鎌倉・安国論寺3(日朗の荼毘所)

 

日蓮が松葉ヶ谷法難で一時避難した南面窟は、安国論寺境内のけっこう山の中にあります。外から見ると、ただの洞穴にしか見えない。

安国論寺の説明によると、日蓮は松葉ヶ谷法難の時、一時、南面窟に避難した後、お猿畠・法性寺に逃れたということです。

御法窟も南面窟も、安国論寺に来る度に、何度も来ているのですが、ここに来ると、何となく「ここが松葉ヶ谷法難があったところか」と、感慨無量な気持ちになります。松葉ヶ谷法難とか立正安国論というのは、実に有名な史実で、学生のころ、映画「日蓮」でも見ましたし、その後、映画「日蓮」のDVD版も取り寄せて持っていますので。

安国論寺14本堂

 

安国論寺の境内には、日蓮の六老僧第二・至孝第一といわれる、安国論寺第二祖・日朗の荼毘所がある。安国論寺では「日朗上人御荼毘所」と呼んでいる。

日朗は元応二年(1320)121日に78才で遷化(死去)しているが、出家得度の松葉ヶ谷の地で荼毘に付してほしいと遺言したため、この安国論寺に荼毘所があるという。

ただし日朗の廟所(正墓)はここではなく、逗子・法性寺にある。逗子の法性寺は、松葉ヶ谷法難の折、日蓮が白猿に導かれて避難したという場所。日蓮の岩窟や弟子の日朗の廟所がある。

日朗の廟所は、池上本門寺にもある。池上本門寺には、日蓮の灰骨を納めた「日蓮聖人御廟所」があるが、その隣には二祖日朗の廟所、三祖日輪の廟所が並んで建っている。

安国論寺12荼毘所

 

日朗という人は、関東・鎌倉方面を中心に布教をした人で、日朗を第二祖としている寺院は、安国論寺だけではなく、池上本門寺、鎌倉妙本寺などの日朗門流の寺院の他、日朗の弟子の日像門流の京都妙顕寺、さらにそこから別れた京都妙覚寺、岡山妙覚寺、岡山本覚寺等々、実に多数ある。

日興門流の人に言わせると、日興やその弟子の日尊は全国布教に活躍したというような話しをしますが、私が見聞した限りでは、日朗門流のほうが日蓮宗の布教をかなり広めているという実感があります。

関東で多いのはこの日朗門流であり、はじめて京都布教を成し遂げた日像は、日朗の弟子。

さらに日像門流から法華宗本門流、本門法華宗、法華宗真門流、日蓮宗不受不施派等が分岐している。こういう分岐した門流の祖は日朗であるわけで、こういうのも全て日朗門流に含めれば、日蓮宗関連では最大規模になると思われます。

 

境内から富士山が見えるという富士見台に登って行く坂道は、ものすごい急坂の急階段。こんな急な階段も珍しいのではないかと思われます。身延山久遠寺の急階段・菩提梯よりも急ではないかと思います。さすがに上り下りは、手すりにつかまりながら、になりましたか゜、汗だくになってしまいました。

富士見台に登ると、鎌倉市内から相模湾が一望できる。眺めは、なかなかいいですね。

安国論寺の説明によると、日蓮は毎日ここに登って、富士山に向かって法華経を読誦していたという。昔は手すりなどはなかったと思いますが、よくこんな急坂を毎日、登ったものだと思いました。