日蓮宗不受不施派祖山・妙覚寺1(不受不施派の祖山・岡山妙覚寺)

 

妙覚寺とは、正式には龍華山妙覚寺といい、日蓮宗不受不施派の祖山。

場所は、岡山県北区御津金川というところにあります。新幹線のぞみ号の停車駅で、中国地方のターミナル駅である岡山駅からは、かなり遠いところにある。私は、レンタカーを運転して行きましたが、岡山駅から何分かかったかは、忘れてしまいました。おそらく30分くらいかかったように思います。

最寄り駅は、岡山と津山を結ぶJR津山線・金川駅ということになるのですが、この津山線は、朝夕で30分に1本、日中は1時間に1本くらいの間隔でしか列車が運転されていない。不便ですね。私が電車ではなく、レンタカーで妙覚寺を訪れた理由の一つが、ここにあった。

「岡山市なのに、ずいぶん岡山駅から遠いところにあるんだな」と思っていたところ、もともとここは御津町という町だったのですが、2005年(平成17年)3月、岡山市に編入合併されて岡山市北区になったというわけです。

私も、妙覚寺に行くに当たって、いろいろと下調べをしたのですが、ここに関する資料らしい資料はほとんど見つかりません。皆無に等しい。年中行事もどういう行事が行われているのか不明だし、法主の名前もわからないし、本堂にはどういう本尊が祀られているのか、僧侶はどれくらい居る寺院なのかも、全くわからない。ウィキペディアにも、ほとんど情報が載っていませんでした。

いろいろ調べても情報が出てこないわけですから、「行って調べるか」ということで、妙覚寺行きが先になったというわけです。201112月にはじめて、ここ妙覚寺に行きました。

 

下調べのときも、なかなか情報が出てこなかったわけですが、そもそも不受不施派のことをいろいろ調べても、資料があまりにも少なすぎるのです。この宗派は。

豊臣秀吉の千層供養会に京都妙覚寺の日奥が出仕を拒否したこと。

徳川家康の代になって、大阪対論で日奥が対馬流罪になったこと。

さらに身延山久遠寺と池上本門寺の身池対論で、不受不施派がことごとく流罪になったこと。

徳川時代に、不受不施派は数百年の間、徹底的に禁圧され、明治政府によって禁圧が解かれるまで、地下活動をつづけてきたこと。

これくらいの情報は出てきますが、それ以上の詳しいことは全くわかりません。

そういう手探り状態の中での、訪問になりました。

 

レンタカーに乗って妙覚寺前に着くと、門前に駐車場があり、ここに車を停めて境内へ。

まず表門なのですが、全国各地にある寺院の門とは、イメージがかなり違います。身延山久遠寺、池上本門寺、大石寺、北山本門寺、岡宮光長寺といった大寺院の三門とは全然違います。

お寺の表門と言うより、誰かの大邸宅の入り口の門という感じに見えます。

妙覚寺23山門


もっとも岡山・妙覚寺は、明治維新になって不受不施派の禁制が解かれてから、江戸時代の医者・難波抱節の邸宅を買い取って寺院・妙覚寺にしたもの。正確に言うと、妙覚寺35世日正の代である1876(明治9)年に宗派再興を成し遂げ、旧難波抱節の邸宅に龍華教院を設立。

1882(明治15)年に、京都・妙覚寺の寺号をとって「龍華山妙覚寺」として、不受不施派の祖山とした。なので、門も邸宅だった門がそのまま残っているものと思われます。

 

表門には棟札があって「日蓮宗不受不施派 祖山 妙覚寺」となっていました。

妙覚寺10山門棟札

 

「日蓮宗不受不施派」というのは、通称名ではなく、正式名であるようです。

 

表門の横には、行事予定の案内板があり、年中行事が書いてありました。私が妙覚寺に行ったのは12月だったので、11月と12月の行事予定が書いてありました。よく見ると、旧暦で行事を行っているようです。旧暦で行事を行うというのも、「原理主義」と言われる不受不施派の体質から来るものなのでしょうか。

あと、門前にこれだけ詳しく行事予定の案内を出しているというのは、自宗の信者以外の人にも、参詣を勧めているという意味を含んでいるのだろうか。

常識的に考えれば、そうなると思うのですが、なんせここは「不受不施」の教義をかたくなに守り続けてきた宗派だから、その辺の意味合いも異なっているのだろうか。少し気になりました。

妙覚寺2行事予定

 

門前には、境内の立ち入りについて、自宗の信者以外の人を規制するような案内は全くありません。正面の表門から、まっすぐに参道が伸びていて、突き当たりが本堂のようです。

参道とは言っても、境内はそんなに広くはないので、参道そのものも、とても短いのですが。