一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは「アンチ日蓮正宗」管理人が2005年11月に設立した会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。富士門流執着軍団批判は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄だが、「日蓮正宗系」以外の富士門流寺院の調査・研究は「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」の管轄。
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■三縁山増上寺3(秘仏・増上寺安国殿・黒本尊)

 

増上寺安国殿とは、太平洋戦争の戦災で焼失した大殿のかわりに、仮本堂としていた堂宇を、昭和49(1974)の新大殿の落成のおりに境内北側に移転。ここが徳川家康ゆかりの「黒本尊」を祀る堂宇「安国殿」となった。

この旧安国殿の老朽化により、法然八百遠忌記念として平成23(2011)、新しい安国殿が増上寺に建立・落慶した。これが今の安国殿。

須弥壇中央には、本尊である秘仏・黒本尊とお前立の阿弥陀如来像が祀られている。

脇陣には徳川家康の肖像画。徳川歴代将軍の位牌。和宮の等身大の像が祀られている。

黒本尊とは、恵心僧都源信の作と伝承される阿弥陀如来像。昔は、金箔燦然と輝く金色の立像だったが、長年にわたって香煙に薫じられ、その像が徐々に黒ずんでいき「黒本尊」と名付けられたという。

ということは、黒本尊は元々は秘仏ではなかったのだが、途中から秘仏になった、ということになる。長年の香煙で黒ずんだため秘仏になったということで、なぜ秘仏になったのか謂われがよくわからないケースに比べたら、こちらは、わかりやすい。

黒本尊は、普段は秘仏として厨子の中に秘蔵されているが、年に3回。1月、5月、9月の15日に御開帳され、盛大な祈願会が行われている。

秘仏(ひぶつ)とは、信仰上の理由により非公開とされ、厨子などの扉が普段は閉じられたまま祀られる本尊や仏像のことである。仏教寺院では、仏堂の扉を開いた際に本尊・仏像が見えるように祀るのが本来であるが、「秘仏」は開帳以外の時は厨子の扉を閉じたまま祀られている。

日本の仏教各宗各派の秘仏には、全く公開されない「絶対の秘仏」も一部にあるが、特定の日に限って公開(「御開帳」「御開扉」などと称する)を行うことが多い。

「秘仏」の発生時期や要因については本格的な研究が進んでおらず、確かなことはわかっていないが、少なくとも京都・広隆寺の資財についての記録である「広隆寺資財交替実録帳」(寛平2年・890年頃成立)には、同寺金堂本尊の「霊験薬師仏」が鍵のかかる「内殿」に安置されていたことが明記され、この薬師像が遅くとも9世紀末には秘仏扱いされていたことを伺わせる。

秘仏の発生には神道の神社からの影響があるものとする説もある。神社の本殿の扉もまた、普段は閉じられており、特定の祭祀の時にのみ扉が開かれる場合があるからである。

宗派別では、真言宗および天台宗の寺院に本尊を秘仏とするところが比較的多い。

天台宗系の主要寺院では、延暦寺根本中堂本尊の薬師如来像、同寺西塔釈迦堂本尊の釈迦如来像、園城寺(三井寺)金堂本尊の弥勒菩薩像、同寺観音堂本尊の如意輪観音像などはいずれも秘仏で、他にも和歌山県紀の川市の粉河寺・千手観音像、兵庫県加西市の一乗寺・千手観音像がある。

増上寺20

 

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■三縁山増上寺2(日本で弘まり中国では弘まらなかった浄土宗)

 

東京芝・増上寺は、かつて芝公園一帯全てが境内であったが、明治維新、廃仏毀釈、太平洋戦争等で境内は狭められた。しかんしそれでも増上寺の境内は広い。

増上寺の中心堂宇は大殿で、これが仏教寺院一般の本堂に該当する。そういう意味で、増上寺が発行する正式文献「浄土宗大本山増上寺」には、「大殿(本堂)」となっています。

今の大殿は昭和49(1975)落成。もちろん、戦前から増上寺に大殿はあったのですが、太平洋戦争の東京大空襲による戦災で焼失。

そこで新たに近代的な設計のもとに、鉄筋コンクリート造りの大殿が再建された。石段を登った二階が本堂。三階に道場。一階に壇信徒控え室。地下に三縁ホールがある。

本堂には、本尊として阿弥陀如来が祀られ、両脇壇には高祖善導と宗祖法然の像が祀られている。

高祖・善導とは、中国浄土宗の僧。「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立したとされている。

称名念仏とは、浄土宗においては「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える念仏(口称念仏)のこと。『佛説無量寿経』には「南無阿弥陀仏」と念仏を称えれば、阿弥陀仏の浄土(極楽浄土)へ往って、阿弥陀仏の元で諸仏として生まれることができると説かれている、とされる。

善導が、『観無量寿経疏』(『観経疏』)を撰述して、『仏説観無量寿経』は「観想念仏」ではなく「称名念仏」を勧めている教典と解釈した。こうして「称名念仏」を中心とする浄土思想が確立する。

しかし中国ではその思想は主流とはならなかった。

つまり善導の中国浄土宗は、中国では大衆文化として定着しなかった。

善導の『観経正宗分散善義』巻第四(『観無量寿経疏』「散善義」)の中の、

「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥に、時節の久近を問はず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」

という文に影響されて、日本で専修念仏を唱道したのが浄土宗宗祖・法然。

専修念仏とは、仏の救いは念仏を唱える「称名念仏」によって得られるという思想。即ち、ただひたすらに念仏をを唱えることで、いつでも、どこでも、誰でもが平等に阿弥陀仏によって救われて極楽浄土に往生できるという教えは、日本の大衆の心をとらえて、日本全土に弘まった。

浄土宗の寺院・信者は、どれくらいあるのか。201172日号「週刊ダイヤモンド」誌によれば、浄土宗の寺院は6880寺、信者数6021900人。

法然の弟子・親鸞を宗祖とする浄土真宗の寺院数は18847寺。信者数は12474151人。

これは、寺院所属の信者数で、元々は江戸時代の「宗門改」による寺檀制度にまでさかのぼる。

浄土宗・浄土真宗が日本全国に弘まったのは、江戸時代よりももっと前。すなわち鎌倉時代、室町時代、戦国時代にかけてのことである。特に中でも浄土真宗本願寺派が室町時代、戦国時代にかけて大きく教線を拡大した史実は、あまりにも有名である。

増上寺16


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■三縁山増上寺1(徳川将軍家の菩提寺として繁栄)

 

増上寺とは、東京・芝公園にある浄土宗大本山の寺院で、正式には三縁山広度院増上寺という。

浄土宗とは法然を開祖、本尊は阿弥陀如来。教義は専修念仏を中心とする宗旨で、浄土専念宗とも呼ばれる。

浄土宗は京都市東山区の知恩院(華頂山知恩教院大谷寺)を総本山とする浄土宗鎮西派、長岡京市の粟生光明寺を総本山とする西山浄土宗、京都市左京区の永観堂禅林寺を総本山とする浄土宗西山禅林寺派、京都市中京区の誓願寺を総本山とする浄土宗西山深草派がある。

増上寺は、知恩院を総本山とする浄土宗の大本山で、世間一般では、単に「浄土宗」と言うと、この宗派のことを指す場合が多い。

この増上寺は、江戸時代は上野・寛永寺と並んで徳川将軍家の菩提寺だったことで、あまりにも有名。増上寺には、徳川将軍15代のうち、6人の将軍(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)が葬られている。もうひとつの菩提寺である寛永寺墓地には、徳川将軍15人のうち6人の将軍(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)が眠っている。

のこる3人の将軍のうち、初代徳川家康、三代徳川家光は日光東照宮に葬られ、十五代徳川慶喜は東京谷中霊園に葬られている。

増上寺の徳川将軍家霊廟は、普段は非公開。年に数回、限られた期間限定で「特別公開日」が決められ、その期間のみ、一般公開される。この徳川霊廟特別公開日には、一度、見学に行ったことがあります。

増上寺12徳川家廟公開
 

場所的にも、増上寺があるところは東京・芝公園で、東京タワーのすぐそば。東京都心にあり、アクセスもJR浜松町駅、地下鉄・大門駅、地下鉄・赤羽橋駅が歩いて行ける所にある。増上寺三門も、都心の幹線道路・日比谷通りに面している。というわけで、ここは普段から参拝客が多く、参拝客の中には、ビジネスマンやサラリーマン風の人も見かけます。

私も仕事等で増上寺近辺に来る機会がかなりあり、ここは何度も来ています。

新年の初詣にも、たくさんの人が参拝に来ています。

増上寺の開創は明徳4(1393)に西誉聖聰によって江戸貝塚(現東京都千代田区平河町)に開山されたこととしている。しかし増上寺が徳川将軍家の菩提寺になるまでの歴史、なぜ増上寺が徳川将軍家の菩提寺になったのか、については明瞭ではなく、増上寺が発刊している小冊子「浄土宗大本山増上寺」を紐解いても、増上寺が徳川将軍家の菩提寺になった縁由について

「天正18(1590)、徳川家康公が関東八カ国に封ぜられ江戸に入国すると、当時の住職、源譽存応上人と親しく交わり、増上寺を徳川家の菩提寺としました」

と記すのみ。

増上寺31三門
 

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■鎌倉本覚寺1(日蓮真骨を分骨された東身延)

 

□日蓮宗が発行している正式文献で公式に認めている本覚寺への日蓮真骨の分骨の史実

 

京都妙伝寺が「西之身延」とか「関西身延」と呼ばれているのに対して、「東身延」「東之身延」と呼ばれているのが、日蓮宗本山・鎌倉本覚寺。

鎌倉本覚寺とは、佐渡流罪を赦免になった日蓮が、身延山に旅発つまでの間、約40日間留まっていた所として伝承されている寺院。日蓮宗新聞社発刊の「日蓮宗本山めぐり」によれば、日蓮は文永11(1274)326日、陸路にて鎌倉に到着。日蓮が滞在したのは、源頼朝が鎌倉幕府を開いた時、守護神を祀った「夷堂」(えびすどう)で、これが本覚寺の前身。

日蓮は48日、鎌倉幕府・評定所に召喚され平頼綱と対面。第三の国諫を行ったが聞き入れられず、「三度諫むるに用いずは山林に交われ」との故事にしたがって、512日に鎌倉を出発。身延山へと向かった。

なぜ鎌倉本覚寺が「東身延」とよばれているのかというと、室町時代に身延山久遠寺から日蓮真骨がここに分骨されて、今日に至るまで格蔵されていることによる。

本覚寺8


本覚寺に身延山久遠寺の日蓮真骨が分骨されたことは、「日蓮宗本山めぐり」や日蓮宗宗務院発行「創価学会批判」といった日蓮宗の正式文献に載っている。

ではなぜ本覚寺に日蓮真骨が分骨されることになったのか、ということですが、日蓮宗新聞社発刊の「日蓮宗本山めぐり」によれば、次のように書いてある。

(本覚寺の)創立は1436(永享8)年。身延門流の日出上人は伊豆の三島開教の後、同年に鎌倉の天台宗宝戒寺・心海と法論して勝った。(永享問答)しかしときの鎌倉御所・足利持氏の怒りを買い、法難の危機に瀕したが、逆に帰依を得て当地を拝領。本覚寺を創建した。

二世日朝上人は1461(寛正2)年に身延山11世となって祖山を大復興。当山(本覚寺)に日蓮聖人のご分骨を奉安。以来、『東身延』と称されるようになった。日朝上人は眼病救護の誓願を立てられたので、後に霊験あらたな『日朝さま』とよばれ、信仰を集めるようになった」(p32)

本覚寺1

 

つまり本覚寺2世日朝が、のちに身延山久遠寺11世法主として晋山したため、本覚寺に日蓮真骨が分骨された、ということである。

本覚寺は日蓮宗本山ということだが、私がこの寺院を訪れた感じとしては、そんなに広くない印象を持ちました。寺院の受付では僧侶がお守りやお札を売っていました。

本覚寺の本堂は十軒四面の堂宇で、大正12(1923)の落成となっている。

本覚寺の堂宇は、本堂の他に、ご分骨堂、客殿、庫裡等がある。

日蓮宗寺院の堂宇は、本尊である釈迦如来像を祀る本堂と日蓮祖師像を祀る祖師堂の二堂あるのが通例ですが、ここ本覚寺には祖師堂の名前の堂宇がない。

祖師堂はありませんが、そのかわりに「御分骨堂」があるわけで、ここが祖師堂のかわりの役目を果たしている、ということなのだろうか。

しかし「御分骨堂」は、普段は入り口の扉が堅く閉められていて、中に入ることが出来ない。

本覚寺6分骨堂
 

 

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■京都妙伝寺2(西面している妙伝寺)

 

□日蓮宗や妙伝寺が発行する正式文献には書かれていない『錐揉みの祖師像』の寺伝

 

日蓮宗本山・京都妙伝寺が建っているところは、まさに京都市の市街地の中。このあたりの周辺には、頂妙寺、寂光寺、要法寺など日蓮宗系の本山寺院が建ち並んでいる地域。平安神宮にも近い。

そういう京都市街地の、しかも仏教寺院が密集している地域に建てられているためか、妙伝寺の境内そのものは、そんなに広いという印象はない。境内の中で最も大きな堂宇は本堂で、一塔(南無妙法蓮華経)両尊(釈迦如来像・多宝如来像)四菩薩(上行・無辺行・浄行・安立行)四天王(時国・増長・毘沙門・広目)諸尊と日蓮像が祀られているのが見える。

妙伝寺に祀られている日蓮祖師像は「錐揉祖師の霊像」とよばれている。

この「錐揉祖師の霊像」とはいかなる像なのか、という詳細は「日蓮宗本山めぐり」を紐解いても、妙伝寺発行の冊子「西之身延・本山妙伝寺縁起書」を紐解いても、どこにも書いていない。

ところが日蓮聖人門下連合会・監修、日蓮宗・制作発刊の小冊子「日蓮聖人門下京都十六本山めぐり・京都に息づく法華の心」の中の「日蓮宗・妙伝寺」の項目にこれが載っている。

そこには、こんなことが書いてある。

「本堂に祀られた祖師像は、いたずらによって錐で穴を開けられたところから血が流れ出したという伝説があるそう。そのため『錐揉みの御祖師様』と呼ばれています」(p19)

 

オカルト信仰を彷彿とさせるような伝説である。祖師像に錐で穴を開けたら血が出てきた、などというのは、どう考えてもあり得ない話しで、上古の時代から伝えられている寺伝としては、それでいいのかもしれないが、いろいろな人が読む日蓮宗や妙伝寺が発行する正式文献には、ちょっと書くべき内容ではない、というところだろうか。だから正式文献には、こんな話しが載っていないのではないか、と思われる。

妙伝寺境内には、本堂の「錐揉祖師の霊像」とは別に、「立正安国」と書かれた台座の上に、日蓮立像が建っている。境内に日蓮立像が建てられているのは、身延山久遠寺、池上本門寺、鎌倉妙本寺、北山本門寺、伊豆実成寺、佐野妙顕寺等々の日蓮宗寺院と同じ。

ただし、面白いのは、京都妙伝寺の日蓮立像は、境内の隅っこにあり、しかも立像が境内の外側を向いて建てられていること。

日蓮宗ではないが、法華宗本門流大本山・京都本能寺の日蓮立像も、入り口の総門前にあり、しかも境内の外側を向いていることで共通している。

ただし、こういう日蓮立像の建て方は、とても珍しいのではないかと思われます。

妙伝寺14日蓮像
 

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■京都妙伝寺1(日蓮真骨を分骨された西之身延)

 

□日蓮宗が発行している正式文献で公式に認めている妙伝寺への日蓮真骨の分骨の史実

 

日蓮宗本山の京都・妙伝寺は、京都府京都市左京区にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)で正式名は法鏡山妙伝寺。開創は文明9(1477)で、開山は身延山久遠寺11世行学院日朝の弟子・円教院日意。日蓮宗新聞社刊行「日蓮宗本山めぐり」によれば、日意は、はじめ天台宗に属して比叡山延暦寺の学頭であった。

ところが身延山久遠寺11世法主・行学院日朝にまみえて三昼夜、法義を談じた後、日朝の弟子になって帰依した。そして文明9(1477)、日意は身延山久遠寺の参詣が遠い関西以遠の檀信徒のために、身延山久遠寺を彷彿とさせるような寺院として妙伝寺を開創した。

日意は師・日朝が身延山久遠寺11世法主であったため、師と図って身延山久遠寺から日蓮真筆大曼荼羅本尊と日蓮真骨の一部を分骨されて妙伝寺に持ち帰り奉安した。

さらに本堂には、身延山の七面大明神と同じ木を使い、姿・形も同じに造った七面大明神像を祭っている。

こうして身延山久遠寺参詣が困難であった室町時代に、関西以遠の遠隔地の信徒に日蓮真骨・七面大明神参詣の便を開いた。

又、妙伝寺本堂の須弥壇中央に祀られているのは、一塔(南無妙法蓮華経)両尊(釈迦如来像・多宝如来像)四菩薩(上行・無辺行・浄行・安立行)四天王(時国・増長・毘沙門・広目)諸尊と日蓮像が祀られている。つまりこれは、日蓮の大曼荼羅の相を立体像化したもので、身延山久遠寺本堂に祀られている本尊とほぼ同じである。

こう見てみると、妙伝寺は、「京都のミニ身延山」を醸し出しているように見える。

そのため、妙伝寺は「西之身延」とか「関西身延」と呼ばれている。妙伝寺にも「西之身延」の扁額が掲げられている。

妙伝寺開山・日意は妙伝寺にて23年間在寺した後、身延山久遠寺11世行学院日朝の後を受けて、明応8(1499)に身延山久遠寺12世法主の猊座についている。身延山にて在寺20年ののち、猊座を13世日伝に譲り永正16(1519)に遷化。日蓮宗では日朝・日意・日伝の三師を宗門中興の三師とよんでいる。

 

これに対して、同じく身延山久遠寺から分骨された日蓮真骨を格蔵している日蓮宗本山・鎌倉本覚寺は「東之身延」と呼ばれている。

身延山久遠寺から京都妙伝寺、鎌倉本覚寺に日蓮真骨が分骨されたことは、日蓮宗が発行する公式文献「日蓮宗本山めぐり」や「創価学会批判」に載っていて、日蓮宗、身延山久遠寺としても公式に認めている史実である。

妙伝寺11本堂

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■池上本門寺36(日本プロレスの祖・力道山の墓)

 

池上本門寺の墓苑の中には、日本プロレスの祖である力道山の墓があります。

力道山墓6


力道山とは、今さら言うまでもなく、大相撲の力士出身で第二次世界大戦終了後に日本のプロレス界の礎を築き、日本プロレス界の父と呼ばれている人物。当時始まったプロレスのテレビ放送もあり絶大な人気があったスーパースター。

力道山墓4

 

力道山の墓に参拝する人は、かなりたくさんいるようで、墓苑の中には案内板が立てられていました。

力道山墓1


墓は綺麗に整備され、墓碑が新しくなっていました。

力道山墓3


池上本門寺には、著名人の墓がいくつかありますが、その代表格がこれです。

 力道山墓2

 

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■池上本門寺35(日蓮廟所)

 

□室町時代の応仁元年(1467)頃に造立された池上本門寺日蓮廟所の石塔

 

池上本門寺本殿の奥には、日蓮の廟所がある。

日蓮廟所4


廟所というと、身延山久遠寺の御真骨堂のように、日蓮の真骨を収蔵し祀っているのか、と思うが、池上本門寺・日蓮廟所の立て看板を見ても、ここに日蓮の真骨が納められている、という文は書いてない。日蓮廟所の立て看板には、次のように書いてある。

「中央廟屋内に宗祖日蓮聖人(弘安51282〕年1013日御遷化)、左廟屋内に第二祖日朗聖人(元応元年〔1319〕正月21日御遷化)、右廟屋内に第三祖日輪聖人(延文41359〕年44日御遷化)の墓塔をお奉りしています。

なかでも、日朗聖人墓塔は室町時代の応仁元年(1467)頃に第8世日調聖人によって造立されたと考えられる古い石塔です。形は日蓮宗に特有の宝塔で、高さ1.6m(失われている反花座を補うと1.9m)の大きなものです。塔身の正面には一塔両尊(南無妙法蓮華経、南無釈迦牟尼仏、南無多宝如来)を、基礎の背面には日朗聖人の没年や造立願主の名が刻まれています。石材は伊豆石(安山岩)です。この型式の宝塔は、室町時代に南関東の日蓮宗寺院において多く造立されましたが、日朗聖人塔はその中でも特に大きいものとして注目されます。信仰的、歴史的な重要性から大田区の文化財にも指定されています」

日蓮廟所1

 

つまり廟屋の中に石塔型式の墓塔がある、ということです。というより、元々、石塔型式の墓塔が建てられていて、これを後年に建てられた廟屋で覆われている、ということのようです。

ということは、ここには日蓮の真骨・灰骨はないものと思われます。

では池上本門寺に日蓮の真骨・灰骨はないのかというと、そうではない。大堂に祀られている日蓮祖師像の胎内に、日蓮の灰骨が収蔵されている。

大堂の中にある説明書きには、次のようにあります。(大堂内は写真撮影禁止であるため、文章を書き出します)

「日蓮大聖人御尊像

日蓮大聖人第七回忌に当たる正応元年(1288)に造立されたもので、気魄に満ちた御顔は、ご生前の真容をよく伝え、肖像彫刻としても鎌倉時代の傑作の一つに挙げられている。像高二尺八寸三分の木彫寄木造り、ご胎内には御聖骨を納めた銅筒があり、右手には母君妙蓮尼の遺髪を加えて作られたものと伝えられる払子を、左手には紺紙金泥の法華経経巻を捧持。

昭和二十年四月の大空襲にも難を免れた御尊像は、永遠に格護されるべき人類の至宝である。」

 

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■池上本門寺34(南谷檀林・照栄院2)

 

□池上本門寺照栄院に板頭寮のみが残る南谷檀林

 

池上本門寺塔中・照栄院は、江戸時代は南谷檀林が置かれていた子院。そうすると多くの学僧が修学していたわけですから、かなり大きな塔頭なのかな、と思ってしまうのですが、現在の照栄院の堂宇の大きさは、池上本門寺の他の塔頭の堂宇の大きさと、大差はない。

これは一見して不思議に思えます。今の堂宇に、多くの学僧が修学していた南谷檀林があったとは思えない。

ところが、この謎を解明するヒントが、照栄院前にある大田区教育委員会の立て看板「南谷檀林『板頭寮』遺構」に書いてありました。そこには、こんなことが書いてある。

 

「大田区文化財 南谷檀林『板頭寮』遺構 (非公開)

南谷檀林は、池上本門寺に付属する僧侶の学校として、元禄期(16881704)に、本門寺の南方(寺窪、南窪と称せられる地)に開創された。

『新編武蔵風土記稿』によれば、檀林は、講堂、方丈、玄寮、板頭寮、首座寮、所化寮、談合場、食堂、妙見堂等の施設を備えていた。

現存している建物は、檀林の事務所に当たる『板頭寮』で、板頭(事務経営の長)の居室でもあったとされる。江戸後期の天保7(1836)、池上山内の木を用いて建てられたと伝えられる。

当院の庫裡(寺の台所、居室)、書院として利用されてきたため、増改築が行われているが、屋根は昭和50(1975)、保護のため銅板で覆う工事が行われるまで、茅葺きであった。

昭和50319日指定  大田区教育委員会」

南谷檀林6

 

これによれば、南谷檀林は、本門寺の南方、寺窪、南窪と称せられる地に開創されたとある。

現存しているのは、『板頭寮』のみ。かつては講堂、方丈、玄寮、板頭寮、首座寮、所化寮、談合場、食堂、妙見堂等の施設を備えていたというから、かなり大規模な檀林だったことが、うかがえる。

ではなぜ、講堂、方丈、玄寮、首座寮、所化寮、談合場、食堂等の施設がなくなってしまったのか。もっとも檀林が廃止になって学僧が来なくなれば、檀林の堂宇も必然的に消滅してしまう運命にあるのかもしれないが、檀林の施設が今日に遺っていないというのは、残念なことである。

今の照栄院は、江戸時代の南谷檀林の面影はほとんど残っていない。

照栄院4
 

 

 

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■池上本門寺33(南谷檀林・照栄院)

 

□江戸時代にはたくさんの日蓮宗学僧が出入りしていた池上本門寺南谷檀林

 

池上本門寺の塔頭子院の中で、私が注目したのは照栄院。ここは呑川の川沿いにあります。

照栄院という塔頭は、元々は日蓮六老僧・池上本門寺二祖・日朗の草庵だったところで、日朗入滅後に衰退。これが江戸時代に入って再興し、僧侶の学校である南谷檀林が置かれ、これが明治維新までつづいた。照栄院の境内には、こんな立て札が建てられています。

「照栄院

縁起

正応4(1291)、日朗聖人の庵室として開創。日朗聖人没後、荒廃したが、嘉吉年間(14411444)に再興された。元禄2(1689)、南谷檀林という僧侶教育の学校を開設。明治2(1869)に廃されるまで、多くの高僧を送り出した。本門寺の役寺としての三院家の一。山上の妙見堂に祀られている妙見菩薩立像は寛文4(1664)、加藤清正の娘・瑶林院が夫の紀州徳川頼宣の現世安穏後生善処を祈念して奉納したもの」

 

檀林というのは、中世から仏教各宗派でつくっていた僧侶教育の学校のことで、日蓮宗系の檀林も、安土桃山時代ぐらいから建ちはじめ、江戸時代に檀林の隆盛期を迎える。

江戸時代のころにあった日蓮宗系の檀林とは、以下のようになっている。

 

□飯高檀林  千葉県匝瑳市飯高 日蓮宗 飯高寺 立正大学発祥の地

□小西檀林  千葉県千葉県山武郡大網白里町 日蓮宗 正法寺

□中村檀林  千葉県香取郡多古町 日蓮宗 日本寺

□野呂檀林  千葉県千葉市若林区野呂 日蓮宗 妙興寺

□玉造檀林  千葉県香取郡多古町 日蓮宗 蓮華寺

□三昧堂檀林  茨城県常陸太田市 日蓮宗 久昌寺

□南谷檀林  東京都大田区池上 日蓮宗大本山 池上本門寺照栄院

□西谷檀林  山梨県南巨摩郡身延町身延 日蓮宗総本山 身延山久遠寺

□松ヶ崎檀林  京都府京都市左京区松ヶ崎堀町 日蓮宗 涌泉寺

□求法檀林  京都府京都市山科区御陵大岩 日蓮宗大本山 本圀寺

□東山檀林  京都府京都市左京区岡崎東福ノ川町 日蓮宗 善正寺

□鷹峯檀林  京都府京都市北区鷹峯北鷹峯町 日蓮宗 常照寺

□山科檀林  京都府京都市山科区竹鼻竹ノ街道町 日蓮宗 護国寺

□鶏冠井檀林  京都府向日市鶏冠井町御屋敷  日蓮宗 北真経寺

照栄院3


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■池上本門寺32(塔頭子院の院号・寺号・坊号)

 

□かつては坊号の塔頭子院があったが何らかの理由で坊号の塔頭をなくしていった池上本門寺

 

池上本門寺の場合、本門寺境内の周辺に塔頭子院が立ち並ぶという、独特の伽藍配置になっています。

池上本門寺の塔頭子院は、中道院、常仙院、本成院、本妙院、理境院、大坊本行寺、南之院、覚源院、厳定院、西之院、真性寺、実相寺、本光寺、善慶寺、長勝寺、東之院、安立院、法養寺、心浄院、妙雲寺、養源寺、照栄院、永寿院の23院・寺です。

大半の塔頭支院は池上本門寺に隣接していますが、池上本門寺から離れた所にある子院もあります。池上本門寺発行の小冊子「池上の寺めぐり」によれば、池上本門寺の塔頭支院の言われについて、次のように書いてある

「日蓮聖人が亡くなった御入滅の霊場である池上本門寺の周辺には、参拝者が宿泊するためにいくつかの宿坊があった。宿坊のはじまりは、日蓮聖人の弟子たちが日蓮聖人の塔所(墓所、廟)に給仕するために建てた小庵であった。当初は支院とよばれ、多いときは36あった塔頭寺院も移転・合併・廃寺などで、現在は本門寺を加えた24ヶ寺が『朗師講』とよばれて残っている。『朗師講』とは本門寺2世日朗聖人の日蓮聖人への奉仕に対する徳を偲び、その恩に報いるための講会という意味で、今でも毎月1回、24ヶ寺の住職が集まって報恩法要を行っている」

(小冊子「池上の寺めぐり」p4)

 

塔頭子院の23院・寺に池上本門寺を加えた24ヶ寺が『朗師講』とよばれて残っている、ということです。こう見てみると、池上本門寺の塔頭支院の名前は、院号と寺号の混在になっている。

私が見聞した限りでは、仏教大寺院や本山クラスの寺院の塔頭支院の院号、坊号は、地域的に別れているように思います。

京都に行くと、京都・要法寺、妙顕寺、本圀寺、妙伝寺、本能寺、頂妙寺、本満寺、本善寺、妙覚寺、本法寺、妙蓮寺、本隆寺等の本山は全て「○○院」の院号になっています。

これは、日蓮宗、日蓮本宗(富士門流)、法華宗本門流、法華宗真門流、顕本法華宗、本門法華宗、法華宗陣門流の宗派の区別はなく、共通して全て「○○院」の院号です。

臨済宗の本山に「○○庵」の庵号が一部にありました。

 

これが東海・甲信越地方になると、院号はなく、全て坊号になっている。

身延山久遠寺、日蓮正宗大石寺、富士妙蓮寺、北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、岡宮光長寺等、全て同じです。

本成院1
 

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113日は、久しぶりに箱根湯本温泉の日帰り湯に行って、ゆっくり休息してきました。

今までは、年にそれこそ何度も箱根湯本温泉の日帰り湯に着て、ゆっくり暖まって休息していたのですが、昨年は、忙しくて一度も来ていませんでした。

そういうわけで、箱根湯本に来たこと自体、本当に久しぶり。

電車で箱根湯本に行ったのでしたが、しばらく来ない間に、箱根湯本駅のホーム、駅舎、駅前が改装工事を施されて、リニューアルしていました。

箱根湯本駅1

箱根湯本駅3



さて箱根湯本駅から温泉街に向かっては、人も車も大渋滞。

箱根湯本温泉1


三連休の中日ということもあり、箱根湯本はものすごい人出。箱根湯本駅のロマンスカー特急券発売所は長蛇の行列。

箱根湯本駅2


タクシー乗り場も長蛇の行列。タクシーは全て実車で、空車はほとんど見かけない。

箱根湯本温泉の名物そば店・「はつ花そば」も、店の前に長蛇の行列。

滝通り温泉街も、狭い道をたくさんの人が歩いています。

温泉街の山道を歩きながら、日帰り湯の「天山」へ。

天山1


ここも、駐車場の空き待ちの車が、長蛇の行列。

「天山」の中に入っていくと、中はどこも超満員。

喫茶も全て席が埋まっている。

ごろ寝ができる畳の間も、ほとんどすき間がないくらい人がぎっきり座っている。

1Fに降りていっても、一服できる椅子席は全て人が座っている。すごいですね。

 

さて風呂に入ろうと脱衣所に入ると、ここも超満員。「これじゃ、風呂に入れないかな」と思ったけども、辛うじて開いているスペースを見つけました。

野天風呂に行くと、ぬるめ湯の湯舟は超満員で、入るスペースなし。

開いていたのは熱い湯の湯舟。熱い湯は好きじゃないけども、しょうがないですね。

となりのぬるめ湯の湯舟が、少し人が出て、開いたのを見計らって、そっちへ移動。

30分くらい露天風呂に入っていましたが、充分、体が暖まりました。

 

風呂からあがって、ごろ寝ができる畳の間に入って行くと、少しスペースが空いていたので、すかさずそこに座って、即、ごろ寝。約2時間くらい寝ていましたが、今まで溜まっていた疲労が全て解消したようで、なんとなく身が軽くなりました。

6時すぎに「天山」を出たのですが、まだ駐車場の空き待ちの車の行列ができていました。

 

 

 

 

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■池上本門寺31(池上「本門寺」寺号の由来)

 

□池上「本門寺」寺号は富士門流の「本門寺」思想とは全くの無関係である

 

池上本門寺の研究課題として、「本門寺」の寺号ということがある。

現在、日蓮入滅から200年くらいの間に創建された寺院の中で「本門寺」の寺号を名乗る寺院としては、北山本門寺、西山本門寺、讃岐本門寺と池上本門寺。北山本門寺の場合は、「法華本門寺根源」とか「富士山本門寺根源」と呼んでいる。

西山本門寺は「富士山西山本門寺」とか「富士山本門寺根源」を自称している。これは、「二箇相承」(偽書)にある「富士山本門寺」の寺号を名乗っていると考えられる。

讃岐本門寺は、正式には高永山本門寺というが、江戸時代から戦前にかけて、北山本門寺の末寺だったときは、法華寺を名乗っていた。

日蓮正宗大石寺も、将来的には「本門寺」の寺号を名乗るとしている。

そうすると、大石寺を含めても本門寺の寺号を名乗るのは、池上本門寺のみが日朗門流で、他は全て日興門流(冨士門流)ということになる。

日興門流には、古くから本門寺思想というものがあり、日蓮曼荼羅に「本門寺の重宝たるべきなり」との日興の加筆が散見される。

その他の本門寺思想からみの文献としては、百六箇抄、二箇相承、日順文書等があるが、百六箇抄、二箇相承は後世の偽作であり、日順文書についても日蓮正宗大石寺59世堀日亨が疑義を呈している。

本門寺思想の真偽はさておくとし、日興門流の寺院の「本門寺」寺号は本門寺思想から来ているとしても、そうすると日朗門流の池上本門寺の「本門寺」寺号は、どうして付けられたのか。いつから「本門寺」寺号を名乗っているのか、という疑問が出てくる。

この点、池上本門寺の公式ウエブサイトを見ても、

「長栄山本門寺という名前の由来は、『法華経の道場として長く栄えるように』という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられたものです。そして大檀越の池上宗仲公が、日蓮聖人御入滅の後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進され、お寺の礎が築かれましたので、以来『池上本門寺』と呼びならわされています」

として、本門寺の寺号は日蓮聖人が命名された、とは書いてある。そこで、池上本門寺の「本門寺」寺号について、池上本門寺の僧侶に質問したところ、下記のような見解であった。

大堂3
 

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■池上本門寺30(日蓮の歯を格蔵する本殿・日蓮像)

 

□毎年6月に池上本門寺霊寶殿で公開される、かつて日蓮の歯骨を収蔵していた厨子

 

あまり知られていないことだが、池上本門寺本殿の釈迦如来像といっしょに祀られている日蓮像の胎内には、日蓮の歯が格蔵されている。

池上本門寺大堂の日蓮像の胎内には、日蓮灰骨が格蔵されていることが、大堂の案内板に書いてある。しかし本殿の案内板には、日蓮の歯のことはどこにも書いていないが、池上本門寺刊行「妙玄院日等聖人」という本の中に、千葉県勝浦市の本行寺釈迦殿に、池上本門寺が格蔵していた日蓮歯骨が分骨されたことが載っている。

 

「当山(池上本門寺)祖師堂の完成を半年後に控えた享保83月に、日等聖人は、弟子で後に両山25世に晋む守玄院日顗聖人を、自身の名代として上総国夷隅地方に遣わし、百日に及ぶ勧財を行った。日顗聖人は当山重宝の宗祖御肉牙の一部を奉じて上総に赴き、百日の内の大半を勝浦の本行寺に滞在し、五十日に及ぶ説法を行った。…この時の御肉牙は、日顗聖人の記念碑と共に現在も本行寺に格護されている」(『妙玄院日等聖人』p16)

 

これは間接表現ながら、池上本門寺として日蓮歯骨の存在を文献にて表明している。

この他に、池上本門寺霊寶殿の毎年6月の展示で、かつて日蓮の歯骨を収蔵していた厨子の展示が行われる。これは「かつて」日蓮の歯骨を収蔵していた、というもので、現在は池上本門寺本殿の日蓮像の胎内に収蔵されている。

毎年6月の池上本門寺霊寶殿の展示の中に、江戸時代のもので「四大天王扉絵厨子」というのがある。これはもともと、日蓮御肉牙(歯骨)を格蔵していた厨子で、展示の説明書きには

「もと宗祖(日蓮)御肉牙(歯骨)奉安  今 御肉牙は本殿祖師像内に納骨」

とありました。

展示の厨子の頭部を見ると、宗宝調査会が発行した「宗宝」と書いた貼り紙が貼り付けてありました。この「宗宝」と書いた貼り紙を判読すると

 

「番号 第十六号 品名 御肉牙 ○○ 本門寺 調査日 大正十四年○月二十一日 」

 

とあり、さらに宗宝調査会の委員五人の押印がありました。

つまりこの貼り紙は、宗宝調査会という団体が、池上本門寺の御肉牙を調査して、宗宝として認定した認定証のようなもの。池上本門寺霊寶殿の中の展示は、写真撮影禁止なので、これを写真でお見せできないのは残念である。

霊宝殿1


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■池上本門寺29(加藤清正が寄進した大堂・此経難事坂)

 

□間口25間、奥行き23間と極めて大規模な堂宇であった加藤清正が寄進した大堂

 

池上本門寺刊行の「古写真集~撮された戦前の本門寺」という題名の写真集によれば、正応元年(1288)造立の日蓮祖師像を祀っている大堂は、日蓮祖師像の他に二祖・日朗像、三祖・日輪像を祀っているという。日朗像、日輪像は一見して気づかない。

ここは、慶長年間(15961615)に、熊本城主・加藤清正が寄進し、宝永7(1710)に焼失した祖師堂が、間口25間、奥行き23間と極めて大規模な堂宇であったことから「大堂」と呼ばれたという。

さて加藤清正の大堂焼失後、享保8(1723)、第24世日等の代に徳川幕府8代将軍・吉宗の資助を得て、13間四方の規模で再建された。加藤清正の大堂が間口25間、奥行き23間だったわけだから、半分以下の面積である。

この祖師堂は、昭和20(1945)の東京大空襲で焼失。昭和39(1964)に再建された。

今の大堂は、間口18間、奥行き19間半だから、加藤清正の大堂よりも規模は小さくなっている。

今の身延山久遠寺本堂の大きさは、間口17間半、奥行き28間ある巨大堂宇で、今の池上本門寺大堂よりも、身延山久遠寺本堂のほうが大きいが、加藤清正の大堂と比較すると、加藤清正の大堂のほうが面積は大きい。

こう考えると、加藤清正の大堂が、いかに大規模な堂宇だったかということである。

大堂3

 

ではなぜ、加藤清正がこれほど大きな大堂を池上本門寺に寄進したのか、ということになるが、戦国~江戸時代はじめに活躍した武将・加藤清正は、熱心な法華の信者だったということである。

池上本門寺には大堂の他、此経難事坂の石段も加藤清正の寄進。

没後には「清正公(せいしょうこう)」の名前で呼ばれ、人々の信仰を集めている。

かつて池上本門寺・大堂の付近に、加藤清正の銅像(清正公銅像)があった。これは、清正公三百遠忌を記念して、博多の日蓮銅像の制作で知られる竹内久一が制作し、第70世藤原日迦の代の明治45(1912)年に序幕開眼式が行われた。

しかしこの銅像は、第二次世界大戦で軍部に供出されてしまって、現存していない。「古写真集~撮された戦前の本門寺」には、明治・大正・昭和初期に撮影された加藤清正の銅像(清正公銅像)の写真が載っている。

 

同じく加藤清正が池上本門寺に寄進したのが、「此経難事坂」の石段。この石段は96段あり、名前は法華経宝塔品の「此経難事」にはじまる96文字の偈文による。

上り・下りを仕切る柵は、明治38(1893)年に横浜の鋼鉄商人・中原庄三郎が寄進したもの。

此経難持坂2
 

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■池上本門寺28(誤った日蓮本尊説)

 

□日蓮宗寺院祖師堂に祀られている日蓮祖師像は本尊として祀られているのではない

 

池上本門寺は、お会式に約30万人もの人が参詣するなど、東京都民にとっては、わりと身近な寺院であると言えます。しかしその一方で、まことに奥深さがある寺院でもあります。

池上本門寺の総門をくぐって此経難事坂とよばれる長い石段を登り、三門をくく゜ると、日蓮祖師像を祀る大堂につきあたります。

池上本門寺のお会式等、大きな法要はこの大堂で営まれることが多く、池上本門寺の参拝客も大堂に参拝し、賽銭箱にお賽銭を入れて帰る人が多い。

日蓮宗の大きな寺院に行くと、中心堂宇が二堂建てられていて、一堂には一塔両尊四士(ないしは釈迦如来像・釈迦・多宝如来像等)が祀られていて、もう一堂には日蓮祖師像が祀られている。

これは池上本門寺も同じになっている。

総門、三門からの参道の突き当たりに建っている大堂には、正応元年六月造立の日蓮祖師像が、板曼荼羅を背にして祀られている。

もう一堂は、大堂の奥にある「本殿」で、こちらには久遠実成の釈迦如来像をはじめとする両尊四士と日蓮像が祀られている。

では、日蓮宗寺院の場合、一塔両尊四士が祀られている堂宇と、日蓮祖師像が祀られている堂宇のどちらが本堂に該当するのか、ということになりますが、本堂に該当するのは、一塔両尊四士が祀られている堂宇のほうである。つまり本尊として祀っているのは両尊四士のほうで、日蓮祖師像は本尊として祀っているということではない。

御会式22大堂 


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■池上本門寺27(池上本門寺の本殿・御影堂・本尊3)

 

□池上本門寺の本尊・堂宇・本堂に関する池上本門寺僧侶の見解

 

日蓮宗の本尊、本堂、堂宇の問題というのは、外から見ていると、実にわかりにくい話しである。そこで、かつて私は、池上本門寺僧侶に、この点について質問をしたことがある。以下は、私の質問に対する池上本門寺僧侶の回答です。

 

僧「池上本門寺としての御本尊、お寺の御本尊は、お祖師様(日蓮)のお像ではなく、法華経如来寿量品の久遠実成の釈迦如来であり、池上本門寺では本殿に一尊四士としてお祀りしています」

僧「大堂にお祖師様(日蓮)のお像をお祀りしているのは、お寺の御本尊としてお祀りしているのではなく、あくまでも日蓮宗一門の宗祖として、末法に法華経を弘通された開祖として崇めて、お祀りしているということです」

僧「たしかに大堂にお祖師様(日蓮)のお像をお祀りしていますから、御本尊としてお祀りしているように見えますが、そうではありません。お堂にお祖師様(日蓮)のお像をお祀りすることと、御本尊としてお祀りすることは別個のことなのです。

例えば、浄土真宗のお寺に行くと、御影堂には親鸞聖人のお像をお祀りしていますね。あれはお寺の御本尊として崇めているのではなく、浄土真宗の開祖として崇めているわけです。

あれと同じ事です」

僧「だから池上本門寺の堂宇の中で『本堂』に該当する堂宇は、大堂ではなく、大堂の奥にある本殿ということになります。戦前は釈迦堂と呼ばれていたのですが、戦後再建した時に本殿と改名されました」

僧「大曼荼羅のことを大曼荼羅本尊とおよびするのは、あくまでも日蓮宗僧侶・信者の日々の信行の本尊として崇めている、ということです。ですから御本尊には違いありませんが、池上本門寺のお寺としての中心本尊ということではありません」

僧「日蓮宗の寺院では、通常は釈迦如来像をお祀りする堂宇と、お祖師様(日蓮)の像をお祀りする堂宇の二堂建てるのが正しいとされています。お寺の御本尊は、あくまでも久遠実成の釈尊像であり、これは共通しています。

池上本門寺では、戦前までは釈尊を祀るお堂とお祖師様(日蓮)を祀る大堂が並んで建っていました。戦前までは釈尊を祀るお堂を『釈迦堂』とよんでいました。しかし東京大空襲で釈迦堂も大堂も焼失してしまいましたが、お祖師様のお像は救出されました。戦後は先に大堂が再建され、その後に、大堂の奥に釈迦堂が本殿として再建されています」

池上初詣4本殿
 

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■池上本門寺26(池上本門寺の本殿2)

 

□日蓮宗寺院の堂宇の建て方と浄土真宗寺院の堂宇の建て方が実によく似ている

 

池上本門寺の本殿は、戦後、再興された堂宇で、戦前は、今の大堂の隣に釈迦堂が並んで建っていた。池上本門寺発刊の写真集「撮された戦前の本門寺」を見ると、大堂と釈迦堂が並んで建っている写真が掲載されている。

ちょうど今、霊宝殿が建っているあたりに釈迦堂が建てられていたと考えられる。

戦前の釈迦殿は、1710(宝永7)年の焼失後、1730(享保15)年に江戸幕府八代将軍・徳川吉宗の援助を得て再建。間口11間、奥行き10間で、扁額「釈迦殿」は、伏見宮親王の筆だった。

戦前の池上本門寺は、釈迦如来像と四菩薩像を祀る釈迦堂が、本堂に該当する堂宇だったのであり、この釈迦堂が1945(昭和20)年の東京大空襲で焼失したため、1969(昭和44)年に再建された堂宇が、今の本殿である。

池上初詣4本殿


だからあくまでも池上本門寺の大堂は、祖師像(日蓮像)を祀る堂宇で、日蓮宗寺院の祖師堂・御影堂に該当する堂宇である。

大堂3

 

日蓮宗寺院の場合、本山級の寺院に行くと日蓮祖師像を祀る祖師堂(御影堂)と釈迦如来像を祀る本堂(釈迦堂)が並んで建っている光景を目にする。実質的に中心堂宇が二つある、という言い方もできる。

面白いのは、こういう日蓮宗寺院の堂宇の建て方と浄土真宗寺院の堂宇の建て方が実によく似ているということ。

浄土真宗の本山級寺院に行くと、阿弥陀如来像を祀る阿弥陀堂と開祖・親鸞像を祀る御影堂の二堂が並んで建っている光景を目にする。浄土真宗は十派あるが、こういう堂宇の建て方は派を問わずに共通している。

浄土真宗でも御影堂で勤行や法要を行っているが、あくまでも寺院の本尊は阿弥陀如来像であり、本堂に該当する堂宇は阿弥陀堂。御影堂は、親鸞像を祀っているが、本尊として祀っているのではなく、あくまでも浄土真宗の開祖として祀っている。

では、日蓮宗は堂宇の建て方を浄土真宗の堂宇の建て方を模倣したのか、ということになるが、そこまでは言い切れないのではないか。

ただし、日蓮正宗大石寺で言う「唯授一人の血脈相承」なるものは、浄土真宗仏光寺派の「相承」を模倣したものである、という見解はかつて「アンチ日蓮正宗」に書いています。

□大石寺9世日有が浄土真宗仏光寺派から輸入した「唯授一人の血脈相承」

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/10720663.html

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/10721453.html

 

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■池上本門寺25(池上本門寺の本殿)

 

池上本門寺の「本堂」に該当する堂宇は、大堂ではなく、本殿である。

本殿は、戦後、再興された堂宇であり、戦前は「釈迦堂」という堂宇で、釈迦堂と大堂が二堂並んで建っていた。池上本門寺刊行の「古写真集~撮された戦前の本門寺」という題名の写真集にも、「釈迦堂(本堂)」として載っている。

すなわち、釈迦堂は池上本門寺の本尊である釈迦牟尼如来の仏像を祀っている堂宇だから、釈迦堂が本堂に該当することになる。

釈迦堂は、宝永7(1710)に火災焼失後、第25世日顗の代の享保15(1730)に徳川幕府8代将軍・吉宗の資助を得て再建された。堂宇の規模は間口11間、奥行き10間。

扁額「釈王殿」は、伏見宮親王の筆であったという。釈迦堂の前には、清正公銅像が建っていた。

この釈迦堂は、昭和20(1945)の東京大空襲で焼失。昭和44(1969)に、「本殿」として再建された。

「本殿」の意味は、池上本門寺の説明板によれば、「本師のおわします殿堂」という意味とのこと。

かつて釈迦堂があった場所には、平成15(2003)開館の霊寶殿と、移築された経蔵が建っている。

池上本門寺刊行の「古写真集~撮された戦前の本門寺」の写真によれば、戦前まで建っていた釈迦堂の内陣の宮殿には、久遠実成の釈迦牟尼如来像と四菩薩像が祀られていたという。

現在の本殿の内陣には、久遠実成の釈迦牟尼如来像と四菩薩像、そして日蓮祖師像が祀られている。

 

さて池上本門寺は、江戸時代から桜の名所だったようで、池上本門寺刊行の「古写真集~撮された戦前の本門寺」の写真によれば、大正812年ころの釈迦堂前や大堂前に、桜が咲き乱れている写真が載っている。

客殿、書院、玄関等を含めた本院は、池上本門寺の中枢で、鎌倉妙本寺と両山一首制だった貫首が、江戸時代のころから池上本門寺に常住するようになってから整備が行われてきた。

江戸時代の正徳年中(171116)に第23世日潤によって再建された本院は、明治34(1901)に焼失。その後、第68世久保田日亀、第70世藤原日迦貫首の代に再建が進められたが、昭和20(1945)の東京大空襲で焼失。

かつて本院があった場所に、釈迦堂が本殿として再建され、さらに昭和53(1978)には、本殿に隣接して、大客殿・本院寺務所が再建されている。

池上初詣4本殿
 

 

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■宇治平等院5(天台宗・浄土宗の塔中共同管理)

 

□平成の大修理では阿弥陀如来像・天蓋・台座等々の修理が行われた平等院鳳凰堂

 

平等院は国宝に指定されていて、なおかつ、平等院の中にある阿弥陀堂、壁画をはじめ国宝、重要文化財に指定されている文化財が多数収蔵されている。そういうわけで、平等院に関する資料・記述は、仏教的な内容のものよりも、国宝・文化財に関するもののほうが多い。

平等院に行く事前の情報の中に

「平等院鳳凰堂は全て金箔が貼られている」

というものがありましたが、実際に行って見ると、鳳凰堂の堂宇そのものに金箔は貼ってありません。金箔が貼られていたのは鳳凰堂の本尊・阿弥陀如来像のみ。

ただしその金箔も、長年の年輪でだいぶ色あせているように見えましたが。

鳳凰堂見学案内の係員の説明によれば、鳳凰堂の平成の大修理では、本尊・天蓋・台座等々の修理が行われたとのこと。大修理とは、50年に1回、100年に1回のサイクルで行われる。

鳳凰堂9


フリー百科事典・Wikipedia「平等院」の項目を見ると、201211月現在、鳳凰堂は修理のため仮設素屋根に覆われているということで、仮設屋根にすっぽり覆われている鳳凰堂の写真が載っている。

もちろん、私が平等院に行ったのは、鳳凰堂が修理の仮設屋根に覆われる以前のことである。

 

平等院の国宝、重要文化財等は、平等院境内にある、「平等院ミュージアム鳳翔館」で見学が出来る。これは以前に平等院にあった「宝物館」に代わって平成13年(2001年)に新しくオープンした建物とのこと。

 

現在の平等院は、天台宗系の最勝院、浄土宗の浄土院という2つの塔中が共同で管理している単立寺院ということになっている。フリー百科事典・Wikipedia「平等院」の項目には、平等院が浄土・天台両宗の共同管理となったのは、天和元年(1681年)、寺社奉行の裁定によるものである、と書いてある。

平等院10


天台宗系と浄土宗の寺院の共同管理とは、珍しい管理体制ですね。

塔中・浄土院の前には、こんな立て札が立っていました。

平等院5浄土院
 

 

 

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■宇治平等院4(摂関家・藤原氏)

 

□藤原摂関家・平安貴族たちが「観想念仏」をするために建てられた平等院鳳凰堂

 

実際に、平等院鳳凰堂の見学に行って、平安時代の日本において、他に比類する者がいないくらい絶大な権勢をふるっていた摂関家・藤原氏においてすら、西方極楽浄土への往生成仏を願っていた、という史実を目の当たりにすると、まことに心中複雑なものになりました。

藤原摂関家は、たしかに平安時代においては、絶大な権勢をふるっていたのかもしれないが、実際の政治は、というと、前九年の役や平忠常の乱、比叡山延暦寺と園城寺の紛争をはじめとする全国各地の内乱や焼き討ち、京都の大火、さらには飢饉や疫病流行に対して、なんら手立てを講じず、世は次第に戦乱の世になっていった。

ろくな政務もとらずに、世を乱れさせておいて、自分だけはひたすら死後の極楽往生を願っていたと言うのだから、今の時代の人が受ける印象は、よくないのではないだろうか。そんなに極楽往生を願っていたのなら、もっと徳治をすればよかったではないか、と言いたくもなる。

そういうことを考えると、仏教とは何なのか。宗教とは何なのか。救いとは何なのか。浄土思想とは一体何なのか、という実に奥深い課題に、つい嵌り込んでしまいそうになる。

 

奈良時代とか、平安時代という時代は、医療も医学もほとんどないに等しく、絶大な権勢をふるっていた摂関家・藤原家といえども、浄土教や浄土思想にしがみつくしかなかったということか。

何か病気にでもなれば、皇族や公家たちは、あてにならない当時の医師や薬師よりも、「病魔を退散させる」と自称して護摩行を修する霊媒師や僧侶を信頼していた。

最愛の人が寝込んでしまうと、皇族や公家、豪族たちは、病魔退散の僧侶を呼んできて、ひたすら祈祷させていた。

日本史研究家・著述家の井沢元彦氏は、ベストセラー本「逆説の日本史」の中で、日本史の謎を解明していくカギの一つとして「怨霊信仰」があると言っている。

井沢元彦氏は、日本の歴史には一貫して「怨霊信仰」が流れている、という。

井沢元彦氏は「怨霊信仰」と呼んでいるが、学問的には「御霊信仰」と呼ばれている。

「御霊信仰」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0

 鳳凰堂9

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皆様、新年、明けましておめでとうございます。

昨年は、いろいろとお世話になりました。

日記やボイスに、イイネやコメントを多数いただき、ありがとうございました。

直接お会いしました方々には、いろいろとお世話になり、ありがとうございました。

 

昨年は、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」と「仏教宗学研究会のブログ」を立ち上げ、けっこう忙しい毎日がつづきました。

このふたつのブログにUPしている記事は、200511月にスタートしたmixi「アンチ日蓮正宗」コミュニティ、20073月にスタートしたGREE「アンチ日蓮正宗」コミュニティ、20074月にスタートした管理人のmixi日記「日蓮正宗・創価学会・顕正会批判シリーズ」、「旅紀行」「東京近郊ぶらり旅」シリーズ、2009128日にスタートしたmixi「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」コミュニティ、

20121月にスタートした「アンチ日蓮正宗」「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」mixiページ等で私が執筆してきた記事を、加筆訂正した上で、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」と「仏教宗学研究会のブログ」に再分類してアップしているものです。

20121231日現在で「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」の記事が1038本。「仏教宗学研究会」の記事が257本。合計で1295本になりましたが、まだまだ道半ば。コミュニティ、mixiページ、日記シリーズにUPした記事全体からすれば、まだまだ50%弱ぐらいです。

これからも、まだまだブログにUPしていく作業はつづきます。

 

本年もまた昨年に引きつづいて、皆様方からのご指導・ご鞭撻を賜ることが出来ますよう、よろしくお願い申し上げます。

2013年年賀
 

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■宇治平等院3(阿弥陀如来像)

 

□光り輝く浄土の世界の象徴であり権威・権力の象徴でもあった「金」

 

次に私が興味深かったのは、平等院鳳凰堂に祀られている本尊・阿弥陀如来像。

その阿弥陀如来像があまりにも巨大であったことと、もうひとつ。この阿弥陀如来像に金箔が貼られていたこと。鳳凰堂見学を案内してくれた係員の説明によれば、鳳凰堂の阿弥陀如来像は寄木造りで、漆・金箔が貼ってあるとのことでした。

寄せ木造りとはなんぞや、という話になりますが、寄せ木造りと対照的なのが、一木造り。

一木造りとは、一本の木から仏像を彫り出す技法のことで、寄木造りとは、数本の木材を寄せ合わせて仏像を彫る技法のこと。

漆塗り・金箔貼りになっている仏像は、全国各地の大寺院にあることはある。

「金」とは、現世での富や豊かさの象徴であり、仏教の世界においては、古くから至高の存在として、仏の三十二相の「金色相」の如く、光り輝く浄土の世界として表現されてきた歴史がある。そして同時に「金」は権威・権力の象徴でもあった。

日本ではじめて自然金が確認されたのは奈良時代中期のことである。それ以前の弥生・古墳・飛鳥時代の金製品・金メッキ・金箔製品の金は、海外から輸入されたものである。弥生・古墳時代の金の装飾品は、まさに権力者の富の象徴だった。

日本では滋賀県野洲町の甲山古墳(6世紀前半)から日本最古の金糸が発見されている。

奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末~8世紀はじめ)では、天文図の星が金箔で表現されていることが確認されている。仏教伝来後の飛鳥時代になって、仏の三十二相の中の「金色相」の考えに基づき、仏像・仏具で金が使われはじめた。

 

「日本書紀」によれば、仏教は552年に百済国から金銅の仏像や経典が日本に伝わり、飛鳥時代から造仏が盛んになった。当時の仏像・仏具は銅で鋳造され、金メッキが施された。仏像や仏殿での金の使用は、仏の三十二相の「金色相」があり、仏像は金色とされ、西方浄土の世界も金色と記されているため。現在も日本を含め仏像・仏具には金色が尊ばれ、金箔が張られている。

743(天平15)年、聖武天皇は奈良・東大寺の大仏造営を決定し、仏像に金箔を飾ろうとしたところ、749年に陸奥国(宮城県)で「金」が発見され、900両の金が天皇に献上された。

天皇は年号を天平感宝と改め、歌人・大伴家持は

「すめろぎの 御代栄えむと東なる みちのくの山に 黄金花咲く」

と詠んだ。

鳳凰堂8
 

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■宇治平等院2(導師席も信者が座るスペースもない)

 

□奈良・平安時代の寺院には僧侶の導師席も信者・参拝客が座るスペースも必要なかった

 

平等院鳳凰堂の中は、ほとんどが本尊・阿弥陀如来像が祀られているスペースで占められており、僧侶や参拝客が入るスペースがほとんどない。又、阿弥陀堂内には、僧侶が座る導師席など一切設置されていない。

ここで儀式や法要をやるとなったら、阿弥陀堂の中に入れるのは、導師の僧侶だけで、参拝者は全員、外に出て参拝しなくてはならくなると思われる。

そう考えると、何と都合の悪い造りにしたものだと考えがちだが、しかしながら、藤原頼通が創建した当時は、こういう造りのほうが都合が良かった、ということである。

藤原頼通が平等院を創建した時代というのは、平安時代。その時代は、一般庶民に仏教は弘まっておらず、もちろん当時の庶民は仏教信仰とはほとんど無縁に近かった。

奈良・平安時代に仏教を信仰していたのは、僧侶の他には天皇・皇族・公家・貴族といった上流階級のみ。一般庶民が仏教を信仰し始めたのは、「南無阿弥陀仏」、座禅、「南無妙法蓮華経」といった鎌倉仏教が弘まって以降のこと。

しかし、鎌倉時代以降、庶民が仏教信仰をするようになったとは言っても、大伽藍を持つ仏教寺院は一般大衆の信仰に支えられていたわけではなく、天皇・皇族・公家・貴族、将軍、大名、武家といった特定の上流階級によって経済的に支えられていた寺院が多かった。この平等院とて長い間、摂関家・藤原氏丸抱えの寺院だったのであり、藤原氏の供養によってのみ成り立っていた。当然、そのころは一般庶民とは無縁だったということ。

これは平等院のみならず、飛鳥・奈良・平安時代に建てられた大寺院の中を見れば、一目瞭然である。

日本に仏教が伝来した当初の飛鳥・奈良時代の寺院の金堂(仏殿)は、その寺院の中心本尊・根本本尊を祀るための堂宇であったので、金堂(仏殿)の建物の内部は、仏像本尊を安置する壇(須弥壇)がほとんどのスペースを占めている。

これは飛鳥・奈良・平安時代においては、仏教を信仰していたのは、天皇・皇族・貴族・公家ほんの一部の上流階級・支配階級のみであり、この当時の寺院も、ほとんどが天皇・皇族・貴族・公家の財力・経済力で建てられた官寺であり、この時代において、仏教を信仰していたのは、僧侶と皇族・公家・貴族といった上流階級のみであり、まだ仏教は一般庶民まで広く流布していなかった。金堂(仏殿)の建物に、たくさんの人を収容するスペースは不要だったのである。

これは、飛鳥・奈良・平安時代に建てられた東大寺、唐招提寺、興福寺、薬師寺の金堂、法隆寺の金堂、夢殿、平等院鳳凰堂の中は、皆そのようになっている。東大寺の大仏殿(金堂)も、中に祀られている大仏は巨大であるが、大仏殿の前に参詣者が入るスペースはほとんどない。

ただし、東大寺等、創建は飛鳥・奈良時代でも、戦乱等で焼失して再建された寺院も多い。

そういう意味で、飛鳥・奈良・平安時代に建てられた堂宇がそのまま残っている法隆寺や平等院鳳凰堂の存在はまことに貴重である。

 

鳳凰堂6
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■宇治平等院1(平安時代の創建当初の堂宇)

 

平等院とは、京都府宇治市にある摂関家・藤原氏ゆかりの寺院で、鳳凰堂が十円硬貨の表の絵柄として、あまりにも有名。私も寺跡調査で、何度か来ています。

平等院は、周書異記の末法初年説である1052(永承7)に、関白・藤原頼通が父親・藤原道長から譲り受けた別荘を寺院に改めて創建したのがはじまり。

平安貴族が夢見た極楽浄土を形にした鳳凰堂は、創建の翌年、1053(天喜元年)、阿弥陀如来像を安置する阿弥陀堂として建立されたもの。

当初、平等院は広大な境内と伽藍を持つ大寺院であったが、たび重なる戦火によって焼失。現在、残っている創建当初の堂宇は鳳凰堂のみ。観音堂は鎌倉時代の堂宇、塔中の浄土院は明応年間(1492 - 1501年)、最勝院は承応3年(1654年)の創建とされている。

平安時代の平等院には、阿弥陀堂の他、金堂、講堂、法華堂、宝蔵等があったとされる。

鳳凰堂は、正式には阿弥陀堂と言うが、なぜ鳳凰堂と言うかというと、まず阿弥陀堂の屋根に鳳凰が乗っていること。

そして建物全体が両翼と尾を伸ばしたような形になっているため、あたかも鳥が羽を広げたようにも見えることから、鳳凰堂と呼ばれるようになった、ということ。

阿弥陀如来像も阿弥陀堂も、堂内の壁画等もすべて、国宝に指定されている。本尊である阿弥陀如来像は、仏師定朝の最高傑作とされる。

 

平等院見学の大きなポイントは、鳳凰堂の見学であることは、言うまでもありません。鳳凰堂の見学に入ったのは、2010年に平等院参拝に行ったときのことです。

鳳凰堂の見学は、事前申し込み制で、501グループによる見学。つまり1回の見学で申し込みが50人を超えた段階で締め切りになり、次の時間の見学に回されてしまう。

鳳凰堂入り口のすぐ近くに見学受付があり、拝観料200円を支払って見学を申し込むと、○○時△△分と書いた見学券をくれる。

境内を見学した後、集合時間5分前に鳳凰堂入り口に行くと、すでに長蛇の列ができていました。

私は1550分からの見学。

見学開始に当たって、鳳凰堂に入る前に係員から注意事項の説明があった。内容は

○写真撮影、ビデオ撮影、スケッチ等はすべて禁止。ご遠慮くださいとのこと

○堂内の立ち入り禁止エリアには絶対に入らないでください、とのこと。

○鳳凰堂は国宝なので、柱や壁にもたれかかったり、物を置いたりしないでください。国宝、文化財保護のために、ご協力をお願いします。

とまあ、こんなような内容の注意事項。何か特別なお達しでもあるのかな、と思って聞いていましたが、きわめて当たり前の内容でした。

鳳凰堂8
 

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■成田山新勝寺2(新勝寺表参道)

 

真言宗智山派大本山・成田山新勝寺への表参道は、JR成田駅、京成成田駅の中間にある交差点から新勝寺総門にむかって伸びている。そしてこの表参道の両側には、所狭しと商店、食堂、レストラン、喫茶、カフェ、みあげもの店等々が軒を連ねている。

新勝寺商店街5


まず私の目に付いたのは、この表参道がとても綺麗に舗装され、整備されていること。

新勝寺商店街7


そして表参道の両側に軒を連ねる商店等が、どの店もきちんとした店舗を構え、しかも新築した店舗が多いこと。見た感じとしては、どの店も商売繁盛している様子。

新勝寺商店街8


参道で目を引いたのが、高級うなぎ料理の店が数軒あること。

メニューに出ている、うなぎ料理を見てみると、これがビックリするくらいの高級うなぎ。一食がなんと3000円から4000円するものまである。

東京都心の繁華街、銀座、赤坂、六本木、新宿、渋谷、恵比寿、八重洲、上野界隈にも、こんな高級ウナギを取り扱っている料理店があっただろうかなあ、と思ってしまうくらい。しかもそれが一軒や二軒ではないから、なおさら驚いてしまいました。

 

もちろんこういう高級料理店だけではなく、大衆料理店もたくさん軒を連ねています。

私も、とある大衆料理店に入って食事。入ってみると昭和のころの大衆食堂そのものといった感じ。まるでタイムスリップして昭和時代に戻ったかのような錯覚になりそうです。

私が店に入ったのは、ちょうど夕食の時間帯で、参詣客のグループが2グループほど座って、ビールや日本酒を呑みながら、ずいぶんと話しが盛り上がっている様子。見た感じ、この店のなじみ客のようで、店員とも親しげに話していた。

 

それと、もうひとつ目を引いたのが旅館。おそらく成田山新勝寺参詣の人が宿泊するのでしょう。

電車は東京からJR線と京成線があり、高速道路も東関東自動車道があるが、いかんせん、どのルートでも所要時間が1時間以上かかる。時間かかりすぎですね、これは。

それと成田山新勝寺大本堂の朝の護摩が午前6時からはじまるため、これに参詣するには、新勝寺の近辺に宿泊しないと無理です。6時の護摩もさることながら、9時の護摩に参詣するにも、新勝寺近辺に宿泊しないと無理なのではないか。

それとどの旅館も、外から見た限りでは、立派な建物を構えた高級旅館。すごいですね。

成田山新勝寺参詣でこれらの旅館に宿泊する人が、いかに多いかと言うことでしょう。

新勝寺商店街9
 

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■成田山新勝寺1(初詣で約298万人の参詣)

 

成田山新勝寺といえば、関東地方の初詣のメッカとして有名な寺院。

関東地方の初詣は、1位・明治神宮が約320万人、2位が成田山新勝寺で約298万人、3位が川崎大師・平間寺で約296万人と言われています。面白いことに2位と3位がともに真言宗智山派の大本山になっている。

これは正月三が日の参詣人の数だから、かなりの人数である。成田山新勝寺でも、お正月は1日約100万人の参詣がある、ということになる。これはたいへんな数である。

だから初詣のときは、JR成田駅、京成成田駅から新勝寺までの参道はまさに大混雑である。とても見学どころではない。お賽銭を投げ入れて参拝したら、あとは帰路につくしかないくらいである。

あと初詣のメッカにしては、東京からのアクセスがいいとは言えない。

JR東京駅から総武線快速電車で行くと1時間以上かかる。京成線のほうも、以前は特急スカイライナーが京成成田駅に停車していたが、2010年にスカイライナーが成田スカイアクセス線経由になり、京成成田駅を通らなくなった。

その替わりとして、特急シティライナーが運行されたが、東日本大震災の電力使用制限令で12往復まで削減され、そのままの状態がつづいている。

正月は、JRでも成田エクスプレスの一部が成田駅に停車したり、初詣臨時列車を運行しているが、それでもアクセスがいいとはいえない。

 

真言宗智山派とは、弘法大師空海を始祖、真言宗中興の祖・興教大師覚鑁(1095-1144年)を開祖とする新義真言宗と呼ばれる宗派の中の一つ。

天正5年(1577年)に根来山の学頭職となった玄宥(1529-1605年)が、天正13年(1585年)、豊臣秀吉による紀州征伐で焼き滅ぼされた根来山・智積院を、慶長6年(1601年)、徳川家康の許可を受け寺領を拝受し復興させたことを端緒に創建された宗派。

といっても、なかなかわかりにくい。

真言宗智山派総本山は、京都市東山区にある智積院。総本山智積院の歴代化主が智山派管長を務めている。

大本山が神奈川県川崎市川崎区大師町の川崎大師平間寺、東京都八王子市高尾町の高尾山薬王院、そして千葉県成田市の成田山新勝寺の三寺院。

この他に別格本山として東京都日野市の高幡不動金剛寺と愛知県名古屋市中区の大須観音宝生院がある。大本山・別格本山の5寺院のうち、4寺院が関東地方にある。

真言宗というと、高野山真言宗が有名で、智山派といっても、あまりなじみが薄い名前ですが、数年前、mixiで、あの「桜千歳」なる者が所属している宗派として、有名になった宗派。

それと、成田山新勝寺は、屋号「成田屋」の市川團十郎、市川海老蔵が成田山の不動明王を信仰していることでも有名である。

 新勝寺1

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■正倉院展2(63回正倉院展を見学2)

 

奈良県庁前から奈良公園を通り、途中、地下道をくぐって奈良国立博物館まで、父の乗る車いすを押しながら歩いて行きました。周囲を見ていると、たくさんの人が奈良国立博物館にむかって歩いているのがわかりました。「こりゃ、たくさんの人がきているなあ」という感じです。

私の父は全く歩けないわけではなく、普段は普通に生活していて、車に乗ってマーケットに買い物にも行っています。しかし車で遠出ができなくなったのと、長時間の歩行が困難になってしまったので、観光地に行くときは、父を車いすに乗せて、私が押して歩いているわけです。

さて奈良国立博物館で当日入場券を二人分、購入。一枚1000円でした。

当日券売り場には、あまり人がいませんでした。ではこんなにたくさん押し寄せてきている人たちは、前売り券を買って来ているんでしょうか。東京じゃあ、正倉院展の前売り券なんて、見かけませんでしたが、関西地方では、正倉院展の前売り券を売っていたんでしょうか。

当日券を買って博物館の中に入ろうとしたのですが、入り口から入場待ちの長蛇の行列ができているのがわかりました。「こりゃ、すごい行列だなあ」と思いながら、やっと行列の最後尾を見つけて並びましたが、そこには何と「入場までの待ち時間75分」という看板が立っていました。

正倉院展5行列


75分もかかるの」と驚きましたが、しかし入場するにはこの行列に並ぶしかありません。

行列の最後尾についたのが1055分。実際に入場までに何分かかるか、計ってみることにしました。長蛇の行列も少しずつでしたが流れていきまして、奈良国立博物館の入場ケートにたどり着いてチケットを切ってもらったのが1140分。ちょうど45分かかりました。

正倉院展6行列


看板では75分になっていたので、それと比べたら以外と早く入場できました。

さて早速、展示を見学しようとしてエレベーターに車いすごと乗って2Fへ。展示会場の中も、ものすごい人だかりでした。

 

□織田信長、足利義政ら権力者が切り取った香木「蘭奢待」をはじめて実際に見学

 

さて早速、展示を見学しようとしてエレベーターに車いすごと乗って2Fへ。展示会場の中も、ものすごい人だかり。最初は、この人だかりの中に入って、最初から展示をひとつひとつ見学しようとしたのですが、展示が陳列されている人だかりが全然動きません。

「こりゃだめだ」と思い、いったん人だかりの中から脱出し、先に蘭奢待などのポイントの展示を見ることにしました。しかしどこに蘭奢待が展示されているのか、わかりません。

そこで会場の係員に「蘭奢待はどこに展示されているのですか」と聞くと、「あちらです」と教えてくれたので、父の車いすを押しながら、そちらに直行。

そうするとそこにもたくさんの人だかりがありました。その人だかりの中に入っていくと、蘭奢待が大きなガラスケースの中に納められているのが見えました。

蘭奢待2


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■正倉院展1(63回正倉院展を見学1)

 

20111112日に父と二人で奈良国立博物館の第63回正倉院展の見学に行き、mixiボイスでつぶやきを書いたところ、たくさんの方からイイネをいただきましたのと、この正倉院展の具体的な内容について、いくつかの質問・問い合わせをいただきました。それで、正倉院展見学に行ったときのことを書こうと思います。

正倉院展2

 

東大寺・正倉院に収蔵されている宝物は通常時、非公開。正倉院そのものは東大寺の境内にあるが、正倉院の管理は宮内庁が行っており、正倉院の中に一般は入れず、もちろん、見学もできない。その正倉院展に収蔵されている宝物が毎年、年1回、奈良国立博物館で一般公開される。

しかし管理する宮内庁が整理済みの正倉院宝物だけで約9000点に上るが、このうち正倉院展で公開される宝物の品目は毎年変更され約70点のみであるとのこと。

フリー百科事典・Wikipediaによれば、正倉院宝物が一般公開される最初は、1875年~1880年、毎年開催された奈良博覧会の一環として、東大寺大仏殿回廊で、一部が一般に公開されたことだという。1889年~1940年には、正倉院の曝涼(宝物の「虫干し」のこと)の際に、限られた人々に拝観を許していたのが、正倉院展のはじまりと言われている。

「正倉院」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%80%89%E9%99%A2

 

正倉院展という催しは毎年、奈良国立博物館で行われているが、第63回正倉院展は20111029()1114()まで無休で開催され、私は1112()に行ってきました。今回の最大の見所は、14年ぶりに出展されたという「蘭奢待」(らんじゃたい)です。

蘭奢待とは香木の一種で、正式名称は黄熟香(おうじゅくこう)。「蘭奢待」という名は、その文字の中に"東・大・寺"の名を隠した雅名です。

これは元々、東南アジアで産出される沈香と呼ばれる高級香木で、日本には9世紀頃に中国より伝えられたとされる説が有力。一説には『日本書紀』や聖徳太子伝暦の推古天皇3年記述を云う説もあります。

普段は、奈良市の正倉院・中倉薬物棚に納められており、これまで足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武、織田信長、明治天皇らが切り取って、この高木の香りを楽しんだと伝えられており、古くから日本の権力者にとても重宝がられた香木として有名。

足利義政、織田信長、明治天皇が切り取った跡には、紙箋がありますが、学者の研究によれば、もっとたくさんの人物によって、数百箇所以上、切り取られているといいます。

蘭奢待2
 

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■池上本門寺24(2011年・池上本門寺お会式紀行17)

 

池上本門寺総門前から、住宅街の路地裏をぬけて十中通りに出たのですが、この通りは、池上本門寺から池上駅方面へ帰る参詣者で、足の踏み場もないほど、ごったがえし状態。道路が人で超満員状態になり、その状態でゆっくりと池上駅方面に人の塊が移動しているような感じです。

こちらの通りにも、道路の両サイドには、テキ屋の露店が所狭しと立ち並んでいました。

御会式48的屋・本門寺通り


本門寺の参道は、池上駅前から本門寺方向への一方通行なら、十中通りは本門寺から池上駅方向への一方通行。この一方通行というのは、車ではありません。

車は通行止めになっていいて、人の一方通行です。

人の一方通行ですが、十中通りはものすごい人だかりで大混雑していて、とても露店で何かを買うどころではありません。

やっとの思いで池上駅前にたどり着いたものの、今度は駅前ロータリーが、池上商店街から本門寺参道へ向かう万灯練り供養の行列の通り道になっていて、池上駅前にいながら、駅までたどり着けない。

そこで再び、住宅街の路地裏をぬけて、池上商店街に出ました。ここはまさに万灯練り供養の通り道になっていて、行列が笛を吹き、鼓を叩きながら歩いていました。

御会式47万灯池上駅前


池上商店街から池上駅ロータリーは、万灯練り供養の行列と、見物客・参拝客で、深夜の襲い時刻まで、人でぎっしり。

御会式45万灯池上駅前商店街


御会式43万灯池上駅前商店街


御会式41万灯池上駅前商店街


御会式42万灯池上駅前商店街

大勢の警察官も出ていましたが、参拝客と万灯練り供養の交通整理だけで手が一杯という感じに見えました。

この池上本門寺お会式の万灯練り供養の行列は、深夜23時から24時ころまでつづいているとのこと。

御会式40万灯池上駅前


御会式37万灯池上駅前


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