■身延山久遠寺17(ものすごい積雪になる思親閣)

 

私は、冬の2月に身延山久遠寺に行ったとき、身延山ロープウエイに乗って身延山頂の思親閣に行きました。ここは、日蓮が身延山の草庵で生活していたころ、毎日のようにここへ登山して、故郷の両親を偲び、孝養をつくしたというところで、思親閣はその身延山頂にある。

身延山ロープウエイ1


本堂のすぐ裏手にあるロープウエイ乗り場・久遠寺駅はまだ、ほとんど積雪がなかったのだったが、ロープウエイで山頂まで来てみると、瞬く間に一面、雪景色。奥の院駅でロープウエイを降りて思親閣に行ってみると、かなりの積雪になっていました。

 

今は身延山久遠寺本堂から奥の院思親閣に行くには、身延山ロープウエイに乗っていくのが便利ですが、山道を延々と登っていく奥の院参道もあります。

1本は、ロープウエイの久遠寺駅前からロープウエイの東側を登って行く参道で、鬼子母神堂や大光坊の近くを通って奥の院にたどり着く参道。

もう1本は、身延山久遠寺三門前から日蓮御廟所の近くを通って洗心洞を通り、高座石、千本杉を通って、山道を登っていき、朗師腰掛け石を通って、奥の院にたどり着く参道です。

参道を登っていくとしたら、東側の参道のほうが距離が短いような気がします。

 

日蓮が毎日、奥の院に登山して故郷の両親を偲んでいたという寺伝が本当だとしたら、おそらく日蓮は、今の身延山の西側の奥の院参道を登って行っていたと考えられます。

しかしこの参道を毎日上り下りするというのは、大変です。私は本堂上のロープウエイで登山したが、西谷の日蓮の草庵跡から、この思親閣までは、かなりの距離があるだけではなく、かなり険しい山を登っていかねばならない。徒歩で、草庵から身延山頂まで登山するとなると、それこそ大変な時間と労力がかかるだろう。

 

奥の院思親閣という所は、一個の寺院のようになっています。別当は七面山敬慎院とともに久遠寺法主が任命するということだから、身延山久遠寺の子院のようです。

奥の院駅で降りると、展望台がある。身延山頂は1153mもあるといいますから、眺めはなかなかいいです。お天気がよければ、富士山が見えることもあるといいます。

大孝殿、開基堂、育恩殿、祖師堂、日蓮聖人立像、日蓮聖人お手植杉、仁王門、手水舎、鐘楼、常護堂、元政上人埋髪塚、釈迦像等があります。

 

しかし2月に奥の院に登山したときは、このあたりは、ものすごい積雪。2月の身延山頂は、積雪がかなりありました。私はこのとき、普通の靴を履いていたのですが、これだけの積雪があると、長靴でも履かないと、歩きにくかったことを憶えています。

日蓮57才の時に書いた「兵衛志殿御返事」(弘安元年1129)では、

「雪かたくなる事金剛のごとし。今に消ゆる事なし。昼も夜も寒く冷たく候事、法にすぎて候。酒は凍りて石のごとし。油は金に似たり。鍋・釜に小水あれば凍りて割れ、寒いよいよ重なり候へば、着物うすく、食乏しくして、さしいづるものもなし」・・・・

「坊は半作にて、風、雪たまらず、敷物はなし。木はさしいづるものもなければ火もたかず。古き垢づきなんどして候、小袖一つ着たるものは、其の身の色、紅蓮・大紅蓮のごとし。声は波々大波々地獄にことならず。手足寒じて切れさけ人死ぬことかぎりなし」

「此の二つの小袖なくば、今年は凍死に候ひなん」・・・・

 

日蓮58才の時には「上野殿御返事」(弘安21227)の中では

「・・・五尺の雪ふりて本よりも通わぬ山道ふさがり、訪いくる人もなし。衣も薄くて寒ふせぎがたし。食たへて命すでに終はりなんとす・・・」

 

と、身延山の厳寒と「五尺の雪」が積もっていることを記している。

現に、今でも身延山奥の院あたりは、2月の真冬になると、かなりの積雪があることがあるわけだし、鎌倉時代は、「小氷期」だったことを考え合わせれば、日蓮の遺文に書いてある内容は、あながち誇張ではないと思ったのですが。