■奈良法隆寺7(法隆寺案内役員)

 

「仏教宗学研究会」の取材で、法隆寺を訪れた時も、聖徳宗宗務院のみならず、案内役員の方からも、さまざまな話を聞くことができた。案内役員の方は、法隆寺の半被を着た初老の男性だったが、この人もなかなかの勉学家のようで、知識豊富な方であった。

どこでもそうだが、仏教寺院という所は、おしなべて敷居の高いところが多く、僧侶に質問しても、なかなか答えてくれなかったり、実に不親切な答えしか返ってこなかったりしがちだが、この案内役員の初老の男性は、私の質問に対しても、実に親切に答えてくれた。

 

□法隆寺は創建以来、1300年以上有るため、現在公開されている寺宝・重宝の他にも、倉庫・宝蔵の中には、まだ未公開の寺宝・重宝・古文書が眠ったままになって保管されている。

そうでなければ、これだけの寺宝・重宝を今日まで伝承することは不可能だっただろう。

 

□法隆寺もその昔は、南都六宗・天台・真言の「八宗兼学」の寺院の一つであり、今でいう「大学」の機能を兼ね備えていた。そういうことから全国各地の僧侶が法隆寺に修学に来ていた。

 

□明治時代、フェノロサと岡倉天心が開扉させた救世観音立像は、数百年の間、絶対秘仏であったため、当時の法隆寺の僧侶すらも見たことがなかった立像だった。

 

□聖徳太子の等身大の立像は夢殿本尊の「救世観音像」のみ。

 

やはりここでの最大の関心事は、聖徳太子の等身大に造立されたという救世観音像である。

救世観音1


そもそも「等身大の仏像」そのものが、仏教界では実に珍しい存在なのである。

仏典には、釈迦牟尼の身長は、一般人の数倍あると書かれているため、日本では、平安時代の頃まで、16(4.8m)を釈迦如来立像の身長の基準としており、これを「丈六」(じょうろく)と呼んでいた。

これは立像の場合で、坐像だと16(4.8m)から座高を割り出して9(2.7m)となる。

ところがこれが鎌倉時代に入ると、仏像の発注主が天皇・貴族・公家から武家に移り、天皇・貴族・公家ほど財政的な余裕がない武士たちは、コスト削減のために丈六の基準よりも小さいサイズの仏像を求めるようになった。

こうして坐像で1.6m前後の仏像が造られるようになり、さらに江戸時代になると、坐像で60センチ前後の、さらに小型の仏像が主流になったというわけである。

 

したがって、仏像の立像が、そもそも人間の等身大に造立されるということは、まずないのである。

そういう意味で、法隆寺の夢殿本尊・救世観音立像が聖徳太子の等身大に造立されていることは、まことに注目に値するものであり、室町時代の中期、ここを訪れた日蓮正宗大石寺9世法主日有が、これを模倣して自らが偽作した「戒壇の大本尊」なる板本尊を「等身大」に造立したと考えられるのである。