一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

2012年08月

日蓮宗不受不施派祖山・妙覚寺11(賽銭箱・不受不施)

 

日蓮宗不受不施派祖山・妙覚寺を訪問して、妙覚寺の僧侶とは話が出来ませんでしたが、妙覚寺元総代と詳しい話が出来たので、それなりの成果はありました。

しかし、まず印象に残ったのは、日蓮宗不受不施派・妙覚寺の排他的・閉鎖的な体質。これは、日蓮正宗や創価学会と実によく似ています。

「教義的に不受不施だから」ということで、賽銭箱は置いていない、と言っていましたが、こういうのも、日蓮正宗、創価学会や富士門流の寺院と同じです。

日蓮正宗のカルト信者も、よく「日蓮正宗の寺院には、賽銭箱が置いていない」などと言って、威張っている。妙覚寺の元総代は、そういうことで威張ってはいませんでしたが。

 

私は、お寺に「賽銭箱」がない、ということが、特別、すごいことだとは思いませんし、えらいとも思わない。

日蓮正宗の信者が、「日蓮正宗のお寺には、賽銭箱がない」などと威張っていることが、全く理解できない。日蓮正宗のお寺には、確かに賽銭箱はありませんが、しかし、その一方で「戒壇の大本尊」なる偽作本尊を信者に拝ませて、詐欺的な金集めをやったり、やれ六万塔だの、客殿だの、奉安堂だの、立正安国論750年だのと、次から次へと口実を作って、信者から強引な金集めを行っている。こちらのほうが、世間的には、よほど悪どい金集めをやっているように見える。

こんなことをするくらいだったら、賽銭箱を置いていた方が、いくらかマシです。

 

よく考えてみると、日蓮正宗も、不受不施派の真似をして、賽銭箱を置かないだの、信者以外からは供養を受けないだのと、いかにも不受不施の本家のように言っていますが、これはまやかしである。大石寺をはじめとする富士門流は、豊臣秀吉の千僧供養に出仕しているし、大石寺も徳川幕府から朱印を受け、三門の供養を受けている。大石寺は、不受不施ではなく、受不施だったのが史実である。だから日蓮正宗は、上代の昔から不受不施を貫いていたわけではないし、不受不施の本家でも何でもない。

江戸時代は、身延山久遠寺と同じ「受不施」だった。

 

ただし、誤解のないように附言すると、私は不受不施を支持しているわけではないし、日蓮宗不受不施派の歴史が正しかった、と言っているわけではない。

又、私は、不受不施派の殉教をはじめ、殉教死そのものに反対の立場です。そもそも宗教が、僧侶に対してであれ、信者に対してであれ、殉教を要求することがあってはならないし、殉教ということ自体、あってはならないと思います。私は、殉教そのものに反対である立場です。

妙覚寺23山門


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日蓮宗不受不施派祖山・妙覚寺10(本堂参詣を拒絶)

 

私は、なんとかして妙覚寺の本堂の中に入って、本尊として何が祀られているのかとか、本堂の中の造りとかを見学したいと思っていたので、何とか本堂の中に入れて欲しいと、元総代に頼んでみました。

 

○「妙覚寺の本堂の中に入って、御本尊様に参詣したいのですが、今、できませんか」

□元総代「妙覚寺の境内に入るぶんには、何の制限もありません。見学することに関しては、誰も何も言いません。

本堂の法要に出るのは、どうでしょうねえ。出ても、(参詣の妙覚寺信者からは)何やら見知らぬ人が来ているなあ、と思われるでしょうねえ。法要がないときは、本堂の入り口は閉め切っています。本堂を閉めた後に、本堂に入るときは、寺務所に行って、本堂に入る許可をもらわなくてはなりません。寺務所に行くと、『あなたはどこの宗派のご信者の方ですか』と聞かれると思います」

 

○「じゃあ、私が本堂の中に入るのは、むずかしいということですか」

□元総代「そうですね。ここは、江戸時代に二百年以上も弾圧されながら、不受不施の教義を守ってきた宗派ですから。他宗派の人が法要に参詣するというのは、なじまないと思います。

他宗のお寺に行けば、賽銭箱が本堂の前に置いてありますが、ここは賽銭箱も置いていないのです。それだけ、教義を守ることに、きびしいということなんです」

妙覚寺20本堂棟札

 

つまり、私の本堂参詣を「宗派がちがうから、なじまない」と拒絶されてしまった、ということです。

賽銭箱が置いていないというのは、日蓮正宗や富士門流の寺院もそうです。不受不施派以外でも、ないことはありません。

しかし、本堂に参詣するのに、いちいち妙覚寺の寺務所の許可がいるというのには、驚きました。要するに、体よく他宗派の参詣を排除しているということ。凄まじい排他的・閉鎖的体質です。

日蓮正宗大石寺の場合も、奉安堂(奉安殿・正本堂も同じ)は、末寺住職の添書がないと参詣できないが、これも他宗派の参詣を排除していることである。

しかし大石寺の場合、客殿は特に制限はありませんし、末寺の本堂もだれでも参詣できる。

富士門流の場合も、本堂や客殿が普段、閉め切られている所が多いです。しかし、全ての寺院がそうなっているわけではない。

そういうことを考えると、日蓮宗不受不施派・妙覚寺の閉鎖的・排他的体質というのは、日蓮正宗以上かもしれません。こういうことは、外から見ていて、好印象は与えないでしょうね。

 

それほどまで、他宗派・他門流に対して、固く門戸を閉ざしている妙覚寺本堂の須弥壇には、何が本尊として祀られているのか、かえって興味がわきます。

 

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日蓮宗不受不施派祖山・妙覚寺9(岡山県と千葉県に多い末寺)

 

私は、元総代A氏に、妙覚寺の概要や本堂の中のことについて、質問しました。

 

○「妙覚寺さんの末寺は、全国にどれくらいあるのですか」

□元総代「末寺は、どれくらいかなあ。岡山県にもあるし、関西にもあるし、東京にもありますよ」

 

この時の元総代の答えは、実にあいまいだったため、東京に帰ってから調べ直したところ、フリー百科事典・Wikipediaに載っていました。妙覚寺の末寺は

 

1宣妙寺(岡山県岡山市北区西古松)

2奥聖寺(岡山県岡山市中区平井、旧松寿庵)

3妙善寺(岡山県岡山市北区津島本町、旧唯紫庵)

4常在寺(岡山県岡山市北区御津紙工、旧常在庵)

5浄源寺(岡山県岡山市北区建部町市場)

6正妙寺(岡山県赤磐市稗田)

7詮量寺(岡山県赤磐市福田)

8法泉寺(岡山県和気郡和気町益原、旧大樹庵)

9妙泉寺(岡山県和気郡和気町佐伯、旧妙泉庵)

10妙蓮寺(大阪府大阪市生野区林寺)

11若松寺(東京都港区南麻布、旧自証庵)

12正覚寺(千葉県香取郡多古町島)

13龍華寺(千葉県香取郡多古町南玉造)

14妙松寺(千葉県いすみ市正立寺、旧妙昌庵)

15佐野教会(千葉県香取郡多古町佐野)

16水戸教会(千葉県香取郡多古町水戸)

17沢教会(千葉県香取市沢)

18正行寺(香川県三豊市豊中町岡本)

19妙高寺(長崎県島原市広馬場町)

 

ということで全国に19ヶ寺。数としては、そんなに多い方ではないのではない。地域的には、岡山県と千葉県に多いですね。『備前法華に安芸門徒』の岡山県と、日蓮の出身地・千葉県に昔から日蓮宗信者が多かったと言うことですが、それは不受不施派も同じのようです。

妙覚寺8寺務所門
 

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日蓮宗不受不施派祖山・妙覚寺8(肉食・魚食をしていないことを示唆)

 

さて、私と元総代A氏の会話は、妙覚寺の僧侶が肉食・魚食をしているかどうかに、移りました。

元総代A氏の回答は、こんな感じでした。

 

「肉食はどうでしょうかねえ。していらっしゃらないと思いますよお。

仏教では一般的に、クサイ臭いのするもの、魚肉を食べないとか、ありますよねえ。ご仏前にも、こういったクサイ臭いのするものや、魚肉を供物として上げませんよねえ。(妙覚寺の僧侶も)普通にそうされていると思います。

まあ、もっとも妙覚寺の僧侶の食事は、お寺に飯炊きに来ている信者さんが作っているわけで、私も毎日の献立やらメニューを見たわけではないですし。飯炊きに来ている信者さんに、献立に肉が入っていますか、入っていませんか、と聞いたわけでもありませんのでねえ」

妙覚寺24山門

 

元総代A氏の話しは、妙覚寺の僧侶は、肉食していないことを示唆しているような答えでした。こういう話しをしているうちに、今度は、元総代A氏が私に

「他宗派では、どうしているんですか。他宗の管長・貫首は独身なんですか」

「肉食・魚食はしているんですか」

と逆質問されてしまいました。

 

そこで私からの答え。

---他宗の僧侶も、普通に妻帯して子どもをもうけています。今時、独身を貫いている貫首・法主・管長・住職なんて、聞いたことがありません。又、大半のケースでは、住職と妻子・家族は、いっしょに庫裡の中に住んでいます。

が、例外もあるわけで、貫首・住職と妻子が別居しているケースもないわけではありません。

例えば日蓮正宗大石寺法主の夫人は、大石寺大坊には住んでおらず、東京にある大石寺東京出張所に住んでいる。

寺院によっては、僧侶の飯炊きや炊事をする賄い婦を雇っている寺院もあることはありますが、そういうケースは寺族が体調不良で飯炊きが出来ないとか、何かの事情があるケースが多いです。

先の大石寺法主の場合は、「仲居」と呼ばれる僧侶が法主の身の回りの世話をし、法主の食事は、大石寺大坊食堂の調理師が作っています。

だいたいのケースは、住職夫人が住職・子どもの飯炊きや買い物をしています。本山とか末寺で、修行僧・所化僧が何人、何十人といる寺院では、飯炊きの賄い婦が雇われているケースが多いですね。寺院の中に、大人数の修行僧が住んでいるケースでは、とても住職夫人一人だけでは、飯炊き・炊事ができませんから。-----

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日蓮宗不受不施派祖山・妙覚寺7(妻子を近隣に住まわせている)

 

これはもう何年も前のことですが、私が主宰している「アンチ日蓮正宗」で、日蓮正宗や創価学会・顕正会の「日蓮原理主義」的体質というものが、批判の話題に登ったことがありました。

日蓮正宗の原理主義的な体質として話題になったのは、四箇の格言、強引な折伏、仏罰論、無間地獄論、呵責謗法、殉教、念仏者首斬り、不惜身命等々です。この日蓮正宗系の日蓮原理主義的体質が、カルト化の一因になったのではないか、というものでした。

 

この日蓮正宗系の原理主義と、対極的な原理主義として話題になったのが、この日蓮宗不受不施派の原理主義。不受不施派は、江戸時代に徹底的に弾圧されても、「不受不施」の教義をかたくなに護ったという原理主義ですか゜、こちらは日蓮正宗系とちがって、カルト化はしていません。

それともうひとつ、日蓮宗不受不施派の僧侶は、「今も妻帯せず、肉食をしていない」原理主義であるという情報も入ってきていましたが、こちらはそもそも不受不施派に関する情報があまりにも少なすぎて、確認がとれませんでした。

そこで妙覚寺元総代という大物信者と話す機会に恵まれたので、この点について質問。すると、こういう答えが返ってきました。

まず、「不受不施派の僧侶は今も妻帯していないのか」という点について。

 

「僧侶の方たちは、みなさん、奥さんがいますね。結婚はしていますよ。今時、僧侶が独身のままということをやっていたら、それこそお寺の後継者がいなくなってしまいますから」

 

不受不施派でも、僧侶は結婚して妻子がおり、子どもを僧侶にして、お寺のあとを継がせるということをしているようです。さらにつづけて…

 

「ただし、僧侶の場合は、妙覚寺の近くに自宅があって、奥さんはそちら(自宅)に、いらっしゃいますね。御前さん(法主)も、僧侶も、自宅に帰られるときがあります。農繁期のときなんかは、自宅に帰られますよ。ただし、自宅には泊まらないで、その日のうちにお寺に帰って来られます。決して自宅に泊まったりしませんねえ」

「だから、妙覚寺では、信者が交代で僧侶の三度の飯炊きに来ています。もちろん、交代で飯炊きに来るわけですけども」

妙覚寺7寺務所

 

不受不施派の僧侶も、結婚して妻子はいるのですが、妙覚寺には妻子は住んでおらず、近所の自宅に住んでいる。

僧侶も自宅に帰ることはあるが、自宅には泊まらず、その日のうちに妙覚寺に帰ってくるのだといいます。そうすると妙覚寺には、僧侶の食事を用意する人がいなくなるわけで、そこで、妙覚寺の信者が、交代で僧侶の飯炊きに来ているということ。珍しいことをしていますね。

こういうことを見聞した人が、妙覚寺の僧侶は今でも独身だと勘違いしたのでしょうか。

しかし不受不施派の僧侶も、結婚して妻子がおり、男子の子弟を僧侶にして、跡継ぎにしているということをしているようです。これは他宗派と同じのようです。

 

 

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日蓮宗不受不施派祖山・妙覚寺6(今の時代にそぐわない)

 

妙覚寺元総代のA氏は、けっこういろいろなことを私に話してくれました。

 

「日蓮宗不受不施派とは、江戸時代に約210年間も禁圧されてきた宗旨で、これは日蓮宗にある『不受不施』という大事な教義をかたくなに護ってきた、独自の歴史があります。

そういう教義のために、お寺(妙覚寺)に誰か来ると、『どこの宗派の人だろうか』というような目で見ている。でも他宗のお寺、例えば身延山久遠寺なんかでも、参詣の人が来たら、『ようこそいらっしゃいました』と歓迎するんじゃないですか。

でも、ここはそういうことを、しないんです」

 

「他宗の人でも、妙覚寺の境内に入ることは禁止していないんです。でもやはり、不受不施の教義があるので、賽銭箱は置いてありません。」

 

「それと、この宗旨は、外(宗外・外部)に対して、まことに非協力的なんです。

たとえば岡山市では、観光資源の開発に力を入れていて、妙覚寺も岡山市の立派な観光資源のひとつになり得るのですが、妙覚寺のほうは、そういうことに全く協力する気がないんです。

まことに閉鎖的と言えば閉鎖的。

だから、不受不施という教義は、江戸時代に210年間も禁圧されて地下に潜って守りとおしたとはいうものの、今の時代にそぐわないものだと思います。

 

「私も、先祖代々から妙覚寺の檀家なので、こうして妙覚寺の信者としてやっているのであって、特に信心深いから、というわけではありません」

妙覚寺21本堂

 

この元総代さん、「不受不施」の教義は、もはや時代にそぐわない、と批判的な意見を言っていたのが、私には興味深く聞こえました。

しかし時代にそぐわないとは言っても、今さらそれを変えるわけにはいかないでしょう。

今さら、「不受不施は時代にそぐわない」と言って、妙覚寺が不受不施を放棄したら、それこそ大変なことになる。そんなことをしたら、江戸時代の禁圧下で殉教死した人たち、流罪になって亡くなった人たちの人生は、一体何だったのか。何のために命を落としたのか、ということになる。

不受不施という教義のために、たくさんの人が殉教しているのに、そういう人たちの死がムダだった、という根本的な矛盾に陥ってしまう。

だから今さら「時代にそぐわない」と言って、妙覚寺が不受不施をやめるわけにはいかないはずである。

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日蓮宗不受不施派祖山・妙覚寺5(排他的・閉鎖的体質)

 

妙覚寺の元総代という人は、見た感じとしては、年齢が60代後半から70才くらいの人。以前に5年ほど、妙覚寺総代を務めていたことがあった、という人で、なかなか妙覚寺のことについて、詳しい人でした。

妙覚寺の歴代法主が載っている「御津町史」という本も、この人に見せていただきました。その他にも、いろいろな資料を持っているようで、不受不施派禁圧の歴史等々を、手元の資料を見ながら、私に説明してくれました。

私も、元総代が持っていた不受不施派関連の資料は、まことに興味深く見え、その中でも、立正護法会刊行の「ふじゅふせ」と題する資料には、禁圧時代の斬首の写真や、秘密の隠れ家の写真等々が載っているのが見えました。これは興味深い資料ですね。

日蓮宗不受不施派が出している正式文献など、今までお目にかかったことすら、ありませんでしたから。

「すいませんが、これをコピーさせていただけないでしょうか」

とお願いしたのですが、「コピーはダメ」と断られてしまいました。

「どうしてコピーはダメなんですか」と尋ねると、元総代さん云く

「以前に、コピーして人に渡したことがあったんだが、後で、僧侶にえらい怒られたんですよ。よその人(他宗派の人)に見せてはいけないと言われているのに、コピーしたことがバレると、また怒られてしまうから」

ということでした。

「それなら、この携帯で写真を撮らせてもらうのは、どうでしょうか」

と私も食い下がってみました。すると、元総代さん、「うーん」と少し考え込んだのち、

「写真だったら、いいかな」

とのこと。そこで、立正護法会刊行の「ふじゅふせ」と題する資料に載っている禁圧時代の斬首の写真や、秘密の隠れ家の写真等を、携帯のカメラで撮影しようとしたのですが、資料写真の大きさが小さすぎるのと、光沢の関係で、どうしてもピントが合わずに、ぼやけてしまいます。

よってこれは、一度、資料写真を拡大コピーしてから、それを撮影する必要があるのですが、しかし元総代さんは、コピーはダメとのこと。

よって、この資料の複写は、あきらめざるを得ませんでしたが、もらってもいい資料は、何点か、元総代さんに、いただくことができました。

妙覚寺24山門

 

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日蓮宗不受不施派祖山・妙覚寺4(歴代法主の墓地)

 

妙覚寺の本堂の周りをよく見ると、本堂の裏手から裏山に向かって参道が延びているのが見えましたので、そこを歩いて、登って行きました。

すると裏山には、妙覚寺歴代法主の墓地があり、妙覚寺の歴代法主は「聖人」号を付けて墓石に刻まれていました。

妙覚寺の歴代法主とは、「御津町史」という本に載っていて

1日蓮 2日朗 3日像 4大覚 5朗源 6日実 7日成 8日遵 9日延 10日善 11日意 

12日寮 13日住 14日亨 15日護 16日賞 17日兆 18日順 19日饒 20日典 21日奥(中興)

22 日樹 23日遵 24日述 25日起 26日清 27日要 28日憶 29日助 30日信 31日然

32日縁 33日珠 34日恵 35日正(再興) 36日解 37日壽 38日学 39日高 40日学(再住)

41日成 …日量

となっています。

現法主は中山日量上人猊下となっていますが、何代目かは不明。「御津町史」という本も史料としては古く、41代日成法主までしか載っていません。

 

21世日奥とは、文禄四年(1595)の豊臣秀吉の千層供養会に出仕を拒否し、慶長四年(1599)の 大坂城対論で対馬流罪になった人物。この日奥は、京都妙覚寺の僧侶で、不受不施問題で妙覚寺を退出、流罪になったため、いわば不受不施派の祖のような人物。

妙覚寺14日奥墓


よって、日蓮・日朗・日像の三師から20世日典までは、京都妙顕寺→妙覚寺貫首とのかぶりになる。21世日奥から34世日恵までが、江戸幕府から弾圧されて地下活動をしていた時代の法主。

35世日正は、明治九年(1876)の不受不施派再興公許により、岡山の現在地に妙覚寺を再興した法主。35世日正以降の法主が、現在の妙覚寺という寺院の法主ということになる。

 

江戸幕府から禁圧され地下活動をしていた時代に、どこで、どうやって法主を決めていたのか、どうやって地下活動をして、不受不施の僧侶や信者に知らしめていたのか。全く謎ですけども。

歴代墓地の墓石を見ても、どれがどの法主の墓石なのか、判別できないものが多かったのですが、その中で中興・日奥と再興・日正が「大聖人」号になっているのが、わかりました。

他の法主は「聖人」号なので、中興・日奥と再興・日正は、格が上ということのようです。

宗祖の日蓮は「日蓮大士」となっていました。

大士とは「だいじ」と読むそうで、これは辞書によれば、「仏・菩薩の尊称」ということです。

妙覚寺16歴代墓

 

墓地から山を下ってくると、妙覚寺の庫裡がそれこそ何棟も建っているのがわかりました。ところが、全然、人が居る気配がない。僧侶も誰も見当たらないわけです。

「はたして人がいるのか」と思ってしまうくらいです。

「誰とも話が出来ないのかな」と、半ば諦めかけていたころ、ひょんなことから、妙覚寺の元総代の話を聞く機会に恵まれたのでした。

 

 

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日蓮宗不受不施派祖山・妙覚寺3(賽銭箱はなく閉扉した本堂)

 

妙覚寺表門からまっすぐ歩いて行くと、あっという間に本堂にたどり着きます。

本堂には「祖山妙覚寺 再興百年 日学花押」と書いた扁額が掲げられていました。

この「再興」とは、不受不施派の再興か、それとも妙覚寺の再興のことか??

日学とは、後に出てきますが、妙覚寺38世法主で、さらに40世として再住している人物。

扁額は、かなり大きなものです。

妙覚寺20本堂棟札

 

さずがに「不受不施派」の祖山というだけあって、本堂前には賽銭箱が置いてありません。同時に本堂の扉も固く閉じられてカギがかかっていました。

「何とかして本堂の中に入れないのかな」と思案していたところ、本堂入り口の脇に

「閉扉後、本堂での参詣をご希望の信徒さんは、寺務所にお声をおかけ下さい」

と書いた小さな案内があったてのを見つけました。

妙覚寺の本堂は、何か行事や法要が行われたときしか、開けないのでしょうか。

しかも本堂の扉を閉めた後は、カギをかけて、不受不施派の信徒でも、寺務所に一声かけないと参詣できないようになっているようです。ずいぶん、かたくなな体質のようです。

 

本堂自体、かなり大きな堂宇なのですが、これが渡り廊下で、庫裡に繋がっています。庫裡も、いくつもの棟が建っていて、たくさんの僧侶が゜いるかのように見えるのですが、しかし境内のどこにも、僧侶の姿が見えません。実に、不思議な印象です。

本堂前では、経蔵工事が行われていて、工事の施工業者の姿は見えましたが、僧侶の姿はなし。

 

本堂横の門をくぐっていくと「寺務所」と書かれた建物があり、それに隣接するように信者が集まる客殿のような建物がありました。

寺務所を見ても戸が閉まっており、受付カウンターのようなものは見当たりません。

「どうなってんの、ここは」という感じです。

 

境内そのものは、そんなに広いとは感じないのですが、境内には、妙覚寺の歴史を記した「祖山 妙覚寺」と書いた案内板が建てられています。

明治九年に妙覚寺は再興されたわけですが、この案内板によると

「その際日正聖人は、備前法華を外護した松田氏の本拠地金川に祖山妙覚寺を再興した」

とあります。

妙覚寺22案内


「備前法華」というのは、「備前法華に安芸門徒」と言われたくらい、岡山県地方には、日蓮宗信徒が多かったと聞きます。

すると「備前法華」とは、不受不施派の信者とは限らず、一般的に日蓮宗信徒を指している言葉と思われるのですが、備前法華を外護した松田氏の本拠地を選んで、妙覚寺を再興したということです。

それから松田氏というのは、調べたのですが、徳川時代の岡山県地方に、「松田」姓の大名はいません。これは、誰のことを指しているのか不明です。

 

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日蓮宗不受不施派祖山・妙覚寺2(厳しい弾圧下にあった不受不施派)

 

私は、201112月に岡山・妙覚寺に行って、はじめてこの妙覚寺境内に入ったとき、日蓮宗不受不施派が受けた日本宗教史上、まれに見る弾圧史、殉教史が伝わって来るような気がして、ちょっと感慨無量な気持ちになりました。

なんせ1595(文禄4)年の豊臣秀吉の千僧供養の一件が発端になり、1599(慶長4)年の大坂城対論と、日奥の対馬流罪、1630(寛永7)年の受派・身延山久遠寺と不受不施派の池上本門寺の江戸城にて身池対論。そして不受不施派がことごとく流罪になる。

1666(寛文6)年から1876(明治9)年までの210年間、不受不施派は徳川幕府から禁制宗門になり、死罪、流罪、入牢、追放、自害切腹、断食、焼身など、まれにみる徹底弾圧を受けている。

そういう中で、日蓮の「不受不施」の教義をかたくなに守り通したというわけですから、まさに筋金入りの日蓮・原理主義ということができます。

 

だいぶ前のことですが、「アンチ日蓮正宗」でも、かつてこの「日蓮原理主義」ということが話題になったことがあり、これは、日蓮正宗に日蓮原理主義的な体質があるということで、これがカルト化の一因になったのではないか、ということが出ました。

この日蓮正宗の原理主義に対して、対極的に話題になったのが、この日蓮宗不受不施派の原理主義。不受不施派の場合は、不受不施を貫いているほかに、肉食妻帯をしない原理主義ということが話題に出ました。ただし、日蓮正宗の原理主義は、カルト化への道を歩みましたが、不受不施派の原理主義は、カルト化していません。

「この違いは何なのか」という研究課題もありましたし、妙覚寺の関係者に話を聞くことができれば、と思っていたのですが、そういう当てがあったわけではありませんでした。

 

さてこの不受不施派の歴史に関連して、妙覚寺門前には、御津町教育委員会が建てた、立て看板が建てられていて、そこには、こんなことが書いてありました。

妙覚寺26案内板

 

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日蓮宗不受不施派祖山・妙覚寺1(不受不施派の祖山・岡山妙覚寺)

 

妙覚寺とは、正式には龍華山妙覚寺といい、日蓮宗不受不施派の祖山。

場所は、岡山県北区御津金川というところにあります。新幹線のぞみ号の停車駅で、中国地方のターミナル駅である岡山駅からは、かなり遠いところにある。私は、レンタカーを運転して行きましたが、岡山駅から何分かかったかは、忘れてしまいました。おそらく30分くらいかかったように思います。

最寄り駅は、岡山と津山を結ぶJR津山線・金川駅ということになるのですが、この津山線は、朝夕で30分に1本、日中は1時間に1本くらいの間隔でしか列車が運転されていない。不便ですね。私が電車ではなく、レンタカーで妙覚寺を訪れた理由の一つが、ここにあった。

「岡山市なのに、ずいぶん岡山駅から遠いところにあるんだな」と思っていたところ、もともとここは御津町という町だったのですが、2005年(平成17年)3月、岡山市に編入合併されて岡山市北区になったというわけです。

私も、妙覚寺に行くに当たって、いろいろと下調べをしたのですが、ここに関する資料らしい資料はほとんど見つかりません。皆無に等しい。年中行事もどういう行事が行われているのか不明だし、法主の名前もわからないし、本堂にはどういう本尊が祀られているのか、僧侶はどれくらい居る寺院なのかも、全くわからない。ウィキペディアにも、ほとんど情報が載っていませんでした。

いろいろ調べても情報が出てこないわけですから、「行って調べるか」ということで、妙覚寺行きが先になったというわけです。201112月にはじめて、ここ妙覚寺に行きました。

 

下調べのときも、なかなか情報が出てこなかったわけですが、そもそも不受不施派のことをいろいろ調べても、資料があまりにも少なすぎるのです。この宗派は。

豊臣秀吉の千層供養会に京都妙覚寺の日奥が出仕を拒否したこと。

徳川家康の代になって、大阪対論で日奥が対馬流罪になったこと。

さらに身延山久遠寺と池上本門寺の身池対論で、不受不施派がことごとく流罪になったこと。

徳川時代に、不受不施派は数百年の間、徹底的に禁圧され、明治政府によって禁圧が解かれるまで、地下活動をつづけてきたこと。

これくらいの情報は出てきますが、それ以上の詳しいことは全くわかりません。

そういう手探り状態の中での、訪問になりました。

 

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺10(禅寺に葬られ親鸞の隣りで眠る日目)

 

私は、實報寺住職との長時間に及ぶ単独会見を終えたのでしたが、私にとっては、大きな成果のある實報寺訪問と言うことになりました。實報寺住職は

□ここ鳥辺山にあった延年寺に、日目が葬られて正墓が建てられたこと

□延年寺とは禅宗の寺院であったこと

□その後、延年寺が鳥辺山から出て行くに当たって、富士門流で、日目の正墓がある墓域を延年寺から買い取ったこと

□その買い取った日目の正墓の墓域が、今の實報寺であること

□よって實報寺に日目の正墓があること

□大石寺に、日目の遺骨の分骨をしていないこと

以上のことを明確に認めました。つまり

□日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が「富士宗学要集」8巻に収録し、堀日亨が「売券」と呼んでいる古文書に書いてある内容である、日目が京都・鳥辺山の延年寺に葬られて正墓が建てられ、その墓域がある延年寺成願の所領を富士門流が四回にわたって買い取った土地が、今の實報寺であること

□實報寺墓苑中央にある廟こそが、日目、日尊が眠る正墓であること

□實報寺のほうで、大石寺に日目の遺骨を分骨したという事実はなく、實報寺住職が分骨を全面否定したことで、大石寺・下之坊にあると日蓮正宗が自称している『日目上人の御正墓』なるものはニセモノであること

これらがここで確認されたと言うことです。

さらに注目すべき事は、かつて京都・鳥辺山にあった延年寺は、禅宗の寺院であったこと。つまり鳥辺山の延年寺墓地に日目が葬られた、ということは、とりもなおさず、禅宗の寺院の墓地に葬られた、ということになる。

さらにもうひとつ言うと、この實報寺の道路を挟んだ隣には、浄土真宗の開祖・親鸞の大谷本廟があり、とりもなおさず、ここには親鸞が葬られて、眠っている。つまり大石寺三祖日目は、京都の禅宗の寺院の墓地に葬られていたということであり、今は實報寺は富士門流の寺院ではあるものの、大石寺の末寺ではない。しかも浄土真宗の開祖・親鸞と隣同士になって日目は眠っている。

こういう真実の姿は、日蓮正宗としては、とても恥ずかしくて信者には言えないだろう。日目の正墓が、同じ富士門流とはいうものの、日蓮正宗と対立関係にある要法寺の末寺である實報寺にあるわけだから。日蓮正宗としても、日目の遺骨が京都・鳥辺山に葬られて日目の正墓が鳥辺山に建てられたことは、史実と認めているわけで、これは動かしがたい。

實報寺10日目正墓3


大石寺17世日精や59世堀日亨も、明確に日目の遺骨が京都・鳥辺山に葬られて、鳥辺山に日目の正墓が建てられたことは、史実と認めているし、日蓮正宗富士学林が発行している「富士年表」でも、鳥辺山の日目墓地の四回の土地買い取りを史実として、年表に載せています。

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺9實報寺に日目の正墓があると断言2

 

一通りの住職からの回答があった後、私と住職の問答になった。

 

○「それでは、日目上人、日尊上人の正墓は、ここ実報寺さんにあるわけで、日蓮正宗大石寺にはない、ということで、よろしいわけですね」

□住職「正墓というのは、どういう概念で言っておられるのですか」

實報寺10日目正墓3


○「人が亡くなって、葬儀を執り行い、遺体を荼毘に付して、遺骨をどこかに葬る場合、通常は、その人の遺骨をお墓に納めますね。そこが正墓と言うことです。その後、分骨をして他にも墓を建てる場合がありますが、そこを正墓とはいいませんねえ。通常なら、正墓というのは一カ所しかありませんね。」

□住職「それならば、目師(もくし・日目のこと)の正墓は、ここ(實報寺)にあるということになります」

○「では、あそこ(實報寺の墓苑)にある正墓には、日目上人、日尊上人の真骨が納められている、ということですね」

□住職「日目上人は、こちらに葬られたことは史実ですが、しかし、それから何百年も経っていますので、今は土に還っているかもしれません」

○「こちらにある墓が、日目上人の正墓ということであれば、日蓮正宗が、大石寺・下之坊にあると自称している『日目上人の正墓』なるものは、ニセモノということになりますねえ」

□住職「ニセモノ?

○「それは、そうでしょう。日目上人は、ここ鳥辺山に葬られて、ここに正墓があるわけですから。正墓というのは、一カ所しかありませんですからねえ。ここ以外で、日目上人の正墓だと称している所は、ニセモノということになるでしょう。まあ、もっとも、要法寺さんや實報寺さんのほうで、大石寺に日目上人の遺骨を分骨していれば、話しはべつですが」

□住職「大石寺に分骨はしておりません」

○「ならば、日蓮正宗が大石寺・下之坊にあると称している『日目上人の正墓』なるものは、ニセモノということになるでしょう」

□住職「まあ、そういうことになるのかもしれませんけども、ただ、むこう(日蓮正宗)が、そういうことを言っているとしても、こちら(實報寺)は、それはちがうよ、ということも言いませんけどね」

 

こんな感じで、私と實報寺住職との間で、日目の正墓論争が延々とつづきました。

が、この中で、實報寺住職は

□ここ鳥辺山にあった延年寺に、日目が葬られて正墓が建てられたこと

□その後、延年寺が鳥辺山から出て行くに当たって、富士門流で、日目の正墓がある墓域を延年寺から買い取ったこと

□その買い取った日目の正墓の墓域が、今の實報寺であること

□よって實報寺に日目の正墓があること

□大石寺に、日目の遺骨の分骨をしていないこと

以上のことを明確に認めたわけです。

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺8(實報寺に日目の正墓があると断言)

 

實報寺住職の方も、言いたいことを言って少し気持ちが晴れたのか、ようやく少しは心を開いて喋り始めました。

 

□住職「あなたはサイトを主宰しておられるのですか」

○「そうです。『アンチ日蓮正宗』という名前のサイトを主宰しています。立場的には、反日蓮正宗である他、反創価学会、反顕正会、反正信会で、日蓮正宗から派生した団体に対しても、すべて反対の立場で、これらの関連サイトが6つあります」

□住職「『アンチ日蓮正宗』ですか。それは日蓮正宗を叩くサイトということですね」

○「そのとおりです。しかし今、日蓮正宗・創価学会・顕正会・正信会はお互いがお互いを罵倒しあっており、中でも日蓮正宗と創価学会が『宗創戦争』で罵倒中傷しあい、信者の争奪合戦を展開しています。『アンチ日蓮正宗』の立場は、あくまでも反日蓮正宗・反創価学会・反顕正会・反正信会です。宗創戦争をはじめとする日蓮正宗系の団体同士の紛争のいずれにも与するものでもなく、これらの紛争による信者のカルトサーフィンそのものを止めさせることが第一義です」

□住職「そうですか。それで目師(日目)のお墓が大石寺にあると、日蓮正宗では言っているのですか」

○「そうです。『大石寺案内』という小冊子には、日目上人の正墓は、大石寺のすぐ近くにある大石寺末寺・下之坊にある、と書いてあります。又、日蓮正宗の僧侶は、自分の寺の信者には、大石寺墓苑の三師塔が日目上人の正墓だ、などと教えています」

□住職「そうですか。まあ、むこう(日蓮正宗)では、派手にいろいろな本を出したり、新聞を出したりしておりますからねー。それでむこう(日蓮正宗)は、むこうで、こちら(日蓮本宗・要法寺)のことを、いろいろと批判したり、いろいろ書いているようですが、だからといって、こちらは、むこうに反論する本を出すということは、しておりません。尋ねられれば、お答えはしておりますが」

○「では率直にお尋ねしますが、日目上人の正墓は、ここ京都・鳥辺山にあるのですか。それとも大石寺にあるのですか」

これだけ長々と、延々、住職と話を続けて、ようやく話題が本題に入っていったのでありました。

實報寺10日目正墓3
 

□住職「ご承知のように、目師(もくし・日目のこと)は、京都に天奏に出られた旅の途中、美濃国(岐阜県)垂井で御遷化になられました。それで目師のお供をしていた尊師(ぞんし・日尊のこと)と郷師(ごうし・日郷のこと)は、目師を荼毘に付されて、尊師は目師の御遺骨を奉じられて京都に来られました。郷師は、大石寺に帰られたわけです。

尊師は、京都の鳥辺山に来られたわけですが、このあたりに延年寺というお寺がありまして、その延年寺の墓地の一角に、目師の御遺骨を葬られたのです。その後、延年寺が鳥辺山から出て行ったため、尊師が目師の墓地の一角を買い取られたのです。そして尊師が御遷化になられた後、尊師もここに葬られました。延年寺というお寺は、禅宗のお寺で、今は大津にあるんですけれどもねー。その後、目師のお墓の周りに、墓地ができて、今日に至っているという次第です。まあ、京都での富士の門流と言っても、ウチ(要法寺)だけですけれども」

 

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺7(嘉儀吉裕氏と受付で大激論)

 

私としても、實報寺住職が庫裡から受付に出てきたのには驚きましたが、しかしこれはまさに千載一遇のチャンス。何の前触れもなく、急遽、単独会見ということになったわけですが、しかし冒頭から實報寺住職の表情は険しく、実に刺々しい雰囲気ではじまりました。

實報寺4

 

□住職「先程から、表で、いろいろと話しておったのは、あなたですか」

○「あそこにいた、半被を着た男性と話していたのは私です」

□住職「何の用で、ここに来られたのですか」

○「私はサイトを主宰している者ですが、要法寺第三祖に当たる日目上人の正墓の所在についていろいろと調査を重ねていたところ、京都・鳥辺山に埋葬されたという古文書を複数見つけました。しかしこれらの古文書は、室町時代から江戸時代のもので、今の日目上人の正墓の所在を確認できる資料をいろいろと探したのですが、見つかりません。そこで実際に京都・鳥辺山に来て実地調査をすることにしました。ちょうど、所用で京都へ来たので、こちらの鳥辺山へ来たわけです」

□住職「それならば、どうして事前にこちらに連絡をしてくれなかったのですか」

○「私が、實報寺さんをお訪ねしようと思ったのは、こちらの鳥辺山に来て登り坂の道を歩いてきたところ、入り口に『要法寺開山本廟』と書いた石碑が建っていたからです。それまで私は、實報寺さんの名前や存在すら知りませんでした。ここ鳥辺山に来て、はじめてわかったわけです」

□住職「そんなことはないでしょう。東京から来られているということでしたら、あちらには、日目上人に関する資料はたくさんあるはずです」

○「今の日目上人の正墓の所在を示す資料は、何処にも見当たりませんでした。

日目上人は、日蓮正宗大石寺の第三祖でもあるわけですが、日蓮正宗では、日目上人の正墓は大石寺にあるとか、下之坊にあるとか書いた本を出しています。しかしこれは何の根拠も証拠もなく、全く信用できないものです。なぜなら、室町時代の古文書には、日目上人の遺骨が京都・鳥辺山に葬られたことが出ていますし、上代の記録は、いずれも鳥辺山説であって、大石寺・下之坊に葬られたという記述はありません」

□住職「それなら、鳥辺山にあるウチの寺のことを書いた資料があると思うんですがね-」

 

とにかく私がいくら説明しても、住職は

「東京には鳥辺山の日目上人の正墓に関する資料があるはずだ」

「ここに来るなら来るで、どうして事前に連絡しなかったのか」

の一点張りで、これを繰り返すだけ。私は、現在の日目の正墓に関する正確な資料がないからこそ、京都・鳥辺山の実地調査に来た旨を何度も説明しました。實報寺受付で、私と實報寺住職ーの間で、この点に関して、延々と論争がつづきました。

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺6(實報寺住職が現る)

 

「要法寺開山本廟」という石碑が建っていた墓園の中に入っていくと、山門があり、さらに寺の庫裏のような建物もありました。山門や庫裡の棟札を見ると「實報寺」という名前が。

ここは鳥辺山墓地というのではなく、日蓮本宗本山で、日尊門流の祖山である京都・要法寺の末寺である實報寺の墓園という感じです。それにしてもこの山門、以前にインターネットのどこかのサイトで見た記憶がありましたが、その時は思い出せませんでした。

實報寺3


さて實報寺の墓園の中を見学してみたのですが、どこにでもある、何の変哲もない墓園。墓園の中は所狭しと、さまざまな墓石が建っていました。墓石の掃除・手入れもなかなか行き届いており、一見して、ちょっと高級な墓園に見えました。

墓園の中に、ただ一カ所、墓園の中央のような所に、大きな石塔が建った「廟」があった。

「これが日目の墓なのかな」と思いましたが、何の案内板も何の説明書もなし。しかし、實報寺の入り口に「要法寺開山本廟」という石碑が建っていることからして、これが日目・日尊の墓としか考えられない。しかし案内板も説明書もなく、何の表示もないことからして確認することが出来ない。

 

山門の近くには「詰め所」のような建物があり、初老の男性が、墓園の掃除や手入れをしているように見えた。ひょっとしたら、見知らぬ顔の男が一人、墓園に入ってきたことから、「何者か」と思って、出てきたのかも知れません。

私は、「ひょっとしてこの墓園の管理人か?」と思い、その男性に質問してみることにした。たしかこの男性は、「要法寺」だったか「實報寺」だったか、文字が入っている半被を着ていました。

 

○「ここの入り口に、『要法寺開山本廟』という石碑があったので、ここに入ってきたのですが、鳥辺山墓地とか、鳥辺野墓地という所は、こちらですか」

□男性「そういう名前は知りません。ここは實報寺というお寺の墓園です」

○「しかし私は、鳥辺山墓地に要法寺三祖日目上人が葬られたということを聞いて、ここにやってきたのですが。」

□男性「いや、そういう墓地は知りません」

○「知らないはずがないでしょう。入り口に『要法寺開山本廟』と書いた石碑が建っているじゃありませんか。日目上人というお方は、要法寺さんの第三祖に当たるお方でしょう」

□男性「…」

 

半被を着た初老の男性が、なんとなく内にこもって、私の質問をかわして追い返そうという感じに見えたので、ちょっと強い口調でこう言いました。

 

○「わからない、わからないじゃ話になりませんよ。わかる人はいないんですか。あなたがわからないんじゃ、すぐわかる人を呼んできて下さい」

 

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日蓮本宗・鳥辺山實報寺5(鳥辺山に要法寺開山本廟を発見)

 

私は、とにもかくにも京都に行って、自分の目と耳で確認する以外にないと思い、京都・東山五条の鳥辺山に行くことにしました。2009年秋のことです。

私は、それまで京都の東山や東山三条、三条大橋周辺も何度も行っていますし、国道一号線や東山五条も、何度も通っているのですが、この「鳥辺山」については、全く気づきませんでした。

この時は、東京・上野駅前から深夜高速バスに乗って京都駅前に降り立ち、食事をして後、京都市営バスに乗って東山五条へ。すると「鳥辺山」と地図に書いてあった場所に行ってみるとビックリ。なんとそこには、浄土真宗の開祖・親鸞の廟があったのである。

「大谷本廟 親鸞聖人七百五十回大遠忌法要」と書いた立て看板がありました。

正式名はここに書いて有るとおり「大谷本廟」というらしい。せっかくここまで来たついでに、大谷本廟の中に入ってみましたが、朝の速い時刻だったにもかかわらず、何人もの参詣の人の姿が見えました。

「親鸞聖人七百五十回大遠忌」と書いてあったので、2009年がその年に当たるのかと思っていたら、そうではなく、親鸞は12621128日に入滅しているので、「七百五十回大遠忌」に当たる年は、2011年ということになる。

 

それにしても、京都・東山五条の鳥辺山まで来て、見つかったのは延年寺ではなく、親鸞の大谷本廟というのは驚いた。

親鸞の曾孫で本願寺第三世の覚如の『御伝鈔』に「鳥部野の南の辺、延仁寺に葬したてまつる」

と記されているということからして、親鸞も京都・鳥辺野に葬られたと言うことのようです。

親鸞は、鳥辺山に葬られていたとしても、日目の墓や延年寺はどうなったのか。私はなんとしても情報を得ようとして、大谷本廟入り口の脇にある、みあげもの店兼仏具店に入ってみました。

少々、買い物をした後、店の主人に質問。

「このあたりに、鳥辺山墓地とか鳥辺野墓地という名前の所はありませんか」

これに対して、店の主人は

「あー、それでしたら、この前の道をずーっと登っていった左側にありますよ」

という気軽な返事。

 

「あー、やっぱりこのあたりにあるんだな」と思い、その主人に丁重なお礼を言って、大谷本廟の脇の道の登り坂を登って行きました。

「ひょっとしたら日目の正墓が残っているのかもしれない」と思い、けっこうむ期待に胸を膨らませて、登って行きました。しばらく登って行くと、左側に墓地の入り口を発見。

「ここかな」と思って、その入り口から入ってみると、入り口の脇に石碑が建っていて、そこには

「要法寺開山本廟」

と書かれていました。入り口には「實報寺」という石碑が建っていました。

實報寺14石塔


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日蓮本宗・鳥辺山實報寺4(鳥辺山から消えた延年寺)

 

鳥辺山實報寺については、要法寺発行の「私たちの要法寺」には

「鳥辺山御廟所

本山御歴代の貫首上人の墓所は、東山五条上ルの鳥辺山実報寺にあります。

鳥辺野は、すでに王朝時代から無常所として都の人々の墓地に使われていました。日目上人の御遺骨が埋葬されたのもここです。日尊上人はなくなる時、日目上人の御遺骨を頭上にいただく形にして葬るよう命ぜられ、師厳道尊の実を示されたということです。ここがのちに実報寺となりました」

と書いてある。「本山要法寺参詣案内」には

「鳥辺山御廟所

二祖日興上人、正慶二年二月七日寂滅せらるるに先んじて愛弟子日目上人を召して帝関奏聞を遺命し玉ふ(時に興師御年八十八)。日目上人かしこみて日尊、日郷の二上人を同伴せられ、天奏上洛の途次十一月俄然病ひ革まり、日尊上人に後事を托せられ、同月十五日、岐阜県不破郡垂井に於いて遂に遷化せらる。日尊上人は悲嘆止むかたなきも遺命を奉じて天聞奏上、遺骨を鳥辺の山野に納め玉ふ。康永二年四月実報寺を開創せらるるにあたり、逆修塔を建立し御自ら碑面の文字を揮毫し給ふ。爾来歴代上人遺骨此の地に納め奉り、本山御廟所として四時参詣者絶えず、先師の遺徳を偲び御報恩の誠を捧ぐ」

とあります。

私たちの要法寺1


いずれも、日蓮本宗本山要法寺が発行した公式文献として、鳥辺山実報寺に大石寺・要法寺三祖日目の遺骨が葬られたことを記している。

しかしこの文献を知ったのは、実報寺に行ったあとのこと。

鳥辺山に行く前は、資料も何も全くない状態でした。

 

私は、大石寺三祖日目の正墓探しの作業を、京都の鳥辺山墓地を探すことからはじめたのであったが、これがなかなか困難を極めた。

まず、京都に「鳥辺山」とか「鳥辺野」という地名が見つからない。そのような名前の住所も、京都にはない。探しに探したあげく、ようやく京都・東山五条に「鳥辺山」の名前を見つけた。

私が調査した中で、京都で「鳥辺山」ないしは「鳥辺野」の地名を載せていたのは、JTB発行のガイドブック「アイジャパン」である。

この「アイジャパン」の地図によると、京都・東山五条の国道一号線脇に「鳥辺山」と書いてあり、その中にある通妙寺のところに「鳥辺野墓地」と書いてある。

通妙寺とは、日蓮宗寺院となっていたが、詳細はわからなかった。「アイジャパン」の地図には實報寺も載っていたが、その時点では何の詳細もわからず、当初は私の眼中にはなかった。

 

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