■鎌倉極楽寺1(忍性の社会的評価)

 

極楽寺(ごくらくじ)とは、神奈川県鎌倉市極楽寺にある真言律宗の寺院で、正式名称は霊鷲山(りょうじゅさん)極楽寺という。開基(創立者)は北条重時で、開山は忍性(にんしょう)である。

中世には七堂伽藍をはじめ、子院49箇の塔中坊を有する大寺院であったが、度重なる火災や戦乱で伽藍の大半が焼失。現在は、山門や本堂などが、山影にひっそりと建っているのみである。

ここへ来てみると、「あの極楽寺って、こんなに小さい寺院なの」という感じで、ちょっとビックリしてしまうくらいである。

極楽寺の実質的な開祖である忍性が当寺に入寺したのは文永4年(1267年)のこととされている(『忍性菩薩行状略頌』)。

忍性(にんしょう・12171303)とは、鎌倉時代の律宗(真言律宗)の僧で、号は良観という。日蓮が、遺文の中で「極楽寺良観」と呼んでいる人である。

忍性(極楽寺良観)という人は、日蓮宗や日蓮正宗では、日蓮の遺文でポロクソに書かれているからか、大変イメージの悪い人なのであるが、忍性(極楽寺良観)は叡尊に惹かれて再度叡尊の下で授戒して弟子となり、1240年に常施院を設け、ハンセン氏病患者らの救済などの慈善活動、悲田院を改修して非人救済を行うなどの社会事業を行い、この間に律宗布教にも努めた。

悲田院(ひでんいん)は、仏教の慈悲の思想に基づき、貧しい人や孤児を救うために作られた施設のことで、鎌倉時代には忍性(極楽寺良観)が各地に開設した。それ以降、中世は非人の拠点の一つとなったといわれている。

忍性(極楽寺良観)の師の叡尊は民衆への布教を唱えながら、自分には不得手であることを自覚して当時の仏教において一番救われない存在と考えられていた非人救済に専念し、その役割を忍性(極楽寺良観)に託した。忍性(極楽寺良観)は非人救済のみでは、それが却って差別を助長しかねないと考えて非人を含めた全ての階層への救済に尽力した。

日蓮は、遺文の中で、忍性(極楽寺良観)のことを、

「三学に似たる矯賊の聖人なり」「僣聖増上慢にして今生は国賊、来世は那落に堕在せんこと必定せり」(「極楽寺良観への御状」・平成新編御書全集p376)

などと、口を極めてボロクソに非難しているが、他方では、このように、忍性(極楽寺良観)は、中世の時代では、全くといっていいほど見られなかった、社会事業、慈善事業に力を入れており、社会的な評価は、とても高い人なのである。

忍性1


 

□良観房は「両火房」、極楽寺は「地獄寺」だと口を極めて極楽寺忍性を非難した日蓮

 

江ノ島電鉄極楽寺駅近くに茅葺きの山門があり、桜並木の参道を進んだ先には本堂、大師堂、宝物殿、茶屋などが建っている。本堂の裏には鎌倉市立稲村ガ崎小学校があるが、同校の校地が往時の極楽寺の中心伽藍のあった場所であるとされている。中世の全盛時代には、かなり大きな寺院であったようである。

極楽寺の本尊は、木造釈迦如来立像で、重要文化財に指定されている。台座内に永仁5年(1297年)の銘があるとされている。又、この本尊は、「秘仏」で47日~9日のみ開扉される。

ところで日蓮と極楽寺忍性(良観)の対立はあまりにも有名である。

日蓮は、忍性(良観)の行った慈善事業については、財源確保のために、道路に関所を設け、米や銭を徴収したことで、「還(かえ)って人の歎き」「諸人の歎き」(聖愚問答抄・平成新編御書全集p384)になっていると、それらは偽善だと批判している。

そして大旱魃に見舞われた文永8(1271)年夏、極楽寺忍性(良観)は、大干ばつの中、思いのままに雨を降らすことができると公言していたが、日蓮はその良観に、祈雨の勝負を挑んだ。

極楽寺忍性(良観)は、鎌倉中の僧を総動員して祈ったが、雨は降らず、ところが日蓮が祈雨の読経をはじめると、たちまちに雨雲が出てきて、鎌倉に雨が降ったという、伝説のような話しが、日蓮宗や日蓮正宗では語られている。

日蓮正宗や創価学会では、日蓮に対して文永8(1271)年9月12日の夜半から引き起こされた竜の口法難、佐渡流罪、日蓮の弟子信徒に対する大弾圧は、いずれも極楽寺忍性(良観)の陰謀によるものであった、などと「良観陰謀説」を唱えている。

しかしそれでなくても、日蓮は、終始一貫して、極楽寺忍性(良観)のことを、いろいろな遺文の中で、ボロクソに非難している。

「三学に似たる矯賊の聖人なり」「僣聖増上慢にして今生は国賊、来世は那落に堕在せんこと必定せり」(『極楽寺良観への御状』・御書全集p367)

「両火房と申す謗法の聖人、鎌倉中の上下の師なり。一火は身に留まりて極楽寺焼けて地獄寺となりぬ」(『王舎城事』・御書全集p975)

 

つまり、事前事業などを行って社会的評価が高かった忍性に対して、日蓮は「良観房は両火房」、「極楽寺は地獄寺」だなどと、口を極めて非難しているのである。

それにしてもこの日蓮の語り口は、今話題の、日蓮正宗大石寺理境坊妙観講あたりの他宗派非難・罵倒口調を彷彿とさせるものがある。妙観講も、日蓮のこういった語り口を模倣しているのか。だとすれば、こういったことは、日蓮が遺した「負の遺産」ということなのかもしれない。

 

極楽寺9