一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは「アンチ日蓮正宗」管理人が2005年11月に設立した会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。富士門流執着軍団批判は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄だが、「日蓮正宗系」以外の富士門流寺院の調査・研究は「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」の管轄。
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■池上本門寺4(日蓮像の文化庁の見解1)

 

私は、池上本門寺・大堂(祖師堂)に祀られている日蓮祖師像(木像)が、国の重要文化財に指定されている事実は大変重いものがあると考えました。そこでこの詳細を確かめようと、東京・霞ヶ関の文部科学省にある文化庁に問い合わせをして、取材しました。

私の問い合わせに対して、文化庁の国宝・重要文化財指定の係官が応対し、話を聞くことができました。以下は、私と係官のやりとりの主要部分の抜粋です。

 

○「東京・池上の日蓮宗・池上本門寺の大堂に祀られている日蓮聖人御尊像が国の重要文化財に指定されている件について、詳しいことをお聞きしたい」

係官「はあ、そうですか」

 

○「池上本門寺が発行した『霊寶殿』という名の本によれば、この日蓮聖人御尊像が造立されたのが、正応元年(1288)になっており、日蓮聖人第七回忌の折りに六老僧の日持上人と中老・日浄上人が願主になったと書いてあります。

国がこの日蓮像を重要文化財として指定したということは、この「正応元年造立」ということを史実として公認した、ということで間違いないでしょうか。そのあたりの詳しい意味を教えて戴けませんか」

係官「重要文化財の指定にあたりましては、私どものほうで、専門の調査官がおりまして、事前に調査をしております。それから重要文化財指定の意味についてですが、文化財保護の網をかぶせると言うことです。

これは具体的に言いますと、まずは修理について国から補助金が出ること。

それともうひとつは、勝手に保存にあわない修理を行わせない、保存にあわない修理を禁止する、ということです。国の重要文化財指定は、文化財を後世にのこすという点が大きな主眼です」

 

○「ということは、重要文化財の指定は、あくまでも文化財保護のため、というもので、文化財そのものの真贋(本物かニセモノか)は、関係ないということですか」

係官「そういうわけではありません。お尋ねの池上本門寺の日蓮聖人像が重要文化財に指定されたのは、戦前の昭和3817日のことで、これは現在の文化財保護法によるものではなく、戦前の国宝保存法によるものです」

 池上大堂・日蓮1

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■池上本門寺3(文化財に贋作・偽作はないのか)

 

さて池上本門寺大堂の日蓮祖師像は、池上本門寺の公式見解では、日蓮七回忌の折りに造立されたとなっています。池上本門寺が刊行している正式文献「霊寶殿池上本門寺の御霊宝と文化遺産」によれば、日蓮・祖師像について、以下のように書いてあります。

 

「日蓮聖人御尊像  正応元年(1288) /重要文化財

 

日蓮聖人7回忌にあたり、六老僧の1人である日持聖人と日浄聖人が願主となって造立された等身大の坐像で、大堂に奉安されている。胎内には御真骨を収めた銅筒があり、その側面に

『弘安五年壬午十月十三日巳刻 御遷化/大別当 大国阿闍梨日朗/大施主 散位大仲臣宗仲』

他の刻名がある」

(「霊寶殿池上本門寺の御霊宝と文化遺産」p1)

 

注目すべき事は、この日蓮祖師像が国の重要文化財に指定されているということです。

国宝にしろ、重要文化財にしろ、正式に指定を受けるまでの過程に於いて、鑑定が行われているということです。ということは、少なくとも「贋作」が国宝や重要文化財に指定されると言うことは、あり得ないと言うことになります。

これと同じようなことが、国立博物館で行われる展示についても言えます。

贋作や偽作とされるものが、国立博物館で正式に展示されるということはあり得ません。贋作や偽作が「本物」として、国立博物館で展示されたら、それこそ大変です。下手をすれば、政府・文化庁の責任問題に発展しかねません。

 

国宝や重要文化財の指定に当たっては、文化審議会からの指定に関する諮問に至るまで、さまざまな調査・鑑定が行われている、ということですが、それならば

「文化財に指定されているものの中には、贋作や偽作がひとつもないのか」

という話になるわけです。

ここが微妙なところになるわけで、今回の池上本門寺・日蓮祖師像の他にも、文化財についていろいろ調査していく中で、いろいろなことがわかってきました。

文化財の中には、国で指定している文化財の他に、都道府県で指定している文化財、市区町村で指定している文化財もあります。都道府県の文化財や市区町村の文化財の中には、国が行っている調査・鑑定には、かなりほど遠い調査しか行っていないものもあるようです。

これについては、追々、書いていく予定ですが、今回の池上本門寺・日蓮祖師像は、国が指定している重要文化財ということですので、文化庁に問い合わせた、ということです。

 

文化庁1
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■池上本門寺2(国の重要文化財の祖師像)

 

池上本門寺で有名なのは、まず大堂に祀られている日蓮・祖師像です。この祖師像は、国の重要文化財に指定されています。

大堂の中にある説明書きには、次のようにあります。(大堂内は写真撮影禁止であるため、文章を書き出します)

 

「日蓮大聖人御尊像

日蓮大聖人第七回忌に当たる正応元年(1288)に造立されたもので、気魄に満ちた御顔は、ご生前の真容をよく伝え、肖像彫刻としても鎌倉時代の傑作の一つに挙げられている。像高二尺八寸三分の木彫寄木造り、ご胎内には御聖骨を納めた銅筒があり、右手には母君妙蓮尼の遺髪を加えて作られたものと伝えられる払子を、左手には紺紙金泥の法華経経巻を捧持。

昭和二十年四月の大空襲にも難を免れた御尊像は、永遠に格護されるべき人類の至宝である。

 

大堂

昭和二十年(1945)四月十五日の大空襲で、全山の堂宇五十余棟を焼失した本門寺は、全国檀信徒の寄付丹精によって、昭和三十九年に大堂を再建した。

日蓮大聖人御尊像を奉安する大堂は、鉄筋コンクリート造り本瓦葺、入母屋屋根、間口十八間、奥行十九間半、高さ九十三尺(30メートル)、屋根瓦枚数69849枚、のべ面積820坪、大堂は日蓮大聖人のご精神と七百年の歴史を伝える法華経御題目布教の道場である」

 

大堂内は写真撮影禁止であるため、大堂内にある「日蓮大聖人御尊像」「大堂」の説明書きは筆写しました。日蓮祖師像の写真は、「霊寶殿—池上本門寺の御霊宝と文化遺産」に載っている写真です。

大堂はかなり大きな建物で、間口十八間、奥行十九間半の広さは、日蓮宗寺院建築の中でも最大級の堂宇だと思います。

これより大きい建物というと、身延山久遠寺本堂が間口十七間半、奥行き二十八間あります。しかし、池上本門寺大堂より大きな堂宇というのは、日蓮宗では、そんなにはないと思います。

 御会式22大堂

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■池上本門寺1(宗務院・日蓮入滅の霊跡)

 

池上本門寺とは、住所でいうと東京都大田区池上一丁目、交通でいうと東急池上線池上駅から約10分ほどの所にあるする日蓮宗大本山の寺院。日蓮宗は祖山・身延山久遠寺を筆頭に、大本山が七ヶ寺ありますが、その七ヶ寺のひとつ。

正式名は長栄山本門寺と言いますが、古くより池上本門寺と呼ばれてきた寺院。

また日蓮宗・日蓮正宗・日蓮本宗・法華宗などの宗祖・日蓮が入滅した霊場として有名な所である。もともとは日蓮の信者であった池上宗仲の邸宅であった所である。池上邸のあった所は、現在、大坊本行寺となっています。

そして大本山ながら日蓮宗宗務院が置かれており、さらに日蓮宗機関紙「日蓮宗新聞社」がある寺院である。面白いのは、日蓮宗宗務院、日蓮宗新聞社が祖山であり、総本山である身延山久遠寺ではなく、池上本門寺に置かれていること。日蓮宗の管長は、身延山久遠寺法主と大本山貫首がランダムに就任しており、池上本門寺の酒井日慈現貫首も、以前は日蓮宗管長だったことがあります。(日蓮宗現管長は、内野日総・身延山久遠寺法主)

そして池上本門寺は、日蓮の祥月命日の法要である、毎年101113日に行われる「お会式」が有名である。

ここの「お会式」は3日にわたって行われ、特に1012日晩の御逮夜に繰り出される万灯練り行列には約30万人の参拝者が本門寺を訪れると言われている。確かに1012日夜は、この行列の影響で、池上通りも交通規制が敷かれるほどである。

万灯練り行列とは、この日の午後18時から、池上徳持会舘より本門寺までの約2キロにわたって百数十講中、総勢約三千人もの万灯練り行列が池上の町を練り歩くもの。この行列で、池上の町は、深夜までものすごい人出で賑わっている。

本門寺周辺には、賑々しいテキ屋の出店も立ち並んで、池上本門寺のお会式は、池上の町をあげての壮大なお祭という印象をもちました。

それにしても3日間で約30万人の参詣者があるのですから、驚きです。ここの御会式に行ったときの詳細については、後述します。

 

こういったようなことから、池上本門寺は大本山ながら、その地位は限りなく総本山に近いという言い方ができると思います。

私も、寺跡調査の他、霊寶殿の見学や初詣、御会式などの法要等、けっこう池上本門寺に来ています。霊寶殿は毎月1回、展示替えをしているので、展示替えがあるたびに、行くようにしています。私も東京に住んでいるので、地方にある寺院よりは、ここには来やすい、ということがあります。

大堂3
 

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■鎌倉建長寺4(けんちん汁)

 

建長寺方丈をぐるりと一周して、見学してみると、公開されているのは本尊が祀られている広間と日本庭園のみ。何も貫首の住居が公開されているわけではない。

方丈と廊下でつながっている宗務本院は一般の立ち入り禁止になっているので、貫首の住居はそちらにあるのかもしれません。

建長寺の境内もなかなか広いのだが、同じく鎌倉にある臨済宗大本山・円覚寺と比べると、円覚寺の境内のほうが広いように思う。建長寺にはかつて1000人の修行僧が居て修行していたというが、1000人の修行僧が修行するには、いささか狭いような気がする。

ただし建長寺の境内は、完璧すぎるほどの人工的な景観美に彩られている、仏殿、法堂、方丈があるところから、奥の山手側のほうに広がっている。半僧坊、塔中は、仏殿、法堂、方丈があるところから、裏の山手、外側に広がっていて、昔はこのあたりも塔中、僧坊が建ち並んでいたのかな、と思う。

半僧坊道の脇には、今でも塔中支院がいくつかある。仏殿、法堂、方丈があるところは実に整備が行き届いているが、河村瑞賢墓入り口の看板が建っているあたりから、なんとなく荒れ果てた感じになります。このあたりは、建長寺の境内なのか、そうでないのか、よくわからない所。このあたりは、ほとんど整備されていない。

 

建長寺は正応6年(1293年)412日の鎌倉大地震により建造物の大半が倒壊炎上。

元から来日した一山一寧を第十世に任じて再建にあたらせる。

続いて正和4年(1315年)、応永23年(1416年)をはじめとするたびたびの火災で創建当初の建物を失った。

鎌倉時代末期には修復費用獲得のため、幕府公認で元へ貿易船(寺社造営料唐船)が派遣され、「建長寺船」と呼ばれた。

江戸時代には徳川将軍家の援助で主要な建物が新築または他所から移築された。

1923年の関東大震災でも建長寺は大きな被害を受けている。よって建長寺創建当初の堂宇・伽藍は失われてしまっている。

1886年、建長寺が修行僧学校・宗学林を設立。これが現在の鎌倉学園中学校・高等学校の前身。現在も建長寺は同校経営には関与しているが、宗教教育は行っておらず、男子中高一貫教育を行う進学校として運営されている。同校の出身者にサザンオールスターズの桑田佳祐がいる。

建長寺33山門
 

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■鎌倉建長寺3(人工的な景観美)

 

建長寺は鎌倉市内でもかなり山手にあり、交通の便はいいほうではない。建長寺へ行くと、今も大寺院としての広大な境内と大伽藍を持っているのがわかる。

建長寺総門前にある立て札には、次のようなことが書いてある。

「建長寺は今から七百五十年前、鎌倉時代、建長五年(1253)、禅によって国の興隆をはかるため、執権北条時頼公の発願により、中国の禅僧・大覚禅師(蘭渓道隆)を開山として創建された、日本で最初の純禅の大道場です。

建築は、総門・三門・仏殿・法堂・方丈が一直線に連なる中国の禅宗様式にもとづいています。

今の総門は、江戸時代、天明三年(1783)に京都・般舟三昧院で建立されたものを昭和十五年に移築しました。額「巨福山」(大きな福をもたらす寺)は、中国僧、一山一寧(一山国師)禅師(建長寺第十世)の筆です」

建長寺35総門

 

建長寺も、広い境内の中は総門・三門・仏殿・法堂・方丈・宗務院が一直線上に建てられている。これは臨済宗大寺院に共通した伽藍の建て方である。鎌倉・円覚寺もこういう建て方になっているし、京都の臨済宗大寺院にも共通している。

さて禅宗の寺院の場合、一般的に仏殿が、他宗寺院の本堂に該当する堂宇だとされています。

そこで、仏殿に行ってみると、こんな文が書かれた立て札が建てられていました。

「仏殿(重要文化財)

建長寺の本尊・地蔵菩薩を安置。北条時頼公と開山大覚禅師(蘭渓道隆)の衆生済度の願いが込められています。毎月一日・十五日の祝聖、二十三・二十四日の開山例月忌、釈迦三仏忌、開山忌などの法要がここで行われます。

現在の建物は、創建当初より四代目のものといい、東京・芝・増上寺にあった徳川二代将軍秀忠公夫人(お江の方、家光の母)の霊屋を建長寺が譲り受けました。仏殿前の庭園の柏槇は開山禅師のお手植え、古木は樹齢七百五十年です」

建長寺25仏殿

 

寺院の中心本尊が仏殿に祀られている、ということであるので、仏殿が本堂に該当する、という解釈は妥当だと思われます。

 

建長寺の境内はなかなか広いのですが、この広大な境内が、隅々に至るまで完璧に整備されている。まさにチリ一つ落ちておらず、雑草一本も生えていない、という感じ。

石畳、石段、参道、休息所、植えられている木々、庭園等々、どれをとっても、人工的な美観はお見事と感嘆してしまいます。境内の木々も、まことに綺麗に手入れが行き届いているのがわかる。

こういうと「そういうのは建長寺だけではない」と言われるかも知れない。

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■鎌倉建長寺2(鎌倉五山・実質的な国教)

 

□中世の全盛時代には1000人以上もの修行僧がいた?建長寺

 

建長寺の境内は広く、立派な伽藍・堂宇が、建ち並んでいる。

この建長寺の最盛期には、七堂伽藍を整え、1000人以上もの修行僧がいたという。ひとつの寺院に修行僧が1000人いたというのは、これは大変な事である。

第一、いくら大きな寺院とはいえ、ひとつの寺院の中に1000人の僧侶が寝泊まりするだけでも大変な事である。さらに寝泊まりするだけではなく、食事をしなくてはならない。禅宗の場合、僧侶が自分で精進料理をつくるらしいのだが、それにしたところで1000人分の食材を用意するだけでも大変なことである。

禅宗の精進料理というのは、肉や魚は一切使わずに、野菜や豆腐などすべて植物性の材料でつくるという、禅宗独特のものになっている。というか、こういった精進料理を自分で造るということも、僧侶の修行のひとつになっているのだという。

鎌倉市内には、禅宗の精進料理を扱っている料理店がいくつもあるが、精進料理というと、ごま豆腐、野菜の煮物、湯葉、けんちん汁といったものが多い。

ちなみに、このけんちん汁というのは、その昔、野菜を調理する際に出る、残り屑やむいた皮などを、建長寺の修行僧が、それらと、崩した豆腐を使って作った、建長寺汁がなまって、けんちん汁になったのだという。

それから1000人の修行僧がいたとすると、それらの僧侶が座禅を組む堂宇というのは、そうとう大きな堂宇だったと思われる。

こういうふうに考えると、中世の時代の、建長寺の全盛時代における隆盛というのは、すさまじかったのだろうな、ということが思い浮かばれます。

 

ところでこの建長寺は、鎌倉五山の一位にある寺院なのだが、鎌倉五山・京都五山の「五山」とは、いわば政府がその寺の住職を任命する禅宗の寺院ということであり、これは「官寺」の新しい形ともいえるものだった。実質的な国教と言っても過言ではあるまい。

ただし、この場合、政府というのは、天皇・朝廷ということではなく、幕府である。

この幕府の「五山」の制度は、室町時代に京都五山、鎌倉五山で確定するのだが、禅宗とは言ってもすべてこれは栄西を宗祖とする臨済宗の寺院であって、道元の曹洞宗の寺はひとつもない。

この建長寺も、臨済宗建長寺派の大本山である。

栄西という人は、政治的な能力をもった人だったようで、比叡山延暦寺や奈良の南都六宗が、朝廷の権威に依存していることから、栄西の臨済宗は、新興の鎌倉幕府に近づき、その「国教」になることをめざした。というか、信教の自由がなかったこの当時は、国家公認の宗教にならなければ、寺院・宗派の存続・維持が実質的に不可能だったのである。

建長寺31山門
 

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■鎌倉建長寺1(日蓮と蘭渓道隆)

 

建長寺(けんちょうじ)とは、神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山。正式名称を巨福山(こふくさん)建長興国禅寺(けんちょうこうこくぜんじ)という。

鎌倉時代の建長5年(1253年)の創建で、本尊は地蔵菩薩、開基(創立者)は鎌倉幕府第5代執権北条時頼、開山(初代住職)は南宋の禅僧蘭渓道隆。鎌倉五山の第一位に列せられている。

鎌倉五山(かまくらござん)とは、中国宋(そう)の官寺制に倣って定められた制度で、禅宗の寺格。京都五山に対し、鎌倉にある五つの大禅刹(ぜんさつ)をいう。

鎌倉時代末期頃より幕府が制定した京都と鎌倉の寺院で構成される五山制度が変化して、室町時代に京都の南禅寺を別格上位とする京都五山と鎌倉五山の寺格が固定された。

鎌倉五山の位は、(1)建長寺、(2)円覚寺 (3)寿福寺 (4)浄智寺 (5浄妙寺である。

官寺(かんじ)とは、 律令(りつりょう)制下で、堂塔の造営や修理、僧尼の費用が国家から給付され、国家の監督を受ける寺。個人的に建てられた私寺に対する言葉。

基本的な性格としては、天皇の発願で建てられ、皇室や国家の安泰鎮護の祈願が重んぜられた。古くはほとんどの寺院が官寺であった。国分寺、国分尼寺、勅願寺が官寺である。

中世以後は、幕府がとくに保護帰依(きえ)した禅宗寺院、臨済宗の京都・鎌倉五山、曹洞宗の永平寺・総持寺をさすようになった。これらの寺院は、天皇の勅宣により住持が定められ、「出世道場」ともよばれた。

ところでこの建長寺の開祖・蘭渓道隆に対して、1268(文永5)1011日、日蓮が書状を認めて送っている。いわゆる「十一通御書」のひとつである「建長寺道隆への御状」がそれである。

この中で、日蓮は蘭渓道隆に対して、痛烈に批判を浴びせている。

「念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説と云々」

日蓮得意の「四箇の格言」でジョブを浴びせたあと、蘭渓道隆本人を含めた極楽寺良寛、寿福寺、多宝寺、浄光明寺、長楽寺、大仏殿等の長老たちを「我慢心充満、未得謂為得」の増上慢の大悪人なり」と、痛烈な言葉で、斬って捨てている。

この書状を読んだ蘭渓道隆は、おそらく憤激した事と思われる。

蘭渓道隆は南宋から渡来した禅僧で、13歳で出家し、無準師範、北礀居簡に学んだ後、松源崇岳の法嗣である無明慧性の法を嗣ぐ。1246(寛元4)33歳で、入宋した泉涌寺僧、月翁智鏡との縁により、弟子とともに来日している。

まあ、僧侶の格から言うと、蘭渓道隆と日蓮とでは、それこそ親子、主君と家臣以上の開きがあったのではないか。その日蓮から、ここまで罵られては、蘭渓道隆のプライドが許さなかった事だろう。「何を小癪(こしゃく)な」という感じだったのではないだろうか。

建長寺33山門

 

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■鎌倉極楽寺2(現在の極楽寺)

 

極楽寺の実質的な開祖である忍性が極楽寺に入寺したのは文永4年(1267年)のこととされている(『忍性菩薩行状略頌』)。極楽寺の古絵図を見ると、往時の境内には施薬院、療病院、薬湯寮などの施設があり、医療・福祉施設としての役割も果たしていたことがわかる。

『吾妻鏡』によると、北条重時3回忌法要は、弘長3年(1263年)にこの極楽寺において西山浄土宗の僧侶・宗観房を導師として行われている。このことから、弘長3年の時点では極楽寺は浄土教系の寺院であり、忍性の入寺(文永4年・1267年)によって真言律宗に改宗したとする説がある。しかしながら、寺に伝わる仏具(五鈷鈴)に建長7年(1255年)の年記とともに「極楽律寺」の文字が見えることから、忍性の入寺以前に真言律宗寺院化していたと見る意見もある。

極楽寺は忍性の入寺から10年も経たない建治元年(1275年)に焼失するが、忍性自身によって再建された。最盛期の極楽寺には七堂伽藍に49箇院の子院が立ち並んでいたという。  

忍性の入寺から中世の頃にかけて、まさに極楽寺が最盛期にあったようである。

しかし現在の極楽寺に、最盛期当時の面影を見ることはできない。はたして最盛期には、七堂伽藍に49箇院の子院が立ち並んでいた大寺院だったのだろうか、と思ってしまうほど、今はこじんまりした寺院に見える。

 

資料を調べると、本堂裏(西)には鎌倉市立稲村ヶ崎小学校があるが、ここの校地が往時の極楽寺の中心伽藍のあった場所であるとされている。

小学校の西側のグラウンドのさらに西には極楽寺の奥の院(墓地)があり、忍性塔と呼ばれる大型の五輪塔をはじめ、多くの石塔が立つ。

江戸期に作成された『極楽寺絵図』によれば最盛期には現在の極楽寺から小学校の建つ谷一帯が極楽寺の境内であった。

そして現在江ノ電が走っている極楽寺川沿いの谷にはハンセン病患者など病者・貧者救済の施設があったと思われる。

極楽寺2
 

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■鎌倉極楽寺1(忍性の社会的評価)

 

極楽寺(ごくらくじ)とは、神奈川県鎌倉市極楽寺にある真言律宗の寺院で、正式名称は霊鷲山(りょうじゅさん)極楽寺という。開基(創立者)は北条重時で、開山は忍性(にんしょう)である。

中世には七堂伽藍をはじめ、子院49箇の塔中坊を有する大寺院であったが、度重なる火災や戦乱で伽藍の大半が焼失。現在は、山門や本堂などが、山影にひっそりと建っているのみである。

ここへ来てみると、「あの極楽寺って、こんなに小さい寺院なの」という感じで、ちょっとビックリしてしまうくらいである。

極楽寺の実質的な開祖である忍性が当寺に入寺したのは文永4年(1267年)のこととされている(『忍性菩薩行状略頌』)。

忍性(にんしょう・12171303)とは、鎌倉時代の律宗(真言律宗)の僧で、号は良観という。日蓮が、遺文の中で「極楽寺良観」と呼んでいる人である。

忍性(極楽寺良観)という人は、日蓮宗や日蓮正宗では、日蓮の遺文でポロクソに書かれているからか、大変イメージの悪い人なのであるが、忍性(極楽寺良観)は叡尊に惹かれて再度叡尊の下で授戒して弟子となり、1240年に常施院を設け、ハンセン氏病患者らの救済などの慈善活動、悲田院を改修して非人救済を行うなどの社会事業を行い、この間に律宗布教にも努めた。

悲田院(ひでんいん)は、仏教の慈悲の思想に基づき、貧しい人や孤児を救うために作られた施設のことで、鎌倉時代には忍性(極楽寺良観)が各地に開設した。それ以降、中世は非人の拠点の一つとなったといわれている。

忍性(極楽寺良観)の師の叡尊は民衆への布教を唱えながら、自分には不得手であることを自覚して当時の仏教において一番救われない存在と考えられていた非人救済に専念し、その役割を忍性(極楽寺良観)に託した。忍性(極楽寺良観)は非人救済のみでは、それが却って差別を助長しかねないと考えて非人を含めた全ての階層への救済に尽力した。

日蓮は、遺文の中で、忍性(極楽寺良観)のことを、

「三学に似たる矯賊の聖人なり」「僣聖増上慢にして今生は国賊、来世は那落に堕在せんこと必定せり」(「極楽寺良観への御状」・平成新編御書全集p376)

などと、口を極めてボロクソに非難しているが、他方では、このように、忍性(極楽寺良観)は、中世の時代では、全くといっていいほど見られなかった、社会事業、慈善事業に力を入れており、社会的な評価は、とても高い人なのである。

忍性1


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■園城寺(三井寺)4(閼伽井屋)

 

園城寺(三井寺)の起源についての通説は、概ね次の通りである。

大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。弘文天皇陵はこの園城寺にほど近い所にある。

大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。

「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。

「御井」(みい)の寺の由来になった井戸が「閼伽井屋」(あかいや)とよばれる井戸で、現在、国の重要文化財に指定されている。後に智証大師が園城寺の厳儀・三部灌頂の法水に用いたという。

これは、金堂の西に接して建つ小堂で、慶長5年(1600年)、金堂と同じく北政所によって建立された。堂内には三井寺の名の起こりとなった霊泉が湧出している。

もちろんこの霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたということからして、小堂そのものは北政所によって建立されたものだが、霊泉は天智・天武・持統天皇の御代からあったと考えられる。

閼伽井屋1

 

この園城寺・閼伽井屋以外で、「閼伽」の文字が使われている所は

□閼伽井嶽薬師

福島県いわき市平赤井にある水晶山玉蔵院常福寺(真言宗智山派)。「大師堂・弘法水」という堂宇は、弘法大師を祀り、堂は一大老楓の巨木を擁し放生池にい臨み、その下厳石の凹所より清泉を湧出している。昔弘法大師独鈷を以て岩石を穿ち湧出せしめた霊泉、如何なる大旱にも涸るることなく、毎晨朝本尊薬師如来に供する閼伽水となしているという。

□閼伽井坊塔婆

山口県下松市の八幡宮日本十六塔のひとつで、高さ13m、柿葺屋根の閼伽井坊塔婆(多宝塔)がある。、閼伽井坊は、花岡八幡宮の社坊九か寺の一つで現在は真言宗御室派の寺院。「閼伽」は仏に供える清浄な水をいい、閼伽井とはこれを汲む井戸のことをさす「閼伽」だが、実際に井戸があるのかどうかは定かではない。

□東大寺二月堂 閼伽井屋

鎌倉時代に建立された切妻造の建物で、国の重要文化財に指定されています。霊水の湧く「若狭井」の覆屋である。

□光明寺・閼伽井の水

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■園城寺(三井寺)3(園城寺金堂)

 

天台寺門宗総本山・園城寺は、まがりなりにも天台宗総本山・比叡山延暦寺に対抗して戦争を繰り広げたくらいの寺院だから、さぞや広々とした境内なのかと思っていたら、広いことは広いが、比叡山延暦寺ほどではないという感じ。

しかし江戸時代以前の園城寺の歴史とは、まさに戦乱の歴史とも言うべきもの。

比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し、この園城寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山延暦寺の宗徒による園城寺の焼き討ちは永保元年(1081年)をはじめ、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。

その後、源頼朝、北条政子、鎌倉幕府、室町幕府の庇護を受けたものの、文禄4年(1595年)、園城寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、欠所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられている。

園城寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。これにより園城寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。

当時の園城寺金堂は比叡山延暦寺に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。

慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって園城寺の再興を許可している。秀吉の再興許可を受け、当時の園城寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められ、現在の園城寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものであると言われている。

しかし、これだけ戦乱だの廃寺だのという歴史を繰り返してきたにもかかわらず、園城寺は、仏像、仏画、文書など多くの文化財を伝えている。これが実に、私には不思議に見える。

明治の大火一回で、寺宝の大半を焼失してしまった身延山久遠寺とはえらい違いである。

 

特に金堂本尊の弥勒菩薩像(弥勒如来とも)は、天智天皇の念持仏と伝え、唐からの請来像ともいうが、公開されたことがなく、写真も存在しないため、いかなる像であるかは全くの不明。

金堂は、豊臣秀吉によって強制的に比叡山延暦寺に移築されているのに、なぜ絶対秘仏の弥勒如来像が今日に伝わっているのだろうか、と思う。

この金堂本尊は、園城寺の絶対秘仏として有名だが、他にも

■園城寺 観音堂本尊 如意輪観音坐像(重文)     33年に1度の開扉

■園城寺 智証大師(円珍)坐像(国宝)  「中尊大師」、「御骨大師」の2体あり。中尊大師は1029日の祥忌法要で開扉されるが、御骨大師は開扉なし。特別展などで数回公開されたことがある。

■園城寺 新羅明神坐像(国宝)  特別展などで数回公開されたことがある。

■園城寺 不動明王像(黄不動、絵画、国宝)  厳重な秘仏として知られ、寺では書籍等への写真掲載を厳しく制限している。特別展などで数回公開されたことがある。

園城寺3


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■園城寺(三井寺)2(園城寺長吏)

 

天台寺門宗の総本山・園城寺(三井寺・みいでら)の旅紀行を書いている最中、新しい天台寺門宗管長が決まったというニュースが飛び込んできた。

2010926日付け「読売新聞」によると、総本山園城寺は、天台寺門宗第9代管長に、福家英明(ふけ・えいめい)・園城寺長吏(85)を選んだと発表したとある。

「長吏」(ちょうり)というのは、総本山の長ということで、日蓮正宗総本山大石寺、日蓮宗総本山身延山久遠寺、浄土真宗大谷派総本山・東本願寺などの「法主」、天台宗総本山比叡山延暦寺の「座主」に相当する職である。

つまり、大石寺、久遠寺、本願寺で「法主」と呼んでいる職のことを、園城寺では「長吏」と呼んでいるということ。園城寺では、実質的な開祖・円珍を初代長吏とし、現在は164世長吏・福家英明氏ということである。

 

ところでこの「長吏」という言葉には、ちょっとした意味が込められている。

辞書によれば、もともと「長吏」とは、中国、漢の官制で、600石以上の俸禄の者。地方では200石から400石くらいの役人をさす言葉だったが、これが転じて、日本では、寺の長として、寺務を統轄した役僧を指す言葉になった。特に、勧修寺長吏・園城寺長吏・延暦寺楞厳(りょうごん)院長吏などが有名。他の寺でいう座主(ざす)・検校(けんぎょう)・別当などにあたる言葉として用いられたが、しかし、園城寺・勧修寺では、長吏は別当より上位に置かれていた。

園城寺4

 

つまりこの意味の中には、当然のことながら「園城寺長吏は比叡山延暦寺・天台座主よりも上」という意味がある。「オレのほうが上だぞ」というのは、現代の日蓮正宗法主と創価学会・池田大作の戦争とよく似ている。宗創戦争そっくりの「オレのほうが上だぞ」戦争が、まさにかつては、比叡山延暦寺と園城寺の間で繰り広げられていた。

しかもこれが日蓮の遺文・報恩抄に書いてあるから、何とも皮肉な話である。

「智証の門家園城寺と慈覚の門家叡山と、修羅と悪竜と合戦ひまなし。園城寺をやき叡山をやく。智証大師の本尊慈氏菩薩もやけぬ。慈覚大師の本尊、大講堂もやけぬ。現身に無間地獄を感ぜり。但中堂計りのこれり」(御書全集p10171018)

 

それにしても、もし仮に日蓮が、現代の宗創戦争を見聞したとしたら、かつて自分が報恩抄に書いた延暦寺vs園城寺の戦争そっくりの戦争が、自分の門下で行われていることに、たいそう驚くことだろう。日蓮滅後700年以上経ってから、まさか日蓮を宗祖と仰いでいる宗派で、日蓮が報恩抄に執筆した戦争と、そっくりの抗争が繰り広げられるとは、まさか日蓮も予想していなかったにちがいない。

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■園城寺(三井寺)1(宗教戦争)

 

比叡山延暦寺を下りた私は京阪電車に乗って三井寺駅で下車。天台寺門宗総本山・園城寺に向かった。寺跡調査・取材をいろいろ行う上で、延暦寺に行ったなら、絶対に園城寺に行かなくては、と考えていたポイントである。

日本天台宗の総本山・比叡山延暦寺と並ぶくらいの天台宗のもうひとつの双璧・総本山が園城寺で、長等山園城寺(ながらざん おんじょうじ)。別名を三井寺という。これは「みついじ」ではなく、「みいでら」と読む。

面白いことに、この園城寺のある所も、比叡山延暦寺と同じ滋賀県大津市になる。正式名で言うと、この園城寺は、天台寺門宗の総本山ということになる。

天台寺門宗(てんだいじもんしゅう)とは妙法蓮華経を根本経典とする天台宗のもうひとつの一派で、高祖は中国南北朝時代から隋の時代の天台大師智顗(538年~597年)、宗祖は日本平安時代の第5代天台座主の智証大師円珍(814年~891年)(弘法大師空海の姪の子)。

総本山は園城寺(おんじょうじ)で、天台宗寺門派(じもんは)とも呼ばれる。

伝教大師最澄(767年~822年)が日本へ伝え、最澄が開祖になった日本天台宗の教えは、第3代天台座主円仁と第5代天台座主円珍の2人の巨人の登場により、日本天台宗本山の比叡山延暦寺で2つに分かれてしまう。

比叡山延暦寺は円仁派が占め、円珍派は比叡山を去り園城寺へ入った。これ以来、比叡山延暦寺へ残った円仁派を山門派、園城寺へ入った円珍派を寺門派と呼ぶ。

その後、園城寺の最盛期には、東大寺、興福寺、延暦寺と並ぶ日本の四大箇寺に数えられる寺院として栄えた。

この比叡山延暦寺と園城寺が、古くから抗争以上の戦争を繰り広げてきた。その両者の宗教戦争たるや、1990年代から続く日蓮正宗vs創価学会の「宗創戦争」顔負けの戦争である。

実は、この延暦寺vs園城寺の戦争が、皮肉なことに日蓮の遺文に出てくるのである。それは「報恩抄」と呼ばれている日蓮の遺文で、それには次のように書かれている。

「智証の門家園城寺と慈覚の門家叡山と、修羅と悪竜と合戦ひまなし。園城寺をやき叡山をやく。智証大師の本尊慈氏菩薩もやけぬ。慈覚大師の本尊、大講堂もやけぬ。現身に無間地獄を感ぜり。但中堂計りのこれり」(御書全集10171018)

 

これを読むと、単なる信者の取り合いにとどまらず、寺院焼き討ち等々の物理的な戦争を繰り広げていた。日蓮正宗vs創価学会の「宗創戦争」も、焼き討ちまでは言っていないが、現代の宗教戦争という意味では特筆もの。日蓮の報恩抄の文を読んでいると、これが日蓮正宗vs創価学会の「宗創戦争」とかぶって見えるのは、私だけだろうか。

私が園城寺を訪ねた目的は、日蓮正宗vs創価学会の「宗創戦争」も顔負けの宗教戦争を比叡山延暦寺との間で繰り広げた園城寺を見ると言う意味ではない。

園城寺1
 

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■比叡山延暦寺7(国宝殿)

 

比叡山延暦寺・東塔の境内の中に「比叡山国宝殿」という建物がある。

比叡山延暦寺では、伝教大師最澄の直筆の書物をはじめ、仏像、仏画、書跡、美術工芸品等々、数多くの国宝やら重要文化財やらを所有しているとのことだが、そのうちの63点の国宝、重要文化財、寺宝等数百点の中から選んで展示している所ということである。

まあ、私からすると、比叡山延暦寺の中にある博物館みたいなところかな、という印象。

450円の拝観料を支払って中に入ると、それこそ仏像やら、仏画やら、さまざまな書跡やら、さらには比叡山延暦寺の年表やらまでが所狭しと展示されていた。この年表は、なかなか詳しく書かれていて、私も興味深かったので、早速、手帳にメモをとっていた。

そうすると、国宝殿の入り口にいた係の中年女性が、かなり怪訝な表情を浮かべながら、私のそばへつかつかと歩み寄ってきて

「こんなに近くでメモをとってもらっては困ります」と苦言。

「メモをとるな」とは言わなかったが、あたかもメモは困るとの態度に見えた。

 

私だって、ただ比叡山延暦寺まで来たのではない。寺跡調査・取材のために来ているので、「メモをとるな」と言われて、そのまんま変えるわけにはいかない。

ああそうですか。ならば質問させていただきましょう、と思い、入り口の係の女性に、延暦寺のことについて、いろいろと質問をした。

するとその女性は、わからないと言いだし、「私は専門家ではありませんので」と言い訳しながら、受付の奥にいた延暦寺の僧侶に聞きに行った。

そうすると今度は、奥から黒い僧衣を着た若い僧侶が出てきて

「そういうことは、○○に行って聞けばいいでしょう」

と、この返事。

また、質問者をただの「たらい回し」にしようという、不誠実な返事。こういう返事は、あっちこっちの閉鎖的寺院で、いやというほど聞かされてきた私。

今度の国宝殿にいた僧侶の返事にちょっとカチンときた私は、

「そういう言い方はないだろう。せっかく質問しているのに、比叡山の中をたらい回しにするつもりですか」

と、僧侶と係の女性に抗議をした。

そうすると、この係の中年女性は

「おたく様は、どういうお方でしょうか」と私に逆質問。

私は「実はサイトを主宰している者なのですが…」と、こう言ったとたん、係の女性の態度がガラリと急変。うってかわって急に愛想がよくなり

「あーそうですかあ。サイトを運営していらっしゃる方は、いろいろとお詳しいですからねー」

などと、急に私をヨイショしはじめたのである。

比叡山国宝殿2


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■比叡山延暦寺6(戒壇院)

 

比叡山延暦寺に行ったからには、弘仁13(822) 、伝教大師最澄の死後7日目にしてようやく許可された大乗戒壇を一目見ておく必要があった。

延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者・伝教大師・最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教・南都六宗から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようにしようということである。

当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかった。

最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。その伝教大師・最澄の宿願であった大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく朝廷から許可されたものであった。

この戒壇院は、延宝6年(1678年)の再建の建物というえことだが、それ以上の詳しいことはわからない。というか、この戒壇院は、伝教大師・最澄が生涯をかけた宿願である建物なのに、どういうわけか、比叡山延暦寺・比叡山振興会議が発行している公式パンフレット「比叡山」には、一言も紹介されていないのである。戒壇院は、観光資源としての価値がないと目されているのか。

 

そういうこともあってか、私は、最初に比叡山延暦寺に行ったときは、てっきり戒壇院=根本中堂と勘違いしていたくらいだった。その後、ある人と話した折に、比叡山延暦寺の根本中堂と戒壇院は別個の建物であることがわかり、二度目、三度目にここを訪れたときは、両者を混同しなくなったという次第。

それともう一つ、この戒壇院は、伝教大師・最澄が生涯をかけた宿願である建物というわりには、そんなに大きな建物ではない。むしろ根本中堂のほうが二倍、三倍以上、大きな建物である。

しかも表の扉は固く閉められていて、中の様子を伺い知ることはできない。なんとも閉鎖的な建物で、こういうのは、あまりいい印象を人に与えないでしょうね。

見ていると、日蓮正宗や創価学会のような閉鎖的でダーティなイメージがかぶって見えてしまう。

まあ、もっとも比叡山延暦寺は、室町・戦国時代に、何度も焼き討ちにあっているから、再建されたときに規模が小さくなってしまったのかもしれないが、私としては、見た感じ、期待とは裏腹に、いささか拍子抜けした印象を持ちました。

延暦寺3戒壇3
 

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■比叡山延暦寺5(大講堂)

 

比叡山延暦寺の見所は、根本中堂の他にもいろいろあるが、そのうちのひとつが大講堂である。

大講堂という所は、僧侶が法華経の講義を聞いたり、お互いに問答して、勉強する学問修行の場という意味らしい。

延暦寺の大講堂は、根本中堂のほぼ隣に位置している。今の延暦寺・大講堂は、寛永11年(1634年)の建築の建物で、もとは東麓・坂本の東照宮の讃仏堂であったものを1964年に「大講堂」として移築したものである。なぜこんなことをしたのかというと、重要文化財だった旧大講堂は1956(昭和31)年に火災で焼失しているからである。

ちょうどこのころ、日蓮正宗大石寺では、創価学会二代会長・戸田城聖の寄進で「大講堂」が建設中であった。日蓮正宗や創価学会では比叡山延暦寺大講堂炎上焼失のニュースを聞いて

「これは迹門の大講堂(延暦寺)が滅びて、本門の大講堂(大石寺)が勃興する奇瑞だ」

などと言って、躍り上がって大喜びしていたというから、全くあきれてしまう。

いくら他山・他宗のこととはいえ、寺院・伽藍の火災を大喜びするなどという非常識な振る舞いがどこにあろうか。

 

比叡山延暦寺・大講堂の本尊は大日如来ということだが、私にはよくわからなかった。というか、「天台宗なのに、なんで本尊が大日如来?」というきわめて初歩的な疑問が沸いてしまう。

しかも根本中堂の本尊が薬師如来で、なんで大講堂が大日如来?という疑問も沸いてくる。

まあ、私としては、天台宗の教義にまで、さほど深い関心がないので、それ以上、深追いはしなかったのだが、私には、別のことで目を引いたことがあった。

 

本尊の両脇には向かって左から日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍の像が安置されていて、これらの僧はいずれも若い頃延暦寺で修行した高僧。これらの像は関係各宗派から寄進されたものであるという。堂内を見渡してみると、木像とは別に、これらの高僧たちの大きな肖像画も掲示されていた。

私がさらに興味を引いたのは、大講堂の本尊に向かって右側で、僧侶の唱導により大勢の信者による読経・法要が始まったこと。

「何の法要なんだろうか」と興味津々にその様子を見ていたが、見ていて、どうも天台宗の信者には見えなかった。そうこうしているうちに、この法要で信者たちが何と「南無妙法蓮華経」を唱えだしたのである。「あれれれれ、日蓮宗?」という感じ。

どうやら、日蓮宗のどこかの寺の信者が、住職の引率で比叡山延暦寺に団体参拝し、大講堂の日蓮の木像の前で法要を営んでいたということのよう。

延暦寺6大講堂2
 

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■比叡山延暦寺4(不滅の法灯)

 

比叡山延暦寺・根本中堂で、観光客にいろいろと説明していた尼僧が

「足利義教・織田信長の焼き討ちでも『不滅の法灯』は消えなかった」

と言っていた内容は、明らかにおかしい。足利義教・織田信長の焼き討ちで、少なくとも比叡山延暦寺の根本中堂は全焼しているのに、「不滅の法灯」が消えなかったわけがないではないか。

あまりにも疑問に思ったので、私も帰宅してたから、少々調べてみた。

するとインターネット・フリー百科事典・wikipediaの「延暦寺」の項目には、次のように書いてある。

「本尊厨子前の釣灯篭に灯るのが、最澄の時代から続く「不滅の法灯」である。この法灯は信長の焼き討ちで一時途絶えたが、山形県の立石寺に分灯されていたものを移して現在に伝わっている」

根本中堂2

 

どこからどう調べたのか、わからないが、今の比叡山延暦寺・根本中堂の「不滅の法灯」は、山形県の立石寺に分灯されていたものを移して、今に伝わっていると書いてある。

やはり、織田信長の焼き討ちで「不滅の法灯」は途絶えたことを認めている。私は、山形県の立石寺にも「旅紀行」で訪れたことがあったが、この根本中堂の「不滅の法灯」が分灯されていたとは、全く知らなかった。

そこでインターネット・フリー百科事典・wikipediaの「立石寺」の項目には、次のように書いてある。

「大永元年(1521年)、寺は天童頼長の兵火を受けて一山焼失した。天童頼長は斯波兼頼の孫の斯波(天童)頼直を祖とする天童家の末裔である。永正17年(1520年)、頼長は山形盆地に進出した伊達稙宗と戦うが、この際立石寺が伊達側に加勢したために、頼長の怒りを買い、翌年焼き討ちを受けたものである。なお、現存する立石寺中堂は後世の改造が多いものの室町時代中期の建物とされている。焼き討ちの際に、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消滅し、再度、分燈することとなるが、1571年の比叡山焼き討ち後の再建時には、立石寺側から逆に分燈されることとなった。」

 

つまり立石寺も何度も焼き討ちの被害に遭っており、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消滅して、再度、分燈されたのだが、織田信長の比叡山延暦寺焼き討ちのさいには、逆に立石寺の法灯が延暦寺に分灯されたとしている。

やはり、織田信長の比叡山延暦寺焼き討ちで、「不滅の法灯」は消えてしまったが、その後、立石寺の分灯が「分灯」されたわけですね。

それならそれで、そういうふうに尼僧も説明すればいいのに、なぜ虚勢を張って「比叡山延暦寺焼き討ちでも「不滅の法灯」は消えなかった」などとウソを言うのだろうか。

こういうところは、比叡山延暦寺に限らず、日本仏教界の悪しき体質なのかもしれない。

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■比叡山延暦寺3(根本中堂)

 

根本中堂というのは、天台宗総本山・比叡山延暦寺の総本堂であり、東塔にある。延暦寺の根本中堂(国宝)は、伝教大師最澄が建立した一乗止観院の後身になる。東塔の中心となる根本中堂は、延暦7年(788)に伝教大師最澄がこの地に草庵を結んだ場所とされる。

とは言っても、私なんかは、はじめて比叡山延暦寺を訪ね歩くまで、延暦寺の本堂とは戒壇のことだと勘違いしていたくらいで、延暦寺に行って、はじめて比叡山延暦寺の総本堂=根本中堂だと知ったくらいでした。

比叡山坂本からケーブルカーで比叡山に登っていくと、東塔に到着するので、ケーブルカーの駅から根本中堂までは、そんなに離れてはいない。

根本中堂の入り口からは回廊を歩いていき、伝教大師最澄自作の薬師如来が祀られている根本中堂に入っていく。回廊には、延暦寺のあちらこちらの伽藍、修行僧の様子などを写した写真が展示されている。

ここにはけっこう観光客が来ていて、根本中堂の中は、信者と言うより、観光客であふれかえっているという感じ。私を含めた観光客に対して、延暦寺の尼僧がいろいろ細かく説明してくれる。

根本中堂中央の厨子には最澄自作の伝承がある薬師如来立像が祀られているが、しかしこの本尊は秘仏になっていて、普段は公開されておらず、参拝客が根本中堂で目にする薬師如来像は、仏師が彫刻した「前立」本尊ということである

秘仏になっている最澄自作の薬師如来立像は、延暦寺開創1,200年記念の1988年、その後、2000年、2006年に開扉されたことがあるというなぜこのときに開扉されたかというと、天皇陛下が比叡山延暦寺に御親拝になられたので、秘仏の薬師如来像を開扉したのだという。

つまり天皇陛下の御親拝といった特別なことでもない限り、秘仏の開扉はなされないのだという。

せっかくなので、私も尼僧にいろいろと質問をした。

秘仏になっている最澄自作の薬師如来立像と、参拝者が目にすることができる仏師彫刻の「前立」本尊である薬師如来立像は、全く同じ造りになっているのかどうか、ということだが、尼僧の話によると、これが「全く同じではない」という。

これはどういうことかというと、仏師というのは、いわば「彫刻のプロ」なので、いろいろ細かいところまで、微に細に彫り込んであるが、伝教大師最澄という人は、彫刻のプロではないので、最澄自作の薬師如来立像は、きわめてオーソドックスな造りになっているという。

なるほど。しかし、はるばる比叡山延暦寺の根本中堂まで行って、秘仏・最澄自作の薬師如来立像にお目にかかることができないというのは、まことに残念という意外にない。

根本中堂2
 

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■比叡山延暦寺2(256世の歴代天台座主)

 

比叡山延暦寺は、日本天台宗の総本山寺院で、住職(貫主)は天台座主(てんだいざす)と呼ばれ、末寺を統括する。現天台座主は256世半田孝淳座主。

 

宗祖 最澄 義真(初世、修禪大師) 圓澄(第2世。寂光大師) 圓仁(第3世。慈覚大師)

天台座主3


安慧(第4世) 圓珍(第5世。智證大師) 惟首(第6世) 猷憲(第7世) 康済(第8世)

長意(第9世) 増命(第10世) 良勇(第11世) 玄鑑(第12世) 尊意(第13世) 義海(第14世)

延昌(第15世。慈念僧正) 鎮朝(第16世) 喜慶(第17世) 良源(第18世。慈恵大師。元三大師)

尋禅(第19世。慈忍和尚) 余慶(第20世。観音院僧正) 陽生 (僧侶)(第21世) 暹賀(第22世)

覚慶(第23世) 慶円(第24世) 明救(第25世) 院源(第26世) 慶命(第27世)

教円(第28世) 明尊(第29世) 源心(第30世) 源泉(第31世) 明快(第32世)

勝範(第33世) 覚円(第34世) 覚尋(第35世) 良真(第36世) 仁覚(第37世)

慶朝(第38世) 増誉(第39世) 仁源(第40世) 賢暹(第41世) 仁豪(第42世)

寛慶(第43世) 行尊(第44世) 仁実(第45世) 忠尋(第46世) 覚猷(第47世鳥獣戯画)

行玄(第48世) 最雲法親王(第49世) 覚忠(第50世) 重愉(第51世) 快修(第5254世)

俊円(第53世)明雲(第5557世)覚快法親王(第56世) 俊堯(第58世) 全玄(第59世)

公顕(第60世) 顕真(第61世) 慈圓(第62656971世『愚管抄』で知られる)

承仁法親王(第63世) 弁雅(第64世) 慈円 (第65世)實全(第66世) 眞性(第67世)

承円(第6872世) 公円(第70世) 円基(第73世。尊卑分脈によれば第74世)

尊性法親王(第7476世) 良快(第75世) 慈源(第7779世) 慈賢(第78世)

道覚法親王(第80世) 尊覚法親王(第81世) 尊助法親王(第82世。第859195世)

再仁法親王(第83世) 澄覚法親王(第8487世) 慈禅(第86世)

道玄(第88102世) 公豪(第89世) 再源(第90世) 再助法親王(第92世)

慈實(第93世) 慈助法親王(第9496世) 源恵(第97世) 慈基(第98世)

尊教(第99世) 良助法親王(第100世) 道潤(第101世) 覚雲法親王(第103107世)

公什(第104世) 慈道法親王(第105111115世) 仁澄法親王(第106世)

慈勝(第108世) 親源(第109世) 澄助(第110世) 性守(第112世) 承覚法親王(第113世)

承鎮法親王(第114世) 尊雲法親王(第116118世。後醍醐天皇皇子。還俗して護良親王)

桓守(第117世) 慈厳(第119132世) 尊澄法親王(第120123世。後醍醐天皇皇子)

尊圓法親王(第121126131133世。青蓮院流(御家流)を創始) 尊胤法親王(第122124世)

性慧(第125世) 祐助法親王(第127世) 承胤法親王(第128136139世)

亮性法親王(第129世) 尊道法親王(第134138145世) 桓豪(第135137世)

慈済(第140世) 道圓法親王(第141世) 堯仁法親王(第142149世)



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■比叡山延暦寺1(最澄以来約1200年の歴史)

 

比叡山延暦寺というと、京都にあるというイメージがあるのだが、実際は滋賀県大津市になる。ここは標高848mの比叡山全域を境内としている大寺院で、境内は東塔、西塔、横川と三つに大きく分けられ、延暦寺の総本堂にあたる根本中堂は東塔にある。

これら東塔、西塔、横川を総称して「三塔」と言い、さらに細分して「三塔十六谷二別所」と呼称している。このほか、滋賀県側の山麓の坂本地区には本坊の滋賀院、「里坊」と呼ばれる子院群、比叡山とは関係の深い日吉大社などがある。

比叡山延暦寺の創建は延暦7年(788年)。今年2010年で開創1222年になる。有名な大乗戒壇勅許は伝教大師最澄入滅の7日後の822年(弘仁13年)7月だから、これから数えても1188年になる。

比叡山延暦寺は、日本天台宗の総本山寺院で、住職(貫主)は天台座主(てんだいざす)と呼ばれ、末寺を統括する。現天台座主は256世半田孝淳座主。ハンパじゃなく歴史が長い。

 

ただし歴史が長いとは言っても、永享7年(1435年)、延暦寺武力制圧に失敗していた室町幕府6代将軍・足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難したが、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺した。

このときに円珍以来の本尊もほぼ全てが焼失している。宝徳2年(1450年)516日に、わずかに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中堂に配置している。

根本中堂4


さらに元亀2年(1571年)、延暦寺の僧兵四千人が強大な武力と権力を持つ僧による仏教政治腐敗で戦国統一の障害になるとみた織田信長は、延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて912日、延暦寺を取り囲み焼き討ちにした。これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害されている。

しかし、1200年という歴史の長さが評価されたのか、1994年(平成6年)、延暦寺は「古都京都の文化財」の一環としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。

私は、調査・取材のために何度かここを訪れていまして、京都から車で登っていったこともありますし、比叡山坂本から比叡山鉄道線ロープウェイで登っていったこともあります。

境内はあまりにも広すぎるくらい広いので、とても1日や2日では、廻りきれません。しかも山の中に寺院・伽藍が建てられているため、坂道がとても多く、歩いているとなかなか疲れます。

 

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■奈良法隆寺8(未公開の寺宝)

 

□塔頭の塀に落書きを消した痕跡があった世界遺産の寺院・法隆寺

 

私が、法隆寺の案内役員にいろいろ質問して得た回答の中に

「法隆寺は創建以来、1300年以上有るため、現在公開されている寺宝・重宝の他にも、倉庫・宝蔵の中には、まだ未公開の寺宝・重宝・古文書が眠ったままになって保管されている」

というものがある。

どこに格蔵・保管されているかというと、法隆寺の中の「大宝蔵院」「工芸収蔵庫」「収蔵庫」「北倉」「中倉」「南倉」という堂宇に保管されているというわけである。

この中でも、「大宝蔵院」は、中で見学できるようになっていて、国宝中の国宝と言われる百済観音立像や飛鳥時代の工芸の枠を集めた玉虫厨子などが、間近で見学できるようになっている。

 

百済観音(くだらかんのん)とは、法隆寺が所蔵する飛鳥時代作の木造の観音菩薩像。日本の国宝に指定され、指定名称は「木造観音菩薩立像(百済観音)1躯」。

日本における木造仏像彫刻の古例として貴重であるとともに、大正時代以降、和辻哲郎の『古寺巡礼』、亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』などの書物で紹介され著名になった。

 

ただし、この百済観音は、法隆寺の古い記録にはこの像に当たるものが見えないことや、作風の違いから、造像当初から法隆寺にあったものではなく、後世、他の寺院から移されたものと思われる。いつ、どこの寺院から、いかなる事情により移されたかについては諸説あるが、正確なことは不明。

この百済観音は、現在は法隆寺大宝蔵院の百済観音堂に安置されているが、明治時代初期には金堂の北面に安置され、明治時代後期~昭和時代初期には奈良帝室博物館(現奈良国立博物館)に寄託されていた。

もっとも百済観音が、元から法隆寺にあったなら、これが金堂の中心本尊になっていただろうが、そうなっていないことからして、後世、他の寺院から移されたものとする説は説得力があります。

法隆寺の実質的な中心本尊は、夢殿の救世観音立像。

法隆寺は、聖徳太子が創建した寺であり、救世観音=聖徳太子として夢殿の救世観音立像が造立されたとなれば、当然、そうなるのでしょう。

法隆寺17東大門
 

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■奈良法隆寺7(法隆寺案内役員)

 

「仏教宗学研究会」の取材で、法隆寺を訪れた時も、聖徳宗宗務院のみならず、案内役員の方からも、さまざまな話を聞くことができた。案内役員の方は、法隆寺の半被を着た初老の男性だったが、この人もなかなかの勉学家のようで、知識豊富な方であった。

どこでもそうだが、仏教寺院という所は、おしなべて敷居の高いところが多く、僧侶に質問しても、なかなか答えてくれなかったり、実に不親切な答えしか返ってこなかったりしがちだが、この案内役員の初老の男性は、私の質問に対しても、実に親切に答えてくれた。

 

□法隆寺は創建以来、1300年以上有るため、現在公開されている寺宝・重宝の他にも、倉庫・宝蔵の中には、まだ未公開の寺宝・重宝・古文書が眠ったままになって保管されている。

そうでなければ、これだけの寺宝・重宝を今日まで伝承することは不可能だっただろう。

 

□法隆寺もその昔は、南都六宗・天台・真言の「八宗兼学」の寺院の一つであり、今でいう「大学」の機能を兼ね備えていた。そういうことから全国各地の僧侶が法隆寺に修学に来ていた。

 

□明治時代、フェノロサと岡倉天心が開扉させた救世観音立像は、数百年の間、絶対秘仏であったため、当時の法隆寺の僧侶すらも見たことがなかった立像だった。

 

□聖徳太子の等身大の立像は夢殿本尊の「救世観音像」のみ。

 

やはりここでの最大の関心事は、聖徳太子の等身大に造立されたという救世観音像である。

救世観音1


そもそも「等身大の仏像」そのものが、仏教界では実に珍しい存在なのである。

仏典には、釈迦牟尼の身長は、一般人の数倍あると書かれているため、日本では、平安時代の頃まで、16(4.8m)を釈迦如来立像の身長の基準としており、これを「丈六」(じょうろく)と呼んでいた。

これは立像の場合で、坐像だと16(4.8m)から座高を割り出して9(2.7m)となる。

ところがこれが鎌倉時代に入ると、仏像の発注主が天皇・貴族・公家から武家に移り、天皇・貴族・公家ほど財政的な余裕がない武士たちは、コスト削減のために丈六の基準よりも小さいサイズの仏像を求めるようになった。

こうして坐像で1.6m前後の仏像が造られるようになり、さらに江戸時代になると、坐像で60センチ前後の、さらに小型の仏像が主流になったというわけである。

 

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■奈良法隆寺6(西園院客殿)

 

□本坊・西園院の「客殿」を法隆寺から輸入した大石寺9世日有

 

法隆寺の境内をいろいろと見学し、調べていくと、さまざまな注目すべきものに出くわす。

最も私が注目したのは夢殿本尊である救世観音立像であるが、他にも注目したものがある。

そのひとつが「西園院客殿」である。

西園院は法隆寺の本坊(住職の居所)であり、南大門を入って左側、築地塀の内側にある。

 

客殿とは、元々は貴族の屋敷や寺院などで客を応対するために造った殿舎のことで、、いわば京都・奈良の貴族文化を象徴するもの。客殿という殿舎のある寺院は、京都、奈良周辺ではけっこう見られ、天台寺門宗総本山・園城寺(勧学院客殿・光浄院客殿)、教王護国寺(東寺)、真言宗大覚寺派の寺院・西明寺、臨済宗天龍寺派の寺院・臨川寺…といったものがある。

園城寺勧学院客殿は、慶長5(1600)の建立。桃山時代の書院造建築の代表作とされる。

光浄院客殿は、勧学院客殿より1年後の慶長6(1601)建立で、規模、意匠など勧学院客殿と似ている。

妙心寺霊雲院客殿は、1688-04年の元禄期とされている。

教王護国寺の観智院客殿 は、慶長11年(1606年)の建立。

西明寺客殿は、本堂より古く、江戸時代前期に移築された。当時は食堂と称し、僧侶の生活や戒律の道場として使用された。

臨川寺 客殿は、1620(元和5年)の建立。

大覚寺客殿は、1596-15年の慶長期のこととされている。

 

これに対して、日蓮正宗大石寺の客殿は、1465(寛正6)3月に大石寺9世法主日有が建立したわけだから、大石寺の客殿のほうが、京都仏教寺院の客殿より先に建立されたことになる。

この中で、法隆寺の西園院客殿に注目したのは、

1 法隆寺がこれらの寺院の中でもっとも創建が古いこと。

2 その法隆寺の塔頭院の中に「客殿」という名前の堂宇があること

である。

そこで法隆寺の西園院客殿がいつ創建されたかをしろうと思い、法隆寺の案内役員に聞いたところ、「聖徳宗の宗務院へ行って聞いてくれ」と言われたので、早速、法隆寺境内にある宗務院へと足を運んだ。宗務院は、その西園院のとなりにある。

法隆寺19
 

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■奈良法隆寺5(化儀を輸入した日有2)

 

□日蓮の聖徳太子崇拝、伝教大師最澄崇拝思想の影響を受けていた大石寺9世日有

 

それではなぜ、日蓮正宗大石寺9世法主日有は、法隆寺本尊や延暦寺本尊をモデルに「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作したのか。それは、日蓮在世の時代から、日蓮一門には、聖徳太子崇拝、伝教大師最澄崇拝の思想があるからだ。それは日蓮の遺文(御書)に明らかである。

 

「南岳大師 観音の化身なり道宣の感通伝に出づ 六根浄の人日本の上宮太子是なり」

「天台大師 日本に伝教大師と生まる」(御書全集p1093)

「聖徳太子は用明の御子なり…南岳大師の後身なり 救世観音の垂迹なり」(御書全集p1098)

「伝教大師 …天台の後身なり」(御書全集p1100)

 

これは日蓮の遺文(御書)「和漢王代記」の記述で、これは日蓮真筆が、大石寺の近所にある富士門流本山寺院・西山本門寺に格蔵されている。日有の時代、大石寺と西山本門寺は交流があり、この遺文(御書)は大石寺9世日有も目にしていたはずである。

こういった日蓮一門の聖徳太子崇拝、伝教大師最澄崇拝思想からすれば、法隆寺本尊、延暦寺本尊をモデルにすることは、必然的に起こったことと言えよう。

 

そもそも大石寺9世日有は、「戒壇の大本尊」なる板本尊を、日蓮に見立てて、「戒壇の大本尊」=日蓮=本仏という教義まで発明し、人間の等身大に造立した板本尊である。

等身大に造立された秘仏本尊として、あまりにも有名なのが、世界最古の木造建築寺院・法隆寺の夢殿の本尊である救世観音立像。この救世観音立像は、623(推古31)年、聖徳太子入滅の翌年に造立されたと伝承されている仏像で、737(天平9)に、夢殿本尊として祀られている。

それが1884(明治17)年、諸堂並びに古書画調査のためにやってきたアメリカ人フェノロサ、ビゲロー、岡倉天心らが法隆寺に来寺し、彼等の要求により絶対秘仏だった救世観音像が数百年ぶに開扉されたことは、あまりにも有名である。

このとき、フェノロサと岡倉天心は、仏罰が下るとおそれる法隆寺の僧侶たちを説得して、無理矢理に開扉せしめ、救世観音立像との対面を果たし、その美を世に伝えた。

救世観音1

 



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■奈良法隆寺4(化儀を輸入した日有)

 

□板本尊(板位牌・寺位牌)・秘仏・等身大の本尊は京都・奈良仏教界の化儀だ

 

もちろん日蓮正宗大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊は、文字漫荼羅であり、法隆寺夢殿本尊・救世観音立像は、仏像だから、そこは大きく相違しているが、その他の側面を見ると、共通性が多多あるわけである。もちろん、共通性があるのは、救世観音立像だけではない。日蓮正宗大石寺9世法主日有は、何をモデルにして「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作したのか、共通性があるものを、まとめてみた。

 

□板本尊

 

13世紀のころ、栄西、道元が中国から日本に伝えた禅宗とともに、中国から日本に伝来した位牌。その位牌の中でも、特に板位牌。寺位牌。

位牌堂2総持寺祖院


 

□秘仏

 

■延暦寺 根本中堂本尊 薬師如来立像 

延暦寺の根本中堂(国宝)は、伝教大師最澄が建立した一乗止観院の後身。中央の厨子には最澄自作の伝承がある秘仏・薬師如来立像を祀っているが秘仏になっていて、前に「前立」本尊の薬師如来像が祀られている。

日蓮自作を詐称する秘仏・「戒壇の大本尊」の最大のモデルは、伝教大師最澄が自作したと伝承されている根本中堂本尊である薬師如来立像である。

■園城寺 本尊 弥勒菩薩像 

金堂本尊の弥勒菩薩像(弥勒如来とも)は、天智天皇の念持仏と伝え、唐からの請来像ともいうが、絶対の秘仏で公開されたことがなく、写真も存在しない。

■園城寺 観音堂本尊 如意輪観音坐像(重文)     33年に1度の開扉

■園城寺 智証大師(円珍)坐像(国宝)  「中尊大師」、「御骨大師」の2体あり。中尊大師は1029日の祥忌法要で開扉されるが、御骨大師は開扉なし。特別展などで数回公開されたことがある。

■園城寺 新羅明神坐像(国宝)  特別展などで数回公開されたことがある。

■園城寺 不動明王像(黄不動、絵画、国宝)  厳重な秘仏として知られ、寺では書籍等への写真掲載を厳しく制限している。特別展などで数回公開されたことがある。

■法隆寺 夢殿本尊 救世観音 

聖徳太子の等身像とされる。約数百年の長年秘仏であり、白布に包まれていた像で、明治初期に岡倉天心とフェノロサが初めて白布を取り、「発見」した像とされている。現在も春・秋の一定期間しか開扉されない秘仏である。

救世観音1


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■奈良法隆寺3(夢殿本尊・救世観音立像)

 

1884(明治17)8月にフェノロサ、岡倉天心らによって始めて開扉された救世観音立像

 

法隆寺のもうひとつのメインは、聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立されたと伝承されている東院伽藍である。東院伽藍の回廊で囲まれた真ん中に八角円堂の夢殿が建っている。ここが東院伽藍の中心である。

夢殿とは、上宮王院とも呼ばれ、ここは行信僧都が聖徳太子の遺徳を偲んで奈良時代の天平11(739)年に建立した日本最古の八角円堂。堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像や奈良時代の肖像彫刻の傑作とされている行信僧都像などを安置している。

 

この夢殿に安置されているのが、あまりにも有名な国宝の救世観音像である。これが夢殿の本尊であり、1300年以上もの長い間絶対秘仏で、現在も春と秋の決められた期間しか開扉されない秘仏である。

法隆寺の公式文献に依れば、聖徳太子が死去した622(推古30)年の翌年、623(推古31)年ころ、救世観音像が造立されたとしている。(法隆寺発行『救世観音』年表より)

つまり飛鳥時代に造立された像であるわけで、造立から1380年以上経っていることになる。

ちなみに、この法隆寺発行の公式文献は、法隆寺の売店のみで販売されているもので、東京の書店には並んでいない。

この救世観音像は、像高が約179センチ。聖徳太子の等身大の像と伝承されている。どういうことかというと、聖徳太子・救世観音後身説、つまり救世観音=聖徳太子という思想から、まさに聖徳太子そのものの像として、聖徳太子の等身大に造立されたというわけである。

救世観音1

 

この救世観音像は長年、絶対秘仏として夢殿の中央厨子の中に格蔵されたままになっていたのだが、1884(明治17)8月、法隆寺諸堂と古書画調査のためにアメリカ人のフェノロサ、ビゲロー、岡倉天心らが法隆寺に来訪し、この調査の中で、フェノロサ、岡倉天心が「仏罰で地震が起きる」と開扉を拒否していた法隆寺僧侶を説得し、救世観音像を開扉せしめた話は、あまりにも有名である。

623(推古31)年の造立から1884(明治17)年まで一度も開扉されなかったのか、その間に何度か開扉されたのか、については諸説有るが、絶対秘仏に近い像だったことは間違いない。

今でも、この救世観音像は秘仏であり、411日~518日と1022日~1123日のみ開扉される秘仏である。

 

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■奈良法隆寺2(金堂・本堂・院号)

 

□塔頭の名前が京都大寺院と同じ「○○院」の院号になっている奈良法隆寺

 

法隆寺に行くには、近鉄奈良駅前バスターミナルから、奈良交通バスの法隆寺前行きで約1時間。終点で下車するか、ないしは、JR奈良駅からJR大和路線に乗り約11JR法隆寺前駅で下車。

さらに法隆寺駅前から奈良交通バスの法隆寺門前行きに乗って約10分。終点下車というコースがあるが、私はJR線を利用するコースで行きました。

 

法隆寺の入り口は、「南大門」になっていて、ここから境内に入っていく。

ここからまっすぐ一直線に歩いて行くと、法隆寺の塔中をぬけて西院にたどり着く。

法隆寺の塔中は、中院、宝珠院、西園院、弥勒院、実相院、普門院、福園院、福生院、北室院、というふうに「○○院」という名前になっていて、これは東大寺塔頭、園城寺塔頭、延暦寺里坊から京都の各仏教大寺院の塔頭の多くが「○○院」という名前になっている。

京都にある富士門流本山・要法寺(現・日蓮本宗本山)で、こちらの塔頭は真如院・本行院・本地院・妙種院・顕壽院・法性院・信行院・実成院というふうに、「○○院」となっていて、法隆寺、東大寺、園城寺、延暦寺風の名前になっている。

これに対して、日蓮宗総本山身延山久遠寺、日蓮正宗大石寺、冨士妙蓮寺、讃岐本門寺、北山本門寺、西山本門寺、岡宮光長寺等々の塔中(塔頭)は、「○○坊」になっている。

これが関東の池上本門寺になると院号・寺号の混合になる。

 

西院の正面には中門があるが、ここからは入れず、向かって左側の拝観入り口から入る。

中門から向かって右に金堂、左に五重塔があり、これらを平面「凸」字形の回廊が囲んでいる。中門の左右から伸びた回廊は北側に建つ大講堂の左右に接している。

金堂、五重塔、中門、回廊は聖徳太子在世時のものではなく7世紀後半頃の再建ということであるが、7世紀後半頃の再建であっても、これが世界最古の木造建造物群であることは間違いないということである。

 

金堂というのは、法隆寺の「本堂」ということで、「本堂」のことを、法相宗、華厳宗や真言宗あたりでは「金堂」というが、「金堂」という言葉そのものは飛鳥時代から平安時代前半にかけての古代創建の寺院で多く使われている。

法隆寺西院の金堂が、まさに法隆寺の「本堂」で、金堂は、東院にはなく、ここだけである。

法隆寺の場合、「金堂」と「本堂」を独特の使い分けをしていて、法隆寺の「金堂」に対して、塔頭の中院、宝珠院、北室院、宗源寺、中宮寺に「本堂」がある。

つまり塔頭では「本堂」、法隆寺の本堂は「金堂」という使い分けをしているようである。

法隆寺22金堂
 

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■奈良法隆寺1(ユネスコの世界遺産)

 

□推古天皇15年に日本仏教興隆の祖である聖徳太子が創建した奈良・法隆寺

 

奈良・法隆寺とは、現存する世界最古の木造建築物群で、法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたことで有名な、あの法隆寺である。

別名を斑鳩寺(いかるがでら)というらしいが、ここの町を斑鳩町(いかるがちょう)という。

創建は推古天皇15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約187千平方メートルある。境内を歩くと、なかなか広く感じる。

法隆寺は聖徳太子ゆかりの寺院で、法隆寺は、「日本仏教興隆の祖である聖徳太子が創建した寺院である」とするのが、一般的・常識的理解、いわゆる通説である。

20世紀末頃からは「聖徳太子は実在しなかった」とする言説、いわゆる「聖徳太子架空人物説」が盛んに言われるようになっているが、これには反論も出されている。

『聖徳太子の誕生』の著者である大山誠一は、超人的人物として信仰の対象となっている「聖徳太子」は架空の存在だとしながらも、「聖徳太子」のモデルとなった厩戸王という人物の存在と、その人物が斑鳩宮及び斑鳩寺を建てたことは史実と認めている。

 

現存する法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時のものではなく、7世紀後半 - 8世紀初の建立であることは定説となっており、この伽藍が建つ以前に焼失した前身寺院(いわゆる若草伽藍)が存在したことも発掘調査で確認されている。

また、聖徳太子の斑鳩宮跡とされる法隆寺東院の地下からも前身建物の跡が検出されている。以上のことから、「聖徳太子」の人物像には後世の潤色が多く含まれているとしても、そのモデルとなった厩戸王によって7世紀の早い時期、斑鳩の地に仏教寺院が営まれたことは史実と認められている。

 

通説によれば、推古天皇9年(601年)、聖徳太子は斑鳩の地に斑鳩宮を建て、この近くに建てられたのが法隆寺であるとされる。

金堂「東の間」に安置される薬師如来坐像(国宝)の光背銘には

「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子があらためて推古天皇15年(607年)、像と寺を完成した」

という趣旨の記述がある。しかし、正史である『日本書紀』には(後述の670年の火災の記事はあるが)法隆寺の創建については何も書かれていない。

法隆寺4夢殿


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■奈良東大寺7(勧学院)

 

東大寺の、隠れた有名な建物として、「勧学院」という堂宇がある。勧学院は、東大寺真言院の境内にある。真言院は、東大寺・別当も務めた弘法大師空海が、弘仁13年(821年)、勅許を受けて開設した灌頂道場が始まりであり、南都における真言教学の拠点となった所。

東大寺30勧学院

 

フリー百科事典・Wikipediaによれば、勧学院とは元々は、弘仁12年(821年)、藤原冬嗣によって創建され、貞観14年(872年)以前に大学別曹として公認された。大学別曹とは有力氏族の学生のためにつくられた寄宿舎のこと。

本来は大学寮内に寄宿しなければならないが、大学別曹として公認されると寮内に寄宿する学生と同等の資格で授業・試験に出ることが出来た。のちには任官試験を経ずに地方官に任命される特権(年挙)を朝廷から認められた。また、優秀者には学問料が払われて後の文章生への登用に有利に働いた。また、藤原氏の公卿に慶事があると職員・学生達が挙って祝辞を述べに参上し、その答礼として彼らを饗宴でもてなすという「勧学院歩(かんがくいんのあゆみ)」という恒例行事があった。

維持管理は藤氏長者の職務とされ、藤原氏一門の大納言級から任じられる公卿別当、弁官から任じられる弁別当以下の職員の任免を行った。財政は一族からの荘園寄付によって賄われており他の大学別曹に比べ、非常に豊かであった。

また、寄宿舎としての機能の他にも一族に関係する事務を行う氏院(うじのいん)としての機能を行うための政所も設置されていた。具体的には藤原氏の氏寺である興福寺や氏神である春日大社などの祭祀に関する事務である。また延命院の管理も行った。藤氏長者は長者宣を出す際に実際の事務文書にあたる下文が勧学院で作成されて添付された。

貴族社会の衰微とともに鎌倉時代には勧学院は消滅したと言われているが、興福寺などの有力寺院が寺内に設けた僧侶育成機関に「勧学院」の名が用いられたのは、ここに由来していると言われている。

 

勧学院の名前は、けっこういろいろな宗派にあり、東大寺の他、園城寺、成田山新勝寺、高野山等にある。

現在の東大寺勧学院は、聴講無料の講演会や講義が行われている案内が建てられていた。

東大寺31勧学院