■奈良法隆寺5(化儀を輸入した日有2)

 

□日蓮の聖徳太子崇拝、伝教大師最澄崇拝思想の影響を受けていた大石寺9世日有

 

それではなぜ、日蓮正宗大石寺9世法主日有は、法隆寺本尊や延暦寺本尊をモデルに「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作したのか。それは、日蓮在世の時代から、日蓮一門には、聖徳太子崇拝、伝教大師最澄崇拝の思想があるからだ。それは日蓮の遺文(御書)に明らかである。

 

「南岳大師 観音の化身なり道宣の感通伝に出づ 六根浄の人日本の上宮太子是なり」

「天台大師 日本に伝教大師と生まる」(御書全集p1093)

「聖徳太子は用明の御子なり…南岳大師の後身なり 救世観音の垂迹なり」(御書全集p1098)

「伝教大師 …天台の後身なり」(御書全集p1100)

 

これは日蓮の遺文(御書)「和漢王代記」の記述で、これは日蓮真筆が、大石寺の近所にある富士門流本山寺院・西山本門寺に格蔵されている。日有の時代、大石寺と西山本門寺は交流があり、この遺文(御書)は大石寺9世日有も目にしていたはずである。

こういった日蓮一門の聖徳太子崇拝、伝教大師最澄崇拝思想からすれば、法隆寺本尊、延暦寺本尊をモデルにすることは、必然的に起こったことと言えよう。

 

そもそも大石寺9世日有は、「戒壇の大本尊」なる板本尊を、日蓮に見立てて、「戒壇の大本尊」=日蓮=本仏という教義まで発明し、人間の等身大に造立した板本尊である。

等身大に造立された秘仏本尊として、あまりにも有名なのが、世界最古の木造建築寺院・法隆寺の夢殿の本尊である救世観音立像。この救世観音立像は、623(推古31)年、聖徳太子入滅の翌年に造立されたと伝承されている仏像で、737(天平9)に、夢殿本尊として祀られている。

それが1884(明治17)年、諸堂並びに古書画調査のためにやってきたアメリカ人フェノロサ、ビゲロー、岡倉天心らが法隆寺に来寺し、彼等の要求により絶対秘仏だった救世観音像が数百年ぶに開扉されたことは、あまりにも有名である。

このとき、フェノロサと岡倉天心は、仏罰が下るとおそれる法隆寺の僧侶たちを説得して、無理矢理に開扉せしめ、救世観音立像との対面を果たし、その美を世に伝えた。

救世観音1

 



 

□絶対秘仏の時代から仏像の存在そのものは広く知れ渡っているほど有名だった救世観音像

 

救世観音立像は、フェノロサと岡倉天心によって開扉されるまでの数百年間、一度も開扉されたことがない絶対秘仏であったが、その存在そのものは広く知れ渡っているほど有名であった。

前出の日蓮遺文(御書) )「和漢王代記」にも

「南岳大師 観音の化身なり道宣の感通伝に出づ 六根浄の人日本の上宮太子是なり」(御書全集p1093)

「聖徳太子は用明の御子なり…南岳大師の後身なり 救世観音の垂迹なり」(御書全集p1098)

との記述が見えることから、日蓮もその存在を知っていたと思われ、「和漢王代記」が大石寺の近所にある西山本門寺に格蔵されていることから、日有も救世観音のことは知っていたと思われる。

又、日有は1432(永享4)年に京都天奏を行っているが、奏文を天皇の元に届けてもらうための伝奏を行ってもらうため、比叡山延暦寺、園城寺、東大寺、法隆寺、京都五山、南都六宗の大寺院を訪ねたと思われるので、そういう中で、救世観音立像の詳細を知り得たと考えられる。

 

いずれにしろ、日蓮一門の聖徳太子崇拝、伝教大師最澄崇拝思想により、比叡山延暦寺根本中堂の伝教大師最澄自作の秘仏・薬師如来立像。

法隆寺夢殿の秘仏本尊・救世観音立像が、大石寺9世日有の「戒壇の大本尊」偽作に大きな影響を与えたものと考えられるのである。

 

では、大石寺9世日有は果たして法隆寺に来たことがあるのかどうかということになる。もちろん日有は、この法隆寺に来ている。いつ来たのか。

それは1432(永享4)年の京都天奏の時である。日有は数え年の31才のこと。

なぜ大石寺9世日有は、法隆寺に来たのか。その目的は、朝廷とつながりの深い「官寺」である法隆寺に、天奏の申状を天皇の元に伝奏してもらわなくてはならないためだ。