な剣であるため、この剣は模造、偽造、盗難、消失、水没と様々な遍歴を辿った。結果、現在の所在については諸説語られている。

神話の記述の通りであれば、熱田神宮の奥深くに神体として安置されているという説が正しいということになる。神話に拠れば、668年に新羅の僧・道行が熱田神宮の神剣を盗み、新羅に持ち帰ろうとした。しかし船が難破して失敗し、その後は宮中で保管されていた。しかし、688年に天武天皇が病に倒れると、これが神剣の祟りだということで熱田神宮に戻されたという。

このほかに、壇ノ浦水没説というのがあり、源平合戦の平家滅亡の折に、二位の尼が腰に差して入水し、そのまま上がっていないとする説である。ただし、この時に平家が所持していた草薙剣は、宮中で元々使用されていた模造品(レプリカ)という説があり、「平家物語-剣巻」なども、その説を採っている。さらに宮中安置説というのもあり、これは皇居の宮中儀式に使われている草薙剣が、本物の草薙剣だという説である。

第二次世界大戦の時は、熱田神宮は何度か米軍の空襲を受けたため、御神体は一時、他の神社に遷座し、終戦後、熱田神宮に戻ってきたのだという。まあ、草薙剣の真偽については、いずれの説だかよくわからないが、皇室とは切っても切れない深い縁のある神社であることは確かで、天皇・皇后両陛下の御親拝も行われている。

私はここには2010年の初詣で行っています。うっそうとした杜があり、神社の雰囲気としては、なんとなく明治神宮に似ている初詣だったが、正月三が日ではなかったせいか、明治神宮のように参拝客の長蛇の行列はなかった。

そして熱田神宮の境内地の一角には。「熱田神宮宝物館」がある。ここには、皇室をはじめ、将軍、藩主、一般人から寄進された資料約4000点を格蔵しているという。私は、「ひょっとしたら草薙剣の本物は無理としても、レプリカぐらいは見れるのでは」と期待して入ってみたが、残念ながら、草薙剣の本物はおろか、レプリカも展示していなかった。御神体の草薙剣は、天皇ですら直接見ることは許されていないのだという。

もともと、ここ熱田神宮の御神体が刀であることからか、宝物館に収蔵されているものも、やたら刀が多いように思う。「短刀 銘来国俊」という刀は、国宝に指定されているという。

私があっと思ったのは、「日本書紀」の巻物である。これは国宝ではなく重要文化財とのこと。これは熱田本( 13757年写 第110,1215)と呼ばれる卜部家本系統の写本ということで、日本書紀の写本は、あっちこっちにいくつもあるらしいのである。

 

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■明治神宮1(日本で最も多い初詣参拝客)

 

□日本で最も多い正月三が日・初詣参拝客が訪れる東京原宿・明治神宮

 

正月といえば初詣。 私の場合、毎年、違う寺社に初詣の参拝に出かけているのだが、明治神宮は2007年と2009年の初詣に行っており、それ以前にも何度か初詣に来ている所。今年の仏教宗学研究会のブログは、過去に参拝に行った初詣について、記していきたいと思う。

明治神宮とは、明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする神宮で、JR原宿駅、JR代々木駅、小田急参宮橋駅に隣接する広大な敷地で、境内の広さは何と約73haもある。寺院の落慶入仏法要に該当する鎮座祭は、1920年(大正9年)111日に行われている。

明治神宮は、初詣では大晦日から正月三が日の間で約315万人前後にものぼる日本一の参拝者を集めることでも知られている神社。大晦日の深夜から、JR原宿駅・山手線外回りの臨時ホームが使用され、表参道から井の頭通りにかけて、交通規制が敷かれる。山手線、小田急線等も毎年、大晦日から元日にかけて終夜運転を行っているが、利用客の大半が初詣参拝客である。

毎年正月の初詣参詣者の関東地方の上位にランキングされるのは、明治神宮が約315万人、成田山新勝寺と川崎大師平間寺が約300万人、浅草寺が約275万人、鶴岡八幡宮が約250万人。

このランキングは、毎年、明治神宮がトップである。

毎年の明治神宮初詣はすごい人出。参道が参拝者で“渋滞”してしまっていて、なかなか前に進めません。明治神宮の境内に入ってから、本殿にたどり着くまで60分以上、かかったような気がします。しかし長蛇の行列の中、長時間待ち続けて、本殿にやっとたどり着いたと思ったら、参拝してお終い。参拝のインパクトとしては、あまり心に残るものが少ない気がする。

それだったら、まだ靖国神社は昇殿参拝ができるし、池上本門寺や中山法華経寺は祈祷をしてもらえる。善光寺だったら、内々陣参拝やお戒壇巡りがあり、大勧進では護摩祈祷をしてもらえる。

むしろ、そっちのほうが、心に残るものが大きいような気がする。

むしろ、明治神宮の初詣は、長蛇の行列を長時間、並んで参拝を待ち続けたことが、一番、心に残っているような気がするのだが…。

明治神宮初詣1


 












(明治神宮本殿)

明治神宮初詣2明治神宮初詣2


明治神宮初詣7


明治神宮初詣8 













































(長蛇の行列になっている明治神宮の初詣参拝)

 

 

 

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皆様、新年、明けましておめでとうございます。昨年は、いろいろとお世話になりました。

日記やボイスに、イイネやコメントを多数いただき、又、ブログには多くの方々からメッセージを頂戴しました。まことにありがとうございました。

さて、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」と「仏教宗学研究会のブログ」を立ち上げてから、もうかれこれ2年の歳月がたとうとしています。このふたつのブログにUPしている記事は、200511月にスタートしたmixi「アンチ日蓮正宗」コミュニティ、20073月にスタートしたGREE「アンチ日蓮正宗」コミュニティ、20074月にスタートした管理人のmixi日記「日蓮正宗・創価学会・顕正会批判シリーズ」、「旅紀行」「東京近郊ぶらり旅」シリーズ、2009128日にスタートしたmixi「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」コミュニティ、20121月にスタートした「アンチ日蓮正宗」「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」mixiページ等で執筆してきた記事を、加筆訂正した上で、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」と「仏教宗学研究会のブログ」に再分類してアップすることから、はじまりました。

この他に、新たにアップしている記事もどんどん加わりまして、20131231日現在で「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」の記事が1671本。「仏教宗学研究会」の記事が416本。合計で2087本になりました。「mixi」からの再アップ率は80%を超えました。

アクセス数の累計は、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が320787pv。「仏教宗学研究会のブログ」が159594pv。合計で480381pvになりました。Webサイトを特定に期間のうちに訪れた人の正味の人数で、延べ訪問数(ビジット)から重複を除いたもので、複数回訪問した人も1人と数えるユニークユーザー(UU)数の累計は、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が82496UU。「仏教宗学研究会のブログ」が44515UU。合計で127011UUになりました。

どんどんアクセス数が伸びていく中で、いよいよ富士門流執着軍団の第一次公式ホームページ「富士門流信徒の掲示板」がいよいよ射程距離に入ってきました。「富士門流信徒の掲示板」の累計アクセス数は、583239pv2014年中に、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」と「仏教宗学研究会のブログ」の「2ブログ」のアクセス数累計が、「富士門流信徒の掲示板」のアクセス数累計を、ぶち抜けるかと思われます。

尚、富士門流執着軍団の第二次公式ホームページ「富士教学研究会」の累計アクセス数129295pvは、とっくの昔にぶち抜いております。「2ブログ」のアクセス数累計どころか、「仏教宗学研究会のブログ」単独で、「富士教学研究会」の累計アクセス数をすでに、ぶち抜いております。

「富士教学研究会」のブログは、20082月に設立されて、もう6年・2160日にもなるのに、いまだに129295pvということは、1日でたった60pvしかないということになる。人気ありませんねえ。

こんな人気のないブログは、おいていくことにして、2014年もまた、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」と「仏教宗学研究会のブログ」の「2ブログ」にUPしていく作業はつづきます。

本年もまた昨年に引きつづいて、皆様方からのご指導・ご鞭撻を賜ることが出来ますよう、よろしくお願い申し上げます。

2014年賀2 

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■京都方広寺・豊国神社3(不吉・不運な方広寺大仏)

 

□日蓮宗不受不施派弾圧の発端になった方広寺大仏殿・千僧供養会の日奥の出仕拒否

 

そもそも京都・方広寺とは、1586(天正14)年に、永禄10年(1567年)の三好・松永の戦いの兵火により焼失した、東大寺大仏殿および大仏にかわるものとして、豊臣秀吉が発願。1588(天正16)年に、京都・渋谷に移転した真宗仏光寺の跡地に建造した。1591(天正19)年に立柱式、1593(文禄2)年に上棟式、1595(文禄4)年に落慶した。この時に建造された大仏は、六丈三尺(20メートル)で、東大寺の大仏が五丈三尺だったから東大寺大仏よりも巨大だった。ただし東大寺大仏は金銅仏だが、方広寺大仏は、刀狩りで没収した刀を再利用した釘も使われたが、大仏そのものは当初の銅造ではなく、木像漆箔の大仏として建造された。大坂城内に莫大な金銀を貯蔵するなど巨大な経済力を持つ豊臣秀吉が、なぜ当初の銅造ではなく、木像漆箔の大仏として建造したのかについて記した文献がどこにも見あたらない。単に安価に仕上げようとした「手抜き」だったということだろうか。しかしその後、方広寺大仏のまわりには、不運・不幸がまとわりつく。

1595(文禄4)年の方広寺大仏殿の落慶で、秀吉は亡父母の追善のために、天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、真宗の各宗派の僧に出仕を命じ、千人の僧の出仕で千僧供養会を行った。この千僧供養会に、日蓮宗不受不施派の日奥が出仕を拒否。これが江戸時代の不受不施派弾圧の発端になった。千僧供養会は、仏教界が秀吉に臣従するのか、しないのかを見極めるために、秀吉が敷いた「踏み絵」ではなかったのかと思われる。千人の僧が出仕する大法要は、あまりにも巨大で、出仕する千人の僧の食事を準備した台所が今も妙法院に遺る。

ところが千僧供養会の翌年の1596(文禄5)年の慶長伏見地震により、方広寺大仏は倒壊。大仏殿は倒壊を免れた。

秀吉は、倒壊した大仏のかわりに、方広寺に善光寺如来を祀ることを計画。1597(慶長2)年に、善光寺如来が京都に到着。方広寺に遷座された。ところが秀吉は1598(慶長3)年に病に伏し、さらに厳暑の夏に雪が舞うという珍事が起こった。これが善光寺如来の祟りではないかと噂され、善光寺如来は817日に善光寺に戻される。がしかし秀吉は翌日の818日に死去する。

1599(慶長4)年に、淀君・豊臣秀頼母子が、金銅大仏の再興をはかるが、1602(慶長7)年に鋳造中の大仏から火災が発生。造営中の大仏と大仏殿が焼失してしまう。

今度は徳川家康の勧めで豊臣秀頼が三度、方広寺大仏の再興を志す。1608(慶長13)年に大仏再建の工がはじまり、1610(慶長15)年に立柱式、1612(慶長17)年に大仏金箔が完成。1614(慶長19)年に梵鐘が完成。創建時よりも大きな大仏殿も完成。あとは徳川家康の承認で落慶開眼法要を待つだけ、となったところで、家康は開眼供養の延期を命じる。南禅寺僧・清韓作の方広寺梵鐘の銘文に不吉の文言ありとて、家康が激怒する方広寺「国家安康」鐘銘事件がおこる。

 

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■京都方広寺・豊国神社2(豊臣家の巨大な経済力)

 

□豊臣脅威説・豊臣討伐論に傾斜していた徳川家康に臣従する親藩・譜代大名や旗本

 

徳川家康は、なぜ豊臣秀頼を一大名として残そうとしていたのか。これは、まず織田家と豊臣秀吉の前例に則ったと思われる。豊臣秀吉は、もともとは織田信長の家臣で、本能寺の変・織田信長の死去後、山崎の合戦で明智光秀を破り、清洲会議で実質的に「ポスト織田信長」の主導権を握った。そして賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、織田信雄・徳川家康の連合軍と対峙した小牧・長久手の戦いでは、織田信雄を臣従せしめた。その後、織田有楽斎をはじめ、織田家の武将をことごとく臣従させている。よってこれと同じように、徳川家康も、天下人になる野心がない豊臣秀頼を一大名として臣従させていく腹づもりだったと思われる。そうすれば豊臣恩顧の大名と摩擦も起こらなければ、秀頼の正妻になった孫娘・千姫の身を案じなければならなくなることもない。

しかし家康は、秀頼を一大名として残す腹づもりだったならば、なぜ家康は方広寺の「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘を、「家康呪詛の鐘銘だ」と憤激して、大坂の陣で豊臣家を滅亡させたのか、ということになる。豊臣秀頼は天下人になる気は全くなかったが、実母の淀君があくまでも徳川家への臣従を拒否し、あくまでも天下人は秀頼だと譲らなかったからだ、という説が有力で、方広寺鐘銘事件も、当初は豊臣家を滅ぼすというよりも、淀君を懲罰する腹づもりだったという説である。

NHK大河ドラマ「葵徳川三代」も、この説を採っていて、家康が「あの女狐(めぎつね・淀君のこと)に灸をすえてやらんといかんな」と言うセリフを入れている。

これとは全く正反対に、徳川家康は虎視眈々と豊臣家を滅亡させるべくチャンスを窺っていたとする説もある。これは、このまま豊臣家を大坂城に存続させた場合、豊臣恩顧の大名をはじめ、関ヶ原の合戦で改易・減封・国替えになった徳川幕府に不満を持つ大名・武家が豊臣家のもとに集結し、今の野党的な存在になって、徳川幕藩体制を根幹から脅かす存在になることを、家康は怖れていたのではないか、とする。この説も一理あると思われる。

しかし私は、豊臣脅威説・豊臣討伐論の考えを持っていたのは徳川家康ではなく、徳川家康に臣従する親藩・譜代大名や旗本がそう考えていたのではないかと思われる。この時代は、まだ完全に戦国の世が完全に終わっておらず、戦(いくさ)で負ければ主君の改易はもちろん、家臣から一族郎党に至るまで失業。下手をすれば首を切られかねない。この時代の「失業」は、今の失業とはちがい、ハローワークもなければ求人広告があるわけじゃない。失業=死とほぼ同じ意味だった。

豊臣秀頼は、天下取りの野心はなかったとしても、実母の淀君が「天下人はあくまでも秀頼だ」と固執し、徳川幕府への臣従を拒否しつづけていた以上、徳川家康に臣従する親藩・譜代大名や旗本からすれば、これは脅威に映り、豊臣脅威説・豊臣討伐論に傾斜していくのは、必然だったのではないかと思われるからだ。

 

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■京都方広寺・豊国神社1(「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘1)

 

□大坂の陣の発端になった「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘の釣り鐘が今も遺る京都・方広寺

 

豊国神社(とよくにじんじゃ)とは、京都市東山区に鎮座する神社で、朝廷から神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る。豊臣家滅亡とともに徳川幕府の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の指示により再興された。豊臣秀吉の遺骸は伏見城から密かに阿弥陀ヶ峰に運ばれて埋葬され、阿弥陀ヶ峰には豪壮な豊国神社が創建された。これが今の「豊国廟」で、朝廷からは「豊国(とよくに)大明神」の神号が与えられた。豊国神社を「ほうこくじんじゃ」、豊国大明神を「ほうこくだいみょうじん」と読む人、ふりがなを付けている文献もある。

方広寺とは、大坂の陣の発端になった「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘がある釣り鐘があることで、あまりにも有名。方広寺は現在、天台宗寺院として、本堂と釣り鐘が遺っているのみ。かつて豊臣秀吉が造立し、地震で倒壊した方広寺大仏殿の跡地が、今の京都・豊国神社である。

方広寺の見所は、何と言っても「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘がある釣り鐘。当時の釣り鐘がそのまま遺っていて、「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘を間近に見学することができる。私が方広寺に行ったときも、平日の昼間にもかかわらず、数人の見学客が来ていて、釣り鐘を叩いたり、「国家安康」の鐘銘を、まざまざと見学していた。この釣り鐘は、現在、国の重要文化財に指定されている。

さて日本史の通説によれば、方広寺の「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘を知った大御所(前将軍)・徳川家康が、これは家康の名を分断し呪詛するものだと激怒。大坂方は必死に弁明したが、徳川幕府からこの鐘銘について諮問された京都五山、林羅山は、いずれも「家康の諱を割ったことは良くないこと」「前代未聞」と批判的回答を示した。歴史学者の一部は、方広寺釣り鐘の鐘銘を、徳川家康を呪詛するものと解釈し、豊臣家攻撃の口実としたのは、徳川家康は、関ヶ原の合戦以降、豊臣家潰しの機会を虎視眈々と狙っており、方広寺鐘銘事件は、徳川家康にとっては願ってもない豊臣家攻撃のチャンス到来だったのだ、という説を唱えている。

1598年の豊臣秀吉の死後、豊臣家臣従の大名の中で250万石の最大の大名、五大老の筆頭で、筆頭官位・内大臣だった徳川家康が、政治の実務を取り仕切った。ところが徳川家康の執政を「家康の専横」と反発する大名と、石田三成に反発し徳川家康を支持する大名に分かれ、1600年に関ヶ原の合戦となる。この合戦に勝利した徳川家康は、全国の大名を臣従せしめ、実質的に天下人になった。1603年、徳川家康は天皇から征夷大将軍に任命され江戸幕府を開く。

この時点で、すでに徳川家康は関白職を公家に返上するとして、1601年、再び公家の九条兼孝が関白に任ぜられ、豊臣秀頼が関白になる可能性が実質的に消滅。1605年、徳川家康は将軍職を秀忠に譲って大御所となり、江戸幕府は代々、徳川将軍家が相続していくことを宣明する。

そうすると、大坂城の豊臣秀頼・淀君親子はどうなるんだ、ということになる。豊臣秀頼はまだ若かったが、実母の淀君が後ろ盾としており、淀君はあくまでも豊臣秀頼が天下人だと考えていた。

 

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金沢・妙立寺2(外敵を欺く複雑な建築構造と怪奇な仕掛け2)

 

□外敵を欺く複雑な建築構造と怪奇な仕掛けが多数あることから「忍者寺」の名で有名な妙立寺2

 

金沢妙立寺とは、1585(天正13)年に、加賀国領主・前田利家の祈願寺として、前田利家の居城・金沢城付近に建立したのが最初。その後、加賀藩第三代藩主・前田利常が、幕府からの攻撃に備え、1643(寛永20)年に、現在地に移転した、日蓮宗の日像門流の寺院。江戸時代は幕命で三階建て以上の建築は禁止されていた時代だが、妙立寺は本堂につづく庫裡は、外観が二階建て。しかし内部は四階七層になっていて、中二階、中々二階などの複雑な構造の中に、23の部屋と29の階段がある。物見台のような本堂屋上の望楼からは各方面を遠望でき、金沢城までの地下道がつづいていると伝承される大井戸。隠し部屋、隠し階段、どんでん返し、抜け穴、落とし穴などが多数見られる、まさに複雑怪奇な構造で数々の仕掛けがあることから、「忍者寺」の異名が生まれた。「忍者寺」の名は、「忍者の寺」という意味ではない。

床板をはずすと階段状の落とし穴になりうる渡り廊下。一方の戸は戸外へ、もう一方の戸は別棟へと通じる二枚戸。往時は、足を踏み入れると、畳が外れて落とし穴になったという、賽銭箱。

妙立寺の全階段の29ヶ所のうち、6ヶ所が本堂に集中。左端の階段は、手前の床板をはずせば、落とし穴になる。本堂裏には隠し階段があり、物置の戸を開いて床板をまくると、階段がある。身を隠して逃げられるようになっている。床板には、溝が刻まれて、戸を閉めると自動ロックになって開かなくなる。床下には、通路がつくられている。本堂階段群の左端の、渡り廊下に見せた階段が、落とし穴になっている。また下男部屋への通路になっていて、身を隠せるような仕掛けになっている。金沢は冬になれば1メートルから1メートル50センチ級の雪が降る雪国である。妙立寺は永年の風雪に耐え、木造建築には巨大な梁が堂内のいたる所に使用され、積雪の重みを分散する頑強なつくりになっている。現代でも、これくらいの複雑な構造の寺院を建立しようとなれば、大変な費用と労力がかかると思われるが、江戸時代に、こういう寺院を造り上げた加賀藩主・前田家は、やはり本気で幕府との戦争を想定していたものと思われる。

ところでこれだけ複雑な構造になっている妙立寺を、2010年、歩行困難で杖をついて歩いていた父親を連れて見学。ところがこの時、案内の女性が、杖をついて歩いていた私の父親を見て

「寺の中では杖はダメですよ。大丈夫ですか」と、けっこう高飛車な言い方をしたので、これを聞いていた私は、少しばかりムッときた。私もいろいろな寺院を訪ね歩きましたが、どこの宗派を問わず、こういう言い方をする人はいますね。大石寺をはじめとする「日蓮正宗系」や、西山本門寺、その関連、ないし旧末寺、京都要法寺などの富士門流寺院に、こういう人がいましたね。せっかく寺院に行っても、こういう人が出てくると、ため息が出てしまう。私としては、仏教寺院に、世間並みの接客を要求しようとは全く考えていないし、そんなことを要求しようとも思っていない。しかし、杖をついて歩いている老人に対して、この言い方はないだろうと思った。

 

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金沢・妙立寺1(外敵を欺く複雑な建築構造と怪奇な仕掛け)

 

□外敵を欺く複雑な建築構造と怪奇な仕掛けが多数あることから「忍者寺」の名で有名な妙立寺

 

金沢・妙立寺とは、正式には正久山妙立寺といい、日蓮宗の寺院。旧本山は京都立本寺。日像門流の寺院。通称名は「忍者寺」という名前で有名。地元・金沢市でも妙立寺の正式名よりも「忍者寺」(にんじゃでら)の名前で有名である。「忍者寺」という名前は、忍者の寺という意味ではなく、複雑な建築構造と外敵を欺くさまざまな複雑怪奇な仕掛けが多数あることから「忍者寺」と呼ばれている。金沢市は、北海道、京都、奈良、飛鳥地方等と同じく、第二次世界大戦の爆撃・空襲被害が全くなかった地域であるため、江戸時代、明治・大正・昭和初期のころからの文化財が数多く遺っている町。長町武家屋敷、兼六園、成巽閣等はその代表格であるが、これらと並ぶ金沢市の文化財の代表格のひとつがこの妙立寺。金沢市には仏教寺院ばかりが密集する「寺町」という町名の地域があるが、その中に妙立寺がある。

ここに行く最寄り駅は(?)というと、北陸鉄道・野町駅ということになるが、金沢市のターミナル駅であるJR金沢駅からはかなり遠い。野町駅に行くには、JR西金沢駅で乗り換えなければならず、電車一本では行けない。妙立寺に行くのに、電車で行く人は皆無ではないだろうか。

金沢駅から行くのであればバスを利用するしかない。かつて金沢市内にも、大通りには路面電車が走っていた。金沢駅から武蔵が辻、香林坊、片町、兼六園、金沢城跡等には、路面電車で行けたのであったが、昭和40年代の高度成長時代に全て廃止になってしまった。なぜ廃止になったのかというと、車の通行量の増加で渋滞が発生し、車も路面電車も両方がお互いに、通行の妨げになってしまった為。それで路面電車が廃止に。ところが高度成長時代から金沢市内には大量の車が流入を続け、昭和4050年代は、著しい道路渋滞が発生。排気ガスによる公害も指摘されていた。国道8号線金沢バイパス、津幡バイパス、国道157号線鶴来バイパス、北陸高速自動車道、山側環状道路等の開通で、金沢市内に流入する車の量は減ったものの、依然として金沢市内中心部は、車の量は多い。なので金沢駅前から妙立寺までバスで行っても、かなり時間がかかる。しかも金沢市内には、今でも地下鉄がない。これだけ道路に車が溢れ、市内の移動に時間がかかるのに、道路渋滞関係なく、スピーディーに移動が可能な地下鉄が今でもないのも不思議に思う。というわけなので、妙立寺に行くにはバスを利用するか、車で行くしかない。ところが妙立寺は、寺院が密集する寺町の中にあるため、駐車場には数台しか車を駐車できない。門前には駐車スペースがあるが、ここは実車タクシーの待機場所になっていて、一般車は駐車禁止。ところが大勢の参拝人、観光客が訪れる妙立寺の駐車スペースは、これでは大幅不足である。そのため、何と極楽寺などの近隣の寺院が妙立寺に行く観光客のために駐車場を有料で貸している寺院がある。その他は西茶屋観光駐車場やコインパーキングなどの有料駐車場が近隣にいくつかある。私個人としては、西茶屋観光駐車場が便利なように思いました。

 

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□釈迦如来の生誕年が従来の主流学説から約100年ほどさかのぼる可能性も

 

1126日、mixiニュースで、久しぶりに仏教遺跡に関するニュースが流れた。まずはここにニュース配信記事を引用します。

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「世界最古の仏教寺院発見、ネパール」20131126 19:10

世界最古の仏教寺院がネパールで発掘された。紀元前550年ごろの遺跡で、釈迦(しゃか)の生年が従来の主流学説から100年ほど遡る可能性があるという。発掘現場のネパール中南部、ルンビニ村は、釈迦(ゴータマ・シッダールタ)の生誕地として知られている。

研究チームのリーダーで、イギリスにあるダラム大学の考古学者ロビン・カニンガム(Robin Coningham)氏は、「分析の結果、世界最古の仏教寺院と判明した」と話す。

古代の木造遺跡は、毎年数十万規模の巡礼者が訪れる寺院のレンガ構造の地下に埋もれていた。後年その上部に建立されたレンガ造りの仏教寺院は、古代のレイアウトを複製している。「つまり、仏教の聖地としての連続性を示している」とカニンガム氏は解説する。「釈迦の生年については論争が絶えないが、とりあえず紀元前6世紀には仏教寺院が存在していたことが確定した」。

◆釈迦の生誕地

 仏教は世界三大宗教の1つで、信者は東アジアを中心に35000万人以上に及ぶ。

 開祖である釈迦の生年は不明で、ネパール当局は「紀元前623年」説を支持するが、ほかにもさまざまな伝承があり、「紀元前400年前後」とする説も有力だ。いずれにせよ、古代インドのアショーカ王が巡礼を行った紀元前249年の段階で、ルンビニが仏教の聖地として尊ばれていたことは誰もが認めている。その後に寂れてしまうが、釈迦の母マーヤー・デーヴィーの名を冠したマーヤー・デーヴィー寺院などの遺跡が1896年に発見され再び表舞台に登場、現在は世界遺産(文化遺産)に登録されている。巡礼者や観光客による損傷を懸念したユネスコは、ネパール政府や日本政府の協力の下、カニンガム氏を中心とする国際的な研究チームを結成してルンビニ遺跡の状態を調査。今回の地下遺跡の発掘につながった。

◆古代の木造寺院

カニンガム氏は、「レンガ造りの寺院の地下に、柱穴が見つかった。欄干が木造寺院を囲んでいた証拠だ。また、地上よりも古いレンガ構造も埋もれていた」と語る。

柱穴から採取した木炭を、複数の年代測定法(放射性炭素法と光ルミネセンス法(OSL))で調査したところ、紀元前550年前後に遡ると判明。

「さまざまな発掘品から判断すると、この地で耕作が興ったのが紀元前1000年前後で、紀元前6世紀までには仏教僧のコミュニティーが出来上がっていたと考えられる」。

◆学界の反応

イギリスのレスター大学の考古学者ルース・ヤング(Ruth Young)氏は、「非常に興味深い成果で、アショーカ王の時代よりも数世紀前に仏教が勃興していたことになる」と評価する。

 

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■新曽妙顕寺2(埼玉県生涯学習文化財課)

 

□文化財指定時の鑑定報告書があると言った埼玉県教育局生涯学習文化財課の係官

 

さて午前中に埼玉県庁に電話し、担当部署である埼玉県教育局市町村後援部生涯学習文化財課につないでもらいました。私は、埼玉県戸田市の新曽妙顕寺に格蔵される日向記が埼玉県文化財に指定されているが、日向記は日蓮宗でも疑義が強く「偽書」としていること。そういう文書をなぜ埼玉県文化財に指定したのか、その経緯について尋ねました。すると担当者は、しどろもどろになり、日向記が真筆か偽書かについては回答が混乱。あげくのはては「真書かどうかよりも、その文書の存在感の大きさによって、文化財指定もあり得る」と、ずいぶん後退した返事。そこで

「それは、おかしいのではないか。少なくとも一般の人は、埼玉県文化財に指定されている古文書ということであれば、これを真書と解釈しますよ」「埼玉県は、日向記を真書として県文化財に指定したのか、それとも真書ん偽書かよりも、存在感が大きいから県文化財に指定したのか。文化財指定の根拠を教えて下さい」と、食い下がった。すると担当者は、「文化財指定は、昭和27(1952)のことですが、当時の担当者が鑑定した報告書があり、真書と書いています」との返事。

「ならば、その報告書をお見せ願えませんか。又、その報告書のコピーを取らせていただいて、私にお渡し願えませんか」と言うと、「それはかまいません」との返事。

とにかく埼玉県庁の担当者は、私との面会を承諾し、文化財指定の時の鑑定報告書のコピーを渡してもよいとの返事だったので、即刻、埼玉県教育局市町村後援部生涯学習文化財課がある埼玉県庁職員会館に直行することにしました。

埼玉県庁は、埼玉県さいたま市にありますが、さいたま市は「平成の大合併」で、大宮市、浦和市、与野市が合併してできた「市」で、埼玉県庁がある所は旧浦和市になる。最寄り駅はJR浦和駅。

今はJR浦和駅は、京浜東北線、東北・高崎線のホームの他に湘南新宿ラインのホームができているが、私が埼玉県庁に行った時は、湘南新宿ラインのホーム新設工事中。もともと湘南新宿ラインは、東北貨物線を走る電車で浦和駅には、元々ホームがなかった。というわけで、JR新宿駅から湘南新宿ラインの電車に乗って、一旦、赤羽駅で東北・高崎線の電車に乗り換え。埼玉県庁は、JR浦和駅から徒歩15分くらいのところにありますが、私は駅前からタクシーで埼玉県庁へ。埼玉県庁職員会館に担当部課があり、入って行くと係官二人が応対に。

一人は中年男性の指定文化財保護担当・I主幹。もう一人は女性で同じくの指定文化財保護担当・M主査。名刺交換すると、中年男性のI主幹は、私の名刺を見て、なぜか真っ青に。教育局市町村後援部生涯学習文化財課がある部屋は、ものすごく広い部屋で、そこには何十人もの職員が机を並べて仕事をしているのですが、私と二人の面談がはじまると、他の職員は仕事の手を止めて、面談の成り行きを固唾を呑んで見守っているのが、わかりました。

 

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■新曽妙顕寺1(県文化財に指定した案内板)

 

□埼玉県が「日向記」を県文化財に指定した旨の不可解な記述の案内板が建つ新曽妙顕寺

 

新曽妙顕寺とは、埼玉県戸田市新曽にある日蓮宗寺院。日蓮宗には大本山・京都妙顕寺、本山・佐野妙顕寺と、同名の「妙顕寺」寺号を名乗る寺院があるため、これらと区別するために、関係者の間では、地名をとって新曽(にいぞ)妙顕寺とよばれている古刹寺院である。

なぜここに来ることになったのかと言うと、日蓮真筆の大曼荼羅本尊を調査していく中で、新曽妙顕寺に立正安国会「日蓮真蹟御本尊集」に載っている大曼荼羅本尊、佐渡阿闍梨日向授与の「子安曼荼羅」が格蔵されていることが判明。それでこの新曽妙顕寺を調査していくと、この寺の境内に、戸田市教育委員会が建てた文化財の案内板があることが判明。しかもその戸田市教育委員会が建てた文化財の案内板には、何と佐渡阿闍梨日向が筆記したと伝承される「日向記」が新曽妙顕寺に格蔵されていて、しかもこの「日向記」が埼玉県の文化財に指定されている旨が書いてあることが判明した。

日向記とは、身延山久遠寺二世・佐渡阿闍梨日向が、日蓮の説法を筆録したと伝承する文書で、日蓮宗の「遺文全集」や大石寺版「御書全集」には、「御講聞書」という名前で載っている。

私はかつて日蓮宗の本山貫首猊下に「御講聞書」の真偽について見解を尋ねたところ、日興記とよばれる「御義口伝」も、日向記の「御講聞書」も偽書である、という見解であった。立正大学日蓮教学研究所発行の「遺文全集」にも、「日向記」は日蓮真蹟の欄にはなく、古写本として新曽本が載っている。「新曽本」とは、新曽妙顕寺が格蔵する「日向記」の古写本という意味か。

日蓮宗の見解として、日蓮真蹟とは認めていない「日向記」を、なぜ埼玉県が文化財として指定しているのか。ここが私にとって、大きな関心事であった。

日蓮宗の「遺文全集」には、古写本として新曽本が載っているものの、日蓮宗の本山貫首猊下は偽書だと言う。私も「日向記」は、限りなく偽書に近い文書であると見ている。私が「日向記」を限りなく偽書に近い文書と見ている根拠は、

1 弘安年間に身延山で日蓮が日向に法華経の講義をした史実が確認できない

2 上古の文献・記録に「日向記」が出てこない

3 「日向記」末文の「高祖大聖人御講聞書」とある「高祖大聖人」という言い方への疑問

「高祖大聖人」という言い方は、江戸時代の古文書にはよく見られるものだが、はたして日蓮・日向在世の時代に、日向が「高祖大聖人」という言い方をしたのか、という疑問である。

そういう疑義のある文献を、どうして埼玉県が県の文化財に指定したのか。埼玉県が「日向記」を県の文化財に指定したということは、埼玉県が「日向記」を実質的に真蹟だと認定したことになる。しかも戸田市教育委員会が建てた案内板に、埼玉県が「日向記」を県の文化財に指定した旨が書いてあるとなれば、少なくともこれを読む人は、埼玉県が「日向記」を実質的に真蹟だと認定したと解釈するであろう。

妙顕寺20教育委員会案内板











 

(新曽妙顕寺に建つ戸田市教育委員会の立て看板)

妙顕寺6 











(新曽妙顕寺)

 

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■諸宗山回向院5(鼠小僧次郎吉の墓)

 

□「義賊伝説」で有名な鼠小僧次郎吉の墓がある東京両国・回向院

 

浄土宗寺院・東京両国・回向院には、「義賊伝説」で有名な鼠小僧次郎吉の墓がある。まずこの人は、かつて映画やテレビドラマでよく取り上げられたので、架空の人物ではないかと思われがちだが、鼠小僧次郎吉(17971832)は、れっきとした実在の人物だった。

私の子どもの頃、昭和40年(1965年)に映画『鼠小僧次郎吉』、昭和40年(1965年)-昭和41年(1966年)にかけてテレビドラマ『怪盗ねずみ小僧』があった。さらに鼠小僧次郎吉の娘ないしは孫娘が父ないしは祖父の処刑から数年の時を経て江戸の庶民のために「鼠小僧」の名を受け継ぎ活躍するという、「女ねずみ小僧」という架空の設定のドラマまで造られ、小川真由美主演の『浮世絵 女ねずみ小僧』、『ご存知 女ねずみ小僧』が放送された。「女ねずみ小僧」は、私もテレビでよく見た記憶がありますねえ。また1977年~1980年にかけて放送されたテレビアニメ「ルパン三世」テレビ第二シリーズの24話に、「四代目鼠小僧次郎吉」という設定が登場する。

最近は、鼠小僧次郎吉が映画やテレビドラマ等で取り上げられることは、めっきり少なくなった。というか、CSの時代劇専門チャンネルは、連日、時代劇番組を流しているが、地上波で時代劇番組そのものをめっきり見かけなくなってしまった。というわけで、「鼠小僧って誰?」と思われる方々が多いのではないだろうか。

鼠小僧次郎吉とは、江戸時代後期、文化・文政年間の大泥棒。18041830年の間に、98箇所122回にわたって犯行を行い、しかもほとんどが江戸の大名屋敷に盗みに入った。大名屋敷に盗みに入って、盗んだ金を貧しい庶民にばらまいたという「義賊伝説」が起こり、人気を博した。1832年に捕縛されるまで、途中、1回だけ捕まっただけ。南町奉行所の尋問を受けるが、「初めて盗みに入った」と嘘をついて切り抜け、入墨を入れられた上での中追放の刑を受けただけで終わった。

その後、武家屋敷71箇所、90回にわたって犯行を行っているので、鼠小僧次郎吉の犯行の七割以上が、一回目の捕縛・追放以後のものであることがわかる。これだけ大名屋敷に盗みに入って、捕まらなかったというだけで、江戸の町の大泥棒と言えるだろうし、これだけ鼠小僧次郎吉に盗みに入られて、捕縛できなかった当時の奉行所は、さしずめテレビアニメ「ルパン三世」に出てくる銭形警部さながらである。

鼠小僧次郎吉の素性には、諸説あるが、大坂・堺町の中村座の木戸番の長男、次郎吉であるという説が有力。当初は建具屋として一人前の職人だったが、賭博にはまり、町方の鳶人足になったという。鼠小僧次郎吉が大名屋敷から盗んだ金は、少なくとも三千両以上。現在の貨幣価値にして1億円を超えると言われている。その金のほとんどを呑む、打つ、買うの遊びに使ったとされる。最後は、市中引き回しの上での獄門の判決が下される。引き回しの際には有名人の鼠小僧を一目見ようと野次馬が押し寄せた。処刑は小塚原刑場にて行われた。享年36才であった。

 

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■諸宗山回向院4(回向院相撲・大鉄傘・日大講堂・創価学会本部総会)

 

□江戸時代に今の大相撲の前身である勧進相撲・回向院相撲が行われていた両国回向院

 

江戸時代後期になると、勧進相撲の定場所が回向院に定められ、明治末期までの76年間、いわゆる回向院相撲の時代を日本相撲史上に刻んでいる。回向院には「国技館(大鉄傘)跡」と題する墨田区教育委員会が建てた案内板が建てられていて、そこにはこんなことが書いてある。

「現代の大相撲は、江戸時代の勧進相撲を始まりとします。回向院境内にある『回向院相撲記』には、天保4(1833)から国技館に開催場所が移されるまでの76年間、相撲興行本場所の地であった由来が記されています。国技館は、この回向院境内に明治42(1909)に建設されました。32本の柱をドーム状に集めた鉄骨の建物は、大鉄傘とも呼ばれ、13千人収容の当時最大規模の競技場でした。日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾が設計を監修しました。

相撲興行は、戦後もGHQに接収されていた国技館で行われました。しかし、メモリアルホールと改称された後は、本場所の開催が許されず、明治神宮外苑や浜町公園の仮設国技館での実施を経て、台東区に新設された蔵前国技館における興行に至ります。一方、接収解除後のメモリアルホールは、日本大学講堂となりますが、老朽化のため昭和58(1983)に解体されました。そして同60(1985)、地元の誘致運動が実を結び、JR両国駅北側の貨物操車場跡に新国技館(両国国技館)が完成。「相撲の町両国」が復活しました。大鉄傘跡地は現在、複合商業施設となっていますが、中庭にはタイルの模様で土俵の位置が示されています」

 

相撲そのものの歴史は古く、古墳時代の埴輪等に、その様子が描写されている。『古事記』の垂仁記には、初めて「力士」(ちからひと・すまひひと)の文字が現れる。『日本書紀』の雄略天皇13年(469年)には、最古の女相撲の記録があり、記録上にはじめて「相撲」の文字が出てくる。

平安時代になると、宮中で行われた相撲節会のほかに、民間の相撲も大いに行われ、一般庶民による相撲は「土地相撲」、または「草相撲」と呼ばれ、武士たちの実戦で用いる組み打ちの鍛錬であった「武家相撲」もあった。興行としての相撲が組織化されたのは、江戸時代の始め頃(17世紀)とされる。現在の大相撲は神社仏閣の再興や造営の費用を捻出するための江戸時代初期の勧進相撲に端を発している。勧進(かんじん)とは、仏教の僧侶が衆庶の救済のための布教活動の一環として行う行為の1つのことだが、仏教寺院・仏像などの新造あるいは修復・再建のために浄財の寄付を求める行為のことを指して「勧進」というようになった。勧進相撲の「勧進」は、各国の力士集団が勧進元との契約によって招かれて相撲興行に参加するという形式に由来するものと思われる。これの名残として今でも大相撲地方巡業の主催者のことを勧進元とよぶ。

いわば両国回向院は、今の大相撲発祥の地とも言える所で、1936(昭和11)には、大日本相撲協会が物故力士や年寄りの霊を祀る「力塚」を建立している。

 

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■諸宗山回向院3(善光寺出開帳3)

 

□明暦の大火・地震・飢饉・噴火の犠牲者慰霊塔の中に戦没者の慰霊塔だけがない回向院

 

回向院が創立された起源は、1657年(明暦3年)に江戸の町に起こった「明暦の大火」までさかのぼる。この明暦の大火では、10万人以上の人命が失われたのだったが、その犠牲者の多くは、身元や身寄りのわからない人々。江戸幕府四代将軍・徳川家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るように、隅田川の東岸に土地を与えて「万人塚」という墳墓を設け、無縁仏の冥福を祈る大法要を行った。このときに、念仏を行じる御堂が建てられたのが、回向院の歴史のはじまりである。回向院は正式名を「諸宗山無縁寺回向院」といい、火事や地震の犠牲者、溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が供養されている。

回向院の境内には、明暦の大火の他、安政二年の大地震、天明三年の浅間山噴火、天明三年の信州・上州大地震、天明の奥羽飢饉、関東大震災等の供養塔・慰霊碑が並んでいる。このように様々な供養塔・慰霊碑が並んでいるが、戦没者・戦死者の供養塔がない。1853年(嘉永6年)のペリー来航以降の日本国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」と称して祀るのは靖国神社であり、第二次世界大戦の戦没者の遺骨のうち、遺族に引き渡すことができなかった遺骨を安置しているのが千鳥ケ淵戦没者墓苑である。

靖国神社や千鳥ケ淵戦没者墓苑があるから、回向院では戦没者の供養塔や慰霊碑がないということなのだろうか。回向院は、火事や地震の犠牲者、溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命を供養する寺院ということだが、戦没者の供養塔がないのは「?」と思う。

回向院は浄土宗の寺院であるが、善導の『観経正宗分散善義』巻第四の中の、

「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥に、時節の久近を問はず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」という文に影響されて、日本で専修念仏を唱道したのが浄土宗宗祖・法然。専修念仏とは、仏の救いは念仏を唱える「称名念仏」によって得られるという思想。即ち、ただひたすらに念仏をを唱えることで、いつでも、どこでも、誰でもが平等に阿弥陀仏によって救われて極楽浄土に往生できるという教えは、日本の大衆の心をとらえて、日本全土に弘まった。浄土宗・浄土真宗の教線拡大により、日本全土に「称名念仏」が弘まり、ここから「死んだ人は皆、仏様」という日本人の生死観が生まれた、というのが定説になっている。

日本人の生死観は「死んだ人は皆、仏様」だから、どんな極悪人でも死刑が執行されたら、それ以上は追及しない。実質的にその時点で免罪されてしまう。日本人の生死観は、日本の伝統文化として大衆に深く定着している。源流を法然・浄土宗とすれば少なくとも800年以上の歴史がある。

回向院が、火事や地震の犠牲者、溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命を供養するのは、やはり浄土宗の「死んだ人は皆、仏様」という思想・教え・生死観が源流にあることは、疑いのないところであろう。

回向院12 











(回向院境内に並ぶ明暦大火、安政大地震、浅間山噴火、天明飢饉、関東大震災等の慰霊碑)

回向院10 
















(海難事故犠牲者供養塔の案内板)

 

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■諸宗山回向院2(善光寺出開帳2)

 

2013427日~519日、東京両国・回向院で75年ぶりに行われた善光寺出開帳2

 

念仏堂は、先行参拝券を買いに行ったときは、まだ工事中でしたが、出開帳初日には、しっかり完成・新築になっていました。出開帳・お戒壇巡りの後は、念仏堂の最上階に登って、東北各地寺院の仏像を拝観。今回の出開帳は「東日本大震災復興支援」となっており、被災地の寺院から仏像が下向していた他、善光寺の文化財も出品されていた。念仏堂拝観の後は、本堂に参拝。ここは、お賽銭箱の前に焼香台があり、焼香。

本堂参拝後は、本堂ロビーに祀られていた「びんずる尊者」像に参拝。「びんずる尊者」像とは、今回、初めて善光寺本堂を離れて回向院に下向。「びんずる尊者」像は「撫仏」(なでほとけ)と言われ、病人が自らの患部と同じところを触れることで、その神通力にあやかり治癒するという信仰があるという。「撫仏」の「撫」とは「撫()でる」という意味。賓頭盧(びんずる)尊者とは釈迦如来の十六羅漢の一人で神通力(超能力に近い力)がとても強い人だったと伝承されている。病人が自分の患部と同じところを撫でると病気が治るという信仰があり、善光寺本堂では、いつもたくさんの人が賓頭盧尊者像を触っている。今回、回向院では、びんずる尊者像には、白色のサラシが巻かれていて復幸しゃもじで触るということだったが、私は手でサラシの上から触ってみました。びんずる尊者像は、木像であるが、手で触った感触としては、銅像のような感触。一見して、びんずる尊者像の表情・木像は、真言宗の入定即身仏と、どことなく似ている感じがする。

私としては「びんずる尊者像を触ると病気が治癒する」という話を聞くと、あまりいい気持ちがしない。なんとなく日蓮正宗や創価学会の信者が言う「この信心をすれば病気が治る」等々の非常識な折伏を思い出してしまう。もっともびんずる尊者信仰が非常識だとか言っているのではない。永年の庶民信仰から生まれた「びんずる尊者信仰」に、ケチをつける気など全くない。

宗教とは心の問題とか、心のケアの問題とか言われますが、少なくとも血脈があるとかないとか、「戒壇の大本尊」を拝んだからお金持ちになれるとか、ガンが治るとか、そういうことが宗教の本義ではない。たしかに科学や医療、医学が発達していなかった上古の昔、近代化以前の昔は、人が重い病から回復しようとして宗教にすがった時代があったのかもしれない。あるいは貧困、疫病、戦争、飢饉等に苦しんだ人たちが、宗教にすがった時代があったのかもしれない。しかしそれは、そういう時代だった、人がそうせざるをえなかった時代だったということではないのだろうか。

しかし産業革命等を経て近代に入り、日本でも19世紀以降、人々の生活は近代化され、一般大衆が病気治癒のため、貧困、疫病、飢饉等に苦しむ人が宗教にすがる時代は終焉を迎えたのではないだろうか。宗教にすがる時代は終焉したが、しかし心の問題を始め、科学や医療、学問でも解決できない問題があることは事実で、今の宗教は、近代化以前の昔とはちがった形、違った役目を負っているのではないだろうか。

出開帳9 











(善光寺出開帳が行われた東京両国・回向院)

 

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