■奈良東大寺5(東大寺大仏殿)

 

□写真撮影が禁止されていななかった東大寺大仏殿

 

今年の10月に東大寺に行ったときは、「光明皇后千二百五十年遠忌法要」の準備のため、正面から大仏殿には入れず、回廊を歩いて正面左側から入っていった。

資料に依れば、大仏殿は高さ46.8メートル、間口57メートル、奥行50.5メートルで、2,850平方メートル(約862坪)。

それに対し、奈良、鎌倉時代の大仏殿は、高さは約50メートルと同じですが、広さは間口約86メートル×奥行約50メートル=4,300平方メートル(約1,300坪)はあったという。

現在の大仏殿は、高さと奥行は創建時とほぼ変わりないが、東西の幅は奈良・鎌倉時代の大仏殿の約3分の2に縮小されているということになる。

この巨大な大仏殿の中に、巨大な大仏が座っている。

国宝指定名称は「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」。像高は14.7メートル。大仏は『華厳経』に説く盧舎那仏という名の仏という意味らしい。

東大寺17大仏

 

もちろん、この大仏は、東大寺の本堂である「金堂」すなわち大仏殿の中心本尊であることは言うまでもないが、面白いことに、この大仏殿の中は写真撮影が禁止されておらず、参拝客・観光客のほぼ全員と言っていいくらい、大仏の写真をパチパチと撮りまくっている。

かく言う私も、大仏の写真を何枚も撮影してきている。

 

だいたいどこの宗派の寺院の本堂も、中では撮影禁止というのが一般的で、本堂の中の本尊を撮影するなど、もってのほか。参拝者による本尊の写真撮影など厳禁というのが仏教界の常識みたいなものになっている。

実際、あっちこっちの大伽藍・大寺院を訪れると、「撮影禁止」の看板・立て札をよく目にする。

 

しかし東大寺大仏殿は、写真撮影が禁止されていない。

もっとも、元々はここも撮影禁止だったのかもしれないが、大仏殿に入った途端、大仏の威容に圧倒されて参拝客が写真を撮り始めてしまうため、大仏殿の中を撮影禁止にしても有名無実であり、意味がないのかも知れない。

ただ、大仏殿には行っていきなり撮影するのではなく、「大仏に手を合わせて参拝してから撮影して欲しい」旨の東大寺のコメントを見たが。

 

□戦災で二度焼失し江戸時代に奈良・鎌倉期の2/3に縮小して再建された現在の東大寺大仏殿

 

さて現在の東大寺大仏殿は、奈良時代の建造物ではなく、江戸時代に再建されたものであることは有名。では東大寺はいかなる戦災で焼失し、再建されたのか。

まず東大寺は、治承4年(1181年)1228日の平重衡の兵火で壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、大仏殿を初めとする多くの堂塔を失った。

この時、大勧進職に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時61歳の僧・俊乗坊重源。文治元年(1185年)には後白河法皇らの列席のもと、大仏開眼法要が行われ、建久元年(1190年)には、再建大仏殿が完成、源頼朝らの列席のもと、落慶法要が営まれた。

 

その後、戦国時代の永禄10年(1567年)1010日、三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した。これは、多聞山城の戦いとか、東大寺大仏殿の戦いと呼ばれている合戦で、永禄10年(1567年)418日から1011日のおよそ半年間にわたり松永久秀、三好義継と三好三人衆、筒井順慶、池田勝正らが大和東大寺周辺で繰り広げた市街戦のこと。

その後、仮堂が建てられたが慶長15年(1610年)の暴風で倒壊し大仏は露座のまま放置された。

その後の大仏の修理は元禄4年(1691年)に完成。大仏殿の再建は、公慶上人(1648 - 1705年)の尽力や、将軍徳川綱吉や母の桂昌院を初め多くの人々による寄進が行われた結果、宝永6年(1709年)に完成した。

この現存する3代目の大仏殿は、高さと奥行きは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の11間からおよそ3分の27間に縮小されている。また、講堂、食堂、東西の七重塔など中世以降はついに再建されることはなく、今は各建物跡に礎石や土壇のみが残されている

東大寺26大仏殿