一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは英昭彦が2005年11月に設立した会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。富士門流執着軍団批判は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄だが、「日蓮正宗系」以外の富士門流寺院の調査・研究は「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」の管轄。
「一般社団法人 仏教宗学研究会」への誹謗中傷に対する反撃・糾弾は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
さらに正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」の公式サイト「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」から、カルト宗教対策、カルト宗教取締特別立法、カルト宗教拡散防止条約制定の活動部分を独立させたものが「国際カルト宗教対策委員会(Icat-Cult)」

□正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」(アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ)
http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/
□正式名「国際カルト宗教対策委員会・International Committee AgainsT Cult」略称名「ICAT-CULTアイキャットカルト・ICATアイキャット」
http://international-committee-against-cult.doorblog.jp/

<注意事項>
□「「3ブログ」は言論の自由・表現の自由のサイトであり名誉毀損・誹謗中傷・業務妨害サイトではない」
http://bukkyoshugakukenkyukai.doorblog.jp/archives/49127458.html
□「アンチ日蓮正宗」「仏教宗学研究会」の記事・写真の無断転載、無断使用、無断複製は厳禁です
http://bukkyoshugakukenkyukai.doorblog.jp/archives/21043083.html
□英昭彦以外の者が他のインターネットサイト・SNS・他の著作物等で「仏教宗学研究会」管理人「英 昭彦」を名乗ることを厳禁する

□管理人の連絡先
(mobile)
080-6553-2774

(FAX)
03-6325-7926
(PC)
bukkyoshugaku_kenkyukai@jcom.zaq.ne.jp
(管理人名)英昭彦(hide_akihiko)

■中谷山妙本寺(保田妙本寺)4(保田妙本寺・松本勝弥グループ潰しの謀略戦争2)

 

□室町時代の頃から大石寺9世日有偽作教学のお追従をしてきた保田妙本寺歴代貫首

 

保田妙本寺では、室町時代に11世日要、14世日我等の学者貫首を輩出して、冨士門流でも独自の妙本寺教学を展開したが、その内容は、保田妙本寺11世日要による大石寺9世日有が唱えた「事の戒壇」へのお追従、さらには百六箇抄、本因妙抄等を中心に日蓮本仏義を立てるもので、大石寺教学とほとんど同じと言える。保田妙本寺14世日我も、自らの著書で「久遠寺の板本尊、今大石寺に在り。大聖人存日の時の造立なり」などと、大石寺の「戒壇の大本尊」を肯定してしまっている。よって保田妙本寺歴代貫首の教学となると、「万年救護の大本尊・日蓮本懐説」どころか、少なくとも室町時代には、大石寺9世日有の教学と、ほとんど大差ないものになっている。

又、江戸時代の17世紀後半、保田妙本寺貫首・日濃により「万年救護の大本尊」が寺外に持ち出され、質入れされるという重大事件が起きている。「万年救護の大本尊」は上古の昔から保田妙本寺が格蔵してきた重宝本尊ではあったが、保田妙本寺の歴代貫首は「万年救護の大本尊・日蓮本懐説」までは誰も唱えてはいない。

その保田妙本寺は50世富士日照貫首の代、昭和32(1957)4月、本山妙本寺と末寺・本顕寺、本乗寺、顕徳寺、遠本寺の本山末寺4ヶ寺が日蓮正宗に合同した。時の大石寺法主は第65世堀米日淳であり、戸田城聖が在世の「折伏大進撃」で信徒数を急激に増加させていた時代である。

千葉・本顕寺住職・佐野知道氏が平成791日付け「継命」に寄せた寄稿論文によれば、保田妙本寺は日蓮正宗との合同当初から、大石寺とはかつて冨士門流八本山で日蓮宗興門派を造った経緯もあり、法的立場とは別に、寺格は大石寺と同等とされた、とする。この佐野知道氏の「大石寺・保田妙本寺対等寺格説」は、あながち間違いだとは言えない。なぜならば、昭和32(1957)830日、日向本山定善寺で執り行われた「日蓮正宗帰一奉告法要」にて、保田妙本寺50世富士日照貫首が列席して、「奉告文」を奉読しているが、その中で保田妙本寺50世富士日照貫首は、最後の一文に「日蓮正宗本山妙本寺第五十世嗣法日照」と記している。

「嗣法」とは日本国語大辞典によれば「仏語。法統を受けつぐこと。弟子が師の法をつぐこと。また、その弟子。禅家でいう。」と載っている。日蓮正宗でも「嗣法」という語句を使うが、通例は大石寺法主のみが使う仏語である。また富士日照貫首は「奉告文」の中で、「本因妙の教主南無日蓮大聖人、御開山日興上人日目上人、久妙両山開基日郷上人等来臨影響知見照覧の御宝前に於いて謹んで言さく…」と述べており、大石寺歴代法主の法系譜ではなく、保田妙本寺・小泉久遠寺の法系譜を述べている。つまり保田妙本寺・小泉久遠寺の法系譜の「嗣法」という意味を述べていると思われるが、この日向本山定善寺の「日蓮正宗帰一奉告法要」には大石寺65世堀米日淳法主が下向して「慶讃文」を自ら奉読している。つまり堀米日淳法主来臨の法要で、富士日照貫首は保田妙本寺・小泉久遠寺の法系譜を奉告文で読み上げて「嗣法」と称しているわけだから、大石寺も実質的に保田妙本寺に対して、同格の寺格を黙認していたものと思われる。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

□戦争に明け暮れていた時代の中で生まれた「平和の祭典」古代オリンピック・近代オリンピック

 

日本時間の98日午前5時、ブエノスアイレスで開かれていた国際オリンピック委員会総会は、2020年の夏季オリンピック開催地を東京に決定。私のまわりでも、夜通し、テレビやインターネットのニュースを注目していた人がたくさんいました。

近代オリンピックとは、国際オリンピック委員会(IOC)が夏季と冬季に開催する大会で、これは古代ギリシアのオリンピアの祭典をもとにして、世界的なスポーツ大会を開催する事をフランスのクーベルタン男爵が19世紀末のソルボンヌ大における会議で提唱、決議された。

古代オリンピックとは、古代ギリシアのエーリス地方、オリュンピアで4年に1回行われた当時最大級の競技会であり、祭典。紀元前9世紀から紀元後4世紀にかけて行われていた。もともとオリンピア祭は、ギリシャ神話に出てくるものだという。

近代オリンピックの元になった古代オリンピックの起源であるが、

「伝染病の蔓延に困ったエーリス王・イーピトスがアポローン神殿で伺いを立ててみたところ、争いをやめ、競技会を復活せよ、という啓示を得た。イーピトスはこのとおり競技会を復活させることにし、仲の悪かったスパルタ王・リュクールゴスと協定を結んだ。こうしてエーリス領地内のオリュンピアで始まったオリンピックだが、最初のうちの記録は残っていない。記録に残る最初のオリュンピア祭は、紀元前776年に行われた。古代オリンピックの回数を数えるときには、この大会をもって第1回と数えるのが通例である。」(古代オリンピック・フリー百科事典・Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF

私の子どもの頃、たしか学校で「昔のヨーロッパは戦争ばかりやっていたので、4年に1度は戦争をやめてスポーツの祭典をやろう、ということではじまったのがオリンピック」と教わった記憶がある。古代オリンピックの主旨としては、そんなにまちがった教わり方ではなかったように思う。

1896年のアテネ大会からはじまった近代オリンピックは、今や平和の祭典の象徴のようになった感がある。19世紀といえば、まさにアメリカもヨーロッパも戦争に明け暮れていた時代のこと。だから、古代オリンピックも近代オリンピックも、戦争に明け暮れていた時代の中で生まれた「平和の祭典」という言い方ができるのではないか。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■中谷山妙本寺(保田妙本寺)3(保田妙本寺・松本勝弥グループ潰しの謀略戦争1)

 

□創価学会・山崎師団による保田妙本寺・松本勝弥グループ潰しの『謀略戦争』の顛末1

 

元創価学会顧問弁護士・山崎正友氏が池田大作に反旗を翻した後に執筆した告発本「闇の帝王・池田大作をあばく」の中で、1972(昭和47)当時、「山崎師団」が全力で「松本潰し」の謀略活動を展開した具体的な内容について、詳しく執筆している。

「ショッキングな学会批判書

昭和47(1972)10月、“蓮悟空”なるペンネームで、『変質した創価学会』という題名の学会批判書が出版された。調査の結果、筆者は、ルポライターのI氏とわかったが、情報提供者は当時民音職員であった松本勝弥氏夫妻、東洋物産社員梶谷氏、それに聖教新聞記者数名であると確認できた。創価学会にとっては、大幹部で、本部職員でもある人たちの、まことにショッキングな、造反であり、内部告発であった。引きつづいて、松本勝弥氏らは集団で、“正本堂御供養金返還訴訟”を提起した。公然と反旗を翻したわけである。この松本勝弥氏夫妻は、(日蓮正宗)総本山大石寺の戒壇の大御本尊はにせものであり、保田妙本寺の“万年救護の御本尊”こそ、ほんものである、という信仰上の立場をとり、創価学会にとっては、まさに異端であった。(松本勝弥氏の)夫人のほうは、すでに1年前に創価学会を退会している。創価学会の中枢である本部の職員(民音など、外郭団体も本部職員と考えられており、本社や事務所にはそれぞれ仏間があり、池田専用室があり、朝礼のときは、池田大作の指導が伝えられ、信仰の指導が行われていた)が、宗教上、異端をとなえていて、なおかつ、職場に居座っていられるものか。それを許していて良いものか。少なくとも、本部全体の士気に重大な影響を及ぼし、かつ会員に不信と動揺を与えることだけは事実だった。とにかく

『学会の内情をすっぱ抜く男を本部職員で置いていたら何をされるかわからない。信心指導もできない』というのが本部側の悩みなら、

『民音といっても、我々(創価学会員)が御供養の精神で歌謡ショウなどの券を買って支えている。その金で、謗法の人間を養って良いのか』というのが、学会員の不満だった。結局、何としてでも(松本勝弥氏を民音から)追い出そうということになった。その作戦と行動すべてについて私(※山崎正友氏)が指揮をとった。松本氏の側は、これを見越して、何とか居座って内部攪乱をしようとの作戦に来た」(山崎正友氏の著書『闇の帝王・池田大作をあばく』p186188)

 

松本勝弥氏は「大石寺の『戒壇の大本尊』はニセ物であり、保田妙本寺に格蔵されている『万年救護本尊』が日蓮の出世の本懐であるから、正本堂の供養金を返還せよ」と主張し、正本堂供養金返還訴訟を裁判所に提起。保田妙本寺51代貫首・鎌倉日桜氏を抱き込んで、保田妙本寺を日蓮正宗から独立させ、保田妙本寺を「反大石寺・反創価学会」の拠点にしようとした。

松本勝弥告発1 

(山崎正友氏の著書『闇の帝王・池田大作をあばく』)

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

□巨大な経済力を有していた権力者・大寺院のみが成し得た装飾経の代表例「平家納経」

 

東京・上野の東京国立博物館特別展「和様の書」で、「平家納経」「御堂関白記」などを見学してきました。これは713日からずっとつづいていた特別展なのですが、最終日の98日、まさに滑り込みセーフで見学。上野公園の東京国立博物館に行ったのも、久しぶりでした。

東京国立博1 














(東京・上野の東京国立博物館特別展「和様の書」)

この展示は、85件の国宝・重要文化財をはじめ156件の展示で「和様の書」を紹介する特別展。主催は東京国立博物館、読売新聞社、NHKNHKプロモーション。後援は文化庁。

ここに出展された展示の数々は、まさに豪華絢爛で、平安時代の三跡、四大手鑑、三色紙などの名宝の他、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの天下人の書、屏風、蒔絵などの美術工芸品からユネスコの世界記憶遺産に登録された藤原道長の日記「御堂関白記」などなど。平安時代の摂関政治の頂点を極めた藤原道長の自筆日記・国宝「御堂関白記」は、はじめて実見しました。

私が見学に行った日が特別展の最終日で、しかも日曜日ということもあり、ものすごい数の見学者で、展示前はくろだかりの人が立ち止まったままで見学しているため、なかなか思うように見学ができない。こういうのは、数年前に奈良国立博物館の「正倉院展」の見学に行ったときもそうでした。「正倉院展」のものすごい数の見学者にも、驚きました。

私が今回の特別展「和様の書」で見学したかったのは、いわゆる「装飾経」。竹生島経、浅草寺経、久能寺経などさまざまな装飾経が出展されていましたが、最大の目玉展示は国宝「平家納経」である。装飾経とは、仏教で使用される経典のうち、料紙に美麗な装飾を施した経典のこと。紫、紺などの染紙を用い、金銀泥で経文を書写したもの、料紙に金銀泥などで下絵を描き、金銀の箔を散らした上に書写したもの等々があり、一般的に日本の平安時代に権力者や貴族などの発願によって制作された美麗な経典を指す。平安時代には、紺色の紙に金泥で経文を書写する紺紙金字経が数多く制作された。

「装飾経」そのものは、けっこう全国各所で見学してきました。日本で最初の紺紙金字一切経は、白河法皇(10531129)が制作させたものだと言われている。平泉の奥州藤原氏初代清衡が、平和のために発願し、1126年に完成させた紺紙金銀字交書一切経、いわゆる中尊寺経は有名で、紺紙金銀字一切経は約5300巻あり、。そのうち中尊寺には15巻があり、その一部の複製を讃衡蔵で公開している。残りの大半は高野山金剛峯寺が所蔵する。

東北歴史博物館にも、奥州・藤原氏が制作させた紺紙金泥法華経が展示されている。東北歴史博物館の展示説明文によれば「(奥州・藤原氏は、平泉の)中尊寺や毛越寺などに都(京都)の流行を採り入れ、多大な財力を注いでいる。中には、工芸技術の枠を集めた中尊寺金色堂や紺色(こんいろ)の用紙に金字と銀字で書き写した一切経(紺紙金泥のお経)など、都にさえ見られないものがあった」とあり、当時まだ、紺紙金泥のお経は京都にもなかったと書いてある。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■中谷山妙本寺(保田妙本寺)2(鎌倉日桜貫首と檀徒の会話を電話盗聴)

 

□保田妙本寺51代鎌倉日桜貫首と檀徒の会話を電話盗聴していた創価学会・山崎師団

 

1970(昭和45)1972(昭和47)年にかけて、松本勝弥氏は「大石寺の『戒壇の大本尊』はニセ物であり、保田妙本寺に格蔵されている『万年救護本尊』が日蓮の出世の本懐であるから、正本堂の供養金を返還せよ」と主張し、正本堂供養金返還訴訟を裁判所に提起。保田妙本寺51代貫首・鎌倉日桜氏を抱き込んで、保田妙本寺を日蓮正宗から独立させ、保田妙本寺を「反大石寺・反創価学会」の拠点にしようとする運動をはじめた。

これに日蓮正宗大石寺・創価学会が神経をとがらせ、松本勝弥氏らを日蓮正宗信徒・創価学会会員から除名して対抗。創価学会は、顧問弁護士・山崎正友氏をリーダーとする「山崎師団」が、全力で「松本潰し」の謀略活動を展開し、保田妙本寺51代貫首・鎌倉日桜氏と松本勝弥氏らの反日蓮正宗・反創価学会グループの分断をはかった。このあたりの創価学会側の経緯を、当時の「山崎師団」を率いていた山崎正友氏が、著書「盗聴教団」の中で次のように告発している。

「昭和47(1972)10月、正本堂落慶法要終了直後、松本勝弥氏らの、いわゆる“蓮悟空事件”がおこった。“蓮悟空”というペンネームで、生々しい内部告発書が出版され、同時に“正本堂御供養金返還訴訟”が提起された。これと関連して、保田妙本寺(千葉県)という寺院が、檀徒をつのって日蓮正宗より離脱しようとする動きを見せた。その背後に、他宗派の扇動や脱退者の動きが見られた。さらに、昭和45(1970)以来、反学会運動をつづけてきた“創対連”(創価学会対策連盟)が、好機到来とばかり、やはり、全国的に“御供養金返還運動”を起こすべく、積極的な運動に乗り出した。…

保田妙本寺には、昭和48(1973)ごろから、数ヶ月間、門前の栄光建設株式会社(学会外郭企業)の飯場の二階の一室をアジトとし、電話盗聴、発信器による盗聴、見張り、追跡などを行った。飯場を借りることは、北条副会長(※北条浩四代会長・当時は副会長)が手を打ってくれた。そこに竹岡、北条の両名が盗聴器と録音機材とともに自炊道具を持ち込み、住み込んでことに当たった。電話盗聴は、宮本顕治宅とまったく同じ手口を用いた。すなわち、門前の電柱にある端子取り付け器に発信機を取り付けた。盗聴した内容は、まとめてカセットテープにダビングされ、私のもとに送られるが、重要な内容のときは、ただちに電話で直接、私のところに送られた。

このときは、失敗はなかった。盗聴され、録音された内容は、住職(※保田妙本寺51代貫首・鎌倉日桜氏のこと)と松本勝弥氏夫人の会話、その他、反学会的人物で、妙本寺(※保田妙本寺)に集まっていた人物との会話など、多岐にわたった。住職(※保田妙本寺51代貫首・鎌倉日桜氏)が北条副会長や私たちと会い、懐柔工作に応じるむね返事をして帰った後の会話などは、特に興味深かった」(山崎正友氏の著書『盗聴教団』p5354)

盗聴教団1 

((山崎正友氏の著書『盗聴教団』)

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■中谷山妙本寺(保田妙本寺)1(松本勝弥・万年講事件)

 

1995(平成7)年に再び日蓮正宗から離脱独立して単立になった保田妙本寺と末寺2ヶ寺

 

東京駅からJR内房線の特急さざなみ号に乗り、JR保田駅で下車。国道を2キロほど道沿いに南下。JR内房線の妙本寺踏切をわたると、すぐに大本山妙本寺の山門がある。

もともとこの寺院は、日興の弟子・新六僧の一人である日郷を開祖とした日郷門流の寺院で、日興門流(富士門流)八本山のひとつであるが、1957(昭和32)4月、50代貫首・富士日照氏のときに旧末寺4ケ寺とともに、日蓮宗を離れ、日蓮正宗に合同した。

その後、51代貫首・鎌倉日桜氏の代になり、松本勝弥氏の正本堂供養金返還訴訟、万年講問題を経て、1995(平成7)年、再び日蓮正宗から独立して、単立の寺院になった。日蓮正宗の時には、「日蓮正宗本山妙本寺」という看板を出し、中谷山妙本寺と名乗っていたが、独立後は「大本山妙本寺」という看板を出している。

この保田妙本寺という寺院は、切り立った山肌の斜面を開拓したような土地になっていて、境内地には客殿、御影堂と二つの大きな堂宇が建っている。一角には宝物庫もある。背後の山の斜面や谷間の上のほうには、墓地が造成されている。墓地に入ってみると「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」と書かれた墓石も見られる。建物には鶴丸の紋が見える。これは日蓮正宗の紋かと思っていたら、そうではなく、日興門流の紋ということらしい。

保田妙本寺は、日郷が開創して以来、660年の歳月が経っているが、境内地の建物は、どれもこれも、長年の風雨に耐えた跡がよく見えるものばかり。それだけ、歴史を感じさせてくれる。

保田妙本寺では毎年1015日に、宝物のお風入れ、虫払い法要が行われる。日蓮真筆の万年救護本尊や日興、日目、日郷の本尊、古文書などを拝観することができる。妙本寺には開創以来の膨大な量の古文書が眠っており、千葉県史の研究家、学者も、妙本寺文書の研究をつづけている。そういった関係から、1015日の虫払い法要には、保田妙本寺の信者以外の研究家、学者たちが多数、妙本寺を訪れるという。保田妙本寺の古文書・重宝類の調査・研究を手がけている学者の一人が、千葉大学大学院人文社会科学研究科教授・文学博士の佐藤博信氏である。

保田妙本寺は、長く51代貫首・鎌倉日桜氏(19082009)が貫首職を務めていたが、鎌倉日桜貫首の晩年は対外的な応対は息子の鎌倉日誠氏が代行していた。鎌倉日桜氏は2009年に101才で死去。現在は52代貫首・鎌倉日誠氏の代になっている。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

連日、猛暑が続く東京都心で蝉の鳴き声が聞こえてきました。

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」とは、あの有名な松尾芭蕉の奥の細道の俳句。

松尾芭蕉が訪れた山形・立石寺に、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句碑があります。

山形の立石寺(山寺)に行った時のことを思い出してしまいました。立石寺に行ったのは、5年くらい前のことなのですが。

山寺10


山寺8 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■京都・建仁寺2(栄西禅師の正墓がある子院・開山堂)

 

□江戸時代初期の画家・俵屋宗達の最高傑作「風神雷神図屏風」を格蔵する建仁寺

 

建仁寺とは、臨済宗建仁寺派の大本山で、日本の臨済宗大本山の中では最も古い。鎌倉時代の建仁2(1202)の開創で、寺号は当時の年号である「建仁」から名付けられている。山号は「東山」と書いて「とうざん」と読む。創建当時の年号を寺号にした寺院は、「比叡山延暦寺」「東叡山寛永寺」などの例はあるが、数としては極めて少ない。開基は鎌倉幕府二代将軍・源頼家になっているが、創建当時の年号が寺号になっていることで、建仁寺が天皇勅許の寺であることを、強く臭わせている。建仁寺の諸堂は、中国の百丈山を模して建立されたという。

建仁寺は、創建当初は天台、密教、禅の三宗兼学の寺院だったが、建仁寺第11世・蘭渓道隆の代から、純粋な臨済禅の道場になった。

建仁寺の開山・栄西禅師の名前は、一般的には「えいさい」と読まれているが、建仁寺の寺伝では、「ようさい」と言う。字は明庵(みんなん)、号は千光(せんこう)葉上(ようじょう)という。

栄西禅師は永治元年(1141)、備中国(岡山県)吉備津宮の社家、賀屋氏の子として生まれた。14才で落髪。比叡山で天台密教を修め、その後、二度にわたって入宋を果たし、日本に禅を伝えた。また、中国から茶種を持ち帰って、日本で栽培することを奨励し、喫茶の法を普及せしめた「茶祖」としても有名である。

栄西は二度目の渡宋で臨済宗黄龍派の虚庵懐敬に参禅。建久2(1191)、虚庵懐敬から師道の法を嗣いだという証明である印可を得て帰国。京都では比叡山延暦寺の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難な情勢であった。栄西は九州・博多に聖福寺を建立。のち鎌倉に移って北条政子の援助で正治2(1200)に寿福寺を建立。その2年後の建仁2(1202)、鎌倉幕府2代将軍、源頼家の援助を得て、京都に建仁寺を建立した。

建仁寺で有名なのは、国宝に指定されている「風神雷神図屏風」。これは俵屋宗達の晩年の最高傑作とされる。屏風前面に金箔が押されている。俵屋宗達(生没年不詳)とし、慶長から寛永年間に活動した江戸時代初期の画家。尾形光琳と並び称せられる、江戸時代初期の大画家だが、伝記には不明な点が多く、生没年さえわかっていない。

「風神雷神図屏風」は、建仁寺方丈で見学できるが、通常、展示されているのは、高精細デジタル複製、つまりレプリカである。「なーんだ、レプリカなのか」と思ってしまいがちですが、しかし博物館、資料館等に並ぶ展示の大半は、レプリカだということをご存知だろうか。特に、都道府県立や市町村立の博物館、資料館の展示にレプリカが特に多い。展示品が本物なのか、レプリカなのかについては、展示の説明文に書いてある。「複製」と書いてあったら、それはレプリカだということ。

レプリカが展示されている場合、本物(原画、原本)の所在地も明記されている。「風神雷神図屏風」の場合は、本物は建仁寺格蔵となっているが京都国立博物館に寄託されている。普段は建仁寺でレプリカが展示されている。

建仁寺9 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■京都・建仁寺1(大石寺勅使門は建仁寺等の臨済宗の勅使門のパクリ)

 

□日本の臨済宗では栄西禅師によって創建された最も古い臨済宗の大本山寺院・建仁寺

 

建仁寺とは、臨済宗建仁寺派大本山で、境内は京都有数の繁華街・祇園に最も近い所にある。京都・祇園に近い所にあるせいか、何度か建仁寺に行ったとき、いずれも参拝客がかなりたくさんいた。建仁寺とは、京都五山の第三位。開基は鎌倉幕府二代将軍・源頼家。開山は栄西禅師。

鎌倉時代の建仁二年(1202)に、日本臨済宗開祖・栄西禅師により創建され、年号をとって建仁寺と名付けられた。当初は天台宗、真言宗、禅宗の三宗兼学であったが、十世の円爾弁円、十一世の蘭渓道隆を経て禅宗寺院として確立し、室町時代に禅寺の格付け制度である五山の制の下で、京都五山の第三位になった。

方丈(重要文化財)は、慶長4(1599)に安芸国(広島県)の安国寺から移築された室町時代後期の禅宗方丈建築。鎌倉時代後期の遺構を伝える勅使門(重要文化財)は、扉にある矢の痕跡から「矢根門」とも呼ばれている。

寺宝として俵屋宗達の代表作である「風神雷神図屏風」(国宝)、海北友松の「竹林七賢図」「花鳥図」「雲龍図」など、桃山時代の貴重な屏風図、水墨画、障壁画などの貴重な文化財を所蔵していることで有名。豊臣秀吉を祀る高台寺や八坂の塔のある法観寺は、建仁寺の末寺である。

臨済宗とは、中国禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)のひとつで、唐の臨済義玄(? - 867年)を宗祖とする。臨済宗は、宋時代の中国に渡り学んだ栄西禅師らによって、鎌倉時代に日本に伝えられている。同じ禅宗の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、臨済宗は時の武家政権に支持され、とくに室町幕府により保護されて、五山十刹が生まれた。

日本の臨済宗は、建仁寺派、東福寺派、建長寺派、円覚寺派、南禅寺派、国泰寺派、大徳寺派、向嶽寺派、妙心寺派、天龍寺派、永源寺派、方広寺派、相国寺派、佛通寺派、興聖寺派があるが、建仁寺派は1202年(建仁2年)、中国・宋に渡って帰国した栄西により始まり、栄西は最初に禅の伝統を日本に伝えたということで、日本の臨済宗の中では最も古い。

栄西は、中国から茶を持ち帰り、喫茶を普及した茶祖としても知られ、毎年4月に方丈で行われる「四頭茶礼」は、禅院茶礼の古式を今に伝えている。

臨済宗の大寺院は、伽藍が勅使門、三門、法堂、方丈と一直線に並んでいて、勅使門が表門になっている。しかし勅使門とは、朝廷からの勅使しか通ることが許されない門であり、普段は堅く閉じられている。そうすると参拝客は、表門から入ることができなくなってしまうが、勅使門にむかって左側に、通用口が設けられていて、一般参詣人はここから出入りする。建仁寺の境内は、全て塀で覆われているため、門からしか出入りすることができない。

ところが建仁寺へ参詣する人は、勅使門の通用口から出入りする人は、ほとんどいない。どこから出入りするのかというと、北門と西門である。祇園に近いのは北門で、、タクシーの運転手に「建仁寺の表門に着けて下さい」と言うと、タクシーは建仁寺の北門に着けました。

しかし見た感じとしては、西門のほうが表門に見えなくもない。参詣人の出入りは、祇園に面している北門のほうが圧倒的に多く、西門は繁華街に面していないせいか、出入りは少ない。

建仁寺32北門 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

ご相談やご意見等で、「仏教宗学研究会」管理人のもとに、お電話をいただくことがございます。

管理人は、極力、電話に出るように致しておりますが、どうしても電話に出ることができないことがございます。その理由としましては

1 自動車の運転中の時

2 電車、バス、航空機に乗っている時

3 仕事中の時

4 携帯電話の感度不良の場所にいるとき(山間部、地下、トンネル内、高層ビル、病院、スタジオ、携帯電波を遮断する設備がある所等…)

5 入浴中の時

6 就寝中の時

あとは、セックスしている時でしょうか()

こういったようなことが、あります。ごく一般的な理由かと思います。

夜は22時すぎには、寝てしまうことがよくあります。というわけで、お電話はなるべく夜22時以前の時間帯にお願い致します。

私も20代、30代のころは、深夜の24時すぎまで、よく起きていましたが、今はもう若くありませんので、どうかご了承をお願いします。

 

それと下記のケースは、管理人あてにお電話をいただいても、電話はつながりません。

1 電話番号非通知 □2 公衆電話 □3 電話番号通知不可能

 

これら以外のケースでは、極力、電話に出るように致しております。

尚、ご相談に関しましては、基本的にお電話のみの受付とさせていただいております。メール等でのご相談は受け付けておりません。

電話番号は、今回、facebookページ「仏教宗学研究会」にも載せておきました。

facebookページ「仏教宗学研究会」

https://www.facebook.com/bukkyoushugakukenkyukai

090-8104-2605

よろしくお願い申し上げます。

親鸞2 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■総持寺祖院2(総持寺祖院にもあった富士門流板本尊の原型・曹洞宗の寺位牌・板位牌)

 

□総持寺祖院にもあった日蓮正宗・富士門流板本尊の原型・曹洞宗の寺位牌・板位牌

 

さて曹洞宗大本山永平寺に行ったとき、永平寺の位牌堂である「祠堂殿」の中に入って、その中にある曹洞宗の寺位牌・板位牌を実見。これらの寺位牌・板位牌が日蓮正宗、富士門流寺院の板本尊によく似ている、ということを書いた。この寺位牌・板位牌は、祠堂殿のみならず、法堂や承陽殿にも多数あった。

元々、位牌というものが、禅宗が中国から日本に伝来せしめたものである故か、曹洞宗寺院の位牌堂に入ると、板位牌や寺位牌が多数収蔵されているのを見かけるわけだが、あまりにも形が日蓮正宗や富士門流寺院にある板曼荼羅本尊に似ていることから、日蓮正宗系・富士門流系の板曼荼羅本尊は、禅宗の寺位牌、板位牌のパクリであろうと考えられる、かつて結論づけた。

つまり何らかの形で日蓮宗系、富士門流系の僧侶が曹洞宗の板位牌、寺位牌を知り、表面に曼荼羅を書いた板曼荼羅本尊を造立したものと考えられるわけである。

それではもうひとつの曹洞宗大本山総持寺の位牌はどうなのか、ということになる。

総持寺の場合は、元々は石川県能登にあったのだが、1898年(明治31年)の火災。1911年(明治44年) 現在地の鶴見に移転した。それで元の能登のほうは総持寺祖院となった。

であるから、明治の移転以前の歴代貫首の位牌、鎌倉、室町、戦国、江戸期といった上古の昔の時代の位牌は、鶴見の総持寺ではなく、能登の総持寺祖院にあると考えられたため、能登の総持寺祖院のほうを見学に行きました。

総持寺祖院の法堂にも、位牌を祀る位牌堂がある。そこには数多くの位牌が祀られている。ここで一番大きな位牌は、特別に祀られている総持寺歴代貫首の位牌。歴代貫首の板位牌は、ひときわ大きい。形としては、まさに日蓮正宗や冨士門流の板曼荼羅本尊にそっくりである。

総持寺祖院の位牌堂は、法堂と隣り合わせになっていて、数多くの大きな位牌が祀られ、その位牌にむかって導師席が設定されている。

総持寺祖院での見学でも、永平寺で見学したときのように、曹洞宗の寺位牌・板位牌は形としては、まさに日蓮正宗や冨士門流の板曼荼羅本尊にそっくりである。よって結論としては、日蓮正宗系・富士門流系の板曼荼羅本尊は、曹洞宗の寺位牌、板位牌のパクリであろうことは変わりないと考えられる。

もちろん道元禅師は、鎌倉時代においてすでに鎌倉に下向して北条時頼に授戒し説法しているので、すでに鎌倉時代から曹洞宗の寺位牌、板位牌は鎌倉地方に伝来していたと考えられる。曹洞宗のほうが先に寺位牌、板位牌を伝承せしめているわけだから、パクリをしたのは日蓮正宗や冨士門流のほうであることは明らかである。

位牌堂1総持寺祖院

総持寺1等身位牌1

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■総持寺祖院1(明治31年まで総持寺祖院の場所にあった大本山総持寺)

 

□元々は明治31年までは現在の総持寺祖院の場所にあった曹洞宗大本山総持寺

 

曹洞宗大本山総持寺は、現在は神奈川県横浜市鶴見区にあるが、元々は石川県能登にあったのだが、明治時代に総持寺が能登から鶴見に移転。その能登の総持寺旧跡が総持寺祖院となった。もちろん曹洞宗大本山としての機能も総て、現在は鶴見の総持寺にある。

なぜ能登から鶴見に移転したのかというと、元は1898年(明治31年)の火災。1911年(明治44年) 現在地の鶴見に移転した。私は能登の総持寺祖院も鶴見の総持寺も両方参詣しているが、鶴見のほうが境内が広大で約50haくらいあるという。しかも鶴見の総持寺は、関東平野にありJR鶴見駅前にあるので交通の便もいい。

一方、能登の総持寺祖院のほうは、切り立った山間部にあり、ここへ参詣する交通の便も極めて悪い。現在でも石川県の県都・金沢市から総持寺祖院に行くだけで大変な時間がかかる。

そういう理由からか、総持寺祖院の周辺には、たくさんの旅館が建ち並んでいる。総持寺祖院のある所は、能登半島の山間部にあり、金沢からの特急バスが発着するバスターミナルがある輪島市中心部からも、能登空港からもかなりの距離がある。ここへの日帰りの参詣は出来ないことはないと思うが、かなりむずかしいでしょうね。せっかく総持寺祖院に参詣したのに、滞在時間がわずかになってしまう。だから旅館に泊まって一泊、ということになるでしょうね。

総持寺祖院周辺は、旅館や商店が建ち並ぶ集落になっていて、今も団体参拝等があって、参拝客は旅館に宿泊している様子。ただし本山機能が鶴見に移転してしまっているので、祖院とはいえ、見ていて何となく寂しい感じがする。

高速バスや航空機、空港機能が発達した現代においてすら、こうであるから、鎌倉、室町、戦国、安土桃山、江戸時代のころに、総持寺祖院に参詣する不便さといったら、今よりもはるかにひどかったと言えるのではないだろうか。

方や鶴見のほうは、鶴見駅前にあり、東京、横浜に行くのに交通の便は格段に良い。すでに当時は東京に遷都しており、しかも関東平野に広大な境内ということになれば、やはり本山機能は鶴見へ、ということになるのが必然だったのではないだろうか。

総持寺を能登の地に開いた開祖は、瑩山紹瑾禅師(太祖・常濟大師)。開祖の瑩山禅師(12681325)は、文永5年に越前国生まれ。8才で永平寺に上山し、永平寺3世徹通義介(12191309)について出家している。

永仁元年(1293)、義介に従って大乗寺(金沢市)に移り、正安2(1300)、日本曹洞宗の法脈を明確にした「伝光録」を著す。これは道元禅師の「正法眼蔵」とともに、曹洞宗の宗旨の根本経典とされている。

総持寺別院14 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

私、hideこと「仏教宗学研究会」管理人は、mixiGREE、ツイッター、facebookおよび「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」にて、「日蓮正宗」系団体のニセ板本尊、ニセ曼荼羅、ニセ文書、ニセ教義、ニセ墓、ニセ肉牙等の問題を追及してきておりますが、ここのところ、あっちこっちの日蓮正宗系、創価学会系、富士門流系のブログや掲示板に、ニセ「hide」が出没して、あたかも私が書き込みをしているかのように、数々の謀略工作を行っていると聞き及んでおります。

又、当「仏教宗学研究会のブログ」においても、ニセ「hide」が出没し、悪質なスパム行為を行ったことがありました。これらは、まことに悪質極まりない策略であります。

まずはっきり明言しておかなくてはならないのは、私は、インターネット上のブログや掲示板に、コメントを残すという活動は、昔も今も全く行っておりません。今後とも、そのようなことを行う予定は、一切ございません。

なぜ行わないのか。

最大の理由は、「本物」と「ニセモノ」の区別をはっきりとするためです。

インターネットのブログや掲示板というものは、まことに便利で優れた長所も多々ありますが、反面、短所もある。

それが、ブログや掲示板における投稿者名が、まさに名乗りたい放題であること。

いくらでも、ハンドルネームなど、変えることが出来るし、まさに「ニセモノ」や「なりすまし」など、やりたい放題にできること。

インターネットの技術は年々進化してきているようですが、この欠点・短所については、ほとんど改善が見られないというのは、まことに遺憾なことであります。

したがって、インターネット上の「本物」と「ニセモノ」の区別をはっきりとするため、私はインターネット上のブログや掲示板に、コメントを残すという活動は、全く行っておりません、ということです。

よって、他のブログや掲示板において、私がコメントをしたい場合は、直接、コメントを残すのではなく、自分が主宰するブログ、mixiGREEのコミュニティの掲示板、ないしは日記に引用して、コメントしております。

 

したがいまして、現在、日蓮正宗系、富士門流系のブログや掲示板に、投稿者名「hide」で、書き込みがなされているものは、全て、あたかも私が書き込みしているかのように偽装するニセ「hide」の謀略工作であると断ずるものであります。

又、私自身は、このような悪質な謀略工作を行うニセ「hide」とは全くの無関係であると、明言しておきます。

おそらく、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」で批判されて反論不能に陥った「日蓮正宗」系・「創価学会」系の者、「富士門流」執着軍団の者による仕業ではないかと考えられます。

賢明なる皆様方には、このニセ「hide」の謀略工作に充分にご注意いただくよう、お願い申し上げます。

親鸞2 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■中山法華経寺4(なぜ中山法華経寺で荒行が行われているのか2)

 

□納得してしまった「衆生の苦を知らない僧は衆生を救うことが出来ない」という僧侶の言葉

 

中山法華経寺の塔頭・遠寿院の荒行堂の中をのぞいて見ると、約78人の荒行僧による参拝人の祈祷が行われていました。日蓮宗では、この中山法華経寺の百日荒行を満行した僧は、伝師(でんし)(加持祈祷の師範)から秘法を受け、宗務総長より修法師として任命されるという。

荒行堂は、遠寿院の荒行堂と中山法華経寺本院となりの荒行堂のふたつがある。荒行堂には日程表が掲げられていて、荒行僧と面会日と面会日でない日が決まっている。私が中山法華経寺に参拝に行った日は、ちょうど面会日。そういうことからか、中山法華経寺大荒行堂前も、遠寿院もたくさんの人が詰めかけてきている。

面会日とは、荒行僧と寺族、檀信徒との面会が許される日。そういうわけで参詣人のための祈祷が遠寿院で行われていたということか??

遠寿院前に掲示されていた荒行の日程を見ると、午前2時半に起床し、午後11時就寝。ということは睡眠時間が3時間半しかない。1日の食事は2食で、粥食。あとは水行と読経三昧の修行。

過酷な修行ですね。この荒行の中、死亡してしまう僧が出ることもあるという。その場合は荒行満願の日を待って、荒行満願僧といっしょに荒行堂を出ると聞きました。

まさに荒行堂に入るということは「死」を覚悟して入るということ。そこまで意を決しないと、とても過酷な修行を行う荒行堂には入れないでしょう。

では、なぜここまで過酷な修行をしなければならないのか。

ある人曰く「衆生の苦を知らない僧は衆生を救うことが出来ない」という意味のことを言った人がいた。過酷な修行・難行苦行に身を投じて苦を知るのだという。私は「なるほど」と納得してしまいました。

たしかに僧侶の厳しい修行・難行苦行の苦と、一般衆生の苦は違うという意見もあるかもしれない。が、自ら苦を知ろうと厳しい修行・難行苦行に身を投じる僧を衆生は心から崇拝するのではないだろうか。ということは、難行苦行に身を投じるということは大きな徳行だということでしょう。

中山法華経寺の荒行僧は、大半が若手の僧侶。こういう厳しい修行を満願した僧侶と話をすると「やはり、どこか違うな」と思うことが多々あります。難行苦行に身を投じたたけ、徳を積んでいるということなのでしょう。

荒行2 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■中山法華経寺3(なぜ中山法華経寺で荒行が行われているのか1)

 

□中山法華経寺塔頭遠寿院前にあった荒行堂ができた歴史的経緯を記す看板

 

中山法華経寺で有名なのは、荒行である。荒行堂は中山法華経寺本坊横と塔頭・遠寿院にある。「荒行」とは、過酷なほど厳しい修行ということだが、インターネットで調べると、中山法華経寺の荒行、比叡山延暦寺の千日参篭、インドのヨーガが世界三大荒行として出てくる。

中山法華経寺の荒行よりも比叡山延暦寺の千日参篭のほうが古いようで、源頼家の次男・公暁も千日参篭を行っていたということが1979(昭和54)年に放映されたNHK大河ドラマ「草燃える」に出てくる。岩下志麻演じる北条政子が「どうしてそんなに厳しい修行をしなければならないの」と言って公暁をいたわるシーンが出てくるのが印象に残る。

昨今、浄土真宗大谷派住職と懇談する機会があり、その中で仏教寺院の修行の話が出た。

大谷派住職は、日本仏教界で厳しい修行を行っている寺院として、福井・永平寺、比叡山延暦寺、そして中山法華経寺の荒行を挙げる。中山法華経寺の荒行が「最も厳しい修行だ」という。この住職が「最も厳しい修行だ」というのは、批判して言うのではなく、評価して言うのである。

そこで「浄土真宗はどうなんですか」と聞くと、真宗の場合は、宗門指定の学校、大学で数年間勉強するのが主であるという。「水行とか、滝に打たれるとか、厳しい修行はないのですか」と聞くと、「それはないねえ」との返答。

浄土真宗の場合は、葬儀、法事、命日の月参りで住職が来て読経する「檀家寺」が主であるようで、寺院の法要に参拝する熱心な門徒(信者)は、そんなには聞かない。私の祖母は熱心に真宗寺院の法要や行事に行っていたが、父母の代になると、葬儀、法事や命日の月参りに住職が来るだけになった。

祖母は熱心だったとは言っても、昔からの菩提寺の住職を嫌っていて、祖母の代でも父母の代でも菩提寺住職とトラブルがあった。父母の代になると、菩提寺住職とケンカをして離檀を宣言。その後、葬儀、法事や月参りには、他寺の住職が来ている。

私は特にどこの寺院に帰依するとか、どこの宗派に帰依するという気は全くないので、父親が他界した後は、葬儀にはどこかの寺院住職が来るようにはなると思うが、従前からの住職との繋がりも終焉になると思われる。

僧侶の修行という観点からすると、真宗住職も認めているように、浄土真宗で厳しい修行を行っているなどとは聞いたことがない。もっとも浄土宗、浄土真宗の宗旨は、南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生するという教え。難行苦行を積み重ねて成仏するという宗旨ではないから、そういう厳しい修行は行われていなかったのだと思われる。

それでも真宗大谷派住職の話しに依れば「昔はそれ(南無阿弥陀仏と唱える修行)でよかったんだけども、今はそれだけではダメなんですよ」ということで、いろいろな人生相談に応じたりという活動を行っているという。

遠寿院11荒行堂 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■中山法華経寺2(中山の鬼子母神信仰について)

 

□日蓮の守護神として大衆信仰を集める中山の鬼子母神は偽作・贋作とは次元が異なる

 

中山法華経寺本院から中に入っていくと、中山法華経寺の総受付があり、ここで御開帳、参拝、お札の申し込み。祈願は交通安全に丸印。志料は3000円。

本院から鬼子母神堂へは渡り廊下でつながっていて、徒歩で鬼子母神堂へ。鬼子母神堂の一番奥の間に入って行くと、すでに23人の参詣人が座っていた。中山法華経寺の鬼子母神は、日蓮が小松原法難のとき、鬼子母神が現れて日蓮を守護し、難をのがれたことにちなみ、その後、富木常忍邸に日蓮が滞在中に、日蓮自らが親刻した像と伝承されている。

鬼子母神堂の須弥壇は帳が下がっていて、鬼子母神の姿は見えない。しばらく鬼子母神堂の中で座っていると、後ろからどんどん参拝人が入ってきて、狭い鬼子母神堂の中が、あっという間に満員になった。

その後、若手の僧侶が一人入場してきて、読経、唱題がはじまる。読経していたのは御開帳の導師を務める僧侶だけで、参拝人は皆、だまってすわっている。唱題の時、南無妙法蓮華経と唱えた参拝人が数人いたのみ。

読経がはじまると、須弥壇の帳が開いて鬼子母神が姿を現す。形が小さくてよく見えないのが残念。導師の僧侶は、鬼子母神が祀られている須弥壇に登り、厨子にむかって左側に着座。東側を向いて読経。唱題の後は僧侶の祈祷。参拝人ひとりひとりの名前を僧侶が読み上げて、祈祷の内容を読み上げる。私の所は「英昭彦殿 交通安全…」とこんな感じ。御開帳終了後、導師の僧侶からお札を直接、手渡されました。

日蓮宗新聞社が発行する「日蓮宗本山めぐり」によると、中山法華経寺は日蓮聖人「五勝具足」の法華道場として、日蓮宗では最も古い寺院であるとしている。中山の鬼子母神として有名な鬼子母神像については

「文永元年(1264)、房州小松原において、聖人は地頭、念仏者による襲撃、小松原法難にあわれ、鬼子母神の出現によって一命を救われた。日蓮は中山の地に逃れ鬼子母尊神像を御親刻されたと伝える」

と記している。日蓮宗寺院で鬼子母神像を祀っている寺院は、他にもあり、日像開山の京都妙顕寺、天目開山の佐野妙顕寺にも鬼子母神堂がある。この他、法華宗寺院にも鬼子母神を祀る寺院がいくつも見られる。日蓮宗寺院や法華宗寺院になんで鬼子母神堂があるのかと最初は不思議に思ったが、どうやらこれは、小松原法難で日蓮が東条景信に殺傷されかかったときに、鬼子母神が現れて日蓮を守護したという伝説によるもののようである。

中山法華経寺30本院 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■中山法華経寺1(鬼子母神、日蓮真蹟の格蔵、大荒行で有名な中山法華経寺)

 

富木常忍(日常)開基・日蓮百日百座の説法・本化菩薩の初転法輪の霊跡の中山法華経寺

 

中山・法華経寺は、千葉県市川市中山二丁目にある日蓮宗七大本山の寺院で、正式な名前は正中山法華経寺。中山という地にあることから、通称・中山法華経寺と言われている。鎌倉時代の文応元年(1260年)創立とされている。開基檀那は富木常忍。日蓮・松葉ヶ谷法難の後、富木常忍邸に滞在して百日百座の説法を行ったことから、本化菩薩の初転法輪の霊跡という。

布教活動の中で幾度と無く迫害を受けた日蓮を、下総国千葉氏の家臣であった富木常忍と太田乗明は自分達の所領のある八幡荘に暖かく迎えた。富木は日蓮のために所領の若宮に寺を造営したが、法華寺と名付けられた。又、隣の中山の領主であった太田も自家の持仏堂を寄進し、これは本妙寺と名付けられた。天文14年(1545年)古河公方足利晴氏より「諸法華宗之頂上」という称号が贈られ、この時に法華寺・本妙寺を合わせた「法華経寺」という寺名が誕生。以後、両寺は事実上統合され、「法華経寺」という一つの寺院として認識されるようになっていった。

中山の鬼子母神として、古くから多くの参詣があり、立正安国論や観心本尊抄などの日蓮真蹟を多数所蔵する寺院として、あまりにも有名である。かつて中山法華経寺では、これらの国宝、重要文化財のものを含めた日蓮真筆は、113日、文化の日に年一度だけの「お風入れ」の儀が行われていたが、ここ数年、お風入れの儀は行われていない。まことに残念なことである。

境内地には、「中山大仏」と呼ばれる巨大な釈迦牟尼の仏像や富木常忍(日常)の像がある。フリー百科事典・Wikipediaによると、ここの本尊は祖師堂の日蓮像と鬼子母神堂の鬼子母神ということになっている。

 

富木常忍は千葉氏の文吏としても活動していたために日蓮に紙筆を提供し、その執筆を助けた。日蓮の遺文が同寺に多く遺されているのはその縁であると言われている。中山法華経寺では、百数十にものぼる日蓮真筆の遺文(御書)を格蔵していて、そのうち、重要文化財に指定されているものが61点。中でも観心本尊抄(日蓮真筆)と立正安国論(日蓮真筆)は国宝に指定されている。これらの日蓮真筆は、境内地の聖教殿と呼ばれる堂宇に格蔵されている

中山法華経寺は日蓮筆遺文 56巻を格蔵しているという。

ここに格蔵されている日蓮真筆の遺文の中には、日蓮正宗や創価学会の信者が「戒壇の大本尊」なる板本尊の文証として、金科玉条のように引っ張りだしてくるあの「聖人御難事」も含まれている。それにしても大石寺は、「聖人御難事」という日蓮の遺文が、日蓮の出世の本懐を説き表わすほど重大な遺文なら、どうして日興をはじめ歴代法主は、大石寺のもとに留めようとしなかったのか。「富士一跡門徒存知事」という文書によれば、日興は日蓮の重要な遺文を結集しようとし、それらの存在している場所を書き記しているが、この中に「聖人御難事」は入っていない。「聖人御難事」という遺文は、日興の眼中にはなかったのである。「聖人御難事」が中山法華経寺に格蔵されていること自体、大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊とは、何の関係もないということを物語っているではないか。

中山法華経寺39聖教殿

中山法華経寺37聖教殿 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

20122月にスタートさせた「仏教宗学研究会のブログ」も、20136月で10pvを突破しました。ありがとうございました。

■仏教宗学研究会のブログ

http://bukkyoshugakukenkyukai.doorblog.jp/

 

もうひとつの同じく20122月からスタートさせた「アンチ日蓮正宗オフィシャルブログ」ですが、20136月で20pvを突破しました。ありがとうございました。

■アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/

 

ふたつあわせてアクセス数が30pvを突破したことになります。

今後とも、ますますのご愛読をいただけますよう、よろしくお願い申し上げます。

親鸞2 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■福井・永平寺6(日蓮正宗・富士門流の板本尊は曹洞宗・寺位牌・板位牌のパクリ)

 

永平寺には、もうひとつの見所がある。それは寺位牌、板位牌等の「位牌」である。

位牌は、もともと禅宗が中国から日本に伝承せしめたものというのが定説。曹洞宗はもともと曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の一派で、道元禅師が中国から日本に伝えた宗派である。日本においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つである。だから道元禅師は、日本曹洞宗の宗祖とは言えるが、曹洞宗そのものの宗祖ではない。

さてその永平寺の寺位牌、板位牌等の「位牌」なのだが、日蓮正宗や富士門流の板曼荼羅本尊に実によく似ているのである。位牌というと、個人宅の仏壇に祀られている小型の位牌を連想してしまいがちだが、永平寺にある「位牌」は、そんな小型位牌ではない。もっと大型の寺位牌である。

まず永平寺の法堂に巨大な寺位牌が祀られている。永平寺の見解によれば、法堂が仏教寺院の本堂に該当する堂宇ということだが、その法堂の本尊と向かい合う形で、大きな祭壇が設けられて寺位牌が祀られている。この寺位牌の前に、一般家庭の仏壇でも見かける小型の位牌が祀られている。

永平寺42法堂板位牌 





















この永平寺の寺位牌が、日蓮正宗や富士門流寺院で見かける板曼荼羅本尊に実によく似ている。もちろん永平寺にあるのは寺位牌だから、日蓮の曼荼羅は図顕されていないが、寺位牌の形そのものが、富士門流の板本尊に似ているのである。

48世日量・天保11年4月8日板本尊 

さらに永平寺には位牌堂があり、ここにも寺位牌が祀られている他、おびただしい数の板位牌が収蔵されている。永平寺の位牌堂は「祠堂殿」とよばれている。祠堂殿とは全国各地の末寺寺院による壇信徒の入牌、納骨をする堂宇。特別志納の人による全国各地の位牌が祀られ、追善供養の法要も営まれる。

祠堂殿の中には、二体の寺位牌が祀られていて、これは法堂の寺位牌とほぼ同じ。巨大な寺位牌の形は、日蓮正宗、富士門流寺院の板本尊によく似ている。

永平寺63位牌堂寺位牌


永平寺64位牌堂板位牌

永平寺66位牌堂板位牌 









































それと祠堂殿(位牌堂)の中には、所狭しと板位牌が収蔵されている。

寺位牌も板位牌も、黒漆塗りの金文字。板位牌のほうは寺位牌に比べて、やや小さいが、それでも形は、日蓮正宗や富士門流寺院にある板曼荼羅本尊にそっくりである。

永平寺の板位牌には、もちろん曼荼羅は書いていないが、板位牌の表面に曼荼羅を書けば、そっくりそのまま日蓮正宗や富士門流寺院にある板曼荼羅本尊に早変わりしてしまうくらい。

永平寺の板位牌は、祠堂殿(位牌堂)のみならず、道元禅師の霊骨を祀る承陽殿にもある。

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■福井・永平寺5(道元禅師の真廟がある永平寺承陽殿)

 

曹洞宗大本山永平寺には、日本曹洞宗宗祖で永平寺開祖である道元禅師の霊骨が格蔵・祀られている。道元禅師の霊骨が祀られている堂宇は承陽殿という名の堂宇。承陽殿の名は道元禅師が明治天皇より下賜された「承陽大師」号。そして明治天皇より下賜された「承陽」の勅額に由来する。「承陽」の勅額は承陽殿の拝殿に掲げられている。

承陽殿に隣接している孤雲閣は、道元禅師に給仕した永平寺2世孤雲懐弉禅師に由来する。孤雲懐弉禅師は、道元禅師の生前、滅後にわたって側に在って給仕孝順を尽くした。それにちなんで、孤雲閣は、道元禅師真廟に奉仕する修行僧の詰め所になっている。孤雲閣には僧侶が常勤し、未来永世にわたって道元禅師に給仕する姿をあらわしている。

そういえば身延山久遠寺に日蓮の真骨堂があるが、久遠寺法主をはじめ、日蓮宗僧俗が常に日蓮に給仕奉仕する意味があるという。

仏教各宗派の宗祖の真廟・正墓は、宗派にとって最も大切な所であり、各宗派とも宗祖に未来永世にわたって給仕奉仕する意味を持たせているのは、至極当然のことと思う。法然の真廟は京都知恩院の他、数十ヶ寺にあり、親鸞の真廟は西大谷、東大谷、浄興寺等にある。栄西の真廟は建仁寺にあり、日蓮の真廟は身延山久遠寺の他、鎌倉本覚寺、京都妙伝寺等にある。伝教大師最澄の真廟は比叡山延暦寺にあり、弘法大師空海の真廟は高野山にある。

それぞれの仏教各宗派の総本山、祖山といわれる寺院に真廟がある。

永平寺承陽殿は、宗祖・道元禅師の真骨を祀る真廟。明治14(1881)に改築された。

正面壇上奥に道元禅師、永平寺2世孤雲懐弉禅師の像と霊骨を奉安する。さらに永平寺3世、4世、5世ならびに宝山禅師の像を祀っている。承陽殿内には、本山歴代禅師、宗門寺院住職の位牌が祀られている。

 

さて承陽殿下段右側には「玄明首座」という位牌が祀られている。

1247(宝治1)83日、道元は鎌倉に下向し、北条時頼に菩薩戒を授け俗弟子のために説法した。北条時頼は寺院を建立して道元を招請したが、これを辞退。さらに北条時頼は、越前国に2000石の寺領を寄進したが、道元はこれも辞退した。道元に随行した玄明首座は、この寄進状の使いにあてられ、永平寺に帰って自分の売名を大衆僧俗に得意になって語ったという。

これを聞いた道元は、玄明首座の態度を罰し、堂内より擯出し、玄明首座の座禅をしていた僧堂の縁を切り取り、土台の土七尺も掘って捨てたという。

1902(明治35)5月、道元禅師650遠忌に明治天皇より「承陽」の勅額が下賜され、道元650遠忌大法要に出仕した高僧10名が発願して時の永平寺貫首・森田悟由禅師に玄明首座の恩赦を請願。森田悟由禅師が玄明首座に代わって道元禅師真前にて大展懺悔を行った。

これで何と650年ぶりに玄明首座の破門追放が赦免されることになった。

承陽殿に祀られている位牌の裏には、その由来が書かれているという。滅後650年において、後世の貫首によって破門が許されたというのも、珍しいケースであると同時に、注目に値すると思われる。この逸話から、道元禅師という人が、かなり厳格な人柄だったことが窺える。

永平寺52承陽殿 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■福井・永平寺4(なぜ仏教寺院で厳しい修行が行われているのか)

 

仏教界の厳しい修行と言うと、永平寺の修行、比叡山延暦寺の千日参篭、中山法華経寺の百日大荒行とかが話題に上る。この他にも厳しい修行を行っている宗派や寺院があると思う。

私は子どもの頃から、僧侶が身近にいて、「僧侶は厳しい修行をしている」と聞かされた。だから、私は、「僧侶は厳しい修行をしているものなのだ」と、当たり前のように思っていた。

ただし、私の身近にいたのは、永平寺の僧侶ではなく、浄土真宗大谷派(東本願寺)の僧侶。

私は小学生の頃、習字を習っていたが、その習字の先生が真宗大谷派の地元寺院A寺住職。私の祖父の通夜・葬儀が行われたのが、真宗大谷派の地元寺院B寺。葬儀の導師を勤めたのが、金沢市内にある真宗大谷派の寺院C寺住職。さらに毎月1回、実家には真宗大谷派の地元寺院D寺住職がお経をあげに来ていた。そのD寺住職は、私が通っていた中学校の社会科担任教師で教頭だった。高校の社会科教師にも、真宗大谷派の寺院住職がいた。

ただし、永平寺や中山法華経寺と真宗大谷派を比較すると、修行の厳しさが全然違うことを、大谷派住職自らが認めている。真宗大谷派も僧侶は本山に登り、数年間、宗門指定の大学に通って教師になるが、千日の参篭も百日の荒行もない。

北陸地方には真宗大谷派門徒が圧倒的に多く、寺院も無数にたくさんあるが、ほとんどが檀家寺。寺院行事とは言っても、7月のお説教会と11月の報恩講ぐらい。住職も学校の先生兼業で行っている人がかなりいる。私の父ですら「あれじゃあ、門徒は減る一方だろうなあ」と言っているほど。

大谷派住職自身が「昔は南無阿弥陀仏だけでよかったんですが、今はそれだけじゃダメなんですよ」と言っており、いろいろな人の心の悩み事相談に応じる活動等を行っているという。

しかし永平寺や中山法華経寺の厳しい修行・苦行はない。もともと法然・親鸞の教えは「南無阿弥陀仏を唱えれば、どんな悪人でも極楽往生できる」という易行の宗旨だからではないだろうか。

だから私が子どもの頃に聞いた、僧侶の厳しい修行とは、永平寺の修行のことを指していたと思われる。

 

そうすると厳しい仏道修行・難行苦行とは縁遠い世間一般人から見ると

「なぜこんなに厳しい修行をしなければならないのか」「なぜここまで、しなければならないのか」

という疑問が沸く。

永平寺吉祥閣で放映されていたビデオ「永平寺の日々」を観ていたら、永平寺の修行を卒業して下山する若い僧侶が口々に「自分を見つめ直すことができた」「○○ができる人間になった」と言っていた。確かに現代社会では、「自分を見つめ直す」とか「人格を鍛え直す」機会は皆無でしょうね。世間のへそ曲がりな人たちや独善的で心根の曲がった人たちの人格を鍛え直すことができるなら、こういう永平寺の厳しい修行の場に入れてしまうのも一策ではなかろうかと思う。あの「富士門流執着軍団」のへそ曲がりな人たちも、永平寺の厳しい修行によって、少しはまともな人に蘇生できるのではないだろうか。

だから私は、仏教寺院で厳しい修行・難行苦行を行うこと自体、不要とは思わないし、ムダな事とも思わない。心根のねじ曲がった人が、マイナス6度の厳寒の中で、蘇生できたら、こんな結構な話はないではないかと思う。

永平寺21勅使門 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■福井・永平寺3(厳しい修行で有名な永平寺)

 

永平寺吉祥閣の大講堂のモニターテレビで、「永平寺の日々」と題するビデオが連続して放映されている。これはかつて地元福井県のテレビ局・福井テレビが放映したテレビ番組をそのまま録画・ビデオ放映しているもの。吉祥閣の売店カウンターでも、「永平寺の日々」のビデオが販売されていました。

私はこのビデオ映像を何度も見たのですが、永平寺雲水(修行僧)の修行の過酷さが伝わってきます。あたかも自分が修行僧になったかのように、ビデオ映像の世界に、思わず吸い込まれてしまいそうになってしまいます。かなり過酷な修行のようですね。

吉祥閣の待合ロビーにても、かつて福井テレビが永平寺の僧侶の日々をとりあげた番組の録画映像が放映されています。こちらは永平寺大庫院の厨房で、修行僧の食事を作る僧侶を追った映像。こちらの修行も、大変厳しい修行のようです。

福井テレビは、何度も永平寺の修行をとりあげた番組を放映しているようです。

永平寺は、白山の福井県側の山麓にあり、冬はかなり寒い。2月に永平寺に行ったとき、午前6時の気温がマイナス6度。午前9時の気温がマイナス3度。吐く息は真っ白で、境内に積もっている雪がカチカチに凍っていた。この厳寒の永平寺で、若い雲水(修行僧)200人前後、修行している。永平寺に行くと、修行僧がたくさん見かけるが、ほとんどが若い修行僧。年配の修行僧は、見たことがない。しかし年配の人が、こんな厳寒の寺院で修行すると、かなり危険な気がします。

永平寺の修行が厳しいと言われているのは、冬の厳しい寒さの中で修行していることが挙げられるのではないだろうか。

さて永平寺境内を見学して歩いていると、あっちこっちから若い修行僧の元気のいい声が聞こえてきて、活気を感じる。修行僧と言葉を交わしても、まことに丁寧な話し方で、「さすがは、永平寺で修行を重ねている僧侶だな」と思う。

永平寺の厳しい修行は、曹洞宗のみならず、仏教各宗派の僧侶の間でも、かなり有名な様子。私も、地元で浄土真宗大谷派の寺院住職に、永平寺について尋ねてみたところ、永平寺の修行の厳しさは、北陸地方でも有名だそうです。その住職の話しによれば、「若い僧侶が永平寺で修業するために、永平寺の門をくぐって入門しても、修行僧の約半分は、あまりの修行の辛さに、逃げ出してしまう」とのこと。もちろん、永平寺の修行を卒業しないと、住職にはなれないという。

その大谷派寺院住職の知人に永平寺の修行を卒業した曹洞宗僧侶が居て、今はベンツに乗っている、と言っている大谷派寺院住職。

永平寺の修行の厳しさは、日本の仏教界でも、上から数えて指折りのランキングの中に入るくらい厳しいとのこと。仏教界で厳しい修行で有名なのは、比叡山延暦寺の千日参篭、中山法華経寺の百日大荒行が有名ですが、「それじゃあ、永平寺の修行は、日本の仏教界で一番厳しいのでしょうか」と尋ねると、「そうではない」という。

永平寺5

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■福井・永平寺2(真冬にはマイナス6度になる厳寒の永平寺)

 

永平寺は道元禅師の開山で1244(寛元2)年の創建。1372(応安5)年に北朝の後円融天皇から「日本曹洞第一道場」との勅額を受けた。1539(天文8)年、後奈良天皇より「日本曹洞第一出世道場」の追認を受けている。

しかし1574(天正2)年に一向一揆の攻撃で全焼。現在の七堂伽藍は、江戸時代中期に再建されたもの。曹洞宗は全国に15000ヶ寺の末寺、800万の壇信徒がおり、永平寺では約150人もの雲水(修行僧)が修行している。

曹洞宗大本山永平寺は、北陸地方では宗派を超えて有名な寺院であり、修学旅行のコースにも入っている。私も小学校だか中学校だか忘れたが、修学旅行でここに来た記憶がある。北陸地方は、室町・戦国時代以降、圧倒的に浄土真宗が多い地域なのだが、北陸地方の人は、一度は永平寺に参拝しているのではないだろうか。それくらい有名な寺院であり、参拝客が多い寺院である。

私も修学旅行は別にして、何度か永平寺に参拝に来ている。独自に寺跡調査に来ているし、2010年には、あの当時、76才だった父親と二人で永平寺に参拝している。20132月にも、厳寒の永平寺に参拝して、寺跡調査を行った。あの時は、早朝、私の実家から車で行ったのでしたが、永平寺に到着したときの気温は、マイナス6度でした。私は普段、東京に住んでいるのですが、東京は真冬でもマイナス6度まで気温が下がるというのは、あり得ません。真冬の一番寒いときでも、気温0度か、下がってもマイナス1度か2度くらい。だから、永平寺の外気温マイナス6度というのは、かなりこたえました。積もっている雪が凍っていましたから。

 

永平寺に参拝する時は、窓口で参拝券を買って吉祥閣という大きな接待堂宇に入って行く。永平寺発刊の正式文献「永平寺」によれば、吉祥閣は、地下一階、地上四階の鉄筋コンクリート造りで冷暖房付きの近代建築。数十億円の巨費を投じて昭和46(1971)春に完成。一階は総受付と売店、ロビー、応接間、伝道部の勧化室がある。伝道部の勧化室で一般参拝者は、係の僧侶から永平寺の概要を聞いて、その後、拝観に出る。

2010年冬に父親と参拝したときに、これがありました。ただし、単独で参拝したときは、これがなかったこともあり、いつもこれを行っているようではない。人数がある程度、集まって行われるようである。

永平寺21勅使門 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■福井・永平寺1(曹洞宗宗祖・道元禅師が開祖である永平寺)

 

永平寺とは、総持寺と並ぶ日本曹洞宗大本山として有名。日本曹洞宗の宗祖は、鎌倉時代に活躍した道元禅師(12001253)で、永平寺の開祖でもある。正式名は吉祥山永平寺。

現貫首は第79世 福山諦法猊下。

永平寺の境内は、約33haあり、かなり広大な境内が白山山麓に広がる。境内には樹齢約700年と言われる老杉が多数見られ、うっそうとした境内の中、大小70余りの堂宇があるとされる。

勅使門、山門、仏殿、法堂、大庫院、承陽殿、僧堂、傘松閣(さんしょうかく)、吉祥閣、浴室、東司、真陽閣、光明蔵、不老閣、 宝蔵等の七堂伽藍が全て回廊で結ばれている。

永平寺の開祖は、曹洞宗の宗祖・道元禅師で1244(寛元2)年の創建。1372(応安5)年に北朝の後円融天皇から「日本曹洞第一道場」との勅額を受けた。

その後、1539(天文8)年、後奈良天皇より「日本曹洞第一出世道場」の追認を受け、1591(天正19)年、後陽成天皇より「日本曹洞の本寺並びに出世道場」の綸旨を受けた。

 

最近、よく話題になるのは、鎌倉仏教ははたして朝廷公認の宗派になったのかどうか、という問題がある。飛鳥、奈良、平安時代には、朝廷公認の戒壇で授戒・度牒を受けた僧侶のみが、仏教僧侶として認められた。平安時代に官寺以外の公認戒壇として、比叡山延暦寺の戒壇が勅許されたが、天台宗vs真言宗、延暦寺vs園城寺等の紛争があり、延暦寺戒壇の分壇が朝廷から認められる。このあたりから「朝廷公認」ということに変化が見られ始める。しかしそれでも、鎌倉・室町時代でも、寺院宗派の「朝廷公認」とか僧侶の「戒壇授戒」を重要視する慣習は強かった。

道元も、中国から日本に曹洞宗を伝来せしめて、日本曹洞宗の開祖になったが、「曹洞宗を朝廷公認宗派にしたい」という考えは持っていたものと考えられる。それは、鎌倉・室町時代においても、朝廷公認か、幕府公認にならない限り、宗派としての生き残りが実質的に不可能だったからだ。

永平寺が、1372(応安5)年に北朝の後円融天皇から「日本曹洞第一道場」との勅額を受けたこと。1539(天文8)年、後奈良天皇より「日本曹洞第一出世道場」の追認を受け、1591(天正19)年、後陽成天皇より「日本曹洞の本寺並びに出世道場」の綸旨を受けたこと等は、こういった時代背景があったものと考えられる。

永平寺7 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■歯の博物館5(歯の博物館・大野館長との質疑応答記4)

 

○私「入れ歯(義歯)とは、いつごろから、あるのでしょうか」

□館長「現在までに発見された最古の木床義歯は、1538年に74才で没した、和歌山県願成寺の仏姫(尼さん)の上顎の総義歯です。これは技術的に完成されており、こうした義歯制作の技術の発生は、それよりも相当以前のものと思われます。木床義歯の製造は、室町時代末期と思われ、鎌倉時代には全国的に普及していたのではないかと思われます。

鎌倉時代以降には、義歯制作を専業とする『入れ歯師』が現れ、江戸時代になるとその技法は完成されました。

江戸時代、入れ歯を制作した者は、入れ歯師と呼ばれ、香具師(やし)の仲間で入れ歯を作ったものを、入れ歯渡世人と呼ばれました。明治初期になって、西洋の義歯が伝えられてからも、木床義歯が喜ばれたのですが、当時の西洋文化を至上とする風潮から価格も安く、技法がむずかしいことから、次第に姿を消していきました。

木床義歯は、床に『つげの木』が使われました。これは口の中で適合性に優れていたためです。前歯には象牙、蝋石、人や動物の歯が使われました。奥歯には金属の鋲が使われ、ひどく摩耗した鋲が見られることから、咀嚼も充分にできていたと考えられます。」

□館長「日本には縄文時代から木の文化をもっていましたが、日本固有の木で作られた義歯は、現在の義歯と比較して、審美的にも実用的にも、遜色のないものが、数百年前には完成していました。この木床義歯(木の入れ歯)は、仏師の手慰みから生まれたものではないかと考えられます」

□館長「江戸時代に義歯をしていた有名人としては、滝沢馬琴、杉田玄白、本居宣長、平賀源内らがいます。また、江戸時代の初期、遊行寺の貫首が総義歯を入れていたという記録が残っています」

 

○私「その当時は、義歯はいくらぐらいしたのでしょうか」

□館長「1831(天保2)94日の馬琴日記によれば、上下の入れ歯の代金が一両三分(1.75)だったと記してあります」

○私「当時としても、かなり高額なものだったと思われるわけですが、上古の時代、義歯を入れていた人とは、どういう人だったのでしょうか」

□館長「江戸時代でも義歯は、かなり高価なものだったようなので、一般庶民が義歯を入れていたとは考えにくいですね。ただし、滝沢馬琴、杉田玄白、本居宣長、平賀源内らが義歯を入れていたということなので、医師、医学関係者、公家、武家、僧侶は義歯を入れていたと考えられます。」

歯の博物館2 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■歯の博物館4(歯の博物館・大野館長との質疑応答記3)

 

○私「歯磨きをするときの歯磨き粉は、いつごろからあるのでしょうか」

□館長「歯磨き粉の製法は、特別な技術とか熟練を必要としないため、自家用として色々と工夫されて造られてきていますが、その起源は明らかではありません。

古代中国では、二十日鼠の骨が愛用され、エジプトでは紀元前1500年ころから、粉歯磨、練歯磨があり、緑青、粘土、乳香等が使われました。

日本で歯磨き粉が商品として量産されるようになったのは、江戸時代に入ってからです。その中で一般的だったものは、房州砂に香料を加えたものでした。麝香(じゃこう)と樟脳を混ぜたものは「麝香歯磨」と呼ばれ、その他、竜脳、肉桂、乳香、没薬等も用いられました。

明治になると、日本古来の材料にかわって、炭酸カルシウムや炭酸マグネシウムが原料として用いられました。そして明治21年、資生堂がはじめて練歯磨を発表しました。大正から昭和にかけては、日本の歯磨きの中国市場への進出はめざましく、中国大陸のいたるところで、獅子印歯磨(ライオン)と仁丹の広告が見られました。昭和20年以降は、葉緑素やフッ素入りのものが登場し、昭和30年ころには、粉末の歯磨き粉はほとんど姿を消しました。また、自家製の歯磨き粉としては、塩や米糠を煎ったものが長く用いられました」

 

○私「歯科治療をする歯医者さんとは、いつごろからいるのでしょうか」

□館長「日本の医学はすでに応神天皇の時代からあり、仏教の伝来と中国・朝鮮から日本に渡来する人が医学を伝えており、医者の祖というべき丹波康頼も、この一人でした。

日本の医療衛生が体系を整えたのは、大宝律令の制定からで、医学は大療科(内科)、創腫科(外科)、少小科(小児科)、耳目口歯科の四つでした。養老2(718)の養老律令の四つの医博士のひとつに、耳目口歯科があります。これが日本の歯科治療のはじめと言われています。

丹波康頼は日本ではじめて医学書である「医心方」(いしんぽう)を著し、永観2(984)に、朝廷に奉献しています。江戸時代の官職としての口科医には、禁裏付と幕府の二つがあり、民間では口腔疾患のみ扱う医師を口中医。入れ歯を造る医師を「はいしゃ」と呼んだのです。

 

○私「上古の時代の歯科治療とは、どういう治療を行っていたのでしょうか」

□館長「縄文時代晩期の人骨からは、若いときに歯を抜いた頭骨が発見されています。これには一定の形式が見られ、医療目的ではなく、成人、結婚、喪、迷信、罰といったことが考えられ、こうした習俗は現在も世界各地に残っています。

又、この時代には前歯に刻みを入れたり、唇面に縦に溝をつける研歯という習俗も見られます。この縄文時代の研歯は、中米の原住民にも見られました。」

神奈川県歯科医師会1 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■歯の博物館3(歯の博物館・大野館長との質疑応答記2)

 

○私「歯磨きをしないと歯周病になる、ということですが、人はいつごろから歯磨きをしているのでしょうか」

□館長「歯磨きは、インドではじまりました。釈迦は僧侶が読経する前に手を洗い、歯木で歯を清掃するよう習慣づけるように指導しました。これは弟子の僧侶の口臭がひどいため、釈迦が戒律として歯を磨くように指導したのです。

釈迦は、歯磨きは、1.口気臭わず、2.味覚がよく、3.熱が消え、4.食が進み、5.眼がよくなる、と五つの利点があると説いたのです。

唐の僧侶・義浄三蔵は、インドで修行して中国に帰り、歯木で歯を清掃する習慣を伝えました。インドでは熱帯性植物『ニーム』という木を使っていましたが、中国には『ニーム』がないため、楊柳が使われて、これが楊枝と呼ばれるようになりました。

中国から朝鮮を経て、552年に日本に仏教が伝来し、釈迦の時代の古法に習って、爵楊枝が日本に紹介されました。歯を磨く習慣が一般庶民にまで普及したのは、17世紀、江戸時代以降のことです。

しかし上古の時代の歯磨きは、歯を清掃するというよりも、身を清めるという意味が強かったのです。だから、昔は、朝に歯を磨いたのです。仏教・曹洞宗では、僧侶の灌頂の儀式の時に、歯木を噛む儀式が残っていますが、これも身を清めるという意味のものです。

口腔衛生上、歯磨きをするという意味で、食後に歯磨きをするようになったのは、明治時代に西洋歯科医療が日本に伝来して以降のことです。」

○私「そうですか。私は子どものころ、両親に朝に歯を磨くように教わりましたですねえ。実家では、私の子どもの頃は、全員が朝方に、歯磨きをしていました」

 

○私「昔の人は、どんな歯ブラシを使って、歯磨きをしていたのでしょうか」

□館長「『好色の家にて口中をたしなむ事、最も業なり。外を繕ひたるも口中無沙汰ならば、色を好むと云い難かるべし』(色道大監)とあるように、江戸時代の中期、安永、明和年間には口臭が問題とされ、歯磨きやうがいが流行ました。食後にお茶を飲み、楊枝を使うようになったのは、このころからです。

楊枝は古代インドより中国を経て、仏教とともに日本に伝えられたというのが、定説になっています。インドでは楊枝は歯木と呼ばれ、その一端をかみ砕いて房状としたもので、水とともに仏教の宗教的儀式に用いられました。『楊枝』は日本では楊、すなわち柳の枝を意味しますが、インドでは菩提樹を用いました。インドの菩提樹は、桑科の常緑樹で、日本で云う菩提樹とは異なります。

房楊枝には色々な種類があり、『はようじ』は黒もじの黒い皮がついたものを用い、打楊枝はのちの房楊枝です。房楊枝が一般的に使われるようになったのは、江戸時代からのことで、種類も豊富になりました。女性用は柳でつくったもの。男性用は肝木の房楊枝とよばれ、穂先をつぶしたもので、柳に比べたら硬いものでした。女性用の房楊枝が柔らかかったのは、『お歯黒』を落とさないためと思われます。」

歯の博物館2 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■歯の博物館2(歯の博物館・大野館長との質疑応答記1)

 

以下は、神奈川県歯科医師会・歯の博物館においての、大野館長および事務局の方の総合的な見解と言うことで、お酌み取りいただけたらと思う。

 

○私「『日蓮の歯』ないしは『肉牙』と称するものが、関東・東海など東日本各地の日蓮宗寺院や大石寺に格蔵されていると伝承されています。つまり日蓮在世中に、日蓮の歯が抜け落ちた、との伝承です。これが真実だとすると、なぜ日蓮の歯が抜け落ちたと考えられますか」

□館長「歯が抜け落ちる原因は(1)虫歯(2)激しい運動や事故などによる衝撃(3)歯周病が考えられます。歯周病は、ずいぶん昔からの古文書に出てきていまして、古くは『歯がくさい』という意味で、『歯くさ』と呼ばれていました。この『歯くさ』が今の歯周病だと考えられています。

平安時代末期から鎌倉時代初期の『病草子』という文献には、『口くさき女』『歯槽膿漏の男』の絵が出てきます。源頼朝、松尾芭蕉、小林一茶、山頭火らは歯周病だったと考えられています」

○私「日蓮に関しては、激しい運動や事故などによる衝撃による歯の脱落は、考えにくいですね。」

□館長「日蓮の抜けた歯が存在するということは、日蓮は歯周病だった可能性が高いですね」

○私「歯周病の原因とは、何なのでしょうか」

□館長「ひとつは歯周病菌です。もちろん、歯を磨かないと歯周病になりやすいのですが、朝しか歯を磨かないと歯周病に、なりやすいですね。二つ目としては、栄養不足です。栄養不足の人は、歯周病になりやすいですね」

「あとは、歯みがきの問題があります。歯磨きの歴史は古く、すでに釈迦の時代から弟子の僧侶は歯磨きをしていました。釈迦は僧侶が読経の前に手を洗って、歯木で歯を清掃するように指導していました。これは弟子の僧侶の口臭がひどいため、釈迦が戒律として、歯を磨くことをすすめたのです。

唐の僧侶・義浄三蔵は、インドで仏教の修行をして中国に帰り、歯木で歯を清掃する習慣を伝えました。インドでは熱帯性植物『ニーム』という木を使っていましたが、中国には『ニーム』がないため、楊柳が使われて、これが楊枝と呼ばれるようになりました。中国から朝鮮を経て、552年に日本に仏教が伝来し、釈迦の時代の古法に習って、爵楊枝が日本に紹介されました。歯を磨く習慣が一般庶民にまで普及したのは、17世紀、江戸時代以降のことですが、それ以前は、僧侶は歯磨きをしていました。それから考えると、日蓮も歯磨きはしていたと考えられます。

ただし、当時は今のように食後に歯磨きをするのではなく、朝方に歯磨きをしていました。食後に歯磨きをするようになったのは、西洋歯科医療が日本に入ってきてからのことで、これは歯科衛生上、食後に磨くようになったのです。それ以前の時代は、歯科衛生上の理由ではなく、朝に歯磨きをして『身を清める』という意味があったのです。今でも僧侶の灌頂の儀式の時に、歯を磨く習慣が残っている宗派があります。ただし、朝の歯磨きだけでは歯周病になる可能性は高いですね。」

歯の博物館2 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■歯の博物館1(日蓮肉牙の謎を追って歯の博物館を訪ねる)

 

仏教の中に、仏歯牙信仰ないしは仏教各宗派の宗祖の歯骨信仰がある。鎌倉・円覚寺や名古屋・日泰寺には仏舎利が格蔵されていると伝承され、日蓮宗における日蓮の歯骨信仰、浄土真宗でも親鸞の歯骨信仰がある。「アンチ日蓮正宗」では、大石寺が格蔵する自称「御肉牙」が、本当に日蓮の歯なのかどうかの検証も行った。

歯牙、肉牙と科学・医学の関係を解明していくならば、歯の歴史、歯科治療の歴史、ないしは歯科治療の専門知識がある程度、必要になる。そこで私は、神奈川県横浜市の旧市街地・馬車道にある神奈川県歯科医師会・歯の博物館を訪問した。

歯の博物館は、神奈川県歯科医師会が運営する神奈川県歯科保健総合センターの中にある。神奈川県は、日本における西洋歯科治療発祥の地ということで、医科医療センターの前には記念碑が建てられている。ここは、昭和 62 1987 )年、神奈川県歯科保健総合センター(神奈川県歯科医師会館)の竣工と同時に歯の博物館がオープンしたというから、かれこれ25年以上の歴史があることになる。

私も、日蓮の歯骨、仏舎利等々の研究を進めていく上で、どうしても歯に関する専門知識が必要になり、近隣の歯科医で話を聞いたりしたのだったが、こういう形で専門知識を得るには、限界があった。そこでいろいろと探したところ、ようやくこの「歯の博物館」を見つけたという次第。

世間一般では、国立・公立の博物館、私立の博物館など、さまざまな博物館、資料館、美術館等があるが、一般的には、どこも開館時間内であれば、自由に入って見学できるし、学芸員に意見を聞くこともできる。

ところが「歯の博物館」は、完全予約制。まずは、神奈川県歯科医師会事務局に、いったん見学の予約をしなくてはならない。そして指定された日時に、まず神奈川県歯科医師会事務局に顔を出して事務局の人といっしょに「歯の博物館」の中に入る。普段は、「歯の博物館」の中はカギがかかって閉められており、事務局の人といっしょではないと、中には入れないという次第。

「歯の博物館」の中に陳列されている資料は、ほとんどがはじめて見聞するものばかりで、どれもこれも専門的なものばかり。どうしても専門的な解説が聞きたいところだが、「歯の博物館」の解説は、大野粛英館長が自ら行ってくれる。事務局の人でも、ある程度までは解説してくれるが、専門知識の質疑応答ということになると、「そういう話しは館長にしてください」となる。

「歯の博物館」館長は、博物館に常勤しているわけではなく、歯科医の先生であるので、普段は歯科治療をしている。そういうわけで、「歯の博物館」で館長の解説を受けるためには、これも予約が必要。これは見学者の予定、館長の予定の両方を調整しなければならないため、事務局が間に入って日程を調整する。そして、決まった日時に「歯の博物館」に行くというスケジュールになる。

神奈川県歯科医師会1 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■大名時計博物館3(フランシスコ・ザビエルがもたらした機械時計)

 

□日本に機械時計が伝来したのは1551年にフランシスコ・ザビエルがもたらした機械時計

 

さて大名時計博物館に、大石寺「丑寅勤行」の謎とウソを暴くカギがあった。

大名時計博物館の展示・資料、および博物館が刊行する小冊子「大名時計」によれば、ヨーロッパから日本にはじめて機械時計が伝来したのは、日本にキリスト教を伝来させたフランシスコ・ザビエルがもたらした機械時計が最初である、という。

大名時計博物館館報NO4「大名時計」によれば、次のように書いてある。

 

「日本に、外国製機械時計が渡来したのは、天文20(1551)16世紀の中頃であり、フランシスコ・ザビエルがキリスト教の布教のため、大内義隆に機械時計を献上したのが、文献上では最初だといわれている。その後、信長、秀吉、家康に機械時計が献上されているが、いずれも現存しないので、重りを動力にした時計か、ゼンマイを動力にした時計なのか、知るよしもない。

慶長16(1611)、メキシコから徳川家康に献上された、ゼンマイ動力の置き時計が、現存する最古の機械時計で、静岡県の久能山東照宮に保存されている。

文献によると、徳川家康のお抱え御時計師であった津田助左衞門政之が、時計師の第一号だという。しかしながら、津田助左衞門政之より以前に、時計師がいたと思うが、記録が発見されていない。今では、江戸時代(1603)になってから、大名時計を製作したと言われているが、もしかすると江戸時代以前、室町末期に大名時計を製作していたかもしれないが、考えられるだけで、証拠立てるものは何一つ、発見されていない。

久能山東照宮に保管されている、徳川家康所蔵の機械時計以後も、外国製の機械時計が日本に渡来している。

外国製の機械時計が、日本に渡来して、それをモデルにして日本人時計師が、機械時計を製作したのが最初で、その後、日本独特の不定時法による大名時計を製作したのである、というのが、現在は定説になっている。」

 

フランシスコ・ザビエルが日本へ機械時計を伝来させたことが発端になり、江戸時代以降、日本で機械時計が生産されるようになったという。すなわち西洋式の機械時計を日本式の機械時計に改良したもので、これが即ち和時計であり、大名時計である。

したがってフランシスコ・ザビエルが機械時計を日本に伝来させる以前、日本に機械時計は存在しておらず、よって深夜2時から4時の時刻に丑寅勤行を行うことも不可能である。

したがって、よく大石寺が言う、日興の代から大石寺では毎日欠かさず丑寅勤行を行ってきた、というのは全くのウソであると断言する。

丑寅勤行3 

(原進写真集『正法の日々』に掲載されている大石寺大客殿・丑寅勤行)

 

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

■大名時計博物館2(丑寅勤行の謎を追って訪れた大名時計博物館2)

 

□大石寺の深夜2時から4時の丑寅勤行の謎を追って訪れた大名時計博物館2

 

日蓮正宗では、二祖日興の時代から丑寅勤行が行われていた証拠文献として「日興跡条条事」を挙げる。ところが、「日興跡条条事」なる文書を検証していくと、まさに矛盾だらけの文書であることが判明してくる。「日興跡条条事」第三条の文には

「大石の寺は御堂と云ひ、墓所と云ひ、日目之を管領し修理を加え、勤行を致し広宣流布を待つべきなり」(日蓮正宗59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p17・『日蓮正宗聖典』p519・『御書全集』p1883より)

とあるが、この第三条の文によると、日興は日目に大石寺の「御堂」と「墓所」を管領し、修理を加え、日々勤行をして、広宣流布を待つように命じているということになるが、日蓮正宗に言わせると、大石寺の「勤行」とは、毎朝丑寅の時刻に客殿で行われている丑寅勤行のことだと日蓮正宗や日蓮正宗の信者は言う。

日蓮正宗では、日興の大石寺開創以来、毎朝欠かさず丑寅勤行を行ってきた、などと言っており、この「日興跡条条事」第三条の「日目之を管領し修理を加え、勤行を致し」の「勤行」が、日興在世当時の大石寺で行われていた丑寅勤行のことだと、無理矢理にこじつける。

しかし、これは全くのウソ。日興在世の時代に、大石寺には客殿も本堂も根本本尊もなく、毎朝の丑寅勤行など全く行われていなかった。

もっと言うと、日興在世の時代に、毎朝深夜2時から4時の時刻に勤行を行うことは、物理的に不可能だったのである。どうしてそう言えるのか。

1 そもそも深夜2時から4時の正確な時刻に、勤行を行おうとすれば、機械時計が存在していないと絶対に無理である。日時計や水時計、砂時計の類では絶対に無理。これらの時計では、日没後の正確な時刻を測定できない。

2現在の時刻の「定時法」が採用されたのは、1873年(明治6年)11日、太陽暦の導入と同時に西洋式の時法が導入されたのであり、軍隊内部では、午前・午後の間違いを防ぐために24時制が使用されていた。1942年(昭和17年)1011日、鉄道に24時制が移入され、一般人の間にも24時制が普及することとなったのである。

それでは、その定時法が導入される前はどうだったのかというと、「日の出」の時刻はすべて、「寅の刻」あるいは「卯の刻」と決めてしまい、それを境に昼と夜をそれぞれ六等分するというのが、昔の時刻の数えかたの「不定時法」だった。

しかし不定時法で時刻を決めてしまうと、北海道と九州では日の出の時刻がちがうし、夏か冬かという季節によっても日の出の時刻は違っている。

丑寅勤行3 

(原進写真集『正法の日々』に掲載されている大石寺大客殿・丑寅勤行)