一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として1985年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは英昭彦が1985年11月に設立した会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
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■池上本門寺18(2011年・池上本門寺お会式紀行11)

 

池上本門寺三門付近で、テキ屋の露店で買った焼き鳥やらフランクフルトを食べていると、参道のほうから「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)と唱えながら、鼓を叩く音が聞こえてきました。

時刻は午後650分くらい。

「あれ、もう万灯練り供養の行列がはじまったのかな」

と思い、参道のほうに歩いて行ってみると、三門からぞくぞくと「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)と唱えながら、鼓を叩くサラリーマン風の男性の行列が歩いている姿が見えました。

これが、万灯練り供養の行列のトップバッターのようです。

御会式145万灯大堂前

 

この男性たちは、けっこう見た感じ、若い人が多かったように思います。人数は、何十人はいたでしょう。かなりたくさんの人数でした。

しかも全員、スーツにネクタイ姿で、信者用の袈裟?を左肩からかけていました。

「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)と唱えながら、此経難事坂を上がってきて、三門をくぐり、大堂前へ。

中には、汗ぐっしょりになっている男性もいました。

 

「この人たちは、普段は丸の内や大手町のビジネスマンなのだろうか。本日は仕事を休んできたというわけか」

と思いました。有給休暇をとって、万灯練り供養に参加したと言うことなのでしょう。仕事を休まないと、この時刻に池上本門寺の万灯練り供養に間に合わないと思います。

まあ、行列参加のためとはいえ、大変なことです。

御会式146大堂前
 

 

 

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■池上本門寺17(2011年・池上本門寺お会式紀行10)

 

神社仏閣の大きなお祭りになると、たくさんの人が参詣にやって来て、テキ屋の露店が並ぶというのは、日本のお祭りの風物詩になっています。

まあ、日本全国各地の大きなお祭りになると、だいたいテキ屋の露店が並ぶのではないでしょうか。私の実家の近所の夏祭り、秋祭りでも、やはりテキ屋の露店が並んでいました。こういうのも、日本の祭りの一部であり、日本文化として定着しているものではないかと思います。

 

そのテキ屋の露店も、最近は少し様変わりしてきているように思います。

金魚すくい、トウモロコシ焼き、綿菓子の露店が影を潜めました。金魚すくいは、池上本門寺お会式に一軒ぐらいは、あったかもしれませんが。トウモロコシ焼きは、売れないんでしょうね。どうしても、焼きそばとか、フランクフルトとか、焼き鳥とか、お好み焼きとかに、目が行きます。

金魚すくいも、経費がかかるわりに、売り上げが上がらないのでしょう。

 

それともうひとつ。池上本門寺お会式に来ていたテキ屋の露店で、目立ったのが、トルコの○○という、実に聞き慣れない名前の料理を売っていた露店。褐色のトルコ人のテキ屋さんでした。

テキ屋も、このごろは国際的になってきているようです。

しかし、池上本門寺のお会式に参詣に来ている人で、トルコ料理を食べる人って、いるのだろうか。ちょっと、気になりました。

 

あともうひとつ、気になるのが、ヤクザとの関係。

テキ屋全員が、ヤクザと関係ある人ではないでしょうけども、東京でも暴力団排除条例が施行されました。これで排除されたテキ屋って、いるんだろうか。こちらも気になります。

 

さて万灯練り供養がはじまる前から、池上本門寺境内は、多くの参拝客で参道はごった返す状態になり、焼き矢の露店で買った焼きそば、フランクフルト、お好み焼き等を食べる人であふれかえっています。

三門の脇に、椅子とテーブルが用意されたテントがあり、ここでたんさんの人が座って、焼きそばやおでんを食べたり、ビールやワンカップ酒を呑んでいます。

テントの椅子に座りきれなかった人は、日蓮立像や五重塔の付近に座って、焼きそばやおでんを食べている人もたくさんいました。

万灯練り供養がはじまる前から、こんな状態になっていました。

御会式151的屋
 

 

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■池上本門寺16(2011年・池上本門寺お会式紀行9)

 

私は、夕方、再び大堂の中に入りましたが、午前中とはうってかわって、たくさんの参拝客が大堂の中に詰めかけていました。参詣者の数は、時刻が夜に近づくにつれて、徐々に増えてきているのが、わかりました。

さて本門寺通り、本門寺参道、本門寺境内、本門寺周辺道路、十中通りなどの道路脇には、テキ屋の露店が所狭しと並んでいます。参拝客が増えるにしたがって、テキ屋の露店もがぜん盛り上がってきました。テキ屋の露店で目立ったのは、フランクフルト、焼き鳥、バナナチョコ、焼きそば、ソフトクリーム、おもちゃのピストルゲーム、ウルトラマンや仮面ライダーのお面、広島焼き・大阪焼きのお好み焼き、おでん、ラーメン…等々です。

昔、テキ屋の露店でよく見かけた、金魚すくい、とうもろこし焼き、綿菓子等は影を潜めました。

相変わらず、食べ物やさんが多いのは変わりません。

テキ屋の露店が出している料理は、フランクフルト、焼き鳥、焼きそば、お好み焼きといったふうに「焼く」料理が得意なようです。得意なだけあって、テキ屋の「焼く」料理は、なかなかおいしい。

たとえば、フランクフルト。

私も、フランクフルトは何十年も前から、高速道路のサービスエリア、テーマパーク、コンビニ、各地のお祭りのテキ屋等々、いろんな所で食べましたが、テキ屋の露店が焼くフランクフルトが一番おいしいですし、一番安い。テキ屋の露店のフランクフルトは、ものすごく太くて、長さも長く、これが200円。コンビニだと、太いフランクフルトは1300円~350円くらいします。といっても、コンビニのフランクフルトは大半が細いもので、これは150円くらいで買えますが、太さと長さがぜんぜんちがいます。

それから、コンビニのフランクフルトは、こげてもいないのに、表皮がパスパスになっているものが多い。セブンイレブンのフランクフルトは、こういうのが多いですね。ローソンの場合は、逆に表皮が焦げてしまっていて、皮が固くなりすぎているものが多い。こういうのは、焼き方がとてもいい加減なんだと思われます。

ところがテキ屋の露店のフランクフルトは、焼き方がとてもうまい。少々焦げていても、表皮が固くなっておらず、パスパスにもなっていない。ちょうどいい具合に焼けているわけです。

焼き鳥は、おいしいのと同時に、焼き鳥の肉がとてつもなく大きい。コンビニや焼き鳥屋、居酒屋で出てくる焼き鳥より、倍以上、肉が大きいですね。こんな大きな肉を使った焼き鳥というのは、あまり見たことがないですね。

こうして「焼く」料理を出すテキ屋の露店があっちこっちにあり、それぞれの露店から、勢いよく煙が上がっている。

おいしいフランクフルトや焼き鳥が食べられるというのは、まことに結構なことですが、警備に出ていた東京消防庁の消防官が、心配そうな表情で、テキ屋の露店から上がる煙を見つめていたのが、とても印象的でした。

御会式152的屋
 

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■池上本門寺15(2011年・池上本門寺お会式紀行8)

 

私は、昼に池上本門寺大堂で行われた「宗祖御更衣法要」に出た後、一端休憩し、午後4時すぎに、再び池上本門寺へ。午後7時前後ぐらいから、池上本門寺・毎年恒例の行事である万灯練り供養がはじまります。この万灯練り供養の行列が行われている時間帯が、池上本門寺に参拝客・見物客が集中するピークになる。

すでに午後4時の段階で、池上本門寺を訪れる参拝客の数は、普段の日の参拝客の数よりも、明らかに多くなっていました。

本門寺通りは、歩行者天国になっていて、通りの両サイドには、すでにテキ屋の露店が所狭しと並んでいた。本門寺総門につながる参道は、総門にむかって左側にテキ屋の露店が並ぶ。

なぜ右側にはなく、左側に露店が並んでいるのか。

それは、参道はすでに真ん中で仕切られていて、右側は万灯練り供養の行列が通る通路。左側が、本門寺に参詣する人が通る通路として確保されているため、それに併せて、テキ屋の露店も、参詣者用の通路に露店を構えていた、というわけです。

本門寺参道も、本門寺通りも、午後4時すぎの段階で、たくさんの参拝客が通っていましたが、まだ万灯練り供養の行列がはじまっていないため、一方通行にはまだなっていません。

本門寺総門から此経難事坂を登って三門をくぐって大堂につきあたり、さらに大堂の西側をぬけて、本門寺寺務所前の公道にぬけるまで、すでに参拝者用の通路と、万灯練り供養の行列が通る通路に、赤いコーンなどで区切られています。

 

大堂に向かって西側には、警視庁の大きな警備車両が…。

さらに大堂裏手の駐車場には、警察車両の他に、大きな消防車、化学消防車が所狭しと停まっていました。さらに此経難事坂から大堂までの間には、たくさんの警察官やら消防官の姿が…。

警視庁池上警察署、東京消防庁挙げて、池上本門寺のお会式は厳重な警備が敷かれているもようです。これは、お会式にVIPが来るから、というような理由ではなく、お会式に約30万人という膨大な参詣者が集まるから、という理由からだと思います。

これだけ多くの参拝客が集中する地域行事で、何かの失火で火災が起こったら、それこそ大惨事になってしまうことでしょう。

現に、本門寺境内の中や大堂のすぐ近く、三門脇の参道にまで並んでいるテキ屋の露店が、焼き鳥や焼きそば、フランクフルト、お好み焼き等々を焼くために火を使っています。だからといって、テキ屋の露店に火を使うな、とも言えないでしょうし、テキ屋の露店とて、池上本門寺のお会式の一部になっています。

そういうわけで、警察、消防も総動員体制で警備に当たっているようです。が、雰囲気は、かなりものものしい雰囲気に見えます。

御会式147大堂前警察
 

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■池上本門寺14(2011年・池上本門寺お会式紀行7)

 

池上本門寺御会式の中日・1012日の行事のメインは、何と言っても万灯練り供養の行列である。これは、東京の地域行事の中でも、指折りの大規模行事で、地域の盛大なお祭りとして、すっかり定着している。この御会式が行われている1011日から13日の3日間で、何と約30万人もの人が、池上本門寺に参拝に訪れると言いますから、いかにその規模が巨大かということです。おそらく1012日の夕方から深夜にかけての万灯練り供養が行われる時間帯に、30万人の参詣のうちの三分の二以上が集中しているのではないかと思われる。

これだけ大規模なお祭りですから、東急池上線は、お会式の万灯練り供養に併せて、臨時電車が何本も運行される特別ダイヤで運行されます。

万灯練り供養がはじまると、池上駅から池上本門寺周辺は、全面車両通行止めの歩行者天国になります。池上通り、池上商店街、本門寺通り、十中通り等、全て歩行者天国。池上駅から池上本門寺周辺、境内の中まで、池上警察署の警察官が多数繰り出して、交通整理に当たっています。交通整理とは言っても、車は通行止めであるわけですから、実質的な参拝客の交通整理です。

万灯練り供養の行列がはじまると、池上本門寺への参拝客、万灯練り供養の見物客などで、池上駅から池上本門寺周辺は、身動きが取れなくなるほどの大勢の人が集まり、それこそ前になかなか歩けなくなるほどです。

そういうわけで、池上駅前から池上本門寺への交通は、一方通行になる。

行きは、本門寺通り・本門寺参道から総門をくぐり、此経難事坂を登り、三門をくぐり大堂へ。

帰りは、五重塔から池上会館を通って日蓮宗宗務院前を通って総門へ。

総門から池上駅に帰るには、呑川沿いを歩いて十中通りへ出て、そこから池上駅前に出るというルートになります。

 

これは私が見た感じですが、30万人もの人が訪れる大規模な地域行事であるわりには、大した混乱もなく、整然と交通整理が行われ、大勢の見物客が見守る中を万灯練り供養が行われているように見えました。しかも場所は東京都大田区という住宅・商店街が密集している地区である。

これだけ大規模な地域行事が、丸一日、しかも深夜の時間帯まで、住宅や商店が密集している東京都心の池上本門寺で行われているというのは、特筆すべき事だと思う。

しかもこの万灯練り供養が行われている間、誰一人「うるさい」と文句を言う人がいない。そんな人が居たとは聞いたことがない。つまり池上本門寺御会式が地域行事として完全に定着しているわけである。

もっとも池上本門寺お会式も万灯練り供養も、毎年行われている行事であり、地元の人たちも、警察官も、慣れているのかもしれませんが。

御会式78万灯仁王門前
 

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■池上本門寺13(2011年・池上本門寺お会式紀行6)

 

さて、池上本門寺の法要でも、読経が終わると、次は唱題がはじまる。つまり「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)を反復的に繰り返し唱えるわけですが、内陣の左右両サイドに、大きな太鼓があり、若い僧侶が、それぞれ、唱題の声にあわせて、太鼓を叩いていた。

日蓮宗では、行道僧や万灯行列で、鼓を叩きながら唱題して歩くのは有名ですが、寺院の法要では、大きな太鼓がしつらえてあって、僧侶が太鼓を叩いていました。これは、日蓮宗の寺院における他の法要でも同じですねえ。もちろん太鼓を叩くのは、唱題の声をそろえるためなのでしょう。

ところで、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)と唱える日蓮正宗の寺院の法要や勤行でも、唱題するときは、僧侶が太鼓を叩きます。住職しかいない寺院では、住職夫人や有力信者が太鼓を叩いていたのを見たこともある。太鼓を叩くのは、日蓮宗も日蓮正宗も共通している。

ただし太鼓を叩くのは共通していますが、太鼓を叩くフシ(音調)がちがっています。それでは「どうちがうのか説明せよ」と言われても、このちがいを文章で書くのは、むずかしい。

 

読経のとき、日蓮宗では僧侶が木魚を叩いて読経の声をそろえますが、日蓮正宗では、木魚という仏具を全く使いません。「では日蓮正宗では、どうやって読経の声をそろえるのか」というと、副導師がマイクを使って、僧侶・信者の読経をリードする、というやり方をする。

日蓮正宗の法要の読経では、導師のみが声を出す箇所がありますが、その時のためか、導師席にマイクがしつらえてあります。これは大石寺も末寺も同じ。

よって導師席にマイクがあり、さらに副導師席にも、信者の読経をリードするためのマイクがしつらえてあります。これは大石寺の正本堂、奉安殿、奉安堂、客殿、御影堂、広布坊などの諸堂宇、塔中から末寺に至るまで全て同じです。

 

池上本門寺の法要で、マイクを使うのは、注意事項や法要の説明をする、マイクの司会者のみで、それ以外は、全くマイクを使いません。池上本門寺大堂の大導師席や副導師席にも、マイクは備えつけられていません。

こういうふうに、仏教各宗派や各寺院の法要に出てみると、日蓮正宗寺院の法要や勤行の読経で、木魚を叩かない、というのは、まことに不思議に思えます。昔、マイクやスピーカーがなかった時代、読経の声を唱和させるのに、どうしていたのかということになるわけです。

昔は、勤行にしても法要にしても、ほんの少人数の僧侶のみが読経していただけだったから、木魚は必要なかった、ということだろうか。

 

今の大石寺は日興門流。池上本門寺は日朗門流。今の日蓮宗には、日昭門流、日朗門流、日向門流、中山門流の他、日興門流の一部、日什門流の一部等々が混在している。

日興門流と他門流が別れてから七百年以上が経過しているわけだが、それだけの長い年月が経過する中で、化儀・化法というものは、ずいぶんと相違がでてしまうものだと感じた。

大堂3
 

 

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■池上本門寺12(2011年・池上本門寺お会式紀行5)

 

池上本門寺御会式・「宗祖御更衣法要」の読経は、実に長い。正確な時間は計っていませんでしたが、延々と約1時間以上はつづいていたように思った。

さて寿量品の読経がはじまると、両サイドの外陣に座っていたご信者が、僧侶に案内されて、内陣にしずしずと歩き、ご焼香。信者の人達の焼香は、寿量品の読経から、さらにそれにつづく品の読経。さらに唱題に入ってからも延々とつづき、唱題が終わってからも、まだ焼香がつづいていました。それだけ、焼香する信者の人達の人数が多かったということでしょうか。

寿量品の読経がはじまってから信者が焼香する、というのは、日蓮宗の他の法要でも同じです。

日蓮正宗の法要や勤行でも、寿量品の読経がはじまると、焼香がはじまる。こういう化儀は、日蓮宗も日蓮正宗も共通しているようです。

というか、法要の読経・護摩の最中に焼香をするという化儀は、日蓮宗、日蓮正宗にとどまらず、

真言宗、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗などの仏教各宗派の法要でよく見られる光景である。

 

さて大堂須弥壇中央に祀られている「日蓮聖人御尊像」(祖師像)の更衣なのですが、読経がはじまって、あるところで須弥壇の扉が閉められ、それから延々と閉扉されたままの状態で読経。

読経が終わって唱題がはじまったころに、ようやく須弥壇の扉が開けられ、日蓮祖師像が冬服の僧衣に更衣していた、という感じ。つまり、須弥壇の扉を閉めた中で、僧侶が更衣の作業を行っていたようです。

 

それと、日蓮宗の法要を見ていて面白いのは、マイクの司会者がいること。私も、日蓮宗の全ての法要に立ち会ったわけではありませんが、マイクの司会者がいる法要は何度もあった。

池上本門寺・お会式の各法要にも、マイクの司会者が居て、僧侶入場前にだいたいの法要の流れの説明や、携帯電話の電源を切るように等々の、注意事項の説明をする。

さらに僧侶の入場が完了したあとも、マイクの司会者が

「大導師は当山82世・酒井日慈山主、副導師は○○…」

という、説明がありました。

日蓮宗の法要の場合、内輪の僧侶、信者のみならず、大勢の一般世間の参拝客も訪れるから、こういうふうにしているんでしょうか。内輪の僧侶・信者だけだったら、大導師はだれそれ等々の説明は不要のはず。信者だったら、池上本門寺貫首の顔は百も承知でしょうから。

しかし一般世間の参拝客は、池上本門寺貫首の顔は知らない人が大半でしょう。

かく言う私も、池上本門寺の法要に出て、はじめて酒井日慈貫首の顔を知ったくらいで

「ああ、この人が池上本門寺の貫首猊下か」

と、わかったくらいです。

一般世間の側から見れば、「本日の大導師は○○、副導師は△△」という説明があったほうが、わかりやすくていいですけどね。

御会式21大堂
 

 

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■池上本門寺11(2011年・池上本門寺お会式紀行4)

 

池上本門寺・お会式二日目の「宗祖御更衣法要」は、内陣は多数の僧侶が座って、ほぼ満席状態。内陣の両サイドにある外陣には、壇信徒席が設けられ、ほぼいっぱいの信者が座っていた。この法要でも、私が見聞した限りでは、実際に読経をしていたのは、内陣に座っていた僧侶のみ。外陣に座っていた信者は、読経している様子はなく、ただ合掌して座っているのみ。

仏教寺院の勤行や法要なんて、こんなものじゃないかと思います。浄土真宗本山の法要で満堂の参詣信者が、正信偈を読む声に唱和していたのを見たことがあったが、浄土真宗でよく読んでいる正信偈は、お経とよく似ているが、正確に言うと、仏典ではない。正信偈とは「正信念仏偈」といい、親鸞の著書『教行信証』の「行巻」の末尾に所収の偈文のこと。これは読経とよく似ているのだが、読経とはやや違う。

さて日蓮宗寺院の法要に出ると、熱心な信者さんが、経本を見ながら読経している姿をごくたまに見かけますが、そういう人は、法要の中に居ても1人か2人くらい。

こういう話しを書くと、日蓮正宗や創価学会の信者は、目くじらを立てて「それではダメだ。実際に読経が出来なければ、ダメなのだ」などと言い出しそうですが、私は、全くそんなことはないと思う。

つまり、「在家は無理して読経ができるようにならなくてもOK」という考え方なのである。

前にも書きましたが、池上本門寺のお会式は、それこそ数百年前から今日に至るまで、地域の文化として、地域行事として、完全に根を下ろして定着しているものです。もちろんこれは、「在家・信者は読経せず合掌しているだけ」という形で定着している。これで充分ではないでしょうか。

これが、日蓮正宗や創価学会のように、「在家も読経ができなければダメだ」式に、在家に読経を強制していたら、池上本門寺のお会式は、こんな数百年の間、地域文化として定着しなかったのではないか。

 

それでは、日蓮正宗や創価学会の信者が、毎日欠かさず朝夕の勤行を行っているのかというと、決してそうではない。実際、信者自身が、勤行をよく休んでいることを認めている。こういうのを、定着しているとは言わない。私は、「在家の読経は、文化として根付かない」という説に立っている。

実際は勤行をよく休んでいるのに、さも毎日欠かさず勤行をしているかのように偽るよりも、読経しないという、ありのままの姿で、大衆文化として定着している方が、よほど人間らしいと思う。

誤解のないように附言すると、私は「在家は読経するな」と言っているのではない。それは、在家の方で、読経がおできになる方は、それは素晴らしいと思いますし、そういう方は、読経をおやりになられるのは、結構なことだと思います。

でも、仏教寺院の法要で見聞する限り、そういう方は、非常に少ないです、今でも。

御会式2立て札


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■池上本門寺10(2011年・池上本門寺お会式紀行3)

 

池上本門寺お会式2日めの1012日は、午前10時の大堂での「宗祖御更衣法要」からスタートします。

もちろんお会式の御正当は1013日ですが、一般的に御正当の前日の法要は「御逮夜」と言って、夕方から夜にかけて行う寺院が多いと思うのですが、池上本門寺の場合は、夕方から深夜にかけて、万灯が池上の町内から本門寺境内までを練り歩く「万灯練り供養」の行列が盛大に行われます。そういう関係で、御正当前日の法要も、昼に行われているのだと思われます。

 

その御正当前日の法要は、午前10時からの大堂での「宗祖(日蓮) 御更衣法要」。

これは、大堂の「日蓮聖人御尊像」(木像・祖師像)は、法衣を身にまとっているのだが、この法衣を夏服から冬服に衣替えする法要である。

午前10時すぎ、大堂の須弥壇に向かって右側の出入り口から、「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)と唱えながら、本門寺の僧侶がぞくぞくと出仕。

今回は、僧侶の出仕に際して、大堂の左右に備えられた太鼓を、僧侶が叩いていました。

 

「宗祖御更衣法要」は、大導師・池上本門寺82世・酒井日慈貫首猊下のみで、他本山からの副導師はなし。三角頭巾のような帽子をかぶっていたのは、酒井日慈貫首猊下のみでした。

法要は僧侶の読経からはじまったのですが、法華経序品から読誦がはじまったようすで、方便品・寿量品も読誦していましたが、この他にも提婆達多品、如来神力品等を読誦していたと思います。私は耳をそばだてて読経を聞いていましたが、序品、方便品、提婆達多品、如来寿量品、如来神力品、というのは聞こえたので、わかりましたが、その他の品もなにか読誦していたように思います。

方便品は最初の長行と十如是を読んでいたのは、わかりました。十如是は三回繰り返して読誦。

これは、日蓮宗系各宗派は共通のようです。天台宗の読経も、十如是を三回繰り返して読誦すると聞きました。寿量品は、最初の長行から自我偈まで全てを読誦。

 

僧侶の読経には、マイクを一切使わず、僧侶の一人が、読経の声に合わせて、木魚をボクボクと鳴らしていました。これも、日蓮宗寺院の他、仏教寺院で見かけます。一般的に仏教寺院の読経では、木魚・木証を使うのではないだろうか。

ただし、日蓮正宗や創価学会は、木魚・木証を一切叩かない。日蓮正宗の信者や創価学会員に「勤行の時に木魚を叩かないのか」なんて言ったら、怒るだろうか。()

しかし日蓮正宗、創価学会以外にも、勤行・法要の読経で木魚・木証を叩かない宗派はあるから、彼らも怒ったりしないとは思うが。

御会式12巨塔


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■池上本門寺9(2011年・池上本門寺お会式紀行2)

 

池上本門寺のお会式は、1011日からスタート。午前11時から第1会の報恩法要が大堂ではじまる。

法要は「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)と唱えながら大堂須弥壇の向かって右側から僧侶がぞくぞくと出仕。大導師席には池上本門寺82世・酒井日慈貫首猊下が着席したが、この他に副導師として、鎌倉の本山貫首二名が副導師席に着座。どこの本山だったか、名前は忘れました。片瀬・龍口寺と鎌倉・妙本寺の貫首猊下だったと思ったが。

私も日蓮宗寺院の法要は全て参詣したわけではないが、私が見た限りでは、大導師の貫首は僧侶の出仕行列の中にはいって、いっしょに堂内に出仕してくる。

これは身延山久遠寺の法主の場合も同じだったと思う。

ところがこれが大石寺になると、先に僧侶・信者が堂内に着席した後、僧侶・信者が唱題をする中、法主が仲居僧を従えて、偉そうに出仕してくる。だから大石寺の法主はひときわ偉そうな人物に見える。

さて池上本門寺御会式・第1会の報恩法要の大導師と副導師は、三角頭巾のような僧侶の帽子をかぶり、袈裟・衣も他の僧侶の僧衣と比べて、ひときわ派手。大導師・副導師は、正面向きで着座していましたが、他の出仕僧侶は二列になって向かい合わせに着座。須弥壇に向かって横向きに座る。こういう光景は、日蓮宗の法要の他にも他宗法要でもよく見かける。

出仕僧侶の僧衣は、薄墨色の衣に鼠色の袈裟。僧侶の帽子は、インターネットで調べたところ、帽子と書いて「もうす」と読むとのこと。これが儀式用の正装ということ。

威儀を正すために冠られるぼうしに近い用途のもので、中国の宋代の禅宗に端を発し、鎌倉時代に臨済宗・曹洞宗の伝来と共に日本に伝えられたという。中国の俗服の冠にかえて、僧服にも使用されるようになった。禅衣を用いる宗派では、正装に用いる。

禅宗以外で帽子を着用する宗派は、浄土宗、日蓮宗、時宗、新義真言宗であるということですが、日蓮宗でも帽子を着用しない宗派もある。たとえば日蓮正宗では、法主は帽子を着用しない。

しかし日蓮正宗大石寺法主は帽子を着用しないが、他の富士門流本山の小泉久遠寺、西山本門寺、伊豆実成寺貫首は帽子を着用する。

浄土真宗も帽子は着用しないと思いますね。私は浄土真宗僧が法要で帽子を着用しているのを見たことがありません。

さて法要は、法華経の読経からスタートするのですが、僧侶の読経の声を聞いていても、法華経のどの品のどのあたりを読んでいるのか、ほとんどわかりませんでした。わかったのは、方便品・寿量品以外の品をかなりたくさん読んでいたこと。ただし28品全てを読経していたわけではありません。

御会式21大堂
 

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■池上本門寺8(2011年・池上本門寺お会式紀行1)

 

池上本門寺といえば、毎年10月の日蓮祥月命日忌に行われる「お会式」(おえしき)があまりにも有名。私も今まで、池上本門寺のお会式には何度も行っているのですが、最も直近に行ったのは、2011年のお会式。そこで、池上本門寺のお会式に行ったときのことを書きたいと思います。

池上本門寺のお会式は、東京で行われる祭礼では、まさに最大級のものではないだろうか。

インターネットで調べてみると、池上本門寺のお会式の参詣者数は約30万人ということです。この30万人という数字は、どうやってカウントしたのかはわかりませんが。

毎年、池上本門寺では1011日から13日までの三日間、御会式が行われるが、この3日の参詣が約30万人とのこと。1日平均すれば約10万人ということになるが、ご存じの通り、池上本門寺御会式のメインは1012日の万灯練り供養である。万灯練り供養は1012日の夕方から深夜にかけて行われる盛大な行事だが、この時に集中して池上本門寺に参詣がある。

おそらく1012日の夕方から深夜にかけて、30万人の参詣のうちの三分の二以上が集中しているのではないかと思えるくらい。

とにかく大変な数の参詣がある。ちなみに池上本門寺御会式は、神田祭り、山王祭り、浅草三社祭り、阿佐ヶ谷七夕祭り、高円寺阿波踊り、浅草サンカーニバル、原宿表参道スーパーよさこい、と並ぶ、東京23区で行われる巨大祭りに数えられている。

もっとも阿佐ヶ谷、高円寺、浅草サンカーニバル、原宿表参道の祭りは近現代になってからはじまっったものだから、池上本門寺御会式のほうがはるかに古い。

それと、池上本門寺御会式の30万人の参詣というのは、池上本門寺が参詣目標を掲げて組織的動員を行っているわけでもなく、お会式という行事が地域社会に完全に定着していることによる、自発的な参詣であることは論を待ちません。お会式の行事だけで30万人もの人が池上本門寺に参詣するわけだから、池上駅から池上本門寺周辺は、歩行者天国等の交通規制が敷かれ、本門寺通り等には、テキ屋の賑々しい出店が建ち並ぶ。

しかも池上徳持会館から池上本門寺まで練り歩く「万灯練り供養」は、参詣の人でぎっしり埋まった池上通り、本門寺参道を深夜遅くまで行われる。こういう巨大行事が代々受け継がれて、毎年恒例の行事として行われているわけである。

池上本門寺の周囲はぎっしり住宅やマンションが建ち並ぶ住宅街・商店街になっているのですが、深夜までこういう巨大行事が行われても、誰も文句を言わない。この地域では、この巨大行事が、毎年恒例の行事として、定着しているわけである。そういう意味では、地域文化として深く根付いていると言うべきでしょう。

御会式56総門一方通行
 

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■池上本門寺7(誰でも受けられる御開帳2)

 

私は、池上本門寺大堂の内陣の大前机のすぐ前に座ったわけですが、ここから日蓮祖師像がよく見えただけではありません。

その日蓮祖師像の真後ろに、日蓮の大曼荼羅本尊が祀られているのが、はっきりわかりました。

私が見た感じとしては、立正安国会の御本尊集81・臨滅度時本尊を板に模写彫刻したレプリカ板本尊のように思えました。

御開帳が終わった後、池上本門寺の僧侶に尋ねたところ、日蓮祖師像の後ろに祀られている大曼荼羅本尊は、板本尊であるということでした。

池上大堂・日蓮1


 

後で池上本門寺刊行本「霊寶殿」に載っている日蓮祖師像の写真をよく見ると、祖師像の真後ろに、レプリカ板本尊が写っているのに気づきました。しかしこれは、御開帳を受けるまで、気づきませんでした。

 

さて若い僧侶が大堂の御宮殿に上って、火打ち石?をカチカチ鳴らした後、御開帳の読経がスタート。御宮殿に上った若い僧侶がマイクを握って読経をはじめました。

私は読経はしませんでしたが、僧侶が法華経の方便品を読経しているのは、なんとなくわかりました。方便品の十如是が終わった後、おそらく如来寿量品の読経に入ったのだと思います。

すると、須弥壇の脇から別の若い僧侶が出てきて

「ご焼香をどうぞ」

と一声。私はずーっと正座をしていたのですが、すぐ前の大前机にあった焼香台に進み出て焼香。ちなみに読経していた僧侶は薄墨色の衣に鼠色の袈裟。焼香の案内に来た僧侶は、薄墨色の衣のみ。

読経が終わった後は、「なむみょうほうれんげきょう」の唱題。太鼓は叩きませんでした。

その唱題は、ものの1分もしないうちに終了。その後は、僧侶が日蓮の遺文(御書)を三つほど読み上げていました。

最後に「なむみょうほうれんげきょう」の題目(玄題)を三回唱えて終了。

 

御宮殿の上でマイクを握って読経をしていた僧侶が、須弥壇の宝前にあった「お札」を持ってきて、私に渡してくれました。

御開帳御札1
 

 

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■池上本門寺6(誰でも受けられる御開帳)

 

池上本門寺大堂でも、御開帳という儀式があります。

普通、御開帳というと、普段は須弥壇の扉が閉められていて、儀式・法要が行われる時のみ、扉が開けられるのを御開帳とか御開扉と呼びますが、池上本門寺・大堂の場合は、普段から須弥壇の扉は開けられたままになっています。

扉は開けられたままになっているとは言っても、大堂の内陣と外陣の境界には、網が張ってあって、正面の日蓮祖師像がよく見えないようになっています。

大堂正面入り口から入ってきた参拝客は、ここでお賽銭を入れ、お詣りをして帰るわけですが、御開帳というのは、内陣の中に入って、かなり至近距離から日蓮祖師像を拝することができるというわけです。

 

池上本門寺の僧侶に、御開帳の主旨を尋ねたところ

□御開帳は、日蓮宗の信者であるなしにかかわらず、池上本門寺参拝の人であれば、誰でも受けることが出来る

□御開帳を行う時刻は特に決まっておらず、申し込みがあった時点で、毎日10時~15時の間であれば、随時、受け付けている。

□申し込みが一人の場合でも、御開帳を行う

□御開帳の儀式そのものは約15分くらいで、僧侶の読経・焼香・唱題の後、お札が下附される

□御開帳料は3000円から

ということでした。

というわけで、大堂の日蓮祖師像を間近に見ることが出来るので、私も一度だけ、大堂の御開帳を受けたことがあります。

 

ただし、いつでも受け付けている、とは言っても、お会式や大きな法要がある日は、池上本門寺に大勢の参拝客が来るほか、どこかの寺院・教会・結社の団体参拝があり、団体参拝で池上本門寺に来た人たちの御開帳が行われているのを、よく見かけます。

こういう時は、大堂の中は、団体参拝の他に、大勢の一般参拝の人が詰めかけていて、個人や家族単位の御開帳を受けているどころではないように見受けられます。

私が御開帳を受けた日は日曜日でしたが、一般参拝の人はたくさんいましたが、堂内は法要がある日ほど、ごった返してはいませんでした。

大堂3
 

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■池上本門寺5(日蓮像の文化庁の見解2)

 

○「池上本門寺の日蓮聖人御尊像を鑑定するに当たって、炭素14年代測定法による測定ないしは鑑定が行われたのですか」

□係官「いいえ。炭素14年代測定法というのは、文化財の一部を取り出すものですから、文化財にキズをつけることになります。したがって文化庁は、炭素14年代測定法は採用しておりません」

 

○「日蓮聖人像というのは、全国各地の日蓮宗・法華宗などの日蓮を宗祖とする寺院に行くと、けっこうあっちこっちの寺院に祀られています。ひとつやふたつぐらいではありません。

そういう中で、池上本門寺の日蓮聖人像が国の重要文化財に指定されていて、他の寺院の日蓮聖人像は重要文化財に指定されていないという、この違いはどこにあるのですか」

□係官「日蓮聖人像の場合は、国宝・重要文化財のジャンルの中では、美術工芸品の指定ということになります。美術工芸品が重要文化財に指定されるかどうかのポイントとしては

(1)出来具合が良いものであるかどうか、ということ

(2)歴史的に古いものであるかどうか、ということ

(3)歴史的な意義があるかどうか、ということ

この三点になります。

(2)の歴史的に古いかどうか、ということは、例えば、江戸時代に製作された日蓮聖人像よりも鎌倉時代に製作された日蓮聖人像のほうが、重要文化財に指定される、ということになります。鎌倉時代のほうが古いわけですから」

 

○「歴史的に古いものということであれば、例えば静岡県富士宮市の北山本門寺・御影堂にある日蓮聖人像は、日蓮聖人在世の時代に造立されたものであると、北山本門寺は自称しています。

もしこれが本当だとしたら、北山本門寺の日蓮聖人像は、重要文化財に指定されている池上本門寺の日蓮聖人像よりも古い、ということになります。

では池上本門寺の日蓮聖人像よりも古い北山本門寺の日蓮聖人像が重要文化財に指定されていないのは、どうしてですか」

□係官「先程申しました、当方の専門の調査官による調査鑑定が行われているのかどうか、という点があります。製作年代が古い、ということが寺伝等で謳われておりましても、調査官の調査が済んでいなければ、重要文化財に指定されるということはありません」

 池上大堂・日蓮1

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■池上本門寺4(日蓮像の文化庁の見解1)

 

私は、池上本門寺・大堂(祖師堂)に祀られている日蓮祖師像(木像)が、国の重要文化財に指定されている事実は大変重いものがあると考えました。そこでこの詳細を確かめようと、東京・霞ヶ関の文部科学省にある文化庁に問い合わせをして、取材しました。

私の問い合わせに対して、文化庁の国宝・重要文化財指定の係官が応対し、話を聞くことができました。以下は、私と係官のやりとりの主要部分の抜粋です。

 

○「東京・池上の日蓮宗・池上本門寺の大堂に祀られている日蓮聖人御尊像が国の重要文化財に指定されている件について、詳しいことをお聞きしたい」

係官「はあ、そうですか」

 

○「池上本門寺が発行した『霊寶殿』という名の本によれば、この日蓮聖人御尊像が造立されたのが、正応元年(1288)になっており、日蓮聖人第七回忌の折りに六老僧の日持上人と中老・日浄上人が願主になったと書いてあります。

国がこの日蓮像を重要文化財として指定したということは、この「正応元年造立」ということを史実として公認した、ということで間違いないでしょうか。そのあたりの詳しい意味を教えて戴けませんか」

係官「重要文化財の指定にあたりましては、私どものほうで、専門の調査官がおりまして、事前に調査をしております。それから重要文化財指定の意味についてですが、文化財保護の網をかぶせると言うことです。

これは具体的に言いますと、まずは修理について国から補助金が出ること。

それともうひとつは、勝手に保存にあわない修理を行わせない、保存にあわない修理を禁止する、ということです。国の重要文化財指定は、文化財を後世にのこすという点が大きな主眼です」

 

○「ということは、重要文化財の指定は、あくまでも文化財保護のため、というもので、文化財そのものの真贋(本物かニセモノか)は、関係ないということですか」

係官「そういうわけではありません。お尋ねの池上本門寺の日蓮聖人像が重要文化財に指定されたのは、戦前の昭和3817日のことで、これは現在の文化財保護法によるものではなく、戦前の国宝保存法によるものです」

 池上大堂・日蓮1

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■池上本門寺3(文化財に贋作・偽作はないのか)

 

さて池上本門寺大堂の日蓮祖師像は、池上本門寺の公式見解では、日蓮七回忌の折りに造立されたとなっています。池上本門寺が刊行している正式文献「霊寶殿池上本門寺の御霊宝と文化遺産」によれば、日蓮・祖師像について、以下のように書いてあります。

 

「日蓮聖人御尊像  正応元年(1288) /重要文化財

 

日蓮聖人7回忌にあたり、六老僧の1人である日持聖人と日浄聖人が願主となって造立された等身大の坐像で、大堂に奉安されている。胎内には御真骨を収めた銅筒があり、その側面に

『弘安五年壬午十月十三日巳刻 御遷化/大別当 大国阿闍梨日朗/大施主 散位大仲臣宗仲』

他の刻名がある」

(「霊寶殿池上本門寺の御霊宝と文化遺産」p1)

 

注目すべき事は、この日蓮祖師像が国の重要文化財に指定されているということです。

国宝にしろ、重要文化財にしろ、正式に指定を受けるまでの過程に於いて、鑑定が行われているということです。ということは、少なくとも「贋作」が国宝や重要文化財に指定されると言うことは、あり得ないと言うことになります。

これと同じようなことが、国立博物館で行われる展示についても言えます。

贋作や偽作とされるものが、国立博物館で正式に展示されるということはあり得ません。贋作や偽作が「本物」として、国立博物館で展示されたら、それこそ大変です。下手をすれば、政府・文化庁の責任問題に発展しかねません。

 

国宝や重要文化財の指定に当たっては、文化審議会からの指定に関する諮問に至るまで、さまざまな調査・鑑定が行われている、ということですが、それならば

「文化財に指定されているものの中には、贋作や偽作がひとつもないのか」

という話になるわけです。

ここが微妙なところになるわけで、今回の池上本門寺・日蓮祖師像の他にも、文化財についていろいろ調査していく中で、いろいろなことがわかってきました。

文化財の中には、国で指定している文化財の他に、都道府県で指定している文化財、市区町村で指定している文化財もあります。都道府県の文化財や市区町村の文化財の中には、国が行っている調査・鑑定には、かなりほど遠い調査しか行っていないものもあるようです。

これについては、追々、書いていく予定ですが、今回の池上本門寺・日蓮祖師像は、国が指定している重要文化財ということですので、文化庁に問い合わせた、ということです。

 

文化庁1
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■池上本門寺2(国の重要文化財の祖師像)

 

池上本門寺で有名なのは、まず大堂に祀られている日蓮・祖師像です。この祖師像は、国の重要文化財に指定されています。

大堂の中にある説明書きには、次のようにあります。(大堂内は写真撮影禁止であるため、文章を書き出します)

 

「日蓮大聖人御尊像

日蓮大聖人第七回忌に当たる正応元年(1288)に造立されたもので、気魄に満ちた御顔は、ご生前の真容をよく伝え、肖像彫刻としても鎌倉時代の傑作の一つに挙げられている。像高二尺八寸三分の木彫寄木造り、ご胎内には御聖骨を納めた銅筒があり、右手には母君妙蓮尼の遺髪を加えて作られたものと伝えられる払子を、左手には紺紙金泥の法華経経巻を捧持。

昭和二十年四月の大空襲にも難を免れた御尊像は、永遠に格護されるべき人類の至宝である。

 

大堂

昭和二十年(1945)四月十五日の大空襲で、全山の堂宇五十余棟を焼失した本門寺は、全国檀信徒の寄付丹精によって、昭和三十九年に大堂を再建した。

日蓮大聖人御尊像を奉安する大堂は、鉄筋コンクリート造り本瓦葺、入母屋屋根、間口十八間、奥行十九間半、高さ九十三尺(30メートル)、屋根瓦枚数69849枚、のべ面積820坪、大堂は日蓮大聖人のご精神と七百年の歴史を伝える法華経御題目布教の道場である」

 

大堂内は写真撮影禁止であるため、大堂内にある「日蓮大聖人御尊像」「大堂」の説明書きは筆写しました。日蓮祖師像の写真は、「霊寶殿—池上本門寺の御霊宝と文化遺産」に載っている写真です。

大堂はかなり大きな建物で、間口十八間、奥行十九間半の広さは、日蓮宗寺院建築の中でも最大級の堂宇だと思います。

これより大きい建物というと、身延山久遠寺本堂が間口十七間半、奥行き二十八間あります。しかし、池上本門寺大堂より大きな堂宇というのは、日蓮宗では、そんなにはないと思います。

 御会式22大堂

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■池上本門寺1(宗務院・日蓮入滅の霊跡)

 

池上本門寺とは、住所でいうと東京都大田区池上一丁目、交通でいうと東急池上線池上駅から約10分ほどの所にあるする日蓮宗大本山の寺院。日蓮宗は祖山・身延山久遠寺を筆頭に、大本山が七ヶ寺ありますが、その七ヶ寺のひとつ。

正式名は長栄山本門寺と言いますが、古くより池上本門寺と呼ばれてきた寺院。

また日蓮宗・日蓮正宗・日蓮本宗・法華宗などの宗祖・日蓮が入滅した霊場として有名な所である。もともとは日蓮の信者であった池上宗仲の邸宅であった所である。池上邸のあった所は、現在、大坊本行寺となっています。

そして大本山ながら日蓮宗宗務院が置かれており、さらに日蓮宗機関紙「日蓮宗新聞社」がある寺院である。面白いのは、日蓮宗宗務院、日蓮宗新聞社が祖山であり、総本山である身延山久遠寺ではなく、池上本門寺に置かれていること。日蓮宗の管長は、身延山久遠寺法主と大本山貫首がランダムに就任しており、池上本門寺の酒井日慈現貫首も、以前は日蓮宗管長だったことがあります。(日蓮宗現管長は、内野日総・身延山久遠寺法主)

そして池上本門寺は、日蓮の祥月命日の法要である、毎年101113日に行われる「お会式」が有名である。

ここの「お会式」は3日にわたって行われ、特に1012日晩の御逮夜に繰り出される万灯練り行列には約30万人の参拝者が本門寺を訪れると言われている。確かに1012日夜は、この行列の影響で、池上通りも交通規制が敷かれるほどである。

万灯練り行列とは、この日の午後18時から、池上徳持会舘より本門寺までの約2キロにわたって百数十講中、総勢約三千人もの万灯練り行列が池上の町を練り歩くもの。この行列で、池上の町は、深夜までものすごい人出で賑わっている。

本門寺周辺には、賑々しいテキ屋の出店も立ち並んで、池上本門寺のお会式は、池上の町をあげての壮大なお祭という印象をもちました。

それにしても3日間で約30万人の参詣者があるのですから、驚きです。ここの御会式に行ったときの詳細については、後述します。

 

こういったようなことから、池上本門寺は大本山ながら、その地位は限りなく総本山に近いという言い方ができると思います。

私も、寺跡調査の他、霊寶殿の見学や初詣、御会式などの法要等、けっこう池上本門寺に来ています。霊寶殿は毎月1回、展示替えをしているので、展示替えがあるたびに、行くようにしています。私も東京に住んでいるので、地方にある寺院よりは、ここには来やすい、ということがあります。

大堂3
 

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■鎌倉建長寺4(けんちん汁)

 

建長寺方丈をぐるりと一周して、見学してみると、公開されているのは本尊が祀られている広間と日本庭園のみ。何も貫首の住居が公開されているわけではない。

方丈と廊下でつながっている宗務本院は一般の立ち入り禁止になっているので、貫首の住居はそちらにあるのかもしれません。

建長寺の境内もなかなか広いのだが、同じく鎌倉にある臨済宗大本山・円覚寺と比べると、円覚寺の境内のほうが広いように思う。建長寺にはかつて1000人の修行僧が居て修行していたというが、1000人の修行僧が修行するには、いささか狭いような気がする。

ただし建長寺の境内は、完璧すぎるほどの人工的な景観美に彩られている、仏殿、法堂、方丈があるところから、奥の山手側のほうに広がっている。半僧坊、塔中は、仏殿、法堂、方丈があるところから、裏の山手、外側に広がっていて、昔はこのあたりも塔中、僧坊が建ち並んでいたのかな、と思う。

半僧坊道の脇には、今でも塔中支院がいくつかある。仏殿、法堂、方丈があるところは実に整備が行き届いているが、河村瑞賢墓入り口の看板が建っているあたりから、なんとなく荒れ果てた感じになります。このあたりは、建長寺の境内なのか、そうでないのか、よくわからない所。このあたりは、ほとんど整備されていない。

 

建長寺は正応6年(1293年)412日の鎌倉大地震により建造物の大半が倒壊炎上。

元から来日した一山一寧を第十世に任じて再建にあたらせる。

続いて正和4年(1315年)、応永23年(1416年)をはじめとするたびたびの火災で創建当初の建物を失った。

鎌倉時代末期には修復費用獲得のため、幕府公認で元へ貿易船(寺社造営料唐船)が派遣され、「建長寺船」と呼ばれた。

江戸時代には徳川将軍家の援助で主要な建物が新築または他所から移築された。

1923年の関東大震災でも建長寺は大きな被害を受けている。よって建長寺創建当初の堂宇・伽藍は失われてしまっている。

1886年、建長寺が修行僧学校・宗学林を設立。これが現在の鎌倉学園中学校・高等学校の前身。現在も建長寺は同校経営には関与しているが、宗教教育は行っておらず、男子中高一貫教育を行う進学校として運営されている。同校の出身者にサザンオールスターズの桑田佳祐がいる。

建長寺33山門
 

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■鎌倉建長寺3(人工的な景観美)

 

建長寺は鎌倉市内でもかなり山手にあり、交通の便はいいほうではない。建長寺へ行くと、今も大寺院としての広大な境内と大伽藍を持っているのがわかる。

建長寺総門前にある立て札には、次のようなことが書いてある。

「建長寺は今から七百五十年前、鎌倉時代、建長五年(1253)、禅によって国の興隆をはかるため、執権北条時頼公の発願により、中国の禅僧・大覚禅師(蘭渓道隆)を開山として創建された、日本で最初の純禅の大道場です。

建築は、総門・三門・仏殿・法堂・方丈が一直線に連なる中国の禅宗様式にもとづいています。

今の総門は、江戸時代、天明三年(1783)に京都・般舟三昧院で建立されたものを昭和十五年に移築しました。額「巨福山」(大きな福をもたらす寺)は、中国僧、一山一寧(一山国師)禅師(建長寺第十世)の筆です」

建長寺35総門

 

建長寺も、広い境内の中は総門・三門・仏殿・法堂・方丈・宗務院が一直線上に建てられている。これは臨済宗大寺院に共通した伽藍の建て方である。鎌倉・円覚寺もこういう建て方になっているし、京都の臨済宗大寺院にも共通している。

さて禅宗の寺院の場合、一般的に仏殿が、他宗寺院の本堂に該当する堂宇だとされています。

そこで、仏殿に行ってみると、こんな文が書かれた立て札が建てられていました。

「仏殿(重要文化財)

建長寺の本尊・地蔵菩薩を安置。北条時頼公と開山大覚禅師(蘭渓道隆)の衆生済度の願いが込められています。毎月一日・十五日の祝聖、二十三・二十四日の開山例月忌、釈迦三仏忌、開山忌などの法要がここで行われます。

現在の建物は、創建当初より四代目のものといい、東京・芝・増上寺にあった徳川二代将軍秀忠公夫人(お江の方、家光の母)の霊屋を建長寺が譲り受けました。仏殿前の庭園の柏槇は開山禅師のお手植え、古木は樹齢七百五十年です」

建長寺25仏殿

 

寺院の中心本尊が仏殿に祀られている、ということであるので、仏殿が本堂に該当する、という解釈は妥当だと思われます。

 

建長寺の境内はなかなか広いのですが、この広大な境内が、隅々に至るまで完璧に整備されている。まさにチリ一つ落ちておらず、雑草一本も生えていない、という感じ。

石畳、石段、参道、休息所、植えられている木々、庭園等々、どれをとっても、人工的な美観はお見事と感嘆してしまいます。境内の木々も、まことに綺麗に手入れが行き届いているのがわかる。

こういうと「そういうのは建長寺だけではない」と言われるかも知れない。

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■鎌倉建長寺2(鎌倉五山・実質的な国教)

 

□中世の全盛時代には1000人以上もの修行僧がいた?建長寺

 

建長寺の境内は広く、立派な伽藍・堂宇が、建ち並んでいる。

この建長寺の最盛期には、七堂伽藍を整え、1000人以上もの修行僧がいたという。ひとつの寺院に修行僧が1000人いたというのは、これは大変な事である。

第一、いくら大きな寺院とはいえ、ひとつの寺院の中に1000人の僧侶が寝泊まりするだけでも大変な事である。さらに寝泊まりするだけではなく、食事をしなくてはならない。禅宗の場合、僧侶が自分で精進料理をつくるらしいのだが、それにしたところで1000人分の食材を用意するだけでも大変なことである。

禅宗の精進料理というのは、肉や魚は一切使わずに、野菜や豆腐などすべて植物性の材料でつくるという、禅宗独特のものになっている。というか、こういった精進料理を自分で造るということも、僧侶の修行のひとつになっているのだという。

鎌倉市内には、禅宗の精進料理を扱っている料理店がいくつもあるが、精進料理というと、ごま豆腐、野菜の煮物、湯葉、けんちん汁といったものが多い。

ちなみに、このけんちん汁というのは、その昔、野菜を調理する際に出る、残り屑やむいた皮などを、建長寺の修行僧が、それらと、崩した豆腐を使って作った、建長寺汁がなまって、けんちん汁になったのだという。

それから1000人の修行僧がいたとすると、それらの僧侶が座禅を組む堂宇というのは、そうとう大きな堂宇だったと思われる。

こういうふうに考えると、中世の時代の、建長寺の全盛時代における隆盛というのは、すさまじかったのだろうな、ということが思い浮かばれます。

 

ところでこの建長寺は、鎌倉五山の一位にある寺院なのだが、鎌倉五山・京都五山の「五山」とは、いわば政府がその寺の住職を任命する禅宗の寺院ということであり、これは「官寺」の新しい形ともいえるものだった。実質的な国教と言っても過言ではあるまい。

ただし、この場合、政府というのは、天皇・朝廷ということではなく、幕府である。

この幕府の「五山」の制度は、室町時代に京都五山、鎌倉五山で確定するのだが、禅宗とは言ってもすべてこれは栄西を宗祖とする臨済宗の寺院であって、道元の曹洞宗の寺はひとつもない。

この建長寺も、臨済宗建長寺派の大本山である。

栄西という人は、政治的な能力をもった人だったようで、比叡山延暦寺や奈良の南都六宗が、朝廷の権威に依存していることから、栄西の臨済宗は、新興の鎌倉幕府に近づき、その「国教」になることをめざした。というか、信教の自由がなかったこの当時は、国家公認の宗教にならなければ、寺院・宗派の存続・維持が実質的に不可能だったのである。

建長寺31山門
 

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■鎌倉建長寺1(日蓮と蘭渓道隆)

 

建長寺(けんちょうじ)とは、神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山。正式名称を巨福山(こふくさん)建長興国禅寺(けんちょうこうこくぜんじ)という。

鎌倉時代の建長5年(1253年)の創建で、本尊は地蔵菩薩、開基(創立者)は鎌倉幕府第5代執権北条時頼、開山(初代住職)は南宋の禅僧蘭渓道隆。鎌倉五山の第一位に列せられている。

鎌倉五山(かまくらござん)とは、中国宋(そう)の官寺制に倣って定められた制度で、禅宗の寺格。京都五山に対し、鎌倉にある五つの大禅刹(ぜんさつ)をいう。

鎌倉時代末期頃より幕府が制定した京都と鎌倉の寺院で構成される五山制度が変化して、室町時代に京都の南禅寺を別格上位とする京都五山と鎌倉五山の寺格が固定された。

鎌倉五山の位は、(1)建長寺、(2)円覚寺 (3)寿福寺 (4)浄智寺 (5浄妙寺である。

官寺(かんじ)とは、 律令(りつりょう)制下で、堂塔の造営や修理、僧尼の費用が国家から給付され、国家の監督を受ける寺。個人的に建てられた私寺に対する言葉。

基本的な性格としては、天皇の発願で建てられ、皇室や国家の安泰鎮護の祈願が重んぜられた。古くはほとんどの寺院が官寺であった。国分寺、国分尼寺、勅願寺が官寺である。

中世以後は、幕府がとくに保護帰依(きえ)した禅宗寺院、臨済宗の京都・鎌倉五山、曹洞宗の永平寺・総持寺をさすようになった。これらの寺院は、天皇の勅宣により住持が定められ、「出世道場」ともよばれた。

ところでこの建長寺の開祖・蘭渓道隆に対して、1268(文永5)1011日、日蓮が書状を認めて送っている。いわゆる「十一通御書」のひとつである「建長寺道隆への御状」がそれである。

この中で、日蓮は蘭渓道隆に対して、痛烈に批判を浴びせている。

「念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説と云々」

日蓮得意の「四箇の格言」でジョブを浴びせたあと、蘭渓道隆本人を含めた極楽寺良寛、寿福寺、多宝寺、浄光明寺、長楽寺、大仏殿等の長老たちを「我慢心充満、未得謂為得」の増上慢の大悪人なり」と、痛烈な言葉で、斬って捨てている。

この書状を読んだ蘭渓道隆は、おそらく憤激した事と思われる。

蘭渓道隆は南宋から渡来した禅僧で、13歳で出家し、無準師範、北礀居簡に学んだ後、松源崇岳の法嗣である無明慧性の法を嗣ぐ。1246(寛元4)33歳で、入宋した泉涌寺僧、月翁智鏡との縁により、弟子とともに来日している。

まあ、僧侶の格から言うと、蘭渓道隆と日蓮とでは、それこそ親子、主君と家臣以上の開きがあったのではないか。その日蓮から、ここまで罵られては、蘭渓道隆のプライドが許さなかった事だろう。「何を小癪(こしゃく)な」という感じだったのではないだろうか。

建長寺33山門

 

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■鎌倉極楽寺2(現在の極楽寺)

 

極楽寺の実質的な開祖である忍性が極楽寺に入寺したのは文永4年(1267年)のこととされている(『忍性菩薩行状略頌』)。極楽寺の古絵図を見ると、往時の境内には施薬院、療病院、薬湯寮などの施設があり、医療・福祉施設としての役割も果たしていたことがわかる。

『吾妻鏡』によると、北条重時3回忌法要は、弘長3年(1263年)にこの極楽寺において西山浄土宗の僧侶・宗観房を導師として行われている。このことから、弘長3年の時点では極楽寺は浄土教系の寺院であり、忍性の入寺(文永4年・1267年)によって真言律宗に改宗したとする説がある。しかしながら、寺に伝わる仏具(五鈷鈴)に建長7年(1255年)の年記とともに「極楽律寺」の文字が見えることから、忍性の入寺以前に真言律宗寺院化していたと見る意見もある。

極楽寺は忍性の入寺から10年も経たない建治元年(1275年)に焼失するが、忍性自身によって再建された。最盛期の極楽寺には七堂伽藍に49箇院の子院が立ち並んでいたという。  

忍性の入寺から中世の頃にかけて、まさに極楽寺が最盛期にあったようである。

しかし現在の極楽寺に、最盛期当時の面影を見ることはできない。はたして最盛期には、七堂伽藍に49箇院の子院が立ち並んでいた大寺院だったのだろうか、と思ってしまうほど、今はこじんまりした寺院に見える。

 

資料を調べると、本堂裏(西)には鎌倉市立稲村ヶ崎小学校があるが、ここの校地が往時の極楽寺の中心伽藍のあった場所であるとされている。

小学校の西側のグラウンドのさらに西には極楽寺の奥の院(墓地)があり、忍性塔と呼ばれる大型の五輪塔をはじめ、多くの石塔が立つ。

江戸期に作成された『極楽寺絵図』によれば最盛期には現在の極楽寺から小学校の建つ谷一帯が極楽寺の境内であった。

そして現在江ノ電が走っている極楽寺川沿いの谷にはハンセン病患者など病者・貧者救済の施設があったと思われる。

極楽寺2
 

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■鎌倉極楽寺1(忍性の社会的評価)

 

極楽寺(ごくらくじ)とは、神奈川県鎌倉市極楽寺にある真言律宗の寺院で、正式名称は霊鷲山(りょうじゅさん)極楽寺という。開基(創立者)は北条重時で、開山は忍性(にんしょう)である。

中世には七堂伽藍をはじめ、子院49箇の塔中坊を有する大寺院であったが、度重なる火災や戦乱で伽藍の大半が焼失。現在は、山門や本堂などが、山影にひっそりと建っているのみである。

ここへ来てみると、「あの極楽寺って、こんなに小さい寺院なの」という感じで、ちょっとビックリしてしまうくらいである。

極楽寺の実質的な開祖である忍性が当寺に入寺したのは文永4年(1267年)のこととされている(『忍性菩薩行状略頌』)。

忍性(にんしょう・12171303)とは、鎌倉時代の律宗(真言律宗)の僧で、号は良観という。日蓮が、遺文の中で「極楽寺良観」と呼んでいる人である。

忍性(極楽寺良観)という人は、日蓮宗や日蓮正宗では、日蓮の遺文でポロクソに書かれているからか、大変イメージの悪い人なのであるが、忍性(極楽寺良観)は叡尊に惹かれて再度叡尊の下で授戒して弟子となり、1240年に常施院を設け、ハンセン氏病患者らの救済などの慈善活動、悲田院を改修して非人救済を行うなどの社会事業を行い、この間に律宗布教にも努めた。

悲田院(ひでんいん)は、仏教の慈悲の思想に基づき、貧しい人や孤児を救うために作られた施設のことで、鎌倉時代には忍性(極楽寺良観)が各地に開設した。それ以降、中世は非人の拠点の一つとなったといわれている。

忍性(極楽寺良観)の師の叡尊は民衆への布教を唱えながら、自分には不得手であることを自覚して当時の仏教において一番救われない存在と考えられていた非人救済に専念し、その役割を忍性(極楽寺良観)に託した。忍性(極楽寺良観)は非人救済のみでは、それが却って差別を助長しかねないと考えて非人を含めた全ての階層への救済に尽力した。

日蓮は、遺文の中で、忍性(極楽寺良観)のことを、

「三学に似たる矯賊の聖人なり」「僣聖増上慢にして今生は国賊、来世は那落に堕在せんこと必定せり」(「極楽寺良観への御状」・平成新編御書全集p376)

などと、口を極めてボロクソに非難しているが、他方では、このように、忍性(極楽寺良観)は、中世の時代では、全くといっていいほど見られなかった、社会事業、慈善事業に力を入れており、社会的な評価は、とても高い人なのである。

忍性1


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■園城寺(三井寺)4(閼伽井屋)

 

園城寺(三井寺)の起源についての通説は、概ね次の通りである。

大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。弘文天皇陵はこの園城寺にほど近い所にある。

大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。

「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。

「御井」(みい)の寺の由来になった井戸が「閼伽井屋」(あかいや)とよばれる井戸で、現在、国の重要文化財に指定されている。後に智証大師が園城寺の厳儀・三部灌頂の法水に用いたという。

これは、金堂の西に接して建つ小堂で、慶長5年(1600年)、金堂と同じく北政所によって建立された。堂内には三井寺の名の起こりとなった霊泉が湧出している。

もちろんこの霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたということからして、小堂そのものは北政所によって建立されたものだが、霊泉は天智・天武・持統天皇の御代からあったと考えられる。

閼伽井屋1

 

この園城寺・閼伽井屋以外で、「閼伽」の文字が使われている所は

□閼伽井嶽薬師

福島県いわき市平赤井にある水晶山玉蔵院常福寺(真言宗智山派)。「大師堂・弘法水」という堂宇は、弘法大師を祀り、堂は一大老楓の巨木を擁し放生池にい臨み、その下厳石の凹所より清泉を湧出している。昔弘法大師独鈷を以て岩石を穿ち湧出せしめた霊泉、如何なる大旱にも涸るることなく、毎晨朝本尊薬師如来に供する閼伽水となしているという。

□閼伽井坊塔婆

山口県下松市の八幡宮日本十六塔のひとつで、高さ13m、柿葺屋根の閼伽井坊塔婆(多宝塔)がある。、閼伽井坊は、花岡八幡宮の社坊九か寺の一つで現在は真言宗御室派の寺院。「閼伽」は仏に供える清浄な水をいい、閼伽井とはこれを汲む井戸のことをさす「閼伽」だが、実際に井戸があるのかどうかは定かではない。

□東大寺二月堂 閼伽井屋

鎌倉時代に建立された切妻造の建物で、国の重要文化財に指定されています。霊水の湧く「若狭井」の覆屋である。

□光明寺・閼伽井の水

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■園城寺(三井寺)3(園城寺金堂)

 

天台寺門宗総本山・園城寺は、まがりなりにも天台宗総本山・比叡山延暦寺に対抗して戦争を繰り広げたくらいの寺院だから、さぞや広々とした境内なのかと思っていたら、広いことは広いが、比叡山延暦寺ほどではないという感じ。

しかし江戸時代以前の園城寺の歴史とは、まさに戦乱の歴史とも言うべきもの。

比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し、この園城寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山延暦寺の宗徒による園城寺の焼き討ちは永保元年(1081年)をはじめ、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。

その後、源頼朝、北条政子、鎌倉幕府、室町幕府の庇護を受けたものの、文禄4年(1595年)、園城寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、欠所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられている。

園城寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。これにより園城寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。

当時の園城寺金堂は比叡山延暦寺に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。

慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって園城寺の再興を許可している。秀吉の再興許可を受け、当時の園城寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められ、現在の園城寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものであると言われている。

しかし、これだけ戦乱だの廃寺だのという歴史を繰り返してきたにもかかわらず、園城寺は、仏像、仏画、文書など多くの文化財を伝えている。これが実に、私には不思議に見える。

明治の大火一回で、寺宝の大半を焼失してしまった身延山久遠寺とはえらい違いである。

 

特に金堂本尊の弥勒菩薩像(弥勒如来とも)は、天智天皇の念持仏と伝え、唐からの請来像ともいうが、公開されたことがなく、写真も存在しないため、いかなる像であるかは全くの不明。

金堂は、豊臣秀吉によって強制的に比叡山延暦寺に移築されているのに、なぜ絶対秘仏の弥勒如来像が今日に伝わっているのだろうか、と思う。

この金堂本尊は、園城寺の絶対秘仏として有名だが、他にも

■園城寺 観音堂本尊 如意輪観音坐像(重文)     33年に1度の開扉

■園城寺 智証大師(円珍)坐像(国宝)  「中尊大師」、「御骨大師」の2体あり。中尊大師は1029日の祥忌法要で開扉されるが、御骨大師は開扉なし。特別展などで数回公開されたことがある。

■園城寺 新羅明神坐像(国宝)  特別展などで数回公開されたことがある。

■園城寺 不動明王像(黄不動、絵画、国宝)  厳重な秘仏として知られ、寺では書籍等への写真掲載を厳しく制限している。特別展などで数回公開されたことがある。

園城寺3


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■園城寺(三井寺)2(園城寺長吏)

 

天台寺門宗の総本山・園城寺(三井寺・みいでら)の旅紀行を書いている最中、新しい天台寺門宗管長が決まったというニュースが飛び込んできた。

2010926日付け「読売新聞」によると、総本山園城寺は、天台寺門宗第9代管長に、福家英明(ふけ・えいめい)・園城寺長吏(85)を選んだと発表したとある。

「長吏」(ちょうり)というのは、総本山の長ということで、日蓮正宗総本山大石寺、日蓮宗総本山身延山久遠寺、浄土真宗大谷派総本山・東本願寺などの「法主」、天台宗総本山比叡山延暦寺の「座主」に相当する職である。

つまり、大石寺、久遠寺、本願寺で「法主」と呼んでいる職のことを、園城寺では「長吏」と呼んでいるということ。園城寺では、実質的な開祖・円珍を初代長吏とし、現在は164世長吏・福家英明氏ということである。

 

ところでこの「長吏」という言葉には、ちょっとした意味が込められている。

辞書によれば、もともと「長吏」とは、中国、漢の官制で、600石以上の俸禄の者。地方では200石から400石くらいの役人をさす言葉だったが、これが転じて、日本では、寺の長として、寺務を統轄した役僧を指す言葉になった。特に、勧修寺長吏・園城寺長吏・延暦寺楞厳(りょうごん)院長吏などが有名。他の寺でいう座主(ざす)・検校(けんぎょう)・別当などにあたる言葉として用いられたが、しかし、園城寺・勧修寺では、長吏は別当より上位に置かれていた。

園城寺4

 

つまりこの意味の中には、当然のことながら「園城寺長吏は比叡山延暦寺・天台座主よりも上」という意味がある。「オレのほうが上だぞ」というのは、現代の日蓮正宗法主と創価学会・池田大作の戦争とよく似ている。宗創戦争そっくりの「オレのほうが上だぞ」戦争が、まさにかつては、比叡山延暦寺と園城寺の間で繰り広げられていた。

しかもこれが日蓮の遺文・報恩抄に書いてあるから、何とも皮肉な話である。

「智証の門家園城寺と慈覚の門家叡山と、修羅と悪竜と合戦ひまなし。園城寺をやき叡山をやく。智証大師の本尊慈氏菩薩もやけぬ。慈覚大師の本尊、大講堂もやけぬ。現身に無間地獄を感ぜり。但中堂計りのこれり」(御書全集p10171018)

 

それにしても、もし仮に日蓮が、現代の宗創戦争を見聞したとしたら、かつて自分が報恩抄に書いた延暦寺vs園城寺の戦争そっくりの戦争が、自分の門下で行われていることに、たいそう驚くことだろう。日蓮滅後700年以上経ってから、まさか日蓮を宗祖と仰いでいる宗派で、日蓮が報恩抄に執筆した戦争と、そっくりの抗争が繰り広げられるとは、まさか日蓮も予想していなかったにちがいない。

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■園城寺(三井寺)1(宗教戦争)

 

比叡山延暦寺を下りた私は京阪電車に乗って三井寺駅で下車。天台寺門宗総本山・園城寺に向かった。寺跡調査・取材をいろいろ行う上で、延暦寺に行ったなら、絶対に園城寺に行かなくては、と考えていたポイントである。

日本天台宗の総本山・比叡山延暦寺と並ぶくらいの天台宗のもうひとつの双璧・総本山が園城寺で、長等山園城寺(ながらざん おんじょうじ)。別名を三井寺という。これは「みついじ」ではなく、「みいでら」と読む。

面白いことに、この園城寺のある所も、比叡山延暦寺と同じ滋賀県大津市になる。正式名で言うと、この園城寺は、天台寺門宗の総本山ということになる。

天台寺門宗(てんだいじもんしゅう)とは妙法蓮華経を根本経典とする天台宗のもうひとつの一派で、高祖は中国南北朝時代から隋の時代の天台大師智顗(538年~597年)、宗祖は日本平安時代の第5代天台座主の智証大師円珍(814年~891年)(弘法大師空海の姪の子)。

総本山は園城寺(おんじょうじ)で、天台宗寺門派(じもんは)とも呼ばれる。

伝教大師最澄(767年~822年)が日本へ伝え、最澄が開祖になった日本天台宗の教えは、第3代天台座主円仁と第5代天台座主円珍の2人の巨人の登場により、日本天台宗本山の比叡山延暦寺で2つに分かれてしまう。

比叡山延暦寺は円仁派が占め、円珍派は比叡山を去り園城寺へ入った。これ以来、比叡山延暦寺へ残った円仁派を山門派、園城寺へ入った円珍派を寺門派と呼ぶ。

その後、園城寺の最盛期には、東大寺、興福寺、延暦寺と並ぶ日本の四大箇寺に数えられる寺院として栄えた。

この比叡山延暦寺と園城寺が、古くから抗争以上の戦争を繰り広げてきた。その両者の宗教戦争たるや、1990年代から続く日蓮正宗vs創価学会の「宗創戦争」顔負けの戦争である。

実は、この延暦寺vs園城寺の戦争が、皮肉なことに日蓮の遺文に出てくるのである。それは「報恩抄」と呼ばれている日蓮の遺文で、それには次のように書かれている。

「智証の門家園城寺と慈覚の門家叡山と、修羅と悪竜と合戦ひまなし。園城寺をやき叡山をやく。智証大師の本尊慈氏菩薩もやけぬ。慈覚大師の本尊、大講堂もやけぬ。現身に無間地獄を感ぜり。但中堂計りのこれり」(御書全集10171018)

 

これを読むと、単なる信者の取り合いにとどまらず、寺院焼き討ち等々の物理的な戦争を繰り広げていた。日蓮正宗vs創価学会の「宗創戦争」も、焼き討ちまでは言っていないが、現代の宗教戦争という意味では特筆もの。日蓮の報恩抄の文を読んでいると、これが日蓮正宗vs創価学会の「宗創戦争」とかぶって見えるのは、私だけだろうか。

私が園城寺を訪ねた目的は、日蓮正宗vs創価学会の「宗創戦争」も顔負けの宗教戦争を比叡山延暦寺との間で繰り広げた園城寺を見ると言う意味ではない。

園城寺1
 

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■比叡山延暦寺7(国宝殿)

 

比叡山延暦寺・東塔の境内の中に「比叡山国宝殿」という建物がある。

比叡山延暦寺では、伝教大師最澄の直筆の書物をはじめ、仏像、仏画、書跡、美術工芸品等々、数多くの国宝やら重要文化財やらを所有しているとのことだが、そのうちの63点の国宝、重要文化財、寺宝等数百点の中から選んで展示している所ということである。

まあ、私からすると、比叡山延暦寺の中にある博物館みたいなところかな、という印象。

450円の拝観料を支払って中に入ると、それこそ仏像やら、仏画やら、さまざまな書跡やら、さらには比叡山延暦寺の年表やらまでが所狭しと展示されていた。この年表は、なかなか詳しく書かれていて、私も興味深かったので、早速、手帳にメモをとっていた。

そうすると、国宝殿の入り口にいた係の中年女性が、かなり怪訝な表情を浮かべながら、私のそばへつかつかと歩み寄ってきて

「こんなに近くでメモをとってもらっては困ります」と苦言。

「メモをとるな」とは言わなかったが、あたかもメモは困るとの態度に見えた。

 

私だって、ただ比叡山延暦寺まで来たのではない。寺跡調査・取材のために来ているので、「メモをとるな」と言われて、そのまんま変えるわけにはいかない。

ああそうですか。ならば質問させていただきましょう、と思い、入り口の係の女性に、延暦寺のことについて、いろいろと質問をした。

するとその女性は、わからないと言いだし、「私は専門家ではありませんので」と言い訳しながら、受付の奥にいた延暦寺の僧侶に聞きに行った。

そうすると今度は、奥から黒い僧衣を着た若い僧侶が出てきて

「そういうことは、○○に行って聞けばいいでしょう」

と、この返事。

また、質問者をただの「たらい回し」にしようという、不誠実な返事。こういう返事は、あっちこっちの閉鎖的寺院で、いやというほど聞かされてきた私。

今度の国宝殿にいた僧侶の返事にちょっとカチンときた私は、

「そういう言い方はないだろう。せっかく質問しているのに、比叡山の中をたらい回しにするつもりですか」

と、僧侶と係の女性に抗議をした。

そうすると、この係の中年女性は

「おたく様は、どういうお方でしょうか」と私に逆質問。

私は「実はサイトを主宰している者なのですが…」と、こう言ったとたん、係の女性の態度がガラリと急変。うってかわって急に愛想がよくなり

「あーそうですかあ。サイトを運営していらっしゃる方は、いろいろとお詳しいですからねー」

などと、急に私をヨイショしはじめたのである。

比叡山国宝殿2


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■比叡山延暦寺6(戒壇院)

 

比叡山延暦寺に行ったからには、弘仁13(822) 、伝教大師最澄の死後7日目にしてようやく許可された大乗戒壇を一目見ておく必要があった。

延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者・伝教大師・最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教・南都六宗から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようにしようということである。

当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかった。

最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。その伝教大師・最澄の宿願であった大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく朝廷から許可されたものであった。

この戒壇院は、延宝6年(1678年)の再建の建物というえことだが、それ以上の詳しいことはわからない。というか、この戒壇院は、伝教大師・最澄が生涯をかけた宿願である建物なのに、どういうわけか、比叡山延暦寺・比叡山振興会議が発行している公式パンフレット「比叡山」には、一言も紹介されていないのである。戒壇院は、観光資源としての価値がないと目されているのか。

 

そういうこともあってか、私は、最初に比叡山延暦寺に行ったときは、てっきり戒壇院=根本中堂と勘違いしていたくらいだった。その後、ある人と話した折に、比叡山延暦寺の根本中堂と戒壇院は別個の建物であることがわかり、二度目、三度目にここを訪れたときは、両者を混同しなくなったという次第。

それともう一つ、この戒壇院は、伝教大師・最澄が生涯をかけた宿願である建物というわりには、そんなに大きな建物ではない。むしろ根本中堂のほうが二倍、三倍以上、大きな建物である。

しかも表の扉は固く閉められていて、中の様子を伺い知ることはできない。なんとも閉鎖的な建物で、こういうのは、あまりいい印象を人に与えないでしょうね。

見ていると、日蓮正宗や創価学会のような閉鎖的でダーティなイメージがかぶって見えてしまう。

まあ、もっとも比叡山延暦寺は、室町・戦国時代に、何度も焼き討ちにあっているから、再建されたときに規模が小さくなってしまったのかもしれないが、私としては、見た感じ、期待とは裏腹に、いささか拍子抜けした印象を持ちました。

延暦寺3戒壇3
 

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■比叡山延暦寺5(大講堂)

 

比叡山延暦寺の見所は、根本中堂の他にもいろいろあるが、そのうちのひとつが大講堂である。

大講堂という所は、僧侶が法華経の講義を聞いたり、お互いに問答して、勉強する学問修行の場という意味らしい。

延暦寺の大講堂は、根本中堂のほぼ隣に位置している。今の延暦寺・大講堂は、寛永11年(1634年)の建築の建物で、もとは東麓・坂本の東照宮の讃仏堂であったものを1964年に「大講堂」として移築したものである。なぜこんなことをしたのかというと、重要文化財だった旧大講堂は1956(昭和31)年に火災で焼失しているからである。

ちょうどこのころ、日蓮正宗大石寺では、創価学会二代会長・戸田城聖の寄進で「大講堂」が建設中であった。日蓮正宗や創価学会では比叡山延暦寺大講堂炎上焼失のニュースを聞いて

「これは迹門の大講堂(延暦寺)が滅びて、本門の大講堂(大石寺)が勃興する奇瑞だ」

などと言って、躍り上がって大喜びしていたというから、全くあきれてしまう。

いくら他山・他宗のこととはいえ、寺院・伽藍の火災を大喜びするなどという非常識な振る舞いがどこにあろうか。

 

比叡山延暦寺・大講堂の本尊は大日如来ということだが、私にはよくわからなかった。というか、「天台宗なのに、なんで本尊が大日如来?」というきわめて初歩的な疑問が沸いてしまう。

しかも根本中堂の本尊が薬師如来で、なんで大講堂が大日如来?という疑問も沸いてくる。

まあ、私としては、天台宗の教義にまで、さほど深い関心がないので、それ以上、深追いはしなかったのだが、私には、別のことで目を引いたことがあった。

 

本尊の両脇には向かって左から日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍の像が安置されていて、これらの僧はいずれも若い頃延暦寺で修行した高僧。これらの像は関係各宗派から寄進されたものであるという。堂内を見渡してみると、木像とは別に、これらの高僧たちの大きな肖像画も掲示されていた。

私がさらに興味を引いたのは、大講堂の本尊に向かって右側で、僧侶の唱導により大勢の信者による読経・法要が始まったこと。

「何の法要なんだろうか」と興味津々にその様子を見ていたが、見ていて、どうも天台宗の信者には見えなかった。そうこうしているうちに、この法要で信者たちが何と「南無妙法蓮華経」を唱えだしたのである。「あれれれれ、日蓮宗?」という感じ。

どうやら、日蓮宗のどこかの寺の信者が、住職の引率で比叡山延暦寺に団体参拝し、大講堂の日蓮の木像の前で法要を営んでいたということのよう。

延暦寺6大講堂2