■比叡山延暦寺6(戒壇院)

 

比叡山延暦寺に行ったからには、弘仁13(822) 、伝教大師最澄の死後7日目にしてようやく許可された大乗戒壇を一目見ておく必要があった。

延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者・伝教大師・最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教・南都六宗から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようにしようということである。

当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかった。

最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。その伝教大師・最澄の宿願であった大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく朝廷から許可されたものであった。

この戒壇院は、延宝6年(1678年)の再建の建物というえことだが、それ以上の詳しいことはわからない。というか、この戒壇院は、伝教大師・最澄が生涯をかけた宿願である建物なのに、どういうわけか、比叡山延暦寺・比叡山振興会議が発行している公式パンフレット「比叡山」には、一言も紹介されていないのである。戒壇院は、観光資源としての価値がないと目されているのか。

 

そういうこともあってか、私は、最初に比叡山延暦寺に行ったときは、てっきり戒壇院=根本中堂と勘違いしていたくらいだった。その後、ある人と話した折に、比叡山延暦寺の根本中堂と戒壇院は別個の建物であることがわかり、二度目、三度目にここを訪れたときは、両者を混同しなくなったという次第。

それともう一つ、この戒壇院は、伝教大師・最澄が生涯をかけた宿願である建物というわりには、そんなに大きな建物ではない。むしろ根本中堂のほうが二倍、三倍以上、大きな建物である。

しかも表の扉は固く閉められていて、中の様子を伺い知ることはできない。なんとも閉鎖的な建物で、こういうのは、あまりいい印象を人に与えないでしょうね。

見ていると、日蓮正宗や創価学会のような閉鎖的でダーティなイメージがかぶって見えてしまう。

まあ、もっとも比叡山延暦寺は、室町・戦国時代に、何度も焼き討ちにあっているから、再建されたときに規模が小さくなってしまったのかもしれないが、私としては、見た感じ、期待とは裏腹に、いささか拍子抜けした印象を持ちました。

延暦寺3戒壇3
 

□臨済宗南禅寺派教学部刊「戒壇歴訪」に出てくる比叡山延暦寺戒壇院

 

さて、どうにかして延暦寺戒壇院の中の様子を知ることができないかと考えていたところ、思いもかけない所から、資料が手に入った。それが臨済宗南禅寺派・中村文峰管長以下、南禅寺派高僧が下野薬師寺戒壇、東大寺戒壇、太宰府戒壇院、唐招提寺戒壇、延暦寺戒壇院を歴訪した訪問記を記した「戒壇歴訪」という本である。

この本によれば、南禅寺派・中村文峰管長、清水軒老大師、宗務総長、信徒部長、教学部長らが平成23(2011)38日に延暦寺を訪問。この時、延暦寺戒壇院に赴いて参拝したという。

「戒壇歴訪」によれば、延暦寺戒壇院の中は、次のようになっているという。

 

○壇は一壇のみである。

○壇は石材であり、したがって床も石である。

○壇上中央奥に三尊仏が祀られている。

 中・釈迦牟尼仏

 左(向かって右)・弥勒菩薩

 右(向かって左)・文殊菩薩

 両脇侍はお互いに向かい合っている。

○壇の奥行きは8.23m。間口は8.8m

○階段は正面のみ。段は三段で四段目が壇上。

○階段 一段目の高さ 25cm

       二段目の高さ 23cm

       三段目の高さ 23cm

したがって壇総高は71cmである。

○覆堂は延宝6(1678)に再建された。

 

「戒壇歴訪」の記述では、こうなっている。

比叡山では、法華大会のときに授戒を行うが、対象となるのは僧籍のある者のみ。

7月と8月、それぞれ三泊四日で執り行い、人員は200名くらいであるという。