■長野善光寺6(2015年初詣2)
□普段の本堂の朝時(朝の勤行)や法要でも拝することができない絶対秘仏・善光寺如来
午前中から善光寺境内は、ものすごい人出の大混雑ぶり。そして午前中から、善光寺本堂へはロープ規制になるほどの、ものすごい数の参詣者がいて、今か今かと入場を待っている。ロープ規制で、入場待ちをしている中、善光寺大本願の善光寺上人が赤い番傘の下をしずしずと本堂に出仕。大本願の上人は、尼僧である。
さて私は、本堂に入ったあと、外陣で参拝した後、内陣参拝券を買って内陣に参拝。外陣は立ったまま参拝するが、内陣は畳が敷かれていて、座って参拝する。すでに内陣に多くの参詣人が座っていて、午前11時の修正会が内々陣ではじまった。内々陣とは、内陣の奥にある僧侶席。善光寺の僧侶がゾロゾロと内々陣に出仕。最後に善光寺上人が出仕して修正会が奉修される。
別に法要の時刻にあわせて善光寺に足を運んだわけではないが、たまたま私が善光寺本堂に着いた時刻と、修正会の時刻が合致した。私もいろいろ仏教寺院を訪ね歩いているが、私が寺院に到着して後、法要がはじまって、後ろの席にひょっこり座って法要の一部始終を見聞したことは、何度もあった。今回も、このパターンである。
さて本堂内々陣の修正会のとき、内々陣の須弥壇の金襴の緞帳(どんちょう)が上がった。普段は、内々陣の緞帳は降りていて、朝時や法要が行われる時のみに、緞帳が上げられる。しかしながら緞帳が上がっても、拝観できるのは善光寺如来が蔵されているとされる宮殿(くでん)だけ。善光寺如来は、絶対秘仏であるため、拝することはできない。
一光三尊阿弥陀如来の名で知られる善光寺如来は、欽明天皇13年(552)、朝鮮・百済国より日本に渡来。皇極天皇元年(642)に、信濃国水内郡、今の長野市に移る。孝徳天皇・白雉5年(654)、堂宇を勧請。これ以来、江戸時代の元禄13年(1700)までの間、本堂は11回の火災で焼失。現在の本堂は、善光寺別当大勧進住職73世慶運大僧正が全国各地を行脚し、出開帳をするなどして募金を得。元禄16年(1703)に着工。約5年の歳月を経て宝永4年(1707)に落慶したもの。2015年で築308年になる。本堂は昭和28年(1953)に国宝に指定されている。
本堂の須弥壇の中には、3基の灯籠があり、これは1300年不滅の常灯明とされ、永代不滅の常灯明(御三灯)とされる。これも須弥壇の緞帳が上がらないと、観ることが出来ない。
善光寺の「永代不滅の常灯明」も、比叡山延暦寺の「不滅の法灯」と、なんとなく似ている気がする。比叡山延暦寺の「不滅の法灯」は、開祖・伝教大師最澄の時代から灯明が消えていないと言うが、実際は、元亀2年(1571)の織田信長の比叡山焼き討ちで消えており、今の比叡山延暦寺・根本中堂の「不滅の法灯」は、織田信長の焼き討ち以前に、延暦寺の「不滅の法灯」から分灯した東北・立石寺の法灯から分灯したものである。これは、比叡山延暦寺が発行する正式文献に載っている史実である。
善光寺の場合も、火災や戦災に何度も遭遇しているわけだから、本当に常灯明が「永代不滅」なのかどうかは、研究の余地があると思う。
(参詣者で大混雑している善光寺本堂前)
続きを読む