日蓮本宗・鳥辺山實報寺1(日目の正墓がある京都・鳥辺山御廟所)

 

實報寺(じっぽうじ)という寺院は、正式には多寶山實報寺といい、日蓮本宗本山・要法寺の末寺。つまり富士門流八本山・日尊門流の祖山である京都・要法寺の末寺。

實報寺3


要法寺が発行している小冊子「私たちの要法寺」の中では「鳥辺山御廟所」として載っていて、大石寺・要法寺・保田妙本寺・小泉久遠寺の三祖・日目の正墓がある他、要法寺歴代貫首の墓がある寺である。

場所は、京都・東山五条の鳥辺山にあり、便宜上、「鳥辺山實報寺」としました。

東山五条だから、東山三条の本山・要法寺から、そんなに遠くない所にある。

では、なぜこの寺に訪問することになったのかというと、三祖・日目の正墓探しをしている中で、訪問することになったわけですが、これが思わぬ形での訪問になった。

日蓮正宗大石寺に言わせると、日目の正墓は、日蓮正宗寺院・下之坊にあるということになっている。

大石寺が発行している「大石寺案内」という小冊子には、日目の正墓が下之坊にある旨、堂々と記載されているし、毎年の下之坊のお会式には、大石寺から法主が下向するのだが、法主は「墓参」と称して、下之坊の自称・日目の墓に墓参・読経・唱題する。

しかし、下之坊に日目の正墓があるというのは全くの虚偽であり、日目の正墓のある所は、下之坊でもなければ、日蓮正宗大石寺でもない。では日目の正墓はどこにあるのか。

 

富士門流の古文書を調査していくと、日目は京都・鳥辺山墓地に葬られたということになっており、日目の正墓は、京都・鳥辺山の延年寺にあることになっている。まず鳥辺山説を唱えているのは、日蓮正宗大石寺17世法主日精である。日精は自らの著書「家中抄・日目伝」の中で、次のように書いている。

「御骨を拾い頚にかけ涙に咽び遥々と京へ上り給ひて東山鳥辺野に御墓を築き給ふ、其の後日郷は哭く哭く御所持の道具御守り等取り持ちて富士にぞ下向し給ひける」

(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』5p191・日精著『富士門家中見聞』)

 

さらに堀日亨編纂『富士宗学要集』8p6971には、京都・東山の延年寺墓地に葬られた日目の墓地を、日郷門流が延年寺から墓地を四度にわたって買い取って、墓域を拡張した文書(堀日亨は売券と呼んでいる)が四通、収録されている。

日蓮正宗においても、この四通の文書を正文書と認め、日蓮正宗が発行している「富士年表」においても、この四通の文書(売券)が発行された1340年、1344年、1347年、1365年の四回の墓地買い取りを第1次~第4次の「日目墓地買い取り」として載せている。

59世日亨2

 

又、この四通の古文書を『富士宗学要集』8巻に収録した堀日亨も

「目師垂井に御帰寂後八年に郷師始めて京都東山延年寺大墓域の一小部分を買得して御遺骨を葬むるを得しも、地域頗る狭少なるを以て追々に買収して拡張したるなり」

(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p6970)

と書いており、日郷が日目の遺骨を京都・東山の延年寺墓地の一部を買い取って葬ったと記載している。

つまり堀日亨も、京都・鳥辺山の延年寺に日目の遺骨が葬られたことを認めているし、「富士年表」においても延年寺墓地に葬られた日目の墓を「日目墓地」と認めているわけである。

よって日精が家中抄に書いている鳥辺山埋葬説は、単なる伝説や言い伝えではなく、古文書が残っている、正史であるわけである。

 

それにも関わらず、日蓮正宗では、対外的に、あるいは信者に対して、あたかも大石寺・下之坊に日目の正墓があるかのように教えているばかりか、下之坊のお会式では、法主自ら下之坊の自称・日目正墓に墓参をするというパフォーマンスまで演じている。日蓮正宗の信者だましの欺瞞・ウソの体質も甚だしいと言わねばなるまい。

さて最近では、日目遺骨・鳥辺山埋葬説は、美濃周人氏の著書『虚構の大教団』の中に出てきている。ただしこの鳥辺山埋葬説を書いたのは、美濃周人氏ではなく、ジョージ左京氏という人物。

ジョージ左京氏という人物は、次のように書いている。

「『日蓮の遺骨』は身延山、『日興の遺骨』は重須寺、『日目の遺骨』は京都鳥辺野の延年寺にそれぞれ安らかに眠っているのである」

(『虚構の大教団』p264)

虚構の大教団1

 

ジョージ左京氏という人物は、単に日目の遺骨は京都鳥辺野の延年寺に眠っていると記しているだけで、それ以上、具体的なことは書いていない。

堀日亨編纂『富士宗学要集』8巻に収録されている古文書だけに依ってこのように書いたのか、あるいは実際に京都・鳥辺野(鳥辺山)に行って確認したのか、具体的には何も書いていないため、わからない。