日蓮本宗本山・要法寺24(加歴等で特殊な数え方)

 

思わぬ形で要法寺塔頭住職との単独会見が実現したわけだが、私としては、塔頭住職から、単なる見学者か参拝者と思われていると、質問をしても真っ当に答えてくれないのではないかという心配がありました。あの当時は、ネットもブログもSNSmixiもない時代で、もちろん「アンチ日蓮正宗」や「仏教宗学研究会」を立ち上げる前。

しかし学生時代から、様々な宗教被害の経験を通して、反骨的に日蓮正宗・創価学会・顕正会・正信会・富士門流のことを研究してきており、それなりの知識はすでに持っていた。それでも、塔頭住職には、若い頃から、富士門流や要法寺に関する書籍や古文書・史料等々をいろいろ調べていて、その関係で要法寺を訪ねたことは伝えました。そして前回の訪問の時に、要法寺の朝の勤行に入ろうとしたが、寝坊で遅れてしまい、本堂の中に入れなかったこと。勤行が終わった後、貫首が渡り廊下から庫裡に帰っていく姿が見えたと言うことも話した。

要法寺19渡廊下


私が「貫首」という言葉を使ったからか、住職は

「猊下ですか」

と一言。

要法寺でも貫首のことを猊下と呼称しているようで、この住職の「猊下ですか」のひと言は、実質的に私に「猊下と呼んで下さい」と言っているようなもの。まあここは、せっかく要法寺に来て塔頭住職の話を聞こうとしているわけですから、ここは要法寺貫首を「猊下」と呼ぶことにした。

 

○「猊下のお名前は、何とおっしゃるのですか」

□住職「嘉儀日有と言います。嘉儀とは『かぎ』。日有と書いて『にちゆう』とお読みします」

 

日有と聞くと、日蓮正宗大石寺9世法主日有を連想してしまいますが、大石寺法主のほうは日有と書いて「にちう」と読むが、要法寺貫首のほうは日有と書いて「にちゆう」と読むそうである。

同じ漢字名でも、読み方が違う例は他にもある。

日蓮正宗大石寺66世細井日達の「日達」は「にったつ」と読むが、日本山妙法寺開祖・藤井日達の「日達」は、にったつではなく、「にちだつ」と読む。Wikipedia・フリー百科事典は藤井日達(ふじい にったつ)と読み仮名を書いているが、これは誤りである。

 

その嘉儀日有貫首であるが、要法寺51世貫首になるが、要法寺では「嗣法第五十一祖」と呼ぶ。

要法寺29日有石碑


ところで要法寺貫首歴代は、特殊な数え方をしているのである。

要法寺歴代は、まず宗祖日蓮、二祖日興、三祖日目、四祖日尊となるが、5世から10世までは上行院貫首と住本寺貫首の二人ずついる。

そして11世が住本寺貫首・日法、12世が同じく住本寺貫首・日在。

これは上行院貫首よりも住本寺貫首が二人多いことから来る、苦肉の策であろうか。

そして広蔵院日辰の代に、上行院と住本寺が合併して要法寺が堀川綾小路に建立される。

この要法寺「中興の祖」とうたわれる広蔵院日辰が、要法寺13世となる。

その次が、要法寺・大石寺の通用を成立させた日賙が要法寺14世になり、その後は順繰りに51世日有までつづく。

さらに要法寺には、加歴の貫首が三人居る。加歴とは、存命中は貫首に晋山しなかったが、功績等により、死後、歴代貫首に加えられた人物。これは明治期の智伝院日志、宣承院日言、山城阿日義の三人で、智伝院日志とは、要法寺出身でのちに北山本門寺34代に晋山した玉野日志貫首である。この人は日蓮正宗大石寺52世法主・鈴木日霑と「両山問答」(霑志問答)を戦わせた人として有名である。

加歴とは、めずらしいことではなく、他山にも加歴貫首の例は存する。池上本門寺では16世日樹を不受不施問題で除歴しているが、後に復歴している、という例がある。

しかし加歴貫首を歴代の代数に含めて数える場合が多いが、要法寺の加歴は、加歴貫首を歴代の代数に含めないで数える。そのため三人の加歴があるが、嘉儀日有貫首の代数は、「嗣法第五十一祖」になるというわけである。