一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として1985年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

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■湯之奥・猪之頭線2・室町時代、日有が往還に使った上人路・「湯之奥・猪之頭線」2

 

□湯之奥・猪之頭線を実際に車で走って室町時代の大石寺9世日有の足どり調査1

 

さて私は車に乗って、再び県道に出て北上。「林道の入り口っていうのは、ここかな?」と思ったところを左折したのですが、再び細い農道の袋小路のような所に迷い込んでしまいました。

それでも眼前に毛無山が見えたので、毛無山の方向に狭い農道に沿って車を走らせて行くと、なんと農道が行き止まりになってしまいました。「あれれ、また道を間違えたかな」と思って、車をUターンさせて引き返し、途中、畑仕事をしていた老人に道を尋ねました。

○「山梨県の湯之奥に抜ける林道は、こちらではないのですか」

地元の人B「あー、それはこっちじゃないんだよ。もう一本、むこうの道なんだなあ」

○「もう一本むこうですか」

地元の人B「そうだあ」

○「その林道を走ってトンネルを抜ければ、山梨県の湯之奥まで、抜けられるんですよね」

地元の人B「んー、普段は抜けられるんだけども、ここんところ、台風やら大雨やらで、がけ崩れが起こっているみたいだからねー。今日は走れるかどうか、わからないよ」

○「がけ崩れですか」

地元の人B「そう。大雨が降ると、よくがけ崩れがおこる所だからねー。よしんばトンネルまでは抜けられても、山梨に入ってからが道が悪いからね-。行けるかどうかは、わからないよ。湯之奥に行きたいんだったら、遠回りだけども、本栖湖のほうから行ったほうがいいよ」

 

こんなやりとりがあって、私は三たび、県道に引き返しました。県道に引き返して、三たび北上。林道の入り口を探したのですが、しばらく走ると「湯之奥・猪之頭線林道入り口」と書かれた標識を見つけました。「あー、やっと見つけた」と思って、ようやく県道から林道・湯之奥・猪之頭線へと左折。すると前方から、地元の中年女性二人が歩いてきました。二人は地元では見かけない、品川ナンバーの車が走ってきたので、珍しそうに私が乗っている車をジロジロと見ていました。「ちょうどいい。この人たちにも聞いてみよう」と思い、見を聞いてみることにしました。

○「この道をまっすぐ行くと、湯之奥に抜けるトンネルに出るんですよねえ」

地元の人C「あー、出るけんどねえ。ここのところの大雨やら、台風やらで、がけ崩れがおこっているから、行かないほうがいいよ」

 

こんな感じで制止されてしまいました。私がここに来る数日前に、台風の影響によるものすごい豪雨が数日つづき、がけ崩れが起こっているということでした。しかし、私のほうも、せっかくここまで来て、引き返したのでは納得がいきません。そういうわけで、ここは地元の人たちの制止を振り切って、林道を毛無山に向かって走っていくことにしたわけです。

湯之奥線7 

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■湯之奥・猪之頭線1・室町時代、日有が往還に使った上人路・「湯之奥・猪之頭線」1

 

□大石寺9世日有が往還に使った上人路・「湯之奥・猪之頭線」の調査

 

□大石寺の『戒壇大本尊』は9世日有の偽作だ

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_161878.html

□戒壇大本尊は9世日有の偽作だ001080

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_628700.html

□戒壇大本尊は9世日有の偽作だ081150

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_628705.html

□戒壇大本尊は9世日有の偽作だ151200

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_628708.html

この湯之奥・猪之頭線というのは、静岡県富士宮市猪之頭地区と山梨県身延町湯之奥地区・下部温泉を結ぶ林道です。

なぜここに来たのかというと、日蓮正宗大石寺9世日有が、大石寺と大杉山・有明寺の往還、下部温泉の湯治のために、ここを歩いた「上人路」と言われるルートであったこと。

さらに、室町時代の中頃から江戸時代にかけて、今の静岡県と山梨県の県境付近で、湯之奥金山をはじめとする金鉱掘りが行われ、大石寺9世日有が「上人路」を往還する中で、湯之奥金山で金堀をしていた金山衆から、「金」の供養を受け取っていたこと。この「上人路」(しょうにんみち)の実地調査のためです。

室町時代の中期、大石寺9世日有が大石寺と湯之奥金山・下部温泉・有明寺を往還した「上人路」が、まさに今の湯之奥・猪之頭線であり、ここの実地調査のために来たわけです。

富士宮市猪之頭地区の数キロ南には、日蓮正宗大石寺があります。

この湯之奥・猪之頭線という林道は、富士宮市猪之頭地区から山林の中を通り、静岡県・山梨県の県境のトンネルを抜けて、山梨県側に出ると、ほどなくして、かつて室町時代・戦国時代は金山の町だった湯之奥地区に入る。さらに道路は、湯之奥地区から下部温泉に抜けるのですが、湯之奥地区から下部温泉への道路は、一般車も通れる県道になっていて、猪之頭地区から湯之奥までが林道になっているわけです。この山梨県と静岡県を隔てている山が毛無山。室町・戦国時代から江戸時代にかけて、湯之奥金山・富士麓金山などの、いくつかの金山があったところです。

静岡県富士宮市側から毛無山に登る登山道は、湯之奥・猪之頭線以外にもあります。

室町・戦国時代から江戸時代にかけて、毛無山には金山がいくつも採掘され、今の静岡県側から、たくさんの人たちが毛無山の金山に入って、金鉱を掘っていたことが、湯之奥金山博物館の研究発表や展示、出版物で述べられています。こういう登山道が今も残っているのは、金山が掘られていた時代からの、なごりなのかもしれません。

湯之奥線2


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■湯之奥金山博物館8・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館8

 

□何度も足を運んで調査した山梨県JR下部温泉駅前・湯之奥金山博物館

 

ところで、自分なりに調査・研究していって、どうしても一点、わからなかったことが、この湯之奥金山は、いつから採掘がはじまったのか、ということである。

湯之奥金山の採掘がいつからはじまったのか、ということは、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が、日有によって偽作されたことを証明する大きなポイントになる。

日有が大石寺法主であった期間は141984 - 1467年、1472 - 14829月であり、京都天奏が1432年、「本門戒壇の大御本尊」偽作が1445年だとすると、少なくとも15世紀前半には、湯之奥金山での金の採掘がはじまっていなくてはならない。15世紀後半ということだと、湯之奥金山の金による「本門戒壇の大御本尊」日有偽作の根拠が大きく薄れてしまうことになる。

そこのところを展示を見学したり、売店で館長の著書を買ったり、記念講演・公開講座の記録集等々を買って読んだのだが、ここのところが、どこにも出ていないのである。

「湯之奥金山博物館・展示図録」の中のコラムで、堀内亨氏という人が

「発掘調査の結果、中山金山の操業の始期は15世紀後半、黒川金山のそれは16世紀初頭と推定されている」(p38)と書いている。15世紀後半と推定と書いているが、操業とならなくても、湯之奥金山に人が入って金を掘り始めたのはいつなのか。これが私は知りたかった。

 

まずは湯之奥金山博物館の受付カウンターにいた、中年の男性係員に率直に質問をぶつけてみた。ところが、この人は、私の質問に対して、とおり一辺倒のマニュアル的な答えをするだけで、私が求めた「いつから湯之奥で金の採掘がはじまったのか」という質問に対する答えが出てこない。

私が、突っ込んで聞くと、わからないという。

「それでは館長に聞いてください」と要求すると、もじもじ渋っていたが、「今、館長はいないんですか」と押すと、今、館長が館長室にいることを告白。

男性係員は、「では館長室に行って聞いてきます」と行って、二階に上がって行ったのである。

私はてっきり、この男性が館長に聞いて、下に降りてくるものだとばかり思っていた。すると何と、谷口一夫館長が自ら下に降りてきたのである。

思わぬ形で、湯之奥金山博物館の谷口一夫館長と単独会見が実現することになったのである。

谷口一夫館長が自ら下に降りてきて、思わぬ形で、湯之奥金山博物館の谷口一夫館長との単独会見が実現することになったのである。

谷口館長は「何か?」という感じで、私の前に現れた。私はこの時が千載一遇のチャンスととらえ、質問をストレートに谷口館長にぶつけた。

湯之奥金山博物館2 

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■湯之奥金山博物館7・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館7

 

□「戒壇大本尊」を偽作して湯之奥・金山衆の金の供養独占を狙った大石寺9世日有

 

湯之奥金山の金山衆は、「南無妙法蓮華経」を唱える法華の信者であった。

法華の信者である金山衆たちは、甲斐国の人たちは主に身延山久遠寺に参詣し、駿河国の人たちは主に北山本門寺、大石寺などの富士五山に参詣し、供養した。

一般大衆がどこか特定の宗派、特定の寺院に所属が固定化されたのは、寛文11年(1671年)に宗門人別改帳が法整備されてからのことで、それ以前は、寺院に信者名簿があったわけではなく、機関紙があったわけではなく、講組織が今のように整備されていたわけではなく、御書全集があるわけでもなく、それどころか信者の大半は、文字すらも読めなかった。

室町時代の頃、信者の大半は、半農・半商・半職の武士が多く、日々は農作業やら、売り買いやら、戦で多忙であった。

法華講などの講組織は、関東・甲信・駿河・東北にはあったようだが、今のように全ての信者を網羅する組織が整備されていたわけではなく、信者も勤行や布教をしていたわけでもなく、教学にもほとんど縁がなかった。

室町時代、戦国・安土桃山時代のころの布教の主体は僧侶であり、僧侶が自坊の持仏堂に本尊を祀って勤行をし、外へ出て布教活動を行い、天台の檀林等に修学して教学を身につけていた。

僧侶の布教の縁故で、信者が寺院に参詣し、供養していたわけだが、その当時の寺院では、大石寺では、御講等の行事・法要が行われていたようだが、末寺に至っては、定期的な行事・法要が行われていない所が多く、寺院と信者の関係は、ほとんど供養するだけだったと言える。

大石寺門流で客殿を創建して、信者を集めて法要を行ったのは大石寺9世日有が最初である。

 

大石寺9世日有は、金山衆から金の供養を受けていたが、金山衆は大石寺の日有だけに供養していたわけではなく、身延山久遠寺にも供養し、北山本門寺にも供養していた。大石寺9世日有が金山衆の供養を独占していたわけではないのである。

そこで大石寺9世日有は、「戒壇の大本尊」なる板本尊や「日蓮本仏義」「唯授一人の血脈相承」なるものを偽作して、金山衆の金の供養の独占を狙ったわけである。

「大石寺には日蓮大聖人からの唯授一人の血脈相承による『本門戒壇の大御本尊』が格蔵されている。大石寺だけが日蓮大聖人の唯一正統の門流である。だから大石寺に供養すれば功徳がある」

今風の日蓮正宗的に言い方だと、さしずめこんなところだろうか。

大石寺9世日有は、「戒壇の大本尊」なる板本尊や「日蓮本仏論」「唯授一人の血脈相承」なるものを偽作し、大石寺に客殿を創建して、信者を集めて法要を行い、さらに湯之奥・下部にほど近い甲斐国(山梨県)杉山に有明寺を建立して、金山衆を大石寺につなぎ止めようとした。

かくして大石寺9世日有は、大石寺で金山衆の金の供養を独占することを狙ったのである。

湯之奥金山博物館3


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■湯之奥金山博物館6・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館6

 

□湯之奥金山の金山衆たちは富士門流の信者が多かった

 

湯之奥金山遺跡学術調査会・調査団の学術的総合調査によって、湯之奥金山博物館展示図録は、はっきりと中山金山の金山衆たちの菩提寺は、静岡県富士宮市にある富士門流八本山のひとつ・北山本門寺であったと特定している。ならば「北山本門寺の信者であった湯之奥金山の金山衆が、なぜ大石寺法主・日有に金を供養したのか」ということになるが、ここで当時の時代背景をよく考察する必要がある。

まず第一に、日蓮正宗大石寺9世法主日有の時代は、富士門流の中でも、まだ大石寺と北山本門寺が同一の門流として、互いに交流がさかんにあった時代であり、今のように全く口も聞かないほど決定的に分裂していなかったということ。

第二に、この当時、鎌倉・室町・戦国時代の仏教界は、今のように信者名簿や寺檀制度が整備されていたわけではなく、信者で「二重信仰」「三重信仰」していた人は、それこそたくさんいた。

富士門流内においては、京都・日尊門流、大石寺門流、西山本門寺、北山本門寺、保田妙本寺、小泉久遠寺等は、相互に交流があったわけだから、この富士門流の中で、例えば大石寺と日尊門流、北山本門寺と日尊門流、あるいは北山本門寺、小泉久遠寺、日尊門流といった風に「二重信仰」「三重信仰」の「かけもち信仰」をしていた信者は、ごく当たり前のように存在していた。

寺院と信者の関係が完全に固定化されたのは、江戸時代の寺請制度により、本山寺院信者の檀家制度が整備されて以降のことである。

したがって、日有の時代の金山衆たちは北山本門寺に参詣していたであろうが、同時に、大石寺にも出入りしていたであろうし、信者であれば、御講やお会式などの寺院参詣の折りや葬儀・法事・結婚式などの冠婚葬祭の折りなどには、供養を大石寺にも出すが北山本門寺にも差し出す。

湯之奥金山の掘間を所有し、金山を操業・経営し高度な技術を持っていた金山衆たちは、大石寺に供養した折りには、当然、自分達が生産した金を差し出したことは、疑いないことだ。

日有は、北山本門寺など他の富士門流本山寺院に先んじて、黒漆塗りに金箔加工を施した板本尊を造っていることからして、富士五山などの富士門流の本山寺院の中でも、特に湯之奥金山の金山衆たちと密接な関係があったと考えられる。

湯之奥金山遺跡学術調査会・調査団のさまざまな学術的総合調査によって、山梨県身延町(旧下部町)の甲斐黄金村・湯之奥金山博物館の展示や湯之奥金山博物館展示図録のみならず、湯之奥金山博物館館長・谷口一夫氏の著書「武田軍団を支えた甲州金」など学術研究者の著書においても、はっきりと湯之奥金山の金山衆は、「墓石からそのほとんどは法華の信者であった」と記載しており、湯之奥金山の拠点である中山金山の金山衆たちの菩提寺は、静岡県富士宮市の北山本門寺であったと特定している。

北山本門寺39仁王門


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■湯之奥金山博物館5・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館5

 

□湯之奥金山の金山衆は日蓮宗系・富士門流の「法華の信者」だった2

 

江戸時代に湯之奥の中山金山に建てられた石塔や茅小屋金山に建てられた墓石に「富士北山村」の文字が見えるものがあることから、湯之奥金山博物館では、金山衆の菩提寺は富士宮市北山の北山本門寺であったと特定している。

湯之奥金山博物館の展示では、これは湯之奥金山の金山衆が静岡県富士宮市と深い関わりがあったことを示唆していると、している。

富士吉田市歴史民俗博物館勤務の堀内真氏が、1998117日に湯之奥金山博物館で行われた第4回公開講座における「金山衆の暮らしと信仰」と題する講演で、湯之奥金山の石塔に記された人物名、富士宮市・北山本門寺の「御廟所」、北山周辺在住の人々の家系等々を調査した上で次のように言っている。

「富士宮市とその周辺に富士五山という五つの日蓮宗の大きな寺院があります。その一つを北山本門寺と言いますが、この寺の『御廟所』は寺の中でも有名な檀家で埋葬されている墓地であって、そういった石塔を見ていくと、その中の一つに先祖の由緒が書いてあるものがあります」

「どうやら中山金山(湯之奥で最大の金山)で活動していた金山衆は元々甲州の人間ではなく、駿河の人間であった可能性が極めて高いのです。金山の中の石塔には日蓮宗タイプの石造物が立っているわけですが、麓に下って以降のそれも北山本門寺という日蓮宗とのつながりを継続して残していることが分かります」(『金山史研究・第1集』p73)

 

立正大学仏教学部非常勤講師・立正大学日蓮教学研究所客員所員の望月真澄氏が、20051217日の湯之奥金山博物館回公開講座における「甲斐と駿河を結ぶ道」と題する講演で、次のように講演している。

「金山を掘る金山衆という職業の人々がどのように(湯之奥に)登山し、下山していったか。出身地の多くは、富士宮市北山地域と言われています。それはなぜかと言いますと、北山本門寺(富士宮市)が菩提寺となっている人が多かったから分かることです。本門寺は、日蓮宗の本山であり、金山衆が山の上で亡くなれば、その傍らに供養塔が建立されました。この石塔には、『南無妙法蓮華経』の題目が刻まれ、法華の法号(戒名)が記されています。金山衆の信仰の軌跡が山上に残されていることは貴重なことです」(『金山史研究・第8集』p46)

 

堀内真氏や望月真澄氏のように、金山衆の菩提寺をはっきりと北山本門寺と特定している学者も居る。堀内真氏は大石寺・富士妙蓮寺・北山本門寺・西山本門寺・小泉久遠寺の富士五山を「日蓮宗の大きな寺院」と言っているところが面白い。

北山本門寺39仁王門


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■湯之奥金山博物館4・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館4

 

□湯之奥金山の金山衆は日蓮宗系・富士門流の「法華の信者」だった1

 

湯之奥金山で金の採掘・経営を行っていた金山衆は、いかなる信仰をしていたのか。

湯之奥金山博物館の「金山に生きる」のコーナー、「金山衆の生活と信仰」によれば

「金山衆の上層の人々は、祖母懐の茶釜や天目茶碗を用いて茶の湯を楽しみ、余暇には囲碁を楽しんでいた。彼等は亡くなると七人塚に代表される墓地に埋葬されたが、墓石からそのほとんどは法華の信者であったことが理解される」

とある。その証拠を示すものとして、湯之奥の中山金山付近で祀られていたという社の棟札、湯之奥金山周辺に残っている石造物、発掘調査で出土した磁器、陶器、陶磁器、銭貨、銅製品、碁石、武田氏が発行した古文書、朱印状、井出正次手形といった文献を挙げている。

金山衆の古文書については、湯之奥金山のすぐ隣の甲斐国・駿河国の国境(山梨県・静岡県の県境)付近に富士金山という金山があり、その富士金山を采配した金山衆の末裔である竹川家が現存しており、竹川家の古文書も調査されているという。

甲斐国・駿河国の国境をはさんで湯之奥金山と富士金山は隣接しており、金鉱脈は同一である。江戸時代の初頭の段階で、富士金山には16本の掘間があり、駿河代官・井出正次が竹川家に、湯之奥の中山金山の掘間の管轄を命じた文書が、先の井出正次手形である。

湯之奥金山博物館の谷口一夫館長の著書「武田軍団を支えた甲州金」によれば、湯之奥金山にある石造物としては、中山金山には10基、内山金山には2基、茅小屋金山には10基あり、これらの石塔の中に「南無妙法蓮華経」の文字が見えるという。

あるいは、石塔に刻まれた戒名を見ると「悲母妙安霊」「慈父宗安」「母妙養霊位」といった日蓮宗系の戒名になっている。

こういったところから、湯之奥金山博物館では、金山衆のほとんどが「法華の信者であったことが理解される」というふうに結論づけているわけである。

湯之奥金山博物館3 

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■湯之奥金山博物館3・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館3

 

□戦国大名・武田氏の軍役も担っていた湯之奥金山の金山衆

 

それでは、実際に湯之奥金山で金鉱を採掘し、精錬、経営していた金山衆(かなやましゅう)と呼ばれる人たちは、いかなる人たちだったのか。これについては、湯之奥金山博物館の「金山に生きる」のコーナーの□「金山衆の生活と信仰」□「金山衆とはという項目」で、展示されている。

展示を見ると、金山衆がいかなる宗教を信仰して、どういう生活をしていたのか、ということが細部にわたって、発掘調査や古文書調査等々で判明しているというから面白い。

その証拠を示すものとして、湯之奥の中山金山付近で祀られていたという社の棟札、湯之奥金山周辺に残っている石造物、発掘調査で出土した磁器、陶器、陶磁器、銭貨、銅製品、碁石、武田氏が発行した古文書、朱印状、井出正次手形といった文献を挙げている。

金山衆の古文書については、湯之奥金山のすぐ隣の甲斐国・駿河国の国境(山梨県・静岡県の県境)付近に富士金山という金山があり、その富士金山を采配した金山衆の末裔である竹川家が現存しており、竹川家の古文書も調査されているという。

甲斐国・駿河国の国境をはさんで湯之奥金山と富士金山は隣接しており、金鉱脈は同一である。江戸時代の初頭の段階で、富士金山には16本の掘間があり、駿河代官・井出正次が竹川家に、湯之奥の中山金山の掘間の管轄を命じた文書が、先の井出正次手形である。

金山衆というのは、金山の経営を行う技術者であるが、彼等は金鉱の掘間を所有し、操業し、ときには戦国大名の要請に応じて、戦にも参加した。武田氏の発給した古文書に依れば、金山衆は馬の通行税も免除され、商業活動も行っていたということである。

戦国大名・武田氏の勢力が最も盛んだった元亀2(1571)、武田信玄が北条氏の属城である駿河国・深沢城(静岡県御殿場市)を攻略しているが、この戦には多くの金山衆が参加し、戦功を立てた金山衆に対して、褒美が与えられた文書が残されている。

この深沢城の戦の他、金山衆が参加して手柄を立てたという伝承を有する城がいくつかあり、金山衆は「軍役衆」と同じような役割も果たしていたという。

軍役(ぐんやく、ぐんえき)とは、戦時に、武士が主君に拠出すべく課せられる軍事力や兵糧その他のこと。

軍役は広義には民衆に課せられる夫役のうちの兵役なども含まれるが、狭義には封建制度における「御恩と奉公」の関係において、知行地の安堵(御恩)と引き替えに主君に軍事的奉公を行うことである。

軍役は半農半士の土豪・地侍にも課せられた。武田家菩提寺、恵林寺領の例を見ると家臣団の末端に位置して武芸を専らとする「同心衆」のほかに、年貢の一部負担を免除された「軍役衆」の存在が見られる。彼らはいわゆる惣百姓(一般名主)とは異なり、年貢や夫役の一部を免除されるかわりに、戦時においては武田家への軍役を担ったのである。

似た制度は兵農分離以前の時代にあって各戦国大名家にみられ、豊臣秀吉・太閤検地の実施で兵農分離が進められるまで、各大名家の戦力の一部を担っている。

湯之奥金山博物館2 

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■湯之奥金山博物館2・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館2

 

□昭和63年度に始まる「ふるさと創生事業」の一環で平成9年4月に開館した湯之奥金山博物館

 

この湯之奥金山博物館は、JR身延線・下部温泉駅から徒歩45分くらいのところにある。

あの当時は、東海道線の東京~静岡に特急「東海」が走っており、富士駅で身延線の特急「ふじかわ」と連絡していた。乗り換え連絡があったため、割とスムーズに東京から下部温泉に行けたのです。この特急「東海」は20073月で廃止され、今は走っていませんが。

スムーズに東京から下部温泉に行けたとは行っても、身延線は富士~富士宮は複線になっているのですが、富士宮~甲府は単線区間。

特急列車も単線区間に入ると、さすがにスピードダウンする。そういうわけで富士駅から下部温泉駅まで、約1時間くらいかかった。

博物館に到着して、早速、入場料を支払い、中の展示を見学。

この湯之奥金山博物館は、昭和63年度に始まった「ふるさと創生事業」の一環として平成元年に湯之奥金山調査団と調査会を組織、以後3箇年にわたって発掘などの総合学術調査が実施され、考古学・文献史学・民俗学・鉱山技術史・地質学等々からなる学際的総合調査が進められ「湯之奥金山遺跡」の姿が解明され、この調査結果をもとに平成9年4月に開館したもの。

したがって建物は、まさにできたての新館。まことにきれいな造りの建物であった。

私はまず順路の通りに進み、館内の展示の見学とメモをはじめたのでしたが、展示されていた湯之奥金山の概要、あらまし、金の採掘、金鉱山の様子、金山衆の概要…。

はじめてここに来たときの私にとっては、まさに目からウロコであった。

 

湯之奥金山博物館2続きを読む
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■湯之奥金山博物館1・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館

 

□ありとあらゆる資料をひっくり返して調べ、ようやく見つけた「甲斐黄金村・湯之奥金山博物館」

 

□大石寺の『戒壇大本尊』は9世日有の偽作だ

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_161878.html

□戒壇大本尊は9世日有の偽作だ001080

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_628700.html

□戒壇大本尊は9世日有の偽作だ081150

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_628705.html

□戒壇大本尊は9世日有の偽作だ151200

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_628708.html

日蓮正宗大石寺の「戒壇の大本尊」偽作解明の最大のポイントは、「経済力」「財力」であり、「戒壇の大本尊」を偽作した日蓮正宗大石寺9世法主日有の経済力を解き明かす最大の鍵は、大石寺から北方約15キロくらいのところにある「湯之奥金山遺跡」。

武田信玄の隠し金山とも伝えられている湯之奥金山を紹介する博物館が、JR身延線の下部温泉駅から徒歩3分ぐらいのところにある「甲斐黄金村・湯之奥金山博物館」である。

大石寺の「戒壇の大本尊」偽作解明を進めていく中で、いろいろな大きなポイントがあるが、中でも最大のポイントは、「経済力」「財力」である。

「日蓮は、経済力がなかったが故に、『戒壇の大本尊』を造立していない」

という論を立てるには、逆説的に「『戒壇の大本尊』を偽作した者は、経済力・財力を有していた」

ということになる。その経済力は、楠木をどこからか入手し、漆、金を入手し、仏師を雇って板本尊を彫刻し、漆職人、金箔職人を雇って、板本尊に漆加工、金箔加工を完成させた、とても大きな経済力である。

大石寺の「戒壇の大本尊」を偽作したのが大石寺の法主ということになれば、どうしてその法主は、どこからそんな大きな経済力を入手できたのか。こういう疑問からスタートした。

私は、日蓮正宗の歴史を30年以上前からいろいろと研究しているが、大石寺二祖日興・三祖日目入滅後から江戸時代以前に於いて、大石寺には、目立った大檀那はいない。

つまり、とても有力な大檀那がいて、「その大檀那の経済力で」という説は成り立たない。

そうすると、大石寺の近くに金山か、銀山かが、あったとしか考えられないわけで、私は、静岡県、山梨県に、金鉱山がなかったか、徹底的に調査したわけである。

地図、観光案内、JTBハンドブック、るるぶ情報板、iジャパン…ありとあらゆる資料をひっくり返して、徹底的に調べたところ、ついにこの「甲斐黄金村・湯之奥金山博物館」を発見したという次第。

場所は、大石寺の北方、毛無山の山頂・静岡県と山梨県の県境から、山梨県に入ったところ。下部温泉の中。下部温泉と言えば、大石寺9世日有が湯治をしていたことが、大石寺17世法主日精の「家中抄」に書いてある、あの温泉である。

湯之奥金山博物館2 

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■三縁山増上寺7(六代将軍家宣の正室・天英院の正墓3)

 

□徳川幕府による大石寺三門供養の言い訳の為に建立された大石寺の天英院五輪塔

 

それでは、なぜ大石寺は、天英院を篤信の大外護者であるかのように祭り上げ、天英院の正墓があたかも大石寺にあるかのようなウソをついているのか。

歴史上の人物・偉人で二つ以上の墓がある人物は、それこそたくさんいる。例えば織田信長の墓・廟・供養塔と称するものは、全国に少なくとも13ヶ所ある。

1京都市中京区の本能寺にある「信長公廟」

2京都市上京区寺町の蓮台山阿弥陀寺にある「織田信長公本廟」

3高野山奥の院の五輪塔「織田信長墓所」

4 京都市北区の大徳寺塔頭・総見院の五輪塔。

5安土城二の丸跡「織田信長公本廟」

6富山県高岡市の高岡山瑞龍寺にある「織田信長公御分骨廟」

7岐阜県岐阜市の神護山崇福寺の「織田信長父子廟所」

8愛知県名古屋市中区の景陽山総見寺の「信長公廟」

9愛知県清須市の興聖山総見院 「織田信長供養塔」

10大阪府堺市の南宗寺本源院 「織田信長信忠公供養塔」

11福井県越前町(旧・織田町) 「越前二の宮 剣神社」

12 「信長を祀る神明造の小祠」愛知県清須市清洲古城跡

13 「伝織田信長の首塚」静岡県富士宮市西山本門寺

 

だから、複数の墓・廟・供養塔が存在すること自体、別に悪いことでも何でもない。問題はその建てられた動機・目的である。純粋に「弔いたい」「供養したい」ということで建てられたのならば、墓・廟・供養塔はいくあってもいいと思う。

しかし大石寺の場合は、天英院を「弔いたい」「供養したい」という純粋な動機・目的からの五輪塔ではないと思われるのである。

ではなぜ大石寺は、五重塔の傍らに天英院の五輪塔を建てたのか。

第一の動機は、徳川幕府による大石寺三門供養の言い訳である。

日蓮正宗の教義によれば、大石寺は未入信や退転者などの「謗法者」からの供養は受けない、という建前になっている。そうすると、浄土宗増上寺、天台宗寛永寺を菩提寺とする徳川将軍家から大石寺三門供養を受けたと言うことは、教義に矛盾することになる。

そこで大石寺が考え出した言い訳が

「実は当時の将軍家宣の正室・天英院が大石寺の信徒だったのだ」

というもの。教義上の矛盾に対する、苦し紛れのゴマカシである。

増上寺4家宣廟




















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■三縁山増上寺6(六代将軍家宣の正室・天英院の正墓2)

 

□天英院は将軍家菩提寺の増上寺に土葬されたのであって大石寺には絶対に分骨されていない

 

増上寺の説明によると、天英院は夫の六代将軍家宣とともに同じ徳川正廟に葬られているという。これがまさに天英院の正墓。

増上寺が発行している小冊子「浄土宗大本山増上寺」によれば、天英院の正墓は元々、独立した宝塔が建てられていた。ところが1945(昭和20)の東京大空襲で、増上寺は壊滅的な打撃を受け、堂宇、伽藍の大半を焼失。徳川正廟もほとんどを焼失してしまった。

1958(昭和33)、改めて文化財保護委員会による発掘調査が行われ、土葬されていた遺体は全て荼毘に付され、改めて徳川将軍家の正廟が再建された、ということである。

したがって、天英院は、最初から菩提寺の増上寺に土葬で葬られていた、ということになる。

六代将軍家宣の正室・天英院は、文昭院殿(家宣)の墓所の宝塔の中に、いっしょに葬られて眠っている。増上寺に葬られた六人の将軍の墓所は全て宝塔が建てられ、その中に、正室も入っている、というわけである。

ところが日蓮正宗は「天英院は大石寺門流の信者だった。大石寺に三門を供養した大石寺外護の大檀那」と言い張っていて、大石寺五重塔の脇に建てられている天英院の五輪塔が天英院の正墓であるなどと言い張っている。

日蓮正宗にとって、東京芝・増上寺に天英院の正墓がある、ということがわかるのは、まことに都合が悪いため、日蓮正宗の信者たちは、こう言って反論する。

「天英院の正墓は増上寺にあるのかも知れないが、大石寺には遺骨が分骨されたのだ」

 

日蓮正宗の信者は、「大石寺には日蓮・日興・日目の正墓はない」と批判・追及されたときも、「遺骨は大石寺に分骨された」などと、何の証拠もないのに、虚しい妄想にしがみつこうとする。

苦し紛れの「分骨」の言い訳である。

天英院の正墓の場合も、「大石寺への分骨」などという言い訳は、絶対に通らない。

なぜなら、天英院は、増上寺に葬られたときは、土葬されたのであり、火葬して荼毘に付されたのは、1958(昭和33)に増上寺の徳川正廟が再建されたときだからである。

これは、増上寺が発刊している小冊子「浄土宗大本山増上寺」に書いてある。

それとも日蓮正宗の信者は、天英院の遺体が荼毘に付された1958(昭和33)に増上寺から大石寺に遺骨が分骨された、とでも言うのだろうか。

1958(昭和33)に増上寺から大石寺に天英院の遺骨が分骨されるなどということは、絶対にあり得ない。

増上寺4家宣廟




















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■三縁山増上寺5(六代将軍家宣の正室・天英院の正墓1)

 

□新井白石・間部詮房が失脚した江戸時代大奥の一大事件・江島生島事件で有名な天英院

 

さて東京芝・増上寺でのもうひとつの研究課題は、徳川六代将軍正室・天英院の正墓についてである。

増上寺・徳川正廟に埋葬されているのは、二代将軍秀忠、六代将軍家宣、七代将軍家継、九代将軍家重、十二代将軍家慶、十四代将軍家茂の6人の将軍、5人の正室、5人の側室。

徳川六代将軍正室・天英院も、将軍家宣といっしょに埋葬されており、正墓もここ増上寺にある。

天英院とは本名を近衛熙子といい、父は近衛基熙、母は後水尾天皇の娘・品宮常子内親王。

夫・六代将軍家宣の死後落飾して天英院(てんえいいん)と名乗ったため、一般的に天英院と呼ばれている。

天英院という名は、一般的には江戸時代大奥の一大事件「江島生島事件」で有名である。

江島生島事件とは、江戸時代中期に江戸城大奥御年寄の江島(絵島)が歌舞伎役者の生島新五郎らを相手に遊興に及んだことが引き金となり、関係者多数が処罰された綱紀粛正事件。

家宣が六代将軍になった後、お喜世の方(のちの月光院)が側室に迎えられたことによって、夫婦関係は疎遠になっていったという。

お喜世の方(月光院)が産んだ家継が七代将軍宣下を受け、月光院とは不仲であったといわれている。御年寄にして月光院の腹心であった絵島が大奥の門限に遅れた江島生島事件では、老中や譜代大名と結託して、月光院と側用人・間部詮房と新井白石らの権威失墜を謀ったという天英院陰謀説がある。

当時の大奥には、7代将軍家継の生母月光院を中心とする勢力と前将軍家宣の正室天英院を中心とする勢力とがあった。月光院が家継の学問の師である新井白石や側用人の間部詮房らと親しい事から、大奥では月光院側が優勢。

この事件により天英院側が優勢となり、2年後の正徳6年(1716年)に七代将軍家継が亡くなると、若い家継に子がなかったため、天英院が推していた紀伊藩主徳川吉宗が8代将軍となった。

そのため、江戸幕府を牛耳っていた新井白石・間部詮房を追放するために天英院と譜代大名や老中がスキャンダルをでっち上げたのではないかという陰謀説が唱えられている。

増上寺7徳川家廟










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■三縁山増上寺4(寛永寺と交互に将軍霊廟が建てられた)

 

徳川将軍家の菩提寺は、天台宗本山・東叡山寛永寺と、浄土宗大本山・増上寺のふたつだった。

よって日光東照宮に祀られている徳川家康、徳川家光と、東京谷中霊園に葬られた最後の将軍・徳川慶喜の三人を除く12人の将軍の正墓が、寛永寺と増上寺のふたつに二分されて築かれている。将軍の他、正室もいっしょに菩提寺に葬られている。これは自明の理である。

徳川家康・徳川将軍家は、浄土宗に帰依したと言われているが、浄土宗一辺倒だったわけではなく、武田合戦の時は北山本門寺の「鉄砲曼荼羅」を守護本尊として陣中に持ち出しているし、川越・喜多院に天海大僧正を招いている。

後に、徳川秀忠は天海を招いて、江戸城の丑寅の方角に寛永寺を創建している。

しかし戦国時代ら安土桃山時代にかけて、最大級の武装仏教勢力だった真宗本願寺派を、東西本願寺に分裂させた分裂劇に関与しているのも徳川家康。

日蓮宗に対しては、豊臣秀吉の方広寺大仏殿の千僧供養時に、出仕を拒否した不受不施派を、公儀に従わぬ者として日蓮宗が他宗への攻撃色が強い事も合わせて危険視。不受不施派の日奥を対馬国に配流。家康死後も不受不施派は江戸時代を通じて弾圧され続けた。

日蓮宗に対しては、あまり好意的に見ていなかった、という見解も成り立つ。

浄土宗の知恩院を新たに門跡に加え、天台宗・真言宗の頂点として輪王寺に門跡を設けたことにより、知恩院・輪王寺は江戸幕府と強い繋がりを持ったことは事実のようだが、ただし、浄土宗に帰依していたかどうかについては、疑問符も残る。

増上寺の本殿・安国殿後方にある徳川将軍家の正廟は、普段は非公開になっている。しかし一年に数回、特別公開があり、私も一度、徳川正廟特別公開の日に見学に行ったことがあります。

徳川将軍家正廟は、本殿・安国殿の裏手にあるため、ここに行くには、三門から入って、安国殿の東側を通って裏手にぬける。

徳川将軍家正廟・特別公開の時は、正廟入り口の脇に、受付が設けられ、ここで拝観料を支払って、通用門をくぐり、正廟の中へ。正廟の中に入っていくと、巨大な塔が四隅に建てられていて、それぞれの塔の中に、将軍と正室が葬られている。

私がはじめて徳川正廟特別公開の見学に行ったときは、少々雨模様の日でしたが、年に数回の特別公開ということで、たくさんの見学客が来ていました。中高年の見学客が多かったように思います。

増上寺・徳川正廟に埋葬されているのは、二代将軍秀忠、六代将軍家宣、七代将軍家継、九代将軍家重、十二代将軍家慶、十四代将軍家茂の6人の将軍、5人の正室、5人の側室。

この5人の正室の中に、天英院がいる。

増上寺10徳川家廟
 

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■三縁山増上寺3(秘仏・増上寺安国殿・黒本尊)

 

増上寺安国殿とは、太平洋戦争の戦災で焼失した大殿のかわりに、仮本堂としていた堂宇を、昭和49(1974)の新大殿の落成のおりに境内北側に移転。ここが徳川家康ゆかりの「黒本尊」を祀る堂宇「安国殿」となった。

この旧安国殿の老朽化により、法然八百遠忌記念として平成23(2011)、新しい安国殿が増上寺に建立・落慶した。これが今の安国殿。

須弥壇中央には、本尊である秘仏・黒本尊とお前立の阿弥陀如来像が祀られている。

脇陣には徳川家康の肖像画。徳川歴代将軍の位牌。和宮の等身大の像が祀られている。

黒本尊とは、恵心僧都源信の作と伝承される阿弥陀如来像。昔は、金箔燦然と輝く金色の立像だったが、長年にわたって香煙に薫じられ、その像が徐々に黒ずんでいき「黒本尊」と名付けられたという。

ということは、黒本尊は元々は秘仏ではなかったのだが、途中から秘仏になった、ということになる。長年の香煙で黒ずんだため秘仏になったということで、なぜ秘仏になったのか謂われがよくわからないケースに比べたら、こちらは、わかりやすい。

黒本尊は、普段は秘仏として厨子の中に秘蔵されているが、年に3回。1月、5月、9月の15日に御開帳され、盛大な祈願会が行われている。

秘仏(ひぶつ)とは、信仰上の理由により非公開とされ、厨子などの扉が普段は閉じられたまま祀られる本尊や仏像のことである。仏教寺院では、仏堂の扉を開いた際に本尊・仏像が見えるように祀るのが本来であるが、「秘仏」は開帳以外の時は厨子の扉を閉じたまま祀られている。

日本の仏教各宗各派の秘仏には、全く公開されない「絶対の秘仏」も一部にあるが、特定の日に限って公開(「御開帳」「御開扉」などと称する)を行うことが多い。

「秘仏」の発生時期や要因については本格的な研究が進んでおらず、確かなことはわかっていないが、少なくとも京都・広隆寺の資財についての記録である「広隆寺資財交替実録帳」(寛平2年・890年頃成立)には、同寺金堂本尊の「霊験薬師仏」が鍵のかかる「内殿」に安置されていたことが明記され、この薬師像が遅くとも9世紀末には秘仏扱いされていたことを伺わせる。

秘仏の発生には神道の神社からの影響があるものとする説もある。神社の本殿の扉もまた、普段は閉じられており、特定の祭祀の時にのみ扉が開かれる場合があるからである。

宗派別では、真言宗および天台宗の寺院に本尊を秘仏とするところが比較的多い。

天台宗系の主要寺院では、延暦寺根本中堂本尊の薬師如来像、同寺西塔釈迦堂本尊の釈迦如来像、園城寺(三井寺)金堂本尊の弥勒菩薩像、同寺観音堂本尊の如意輪観音像などはいずれも秘仏で、他にも和歌山県紀の川市の粉河寺・千手観音像、兵庫県加西市の一乗寺・千手観音像がある。

増上寺20

 

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■三縁山増上寺2(日本で弘まり中国では弘まらなかった浄土宗)

 

東京芝・増上寺は、かつて芝公園一帯全てが境内であったが、明治維新、廃仏毀釈、太平洋戦争等で境内は狭められた。しかんしそれでも増上寺の境内は広い。

増上寺の中心堂宇は大殿で、これが仏教寺院一般の本堂に該当する。そういう意味で、増上寺が発行する正式文献「浄土宗大本山増上寺」には、「大殿(本堂)」となっています。

今の大殿は昭和49(1975)落成。もちろん、戦前から増上寺に大殿はあったのですが、太平洋戦争の東京大空襲による戦災で焼失。

そこで新たに近代的な設計のもとに、鉄筋コンクリート造りの大殿が再建された。石段を登った二階が本堂。三階に道場。一階に壇信徒控え室。地下に三縁ホールがある。

本堂には、本尊として阿弥陀如来が祀られ、両脇壇には高祖善導と宗祖法然の像が祀られている。

高祖・善導とは、中国浄土宗の僧。「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立したとされている。

称名念仏とは、浄土宗においては「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える念仏(口称念仏)のこと。『佛説無量寿経』には「南無阿弥陀仏」と念仏を称えれば、阿弥陀仏の浄土(極楽浄土)へ往って、阿弥陀仏の元で諸仏として生まれることができると説かれている、とされる。

善導が、『観無量寿経疏』(『観経疏』)を撰述して、『仏説観無量寿経』は「観想念仏」ではなく「称名念仏」を勧めている教典と解釈した。こうして「称名念仏」を中心とする浄土思想が確立する。

しかし中国ではその思想は主流とはならなかった。

つまり善導の中国浄土宗は、中国では大衆文化として定着しなかった。

善導の『観経正宗分散善義』巻第四(『観無量寿経疏』「散善義」)の中の、

「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥に、時節の久近を問はず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」

という文に影響されて、日本で専修念仏を唱道したのが浄土宗宗祖・法然。

専修念仏とは、仏の救いは念仏を唱える「称名念仏」によって得られるという思想。即ち、ただひたすらに念仏をを唱えることで、いつでも、どこでも、誰でもが平等に阿弥陀仏によって救われて極楽浄土に往生できるという教えは、日本の大衆の心をとらえて、日本全土に弘まった。

浄土宗の寺院・信者は、どれくらいあるのか。201172日号「週刊ダイヤモンド」誌によれば、浄土宗の寺院は6880寺、信者数6021900人。

法然の弟子・親鸞を宗祖とする浄土真宗の寺院数は18847寺。信者数は12474151人。

これは、寺院所属の信者数で、元々は江戸時代の「宗門改」による寺檀制度にまでさかのぼる。

浄土宗・浄土真宗が日本全国に弘まったのは、江戸時代よりももっと前。すなわち鎌倉時代、室町時代、戦国時代にかけてのことである。特に中でも浄土真宗本願寺派が室町時代、戦国時代にかけて大きく教線を拡大した史実は、あまりにも有名である。

増上寺16


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■三縁山増上寺1(徳川将軍家の菩提寺として繁栄)

 

増上寺とは、東京・芝公園にある浄土宗大本山の寺院で、正式には三縁山広度院増上寺という。

浄土宗とは法然を開祖、本尊は阿弥陀如来。教義は専修念仏を中心とする宗旨で、浄土専念宗とも呼ばれる。

浄土宗は京都市東山区の知恩院(華頂山知恩教院大谷寺)を総本山とする浄土宗鎮西派、長岡京市の粟生光明寺を総本山とする西山浄土宗、京都市左京区の永観堂禅林寺を総本山とする浄土宗西山禅林寺派、京都市中京区の誓願寺を総本山とする浄土宗西山深草派がある。

増上寺は、知恩院を総本山とする浄土宗の大本山で、世間一般では、単に「浄土宗」と言うと、この宗派のことを指す場合が多い。

この増上寺は、江戸時代は上野・寛永寺と並んで徳川将軍家の菩提寺だったことで、あまりにも有名。増上寺には、徳川将軍15代のうち、6人の将軍(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)が葬られている。もうひとつの菩提寺である寛永寺墓地には、徳川将軍15人のうち6人の将軍(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)が眠っている。

のこる3人の将軍のうち、初代徳川家康、三代徳川家光は日光東照宮に葬られ、十五代徳川慶喜は東京谷中霊園に葬られている。

増上寺の徳川将軍家霊廟は、普段は非公開。年に数回、限られた期間限定で「特別公開日」が決められ、その期間のみ、一般公開される。この徳川霊廟特別公開日には、一度、見学に行ったことがあります。

増上寺12徳川家廟公開
 

場所的にも、増上寺があるところは東京・芝公園で、東京タワーのすぐそば。東京都心にあり、アクセスもJR浜松町駅、地下鉄・大門駅、地下鉄・赤羽橋駅が歩いて行ける所にある。増上寺三門も、都心の幹線道路・日比谷通りに面している。というわけで、ここは普段から参拝客が多く、参拝客の中には、ビジネスマンやサラリーマン風の人も見かけます。

私も仕事等で増上寺近辺に来る機会がかなりあり、ここは何度も来ています。

新年の初詣にも、たくさんの人が参拝に来ています。

増上寺の開創は明徳4(1393)に西誉聖聰によって江戸貝塚(現東京都千代田区平河町)に開山されたこととしている。しかし増上寺が徳川将軍家の菩提寺になるまでの歴史、なぜ増上寺が徳川将軍家の菩提寺になったのか、については明瞭ではなく、増上寺が発刊している小冊子「浄土宗大本山増上寺」を紐解いても、増上寺が徳川将軍家の菩提寺になった縁由について

「天正18(1590)、徳川家康公が関東八カ国に封ぜられ江戸に入国すると、当時の住職、源譽存応上人と親しく交わり、増上寺を徳川家の菩提寺としました」

と記すのみ。

増上寺31三門
 

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■鎌倉本覚寺1(日蓮真骨を分骨された東身延)

 

□日蓮宗が発行している正式文献で公式に認めている本覚寺への日蓮真骨の分骨の史実

 

京都妙伝寺が「西之身延」とか「関西身延」と呼ばれているのに対して、「東身延」「東之身延」と呼ばれているのが、日蓮宗本山・鎌倉本覚寺。

鎌倉本覚寺とは、佐渡流罪を赦免になった日蓮が、身延山に旅発つまでの間、約40日間留まっていた所として伝承されている寺院。日蓮宗新聞社発刊の「日蓮宗本山めぐり」によれば、日蓮は文永11(1274)326日、陸路にて鎌倉に到着。日蓮が滞在したのは、源頼朝が鎌倉幕府を開いた時、守護神を祀った「夷堂」(えびすどう)で、これが本覚寺の前身。

日蓮は48日、鎌倉幕府・評定所に召喚され平頼綱と対面。第三の国諫を行ったが聞き入れられず、「三度諫むるに用いずは山林に交われ」との故事にしたがって、512日に鎌倉を出発。身延山へと向かった。

なぜ鎌倉本覚寺が「東身延」とよばれているのかというと、室町時代に身延山久遠寺から日蓮真骨がここに分骨されて、今日に至るまで格蔵されていることによる。

本覚寺8


本覚寺に身延山久遠寺の日蓮真骨が分骨されたことは、「日蓮宗本山めぐり」や日蓮宗宗務院発行「創価学会批判」といった日蓮宗の正式文献に載っている。

ではなぜ本覚寺に日蓮真骨が分骨されることになったのか、ということですが、日蓮宗新聞社発刊の「日蓮宗本山めぐり」によれば、次のように書いてある。

(本覚寺の)創立は1436(永享8)年。身延門流の日出上人は伊豆の三島開教の後、同年に鎌倉の天台宗宝戒寺・心海と法論して勝った。(永享問答)しかしときの鎌倉御所・足利持氏の怒りを買い、法難の危機に瀕したが、逆に帰依を得て当地を拝領。本覚寺を創建した。

二世日朝上人は1461(寛正2)年に身延山11世となって祖山を大復興。当山(本覚寺)に日蓮聖人のご分骨を奉安。以来、『東身延』と称されるようになった。日朝上人は眼病救護の誓願を立てられたので、後に霊験あらたな『日朝さま』とよばれ、信仰を集めるようになった」(p32)

本覚寺1

 

つまり本覚寺2世日朝が、のちに身延山久遠寺11世法主として晋山したため、本覚寺に日蓮真骨が分骨された、ということである。

本覚寺は日蓮宗本山ということだが、私がこの寺院を訪れた感じとしては、そんなに広くない印象を持ちました。寺院の受付では僧侶がお守りやお札を売っていました。

本覚寺の本堂は十軒四面の堂宇で、大正12(1923)の落成となっている。

本覚寺の堂宇は、本堂の他に、ご分骨堂、客殿、庫裡等がある。

日蓮宗寺院の堂宇は、本尊である釈迦如来像を祀る本堂と日蓮祖師像を祀る祖師堂の二堂あるのが通例ですが、ここ本覚寺には祖師堂の名前の堂宇がない。

祖師堂はありませんが、そのかわりに「御分骨堂」があるわけで、ここが祖師堂のかわりの役目を果たしている、ということなのだろうか。

しかし「御分骨堂」は、普段は入り口の扉が堅く閉められていて、中に入ることが出来ない。

本覚寺6分骨堂
 

 

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■京都妙伝寺2(西面している妙伝寺)

 

□日蓮宗や妙伝寺が発行する正式文献には書かれていない『錐揉みの祖師像』の寺伝

 

日蓮宗本山・京都妙伝寺が建っているところは、まさに京都市の市街地の中。このあたりの周辺には、頂妙寺、寂光寺、要法寺など日蓮宗系の本山寺院が建ち並んでいる地域。平安神宮にも近い。

そういう京都市街地の、しかも仏教寺院が密集している地域に建てられているためか、妙伝寺の境内そのものは、そんなに広いという印象はない。境内の中で最も大きな堂宇は本堂で、一塔(南無妙法蓮華経)両尊(釈迦如来像・多宝如来像)四菩薩(上行・無辺行・浄行・安立行)四天王(時国・増長・毘沙門・広目)諸尊と日蓮像が祀られているのが見える。

妙伝寺に祀られている日蓮祖師像は「錐揉祖師の霊像」とよばれている。

この「錐揉祖師の霊像」とはいかなる像なのか、という詳細は「日蓮宗本山めぐり」を紐解いても、妙伝寺発行の冊子「西之身延・本山妙伝寺縁起書」を紐解いても、どこにも書いていない。

ところが日蓮聖人門下連合会・監修、日蓮宗・制作発刊の小冊子「日蓮聖人門下京都十六本山めぐり・京都に息づく法華の心」の中の「日蓮宗・妙伝寺」の項目にこれが載っている。

そこには、こんなことが書いてある。

「本堂に祀られた祖師像は、いたずらによって錐で穴を開けられたところから血が流れ出したという伝説があるそう。そのため『錐揉みの御祖師様』と呼ばれています」(p19)

 

オカルト信仰を彷彿とさせるような伝説である。祖師像に錐で穴を開けたら血が出てきた、などというのは、どう考えてもあり得ない話しで、上古の時代から伝えられている寺伝としては、それでいいのかもしれないが、いろいろな人が読む日蓮宗や妙伝寺が発行する正式文献には、ちょっと書くべき内容ではない、というところだろうか。だから正式文献には、こんな話しが載っていないのではないか、と思われる。

妙伝寺境内には、本堂の「錐揉祖師の霊像」とは別に、「立正安国」と書かれた台座の上に、日蓮立像が建っている。境内に日蓮立像が建てられているのは、身延山久遠寺、池上本門寺、鎌倉妙本寺、北山本門寺、伊豆実成寺、佐野妙顕寺等々の日蓮宗寺院と同じ。

ただし、面白いのは、京都妙伝寺の日蓮立像は、境内の隅っこにあり、しかも立像が境内の外側を向いて建てられていること。

日蓮宗ではないが、法華宗本門流大本山・京都本能寺の日蓮立像も、入り口の総門前にあり、しかも境内の外側を向いていることで共通している。

ただし、こういう日蓮立像の建て方は、とても珍しいのではないかと思われます。

妙伝寺14日蓮像
 

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■京都妙伝寺1(日蓮真骨を分骨された西之身延)

 

□日蓮宗が発行している正式文献で公式に認めている妙伝寺への日蓮真骨の分骨の史実

 

日蓮宗本山の京都・妙伝寺は、京都府京都市左京区にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)で正式名は法鏡山妙伝寺。開創は文明9(1477)で、開山は身延山久遠寺11世行学院日朝の弟子・円教院日意。日蓮宗新聞社刊行「日蓮宗本山めぐり」によれば、日意は、はじめ天台宗に属して比叡山延暦寺の学頭であった。

ところが身延山久遠寺11世法主・行学院日朝にまみえて三昼夜、法義を談じた後、日朝の弟子になって帰依した。そして文明9(1477)、日意は身延山久遠寺の参詣が遠い関西以遠の檀信徒のために、身延山久遠寺を彷彿とさせるような寺院として妙伝寺を開創した。

日意は師・日朝が身延山久遠寺11世法主であったため、師と図って身延山久遠寺から日蓮真筆大曼荼羅本尊と日蓮真骨の一部を分骨されて妙伝寺に持ち帰り奉安した。

さらに本堂には、身延山の七面大明神と同じ木を使い、姿・形も同じに造った七面大明神像を祭っている。

こうして身延山久遠寺参詣が困難であった室町時代に、関西以遠の遠隔地の信徒に日蓮真骨・七面大明神参詣の便を開いた。

又、妙伝寺本堂の須弥壇中央に祀られているのは、一塔(南無妙法蓮華経)両尊(釈迦如来像・多宝如来像)四菩薩(上行・無辺行・浄行・安立行)四天王(時国・増長・毘沙門・広目)諸尊と日蓮像が祀られている。つまりこれは、日蓮の大曼荼羅の相を立体像化したもので、身延山久遠寺本堂に祀られている本尊とほぼ同じである。

こう見てみると、妙伝寺は、「京都のミニ身延山」を醸し出しているように見える。

そのため、妙伝寺は「西之身延」とか「関西身延」と呼ばれている。妙伝寺にも「西之身延」の扁額が掲げられている。

妙伝寺開山・日意は妙伝寺にて23年間在寺した後、身延山久遠寺11世行学院日朝の後を受けて、明応8(1499)に身延山久遠寺12世法主の猊座についている。身延山にて在寺20年ののち、猊座を13世日伝に譲り永正16(1519)に遷化。日蓮宗では日朝・日意・日伝の三師を宗門中興の三師とよんでいる。

 

これに対して、同じく身延山久遠寺から分骨された日蓮真骨を格蔵している日蓮宗本山・鎌倉本覚寺は「東之身延」と呼ばれている。

身延山久遠寺から京都妙伝寺、鎌倉本覚寺に日蓮真骨が分骨されたことは、日蓮宗が発行する公式文献「日蓮宗本山めぐり」や「創価学会批判」に載っていて、日蓮宗、身延山久遠寺としても公式に認めている史実である。

妙伝寺11本堂

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■池上本門寺36(日本プロレスの祖・力道山の墓)

 

池上本門寺の墓苑の中には、日本プロレスの祖である力道山の墓があります。

力道山墓6


力道山とは、今さら言うまでもなく、大相撲の力士出身で第二次世界大戦終了後に日本のプロレス界の礎を築き、日本プロレス界の父と呼ばれている人物。当時始まったプロレスのテレビ放送もあり絶大な人気があったスーパースター。

力道山墓4

 

力道山の墓に参拝する人は、かなりたくさんいるようで、墓苑の中には案内板が立てられていました。

力道山墓1


墓は綺麗に整備され、墓碑が新しくなっていました。

力道山墓3


池上本門寺には、著名人の墓がいくつかありますが、その代表格がこれです。

 力道山墓2

 

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■池上本門寺35(日蓮廟所)

 

□室町時代の応仁元年(1467)頃に造立された池上本門寺日蓮廟所の石塔

 

池上本門寺本殿の奥には、日蓮の廟所がある。

日蓮廟所4


廟所というと、身延山久遠寺の御真骨堂のように、日蓮の真骨を収蔵し祀っているのか、と思うが、池上本門寺・日蓮廟所の立て看板を見ても、ここに日蓮の真骨が納められている、という文は書いてない。日蓮廟所の立て看板には、次のように書いてある。

「中央廟屋内に宗祖日蓮聖人(弘安51282〕年1013日御遷化)、左廟屋内に第二祖日朗聖人(元応元年〔1319〕正月21日御遷化)、右廟屋内に第三祖日輪聖人(延文41359〕年44日御遷化)の墓塔をお奉りしています。

なかでも、日朗聖人墓塔は室町時代の応仁元年(1467)頃に第8世日調聖人によって造立されたと考えられる古い石塔です。形は日蓮宗に特有の宝塔で、高さ1.6m(失われている反花座を補うと1.9m)の大きなものです。塔身の正面には一塔両尊(南無妙法蓮華経、南無釈迦牟尼仏、南無多宝如来)を、基礎の背面には日朗聖人の没年や造立願主の名が刻まれています。石材は伊豆石(安山岩)です。この型式の宝塔は、室町時代に南関東の日蓮宗寺院において多く造立されましたが、日朗聖人塔はその中でも特に大きいものとして注目されます。信仰的、歴史的な重要性から大田区の文化財にも指定されています」

日蓮廟所1

 

つまり廟屋の中に石塔型式の墓塔がある、ということです。というより、元々、石塔型式の墓塔が建てられていて、これを後年に建てられた廟屋で覆われている、ということのようです。

ということは、ここには日蓮の真骨・灰骨はないものと思われます。

では池上本門寺に日蓮の真骨・灰骨はないのかというと、そうではない。大堂に祀られている日蓮祖師像の胎内に、日蓮の灰骨が収蔵されている。

大堂の中にある説明書きには、次のようにあります。(大堂内は写真撮影禁止であるため、文章を書き出します)

「日蓮大聖人御尊像

日蓮大聖人第七回忌に当たる正応元年(1288)に造立されたもので、気魄に満ちた御顔は、ご生前の真容をよく伝え、肖像彫刻としても鎌倉時代の傑作の一つに挙げられている。像高二尺八寸三分の木彫寄木造り、ご胎内には御聖骨を納めた銅筒があり、右手には母君妙蓮尼の遺髪を加えて作られたものと伝えられる払子を、左手には紺紙金泥の法華経経巻を捧持。

昭和二十年四月の大空襲にも難を免れた御尊像は、永遠に格護されるべき人類の至宝である。」

 

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■池上本門寺34(南谷檀林・照栄院2)

 

□池上本門寺照栄院に板頭寮のみが残る南谷檀林

 

池上本門寺塔中・照栄院は、江戸時代は南谷檀林が置かれていた子院。そうすると多くの学僧が修学していたわけですから、かなり大きな塔頭なのかな、と思ってしまうのですが、現在の照栄院の堂宇の大きさは、池上本門寺の他の塔頭の堂宇の大きさと、大差はない。

これは一見して不思議に思えます。今の堂宇に、多くの学僧が修学していた南谷檀林があったとは思えない。

ところが、この謎を解明するヒントが、照栄院前にある大田区教育委員会の立て看板「南谷檀林『板頭寮』遺構」に書いてありました。そこには、こんなことが書いてある。

 

「大田区文化財 南谷檀林『板頭寮』遺構 (非公開)

南谷檀林は、池上本門寺に付属する僧侶の学校として、元禄期(16881704)に、本門寺の南方(寺窪、南窪と称せられる地)に開創された。

『新編武蔵風土記稿』によれば、檀林は、講堂、方丈、玄寮、板頭寮、首座寮、所化寮、談合場、食堂、妙見堂等の施設を備えていた。

現存している建物は、檀林の事務所に当たる『板頭寮』で、板頭(事務経営の長)の居室でもあったとされる。江戸後期の天保7(1836)、池上山内の木を用いて建てられたと伝えられる。

当院の庫裡(寺の台所、居室)、書院として利用されてきたため、増改築が行われているが、屋根は昭和50(1975)、保護のため銅板で覆う工事が行われるまで、茅葺きであった。

昭和50319日指定  大田区教育委員会」

南谷檀林6

 

これによれば、南谷檀林は、本門寺の南方、寺窪、南窪と称せられる地に開創されたとある。

現存しているのは、『板頭寮』のみ。かつては講堂、方丈、玄寮、板頭寮、首座寮、所化寮、談合場、食堂、妙見堂等の施設を備えていたというから、かなり大規模な檀林だったことが、うかがえる。

ではなぜ、講堂、方丈、玄寮、首座寮、所化寮、談合場、食堂等の施設がなくなってしまったのか。もっとも檀林が廃止になって学僧が来なくなれば、檀林の堂宇も必然的に消滅してしまう運命にあるのかもしれないが、檀林の施設が今日に遺っていないというのは、残念なことである。

今の照栄院は、江戸時代の南谷檀林の面影はほとんど残っていない。

照栄院4
 

 

 

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■池上本門寺33(南谷檀林・照栄院)

 

□江戸時代にはたくさんの日蓮宗学僧が出入りしていた池上本門寺南谷檀林

 

池上本門寺の塔頭子院の中で、私が注目したのは照栄院。ここは呑川の川沿いにあります。

照栄院という塔頭は、元々は日蓮六老僧・池上本門寺二祖・日朗の草庵だったところで、日朗入滅後に衰退。これが江戸時代に入って再興し、僧侶の学校である南谷檀林が置かれ、これが明治維新までつづいた。照栄院の境内には、こんな立て札が建てられています。

「照栄院

縁起

正応4(1291)、日朗聖人の庵室として開創。日朗聖人没後、荒廃したが、嘉吉年間(14411444)に再興された。元禄2(1689)、南谷檀林という僧侶教育の学校を開設。明治2(1869)に廃されるまで、多くの高僧を送り出した。本門寺の役寺としての三院家の一。山上の妙見堂に祀られている妙見菩薩立像は寛文4(1664)、加藤清正の娘・瑶林院が夫の紀州徳川頼宣の現世安穏後生善処を祈念して奉納したもの」

 

檀林というのは、中世から仏教各宗派でつくっていた僧侶教育の学校のことで、日蓮宗系の檀林も、安土桃山時代ぐらいから建ちはじめ、江戸時代に檀林の隆盛期を迎える。

江戸時代のころにあった日蓮宗系の檀林とは、以下のようになっている。

 

□飯高檀林  千葉県匝瑳市飯高 日蓮宗 飯高寺 立正大学発祥の地

□小西檀林  千葉県千葉県山武郡大網白里町 日蓮宗 正法寺

□中村檀林  千葉県香取郡多古町 日蓮宗 日本寺

□野呂檀林  千葉県千葉市若林区野呂 日蓮宗 妙興寺

□玉造檀林  千葉県香取郡多古町 日蓮宗 蓮華寺

□三昧堂檀林  茨城県常陸太田市 日蓮宗 久昌寺

□南谷檀林  東京都大田区池上 日蓮宗大本山 池上本門寺照栄院

□西谷檀林  山梨県南巨摩郡身延町身延 日蓮宗総本山 身延山久遠寺

□松ヶ崎檀林  京都府京都市左京区松ヶ崎堀町 日蓮宗 涌泉寺

□求法檀林  京都府京都市山科区御陵大岩 日蓮宗大本山 本圀寺

□東山檀林  京都府京都市左京区岡崎東福ノ川町 日蓮宗 善正寺

□鷹峯檀林  京都府京都市北区鷹峯北鷹峯町 日蓮宗 常照寺

□山科檀林  京都府京都市山科区竹鼻竹ノ街道町 日蓮宗 護国寺

□鶏冠井檀林  京都府向日市鶏冠井町御屋敷  日蓮宗 北真経寺

照栄院3


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■池上本門寺32(塔頭子院の院号・寺号・坊号)

 

□かつては坊号の塔頭子院があったが何らかの理由で坊号の塔頭をなくしていった池上本門寺

 

池上本門寺の場合、本門寺境内の周辺に塔頭子院が立ち並ぶという、独特の伽藍配置になっています。

池上本門寺の塔頭子院は、中道院、常仙院、本成院、本妙院、理境院、大坊本行寺、南之院、覚源院、厳定院、西之院、真性寺、実相寺、本光寺、善慶寺、長勝寺、東之院、安立院、法養寺、心浄院、妙雲寺、養源寺、照栄院、永寿院の23院・寺です。

大半の塔頭支院は池上本門寺に隣接していますが、池上本門寺から離れた所にある子院もあります。池上本門寺発行の小冊子「池上の寺めぐり」によれば、池上本門寺の塔頭支院の言われについて、次のように書いてある

「日蓮聖人が亡くなった御入滅の霊場である池上本門寺の周辺には、参拝者が宿泊するためにいくつかの宿坊があった。宿坊のはじまりは、日蓮聖人の弟子たちが日蓮聖人の塔所(墓所、廟)に給仕するために建てた小庵であった。当初は支院とよばれ、多いときは36あった塔頭寺院も移転・合併・廃寺などで、現在は本門寺を加えた24ヶ寺が『朗師講』とよばれて残っている。『朗師講』とは本門寺2世日朗聖人の日蓮聖人への奉仕に対する徳を偲び、その恩に報いるための講会という意味で、今でも毎月1回、24ヶ寺の住職が集まって報恩法要を行っている」

(小冊子「池上の寺めぐり」p4)

 

塔頭子院の23院・寺に池上本門寺を加えた24ヶ寺が『朗師講』とよばれて残っている、ということです。こう見てみると、池上本門寺の塔頭支院の名前は、院号と寺号の混在になっている。

私が見聞した限りでは、仏教大寺院や本山クラスの寺院の塔頭支院の院号、坊号は、地域的に別れているように思います。

京都に行くと、京都・要法寺、妙顕寺、本圀寺、妙伝寺、本能寺、頂妙寺、本満寺、本善寺、妙覚寺、本法寺、妙蓮寺、本隆寺等の本山は全て「○○院」の院号になっています。

これは、日蓮宗、日蓮本宗(富士門流)、法華宗本門流、法華宗真門流、顕本法華宗、本門法華宗、法華宗陣門流の宗派の区別はなく、共通して全て「○○院」の院号です。

臨済宗の本山に「○○庵」の庵号が一部にありました。

 

これが東海・甲信越地方になると、院号はなく、全て坊号になっている。

身延山久遠寺、日蓮正宗大石寺、富士妙蓮寺、北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、岡宮光長寺等、全て同じです。

本成院1
 

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113日は、久しぶりに箱根湯本温泉の日帰り湯に行って、ゆっくり休息してきました。

今までは、年にそれこそ何度も箱根湯本温泉の日帰り湯に着て、ゆっくり暖まって休息していたのですが、昨年は、忙しくて一度も来ていませんでした。

そういうわけで、箱根湯本に来たこと自体、本当に久しぶり。

電車で箱根湯本に行ったのでしたが、しばらく来ない間に、箱根湯本駅のホーム、駅舎、駅前が改装工事を施されて、リニューアルしていました。

箱根湯本駅1

箱根湯本駅3



さて箱根湯本駅から温泉街に向かっては、人も車も大渋滞。

箱根湯本温泉1


三連休の中日ということもあり、箱根湯本はものすごい人出。箱根湯本駅のロマンスカー特急券発売所は長蛇の行列。

箱根湯本駅2


タクシー乗り場も長蛇の行列。タクシーは全て実車で、空車はほとんど見かけない。

箱根湯本温泉の名物そば店・「はつ花そば」も、店の前に長蛇の行列。

滝通り温泉街も、狭い道をたくさんの人が歩いています。

温泉街の山道を歩きながら、日帰り湯の「天山」へ。

天山1


ここも、駐車場の空き待ちの車が、長蛇の行列。

「天山」の中に入っていくと、中はどこも超満員。

喫茶も全て席が埋まっている。

ごろ寝ができる畳の間も、ほとんどすき間がないくらい人がぎっきり座っている。

1Fに降りていっても、一服できる椅子席は全て人が座っている。すごいですね。

 

さて風呂に入ろうと脱衣所に入ると、ここも超満員。「これじゃ、風呂に入れないかな」と思ったけども、辛うじて開いているスペースを見つけました。

野天風呂に行くと、ぬるめ湯の湯舟は超満員で、入るスペースなし。

開いていたのは熱い湯の湯舟。熱い湯は好きじゃないけども、しょうがないですね。

となりのぬるめ湯の湯舟が、少し人が出て、開いたのを見計らって、そっちへ移動。

30分くらい露天風呂に入っていましたが、充分、体が暖まりました。

 

風呂からあがって、ごろ寝ができる畳の間に入って行くと、少しスペースが空いていたので、すかさずそこに座って、即、ごろ寝。約2時間くらい寝ていましたが、今まで溜まっていた疲労が全て解消したようで、なんとなく身が軽くなりました。

6時すぎに「天山」を出たのですが、まだ駐車場の空き待ちの車の行列ができていました。

 

 

 

 

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■池上本門寺31(池上「本門寺」寺号の由来)

 

□池上「本門寺」寺号は富士門流の「本門寺」思想とは全くの無関係である

 

池上本門寺の研究課題として、「本門寺」の寺号ということがある。

現在、日蓮入滅から200年くらいの間に創建された寺院の中で「本門寺」の寺号を名乗る寺院としては、北山本門寺、西山本門寺、讃岐本門寺と池上本門寺。北山本門寺の場合は、「法華本門寺根源」とか「富士山本門寺根源」と呼んでいる。

西山本門寺は「富士山西山本門寺」とか「富士山本門寺根源」を自称している。これは、「二箇相承」(偽書)にある「富士山本門寺」の寺号を名乗っていると考えられる。

讃岐本門寺は、正式には高永山本門寺というが、江戸時代から戦前にかけて、北山本門寺の末寺だったときは、法華寺を名乗っていた。

日蓮正宗大石寺も、将来的には「本門寺」の寺号を名乗るとしている。

そうすると、大石寺を含めても本門寺の寺号を名乗るのは、池上本門寺のみが日朗門流で、他は全て日興門流(冨士門流)ということになる。

日興門流には、古くから本門寺思想というものがあり、日蓮曼荼羅に「本門寺の重宝たるべきなり」との日興の加筆が散見される。

その他の本門寺思想からみの文献としては、百六箇抄、二箇相承、日順文書等があるが、百六箇抄、二箇相承は後世の偽作であり、日順文書についても日蓮正宗大石寺59世堀日亨が疑義を呈している。

本門寺思想の真偽はさておくとし、日興門流の寺院の「本門寺」寺号は本門寺思想から来ているとしても、そうすると日朗門流の池上本門寺の「本門寺」寺号は、どうして付けられたのか。いつから「本門寺」寺号を名乗っているのか、という疑問が出てくる。

この点、池上本門寺の公式ウエブサイトを見ても、

「長栄山本門寺という名前の由来は、『法華経の道場として長く栄えるように』という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられたものです。そして大檀越の池上宗仲公が、日蓮聖人御入滅の後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進され、お寺の礎が築かれましたので、以来『池上本門寺』と呼びならわされています」

として、本門寺の寺号は日蓮聖人が命名された、とは書いてある。そこで、池上本門寺の「本門寺」寺号について、池上本門寺の僧侶に質問したところ、下記のような見解であった。

大堂3
 

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■池上本門寺30(日蓮の歯を格蔵する本殿・日蓮像)

 

□毎年6月に池上本門寺霊寶殿で公開される、かつて日蓮の歯骨を収蔵していた厨子

 

あまり知られていないことだが、池上本門寺本殿の釈迦如来像といっしょに祀られている日蓮像の胎内には、日蓮の歯が格蔵されている。

池上本門寺大堂の日蓮像の胎内には、日蓮灰骨が格蔵されていることが、大堂の案内板に書いてある。しかし本殿の案内板には、日蓮の歯のことはどこにも書いていないが、池上本門寺刊行「妙玄院日等聖人」という本の中に、千葉県勝浦市の本行寺釈迦殿に、池上本門寺が格蔵していた日蓮歯骨が分骨されたことが載っている。

 

「当山(池上本門寺)祖師堂の完成を半年後に控えた享保83月に、日等聖人は、弟子で後に両山25世に晋む守玄院日顗聖人を、自身の名代として上総国夷隅地方に遣わし、百日に及ぶ勧財を行った。日顗聖人は当山重宝の宗祖御肉牙の一部を奉じて上総に赴き、百日の内の大半を勝浦の本行寺に滞在し、五十日に及ぶ説法を行った。…この時の御肉牙は、日顗聖人の記念碑と共に現在も本行寺に格護されている」(『妙玄院日等聖人』p16)

 

これは間接表現ながら、池上本門寺として日蓮歯骨の存在を文献にて表明している。

この他に、池上本門寺霊寶殿の毎年6月の展示で、かつて日蓮の歯骨を収蔵していた厨子の展示が行われる。これは「かつて」日蓮の歯骨を収蔵していた、というもので、現在は池上本門寺本殿の日蓮像の胎内に収蔵されている。

毎年6月の池上本門寺霊寶殿の展示の中に、江戸時代のもので「四大天王扉絵厨子」というのがある。これはもともと、日蓮御肉牙(歯骨)を格蔵していた厨子で、展示の説明書きには

「もと宗祖(日蓮)御肉牙(歯骨)奉安  今 御肉牙は本殿祖師像内に納骨」

とありました。

展示の厨子の頭部を見ると、宗宝調査会が発行した「宗宝」と書いた貼り紙が貼り付けてありました。この「宗宝」と書いた貼り紙を判読すると

 

「番号 第十六号 品名 御肉牙 ○○ 本門寺 調査日 大正十四年○月二十一日 」

 

とあり、さらに宗宝調査会の委員五人の押印がありました。

つまりこの貼り紙は、宗宝調査会という団体が、池上本門寺の御肉牙を調査して、宗宝として認定した認定証のようなもの。池上本門寺霊寶殿の中の展示は、写真撮影禁止なので、これを写真でお見せできないのは残念である。

霊宝殿1


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■池上本門寺29(加藤清正が寄進した大堂・此経難事坂)

 

□間口25間、奥行き23間と極めて大規模な堂宇であった加藤清正が寄進した大堂

 

池上本門寺刊行の「古写真集~撮された戦前の本門寺」という題名の写真集によれば、正応元年(1288)造立の日蓮祖師像を祀っている大堂は、日蓮祖師像の他に二祖・日朗像、三祖・日輪像を祀っているという。日朗像、日輪像は一見して気づかない。

ここは、慶長年間(15961615)に、熊本城主・加藤清正が寄進し、宝永7(1710)に焼失した祖師堂が、間口25間、奥行き23間と極めて大規模な堂宇であったことから「大堂」と呼ばれたという。

さて加藤清正の大堂焼失後、享保8(1723)、第24世日等の代に徳川幕府8代将軍・吉宗の資助を得て、13間四方の規模で再建された。加藤清正の大堂が間口25間、奥行き23間だったわけだから、半分以下の面積である。

この祖師堂は、昭和20(1945)の東京大空襲で焼失。昭和39(1964)に再建された。

今の大堂は、間口18間、奥行き19間半だから、加藤清正の大堂よりも規模は小さくなっている。

今の身延山久遠寺本堂の大きさは、間口17間半、奥行き28間ある巨大堂宇で、今の池上本門寺大堂よりも、身延山久遠寺本堂のほうが大きいが、加藤清正の大堂と比較すると、加藤清正の大堂のほうが面積は大きい。

こう考えると、加藤清正の大堂が、いかに大規模な堂宇だったかということである。

大堂3

 

ではなぜ、加藤清正がこれほど大きな大堂を池上本門寺に寄進したのか、ということになるが、戦国~江戸時代はじめに活躍した武将・加藤清正は、熱心な法華の信者だったということである。

池上本門寺には大堂の他、此経難事坂の石段も加藤清正の寄進。

没後には「清正公(せいしょうこう)」の名前で呼ばれ、人々の信仰を集めている。

かつて池上本門寺・大堂の付近に、加藤清正の銅像(清正公銅像)があった。これは、清正公三百遠忌を記念して、博多の日蓮銅像の制作で知られる竹内久一が制作し、第70世藤原日迦の代の明治45(1912)年に序幕開眼式が行われた。

しかしこの銅像は、第二次世界大戦で軍部に供出されてしまって、現存していない。「古写真集~撮された戦前の本門寺」には、明治・大正・昭和初期に撮影された加藤清正の銅像(清正公銅像)の写真が載っている。

 

同じく加藤清正が池上本門寺に寄進したのが、「此経難事坂」の石段。この石段は96段あり、名前は法華経宝塔品の「此経難事」にはじまる96文字の偈文による。

上り・下りを仕切る柵は、明治38(1893)年に横浜の鋼鉄商人・中原庄三郎が寄進したもの。

此経難持坂2
 

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■池上本門寺28(誤った日蓮本尊説)

 

□日蓮宗寺院祖師堂に祀られている日蓮祖師像は本尊として祀られているのではない

 

池上本門寺は、お会式に約30万人もの人が参詣するなど、東京都民にとっては、わりと身近な寺院であると言えます。しかしその一方で、まことに奥深さがある寺院でもあります。

池上本門寺の総門をくぐって此経難事坂とよばれる長い石段を登り、三門をくく゜ると、日蓮祖師像を祀る大堂につきあたります。

池上本門寺のお会式等、大きな法要はこの大堂で営まれることが多く、池上本門寺の参拝客も大堂に参拝し、賽銭箱にお賽銭を入れて帰る人が多い。

日蓮宗の大きな寺院に行くと、中心堂宇が二堂建てられていて、一堂には一塔両尊四士(ないしは釈迦如来像・釈迦・多宝如来像等)が祀られていて、もう一堂には日蓮祖師像が祀られている。

これは池上本門寺も同じになっている。

総門、三門からの参道の突き当たりに建っている大堂には、正応元年六月造立の日蓮祖師像が、板曼荼羅を背にして祀られている。

もう一堂は、大堂の奥にある「本殿」で、こちらには久遠実成の釈迦如来像をはじめとする両尊四士と日蓮像が祀られている。

では、日蓮宗寺院の場合、一塔両尊四士が祀られている堂宇と、日蓮祖師像が祀られている堂宇のどちらが本堂に該当するのか、ということになりますが、本堂に該当するのは、一塔両尊四士が祀られている堂宇のほうである。つまり本尊として祀っているのは両尊四士のほうで、日蓮祖師像は本尊として祀っているということではない。

御会式22大堂 


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