日蓮本宗・鳥辺山實報寺3(下之坊に日目の遺骨はない)

 

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p6971に収録されている、京都・東山の延年寺墓地に葬られた日目の墓地を、富士門流が延年寺から墓地を四度にわたって買い取って、墓域を拡張した四通の文書(堀日亨は売券と呼んでいる)によって、日目が京都・鳥辺山の延年寺墓地に葬られたことは明らかである。

實報寺11日目墓4


この古文書を堀日亨は正文書と認めており、さらに上代の法主である大石寺17世日精も、「家中抄」で、日目は京都・東山・鳥辺野に葬られたと書いている。つまり日蓮正宗大石寺の上代の法主が、日目は京都・鳥辺山に葬られたと認めているのである。

それにも関わらず、今の大石寺は、日郷が日目の遺骨を持ち帰って富士に葬った、などと言っており、「仏教哲学大事典」には次のように書いてある。

「日尊は京都の鳥辺山(東山鳥辺野)に墓所をつくり、日郷は遺骨を持ち帰って富士大石寺に帰り、下之坊に納めた。日目上人の正墓は上野の下之坊の右手、富士を背にした景勝の地にあり、総本山富士大石寺を見守っているような位置にある」(『仏教哲学大辞典』p950)

 

これによると日尊は京都・鳥辺山に日目の墓所だけを造り、遺骨は日郷が富士に持ち帰ったと言うことになる。そんなバカな話しがあるだろうか、といいたくなる。

自らの師匠を葬る正墓を造るのに、遺骨のない墓所を造る弟子がどこの世界にいるだろうか。

しかも、遺骨がない墓所の墓域を拡張しようと、わざわざ大金を支払って墓域の土地を四回も買収するはずがないではないか。鳥辺山の日目の墓所に日目の遺骨が入っているからこそ、墓域を拡張しようと土地を買収したのではないか。

 

では日郷は、本当に富士に日目の遺骨を持ち帰ったのか。

これも道理や常識から考えると、日郷がそんなことをするはずがないのである。

日目は、1333年、京都天奏の旅路の途中、美濃国垂井で死去した。京都天奏の志を遂げることなく、道半ばで倒れたわけである。では日目の弟子は、師匠・日目の遺骨をどこに葬るだろうか。

日蓮正宗に言わせると、弟子の日郷は遺骨を大石寺に持ち帰ったというが、本当に日目の弟子は、そうするだろうか。

3祖日目1


日蓮正宗の発想だと、日蓮正宗大石寺には「血脈相承」なるものがあり、日目は日興から「日興跡条条事」で唯授一人の法主に選定されたのだから、大石寺に葬られたのだ、ということになる。

しかし「日興跡条条事」も「血脈相承」なるものも、後代の法主である大石寺9世日有が偽作したものであり、全くの嘘っぱちである。

ならば、血脈相承だの日興跡条条事なるものを除去して冷静に考えたら、どうだろうか。どういうことかというと、ここは常識で考えるべきである。

つまり師僧が志し半ばで倒れ、目的を果たせずに死去したら、弟子はどうするのか。よくよく考えてみるべきである。

 

弟子たる者、師僧が死亡したのち、生きていたときの最大の志ぐらいは果たさせてあげようとするのではないか。

つまり日目は京都天奏を果たそうとして途中、美濃国垂井で倒れ、死去した。ならば、弟子としては、無念の思いで死去した師僧・日目にせめて京都の地を見せ、天奏は果たせずとも京都御所の門前まで遺骨を奉じ、京都の地に遺骨を葬るのではないか。

したがって日目の京都天奏の旅に随伴し、美濃国垂井で日目の臨終を見届けた日尊・日郷が美濃国垂井から京都に行かずに、日目の遺骨を大石寺に持ち帰るはずがない。

こんなことをしたら、師僧の敗退宣言を弟子がするようなものである。そんなことをする弟子がどこにいるだろうか。

 

よって道理と常識から考えるならば、日蓮正宗大石寺・下之坊に日目の遺骨が葬られているはずがないし、日目の遺骨は、古文書に書いてあるとおり、京都・鳥辺山に葬られたと解釈するのが普通であろう。

よって大石寺・下之坊にあるという、日目の「正墓」と称するものはニセモノである。

これは、古文書と道理・常識からそう言えると言うことであり、どう考えても日目の遺骨は、京都・鳥辺山に葬られたとする「鳥辺山説」に理があると考えたわけである。

しかし最終的には、鳥辺山にあるはずの日目の正墓を確認する必要がある。よって実地調査を思い立ったわけである。