■比叡山延暦寺4(不滅の法灯)

 

比叡山延暦寺・根本中堂で、観光客にいろいろと説明していた尼僧が

「足利義教・織田信長の焼き討ちでも『不滅の法灯』は消えなかった」

と言っていた内容は、明らかにおかしい。足利義教・織田信長の焼き討ちで、少なくとも比叡山延暦寺の根本中堂は全焼しているのに、「不滅の法灯」が消えなかったわけがないではないか。

あまりにも疑問に思ったので、私も帰宅してたから、少々調べてみた。

するとインターネット・フリー百科事典・wikipediaの「延暦寺」の項目には、次のように書いてある。

「本尊厨子前の釣灯篭に灯るのが、最澄の時代から続く「不滅の法灯」である。この法灯は信長の焼き討ちで一時途絶えたが、山形県の立石寺に分灯されていたものを移して現在に伝わっている」

根本中堂2

 

どこからどう調べたのか、わからないが、今の比叡山延暦寺・根本中堂の「不滅の法灯」は、山形県の立石寺に分灯されていたものを移して、今に伝わっていると書いてある。

やはり、織田信長の焼き討ちで「不滅の法灯」は途絶えたことを認めている。私は、山形県の立石寺にも「旅紀行」で訪れたことがあったが、この根本中堂の「不滅の法灯」が分灯されていたとは、全く知らなかった。

そこでインターネット・フリー百科事典・wikipediaの「立石寺」の項目には、次のように書いてある。

「大永元年(1521年)、寺は天童頼長の兵火を受けて一山焼失した。天童頼長は斯波兼頼の孫の斯波(天童)頼直を祖とする天童家の末裔である。永正17年(1520年)、頼長は山形盆地に進出した伊達稙宗と戦うが、この際立石寺が伊達側に加勢したために、頼長の怒りを買い、翌年焼き討ちを受けたものである。なお、現存する立石寺中堂は後世の改造が多いものの室町時代中期の建物とされている。焼き討ちの際に、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消滅し、再度、分燈することとなるが、1571年の比叡山焼き討ち後の再建時には、立石寺側から逆に分燈されることとなった。」

 

つまり立石寺も何度も焼き討ちの被害に遭っており、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消滅して、再度、分燈されたのだが、織田信長の比叡山延暦寺焼き討ちのさいには、逆に立石寺の法灯が延暦寺に分灯されたとしている。

やはり、織田信長の比叡山延暦寺焼き討ちで、「不滅の法灯」は消えてしまったが、その後、立石寺の分灯が「分灯」されたわけですね。

それならそれで、そういうふうに尼僧も説明すればいいのに、なぜ虚勢を張って「比叡山延暦寺焼き討ちでも「不滅の法灯」は消えなかった」などとウソを言うのだろうか。

こういうところは、比叡山延暦寺に限らず、日本仏教界の悪しき体質なのかもしれない。