一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは「アンチ日蓮正宗」管理人が2005年11月に設立した会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。富士門流執着軍団批判は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄だが、「日蓮正宗系」以外の富士門流寺院の調査・研究は「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」の管轄。
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■総持寺祖院2(総持寺祖院にもあった富士門流板本尊の原型・曹洞宗の寺位牌・板位牌)

 

□総持寺祖院にもあった日蓮正宗・富士門流板本尊の原型・曹洞宗の寺位牌・板位牌

 

さて曹洞宗大本山永平寺に行ったとき、永平寺の位牌堂である「祠堂殿」の中に入って、その中にある曹洞宗の寺位牌・板位牌を実見。これらの寺位牌・板位牌が日蓮正宗、富士門流寺院の板本尊によく似ている、ということを書いた。この寺位牌・板位牌は、祠堂殿のみならず、法堂や承陽殿にも多数あった。

元々、位牌というものが、禅宗が中国から日本に伝来せしめたものである故か、曹洞宗寺院の位牌堂に入ると、板位牌や寺位牌が多数収蔵されているのを見かけるわけだが、あまりにも形が日蓮正宗や富士門流寺院にある板曼荼羅本尊に似ていることから、日蓮正宗系・富士門流系の板曼荼羅本尊は、禅宗の寺位牌、板位牌のパクリであろうと考えられる、かつて結論づけた。

つまり何らかの形で日蓮宗系、富士門流系の僧侶が曹洞宗の板位牌、寺位牌を知り、表面に曼荼羅を書いた板曼荼羅本尊を造立したものと考えられるわけである。

それではもうひとつの曹洞宗大本山総持寺の位牌はどうなのか、ということになる。

総持寺の場合は、元々は石川県能登にあったのだが、1898年(明治31年)の火災。1911年(明治44年) 現在地の鶴見に移転した。それで元の能登のほうは総持寺祖院となった。

であるから、明治の移転以前の歴代貫首の位牌、鎌倉、室町、戦国、江戸期といった上古の昔の時代の位牌は、鶴見の総持寺ではなく、能登の総持寺祖院にあると考えられたため、能登の総持寺祖院のほうを見学に行きました。

総持寺祖院の法堂にも、位牌を祀る位牌堂がある。そこには数多くの位牌が祀られている。ここで一番大きな位牌は、特別に祀られている総持寺歴代貫首の位牌。歴代貫首の板位牌は、ひときわ大きい。形としては、まさに日蓮正宗や冨士門流の板曼荼羅本尊にそっくりである。

総持寺祖院の位牌堂は、法堂と隣り合わせになっていて、数多くの大きな位牌が祀られ、その位牌にむかって導師席が設定されている。

総持寺祖院での見学でも、永平寺で見学したときのように、曹洞宗の寺位牌・板位牌は形としては、まさに日蓮正宗や冨士門流の板曼荼羅本尊にそっくりである。よって結論としては、日蓮正宗系・富士門流系の板曼荼羅本尊は、曹洞宗の寺位牌、板位牌のパクリであろうことは変わりないと考えられる。

もちろん道元禅師は、鎌倉時代においてすでに鎌倉に下向して北条時頼に授戒し説法しているので、すでに鎌倉時代から曹洞宗の寺位牌、板位牌は鎌倉地方に伝来していたと考えられる。曹洞宗のほうが先に寺位牌、板位牌を伝承せしめているわけだから、パクリをしたのは日蓮正宗や冨士門流のほうであることは明らかである。

位牌堂1総持寺祖院

総持寺1等身位牌1

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■総持寺祖院1(明治31年まで総持寺祖院の場所にあった大本山総持寺)

 

□元々は明治31年までは現在の総持寺祖院の場所にあった曹洞宗大本山総持寺

 

曹洞宗大本山総持寺は、現在は神奈川県横浜市鶴見区にあるが、元々は石川県能登にあったのだが、明治時代に総持寺が能登から鶴見に移転。その能登の総持寺旧跡が総持寺祖院となった。もちろん曹洞宗大本山としての機能も総て、現在は鶴見の総持寺にある。

なぜ能登から鶴見に移転したのかというと、元は1898年(明治31年)の火災。1911年(明治44年) 現在地の鶴見に移転した。私は能登の総持寺祖院も鶴見の総持寺も両方参詣しているが、鶴見のほうが境内が広大で約50haくらいあるという。しかも鶴見の総持寺は、関東平野にありJR鶴見駅前にあるので交通の便もいい。

一方、能登の総持寺祖院のほうは、切り立った山間部にあり、ここへ参詣する交通の便も極めて悪い。現在でも石川県の県都・金沢市から総持寺祖院に行くだけで大変な時間がかかる。

そういう理由からか、総持寺祖院の周辺には、たくさんの旅館が建ち並んでいる。総持寺祖院のある所は、能登半島の山間部にあり、金沢からの特急バスが発着するバスターミナルがある輪島市中心部からも、能登空港からもかなりの距離がある。ここへの日帰りの参詣は出来ないことはないと思うが、かなりむずかしいでしょうね。せっかく総持寺祖院に参詣したのに、滞在時間がわずかになってしまう。だから旅館に泊まって一泊、ということになるでしょうね。

総持寺祖院周辺は、旅館や商店が建ち並ぶ集落になっていて、今も団体参拝等があって、参拝客は旅館に宿泊している様子。ただし本山機能が鶴見に移転してしまっているので、祖院とはいえ、見ていて何となく寂しい感じがする。

高速バスや航空機、空港機能が発達した現代においてすら、こうであるから、鎌倉、室町、戦国、安土桃山、江戸時代のころに、総持寺祖院に参詣する不便さといったら、今よりもはるかにひどかったと言えるのではないだろうか。

方や鶴見のほうは、鶴見駅前にあり、東京、横浜に行くのに交通の便は格段に良い。すでに当時は東京に遷都しており、しかも関東平野に広大な境内ということになれば、やはり本山機能は鶴見へ、ということになるのが必然だったのではないだろうか。

総持寺を能登の地に開いた開祖は、瑩山紹瑾禅師(太祖・常濟大師)。開祖の瑩山禅師(12681325)は、文永5年に越前国生まれ。8才で永平寺に上山し、永平寺3世徹通義介(12191309)について出家している。

永仁元年(1293)、義介に従って大乗寺(金沢市)に移り、正安2(1300)、日本曹洞宗の法脈を明確にした「伝光録」を著す。これは道元禅師の「正法眼蔵」とともに、曹洞宗の宗旨の根本経典とされている。

総持寺別院14 

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私、hideこと「仏教宗学研究会」管理人は、mixiGREE、ツイッター、facebookおよび「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」にて、「日蓮正宗」系団体のニセ板本尊、ニセ曼荼羅、ニセ文書、ニセ教義、ニセ墓、ニセ肉牙等の問題を追及してきておりますが、ここのところ、あっちこっちの日蓮正宗系、創価学会系、富士門流系のブログや掲示板に、ニセ「hide」が出没して、あたかも私が書き込みをしているかのように、数々の謀略工作を行っていると聞き及んでおります。

又、当「仏教宗学研究会のブログ」においても、ニセ「hide」が出没し、悪質なスパム行為を行ったことがありました。これらは、まことに悪質極まりない策略であります。

まずはっきり明言しておかなくてはならないのは、私は、インターネット上のブログや掲示板に、コメントを残すという活動は、昔も今も全く行っておりません。今後とも、そのようなことを行う予定は、一切ございません。

なぜ行わないのか。

最大の理由は、「本物」と「ニセモノ」の区別をはっきりとするためです。

インターネットのブログや掲示板というものは、まことに便利で優れた長所も多々ありますが、反面、短所もある。

それが、ブログや掲示板における投稿者名が、まさに名乗りたい放題であること。

いくらでも、ハンドルネームなど、変えることが出来るし、まさに「ニセモノ」や「なりすまし」など、やりたい放題にできること。

インターネットの技術は年々進化してきているようですが、この欠点・短所については、ほとんど改善が見られないというのは、まことに遺憾なことであります。

したがって、インターネット上の「本物」と「ニセモノ」の区別をはっきりとするため、私はインターネット上のブログや掲示板に、コメントを残すという活動は、全く行っておりません、ということです。

よって、他のブログや掲示板において、私がコメントをしたい場合は、直接、コメントを残すのではなく、自分が主宰するブログ、mixiGREEのコミュニティの掲示板、ないしは日記に引用して、コメントしております。

 

したがいまして、現在、日蓮正宗系、富士門流系のブログや掲示板に、投稿者名「hide」で、書き込みがなされているものは、全て、あたかも私が書き込みしているかのように偽装するニセ「hide」の謀略工作であると断ずるものであります。

又、私自身は、このような悪質な謀略工作を行うニセ「hide」とは全くの無関係であると、明言しておきます。

おそらく、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」で批判されて反論不能に陥った「日蓮正宗」系・「創価学会」系の者、「富士門流」執着軍団の者による仕業ではないかと考えられます。

賢明なる皆様方には、このニセ「hide」の謀略工作に充分にご注意いただくよう、お願い申し上げます。

親鸞2 

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■中山法華経寺4(なぜ中山法華経寺で荒行が行われているのか2)

 

□納得してしまった「衆生の苦を知らない僧は衆生を救うことが出来ない」という僧侶の言葉

 

中山法華経寺の塔頭・遠寿院の荒行堂の中をのぞいて見ると、約78人の荒行僧による参拝人の祈祷が行われていました。日蓮宗では、この中山法華経寺の百日荒行を満行した僧は、伝師(でんし)(加持祈祷の師範)から秘法を受け、宗務総長より修法師として任命されるという。

荒行堂は、遠寿院の荒行堂と中山法華経寺本院となりの荒行堂のふたつがある。荒行堂には日程表が掲げられていて、荒行僧と面会日と面会日でない日が決まっている。私が中山法華経寺に参拝に行った日は、ちょうど面会日。そういうことからか、中山法華経寺大荒行堂前も、遠寿院もたくさんの人が詰めかけてきている。

面会日とは、荒行僧と寺族、檀信徒との面会が許される日。そういうわけで参詣人のための祈祷が遠寿院で行われていたということか??

遠寿院前に掲示されていた荒行の日程を見ると、午前2時半に起床し、午後11時就寝。ということは睡眠時間が3時間半しかない。1日の食事は2食で、粥食。あとは水行と読経三昧の修行。

過酷な修行ですね。この荒行の中、死亡してしまう僧が出ることもあるという。その場合は荒行満願の日を待って、荒行満願僧といっしょに荒行堂を出ると聞きました。

まさに荒行堂に入るということは「死」を覚悟して入るということ。そこまで意を決しないと、とても過酷な修行を行う荒行堂には入れないでしょう。

では、なぜここまで過酷な修行をしなければならないのか。

ある人曰く「衆生の苦を知らない僧は衆生を救うことが出来ない」という意味のことを言った人がいた。過酷な修行・難行苦行に身を投じて苦を知るのだという。私は「なるほど」と納得してしまいました。

たしかに僧侶の厳しい修行・難行苦行の苦と、一般衆生の苦は違うという意見もあるかもしれない。が、自ら苦を知ろうと厳しい修行・難行苦行に身を投じる僧を衆生は心から崇拝するのではないだろうか。ということは、難行苦行に身を投じるということは大きな徳行だということでしょう。

中山法華経寺の荒行僧は、大半が若手の僧侶。こういう厳しい修行を満願した僧侶と話をすると「やはり、どこか違うな」と思うことが多々あります。難行苦行に身を投じたたけ、徳を積んでいるということなのでしょう。

荒行2 

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■中山法華経寺3(なぜ中山法華経寺で荒行が行われているのか1)

 

□中山法華経寺塔頭遠寿院前にあった荒行堂ができた歴史的経緯を記す看板

 

中山法華経寺で有名なのは、荒行である。荒行堂は中山法華経寺本坊横と塔頭・遠寿院にある。「荒行」とは、過酷なほど厳しい修行ということだが、インターネットで調べると、中山法華経寺の荒行、比叡山延暦寺の千日参篭、インドのヨーガが世界三大荒行として出てくる。

中山法華経寺の荒行よりも比叡山延暦寺の千日参篭のほうが古いようで、源頼家の次男・公暁も千日参篭を行っていたということが1979(昭和54)年に放映されたNHK大河ドラマ「草燃える」に出てくる。岩下志麻演じる北条政子が「どうしてそんなに厳しい修行をしなければならないの」と言って公暁をいたわるシーンが出てくるのが印象に残る。

昨今、浄土真宗大谷派住職と懇談する機会があり、その中で仏教寺院の修行の話が出た。

大谷派住職は、日本仏教界で厳しい修行を行っている寺院として、福井・永平寺、比叡山延暦寺、そして中山法華経寺の荒行を挙げる。中山法華経寺の荒行が「最も厳しい修行だ」という。この住職が「最も厳しい修行だ」というのは、批判して言うのではなく、評価して言うのである。

そこで「浄土真宗はどうなんですか」と聞くと、真宗の場合は、宗門指定の学校、大学で数年間勉強するのが主であるという。「水行とか、滝に打たれるとか、厳しい修行はないのですか」と聞くと、「それはないねえ」との返答。

浄土真宗の場合は、葬儀、法事、命日の月参りで住職が来て読経する「檀家寺」が主であるようで、寺院の法要に参拝する熱心な門徒(信者)は、そんなには聞かない。私の祖母は熱心に真宗寺院の法要や行事に行っていたが、父母の代になると、葬儀、法事や命日の月参りに住職が来るだけになった。

祖母は熱心だったとは言っても、昔からの菩提寺の住職を嫌っていて、祖母の代でも父母の代でも菩提寺住職とトラブルがあった。父母の代になると、菩提寺住職とケンカをして離檀を宣言。その後、葬儀、法事や月参りには、他寺の住職が来ている。

私は特にどこの寺院に帰依するとか、どこの宗派に帰依するという気は全くないので、父親が他界した後は、葬儀にはどこかの寺院住職が来るようにはなると思うが、従前からの住職との繋がりも終焉になると思われる。

僧侶の修行という観点からすると、真宗住職も認めているように、浄土真宗で厳しい修行を行っているなどとは聞いたことがない。もっとも浄土宗、浄土真宗の宗旨は、南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生するという教え。難行苦行を積み重ねて成仏するという宗旨ではないから、そういう厳しい修行は行われていなかったのだと思われる。

それでも真宗大谷派住職の話しに依れば「昔はそれ(南無阿弥陀仏と唱える修行)でよかったんだけども、今はそれだけではダメなんですよ」ということで、いろいろな人生相談に応じたりという活動を行っているという。

遠寿院11荒行堂 

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■中山法華経寺2(中山の鬼子母神信仰について)

 

□日蓮の守護神として大衆信仰を集める中山の鬼子母神は偽作・贋作とは次元が異なる

 

中山法華経寺本院から中に入っていくと、中山法華経寺の総受付があり、ここで御開帳、参拝、お札の申し込み。祈願は交通安全に丸印。志料は3000円。

本院から鬼子母神堂へは渡り廊下でつながっていて、徒歩で鬼子母神堂へ。鬼子母神堂の一番奥の間に入って行くと、すでに23人の参詣人が座っていた。中山法華経寺の鬼子母神は、日蓮が小松原法難のとき、鬼子母神が現れて日蓮を守護し、難をのがれたことにちなみ、その後、富木常忍邸に日蓮が滞在中に、日蓮自らが親刻した像と伝承されている。

鬼子母神堂の須弥壇は帳が下がっていて、鬼子母神の姿は見えない。しばらく鬼子母神堂の中で座っていると、後ろからどんどん参拝人が入ってきて、狭い鬼子母神堂の中が、あっという間に満員になった。

その後、若手の僧侶が一人入場してきて、読経、唱題がはじまる。読経していたのは御開帳の導師を務める僧侶だけで、参拝人は皆、だまってすわっている。唱題の時、南無妙法蓮華経と唱えた参拝人が数人いたのみ。

読経がはじまると、須弥壇の帳が開いて鬼子母神が姿を現す。形が小さくてよく見えないのが残念。導師の僧侶は、鬼子母神が祀られている須弥壇に登り、厨子にむかって左側に着座。東側を向いて読経。唱題の後は僧侶の祈祷。参拝人ひとりひとりの名前を僧侶が読み上げて、祈祷の内容を読み上げる。私の所は「英昭彦殿 交通安全…」とこんな感じ。御開帳終了後、導師の僧侶からお札を直接、手渡されました。

日蓮宗新聞社が発行する「日蓮宗本山めぐり」によると、中山法華経寺は日蓮聖人「五勝具足」の法華道場として、日蓮宗では最も古い寺院であるとしている。中山の鬼子母神として有名な鬼子母神像については

「文永元年(1264)、房州小松原において、聖人は地頭、念仏者による襲撃、小松原法難にあわれ、鬼子母神の出現によって一命を救われた。日蓮は中山の地に逃れ鬼子母尊神像を御親刻されたと伝える」

と記している。日蓮宗寺院で鬼子母神像を祀っている寺院は、他にもあり、日像開山の京都妙顕寺、天目開山の佐野妙顕寺にも鬼子母神堂がある。この他、法華宗寺院にも鬼子母神を祀る寺院がいくつも見られる。日蓮宗寺院や法華宗寺院になんで鬼子母神堂があるのかと最初は不思議に思ったが、どうやらこれは、小松原法難で日蓮が東条景信に殺傷されかかったときに、鬼子母神が現れて日蓮を守護したという伝説によるもののようである。

中山法華経寺30本院 

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■中山法華経寺1(鬼子母神、日蓮真蹟の格蔵、大荒行で有名な中山法華経寺)

 

富木常忍(日常)開基・日蓮百日百座の説法・本化菩薩の初転法輪の霊跡の中山法華経寺

 

中山・法華経寺は、千葉県市川市中山二丁目にある日蓮宗七大本山の寺院で、正式な名前は正中山法華経寺。中山という地にあることから、通称・中山法華経寺と言われている。鎌倉時代の文応元年(1260年)創立とされている。開基檀那は富木常忍。日蓮・松葉ヶ谷法難の後、富木常忍邸に滞在して百日百座の説法を行ったことから、本化菩薩の初転法輪の霊跡という。

布教活動の中で幾度と無く迫害を受けた日蓮を、下総国千葉氏の家臣であった富木常忍と太田乗明は自分達の所領のある八幡荘に暖かく迎えた。富木は日蓮のために所領の若宮に寺を造営したが、法華寺と名付けられた。又、隣の中山の領主であった太田も自家の持仏堂を寄進し、これは本妙寺と名付けられた。天文14年(1545年)古河公方足利晴氏より「諸法華宗之頂上」という称号が贈られ、この時に法華寺・本妙寺を合わせた「法華経寺」という寺名が誕生。以後、両寺は事実上統合され、「法華経寺」という一つの寺院として認識されるようになっていった。

中山の鬼子母神として、古くから多くの参詣があり、立正安国論や観心本尊抄などの日蓮真蹟を多数所蔵する寺院として、あまりにも有名である。かつて中山法華経寺では、これらの国宝、重要文化財のものを含めた日蓮真筆は、113日、文化の日に年一度だけの「お風入れ」の儀が行われていたが、ここ数年、お風入れの儀は行われていない。まことに残念なことである。

境内地には、「中山大仏」と呼ばれる巨大な釈迦牟尼の仏像や富木常忍(日常)の像がある。フリー百科事典・Wikipediaによると、ここの本尊は祖師堂の日蓮像と鬼子母神堂の鬼子母神ということになっている。

 

富木常忍は千葉氏の文吏としても活動していたために日蓮に紙筆を提供し、その執筆を助けた。日蓮の遺文が同寺に多く遺されているのはその縁であると言われている。中山法華経寺では、百数十にものぼる日蓮真筆の遺文(御書)を格蔵していて、そのうち、重要文化財に指定されているものが61点。中でも観心本尊抄(日蓮真筆)と立正安国論(日蓮真筆)は国宝に指定されている。これらの日蓮真筆は、境内地の聖教殿と呼ばれる堂宇に格蔵されている

中山法華経寺は日蓮筆遺文 56巻を格蔵しているという。

ここに格蔵されている日蓮真筆の遺文の中には、日蓮正宗や創価学会の信者が「戒壇の大本尊」なる板本尊の文証として、金科玉条のように引っ張りだしてくるあの「聖人御難事」も含まれている。それにしても大石寺は、「聖人御難事」という日蓮の遺文が、日蓮の出世の本懐を説き表わすほど重大な遺文なら、どうして日興をはじめ歴代法主は、大石寺のもとに留めようとしなかったのか。「富士一跡門徒存知事」という文書によれば、日興は日蓮の重要な遺文を結集しようとし、それらの存在している場所を書き記しているが、この中に「聖人御難事」は入っていない。「聖人御難事」という遺文は、日興の眼中にはなかったのである。「聖人御難事」が中山法華経寺に格蔵されていること自体、大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊とは、何の関係もないということを物語っているではないか。

中山法華経寺39聖教殿

中山法華経寺37聖教殿 

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20122月にスタートさせた「仏教宗学研究会のブログ」も、20136月で10pvを突破しました。ありがとうございました。

■仏教宗学研究会のブログ

http://bukkyoshugakukenkyukai.doorblog.jp/

 

もうひとつの同じく20122月からスタートさせた「アンチ日蓮正宗オフィシャルブログ」ですが、20136月で20pvを突破しました。ありがとうございました。

■アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/

 

ふたつあわせてアクセス数が30pvを突破したことになります。

今後とも、ますますのご愛読をいただけますよう、よろしくお願い申し上げます。

親鸞2 

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■福井・永平寺6(日蓮正宗・富士門流の板本尊は曹洞宗・寺位牌・板位牌のパクリ)

 

永平寺には、もうひとつの見所がある。それは寺位牌、板位牌等の「位牌」である。

位牌は、もともと禅宗が中国から日本に伝承せしめたものというのが定説。曹洞宗はもともと曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の一派で、道元禅師が中国から日本に伝えた宗派である。日本においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つである。だから道元禅師は、日本曹洞宗の宗祖とは言えるが、曹洞宗そのものの宗祖ではない。

さてその永平寺の寺位牌、板位牌等の「位牌」なのだが、日蓮正宗や富士門流の板曼荼羅本尊に実によく似ているのである。位牌というと、個人宅の仏壇に祀られている小型の位牌を連想してしまいがちだが、永平寺にある「位牌」は、そんな小型位牌ではない。もっと大型の寺位牌である。

まず永平寺の法堂に巨大な寺位牌が祀られている。永平寺の見解によれば、法堂が仏教寺院の本堂に該当する堂宇ということだが、その法堂の本尊と向かい合う形で、大きな祭壇が設けられて寺位牌が祀られている。この寺位牌の前に、一般家庭の仏壇でも見かける小型の位牌が祀られている。

永平寺42法堂板位牌 





















この永平寺の寺位牌が、日蓮正宗や富士門流寺院で見かける板曼荼羅本尊に実によく似ている。もちろん永平寺にあるのは寺位牌だから、日蓮の曼荼羅は図顕されていないが、寺位牌の形そのものが、富士門流の板本尊に似ているのである。

48世日量・天保11年4月8日板本尊 

さらに永平寺には位牌堂があり、ここにも寺位牌が祀られている他、おびただしい数の板位牌が収蔵されている。永平寺の位牌堂は「祠堂殿」とよばれている。祠堂殿とは全国各地の末寺寺院による壇信徒の入牌、納骨をする堂宇。特別志納の人による全国各地の位牌が祀られ、追善供養の法要も営まれる。

祠堂殿の中には、二体の寺位牌が祀られていて、これは法堂の寺位牌とほぼ同じ。巨大な寺位牌の形は、日蓮正宗、富士門流寺院の板本尊によく似ている。

永平寺63位牌堂寺位牌


永平寺64位牌堂板位牌

永平寺66位牌堂板位牌 









































それと祠堂殿(位牌堂)の中には、所狭しと板位牌が収蔵されている。

寺位牌も板位牌も、黒漆塗りの金文字。板位牌のほうは寺位牌に比べて、やや小さいが、それでも形は、日蓮正宗や富士門流寺院にある板曼荼羅本尊にそっくりである。

永平寺の板位牌には、もちろん曼荼羅は書いていないが、板位牌の表面に曼荼羅を書けば、そっくりそのまま日蓮正宗や富士門流寺院にある板曼荼羅本尊に早変わりしてしまうくらい。

永平寺の板位牌は、祠堂殿(位牌堂)のみならず、道元禅師の霊骨を祀る承陽殿にもある。

 

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■福井・永平寺5(道元禅師の真廟がある永平寺承陽殿)

 

曹洞宗大本山永平寺には、日本曹洞宗宗祖で永平寺開祖である道元禅師の霊骨が格蔵・祀られている。道元禅師の霊骨が祀られている堂宇は承陽殿という名の堂宇。承陽殿の名は道元禅師が明治天皇より下賜された「承陽大師」号。そして明治天皇より下賜された「承陽」の勅額に由来する。「承陽」の勅額は承陽殿の拝殿に掲げられている。

承陽殿に隣接している孤雲閣は、道元禅師に給仕した永平寺2世孤雲懐弉禅師に由来する。孤雲懐弉禅師は、道元禅師の生前、滅後にわたって側に在って給仕孝順を尽くした。それにちなんで、孤雲閣は、道元禅師真廟に奉仕する修行僧の詰め所になっている。孤雲閣には僧侶が常勤し、未来永世にわたって道元禅師に給仕する姿をあらわしている。

そういえば身延山久遠寺に日蓮の真骨堂があるが、久遠寺法主をはじめ、日蓮宗僧俗が常に日蓮に給仕奉仕する意味があるという。

仏教各宗派の宗祖の真廟・正墓は、宗派にとって最も大切な所であり、各宗派とも宗祖に未来永世にわたって給仕奉仕する意味を持たせているのは、至極当然のことと思う。法然の真廟は京都知恩院の他、数十ヶ寺にあり、親鸞の真廟は西大谷、東大谷、浄興寺等にある。栄西の真廟は建仁寺にあり、日蓮の真廟は身延山久遠寺の他、鎌倉本覚寺、京都妙伝寺等にある。伝教大師最澄の真廟は比叡山延暦寺にあり、弘法大師空海の真廟は高野山にある。

それぞれの仏教各宗派の総本山、祖山といわれる寺院に真廟がある。

永平寺承陽殿は、宗祖・道元禅師の真骨を祀る真廟。明治14(1881)に改築された。

正面壇上奥に道元禅師、永平寺2世孤雲懐弉禅師の像と霊骨を奉安する。さらに永平寺3世、4世、5世ならびに宝山禅師の像を祀っている。承陽殿内には、本山歴代禅師、宗門寺院住職の位牌が祀られている。

 

さて承陽殿下段右側には「玄明首座」という位牌が祀られている。

1247(宝治1)83日、道元は鎌倉に下向し、北条時頼に菩薩戒を授け俗弟子のために説法した。北条時頼は寺院を建立して道元を招請したが、これを辞退。さらに北条時頼は、越前国に2000石の寺領を寄進したが、道元はこれも辞退した。道元に随行した玄明首座は、この寄進状の使いにあてられ、永平寺に帰って自分の売名を大衆僧俗に得意になって語ったという。

これを聞いた道元は、玄明首座の態度を罰し、堂内より擯出し、玄明首座の座禅をしていた僧堂の縁を切り取り、土台の土七尺も掘って捨てたという。

1902(明治35)5月、道元禅師650遠忌に明治天皇より「承陽」の勅額が下賜され、道元650遠忌大法要に出仕した高僧10名が発願して時の永平寺貫首・森田悟由禅師に玄明首座の恩赦を請願。森田悟由禅師が玄明首座に代わって道元禅師真前にて大展懺悔を行った。

これで何と650年ぶりに玄明首座の破門追放が赦免されることになった。

承陽殿に祀られている位牌の裏には、その由来が書かれているという。滅後650年において、後世の貫首によって破門が許されたというのも、珍しいケースであると同時に、注目に値すると思われる。この逸話から、道元禅師という人が、かなり厳格な人柄だったことが窺える。

永平寺52承陽殿 

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■福井・永平寺4(なぜ仏教寺院で厳しい修行が行われているのか)

 

仏教界の厳しい修行と言うと、永平寺の修行、比叡山延暦寺の千日参篭、中山法華経寺の百日大荒行とかが話題に上る。この他にも厳しい修行を行っている宗派や寺院があると思う。

私は子どもの頃から、僧侶が身近にいて、「僧侶は厳しい修行をしている」と聞かされた。だから、私は、「僧侶は厳しい修行をしているものなのだ」と、当たり前のように思っていた。

ただし、私の身近にいたのは、永平寺の僧侶ではなく、浄土真宗大谷派(東本願寺)の僧侶。

私は小学生の頃、習字を習っていたが、その習字の先生が真宗大谷派の地元寺院A寺住職。私の祖父の通夜・葬儀が行われたのが、真宗大谷派の地元寺院B寺。葬儀の導師を勤めたのが、金沢市内にある真宗大谷派の寺院C寺住職。さらに毎月1回、実家には真宗大谷派の地元寺院D寺住職がお経をあげに来ていた。そのD寺住職は、私が通っていた中学校の社会科担任教師で教頭だった。高校の社会科教師にも、真宗大谷派の寺院住職がいた。

ただし、永平寺や中山法華経寺と真宗大谷派を比較すると、修行の厳しさが全然違うことを、大谷派住職自らが認めている。真宗大谷派も僧侶は本山に登り、数年間、宗門指定の大学に通って教師になるが、千日の参篭も百日の荒行もない。

北陸地方には真宗大谷派門徒が圧倒的に多く、寺院も無数にたくさんあるが、ほとんどが檀家寺。寺院行事とは言っても、7月のお説教会と11月の報恩講ぐらい。住職も学校の先生兼業で行っている人がかなりいる。私の父ですら「あれじゃあ、門徒は減る一方だろうなあ」と言っているほど。

大谷派住職自身が「昔は南無阿弥陀仏だけでよかったんですが、今はそれだけじゃダメなんですよ」と言っており、いろいろな人の心の悩み事相談に応じる活動等を行っているという。

しかし永平寺や中山法華経寺の厳しい修行・苦行はない。もともと法然・親鸞の教えは「南無阿弥陀仏を唱えれば、どんな悪人でも極楽往生できる」という易行の宗旨だからではないだろうか。

だから私が子どもの頃に聞いた、僧侶の厳しい修行とは、永平寺の修行のことを指していたと思われる。

 

そうすると厳しい仏道修行・難行苦行とは縁遠い世間一般人から見ると

「なぜこんなに厳しい修行をしなければならないのか」「なぜここまで、しなければならないのか」

という疑問が沸く。

永平寺吉祥閣で放映されていたビデオ「永平寺の日々」を観ていたら、永平寺の修行を卒業して下山する若い僧侶が口々に「自分を見つめ直すことができた」「○○ができる人間になった」と言っていた。確かに現代社会では、「自分を見つめ直す」とか「人格を鍛え直す」機会は皆無でしょうね。世間のへそ曲がりな人たちや独善的で心根の曲がった人たちの人格を鍛え直すことができるなら、こういう永平寺の厳しい修行の場に入れてしまうのも一策ではなかろうかと思う。あの「富士門流執着軍団」のへそ曲がりな人たちも、永平寺の厳しい修行によって、少しはまともな人に蘇生できるのではないだろうか。

だから私は、仏教寺院で厳しい修行・難行苦行を行うこと自体、不要とは思わないし、ムダな事とも思わない。心根のねじ曲がった人が、マイナス6度の厳寒の中で、蘇生できたら、こんな結構な話はないではないかと思う。

永平寺21勅使門 

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■福井・永平寺3(厳しい修行で有名な永平寺)

 

永平寺吉祥閣の大講堂のモニターテレビで、「永平寺の日々」と題するビデオが連続して放映されている。これはかつて地元福井県のテレビ局・福井テレビが放映したテレビ番組をそのまま録画・ビデオ放映しているもの。吉祥閣の売店カウンターでも、「永平寺の日々」のビデオが販売されていました。

私はこのビデオ映像を何度も見たのですが、永平寺雲水(修行僧)の修行の過酷さが伝わってきます。あたかも自分が修行僧になったかのように、ビデオ映像の世界に、思わず吸い込まれてしまいそうになってしまいます。かなり過酷な修行のようですね。

吉祥閣の待合ロビーにても、かつて福井テレビが永平寺の僧侶の日々をとりあげた番組の録画映像が放映されています。こちらは永平寺大庫院の厨房で、修行僧の食事を作る僧侶を追った映像。こちらの修行も、大変厳しい修行のようです。

福井テレビは、何度も永平寺の修行をとりあげた番組を放映しているようです。

永平寺は、白山の福井県側の山麓にあり、冬はかなり寒い。2月に永平寺に行ったとき、午前6時の気温がマイナス6度。午前9時の気温がマイナス3度。吐く息は真っ白で、境内に積もっている雪がカチカチに凍っていた。この厳寒の永平寺で、若い雲水(修行僧)200人前後、修行している。永平寺に行くと、修行僧がたくさん見かけるが、ほとんどが若い修行僧。年配の修行僧は、見たことがない。しかし年配の人が、こんな厳寒の寺院で修行すると、かなり危険な気がします。

永平寺の修行が厳しいと言われているのは、冬の厳しい寒さの中で修行していることが挙げられるのではないだろうか。

さて永平寺境内を見学して歩いていると、あっちこっちから若い修行僧の元気のいい声が聞こえてきて、活気を感じる。修行僧と言葉を交わしても、まことに丁寧な話し方で、「さすがは、永平寺で修行を重ねている僧侶だな」と思う。

永平寺の厳しい修行は、曹洞宗のみならず、仏教各宗派の僧侶の間でも、かなり有名な様子。私も、地元で浄土真宗大谷派の寺院住職に、永平寺について尋ねてみたところ、永平寺の修行の厳しさは、北陸地方でも有名だそうです。その住職の話しによれば、「若い僧侶が永平寺で修業するために、永平寺の門をくぐって入門しても、修行僧の約半分は、あまりの修行の辛さに、逃げ出してしまう」とのこと。もちろん、永平寺の修行を卒業しないと、住職にはなれないという。

その大谷派寺院住職の知人に永平寺の修行を卒業した曹洞宗僧侶が居て、今はベンツに乗っている、と言っている大谷派寺院住職。

永平寺の修行の厳しさは、日本の仏教界でも、上から数えて指折りのランキングの中に入るくらい厳しいとのこと。仏教界で厳しい修行で有名なのは、比叡山延暦寺の千日参篭、中山法華経寺の百日大荒行が有名ですが、「それじゃあ、永平寺の修行は、日本の仏教界で一番厳しいのでしょうか」と尋ねると、「そうではない」という。

永平寺5

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■福井・永平寺2(真冬にはマイナス6度になる厳寒の永平寺)

 

永平寺は道元禅師の開山で1244(寛元2)年の創建。1372(応安5)年に北朝の後円融天皇から「日本曹洞第一道場」との勅額を受けた。1539(天文8)年、後奈良天皇より「日本曹洞第一出世道場」の追認を受けている。

しかし1574(天正2)年に一向一揆の攻撃で全焼。現在の七堂伽藍は、江戸時代中期に再建されたもの。曹洞宗は全国に15000ヶ寺の末寺、800万の壇信徒がおり、永平寺では約150人もの雲水(修行僧)が修行している。

曹洞宗大本山永平寺は、北陸地方では宗派を超えて有名な寺院であり、修学旅行のコースにも入っている。私も小学校だか中学校だか忘れたが、修学旅行でここに来た記憶がある。北陸地方は、室町・戦国時代以降、圧倒的に浄土真宗が多い地域なのだが、北陸地方の人は、一度は永平寺に参拝しているのではないだろうか。それくらい有名な寺院であり、参拝客が多い寺院である。

私も修学旅行は別にして、何度か永平寺に参拝に来ている。独自に寺跡調査に来ているし、2010年には、あの当時、76才だった父親と二人で永平寺に参拝している。20132月にも、厳寒の永平寺に参拝して、寺跡調査を行った。あの時は、早朝、私の実家から車で行ったのでしたが、永平寺に到着したときの気温は、マイナス6度でした。私は普段、東京に住んでいるのですが、東京は真冬でもマイナス6度まで気温が下がるというのは、あり得ません。真冬の一番寒いときでも、気温0度か、下がってもマイナス1度か2度くらい。だから、永平寺の外気温マイナス6度というのは、かなりこたえました。積もっている雪が凍っていましたから。

 

永平寺に参拝する時は、窓口で参拝券を買って吉祥閣という大きな接待堂宇に入って行く。永平寺発刊の正式文献「永平寺」によれば、吉祥閣は、地下一階、地上四階の鉄筋コンクリート造りで冷暖房付きの近代建築。数十億円の巨費を投じて昭和46(1971)春に完成。一階は総受付と売店、ロビー、応接間、伝道部の勧化室がある。伝道部の勧化室で一般参拝者は、係の僧侶から永平寺の概要を聞いて、その後、拝観に出る。

2010年冬に父親と参拝したときに、これがありました。ただし、単独で参拝したときは、これがなかったこともあり、いつもこれを行っているようではない。人数がある程度、集まって行われるようである。

永平寺21勅使門 

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■福井・永平寺1(曹洞宗宗祖・道元禅師が開祖である永平寺)

 

永平寺とは、総持寺と並ぶ日本曹洞宗大本山として有名。日本曹洞宗の宗祖は、鎌倉時代に活躍した道元禅師(12001253)で、永平寺の開祖でもある。正式名は吉祥山永平寺。

現貫首は第79世 福山諦法猊下。

永平寺の境内は、約33haあり、かなり広大な境内が白山山麓に広がる。境内には樹齢約700年と言われる老杉が多数見られ、うっそうとした境内の中、大小70余りの堂宇があるとされる。

勅使門、山門、仏殿、法堂、大庫院、承陽殿、僧堂、傘松閣(さんしょうかく)、吉祥閣、浴室、東司、真陽閣、光明蔵、不老閣、 宝蔵等の七堂伽藍が全て回廊で結ばれている。

永平寺の開祖は、曹洞宗の宗祖・道元禅師で1244(寛元2)年の創建。1372(応安5)年に北朝の後円融天皇から「日本曹洞第一道場」との勅額を受けた。

その後、1539(天文8)年、後奈良天皇より「日本曹洞第一出世道場」の追認を受け、1591(天正19)年、後陽成天皇より「日本曹洞の本寺並びに出世道場」の綸旨を受けた。

 

最近、よく話題になるのは、鎌倉仏教ははたして朝廷公認の宗派になったのかどうか、という問題がある。飛鳥、奈良、平安時代には、朝廷公認の戒壇で授戒・度牒を受けた僧侶のみが、仏教僧侶として認められた。平安時代に官寺以外の公認戒壇として、比叡山延暦寺の戒壇が勅許されたが、天台宗vs真言宗、延暦寺vs園城寺等の紛争があり、延暦寺戒壇の分壇が朝廷から認められる。このあたりから「朝廷公認」ということに変化が見られ始める。しかしそれでも、鎌倉・室町時代でも、寺院宗派の「朝廷公認」とか僧侶の「戒壇授戒」を重要視する慣習は強かった。

道元も、中国から日本に曹洞宗を伝来せしめて、日本曹洞宗の開祖になったが、「曹洞宗を朝廷公認宗派にしたい」という考えは持っていたものと考えられる。それは、鎌倉・室町時代においても、朝廷公認か、幕府公認にならない限り、宗派としての生き残りが実質的に不可能だったからだ。

永平寺が、1372(応安5)年に北朝の後円融天皇から「日本曹洞第一道場」との勅額を受けたこと。1539(天文8)年、後奈良天皇より「日本曹洞第一出世道場」の追認を受け、1591(天正19)年、後陽成天皇より「日本曹洞の本寺並びに出世道場」の綸旨を受けたこと等は、こういった時代背景があったものと考えられる。

永平寺7 

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■歯の博物館5(歯の博物館・大野館長との質疑応答記4)

 

○私「入れ歯(義歯)とは、いつごろから、あるのでしょうか」

□館長「現在までに発見された最古の木床義歯は、1538年に74才で没した、和歌山県願成寺の仏姫(尼さん)の上顎の総義歯です。これは技術的に完成されており、こうした義歯制作の技術の発生は、それよりも相当以前のものと思われます。木床義歯の製造は、室町時代末期と思われ、鎌倉時代には全国的に普及していたのではないかと思われます。

鎌倉時代以降には、義歯制作を専業とする『入れ歯師』が現れ、江戸時代になるとその技法は完成されました。

江戸時代、入れ歯を制作した者は、入れ歯師と呼ばれ、香具師(やし)の仲間で入れ歯を作ったものを、入れ歯渡世人と呼ばれました。明治初期になって、西洋の義歯が伝えられてからも、木床義歯が喜ばれたのですが、当時の西洋文化を至上とする風潮から価格も安く、技法がむずかしいことから、次第に姿を消していきました。

木床義歯は、床に『つげの木』が使われました。これは口の中で適合性に優れていたためです。前歯には象牙、蝋石、人や動物の歯が使われました。奥歯には金属の鋲が使われ、ひどく摩耗した鋲が見られることから、咀嚼も充分にできていたと考えられます。」

□館長「日本には縄文時代から木の文化をもっていましたが、日本固有の木で作られた義歯は、現在の義歯と比較して、審美的にも実用的にも、遜色のないものが、数百年前には完成していました。この木床義歯(木の入れ歯)は、仏師の手慰みから生まれたものではないかと考えられます」

□館長「江戸時代に義歯をしていた有名人としては、滝沢馬琴、杉田玄白、本居宣長、平賀源内らがいます。また、江戸時代の初期、遊行寺の貫首が総義歯を入れていたという記録が残っています」

 

○私「その当時は、義歯はいくらぐらいしたのでしょうか」

□館長「1831(天保2)94日の馬琴日記によれば、上下の入れ歯の代金が一両三分(1.75)だったと記してあります」

○私「当時としても、かなり高額なものだったと思われるわけですが、上古の時代、義歯を入れていた人とは、どういう人だったのでしょうか」

□館長「江戸時代でも義歯は、かなり高価なものだったようなので、一般庶民が義歯を入れていたとは考えにくいですね。ただし、滝沢馬琴、杉田玄白、本居宣長、平賀源内らが義歯を入れていたということなので、医師、医学関係者、公家、武家、僧侶は義歯を入れていたと考えられます。」

歯の博物館2 

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■歯の博物館4(歯の博物館・大野館長との質疑応答記3)

 

○私「歯磨きをするときの歯磨き粉は、いつごろからあるのでしょうか」

□館長「歯磨き粉の製法は、特別な技術とか熟練を必要としないため、自家用として色々と工夫されて造られてきていますが、その起源は明らかではありません。

古代中国では、二十日鼠の骨が愛用され、エジプトでは紀元前1500年ころから、粉歯磨、練歯磨があり、緑青、粘土、乳香等が使われました。

日本で歯磨き粉が商品として量産されるようになったのは、江戸時代に入ってからです。その中で一般的だったものは、房州砂に香料を加えたものでした。麝香(じゃこう)と樟脳を混ぜたものは「麝香歯磨」と呼ばれ、その他、竜脳、肉桂、乳香、没薬等も用いられました。

明治になると、日本古来の材料にかわって、炭酸カルシウムや炭酸マグネシウムが原料として用いられました。そして明治21年、資生堂がはじめて練歯磨を発表しました。大正から昭和にかけては、日本の歯磨きの中国市場への進出はめざましく、中国大陸のいたるところで、獅子印歯磨(ライオン)と仁丹の広告が見られました。昭和20年以降は、葉緑素やフッ素入りのものが登場し、昭和30年ころには、粉末の歯磨き粉はほとんど姿を消しました。また、自家製の歯磨き粉としては、塩や米糠を煎ったものが長く用いられました」

 

○私「歯科治療をする歯医者さんとは、いつごろからいるのでしょうか」

□館長「日本の医学はすでに応神天皇の時代からあり、仏教の伝来と中国・朝鮮から日本に渡来する人が医学を伝えており、医者の祖というべき丹波康頼も、この一人でした。

日本の医療衛生が体系を整えたのは、大宝律令の制定からで、医学は大療科(内科)、創腫科(外科)、少小科(小児科)、耳目口歯科の四つでした。養老2(718)の養老律令の四つの医博士のひとつに、耳目口歯科があります。これが日本の歯科治療のはじめと言われています。

丹波康頼は日本ではじめて医学書である「医心方」(いしんぽう)を著し、永観2(984)に、朝廷に奉献しています。江戸時代の官職としての口科医には、禁裏付と幕府の二つがあり、民間では口腔疾患のみ扱う医師を口中医。入れ歯を造る医師を「はいしゃ」と呼んだのです。

 

○私「上古の時代の歯科治療とは、どういう治療を行っていたのでしょうか」

□館長「縄文時代晩期の人骨からは、若いときに歯を抜いた頭骨が発見されています。これには一定の形式が見られ、医療目的ではなく、成人、結婚、喪、迷信、罰といったことが考えられ、こうした習俗は現在も世界各地に残っています。

又、この時代には前歯に刻みを入れたり、唇面に縦に溝をつける研歯という習俗も見られます。この縄文時代の研歯は、中米の原住民にも見られました。」

神奈川県歯科医師会1 

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■歯の博物館3(歯の博物館・大野館長との質疑応答記2)

 

○私「歯磨きをしないと歯周病になる、ということですが、人はいつごろから歯磨きをしているのでしょうか」

□館長「歯磨きは、インドではじまりました。釈迦は僧侶が読経する前に手を洗い、歯木で歯を清掃するよう習慣づけるように指導しました。これは弟子の僧侶の口臭がひどいため、釈迦が戒律として歯を磨くように指導したのです。

釈迦は、歯磨きは、1.口気臭わず、2.味覚がよく、3.熱が消え、4.食が進み、5.眼がよくなる、と五つの利点があると説いたのです。

唐の僧侶・義浄三蔵は、インドで修行して中国に帰り、歯木で歯を清掃する習慣を伝えました。インドでは熱帯性植物『ニーム』という木を使っていましたが、中国には『ニーム』がないため、楊柳が使われて、これが楊枝と呼ばれるようになりました。

中国から朝鮮を経て、552年に日本に仏教が伝来し、釈迦の時代の古法に習って、爵楊枝が日本に紹介されました。歯を磨く習慣が一般庶民にまで普及したのは、17世紀、江戸時代以降のことです。

しかし上古の時代の歯磨きは、歯を清掃するというよりも、身を清めるという意味が強かったのです。だから、昔は、朝に歯を磨いたのです。仏教・曹洞宗では、僧侶の灌頂の儀式の時に、歯木を噛む儀式が残っていますが、これも身を清めるという意味のものです。

口腔衛生上、歯磨きをするという意味で、食後に歯磨きをするようになったのは、明治時代に西洋歯科医療が日本に伝来して以降のことです。」

○私「そうですか。私は子どものころ、両親に朝に歯を磨くように教わりましたですねえ。実家では、私の子どもの頃は、全員が朝方に、歯磨きをしていました」

 

○私「昔の人は、どんな歯ブラシを使って、歯磨きをしていたのでしょうか」

□館長「『好色の家にて口中をたしなむ事、最も業なり。外を繕ひたるも口中無沙汰ならば、色を好むと云い難かるべし』(色道大監)とあるように、江戸時代の中期、安永、明和年間には口臭が問題とされ、歯磨きやうがいが流行ました。食後にお茶を飲み、楊枝を使うようになったのは、このころからです。

楊枝は古代インドより中国を経て、仏教とともに日本に伝えられたというのが、定説になっています。インドでは楊枝は歯木と呼ばれ、その一端をかみ砕いて房状としたもので、水とともに仏教の宗教的儀式に用いられました。『楊枝』は日本では楊、すなわち柳の枝を意味しますが、インドでは菩提樹を用いました。インドの菩提樹は、桑科の常緑樹で、日本で云う菩提樹とは異なります。

房楊枝には色々な種類があり、『はようじ』は黒もじの黒い皮がついたものを用い、打楊枝はのちの房楊枝です。房楊枝が一般的に使われるようになったのは、江戸時代からのことで、種類も豊富になりました。女性用は柳でつくったもの。男性用は肝木の房楊枝とよばれ、穂先をつぶしたもので、柳に比べたら硬いものでした。女性用の房楊枝が柔らかかったのは、『お歯黒』を落とさないためと思われます。」

歯の博物館2 

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■歯の博物館2(歯の博物館・大野館長との質疑応答記1)

 

以下は、神奈川県歯科医師会・歯の博物館においての、大野館長および事務局の方の総合的な見解と言うことで、お酌み取りいただけたらと思う。

 

○私「『日蓮の歯』ないしは『肉牙』と称するものが、関東・東海など東日本各地の日蓮宗寺院や大石寺に格蔵されていると伝承されています。つまり日蓮在世中に、日蓮の歯が抜け落ちた、との伝承です。これが真実だとすると、なぜ日蓮の歯が抜け落ちたと考えられますか」

□館長「歯が抜け落ちる原因は(1)虫歯(2)激しい運動や事故などによる衝撃(3)歯周病が考えられます。歯周病は、ずいぶん昔からの古文書に出てきていまして、古くは『歯がくさい』という意味で、『歯くさ』と呼ばれていました。この『歯くさ』が今の歯周病だと考えられています。

平安時代末期から鎌倉時代初期の『病草子』という文献には、『口くさき女』『歯槽膿漏の男』の絵が出てきます。源頼朝、松尾芭蕉、小林一茶、山頭火らは歯周病だったと考えられています」

○私「日蓮に関しては、激しい運動や事故などによる衝撃による歯の脱落は、考えにくいですね。」

□館長「日蓮の抜けた歯が存在するということは、日蓮は歯周病だった可能性が高いですね」

○私「歯周病の原因とは、何なのでしょうか」

□館長「ひとつは歯周病菌です。もちろん、歯を磨かないと歯周病になりやすいのですが、朝しか歯を磨かないと歯周病に、なりやすいですね。二つ目としては、栄養不足です。栄養不足の人は、歯周病になりやすいですね」

「あとは、歯みがきの問題があります。歯磨きの歴史は古く、すでに釈迦の時代から弟子の僧侶は歯磨きをしていました。釈迦は僧侶が読経の前に手を洗って、歯木で歯を清掃するように指導していました。これは弟子の僧侶の口臭がひどいため、釈迦が戒律として、歯を磨くことをすすめたのです。

唐の僧侶・義浄三蔵は、インドで仏教の修行をして中国に帰り、歯木で歯を清掃する習慣を伝えました。インドでは熱帯性植物『ニーム』という木を使っていましたが、中国には『ニーム』がないため、楊柳が使われて、これが楊枝と呼ばれるようになりました。中国から朝鮮を経て、552年に日本に仏教が伝来し、釈迦の時代の古法に習って、爵楊枝が日本に紹介されました。歯を磨く習慣が一般庶民にまで普及したのは、17世紀、江戸時代以降のことですが、それ以前は、僧侶は歯磨きをしていました。それから考えると、日蓮も歯磨きはしていたと考えられます。

ただし、当時は今のように食後に歯磨きをするのではなく、朝方に歯磨きをしていました。食後に歯磨きをするようになったのは、西洋歯科医療が日本に入ってきてからのことで、これは歯科衛生上、食後に磨くようになったのです。それ以前の時代は、歯科衛生上の理由ではなく、朝に歯磨きをして『身を清める』という意味があったのです。今でも僧侶の灌頂の儀式の時に、歯を磨く習慣が残っている宗派があります。ただし、朝の歯磨きだけでは歯周病になる可能性は高いですね。」

歯の博物館2 

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■歯の博物館1(日蓮肉牙の謎を追って歯の博物館を訪ねる)

 

仏教の中に、仏歯牙信仰ないしは仏教各宗派の宗祖の歯骨信仰がある。鎌倉・円覚寺や名古屋・日泰寺には仏舎利が格蔵されていると伝承され、日蓮宗における日蓮の歯骨信仰、浄土真宗でも親鸞の歯骨信仰がある。「アンチ日蓮正宗」では、大石寺が格蔵する自称「御肉牙」が、本当に日蓮の歯なのかどうかの検証も行った。

歯牙、肉牙と科学・医学の関係を解明していくならば、歯の歴史、歯科治療の歴史、ないしは歯科治療の専門知識がある程度、必要になる。そこで私は、神奈川県横浜市の旧市街地・馬車道にある神奈川県歯科医師会・歯の博物館を訪問した。

歯の博物館は、神奈川県歯科医師会が運営する神奈川県歯科保健総合センターの中にある。神奈川県は、日本における西洋歯科治療発祥の地ということで、医科医療センターの前には記念碑が建てられている。ここは、昭和 62 1987 )年、神奈川県歯科保健総合センター(神奈川県歯科医師会館)の竣工と同時に歯の博物館がオープンしたというから、かれこれ25年以上の歴史があることになる。

私も、日蓮の歯骨、仏舎利等々の研究を進めていく上で、どうしても歯に関する専門知識が必要になり、近隣の歯科医で話を聞いたりしたのだったが、こういう形で専門知識を得るには、限界があった。そこでいろいろと探したところ、ようやくこの「歯の博物館」を見つけたという次第。

世間一般では、国立・公立の博物館、私立の博物館など、さまざまな博物館、資料館、美術館等があるが、一般的には、どこも開館時間内であれば、自由に入って見学できるし、学芸員に意見を聞くこともできる。

ところが「歯の博物館」は、完全予約制。まずは、神奈川県歯科医師会事務局に、いったん見学の予約をしなくてはならない。そして指定された日時に、まず神奈川県歯科医師会事務局に顔を出して事務局の人といっしょに「歯の博物館」の中に入る。普段は、「歯の博物館」の中はカギがかかって閉められており、事務局の人といっしょではないと、中には入れないという次第。

「歯の博物館」の中に陳列されている資料は、ほとんどがはじめて見聞するものばかりで、どれもこれも専門的なものばかり。どうしても専門的な解説が聞きたいところだが、「歯の博物館」の解説は、大野粛英館長が自ら行ってくれる。事務局の人でも、ある程度までは解説してくれるが、専門知識の質疑応答ということになると、「そういう話しは館長にしてください」となる。

「歯の博物館」館長は、博物館に常勤しているわけではなく、歯科医の先生であるので、普段は歯科治療をしている。そういうわけで、「歯の博物館」で館長の解説を受けるためには、これも予約が必要。これは見学者の予定、館長の予定の両方を調整しなければならないため、事務局が間に入って日程を調整する。そして、決まった日時に「歯の博物館」に行くというスケジュールになる。

神奈川県歯科医師会1 

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■大名時計博物館3(フランシスコ・ザビエルがもたらした機械時計)

 

□日本に機械時計が伝来したのは1551年にフランシスコ・ザビエルがもたらした機械時計

 

さて大名時計博物館に、大石寺「丑寅勤行」の謎とウソを暴くカギがあった。

大名時計博物館の展示・資料、および博物館が刊行する小冊子「大名時計」によれば、ヨーロッパから日本にはじめて機械時計が伝来したのは、日本にキリスト教を伝来させたフランシスコ・ザビエルがもたらした機械時計が最初である、という。

大名時計博物館館報NO4「大名時計」によれば、次のように書いてある。

 

「日本に、外国製機械時計が渡来したのは、天文20(1551)16世紀の中頃であり、フランシスコ・ザビエルがキリスト教の布教のため、大内義隆に機械時計を献上したのが、文献上では最初だといわれている。その後、信長、秀吉、家康に機械時計が献上されているが、いずれも現存しないので、重りを動力にした時計か、ゼンマイを動力にした時計なのか、知るよしもない。

慶長16(1611)、メキシコから徳川家康に献上された、ゼンマイ動力の置き時計が、現存する最古の機械時計で、静岡県の久能山東照宮に保存されている。

文献によると、徳川家康のお抱え御時計師であった津田助左衞門政之が、時計師の第一号だという。しかしながら、津田助左衞門政之より以前に、時計師がいたと思うが、記録が発見されていない。今では、江戸時代(1603)になってから、大名時計を製作したと言われているが、もしかすると江戸時代以前、室町末期に大名時計を製作していたかもしれないが、考えられるだけで、証拠立てるものは何一つ、発見されていない。

久能山東照宮に保管されている、徳川家康所蔵の機械時計以後も、外国製の機械時計が日本に渡来している。

外国製の機械時計が、日本に渡来して、それをモデルにして日本人時計師が、機械時計を製作したのが最初で、その後、日本独特の不定時法による大名時計を製作したのである、というのが、現在は定説になっている。」

 

フランシスコ・ザビエルが日本へ機械時計を伝来させたことが発端になり、江戸時代以降、日本で機械時計が生産されるようになったという。すなわち西洋式の機械時計を日本式の機械時計に改良したもので、これが即ち和時計であり、大名時計である。

したがってフランシスコ・ザビエルが機械時計を日本に伝来させる以前、日本に機械時計は存在しておらず、よって深夜2時から4時の時刻に丑寅勤行を行うことも不可能である。

したがって、よく大石寺が言う、日興の代から大石寺では毎日欠かさず丑寅勤行を行ってきた、というのは全くのウソであると断言する。

丑寅勤行3 

(原進写真集『正法の日々』に掲載されている大石寺大客殿・丑寅勤行)

 

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■大名時計博物館2(丑寅勤行の謎を追って訪れた大名時計博物館2)

 

□大石寺の深夜2時から4時の丑寅勤行の謎を追って訪れた大名時計博物館2

 

日蓮正宗では、二祖日興の時代から丑寅勤行が行われていた証拠文献として「日興跡条条事」を挙げる。ところが、「日興跡条条事」なる文書を検証していくと、まさに矛盾だらけの文書であることが判明してくる。「日興跡条条事」第三条の文には

「大石の寺は御堂と云ひ、墓所と云ひ、日目之を管領し修理を加え、勤行を致し広宣流布を待つべきなり」(日蓮正宗59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p17・『日蓮正宗聖典』p519・『御書全集』p1883より)

とあるが、この第三条の文によると、日興は日目に大石寺の「御堂」と「墓所」を管領し、修理を加え、日々勤行をして、広宣流布を待つように命じているということになるが、日蓮正宗に言わせると、大石寺の「勤行」とは、毎朝丑寅の時刻に客殿で行われている丑寅勤行のことだと日蓮正宗や日蓮正宗の信者は言う。

日蓮正宗では、日興の大石寺開創以来、毎朝欠かさず丑寅勤行を行ってきた、などと言っており、この「日興跡条条事」第三条の「日目之を管領し修理を加え、勤行を致し」の「勤行」が、日興在世当時の大石寺で行われていた丑寅勤行のことだと、無理矢理にこじつける。

しかし、これは全くのウソ。日興在世の時代に、大石寺には客殿も本堂も根本本尊もなく、毎朝の丑寅勤行など全く行われていなかった。

もっと言うと、日興在世の時代に、毎朝深夜2時から4時の時刻に勤行を行うことは、物理的に不可能だったのである。どうしてそう言えるのか。

1 そもそも深夜2時から4時の正確な時刻に、勤行を行おうとすれば、機械時計が存在していないと絶対に無理である。日時計や水時計、砂時計の類では絶対に無理。これらの時計では、日没後の正確な時刻を測定できない。

2現在の時刻の「定時法」が採用されたのは、1873年(明治6年)11日、太陽暦の導入と同時に西洋式の時法が導入されたのであり、軍隊内部では、午前・午後の間違いを防ぐために24時制が使用されていた。1942年(昭和17年)1011日、鉄道に24時制が移入され、一般人の間にも24時制が普及することとなったのである。

それでは、その定時法が導入される前はどうだったのかというと、「日の出」の時刻はすべて、「寅の刻」あるいは「卯の刻」と決めてしまい、それを境に昼と夜をそれぞれ六等分するというのが、昔の時刻の数えかたの「不定時法」だった。

しかし不定時法で時刻を決めてしまうと、北海道と九州では日の出の時刻がちがうし、夏か冬かという季節によっても日の出の時刻は違っている。

丑寅勤行3 

(原進写真集『正法の日々』に掲載されている大石寺大客殿・丑寅勤行)

 

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■大名時計博物館1(丑寅勤行の謎を追って訪れた大名時計博物館)

 

□大石寺の深夜2時から4時の丑寅勤行の謎を追って訪れた大名時計博物館

 

「本当に日興在世の時代の大石寺では、深夜2時から4時の時刻に丑寅勤行を行っていたのか」

こういう単純な疑問を解き明かすため、時計のことから調査がはじまった。そして大石寺の丑寅勤行の謎を追って、大名時計博物館を訪れたのである。

さて、時計のことを調べる前に、1日の時刻や暦についても調べる必要があり、まずはさまざまな歴史本や資料を読んで調べるところから始まった。そういう中でわかったことは

1 江戸時代以前の日本においては、今のような定時法ではなく、日の出から日の入りまでを基準とする不定時法だった。「日の出」の時刻はすべて「寅の刻」あるいは「卯の刻」と決めてしまい、それを境に昼と夜をそれぞれ六等分するというのが、昔の時刻の数えかたの「不定時法」。

現在のような定時法が導入されたのは、明治維新以降のことである。

2日の出とともに起きて、日没とともに寝る、ということが常識だった昔は、不定時法のほうが人々の生活に都合が良かった。

つまり、日の出を寅の刻とするのなら、丑寅の時刻とは、陽が昇り始める時刻であり、夏なら午前3時半くらい。冬なら6時半ころ。春分・秋分の日で5時半くらいだろうか。

日の出を寅の刻と決めてしまうのなら、何も機械時計がなくても、時刻を知ることが出来る。

しかしその場合、丑寅の刻とは、午前2時から4時ではなく、夏至で午前3時半くらい、冬至で6時半ころ。春分・秋分の日で5時半くらいと、かなり時刻に幅が出てしまう。

つまり、明治維新以前、日本で定時法が導入される以前、大石寺でも同じように不定時法を採用していたと言うなら、その時代に行われていた「丑寅勤行」とは、今の丑寅勤行とはちがったものだ。それは、身延山久遠寺や池上本門寺等の寺院の他、仏教寺院で行われている早朝5時ないし5時半ころに行われる「勤行」と何ら変わりはない。

仏教寺院で行われている早朝5時ないし5時半ころに行われる「勤行」は、丑寅勤行とは言わず、一般的に「暁天勤行」(ぎょうてんごんぎょう)と言う。「暁天」とは辞書によれば

「明け方の空。また、夜明け」(大辞泉国語辞典)

と載っている。今は暁天勤行とは言わず、早朝勤行と言う寺院も多い。

日蓮正宗の末寺寺院でも、早朝6時や6時半ころに本堂で勤行を行っている寺院がいくつもあるが、いずれも「早朝勤行」とか「朝の勤行」と呼んでいて、丑寅勤行とは言わない。

丑寅の刻に行う丑寅勤行と、明け方に行う暁天勤行ないしは早朝勤行は、別のものである。

こう言うと大石寺僧侶や妙観講あたりは「大石寺では丑寅勤行が朝の勤行に当たるのだ」と言うのだろうが、この言い訳は完全なまやかしである。

私が言っているのは、実際に勤行が行われる時刻のことを言っており、丑寅の刻なのか、それとも太陽が昇る明け方に行うのか、ということを問うているのであり、勤行の意義付けのことを言っているのではない。

 

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■佐野妙顕寺5(斉藤日軌猊下・拝謁記3)

 

さて話題は、最後の質問である佐野妙顕寺に格蔵されているという日蓮真骨について。

 

○私「佐野妙顕寺さんの公式ウエブサイトによれば、佐野妙顕寺さんには、日蓮聖人の御真骨が格蔵されているとのことですが、これはどのような縁由によるものなのでしょうか」

□猊下「それはねえ、日蓮聖人の御火葬のときに、天目上人が手を突っ込んで持ってきたものなのです。それが原因で、天目上人は手が曲がってしまったんだなあ。佐野妙顕寺の御真骨が、玉沢・妙法華寺、中山法華経寺に分骨されたということですが、今はもう、ほとんど残っていないんだけれどもねえ」

○私「日蓮聖人の御真骨を格蔵していると伝承される寺院は、あっちこっちにありますねえ。私が調べた限りでも、身延山久遠寺、池上本門寺の他、身延山から分骨された鎌倉本覚寺、京都妙伝寺。その他にも鎌倉妙本寺、京都妙顕寺にも御真骨があると伝承されています」

□猊下「そうだね。『○○身延』という名前がついている寺院には、御真骨があると伝承されているんじゃないかな」

○私「あの大石寺も、御真骨があると自称していまして、身延離山のときに日興が身延山久遠寺から大石寺に移したと言っていますが、これは全く信憑性がありません。『一跡門徒抄』『五人所破抄』『日尊遺誡』等の文献からして、日興は身延離山の時に、御真骨を大石寺に移していません。よって、大石寺が『御真骨』と称しているものは、後世に偽作されたものと考えられます」

□猊下「そのとおりである。『一跡門徒抄』『五人所破抄』を読んでおられるとは、なかなか詳しいですな」

 

庫裡の中の座敷で斉藤日軌猊下への「目通り」の席は、けっこう長時間続きました。私が、日蓮の御真骨や遺文の話題を出したので、猊下はいろいろな話しをされました。

 

□猊下「昔の人は、曼荼羅をちょんまげの中に入れていたりしたんです」

「日蓮聖人の御遺文を刻んで水の中に入れて、その水を飲んだりしていたんです。それで各地の寺院に御遺文の断簡が残っているんだなあ」

「佐野妙顕寺も、今は塔頭がなくなってしまっていますが、昔はここにも塔頭坊がたくさん建ち並んでいて、けっこう大規模な本山だったようですねえ」

「北山本門寺も『戒壇』のことを研究しているんじゃないかな。『日蓮宗の戒壇』の本を出版したとき、北山本門寺からたくさんの注文が来て、大量に発送しましたがねえ」

斎藤戒壇本1 

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■佐野妙顕寺4(斉藤日軌猊下・拝謁記2)

 

□猊下「まあ、地獄に堕ちる時は堕ちちゃうんだけどねえ。(苦笑)。でも大石寺の『戒壇の大本尊』を否定したからといって、地獄に堕ちちゃうということは、あり得ませんねえ。(苦笑)

○私「現実問題としては、日蓮正宗や創価学会の『堕地獄論』『仏罰論』は、信者を自宗派に引き留める上において、大きな効力を為しています。実際に私の元に『日蓮正宗を批判したら地獄に堕ちませんか』とか『日蓮正宗を辞めたら地獄に堕ちませんか』ということを本気で質問してくる人が、たくさんいました。私は『日蓮正宗を批判しても、日蓮正宗を辞めても絶対に地獄に堕ちません』とお答えしています」

 

□猊下「大石寺の『戒壇の大本尊』偽作説は、昔から唱えていた人がいたはずですがねえ」

○私「それは、おっしゃるとおりで、ございます。安永弁哲、窪田哲城、木下日順、宮崎英修、東佑介、美濃周人…何人もいることは事実です。

しかしながら、学問の進化、科学の進化によって、いろいろな新しい事実が出てきていること。

そして、過去の偽作説の中に、間違った内容のものもあります。

例えば、安永弁哲氏は、『板本尊偽作論』の中で、日有癩病説を証拠にして、大石寺9世日有偽作説を唱えていますが、これは妥当な論とは思えません。『板本尊偽作論』が出版された昭和30年代の議論としては、これでよかったのかもしれませんが、日蓮正宗や創価学会の『堕地獄論』『仏罰論』を論破する側が、同じように『堕地獄論』『仏罰論』を唱えていては、世間一般の幅広い支持を集めることはできません。

そこでもう一度、スタート地点に立ち返り、過去の偽作説を精査し直し、新しい調査を行い、学者・有識者の意見をいただいて、偽作論そのものを作り直す必要があると考えたわけです」

□猊下「まあ、大石寺の『戒壇の大本尊』が偽作でも、偽作でなくても、(日蓮宗には)関係ないんだけどね。」

○私「日蓮宗さんにとっては、そうなのでしょうけども、日蓮正宗や創価学会、顕正会の信者さんや元信者さんにとっては、重大な問題です。この人たちは、大石寺の『戒壇の大本尊』や『血脈相承』というものが絶対に正しい、ということを信じ込まされているわけですから、これが偽作だということになれば、『我々は騙されていたんだ』ということになり、それこそ天地がひっくり返ったようになります」

□猊下「最後は、どれだけたくさんの人から支持を集められるのか、ということになるのでしょうけどもねえ」

○私「仰せのとおりだと思います」

□猊下「本にはなっていないのですか」

○私「ブログ化してのち、書籍化を考えております」

妙顕寺10 

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■佐野妙顕寺3(斉藤日軌猊下・拝謁記1)

 

私が中に通された佐野妙顕寺庫裡の応接間らしき座敷の一室は、中央に大きなテーブルが置いてあり、斉藤日軌貫首猊下と私が向かい合って座った。座敷のむかって右側には、保田妙本寺に格蔵される「万年救護の大本尊」の大きなレプリカが掲げられている。

早速、「日蓮宗の戒壇」についての話題から入った。

 

○私「日蓮宗のお祖師様、日蓮聖人の教えとは、万民・万人が南無妙法蓮華経を唱えて成仏する、というもので、三大秘法の中では題目が中心ですね。本尊については、久遠実成の釈迦如来像。しかし戒壇については、日蓮宗ははっきりとした見解を出されていないと思われます。

日蓮正宗では、題目よりも本尊、本尊よりも戒壇中心の独自の三大秘法を唱え、日蓮が説き明かした題目中心の「三大秘法」を、実質的に否定しています。

そこで題目中心の日蓮宗で、猊下の「日蓮宗の戒壇」という本は、とても注目したわけですが」

□猊下「日蓮宗としても、題目を唱える人の在所は皆、戒壇である、という見解である。これは『理の戒壇』という意味ですが、日蓮宗としても、鎌倉・室町の上古の時代では『事の戒壇』建立ということを言っていたのです。しかし、室町時代中期、京都の日蓮宗寺院が比叡山延暦寺宗徒に焼き討ちにされて灰燼に帰す事件、いわゆる『天文法華の乱』があり、京都の日蓮宗本山のみならず、京都の街が全て灰燼になってしまった。それで『事の戒壇』建立ということを日蓮宗が引っ込めてしまったのです。『戒壇』という建物を建てても、焼き討ちにされて灰燼に帰しては元も子もありませんから。

日蓮正宗あたりでは、今でも『事の戒壇』建立ということを言っているようですね。まあ、『戒壇を建てよう』ということを、目標にするなり、スローガンにするなりして、そこにむかって進んでいくということになると、団体・組織として力が出ますわねえ」

 

○私「アンチ日蓮正宗でも大石寺の『戒壇の大本尊』偽作問題や、さまざまな『二箇相承』『日興跡条条事』『百六箇抄』等々の相伝書偽作問題を取り上げて批判していますし、これらの問題の中で『戒壇』の問題が大きなウエイトを占めていますので、『戒壇』問題について、研究を重ねてきました。そういうこと等もあったので、『日蓮宗の戒壇』についてのご見解を伺いたかったわけです」

□猊下「日蓮正宗と創価学会がケンカ別れした初期の頃、身延山久遠寺や日蓮宗宗務院に、『日蓮宗に入りたい』というファックスが殺到したということがあったと聞いている。宗務院では、そういうファックスについては放置しておいたらしいですがねえ」

妙顕寺12 

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■佐野妙顕寺2(猊下から庫裡の応接間の座敷に通される)

 

□斉藤日軌貫首猊下から佐野妙顕寺庫裡の応接間の座敷に通される

 

佐野市とは栃木県南西部に位置する市で、一説によれば、日本列島の中心に位置しているとも言われている都市。関東近県にある都市ですが、東京から行くと、かなり遠く感じました。

まず東京地下鉄を乗り継いで北千住駅へ。ここで東武特急りょうもう号に乗車。東武伊勢崎線・館林駅で、東武佐野線の各駅停車に乗り換え。ところが特急と各駅停車がぜんぜん時間的に接続しておらず、約30分くらい、ホームで待たされてしまう。

東武佐野線の電車に乗って佐野駅で下車。佐野妙顕寺へは佐野駅から徒歩1520分くらいと書いてありましたが、方向が全くわからず、佐野駅前からタクシーに乗って佐野妙顕寺へ。タクシーで56分くらいで着きました。

佐野妙顕寺に到着後、本堂前にて拝礼した後、「天目上人御墓所」と書かれた大きな看板が目に入ったので、そっちへ。佐野妙顕寺に来た目的のひとつが、大石寺の偽書「本尊七箇相承」に書いてある天目命名の真偽を確かめる、ということがあったので、天目墓所に何かヒントがあるのではないかと思い、墓所後方にあった案内板の記述を読んでみました。

案内板の記述には、天目の生い立ちについては書かれていたが、命名の謂われについての記述はなし。しかしこの案内板の記述、私が一見しただけでも、「熱原甚四郎」「永仁二年、時の将軍足利義教より寺領三百石を寄進され…」等の誤った記述が見られる。「熱原甚四郎」は熱原神四郎の間違い。「永仁二年」は、1432年(永享4年)の間違いだと思われる。

これは、どうも天目命名の謂われは、貫首猊下に聞くしかないかな、と思い、天目墓所から庫裡受付へ行ってみることにした。

境内に目を遣ると、数人の僧侶が私のほうを注目しているのが見えました。

私が庫裡に入ろうとすると、庫裡の入り口は何と自動ドア。私がドアに近づくと、開き戸が一気に両側に開いたので、私のほうがビックリ。庫裡の玄関ドアが自動ドアというのも、珍しいのではないだろうか。

庫裡の玄関の中には受付があり、若い僧侶と寺族の女性がおり、私が「昨日、電話をした者です」と告げると、「あーあー」という感じ。受付にて斉藤日軌貫首猊下の著書「日蓮宗の戒壇-その現代的意義」を購入。早速、若い僧侶に、日蓮宗の戒壇についての見解等を尋ねると「今、貫首を呼んでまいります」と言って外へ。しばらく待っていると、外から斉藤日軌貫首猊下が若い僧侶と中に入ってきました。

斉藤日軌猊下は、ずいぶん体格の大きな人で、身長も私より高い。私も体格が大きいと言われることがあるのですが、斉藤日軌猊下は、私よりもひとまわり体格が大きな人。私は佐野妙顕寺に来た目的を説明すると、猊下から「あなたは、誰なのか」との質問。そこで来訪先で見せている「アンチ日蓮正宗」の名刺を手渡す。佐野妙顕寺に行ったのは、「アンチ日蓮正宗」をブログ化する前で、「仏教宗学研究会」ブログもなかったころのこと。

妙顕寺5 

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■佐野妙顕寺1(「日蓮宗の戒壇」という著書をもつ斉藤日軌猊下)

 

□「日蓮宗の戒壇」という著書をもつ斉藤日軌猊下が第49世貫首として当住する佐野妙顕寺

 

佐野妙顕寺とは、栃木県佐野市堀米町にある、日蓮宗の本山・由緒寺院で、正式名は開本山妙顕寺。ここは1294年(永仁2年)に日蓮の中老僧・天目が開創した寺院として有名である。日蓮宗本山に格付けされている。

天目(12561337・延元2年)は、勤行の時に法華経方便品を読誦すべきか、するべきでないかという方便品読不読論争で、方便品不読を主張したことで有名。

日向天目問答や日仙日代問答における方便品読不読論争を、本迹勝劣論争と混同している論調が一部にあるが、これは誤りである。日向天目問答や日仙日代問答における方便品読不読論争とは、あくまでも勤行の時に方便品を読誦すべきかどうかの論争であって、本迹に勝劣があるかどうかの論争ではない。

歴史上はじめて「本迹勝劣」を説いたのは、法華宗陣門流の門祖・日陣(13391419)1396(応永3)年に著した「選要略記」であり、1406(応永13)年、日陣が京都・四条堀川に本禅寺を創建したことで、京都で本迹論争が約8年間にわたって起きたのが、歴史上最初の本迹勝劣論争、いわゆる本迹論争である。

天目は、佐野妙顕寺の他に、鎌倉本興寺・品川妙国寺・小勝本門寺などを創建。常陸国笠間にて寂し小勝本門寺に葬られた。著書に『円極実義抄』・『本迹問答七重義』などがある。

小勝本門寺とは、茨城県東茨城郡城里町小勝857にある寺院で、現在は修多羅寺と改名している。正安2年(1300年)開山。徳川光圀の時、寺領5石の朱印が与えられ、毘沙門天が寄進され、寺号を修多羅寺と改名。水戸家武運長久の祈願所となった寺院である。

私が佐野妙顕寺に着目した理由は、天目開山ということもあるが、現貫首である佐野妙顕寺49世斉藤日軌猊下の著書「日蓮宗の戒壇」という本である。戒壇とは、もちろん、日蓮の「三大秘法」のひとつ、戒壇である。

なぜ「日蓮宗の戒壇」という本に着目したのか、というと、まず日蓮宗の正式見解として、日蓮が説いた戒壇については、「題目を唱える人の住処が戒壇」とは言うが、はっきりとした見解を出していない。何がはっきりしていないのかというと、「三大秘法抄」に説かれる戒壇とは、一体どういう戒壇なのか。ということ。

日蓮宗は「三大秘法抄」の真偽そのものについては、今は真書ということで見解がまとまりつつある。実際に、斉藤日軌猊下も「三大秘法抄」は日蓮真筆である、という見解。

日蓮宗の見解がはっきりしないというのは、「三大秘法抄」の真偽ではなく、「三大秘法抄」の戒壇、本門戒壇がどういう形で建立されるのか、という具体性、現実的解釈の話し。

こんなことを書くと、19701990年代に、日蓮正宗、創価学会、顕正会で激しい論争になった「三大秘法抄」の戒壇の解釈問題、正本堂の意義付け問題を連想してしまうが、あれとは別であり、全く異なる問題である。

斎藤戒壇本1 

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■京都本能寺8(大石寺の種脱勝劣は日陣・日隆門流のパクリ3)

 

□大石寺9世日有の本迹勝劣・種脱勝劣は京都・日隆門流教学のパクリ・アレンジである

 

大石寺教学の本迹勝劣・種脱勝劣が法華宗勝劣派の日陣門流のパクリなのか。あるいは日隆門流のパクリなのか、ということを検証していく上で、ポイントとなるのは、交流の問題がある。

大石寺ないしは大石寺9世日有と京都本能寺・日隆には、室町時代に明確な接点があった。

大石寺側の史料である「日有師・物語聴聞抄佳跡上」(日有御物語抄)には、次のようにある。

一、第廿九段本書曰尼崎の慶林坊の師匠広覚坊日学、冨士大石寺の門徒、讃州高瀬大弍阿闍梨日寿と土州幡多、庄山田郷在岡の法華堂真静寺と吉奈の富士門徒との問答は神力品の五重玄義は約教の五重玄か、約行の五重玄かと問ふ、日学は約行の五重玄と云ふ、日寿は約教の五重玄と云へり此問答なり已上。 (富士宗学要集1p233)

 

尼崎の慶林坊」とは、日隆門流・京都本能寺の開祖・日隆のこと。詳しい現代語訳は省略させて頂くが、大石寺門流と日隆門流で問答をした、というような内容である。

大石寺9世日有は、1432(永享4)に、京都天奏のために上洛している。

日陣と日隆の事跡を照らし合わせてみると

1396(応永3)年、日陣が「選要略記」を著して歴史上はじめて「本迹勝劣」を説いた

1405(応永12)年 日隆が京都妙本寺を退出し比叡山、高野山に遊学。

1406(応永13)年 日陣が京都・四条堀川に本禅寺を創建 本迹論争が起きる

1410(応永17)年 日隆が日存、日道と越後本成寺に日陣を訪ねる。

1415(応永22)年 日隆が京都本応寺を創建

1418(応永25)年 京都本応寺が妙本寺宗徒により破脚される。

1426(応永33)年 日隆が童型の自像を彫刻せしむる

1429(永享元)年 日隆が『四帖抄』を著す。本応寺を再建。第二次建立。立宗を宣言。妙蓮寺と断絶。

1431(永享3)年 日隆が日蓮百五十回遠忌を本応寺にて奉修。

(『本能寺』p16)

 

日隆は大石寺9世日有が京都に上洛した1432(永享4)の時点において、すでに日隆門流の教学の大綱を確立していた。したがって、大石寺9世日有が偽作した「百六箇抄」にある本迹勝劣・種脱勝劣は、日隆門流教学の大きな影響があったことは明らかである。「百六箇抄」にある本迹勝劣・種脱勝劣は、日隆門流教学の本迹勝劣・種脱一双・八品正意のパクリであり、アレンジと見るのが妥当であろう。

 本能寺31三門

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■京都本能寺7(大石寺の種脱勝劣は日陣・日隆門流のパクリ2)

 

□非常によく似ている大石寺の本迹勝劣・種脱勝劣と法華宗勝劣派・日陣・日隆門流教学

 

日蓮を宗祖とする宗派の中でも、大石寺(日蓮正宗)を含む富士門流(日興門流)、顕本法華宗(妙満寺派)、日陣門流(法華宗陣門流)、日隆門流(法華宗本門流・本門法華宗)、日真門流(法華宗真門流)を、法華経二十八品を前半十四品を迹門、後半十四品を本門に二分し、本門が迹門に優れるという勝劣をたてる勝劣派という。

勝劣派の中でも、日蓮本仏義を立てるのは、大石寺(日蓮正宗)や創価学会、顕正会、正信会などの日蓮正宗系と一部の富士門流だけだが、日蓮を本仏と立てるか、釈迦如来を本仏と立てるか、という相違点を除けば、この勝劣派の教義は、実によく似ている。

□法華宗陣門流(総本山・新潟本成寺・別院・京都本禅寺・鷲津本興寺等)

<開祖>日陣(13391419)

<本迹法体勝劣>

日陣は応永3(1396)、「選要略記」を著して「本迹勝劣」を説いた。その後、日陣は京都に上洛して本迹勝劣を主張し、以後、8年間にわたって本迹論争が起こった。京都本圀寺系末寺700余ヶ寺のうち、半分近い寺院が日陣に随ったとされる。

<寿量一品正意>

本迹二門を開会する能説の教えは本門寿量品に限るとする寿量品正意論を唱えた。

□日隆門流(法華宗本門流・本門法華宗)

<開祖>日隆(13851464)

<本迹勝劣>

法華経二十八品を前半十四品を迹門、後半十四品を本門に二分し、本門が迹門に優れるという勝劣をたてる。

<八品正意論>

『観心本尊抄』の「本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付嘱したまわず…但地涌千界を召して八品を説いて之を付嘱したまふ。其の本尊の為体、…是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し、八年の間但八品に限る」

の「但八品に限る」の文を根拠に、『法華経』二十八品のうち「従地涌出品第十五」から「嘱累品第二十二」までの本門八品に顕れた神力付嘱・上行所伝の妙法のみが、久遠実成の本仏の正意であり、日蓮の正意である」という八品正意論を唱える。

<種脱一双論>

『観心本尊抄』の「在世の本門と末法の初めは一同に純円なり。但(ただ)し彼は脱、此(これ)は種(しゅ)なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり」

との文を、「在世と末法、種と脱の異りはありとも、其の体(たい)はこれ同じ」として、種脱の法体に勝劣はないとする「種脱一双論」を唱える。

本能寺31三門 

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■京都本能寺6(大石寺の種脱勝劣は日陣・日隆門流のパクリ)

 

□非常によく似ている大石寺の「種脱勝劣」と日陣「寿量一品正意」・日隆「八品正意」教学

 

大石寺の「本迹勝劣」が日陣門流・日隆門流の「本迹勝劣」のパクリであれば、それでは大石寺の「種脱勝劣」はどうなのか、という問題が起きる。実はこれも日陣門流・日隆門流のパクリである。

種脱勝劣は、直接、日蓮本仏義に結びつく教義であるが、京都本能寺・日隆門流は、日蓮本仏義は説いておらず、本門八品正意論の宗旨である。そのどこに「種脱勝劣」に似た教学があるのか。

「本果妙を称嘆するは脱益の機に対する顕本なり…さて本果所成の妙は本仏の脱益なり。末法当時名字即の凡夫口唱の妙法下種の手本に非ずと簡で本果妙覚の脱を廃して…本因名字即を顕本するなり。是末法当時下種の手本の顕本なり。…脱の機のためには本果を顕し下種の機のためには、本因妙を顕すと口伝すべきなり」

(日隆「私新抄」日蓮宗宗学全書8p85)

「久遠本因妙の釈尊の位と末法蓮師の位と一体なり。…所行の妙法又一致なるべし。此の時は釈尊も名字の凡人、日蓮聖人も名字の凡人にして全同なり。蓮師即釈尊、釈尊即蓮師なるべし」

(日隆「私新抄」日蓮宗宗学全書8p85)

「本果妙釈尊といふ方は在世正説の辺、本因妙地涌と言ふ方は十界久遠下種の辺なり。是流通の意なり。所詮釈尊上行同体にして一切衆生最初下種の時は本因上行と顕れ、得脱の時は本果釈尊と顕りるなり」(日隆「五帖抄」日蓮宗学説史p183)

 

一見すると、京都本能寺の開祖・日隆は、大石寺教学とまがうかのような教学を展開している。

わかりやすくするために、大石寺教学の日蓮本仏義を説き明かす代表的な偽作文書「百六箇抄」から、類文を拾ってみた。

「名字本因妙は本種なれば本門なり。本果妙は余行に渡る故に本の上の迹なり。久遠釈尊の口唱を今日蓮直に唱ふるなり。」

「久遠名字の正法は本種子なり。名字童形の位釈迦は迹なり。我本行菩薩道是なり、日蓮が修行は久遠を移せり」

「本果妙は釈迦仏、本因妙は上行菩薩、久遠の妙法は果、今日の寿量品は花なるが故に、従果向因の本迹と云ふなり」

「直達の法華は本門、唱ふる釈迦は迹なり。今日蓮が修行は久遠名字の振舞に芥爾計も違はざるなり」

「本因妙を本とし、今日寿量の脱益を迹とするなり。久遠の釈尊の修行と今日蓮の修行とは芥子計も違はざる勝劣なり」

(「百六箇抄」富士宗学要集1p1519)

 

一見して、両者の類似は明らかであろうと思われる。

本能寺27本堂

 

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■京都本能寺5(大石寺の本迹勝劣は日隆門流のパクリ)

 

□本迹勝劣・種脱勝劣の「百六箇抄」成立は日陣・日隆の本迹勝劣義よりも後のことである

 

かつて日蓮正宗の日蓮本仏義が中古天台宗の恵心流本覚思想・口伝法門のパクリであるという説に疑義を唱え、これをベースにした日蓮本尊義は誤りであるとする説を唱えた。以前にも論究したが、日蓮本仏義とは、大石寺9世日有の日有化儀抄だけで成り立っているのではなく、「百六箇抄」「本因妙抄」「産湯相承事」「御義口伝」と、一体化・ワンセットになって成立している、という重要なポイントがある。