■奈良法隆寺3(夢殿本尊・救世観音立像)

 

1884(明治17)8月にフェノロサ、岡倉天心らによって始めて開扉された救世観音立像

 

法隆寺のもうひとつのメインは、聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立されたと伝承されている東院伽藍である。東院伽藍の回廊で囲まれた真ん中に八角円堂の夢殿が建っている。ここが東院伽藍の中心である。

夢殿とは、上宮王院とも呼ばれ、ここは行信僧都が聖徳太子の遺徳を偲んで奈良時代の天平11(739)年に建立した日本最古の八角円堂。堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像や奈良時代の肖像彫刻の傑作とされている行信僧都像などを安置している。

 

この夢殿に安置されているのが、あまりにも有名な国宝の救世観音像である。これが夢殿の本尊であり、1300年以上もの長い間絶対秘仏で、現在も春と秋の決められた期間しか開扉されない秘仏である。

法隆寺の公式文献に依れば、聖徳太子が死去した622(推古30)年の翌年、623(推古31)年ころ、救世観音像が造立されたとしている。(法隆寺発行『救世観音』年表より)

つまり飛鳥時代に造立された像であるわけで、造立から1380年以上経っていることになる。

ちなみに、この法隆寺発行の公式文献は、法隆寺の売店のみで販売されているもので、東京の書店には並んでいない。

この救世観音像は、像高が約179センチ。聖徳太子の等身大の像と伝承されている。どういうことかというと、聖徳太子・救世観音後身説、つまり救世観音=聖徳太子という思想から、まさに聖徳太子そのものの像として、聖徳太子の等身大に造立されたというわけである。

救世観音1

 

この救世観音像は長年、絶対秘仏として夢殿の中央厨子の中に格蔵されたままになっていたのだが、1884(明治17)8月、法隆寺諸堂と古書画調査のためにアメリカ人のフェノロサ、ビゲロー、岡倉天心らが法隆寺に来訪し、この調査の中で、フェノロサ、岡倉天心が「仏罰で地震が起きる」と開扉を拒否していた法隆寺僧侶を説得し、救世観音像を開扉せしめた話は、あまりにも有名である。

623(推古31)年の造立から1884(明治17)年まで一度も開扉されなかったのか、その間に何度か開扉されたのか、については諸説有るが、絶対秘仏に近い像だったことは間違いない。

今でも、この救世観音像は秘仏であり、411日~518日と1022日~1123日のみ開扉される秘仏である。

 

 

「等身大の仏像など、どこにでもあるだろう」と思われるかも知れないが、そうではない。

仏像の高さは、「丈六」(じょうろく)といい、16(4.85メートル)のことを、略して丈六と言う。

これは、釈迦牟尼の身長が16尺(約4.85メートル)あったというところから仏像は16尺の高さの仏像に造立するのが基本とされた。座像の場合は半分の8尺に作るが、それも丈六といい、また、丈六より大きいものを大仏という。

ただし丈六とは言っても、その高さは時代によって異なる。中国・周の時代の周丈六(しゅうじょうろく)は、通常の丈六の約4分の3位です。周丈六で測ると人間の倍の寸法が丈六となり、仏像の坐像と人間が立った大きさが、ほぼ同じになる。

こういう中、救世観音立像が聖徳太子の等身大に造立されたというのは、特別の意味があるわけである。

 

さて、この救世観音立像には、他にも特徴がある。

楠木の一木造りでできており、さらに漆加工が施され、像に金箔が貼られているのである。

「等身大」「秘仏」「楠木」「漆」「金箔」ということを聞けば、これと共通するものが日蓮正宗にあることがわかる。それは日蓮正宗大石寺にある「戒壇の大本尊」なる板本尊である。