不受不施日蓮講門宗祖山・本覚寺1(妙覚寺よりもさらにガチな不受不施)

 

さて不受不施派には、妙覚寺を祖山とする日蓮宗不受不施派の他に、もうひとつ、一派があって、それが「不受不施日蓮講門宗」と名乗る宗派で、その祖山も、妙覚寺と同じ岡山市北区にある。

本覚寺も妙覚寺も、距離的にはそんなに離れていない所にあります。車で動けば、そんなに時間はかかりませんが、歩くとなると、これは時間がかかりますが。

本覚寺がある所も、妙覚寺がある所と同じく、元は御津町とよばれた所で、合併により岡山市北区になった所。この二つの不受不施派は、第二次世界大戦中は「本化正宗」という名前で統合・合併していましたが、終戦後、また再び、分離するという歴史を歩んでいます。

 

それでは、この二つの不受不施派の違いは、どこにあるのか、ということになりますが。

江戸時代、不受不施派が幕府から厳しく弾圧されて、地下活動をしていた最中、導師派と不導師派のふたつに分裂し、これが今の妙覚寺派と本覚寺派の元になったということです。

その導師派と不導師派の教義的な違いなのですが…フリー百科事典・Wikipediaによると、次のようになります。

 

不受不施派の信者は日蓮の地元であった上総国、下総国、安房国や室町期に日蓮宗勢力が拡大した備前国、備中国に多く潜伏していた。

不受不施派の信者は、他宗他派に寺請をしてもらうが内心では不受不施派を信仰する「内信」となる者が多く、一部の強信者は他宗他派への寺請を潔しとせず無籍になって不受不施派の「法立」となった。

また不受不施派の僧侶は「法中」と呼ばれ、それを各地の「法燈」が率いた。そして不受不施派では教義上「内信」は不受不施の信者とは一線を画され直接「法中」に供養することが出来ず、「法立」がその間を仲介するという役割を果たした。この信者同士の絆が強固な地下組織を形成し、この時代を生き抜いた。

この時期、岡山の不受不施派では、法立が導師を務めることが出来るか否かをめぐり導師不導師の論争が起こり岡山だけではなく不受不施派全体の問題となった。そして、日向に配流中の日講を中心とする不導師派と讃岐に配流中の日堯を中心とする導師派に分かれ、前者が不受不施日蓮講門宗の系統となり、後者が日蓮宗不受不施派の系統となった。

ということです。

こういうものを読むと、今の本覚寺派のほうが、妙覚寺派よりも、ガチガチの日蓮原理主義という印象を受けます。

本覚寺5

もうひとつ、ネットに出ている「不受不施二派の話し」によれば、今は、本覚寺よりも妙覚寺のほうが、ガチガチの不受不施・日蓮原理主義だと書いています。

どっちがどうなんでしょうか。

私から見ると、そんなに大きな違いには見えません。「そんなこと、どっちでもいいんじゃないの」と思ってしまう。言葉は悪いですが、日蓮正宗と創価学会の違いによく似ているような気がします。

妙覚寺派と本覚寺派のちがいも、日蓮正宗と創価学会の「目くそ鼻くそ」の違いと同じ次元に見えてしまうのは、私だけでしょうか。