一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

2012年07月

日蓮本宗・鳥辺山實報寺3(下之坊に日目の遺骨はない)

 

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p6971に収録されている、京都・東山の延年寺墓地に葬られた日目の墓地を、富士門流が延年寺から墓地を四度にわたって買い取って、墓域を拡張した四通の文書(堀日亨は売券と呼んでいる)によって、日目が京都・鳥辺山の延年寺墓地に葬られたことは明らかである。

實報寺11日目墓4


この古文書を堀日亨は正文書と認めており、さらに上代の法主である大石寺17世日精も、「家中抄」で、日目は京都・東山・鳥辺野に葬られたと書いている。つまり日蓮正宗大石寺の上代の法主が、日目は京都・鳥辺山に葬られたと認めているのである。

それにも関わらず、今の大石寺は、日郷が日目の遺骨を持ち帰って富士に葬った、などと言っており、「仏教哲学大事典」には次のように書いてある。

「日尊は京都の鳥辺山(東山鳥辺野)に墓所をつくり、日郷は遺骨を持ち帰って富士大石寺に帰り、下之坊に納めた。日目上人の正墓は上野の下之坊の右手、富士を背にした景勝の地にあり、総本山富士大石寺を見守っているような位置にある」(『仏教哲学大辞典』p950)

 

これによると日尊は京都・鳥辺山に日目の墓所だけを造り、遺骨は日郷が富士に持ち帰ったと言うことになる。そんなバカな話しがあるだろうか、といいたくなる。

自らの師匠を葬る正墓を造るのに、遺骨のない墓所を造る弟子がどこの世界にいるだろうか。

しかも、遺骨がない墓所の墓域を拡張しようと、わざわざ大金を支払って墓域の土地を四回も買収するはずがないではないか。鳥辺山の日目の墓所に日目の遺骨が入っているからこそ、墓域を拡張しようと土地を買収したのではないか。

 

では日郷は、本当に富士に日目の遺骨を持ち帰ったのか。

これも道理や常識から考えると、日郷がそんなことをするはずがないのである。

日目は、1333年、京都天奏の旅路の途中、美濃国垂井で死去した。京都天奏の志を遂げることなく、道半ばで倒れたわけである。では日目の弟子は、師匠・日目の遺骨をどこに葬るだろうか。

日蓮正宗に言わせると、弟子の日郷は遺骨を大石寺に持ち帰ったというが、本当に日目の弟子は、そうするだろうか。

3祖日目1


日蓮正宗の発想だと、日蓮正宗大石寺には「血脈相承」なるものがあり、日目は日興から「日興跡条条事」で唯授一人の法主に選定されたのだから、大石寺に葬られたのだ、ということになる。

しかし「日興跡条条事」も「血脈相承」なるものも、後代の法主である大石寺9世日有が偽作したものであり、全くの嘘っぱちである。

ならば、血脈相承だの日興跡条条事なるものを除去して冷静に考えたら、どうだろうか。どういうことかというと、ここは常識で考えるべきである。

つまり師僧が志し半ばで倒れ、目的を果たせずに死去したら、弟子はどうするのか。よくよく考えてみるべきである。

 

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺2(日目墓域を買収・拡張を記した古文書)

 

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p6971に収録されている、京都・東山の延年寺墓地に葬られた日目の墓地を、富士門流が延年寺から墓地を四度にわたって買い取って、墓域を拡張した四通の文書(堀日亨は売券と呼んでいる)とは、以下の古文書である。

 

1 1340(暦応3)の文書

「売り渡す延年寺観音堂西寄の地の事。

合台所在、東西壱丈、南北壱丈

右件の地は成願が相伝の私領なり。然りといへども、用事あるによつて直の銭壱貫文に安房の国当住大田の宰相阿闍梨日郷に売り渡し奉る所実なり。若し此の地におき候いて向後違乱煩い出来て候はん時は売り主の沙汰として本銭壱壱倍をもちて十箇日の内に弁え申し候べく候。後の為に売り券の状件の如し。

暦応三年七月十五日                延年寺成願在り判」

 

2 1344(康永3)の文書

「売り渡しまいらせ候延年寺の地の事。

合東西六尺、南北一丈、定 日目上人御墓前なり。

右件の地は故成願が私領なり。用要あるによつて日向の国富田の庄内、日知屋寺の別当御房(薩摩阿闍梨日眷)に永年お限って用途六百文に永く売り渡しまいらせ候所実なり。若し此の地に子細候はば此の状を先として御沙汰候はんに子細あるまじく候。若し無沙汰なる事候はば本の用途にても候へ、又別の地にても候へ急ぎ急ぎ沙汰仕り候べく候。仍って後日の為に証文状件の如し。

康永三年太歳甲申潤二月廿八日   故成願が後家比丘尼明知在り判」

 

3 1347(貞和3)の文書

「売り渡す延年寺の地の事。

合一丈、四方□□一貫文

右件の地は成願が私領にて候なり。用あるによつておしてらのれんさう無く永く売り渡しまいらせ候所実なり。若し此の地に子細煩い候はん時は異地にても又本銭にても候へ。弁へ申し候間、此の証を先として御沙汰あるべく候に子細候まじく候。仍って後の為に売り券の状件の如し。

貞和三年七月十八日 売り主 成願後家在り判」

富士宗学要集9

 

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺1(日目の正墓がある京都・鳥辺山御廟所)

 

實報寺(じっぽうじ)という寺院は、正式には多寶山實報寺といい、日蓮本宗本山・要法寺の末寺。つまり富士門流八本山・日尊門流の祖山である京都・要法寺の末寺。

實報寺3


要法寺が発行している小冊子「私たちの要法寺」の中では「鳥辺山御廟所」として載っていて、大石寺・要法寺・保田妙本寺・小泉久遠寺の三祖・日目の正墓がある他、要法寺歴代貫首の墓がある寺である。

場所は、京都・東山五条の鳥辺山にあり、便宜上、「鳥辺山實報寺」としました。

東山五条だから、東山三条の本山・要法寺から、そんなに遠くない所にある。

では、なぜこの寺に訪問することになったのかというと、三祖・日目の正墓探しをしている中で、訪問することになったわけですが、これが思わぬ形での訪問になった。

日蓮正宗大石寺に言わせると、日目の正墓は、日蓮正宗寺院・下之坊にあるということになっている。

大石寺が発行している「大石寺案内」という小冊子には、日目の正墓が下之坊にある旨、堂々と記載されているし、毎年の下之坊のお会式には、大石寺から法主が下向するのだが、法主は「墓参」と称して、下之坊の自称・日目の墓に墓参・読経・唱題する。

しかし、下之坊に日目の正墓があるというのは全くの虚偽であり、日目の正墓のある所は、下之坊でもなければ、日蓮正宗大石寺でもない。では日目の正墓はどこにあるのか。

 

富士門流の古文書を調査していくと、日目は京都・鳥辺山墓地に葬られたということになっており、日目の正墓は、京都・鳥辺山の延年寺にあることになっている。まず鳥辺山説を唱えているのは、日蓮正宗大石寺17世法主日精である。日精は自らの著書「家中抄・日目伝」の中で、次のように書いている。

「御骨を拾い頚にかけ涙に咽び遥々と京へ上り給ひて東山鳥辺野に御墓を築き給ふ、其の後日郷は哭く哭く御所持の道具御守り等取り持ちて富士にぞ下向し給ひける」

(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』5p191・日精著『富士門家中見聞』)

 

さらに堀日亨編纂『富士宗学要集』8p6971には、京都・東山の延年寺墓地に葬られた日目の墓地を、日郷門流が延年寺から墓地を四度にわたって買い取って、墓域を拡張した文書(堀日亨は売券と呼んでいる)が四通、収録されている。

日蓮正宗においても、この四通の文書を正文書と認め、日蓮正宗が発行している「富士年表」においても、この四通の文書(売券)が発行された1340年、1344年、1347年、1365年の四回の墓地買い取りを第1次~第4次の「日目墓地買い取り」として載せている。

59世日亨2

 

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日蓮本宗本山・要法寺28(本堂参拝を拒否した若手所化僧)

 

要法寺塔頭住職が、本尊への供養・合掌・読経を条件に本堂の本尊を拝ませても良い、という話しを出してきたのを断ったのは失敗だったなー、と後悔したのは、東京に帰ってだいぶ経ってからのことです。

あの住職の言葉は、ひょっとしたら入信しろ、という意味ではなかったのではないか。

どこの寺でも、「本尊を見せて欲しい」と言ったら、合掌・供養せよ、くらいのことは言うであろう。つまりあの時、塔頭住職が言ったのは、入信を条件にしたのではなく、極めて一般的なことを言っただけだったのではないか。だとしたら、住職の言葉を断ってしまったのは、大失敗である。

その後、要法寺の日尊六百五十回遠忌法要に行くといいながら、結局は、仕事の都合で行けなかったわけだから、ますます断ったことが悔やまれました。

しかし「後悔先に立たず」である。後で悔やんでみても、どうにもなりません。

 

しかし諦めきれない私は、どうにかして先の塔頭住職に再会して、要法寺本堂の本尊を拝見させてもらうわけにいかないだろうかと、考えるようになりました。

要法寺1本堂1


まあ十中八九は無理でしょうが、それでも何とかやってみて、だめならだめで諦めるしかないなと考えたわけです。

そこで再び、京都・要法寺行きを決行することにしました。

しかしそうはいっても、なかなか京都に行く機会に恵まれず、実際に再び京都・要法寺に行ったのは、日尊六百五十回遠忌法要から12年経った後のことでした。

私は再び自家用車をかっ飛ばして東名高速・名神高速を走って京都・東山三条へ。

この時は、だいぶ京都の道や地理を覚えていましたので、割と簡単に要法寺・駐車場にすべり込むことができました。

しかし要法寺へ行ったのはいいのですが、法要も行事も何もない日であったようで、境内・塔頭とも全く人影がない。人の気配が全く感じられないのです。

そこで私は寺務所の中に入り、無人の受付で人を呼んでみました。

要法寺33宗務院


すると、奥の方から一人、若い所化僧らしき僧侶が出てきました。その所化僧は、受付の係は、今はいない、という、これまた、まことにつっけんどんな答え。

「ずいぶん、つっけんどんな僧侶だな」と思いつつも、せっかく京都・要法寺まで来たのだから、前回、要法寺来訪の時の事情を説明して、本堂の中に入れてもらおうと交渉したのだったが

「信者以外の人には見せられません」

という、これまた頭ごなしの、高飛車な答えが返ってきた。

この一言にカチンときた私は

「なんだその言い方は」

と怒ったが、しかし本堂の中に入ることを正面切って断られてしまっては、もはやそれまで。

どうにかして、別の方法を考えるより外にありません。

 

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日蓮本宗本山・要法寺27(合掌礼拝を条件に参拝を認めた住職)

 

話題が本尊のことになったので、今の要法寺本堂、開山堂に祀られている本尊について、具体的に塔頭住職に質問。

 

○「本堂は日蓮大聖人の大曼荼羅、開山堂は日興上人の大曼荼羅ということですが、大曼荼羅にはそれぞれ図顕した年月日が入っているはずです。本堂、開山堂に祀られている大曼荼羅の図顕年月日は、いつになっているのでしょうか」

要法寺23鐘楼本堂

 

私は、要法寺本堂の本尊とは、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が編纂した「富士宗学要集」8巻に載っている「称徳符法の本尊」ではないのかな、と思っていた。堀日亨は、「称徳符法の本尊」を日蓮真筆としているが、偽筆の疑いが非常に強い曼荼羅で、立正安国会「御本尊集」には載っていない。立正安国会は、日蓮真筆とは認めていないと考えられる。

私としては、要法寺の朝の勤行に入ることに失敗してしまったことから、ここで塔頭住職公認の元に本堂の中に入って、どういう本尊が祀られているのか、確かめてみたいと思っていた。

この私の質問に対して、塔頭住職の回答は

「それは、わからないですね」

の一言。私が

「本堂の大曼荼羅本尊の図顕年月日が、わからないはずがないでしょう。わからないというのは、おかしいんじゃないですか」

というふうに私が押しても、なぜか塔頭住職は無言。それとも、隠そうとしていたのか。別に大曼荼羅の図顕年月日などというのは、隠す理由などないと思うのだが。私は、さらに押してみた。

 

○「では本堂の大曼荼羅本尊を拝見させていただけませんか。見たところ、本堂の扉も開いているようですし」

この私の質問というか要望に、塔頭住職はずいぶん驚いた様子を見せ、しばらく思案した後、こんな回答をしました。

□住職「あー、わかりました。それでは御本尊様に御供養を申し上げ、合掌・礼拝して読経・唱題をなさるということであれば、いいでしょう」

 

この塔頭住職の回答に、今度は私のほうが驚いてしまいました。「えーっ」という私の驚きに、塔頭住職は間髪を入れずに

□住職「当然でしょう。ここは寺院です。博物館や美術館で展示物を見学するのとは、ちがうんです」

要法寺1本堂1
 

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日蓮本宗本山・要法寺26(釈迦仏像本尊の歴史を否定)

 

話題は、要法寺の血脈、貫首、大石寺との関係から、要法寺の本尊の話題になった。

本堂での朝の勤行に入ることが出来なかったこともあったため、ここで私としては、要法寺本堂の本尊は、何が祀られているのかを確かめたいと思い、ここのところを塔頭住職に質問。

 

○「本堂には、何を本尊として祀られているのですか」

□住職「本堂は、宗祖日蓮大聖人の大曼荼羅です」

 

○「開山堂のほうは、何を本尊として祀られているのですか」

□住職「開山堂は、御開山日興上人の大曼荼羅です」

要法寺1本堂1
 



要法寺が本尊として祀っているのは、大曼荼羅であるという回答。大曼荼羅を本尊として祀っていること、日蓮のことを「大聖人」と呼んでいること、日興のことを「御開山」と呼んでいるのも、日蓮正宗大石寺と同じ。ただし、日蓮のことを「大聖人」と呼ぶのは、日蓮正宗や富士門流だけではなく、日蓮宗の寺院でも、日蓮を「大聖人」と呼称している本山はいくつかあります。身延山久遠寺や池上本門寺でも、日蓮を「大聖人」とよんでいる。

 

「本堂は、宗祖日蓮大聖人の大曼荼羅です」

「開山堂は、御開山日興上人の大曼荼羅です」

塔頭住職の答えは、胸を張って、いかにも自信に満ちた答えでした。

「富士門流なんだから、本尊は大曼荼羅本尊に決まっていますよ」という意味が込められていることは明らか。しかしそういう意味を込めているとしたら、こちらだって言いたいことがある。そのあと、私は多註住職に、少々、意地の悪い質問をぶつけてみました。

 

○「要法寺さんでは、昔から大曼荼羅を本尊とされていたのですか」

□住職「そうです。当山では開創以来、大曼荼羅を本尊としてきています」

 

塔頭住職は、語気を強めて、こう答えたのです。それはおかしいでしょう。

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が編纂した「富士宗学要集」には、中世のころ、要法寺が造仏読誦を容認した古文書がいくつも収録されているし、立正大学日蓮教学研究所が編纂した「日蓮宗宗学全書」には、要法寺13世貫首・広蔵院日辰の著書である「開迹顕本華ニ論議得意鈔」「造仏論義」「読誦論義」が収録されている。これらのものは、広蔵院日辰が造仏読誦を容認・推奨した証拠である。私はつづけて塔頭住職に質問した。

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日蓮本宗本山・要法寺25(選挙で選出されていた貫首)

 

要法寺貫首の話しが出て、そこからちょっとした歴史の話になった。

要法寺17表門


塔頭住職の話では、「日蓮大聖人、日興上人の仏法、法脈は要法寺に受け継がれている」という主旨の話しをしていた。それ、どこかで聞いたような話ですね。この塔頭住職の話は、日蓮正宗大石寺法主の血脈相承をそっくりそのまま、要法寺貫首にすり替えたような話しだった。

では要法寺の貫首はどんな選び方をしているのだろうか。大石寺のように現法主ないし前法主が、次期法主を選定・指名するというやり方なのだろうか。そこで、住職に質問。

 

「猊下はどのようにして選んでいるのですか」

住職は一瞬、間をおいたあと

「選挙で選んでいます」

との回答。つまり選挙で選んだ要法寺貫首が、要法寺の仏法を所持しているというむ感じになるのだろうか。無宗教の私には、どうもここのところが、何ともわかりにくい。

私にとっては、日蓮正宗大石寺と全く瓜二つの宗門がここにもある、という印象しかありませんでした。

いろいろ要法寺について調べたり、塔中住職と話しをしていると、大石寺との類似性を強く感じた。そこで私は、大石寺との共通性について質問してみた。

 

「猊下やご住職が着ておられる法衣は、大石寺の僧侶が着ている法衣と同じですね」

この質問に対する塔頭住職の答えは、「大石寺とは同じ日興上人の門流、富士門流ですから」というもの。しかしこの塔頭住職は、大石寺との共通性の話題になると、あまり歯切れが良くありませんでした。

かつて大石寺法主の中に、要法寺出身の法主がいること。室町時代から江戸時代にかけて、要法寺と大石寺は通用していたことに触れても、塔頭住職の答えは

「要法寺と大石寺は、同じ日興上人の門流ですから」

というステレオタイプ的な答えしか返ってこない。

つまり塔頭住職の答えは、かつて要法寺と大石寺が通用・交流していたのは、同じ日興門流・富士門流なんだから、通用・交流というものがあって当たり前。要法寺が交流していたのは、何も大石寺だけじゃなく、他の北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺等々、他の富士門流の本山とも交流があったというような回答。確かに歴史的なことを言えば、そういうことになるのでしょう。

今は、要法寺と大石寺は断絶状態だが、これは大石寺側に責任があるということを言外に含ませているようです。

 

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日蓮本宗本山・要法寺24(加歴等で特殊な数え方)

 

思わぬ形で要法寺塔頭住職との単独会見が実現したわけだが、私としては、塔頭住職から、単なる見学者か参拝者と思われていると、質問をしても真っ当に答えてくれないのではないかという心配がありました。あの当時は、ネットもブログもSNSmixiもない時代で、もちろん「アンチ日蓮正宗」や「仏教宗学研究会」を立ち上げる前。

しかし学生時代から、様々な宗教被害の経験を通して、反骨的に日蓮正宗・創価学会・顕正会・正信会・富士門流のことを研究してきており、それなりの知識はすでに持っていた。それでも、塔頭住職には、若い頃から、富士門流や要法寺に関する書籍や古文書・史料等々をいろいろ調べていて、その関係で要法寺を訪ねたことは伝えました。そして前回の訪問の時に、要法寺の朝の勤行に入ろうとしたが、寝坊で遅れてしまい、本堂の中に入れなかったこと。勤行が終わった後、貫首が渡り廊下から庫裡に帰っていく姿が見えたと言うことも話した。

要法寺19渡廊下


私が「貫首」という言葉を使ったからか、住職は

「猊下ですか」

と一言。

要法寺でも貫首のことを猊下と呼称しているようで、この住職の「猊下ですか」のひと言は、実質的に私に「猊下と呼んで下さい」と言っているようなもの。まあここは、せっかく要法寺に来て塔頭住職の話を聞こうとしているわけですから、ここは要法寺貫首を「猊下」と呼ぶことにした。

 

○「猊下のお名前は、何とおっしゃるのですか」

□住職「嘉儀日有と言います。嘉儀とは『かぎ』。日有と書いて『にちゆう』とお読みします」

 

日有と聞くと、日蓮正宗大石寺9世法主日有を連想してしまいますが、大石寺法主のほうは日有と書いて「にちう」と読むが、要法寺貫首のほうは日有と書いて「にちゆう」と読むそうである。

同じ漢字名でも、読み方が違う例は他にもある。

日蓮正宗大石寺66世細井日達の「日達」は「にったつ」と読むが、日本山妙法寺開祖・藤井日達の「日達」は、にったつではなく、「にちだつ」と読む。Wikipedia・フリー百科事典は藤井日達(ふじい にったつ)と読み仮名を書いているが、これは誤りである。

 

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日蓮本宗本山・要法寺23(塔頭住職との単独会見)

 

以前に書きましたが、私がはじめて要法寺に行ったのは、1994(平成6)年の要法寺開祖・日尊650遠忌の年。私としては、日尊650遠忌法要の当日に要法寺に行くことを狙いたかったのだが、日尊の命日は58日。つまり、世間ではゴールデンウィーク明け。

この日に京都に行くというのは、まことに厳しいということになり、ゴールデンウィーク中に、要法寺に行ってみることにした。法要の当日ではなくても、ゴールデンウィーク中であれば、信者が参詣しているかも知れないし、要法寺貫首に会うというのは無理だとしても、僧侶・塔頭住職に会うぐらいはできるのではないかと考えたわけです。

 

それにしても、東京と京都は高速道路で移動しても約500キロ離れているが、あの当時の私は、500キロ離れている所へ高速道路で行くということについて、けっこう平気でした。今にして振り返って思うと、「よくあんなことをしたもんだな」と思うことが、いくつもあります。

さて、この時に要法寺に行ったのは早朝ではなく、日中。東京を朝6時に出て、東名高速~名神高速を飛ばして、途中、ゆっくり休憩したとしても、正午過ぎには京都に着きます。

さて、要法寺に行ってみると、表門や本堂前には、鶴丸のマークが入った白い横断幕のようなものが張られており、いよいよ日尊650遠忌法要が近づいているという雰囲気。

表門から境内の中に入ってみると、法衣を来たかっぷくのいい中年僧侶が、竹ほうきを手に持って、境内の落ち葉等を掃いているのが目に入りました。

法衣というのは、薄墨色の衣の上に、外出用の黒い衣みたいなものを着た姿で、このスタイルは日蓮正宗や富士門流の僧侶と全く同じ。しかも表門や本堂に鶴丸のマークが入った白い横断幕のようなものが張られていると、何か日蓮正宗の寺院に来たような錯覚になってしまいます。

しかしそこは、日蓮正宗ではなく、富士門流・日蓮本宗の本山・要法寺。

要法寺23鐘楼本堂

 

私は、この時を千載一遇のチャンスととらえ、早速、その竹ほうきで掃きそうじをしていた中年僧侶に声をかけ、話を聞きたい旨を申し伝えた。するとその僧侶は、特に拒否する様子もなく

「いやー、ようこそいらっしゃいました。あー、こんな格好で、大変失礼いたしますう」

という感じで、私の来訪を歓迎しますという風に迎えてくれた。

私は、この時、1994年当時、「富士宗学要集」をはじめ、さまざまな文献・史料で要法寺に関する知識を得ており、要法寺の僧侶に会って、直接話が聞けるというのは、またとないチャンスととらえました。

一方、僧侶のほうは、京都観光に来た見学者か、参詣者の一人が来たぐらいに思ったのでしょう。

要法寺の境内において、私とこの僧侶の単独会見と言うことになった。境内には、他に誰か人がけは見られませんでした。

 

○「要法寺さんの塔頭のご住職でいらっしゃるのでしょうか」

□僧「そうです。私は○○院の住職の△△と申します」

 

どの塔頭で、名前も聞いたのでしたが、この時は名刺をもらったわけでもなく、残念ながら名前は失念してしまった。

とにもかくにも、私はこの時、要法寺塔頭住職との単独取材会見に成功したのでありました。

要法寺18石塔
 

 

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ヤフーオークションに、日蓮の大曼荼羅本尊が、1億円の価格で出品された事件の絡みで、当該の曼荼羅が「昔、週刊誌に載っていた、京都の日蓮宗寺院から盗難に遭った曼荼羅ではないか」

との説が出たので、平成7年に起こった「日蓮真筆大漫荼羅本尊盗難事件」を検証してみたい。

まず時系列に並べると、概ね以下のようになる。

 

1995(平成7)

428  神奈川県鎌倉市妙本寺,宝蔵庫に不法侵入されるが盗難未遂に終わる(仏教タイムス)

5 7  千葉県茂原市法華宗本門流鷲山寺,不法侵入されるが盗難未遂に終わる

512  日蓮宗宗務院,一連の宗宝盗難事件に対し真蹟類格護に万全を期すよう宗門関係寺院に注意を喚起する〈6・16〉(仏教タイムス)

529  京都市本門法華宗妙蓮寺,日蓮聖人真蹟曼荼羅本尊他寺宝6点が盗難に遇う

7 2  京都市日蓮本宗要法寺,宝物の一部が盗難に遇う(仏教タイムス)

1027  京都市本圀寺,日蓮聖人真蹟曼荼羅など宗宝・寺宝の盗難被害届けをする(だいぶ後になって盗難が発覚したもの)

本尊041

 

これらの事件は未遂も含めてのものですが、

1995(平成7)529日  京都市本門法華宗妙蓮寺での盗難事件

1995(平成7)1027日  東の身延山に対し「西の総本山」と呼ばれている日蓮宗の大本山・本圀寺での盗難事件

この二つは、実際に日蓮直筆の大漫荼羅本尊が盗まれている。

この当時は、日蓮正宗と創価学会の「宗創戦争」が最も派手に繰り広げられていた時代でしたので、この宗創戦争との関連が盛んに囁かれていた。

 

1991(平成3)1128日 日蓮正宗が創価学会を破門

1992年(平成4年)

7月 創価学会が全国の地区幹部の中から「友人葬」などの冠婚葬祭を執り行う導師を任命。

811日 池田大作が日蓮正宗から信徒除名処分にされる。

1993年(平成5年)

10月 栃木県・淨圓寺所蔵の日寛書写(享保五年)の曼荼羅本尊を新形木御本尊として、世界の創価学会員に授与することを制定。

 

こういった流れの中で、創価学会員全員の日蓮正宗信徒の資格喪失も時間の問題と言われていた最中のこと。実際、1997年(平成9年)121日 日蓮正宗が「宗規」を一部改正して、創価学会員の日蓮正宗の信徒資格を全て喪失せしめることを決定している。

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■富士本照寺2(大石寺の熱原三烈士墓碑)

 

静岡県富士市の日蓮宗・本照寺に熱原法難で殉死した神四郎の墓があるということになると、日蓮正宗大石寺にある「熱原三烈士の碑」とき一体何なのか、ということになるわけです。

熱原三烈士碑1


日蓮正宗の公式見解によれば、これはあくまでも「碑」であるとなっている。

日蓮正宗富士学林が発刊した「富士年表」によれば、日蓮聖誕七百年の大正10(1921)に、この「熱原三烈士彰功碑」が建てられた、となっていて、墓ではなく「熱原三烈士彰功碑」となっています。

大石寺が発刊した小冊子「大石寺案内」を見ると、「熱原三烈士墓碑」が出てきます。これには

「後年、この三人の壮烈なる殉死を永く記念するために築かれたのが、この墓碑である」

(『大石寺案内』p33)

となっていて、ここでは「墓碑」となっています。

実にあやふやな表現です。墓ではなく「碑」であるのに、あたかも墓であるかのように思わせようとする、微妙な言い回しである。ここに日蓮正宗の信者騙しのトリックがある。

 

どういうことかというと、日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会の信者たちは、おしなべてこの大石寺の熱原三烈士の碑が「三烈士の墓」だと思い込んでいる。自称「熱原三烈士墓碑」が、「熱原三烈士の碑であって墓ではない」と考えている信者など皆無であろう。

私も、日蓮正宗や創価学会の信者たちからさんざんに

「大石寺に熱原三烈士の墓がある」

などと聞かされてきましたし、正本堂前に自称「熱原三烈士墓碑」があったとき、「戒壇の大本尊」なる板本尊の御開扉を受ける信者が、自称「熱原三烈士墓碑」の前で、題目三唱をしている姿を何度も見かけました。端で見ていたら、これらの信者は「熱原三烈士のお墓」と言っていたので、この自称「熱原三烈士墓碑」を、てっきり熱原三烈士の墓だと思い込んでいたということです。

 

しかし冷静になって考えて頂きたいのですが、熱原三烈士の墓が大石寺にあるはずがないのである。どういうことかというと、熱原法難があったのは1279(弘安2)年のことで、まだ日蓮在世の時代であった。その日蓮は身延山中で生活していたのであり、大石寺などまだ地球上に存在していなかったわけです。

よって今の大石寺境内に、「熱原三烈士の墓」「神四郎の墓」を建てられるわけがない。

大石寺が発行している小冊子「大石寺案内」の説明文は

「後年、この三人の壮烈なる殉死を永く記念するために築かれたのが、この墓碑である」

(『大石寺案内』p33)

となっているので、一往、文面としては墓であることを否定している文ととれる。

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■富士本照寺1(神四郎の墓がある本照寺)

 

本照寺とは日蓮宗の寺院で、熱原法難で平頼綱に首をはねられた神四郎の墓があることで、とても有名な寺院です。

この本照寺が建っている所はまさに弘安二年(1279)に「熱原法難」があった所であり、住所は静岡県富士市厚原。今は熱原ではなく、厚原となっています。

本照寺10
 

私が、この本照寺に神四郎の墓があるということをはじめて知ったのは、たしか平成7(1995)か平成8(1996)ころに、美濃周人氏の著書「虚構の大教団」を読んだときでした。あの当時は

「熱原法難で殉教死した信者の墓が今でも残っているのか」

と思い、これは何としても本照寺に行って、神四郎の墓を自分の目で確かめてみたいと思ったものでした。実際に私が本照寺に行ったのは、それから十年以上も後のことです。

 

本照寺の山門前には

「熱原神四郎殿邸址とお墓」

と書いた石碑が建っています。

本照寺8


つまり本照寺は、神四郎の邸宅跡に立てられた、ということのようです。

神四郎というのは、熱原の農民だったわけで、熱原法難で殉教死した人物。その殉教死した神四郎を顕彰する意味合いで、神四郎の邸宅跡に墓が建てられたというのは、ごく自然の道理だと思います。特に異論はないと思いますねえ。

 

そういえば、日蓮正宗大石寺66世・細井日達法主が著書「悪書『板本尊偽作論』を粉砕す」の中で、「戒壇の大本尊」なる板本尊の授与書にある「本門戒壇之願主・弥四郎国重」とは、熱原法難で殉教死した神四郎のことだ、などと書いています。

これは「板本尊偽作論」で、安永弁哲氏から

「願主弥四郎は不明の人物、一歩譲っても闇討ち横死の人物」

等々と追及された細井日達が、答えに窮して、「弥四郎国重とは神四郎のことだ」などというハッタリを言ったものです。これは、とんでもない話しです。

弥四郎国重が、もし本当に神四郎だったら、本照寺にそれを証明する何らかのモニュメントがあるはずだが、そんなものは何一つない。これからしても、弥四郎国重が神四郎のことだ、などというのは、細井日達のハッタリであることが明らかです。

おそらく細井日達は、本照寺に来たこともなく、口から出まかせでハッタリを書いたと考えられます。

 

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ヤフーオークションに、日蓮の大曼荼羅本尊が、1億円の価格で出品された事件の続報です。

オークションの期限は、76日まで延長になっています。

http://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/161728331?__from=mixi

 

さて、このオークションに出品されている大漫荼羅本尊ですが、曼荼羅の相が、静岡県湖西市吉美の日蓮宗本山・妙立寺に格蔵されている「文永十二年乙亥卯月 日」の日付が入った大漫荼羅と、そっくりであるわけです。

妙立寺に格蔵されている大漫荼羅は、立正安国会の「日蓮大聖人御真蹟・御本尊集」NO24に載っている大漫荼羅として有名です。

本尊024

 

そこで、今回、吉美・妙立寺に電話をかけて問い合わせをしました。電話口には、妙立寺46世吉塚敬一貫首が出られたので、見解を聞きました。

吉塚敬一貫首の見解は

 

「現在、妙立寺には立正安国会の「日蓮大聖人御真蹟・御本尊集」NO24に写真が載っている大漫荼羅が格護されており、盗難にあったとか、寺外に持ち出したとか、という事実はない」

「ヤフーオークションに1億円の価格で出品されている大漫荼羅は、たしかに曼荼羅の相は、妙立寺に格蔵されている大漫荼羅と実によく似ています」

「妙立寺に格蔵している大漫荼羅を、妙立寺が誰かに依頼してヤフーオークションに出品するなどということは、全く行っていません」

「よって、ヤフーオークションに出品されている大漫荼羅は、妙立寺が格蔵している大漫荼羅と似てはいますが、別の曼荼羅だと思います」

1週間くらい前にも、妙立寺に格蔵されている大漫荼羅とそっくりの曼荼羅がヤフーオークションに出品されて、『妙立寺の曼荼羅は盗難に遭っていませんか』という問い合わせが来たことがありました」

「妙立寺で格蔵している大漫荼羅の模写・臨写の曼荼羅の所在は、わからないですねえ。ヤフーオークションに出品されている曼荼羅は、必ずしも模写とか臨写とも言えず、新しく発見された曼荼羅なのかもしれません」

 

おおむね、こんな感じで、ヤフーオークションに出品されている曼荼羅は、妙立寺が格蔵している立正安国会の「日蓮大聖人御真蹟・御本尊集」NO24に写真が載っている大漫荼羅ではない、というはっきりとした見解を表明しておられました。

本尊24-1

 

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■玉沢・妙法華寺9(門戸が開放された感じ)

 

思いもかけずに、小池日恩貫首猊下、執事と会うことができ、執事には、さまざまな質問ができて、玉沢・妙法華寺のほうも、私の質問に真摯に答えてもらえたので、私としては、玉沢・妙法華寺に対して、すこぶる好印象を持ちました。私も、いろいろな寺院に行きましたが、こういう外に門戸が開放されたオープンな雰囲気の寺院というのは、珍しいのではないかと思いました。

妙法華寺20本堂


仏教界では、どちらかというと、閉鎖的な寺院が多いのは否めないでしょう。特に、日蓮正宗、西山本門寺といった富士門流の本山、末寺をはじめ、不受不施派などは排他的、閉鎖的な寺院が多いです。というか、日蓮正宗を含めて、富士門流はほとんどが閉鎖的、排他的です。

こういう所は、お世辞にも、良い印象を持ちましたなどとは、到底言えません。

富士門流で排他的・閉鎖的なのは、何も日蓮正宗だけではありません。日蓮本宗・本山要法寺に行ったときも閉鎖的な印象を持ちましたし、要法寺の末寺で、日目の正墓がある京都・鳥辺山の實報寺に行ったときも、なかなか閉鎖的でした。

小泉久遠寺や西山本門寺も、閉鎖的な体質が色濃く残っていると思いましたし、岡山県の日蓮宗不受不施派の祖山・妙覚寺も、排他的、閉鎖的体質の極みでした。

 

ところが、玉沢・妙法華寺の場合は、閉鎖的な印象は全くと言っていいほど、なかったです。

私が、大庫裡の中で執事と話していたときも、おそらく寺族だと思いますが、30代くらいの女性が私に、元気な声であいさつをしていかれました。こういうことも、私が受け取る印象を良くしました。

日蓮宗ということもあると思いますが、日蓮宗でも閉鎖的な寺院はあります。以前にここで書いた伊豆・仏現寺の僧侶の応対は、まことにひどいものがありました。

玉沢・妙法華寺は、小池貫首が、寺院参詣を増やそうと、いろいろご苦労なさっておられるようですから、そういう応対について、指導しているのではないかと推察します。まあ、他の仏教寺院も、玉沢・妙法華寺くらいの応対をしていれば、すこぶる印象が良くなるのではないかと思ったのですが…。

妙法華寺29案内図



私は、寺院参詣は寺院の立地条件が大きく影響していると思います。

例えば、初詣、節分会、お会式等で数万人、数十万人が参詣する日蓮宗大本山・池上本門寺は、日蓮入滅の霊跡であるということの他に、人口1千万人が住む東京にあり、池上駅からも歩いて行ける距離にある。まことに立地条件に恵まれていると言えます。

しかし玉沢・妙法華寺が寺院参詣を増やしたいからと言って、先師からの今の土地を離れて、東京や大阪に引っ越したり、日昭の代の鎌倉に戻るということは、不可能です。

しかし玉沢・妙法華寺の現在地は、三島市の市街地から大きく離れた所にあり、交通機関もバスしかありません。まことに不便な地であるわけで、今の土地で寺院参詣を増やすとなると、これはご苦労なさると思います。

 

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■玉沢・妙法華寺8(好印象だった執事)

 

さて小池日恩貫首の言われるがままに、玉沢・妙法華寺の大庫裡玄関から中に入っていきました。とは言っても、大庫裡の中は、江戸時代からの古い大邸宅という感じで、こういう建物は、私が子どもの頃、石川県や富山県あたりには、けっこうたくさんありました。私も大庫裡に入ったとき、昔の子ども時代を思い出してしまいました。

玄関から中に入って、座敷に上がる所に、僧侶を呼ぶ呼び鈴のインターホンがあり、これをならすと、奥から一人の若い僧侶がすっ飛んで出てきました。この人が、玉沢・妙法華寺の執事のようです。執事が出てきた方を見ると、奥に僧侶が執務する受付がありました。

さて執事が出てきたので、早速、質問。

 

○「玉沢・妙法華寺さんの歴史や縁由を書いた玉沢・妙法華寺さん発行の本とか、パンフレットはありませんか」

□執事「本ですか……。うーん、当山の案内のパンフレットならあります」

妙法華寺案内1

 

ということで、執事が座敷の奥の方から、玉沢・妙法華寺発行のパンフレットを持ってきて、手渡してくれました。中を見てみると、「宝物殿と拝観」の欄には、玉沢・妙法華寺の什宝がズラリと並んでいる。その中に「宗祖御直授『御肉歯』」と書いてありました。

妙法華寺案内3


執事に玉沢・妙法華寺の「日蓮の歯」について質問することにしました。

 

○「この『宗祖御直授・御肉歯』というのは、日蓮聖人の歯ということですね」

□執事「そうです。日蓮大聖人の歯ということです。これは日蓮大聖人御入滅の三日前に、日蓮大聖人の形見分けとして、日昭上人が賜ったものです」

 

○「そうですか。玉沢・妙法華寺さんが格蔵しておられる什宝には、国の重要文化財に指定されている什宝がたくさんあるようですが、この『宗祖御直授・御肉歯』は、重要文化財に指定されているのですか」

□執事「いいえ、これは特に文化財に指定されているわけではありません」

 

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■玉沢・妙法華寺7(お風入れ法要を長期中止)

 

こちらの全く予想外で、偶然、玉沢・妙法華寺65世小池日恩貫首にお目にかかることが出来たので、幸いだったと言えば幸いでしたが、反面、私としても何の準備もしていなかったため、面食らってしまいました。しかし、貫首に直接質問するまたとないチャンスなので、ここは機転を利かして、質問。

 

○「玉沢・妙法華寺さんは、あちらの三島市教育委員会の案内板にもありますが、たくさんの文化財を格蔵しておられるようですね。私としては、日蓮聖人直筆の漫荼羅や註法華経、撰時抄などを直接拝観できれば、と思っていたのですが、これらの什宝を公開する『お風入れ法要』といった行事はやっておられないのですか」

□貫首「あー、そういうのはね、今は、やっていないんですよ」

 

○「やっていないんですか。じゃあ、重宝類は全くの非公開ということですか」

□貫首「今は、やっていないんですねえ。というのは、数年前に、そこの宝蔵にドロボウが入りましてね。宝蔵にドリルで穴をあけて、宝蔵の中の什宝を盗み出すという事件があったのです。

その盗まれた什宝は、結局、こちらに帰ってきたんですけどもねえ。

ただ、そういう事件があったものですから、当分の間、公開はしないですねえ」

妙法華寺10宝物殿

 

玉沢・妙法華寺什宝の盗難事件があったとは初耳。しかし「お風入れ」というのは、寺院における大きな行事であるはずなのに、これを行わないと言うことになると、年中行事は何を行っているのだろうか、と思ったので、次の質問。

 

○「では、年中行事は、どういう行事を行っているのですか」

□貫首「416日の開山会、1013日の御会式は大きな行事として行っています。その他に、お盆の施餓鬼会、お彼岸の彼岸会ですねえ。大きな行事があるときは、境内でコンサートやイベントを行うこともあります」

 

○「お寺でイベントを行っているのですか」

□貫首「そうです。そういうことでもやらないと、今はなかなかお寺に人が来ないんですよ」

 

はー、お寺に人を呼ぶために、貫首さんもなかなか苦労しているようです。もっとも玉沢・妙法華寺の場合は、県道沿いに面してはいるものの、三島市の市街地からはかなり離れた所にあります。だから、ちょっと足を運びにくいということもあると思います。

 

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■玉沢・妙法華寺6(玉澤道場の扁額)

 

玉沢・妙法華寺での私の関心は、本尊や堂宇よりも、この寺が格蔵している「註法華経」「撰時抄」「日蓮の歯」といった「文化財」でした。中でも「註法華経」「撰時抄」が日蓮真筆として国の重要文化財に指定されていることは特筆されるべきものです。

かつて私は、文化庁に単独取材をしたことがあったが、国宝や重要文化財に指定するに当たっては、事前に鑑定を行い、その上で文化審議会に、重要文化財に指定するにふさわしいかどうかを諮問しているのだと言うことでした。そういうことからすると、創価学会が

「日昭が『註法華経』を勝手に持ち出して所在不明になっている」

などと悪口を並べていた「註法華経」も、重要文化財に指定されていることで、日蓮真筆であることが、確定していると言えましょう。

 

こういう玉沢・妙法華寺が格蔵する文化財に、非常に高い関心を抱く中での訪問でしたが、日程上の都合から、法要も何もない日の訪問。

「文化財を一目みたい」という気持ちもあったので、「お風入れの法要はないのかな」と思って探したのですが、「お風入れ法要」という行事は年中行事に見当たらない。

日蓮宗新聞社発刊の「日蓮宗本山めぐり」という本にも、年中行事に「お風入れ法要」は書いてありません。これは、訪問した後から判明したことなのですが、玉沢・妙法華寺では、「お風入れ法要」という行事を長期中止にしていたのです。しかし玉沢・妙法華寺に行く前に、この情報はつかんでいませんでした。

 

さて玉沢・妙法華寺の三門をくぐると、本堂につきあたります。本堂の入り口の上には、「玉澤道場」と書かれた扁額が掲げられていて、本堂入り口前には、お賽銭箱も置かれていました。

妙法華寺20本堂


本堂の入り口が開いていたので、中を見てみると、須弥壇には日蓮木像(祖師像)が祀られているのが見えましたが、その奥に曼荼羅が祀られているかどうかまでは見えませんでした。

本堂に向かって左側が祖師堂、右側が書院で、書院の奥に庫裡がある。

そして書院のちょうど向かい側に、ちょっと大きめの宝蔵が建っていました。日蓮真筆の曼荼羅、註法華経、撰時抄等々の文化財や什宝の類はこの中に納められているようです。

玉沢・妙法華寺入り口脇には、「当山由緒沿革と宝物」と書いた案内板があり、ここに玉沢・妙法華寺の略歴が書いてあります。

妙法華寺28案内板


もともと、鎌倉の「玉澤」にあったのですが、戦乱等を避けてこの地に移転し、地名も「玉澤」と改めたということである。

 

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■玉沢・妙法華寺5(日蓮の歯二粒を格蔵2)

 

玉沢・妙法華寺は、古来から「日蓮の歯」を格蔵してきたことで知られているのですが、私がいろいろ調べた結果としては、玉沢・妙法華寺の「御肉歯」は、日蓮の本物の歯のようなのです。

その最大の根拠は、玉沢・妙法華寺の開祖で六老僧第一の日昭から相承された玉沢・妙法華寺・日祐の1358(延文3)年の譲り状に、この「日蓮の歯」が出てくる、ということです。

この中に、以下の文が書いてあると言うことです。

 

「本尊聖教並に先師聖人御歯二粒御自筆の状相添へ都て御譲状の如く其外此宗の法門、相承口決等、残す所なく法嗣日運に相伝せしめ畢ぬ。御遺跡の事においては日昭法印定めおかる之通末代まで相違あるべからず。仍って譲状件の如し。延文三年三月十六日。 日祐花押」

(日蓮宗宗務院発刊『創価学会批判』p76)

妙法華寺20本堂

 

さらに「日蓮宗宗学全書・上聖部」には、文保元年(1317)十一月十六日の日昭「御遺跡の事」という文書が載っていて、これには註法華経と日蓮の歯二粒、法門相承を記していて、日蓮の歯を

「御存生之時まのあたり聖人の御手より賜ふ所なり。夙夜向顔の思ひをなすべし」

と述べているという。(日蓮宗宗務院発刊『創価学会批判』p76)

 

玉沢・妙法華寺開祖の日昭が死去したのは、元亨3(1323)326日、103才の時であるので、この「御遺跡の事」は、日昭在世の文ということになる。

ということは、玉沢・妙法華寺の「日蓮の歯」は、開祖・日昭の在世の代から存在し、格蔵されていたと言うことになる。

もし、玉沢・妙法華寺の「日蓮の歯」が偽作だとすれば、これを偽作した人物は、日昭以外にあり得ないと言うことになる。

玉沢・妙法華寺開祖の日昭とは、六老僧第一で、日蓮入滅の葬送では後陣で大導師を務めた人物。いわば、日蓮一門の弟子・檀那衆の筆頭にあり、註法華経の配分を受けた人物である。

そのような人物が、わざわざ「日蓮の歯」を偽作するなどということは、到底考えられない。

偽作する動機も目的も、その必要性も全くないばかりか、「日昭が日蓮の歯を偽作した」とする異議が、どこからも上がっていない。だれ一人、そんなことを言っていないのである。

 

しかも六老僧第二の日朗が二祖になった池上本門寺も、「日蓮の歯」を格蔵しており、日朗が日蓮から歯を授与されていることからして、日朗より僧階が上位にある日昭も、「日蓮の歯」を日蓮から授与されている、というのは僧侶社会の常識として、当然あり得ることである。

 

このように色々な面から検証しても、玉沢・妙法華寺が格蔵する「日蓮の歯」は、本物であるとせざるを得ない、ということである。

 

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■玉沢・妙法華寺4(日蓮の歯二粒を格蔵1)

 

玉沢・妙法華寺は、数々の文化財・霊宝の類を格蔵しており、註法華経、撰時抄の他には、鎌倉時代の土佐大蔵卿筆の「日蓮上人説法図」と「絵漫荼羅」が国の重要文化財に指定されています。

妙法華寺25文化財案内


さらに立正安国会の「日蓮大聖人御真蹟御本尊集」にも載っている「伝法大本尊」「祈祷本尊」といった日蓮真筆の大漫荼羅本尊、日蓮真筆の消息類8通を格蔵しています。

この辺の所は、妙法華寺境内に建てられている三島市教育委員会の看板に書いてありますし、立正安国会の「日蓮大聖人御真蹟御本尊集」や立正大学日蓮教学研究所編「昭和定本日蓮聖人遺文全集」といった書物を調べれば、載っています。

 

玉沢・妙法華寺が格蔵している什宝の中で、以外と知られていないのが、「日蓮の歯」である。

あの日蓮の「歯」が、玉沢・妙法華寺に格蔵されているのである。

日蓮の「歯」を格蔵している寺院は、日本全国各地にいくつかあります。この玉沢・妙法華寺だけではありません。

まずは日蓮入滅の霊跡として有名な東京・池上の池上本門寺。池上本門寺本殿に祀られている日蓮・祖師像の胎内に、日蓮の「歯」が格蔵されているということです。

 

二番目には、千葉県勝浦市の本行寺釈迦堂。

ここの日蓮の歯は、享保8年(1723年)の五十座に際し、池上本門寺より日蓮の歯骨が分与されて、厨子に格蔵されているとのこと。この釈迦堂は、わざわざ日蓮の歯を収蔵するために建てられた堂宇とのことで、勝浦市の公式ホームページにも載っています。

又、池上本門寺から日蓮の歯が本行寺に分骨されたことも、池上本門寺発行の正式文献「妙玄院日等聖人」という本のp16に載っており、池上本門寺としても、本行寺に分骨したことを認めています。

 

三番目には、新潟県佐渡市の一の谷・妙照寺。

佐渡・一の谷というと、日蓮が「観心本尊抄」を述作したことで有名な地ですが、ここが格蔵している日蓮の歯は、佼成出版社刊行「写真紀行・日本の祖師日蓮を歩く」の中で紹介されており、日蓮宗新聞社刊行「日蓮宗本山めぐり」という本の中にも、妙照寺の什宝として「宗祖(日蓮)御歯」とあります。しかし、妙照寺格蔵の「日蓮の歯」は、伝承の経緯が不明確であり、真偽未決というべきです。

 

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■玉沢・妙法華寺3(重要文化財指定の撰時抄を格蔵)

 

玉沢・妙法華寺に格蔵されている重要文化財の中で、もうひとつの目玉の古文書は、何といっても日蓮自筆の「撰時抄」でしょう。これは日蓮・五大部の遺文(御書)です。

妙法華寺23撰時抄

 

もちろん、この撰時抄は、日蓮真筆ということで、鑑定され、重要文化財に指定されています。

 

その撰時抄ですが、「冨士一跡門徒存知事」によれば、撰時抄の下巻が日昭のもとにありと書いてあり、立正大学日連教学研究所編纂「昭和定本日蓮聖人遺文」にも、大石寺出版「平成新編・日蓮大聖人御書全集」にも、日昭の玉沢・妙法華寺に日蓮真筆があるとなっていますが、「他5ヶ所」とも書いてあり、妙法華寺の他にも日蓮真筆がある、ということになっています。

 

ところが玉沢・妙法華寺の境内に建てられている三島市教育委員会の看板によると

「日蓮直筆の五巻がほぼ完全な形で残されている」

と書いてある。この文では、撰時抄五巻が全て妙法華寺に残されているとも読めますし、各所に散在している撰時抄を合わせて五巻が完全な形で残されているとも読めます。

 

しかし三島市教育委員会の看板には、写真が掲げられていて、この写真によると、撰時抄五巻がひとつの箱にそろっているように見えます。

三島市教育委員会が、この箱に入っている五巻のことを言っているとすれば、玉沢妙法華寺に、日蓮真筆の撰時抄五巻がそろっているということになります。

 

「冨士一跡門徒存知事」にも、日昭の元に撰時抄があると書いてあるわけですから、玉沢・妙法華寺開祖・日昭在世の時代から、撰時抄は妙法華寺に格蔵されていたということなのでしょう。

 

玉沢・妙法華寺の境内には、三島市教育委員会の看板の他に、妙法華寺が建てた撰時抄の石碑が建てられていました。

妙法華寺27撰時抄碑
 

 

 

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■玉沢・妙法華寺2(註法華経と御義口伝は全く別)

 

「註法華経」が出たので、思い出しましたが、日蓮正宗は、1994(平成6)に出版した「平成新編・日蓮大聖人御書全集」の中で、従来から「御義口伝」(おんぎくでん)と呼ばれる文書に対して、

「就註法華経」なる名前を付けています。

御義口伝1

 

紛らわしいですね。

 

1951年に、日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨が編纂して創価学会が発刊した「御書全集」には、御義口伝に「就註法華経」なる名前は付いていません。この名前を付けたのは、「平成新編・日蓮大聖人御書編纂委員会」。なかんずく時の法主である阿部日顕なのでしょう。

 

しかし、これだと、何も知らない日蓮正宗の信者は、日蓮遷化記録の中に書いてある「註法華経」が、「御義口伝」のことだと錯覚してしまうのではないでしょうか。

というより、日蓮正宗では、最初から信者を錯覚に陥れるつもりで、御義口伝に「就註法華経」なる名前を付けたのではないかと思います。

それしか、考えられないでしょう。

 

当然のことながら、日蓮遷化記録の中に書いてある「註法華経」とは、玉沢・妙法華寺に格蔵されている「註法華経」であって、「御義口伝」なる文書のことではありません。

 

しかも「御義口伝」なる文書は、そもそも日蓮や日興とは全く無関係の後世の偽書です。これについては、下記のトピックで詳細を書いているので、そちらを参照していただければと思います。

「『御義口伝』は日蓮・日興とは全く無関係の後世の偽作である」

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=42735311&comment_count=4&comm_id=406970

 

 

 

 

 

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■玉沢・妙法華寺1(註法華経を格蔵)

 

玉沢・妙法華寺とは、静岡県三島市玉沢にある六老僧の筆頭・日昭を開祖とする日昭門流の本山で、日蓮宗の本山(由緒寺院)に格付けられている。正式名は経王山妙法華寺という。本山ではあるが、塔頭が覚林院の一院だけある。

妙法華寺は、国道1号線から一本脇に入った県道に面している。JR三島駅方面から行くと、まことにわかりやすく、一度目の訪問は三島駅から、ずいぶん前に電車・バスを乗り継いで行っています。

一回目の時はずいぶん前のことで、メモも残って折らず、記憶にもあまり残っていません。

二度目の訪問は、はっきりと寺跡調査をしようという目的で行っていまして、この時は車で神奈川・箱根方面からナビを頼りに行きました。箱根方面から車で行くと、ちょっと道が複雑で、ナビなしではおそらくたどり着けなかったのではないかと思います。

妙法華寺19本堂

 

玉沢・妙法華寺は、日蓮の本弟子・六老僧の日昭が開創した寺で、もともとは鎌倉の浜にあった法華寺が前身。

1284年(弘安7年)、日蓮の弟子日昭は風間信昭の帰依を受け、鎌倉浜土の玉沢(現鎌倉市材木座)に法華堂を建立した。1538年(天文7年)戦乱により、越後村田(現新潟県長岡市村田)の妙法寺に避難。さらに1594年(文禄3年)戦乱により、伊豆加殿(現静岡県伊豆市)の妙国寺に避難した。村田妙法寺は風間信昭開基の寺院であり、加殿妙国寺は日昭門流の寺院である。

その後、15代日産の時、1621年(元和7年)に大木沢(現在地)に移転し、日産、日達、日亮の3代に渡り再建された。大木沢は妙法華寺創建の地名をとって玉沢と改称された。

 

このように移転に移転を重ねて、鎌倉から今の玉沢の地に移ったわけですが、ここはたくさんの文化財を格蔵している寺院として有名です。

私の第一の関心も、ここにありました。

つまり玉沢・妙法華寺には、日蓮真筆の文献がいくつも残されています。

妙法華寺の境内には、三島市教育委員会が建てた文化財案内の看板が立てられていて、それによると

(1)   絹本著色日蓮上人像

(2)   絹本著色十界勧請大漫荼羅

(3)   日蓮自註 註法華経開結

(4)   日蓮筆 撰時抄

が、国の指定重要文化財になっていること、が書いてあります。

 

中でも注目されるのは、日蓮自註の註法華経。

妙法華寺24註法華経


これは西山本門寺に格蔵される「日蓮遷化記録」に出てくるものですが、日蓮正宗や創価学会の信者は

「日昭が身延山久遠寺から勝手に持ち出したまま、所在不明になっている」

ということを、ずいぶん前に聞いたことがありました。

しかし何のことはない。所在不明どころか、日昭門流の妙法華寺に格蔵されていて、しかも国の重要文化財に指定されている。

又、静岡県の池田・本覚寺に格蔵されている日位筆の「大聖人御葬送日記」の中に「御遺物配分事」という綱目があり、その中に

「註法華経一部十巻 弁阿闍梨」

となっており、註法華経が正統に弁阿闍梨日昭に配分されたことが記されている。

「勝手に持ち出した」と、あたかも日昭を盗人呼ばわりするとは、とんでもない言いがかりである。

 

 

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