日蓮宗不受不施派祖山・妙覚寺4(歴代法主の墓地)

 

妙覚寺の本堂の周りをよく見ると、本堂の裏手から裏山に向かって参道が延びているのが見えましたので、そこを歩いて、登って行きました。

すると裏山には、妙覚寺歴代法主の墓地があり、妙覚寺の歴代法主は「聖人」号を付けて墓石に刻まれていました。

妙覚寺の歴代法主とは、「御津町史」という本に載っていて

1日蓮 2日朗 3日像 4大覚 5朗源 6日実 7日成 8日遵 9日延 10日善 11日意 

12日寮 13日住 14日亨 15日護 16日賞 17日兆 18日順 19日饒 20日典 21日奥(中興)

22 日樹 23日遵 24日述 25日起 26日清 27日要 28日憶 29日助 30日信 31日然

32日縁 33日珠 34日恵 35日正(再興) 36日解 37日壽 38日学 39日高 40日学(再住)

41日成 …日量

となっています。

現法主は中山日量上人猊下となっていますが、何代目かは不明。「御津町史」という本も史料としては古く、41代日成法主までしか載っていません。

 

21世日奥とは、文禄四年(1595)の豊臣秀吉の千層供養会に出仕を拒否し、慶長四年(1599)の 大坂城対論で対馬流罪になった人物。この日奥は、京都妙覚寺の僧侶で、不受不施問題で妙覚寺を退出、流罪になったため、いわば不受不施派の祖のような人物。

妙覚寺14日奥墓


よって、日蓮・日朗・日像の三師から20世日典までは、京都妙顕寺→妙覚寺貫首とのかぶりになる。21世日奥から34世日恵までが、江戸幕府から弾圧されて地下活動をしていた時代の法主。

35世日正は、明治九年(1876)の不受不施派再興公許により、岡山の現在地に妙覚寺を再興した法主。35世日正以降の法主が、現在の妙覚寺という寺院の法主ということになる。

 

江戸幕府から禁圧され地下活動をしていた時代に、どこで、どうやって法主を決めていたのか、どうやって地下活動をして、不受不施の僧侶や信者に知らしめていたのか。全く謎ですけども。

歴代墓地の墓石を見ても、どれがどの法主の墓石なのか、判別できないものが多かったのですが、その中で中興・日奥と再興・日正が「大聖人」号になっているのが、わかりました。

他の法主は「聖人」号なので、中興・日奥と再興・日正は、格が上ということのようです。

宗祖の日蓮は「日蓮大士」となっていました。

大士とは「だいじ」と読むそうで、これは辞書によれば、「仏・菩薩の尊称」ということです。

妙覚寺16歴代墓

 

墓地から山を下ってくると、妙覚寺の庫裡がそれこそ何棟も建っているのがわかりました。ところが、全然、人が居る気配がない。僧侶も誰も見当たらないわけです。

「はたして人がいるのか」と思ってしまうくらいです。

「誰とも話が出来ないのかな」と、半ば諦めかけていたころ、ひょんなことから、妙覚寺の元総代の話を聞く機会に恵まれたのでした。