日蓮本宗・鳥辺山實報寺2(日目墓域を買収・拡張を記した古文書)

 

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p6971に収録されている、京都・東山の延年寺墓地に葬られた日目の墓地を、富士門流が延年寺から墓地を四度にわたって買い取って、墓域を拡張した四通の文書(堀日亨は売券と呼んでいる)とは、以下の古文書である。

 

1 1340(暦応3)の文書

「売り渡す延年寺観音堂西寄の地の事。

合台所在、東西壱丈、南北壱丈

右件の地は成願が相伝の私領なり。然りといへども、用事あるによつて直の銭壱貫文に安房の国当住大田の宰相阿闍梨日郷に売り渡し奉る所実なり。若し此の地におき候いて向後違乱煩い出来て候はん時は売り主の沙汰として本銭壱壱倍をもちて十箇日の内に弁え申し候べく候。後の為に売り券の状件の如し。

暦応三年七月十五日                延年寺成願在り判」

 

2 1344(康永3)の文書

「売り渡しまいらせ候延年寺の地の事。

合東西六尺、南北一丈、定 日目上人御墓前なり。

右件の地は故成願が私領なり。用要あるによつて日向の国富田の庄内、日知屋寺の別当御房(薩摩阿闍梨日眷)に永年お限って用途六百文に永く売り渡しまいらせ候所実なり。若し此の地に子細候はば此の状を先として御沙汰候はんに子細あるまじく候。若し無沙汰なる事候はば本の用途にても候へ、又別の地にても候へ急ぎ急ぎ沙汰仕り候べく候。仍って後日の為に証文状件の如し。

康永三年太歳甲申潤二月廿八日   故成願が後家比丘尼明知在り判」

 

3 1347(貞和3)の文書

「売り渡す延年寺の地の事。

合一丈、四方□□一貫文

右件の地は成願が私領にて候なり。用あるによつておしてらのれんさう無く永く売り渡しまいらせ候所実なり。若し此の地に子細煩い候はん時は異地にても又本銭にても候へ。弁へ申し候間、此の証を先として御沙汰あるべく候に子細候まじく候。仍って後の為に売り券の状件の如し。

貞和三年七月十八日 売り主 成願後家在り判」

富士宗学要集9

 

4 1365(貞治4)の文書

「売り渡す延年寺菩提崎地の事

合壱所五尺四方、右件の地は成音が相伝の私領なりといへども要用有るに依って安房の国南条中納言阿闍梨日伝に売り渡し申し候所実なり。直の銭五百文に永代を限り全く違乱煩ひあるまじく候。若し子細申す事候はば本銭をもつて明け申すべく候。仍って後日の亀鏡の為の状件の如し。

貞治四年三月十五日              売り主僧成音在り判」

 

この文書の中に、「日目上人御墓前」とあり、京都・鳥辺山の延年寺の中に日目の墓があり、この墓域に関する土地の売買であることが明らかである。

売り主は、延年寺の成願、その後家尼、成音という僧侶、買い主は日郷、日伝、日知屋寺の別当御房(薩摩阿闍梨日眷)である。日知屋寺とは、日向国日知屋にある、今の日蓮正宗本山・定善寺のこと。いずれも保田妙本寺・小泉久遠寺の日郷門流である。

もともとは、延年寺・成願の「私領」だった土地のようである。

なぜ日郷・日伝らが延年寺の成願の私領を四度にわたって買い取ったのか、というと、そこに日目の正墓があるからで、その墓域の拡張のため、買い取ったと言うことである。

 

堀日亨は、この古文書を正史料と認めており、

「目師垂井に御帰寂後八年に郷師始めて京都東山延年寺大墓域の一小部分を買得して御遺骨を葬むるを得しも、地域頗る狭少なるを以て追々に買収して拡張したるなり」

(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p6970)

と書いており、日郷が日目の遺骨を京都・東山の延年寺墓地の一部を買い取って葬ったと記載している。ところが堀日亨は、最後に『富士宗学要集』8p70に奇妙な言い訳を書き残している。

「但し此の墓域の存没如何知ること能はざるか」

(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p70)

59世日亨2

 

つまり堀日亨は、この古文書は調べたものの、京都・鳥辺山の延年寺や延年寺の日目の正墓が今はあるのかないのかを確認していないというわけである。古文書だけ調べ上げたが、実際に延年寺の日目正墓を調べていないというのも奇妙な話しである。

こういったことから、私としては京都に行って、実地調査をする以外にないと考えたわけです。