■鎌倉極楽寺2(現在の極楽寺)
極楽寺の実質的な開祖である忍性が極楽寺に入寺したのは文永4年(1267年)のこととされている(『忍性菩薩行状略頌』)。極楽寺の古絵図を見ると、往時の境内には施薬院、療病院、薬湯寮などの施設があり、医療・福祉施設としての役割も果たしていたことがわかる。
『吾妻鏡』によると、北条重時3回忌法要は、弘長3年(1263年)にこの極楽寺において西山浄土宗の僧侶・宗観房を導師として行われている。このことから、弘長3年の時点では極楽寺は浄土教系の寺院であり、忍性の入寺(文永4年・1267年)によって真言律宗に改宗したとする説がある。しかしながら、寺に伝わる仏具(五鈷鈴)に建長7年(1255年)の年記とともに「極楽律寺」の文字が見えることから、忍性の入寺以前に真言律宗寺院化していたと見る意見もある。
極楽寺は忍性の入寺から10年も経たない建治元年(1275年)に焼失するが、忍性自身によって再建された。最盛期の極楽寺には七堂伽藍に49箇院の子院が立ち並んでいたという。
忍性の入寺から中世の頃にかけて、まさに極楽寺が最盛期にあったようである。
しかし現在の極楽寺に、最盛期当時の面影を見ることはできない。はたして最盛期には、七堂伽藍に49箇院の子院が立ち並んでいた大寺院だったのだろうか、と思ってしまうほど、今はこじんまりした寺院に見える。
資料を調べると、本堂裏(西)には鎌倉市立稲村ヶ崎小学校があるが、ここの校地が往時の極楽寺の中心伽藍のあった場所であるとされている。
小学校の西側のグラウンドのさらに西には極楽寺の奥の院(墓地)があり、忍性塔と呼ばれる大型の五輪塔をはじめ、多くの石塔が立つ。
江戸期に作成された『極楽寺絵図』によれば最盛期には現在の極楽寺から小学校の建つ谷一帯が極楽寺の境内であった。
そして現在江ノ電が走っている極楽寺川沿いの谷にはハンセン病患者など病者・貧者救済の施設があったと思われる。
□何度も火災に遭い、後継者難に陥り境内が狭くなった極楽寺
極楽寺のかつての大伽藍は、その後、何度も火災にあい、火災・再建復興を繰り返している。
徳治3年(1308年)に火災で焼失。修復費用獲得のため、鎌倉幕府公認の下、正和4年(1315年)ごろ元へ交易船(寺社造営料唐船)が派遣され、極楽寺の僧侶円琳坊が同乗している。
元弘3年(1333年)には後醍醐天皇の綸旨を得て寺領を安堵されるが、同年から翌年にかけて鎌倉幕府滅亡に伴う戦乱に巻き込まれ、大きな損害を受けた。
応永32年(1425年)に火災で極楽寺の伽藍を焼失。永禄年間(1558 - 1570年)に当時の住職・性善が中興する。
元亀2年(1571年)にも極楽寺が火災に遭っている。
天正19年(1591年)には徳川家康より九貫五百文の朱印地が与えられた。
明暦2年(1656年)には当時の住職・恵性が再度、極楽寺を中興した。
天明5年(1785年)には、極楽寺の檀家と横浜市金沢区の真言律宗寺院・称名寺から、本山・西大寺に「後住決定願」という文書が提出されている。これは本山に対して、極楽寺の次の住職を派遣してほしいと願うものであり、当時の極楽寺が住職不在の無住の寺であったことがわかる。
その数年後の寛政10年(1798年)に極楽寺を訪れた沢庵宗彭は、当時の極楽寺の様子について「壁は落ち、屋根は破れ、棟木はたわんでいる」と描写しており(『鎌倉順礼記』)、江戸時代後期にはそうとう、極楽寺の荒廃が進んでいたことがわかる。
つまり江戸時代においては、住職の後継者難の問題で、極楽寺が後継住職不在という状態にまで、落ち込んでいたようである。
今であれば、どこの宗派も妻帯し子どもをもうけているから、自分の子どもを僧侶にして、自らの後継者にするということが可能だが、江戸時代においては、妻帯ができた僧侶は、浄土真宗のみ。浄土真宗以外の僧侶の女犯・妻帯は、江戸幕府が厳しく取り締まっていた。そのため、檀家などから僧侶の徒弟をとれない寺院は、たちまち後継者難に陥ってしまうということになる。
これは極楽寺にかぎったことではなく、日蓮宗、日蓮正宗 大石寺門流も言うに及ばず、曹洞宗、臨済宗、浄土宗、天台宗、真言宗、律宗、法相宗、華厳宗、三論宗…といった宗派も同じこと。
江戸時代から明治、大正、昭和に至るまで、後継者難に陥って、寺の跡継ぎがおらず、無住の寺院になった寺は、あちらこちらにけっこうある。日蓮正宗・大石寺門流においても、明治・大正・昭和の戦前期において、住職がいない無住の寺院がかなりあり、他の住職が兼任していたようである。
それにしても極楽寺の場合は、度重なる火災と後継者難の問題によって、ここまで境内が狭まり、往時の伽藍も失ってしまうことになるとは、かつての最盛期も「今は昔」という思いを抱かざるを得なくなる。
コメント
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2へ続く
要するに授戒師として日本に招かれた鑑真和尚さんが天台大師の『法華玄義』・『法華文句』・『摩訶止観』の法華三大部を将来したのです。また大きな理由として「我れ聞く南獄の思公(南岳大師慧思)は和国に生まれて仏法を弘むと。太子の事、我れ之を知れり」(『元亨釈書』国訳史伝部19-47)と書いてあるように日本が天台大師の師匠の南岳大師慧思さんの生まれ変わりとされる聖徳太子により『法華経』を始めとして仏法が大いに弘められた事を喜んだからであります。しかし当時の仏法興隆が内実を伴わないものである事を知り、鑑真和尚さんは『玄義』・『文句』・『止観』を説く事を控えて南山道宣律師の小乗戒を説くだけにしました。
3へ続く
後世に『玄義』・『文句』・『止観』を用いて『法華経』が弘通される事を期待したに違いありません。 鑑真さんの弟子の法進さんが三度『玄義』・ 『文句』・『止観』の講義をしましたが『法華経』の本格的な宣布には至りませんでした。鑑真さんの期待は伝教大師によって叶えられたのです。要するに伝教大師は『玄義』・『文句』・『止観』の三大部の研鑽により法華の最勝を悟り天台法華宗を建立したのです。この事は『元亨釈書』に 「適 南京に於て玄義・文句・止観・四教義・維摩経の疏等を写し得たり、是れ鑑真の帯び来れるものなり」(国訳史伝部19 -49)と書かれてある事により知る事がて来ますよ。律宗は『法華経』を弘める為、機を調える為の教えであったのです。