一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

2012年09月

■比叡山延暦寺7(国宝殿)

 

比叡山延暦寺・東塔の境内の中に「比叡山国宝殿」という建物がある。

比叡山延暦寺では、伝教大師最澄の直筆の書物をはじめ、仏像、仏画、書跡、美術工芸品等々、数多くの国宝やら重要文化財やらを所有しているとのことだが、そのうちの63点の国宝、重要文化財、寺宝等数百点の中から選んで展示している所ということである。

まあ、私からすると、比叡山延暦寺の中にある博物館みたいなところかな、という印象。

450円の拝観料を支払って中に入ると、それこそ仏像やら、仏画やら、さまざまな書跡やら、さらには比叡山延暦寺の年表やらまでが所狭しと展示されていた。この年表は、なかなか詳しく書かれていて、私も興味深かったので、早速、手帳にメモをとっていた。

そうすると、国宝殿の入り口にいた係の中年女性が、かなり怪訝な表情を浮かべながら、私のそばへつかつかと歩み寄ってきて

「こんなに近くでメモをとってもらっては困ります」と苦言。

「メモをとるな」とは言わなかったが、あたかもメモは困るとの態度に見えた。

 

私だって、ただ比叡山延暦寺まで来たのではない。寺跡調査・取材のために来ているので、「メモをとるな」と言われて、そのまんま変えるわけにはいかない。

ああそうですか。ならば質問させていただきましょう、と思い、入り口の係の女性に、延暦寺のことについて、いろいろと質問をした。

するとその女性は、わからないと言いだし、「私は専門家ではありませんので」と言い訳しながら、受付の奥にいた延暦寺の僧侶に聞きに行った。

そうすると今度は、奥から黒い僧衣を着た若い僧侶が出てきて

「そういうことは、○○に行って聞けばいいでしょう」

と、この返事。

また、質問者をただの「たらい回し」にしようという、不誠実な返事。こういう返事は、あっちこっちの閉鎖的寺院で、いやというほど聞かされてきた私。

今度の国宝殿にいた僧侶の返事にちょっとカチンときた私は、

「そういう言い方はないだろう。せっかく質問しているのに、比叡山の中をたらい回しにするつもりですか」

と、僧侶と係の女性に抗議をした。

そうすると、この係の中年女性は

「おたく様は、どういうお方でしょうか」と私に逆質問。

私は「実はサイトを主宰している者なのですが…」と、こう言ったとたん、係の女性の態度がガラリと急変。うってかわって急に愛想がよくなり

「あーそうですかあ。サイトを運営していらっしゃる方は、いろいろとお詳しいですからねー」

などと、急に私をヨイショしはじめたのである。

比叡山国宝殿2


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■比叡山延暦寺6(戒壇院)

 

比叡山延暦寺に行ったからには、弘仁13(822) 、伝教大師最澄の死後7日目にしてようやく許可された大乗戒壇を一目見ておく必要があった。

延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者・伝教大師・最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教・南都六宗から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようにしようということである。

当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかった。

最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。その伝教大師・最澄の宿願であった大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく朝廷から許可されたものであった。

この戒壇院は、延宝6年(1678年)の再建の建物というえことだが、それ以上の詳しいことはわからない。というか、この戒壇院は、伝教大師・最澄が生涯をかけた宿願である建物なのに、どういうわけか、比叡山延暦寺・比叡山振興会議が発行している公式パンフレット「比叡山」には、一言も紹介されていないのである。戒壇院は、観光資源としての価値がないと目されているのか。

 

そういうこともあってか、私は、最初に比叡山延暦寺に行ったときは、てっきり戒壇院=根本中堂と勘違いしていたくらいだった。その後、ある人と話した折に、比叡山延暦寺の根本中堂と戒壇院は別個の建物であることがわかり、二度目、三度目にここを訪れたときは、両者を混同しなくなったという次第。

それともう一つ、この戒壇院は、伝教大師・最澄が生涯をかけた宿願である建物というわりには、そんなに大きな建物ではない。むしろ根本中堂のほうが二倍、三倍以上、大きな建物である。

しかも表の扉は固く閉められていて、中の様子を伺い知ることはできない。なんとも閉鎖的な建物で、こういうのは、あまりいい印象を人に与えないでしょうね。

見ていると、日蓮正宗や創価学会のような閉鎖的でダーティなイメージがかぶって見えてしまう。

まあ、もっとも比叡山延暦寺は、室町・戦国時代に、何度も焼き討ちにあっているから、再建されたときに規模が小さくなってしまったのかもしれないが、私としては、見た感じ、期待とは裏腹に、いささか拍子抜けした印象を持ちました。

延暦寺3戒壇3
 

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■比叡山延暦寺5(大講堂)

 

比叡山延暦寺の見所は、根本中堂の他にもいろいろあるが、そのうちのひとつが大講堂である。

大講堂という所は、僧侶が法華経の講義を聞いたり、お互いに問答して、勉強する学問修行の場という意味らしい。

延暦寺の大講堂は、根本中堂のほぼ隣に位置している。今の延暦寺・大講堂は、寛永11年(1634年)の建築の建物で、もとは東麓・坂本の東照宮の讃仏堂であったものを1964年に「大講堂」として移築したものである。なぜこんなことをしたのかというと、重要文化財だった旧大講堂は1956(昭和31)年に火災で焼失しているからである。

ちょうどこのころ、日蓮正宗大石寺では、創価学会二代会長・戸田城聖の寄進で「大講堂」が建設中であった。日蓮正宗や創価学会では比叡山延暦寺大講堂炎上焼失のニュースを聞いて

「これは迹門の大講堂(延暦寺)が滅びて、本門の大講堂(大石寺)が勃興する奇瑞だ」

などと言って、躍り上がって大喜びしていたというから、全くあきれてしまう。

いくら他山・他宗のこととはいえ、寺院・伽藍の火災を大喜びするなどという非常識な振る舞いがどこにあろうか。

 

比叡山延暦寺・大講堂の本尊は大日如来ということだが、私にはよくわからなかった。というか、「天台宗なのに、なんで本尊が大日如来?」というきわめて初歩的な疑問が沸いてしまう。

しかも根本中堂の本尊が薬師如来で、なんで大講堂が大日如来?という疑問も沸いてくる。

まあ、私としては、天台宗の教義にまで、さほど深い関心がないので、それ以上、深追いはしなかったのだが、私には、別のことで目を引いたことがあった。

 

本尊の両脇には向かって左から日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍の像が安置されていて、これらの僧はいずれも若い頃延暦寺で修行した高僧。これらの像は関係各宗派から寄進されたものであるという。堂内を見渡してみると、木像とは別に、これらの高僧たちの大きな肖像画も掲示されていた。

私がさらに興味を引いたのは、大講堂の本尊に向かって右側で、僧侶の唱導により大勢の信者による読経・法要が始まったこと。

「何の法要なんだろうか」と興味津々にその様子を見ていたが、見ていて、どうも天台宗の信者には見えなかった。そうこうしているうちに、この法要で信者たちが何と「南無妙法蓮華経」を唱えだしたのである。「あれれれれ、日蓮宗?」という感じ。

どうやら、日蓮宗のどこかの寺の信者が、住職の引率で比叡山延暦寺に団体参拝し、大講堂の日蓮の木像の前で法要を営んでいたということのよう。

延暦寺6大講堂2
 

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■比叡山延暦寺4(不滅の法灯)

 

比叡山延暦寺・根本中堂で、観光客にいろいろと説明していた尼僧が

「足利義教・織田信長の焼き討ちでも『不滅の法灯』は消えなかった」

と言っていた内容は、明らかにおかしい。足利義教・織田信長の焼き討ちで、少なくとも比叡山延暦寺の根本中堂は全焼しているのに、「不滅の法灯」が消えなかったわけがないではないか。

あまりにも疑問に思ったので、私も帰宅してたから、少々調べてみた。

するとインターネット・フリー百科事典・wikipediaの「延暦寺」の項目には、次のように書いてある。

「本尊厨子前の釣灯篭に灯るのが、最澄の時代から続く「不滅の法灯」である。この法灯は信長の焼き討ちで一時途絶えたが、山形県の立石寺に分灯されていたものを移して現在に伝わっている」

根本中堂2

 

どこからどう調べたのか、わからないが、今の比叡山延暦寺・根本中堂の「不滅の法灯」は、山形県の立石寺に分灯されていたものを移して、今に伝わっていると書いてある。

やはり、織田信長の焼き討ちで「不滅の法灯」は途絶えたことを認めている。私は、山形県の立石寺にも「旅紀行」で訪れたことがあったが、この根本中堂の「不滅の法灯」が分灯されていたとは、全く知らなかった。

そこでインターネット・フリー百科事典・wikipediaの「立石寺」の項目には、次のように書いてある。

「大永元年(1521年)、寺は天童頼長の兵火を受けて一山焼失した。天童頼長は斯波兼頼の孫の斯波(天童)頼直を祖とする天童家の末裔である。永正17年(1520年)、頼長は山形盆地に進出した伊達稙宗と戦うが、この際立石寺が伊達側に加勢したために、頼長の怒りを買い、翌年焼き討ちを受けたものである。なお、現存する立石寺中堂は後世の改造が多いものの室町時代中期の建物とされている。焼き討ちの際に、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消滅し、再度、分燈することとなるが、1571年の比叡山焼き討ち後の再建時には、立石寺側から逆に分燈されることとなった。」

 

つまり立石寺も何度も焼き討ちの被害に遭っており、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消滅して、再度、分燈されたのだが、織田信長の比叡山延暦寺焼き討ちのさいには、逆に立石寺の法灯が延暦寺に分灯されたとしている。

やはり、織田信長の比叡山延暦寺焼き討ちで、「不滅の法灯」は消えてしまったが、その後、立石寺の分灯が「分灯」されたわけですね。

それならそれで、そういうふうに尼僧も説明すればいいのに、なぜ虚勢を張って「比叡山延暦寺焼き討ちでも「不滅の法灯」は消えなかった」などとウソを言うのだろうか。

こういうところは、比叡山延暦寺に限らず、日本仏教界の悪しき体質なのかもしれない。

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■比叡山延暦寺3(根本中堂)

 

根本中堂というのは、天台宗総本山・比叡山延暦寺の総本堂であり、東塔にある。延暦寺の根本中堂(国宝)は、伝教大師最澄が建立した一乗止観院の後身になる。東塔の中心となる根本中堂は、延暦7年(788)に伝教大師最澄がこの地に草庵を結んだ場所とされる。

とは言っても、私なんかは、はじめて比叡山延暦寺を訪ね歩くまで、延暦寺の本堂とは戒壇のことだと勘違いしていたくらいで、延暦寺に行って、はじめて比叡山延暦寺の総本堂=根本中堂だと知ったくらいでした。

比叡山坂本からケーブルカーで比叡山に登っていくと、東塔に到着するので、ケーブルカーの駅から根本中堂までは、そんなに離れてはいない。

根本中堂の入り口からは回廊を歩いていき、伝教大師最澄自作の薬師如来が祀られている根本中堂に入っていく。回廊には、延暦寺のあちらこちらの伽藍、修行僧の様子などを写した写真が展示されている。

ここにはけっこう観光客が来ていて、根本中堂の中は、信者と言うより、観光客であふれかえっているという感じ。私を含めた観光客に対して、延暦寺の尼僧がいろいろ細かく説明してくれる。

根本中堂中央の厨子には最澄自作の伝承がある薬師如来立像が祀られているが、しかしこの本尊は秘仏になっていて、普段は公開されておらず、参拝客が根本中堂で目にする薬師如来像は、仏師が彫刻した「前立」本尊ということである

秘仏になっている最澄自作の薬師如来立像は、延暦寺開創1,200年記念の1988年、その後、2000年、2006年に開扉されたことがあるというなぜこのときに開扉されたかというと、天皇陛下が比叡山延暦寺に御親拝になられたので、秘仏の薬師如来像を開扉したのだという。

つまり天皇陛下の御親拝といった特別なことでもない限り、秘仏の開扉はなされないのだという。

せっかくなので、私も尼僧にいろいろと質問をした。

秘仏になっている最澄自作の薬師如来立像と、参拝者が目にすることができる仏師彫刻の「前立」本尊である薬師如来立像は、全く同じ造りになっているのかどうか、ということだが、尼僧の話によると、これが「全く同じではない」という。

これはどういうことかというと、仏師というのは、いわば「彫刻のプロ」なので、いろいろ細かいところまで、微に細に彫り込んであるが、伝教大師最澄という人は、彫刻のプロではないので、最澄自作の薬師如来立像は、きわめてオーソドックスな造りになっているという。

なるほど。しかし、はるばる比叡山延暦寺の根本中堂まで行って、秘仏・最澄自作の薬師如来立像にお目にかかることができないというのは、まことに残念という意外にない。

根本中堂2
 

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■比叡山延暦寺2(256世の歴代天台座主)

 

比叡山延暦寺は、日本天台宗の総本山寺院で、住職(貫主)は天台座主(てんだいざす)と呼ばれ、末寺を統括する。現天台座主は256世半田孝淳座主。

 

宗祖 最澄 義真(初世、修禪大師) 圓澄(第2世。寂光大師) 圓仁(第3世。慈覚大師)

天台座主3


安慧(第4世) 圓珍(第5世。智證大師) 惟首(第6世) 猷憲(第7世) 康済(第8世)

長意(第9世) 増命(第10世) 良勇(第11世) 玄鑑(第12世) 尊意(第13世) 義海(第14世)

延昌(第15世。慈念僧正) 鎮朝(第16世) 喜慶(第17世) 良源(第18世。慈恵大師。元三大師)

尋禅(第19世。慈忍和尚) 余慶(第20世。観音院僧正) 陽生 (僧侶)(第21世) 暹賀(第22世)

覚慶(第23世) 慶円(第24世) 明救(第25世) 院源(第26世) 慶命(第27世)

教円(第28世) 明尊(第29世) 源心(第30世) 源泉(第31世) 明快(第32世)

勝範(第33世) 覚円(第34世) 覚尋(第35世) 良真(第36世) 仁覚(第37世)

慶朝(第38世) 増誉(第39世) 仁源(第40世) 賢暹(第41世) 仁豪(第42世)

寛慶(第43世) 行尊(第44世) 仁実(第45世) 忠尋(第46世) 覚猷(第47世鳥獣戯画)

行玄(第48世) 最雲法親王(第49世) 覚忠(第50世) 重愉(第51世) 快修(第5254世)

俊円(第53世)明雲(第5557世)覚快法親王(第56世) 俊堯(第58世) 全玄(第59世)

公顕(第60世) 顕真(第61世) 慈圓(第62656971世『愚管抄』で知られる)

承仁法親王(第63世) 弁雅(第64世) 慈円 (第65世)實全(第66世) 眞性(第67世)

承円(第6872世) 公円(第70世) 円基(第73世。尊卑分脈によれば第74世)

尊性法親王(第7476世) 良快(第75世) 慈源(第7779世) 慈賢(第78世)

道覚法親王(第80世) 尊覚法親王(第81世) 尊助法親王(第82世。第859195世)

再仁法親王(第83世) 澄覚法親王(第8487世) 慈禅(第86世)

道玄(第88102世) 公豪(第89世) 再源(第90世) 再助法親王(第92世)

慈實(第93世) 慈助法親王(第9496世) 源恵(第97世) 慈基(第98世)

尊教(第99世) 良助法親王(第100世) 道潤(第101世) 覚雲法親王(第103107世)

公什(第104世) 慈道法親王(第105111115世) 仁澄法親王(第106世)

慈勝(第108世) 親源(第109世) 澄助(第110世) 性守(第112世) 承覚法親王(第113世)

承鎮法親王(第114世) 尊雲法親王(第116118世。後醍醐天皇皇子。還俗して護良親王)

桓守(第117世) 慈厳(第119132世) 尊澄法親王(第120123世。後醍醐天皇皇子)

尊圓法親王(第121126131133世。青蓮院流(御家流)を創始) 尊胤法親王(第122124世)

性慧(第125世) 祐助法親王(第127世) 承胤法親王(第128136139世)

亮性法親王(第129世) 尊道法親王(第134138145世) 桓豪(第135137世)

慈済(第140世) 道圓法親王(第141世) 堯仁法親王(第142149世)



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■比叡山延暦寺1(最澄以来約1200年の歴史)

 

比叡山延暦寺というと、京都にあるというイメージがあるのだが、実際は滋賀県大津市になる。ここは標高848mの比叡山全域を境内としている大寺院で、境内は東塔、西塔、横川と三つに大きく分けられ、延暦寺の総本堂にあたる根本中堂は東塔にある。

これら東塔、西塔、横川を総称して「三塔」と言い、さらに細分して「三塔十六谷二別所」と呼称している。このほか、滋賀県側の山麓の坂本地区には本坊の滋賀院、「里坊」と呼ばれる子院群、比叡山とは関係の深い日吉大社などがある。

比叡山延暦寺の創建は延暦7年(788年)。今年2010年で開創1222年になる。有名な大乗戒壇勅許は伝教大師最澄入滅の7日後の822年(弘仁13年)7月だから、これから数えても1188年になる。

比叡山延暦寺は、日本天台宗の総本山寺院で、住職(貫主)は天台座主(てんだいざす)と呼ばれ、末寺を統括する。現天台座主は256世半田孝淳座主。ハンパじゃなく歴史が長い。

 

ただし歴史が長いとは言っても、永享7年(1435年)、延暦寺武力制圧に失敗していた室町幕府6代将軍・足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難したが、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺した。

このときに円珍以来の本尊もほぼ全てが焼失している。宝徳2年(1450年)516日に、わずかに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中堂に配置している。

根本中堂4


さらに元亀2年(1571年)、延暦寺の僧兵四千人が強大な武力と権力を持つ僧による仏教政治腐敗で戦国統一の障害になるとみた織田信長は、延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて912日、延暦寺を取り囲み焼き討ちにした。これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害されている。

しかし、1200年という歴史の長さが評価されたのか、1994年(平成6年)、延暦寺は「古都京都の文化財」の一環としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。

私は、調査・取材のために何度かここを訪れていまして、京都から車で登っていったこともありますし、比叡山坂本から比叡山鉄道線ロープウェイで登っていったこともあります。

境内はあまりにも広すぎるくらい広いので、とても1日や2日では、廻りきれません。しかも山の中に寺院・伽藍が建てられているため、坂道がとても多く、歩いているとなかなか疲れます。

 

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■奈良法隆寺8(未公開の寺宝)

 

□塔頭の塀に落書きを消した痕跡があった世界遺産の寺院・法隆寺

 

私が、法隆寺の案内役員にいろいろ質問して得た回答の中に

「法隆寺は創建以来、1300年以上有るため、現在公開されている寺宝・重宝の他にも、倉庫・宝蔵の中には、まだ未公開の寺宝・重宝・古文書が眠ったままになって保管されている」

というものがある。

どこに格蔵・保管されているかというと、法隆寺の中の「大宝蔵院」「工芸収蔵庫」「収蔵庫」「北倉」「中倉」「南倉」という堂宇に保管されているというわけである。

この中でも、「大宝蔵院」は、中で見学できるようになっていて、国宝中の国宝と言われる百済観音立像や飛鳥時代の工芸の枠を集めた玉虫厨子などが、間近で見学できるようになっている。

 

百済観音(くだらかんのん)とは、法隆寺が所蔵する飛鳥時代作の木造の観音菩薩像。日本の国宝に指定され、指定名称は「木造観音菩薩立像(百済観音)1躯」。

日本における木造仏像彫刻の古例として貴重であるとともに、大正時代以降、和辻哲郎の『古寺巡礼』、亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』などの書物で紹介され著名になった。

 

ただし、この百済観音は、法隆寺の古い記録にはこの像に当たるものが見えないことや、作風の違いから、造像当初から法隆寺にあったものではなく、後世、他の寺院から移されたものと思われる。いつ、どこの寺院から、いかなる事情により移されたかについては諸説あるが、正確なことは不明。

この百済観音は、現在は法隆寺大宝蔵院の百済観音堂に安置されているが、明治時代初期には金堂の北面に安置され、明治時代後期~昭和時代初期には奈良帝室博物館(現奈良国立博物館)に寄託されていた。

もっとも百済観音が、元から法隆寺にあったなら、これが金堂の中心本尊になっていただろうが、そうなっていないことからして、後世、他の寺院から移されたものとする説は説得力があります。

法隆寺の実質的な中心本尊は、夢殿の救世観音立像。

法隆寺は、聖徳太子が創建した寺であり、救世観音=聖徳太子として夢殿の救世観音立像が造立されたとなれば、当然、そうなるのでしょう。

法隆寺17東大門
 

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■奈良法隆寺7(法隆寺案内役員)

 

「仏教宗学研究会」の取材で、法隆寺を訪れた時も、聖徳宗宗務院のみならず、案内役員の方からも、さまざまな話を聞くことができた。案内役員の方は、法隆寺の半被を着た初老の男性だったが、この人もなかなかの勉学家のようで、知識豊富な方であった。

どこでもそうだが、仏教寺院という所は、おしなべて敷居の高いところが多く、僧侶に質問しても、なかなか答えてくれなかったり、実に不親切な答えしか返ってこなかったりしがちだが、この案内役員の初老の男性は、私の質問に対しても、実に親切に答えてくれた。

 

□法隆寺は創建以来、1300年以上有るため、現在公開されている寺宝・重宝の他にも、倉庫・宝蔵の中には、まだ未公開の寺宝・重宝・古文書が眠ったままになって保管されている。

そうでなければ、これだけの寺宝・重宝を今日まで伝承することは不可能だっただろう。

 

□法隆寺もその昔は、南都六宗・天台・真言の「八宗兼学」の寺院の一つであり、今でいう「大学」の機能を兼ね備えていた。そういうことから全国各地の僧侶が法隆寺に修学に来ていた。

 

□明治時代、フェノロサと岡倉天心が開扉させた救世観音立像は、数百年の間、絶対秘仏であったため、当時の法隆寺の僧侶すらも見たことがなかった立像だった。

 

□聖徳太子の等身大の立像は夢殿本尊の「救世観音像」のみ。

 

やはりここでの最大の関心事は、聖徳太子の等身大に造立されたという救世観音像である。

救世観音1


そもそも「等身大の仏像」そのものが、仏教界では実に珍しい存在なのである。

仏典には、釈迦牟尼の身長は、一般人の数倍あると書かれているため、日本では、平安時代の頃まで、16(4.8m)を釈迦如来立像の身長の基準としており、これを「丈六」(じょうろく)と呼んでいた。

これは立像の場合で、坐像だと16(4.8m)から座高を割り出して9(2.7m)となる。

ところがこれが鎌倉時代に入ると、仏像の発注主が天皇・貴族・公家から武家に移り、天皇・貴族・公家ほど財政的な余裕がない武士たちは、コスト削減のために丈六の基準よりも小さいサイズの仏像を求めるようになった。

こうして坐像で1.6m前後の仏像が造られるようになり、さらに江戸時代になると、坐像で60センチ前後の、さらに小型の仏像が主流になったというわけである。

 

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■奈良法隆寺6(西園院客殿)

 

□本坊・西園院の「客殿」を法隆寺から輸入した大石寺9世日有

 

法隆寺の境内をいろいろと見学し、調べていくと、さまざまな注目すべきものに出くわす。

最も私が注目したのは夢殿本尊である救世観音立像であるが、他にも注目したものがある。

そのひとつが「西園院客殿」である。

西園院は法隆寺の本坊(住職の居所)であり、南大門を入って左側、築地塀の内側にある。

 

客殿とは、元々は貴族の屋敷や寺院などで客を応対するために造った殿舎のことで、、いわば京都・奈良の貴族文化を象徴するもの。客殿という殿舎のある寺院は、京都、奈良周辺ではけっこう見られ、天台寺門宗総本山・園城寺(勧学院客殿・光浄院客殿)、教王護国寺(東寺)、真言宗大覚寺派の寺院・西明寺、臨済宗天龍寺派の寺院・臨川寺…といったものがある。

園城寺勧学院客殿は、慶長5(1600)の建立。桃山時代の書院造建築の代表作とされる。

光浄院客殿は、勧学院客殿より1年後の慶長6(1601)建立で、規模、意匠など勧学院客殿と似ている。

妙心寺霊雲院客殿は、1688-04年の元禄期とされている。

教王護国寺の観智院客殿 は、慶長11年(1606年)の建立。

西明寺客殿は、本堂より古く、江戸時代前期に移築された。当時は食堂と称し、僧侶の生活や戒律の道場として使用された。

臨川寺 客殿は、1620(元和5年)の建立。

大覚寺客殿は、1596-15年の慶長期のこととされている。

 

これに対して、日蓮正宗大石寺の客殿は、1465(寛正6)3月に大石寺9世法主日有が建立したわけだから、大石寺の客殿のほうが、京都仏教寺院の客殿より先に建立されたことになる。

この中で、法隆寺の西園院客殿に注目したのは、

1 法隆寺がこれらの寺院の中でもっとも創建が古いこと。

2 その法隆寺の塔頭院の中に「客殿」という名前の堂宇があること

である。

そこで法隆寺の西園院客殿がいつ創建されたかをしろうと思い、法隆寺の案内役員に聞いたところ、「聖徳宗の宗務院へ行って聞いてくれ」と言われたので、早速、法隆寺境内にある宗務院へと足を運んだ。宗務院は、その西園院のとなりにある。

法隆寺19
 

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■奈良法隆寺5(化儀を輸入した日有2)

 

□日蓮の聖徳太子崇拝、伝教大師最澄崇拝思想の影響を受けていた大石寺9世日有

 

それではなぜ、日蓮正宗大石寺9世法主日有は、法隆寺本尊や延暦寺本尊をモデルに「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作したのか。それは、日蓮在世の時代から、日蓮一門には、聖徳太子崇拝、伝教大師最澄崇拝の思想があるからだ。それは日蓮の遺文(御書)に明らかである。

 

「南岳大師 観音の化身なり道宣の感通伝に出づ 六根浄の人日本の上宮太子是なり」

「天台大師 日本に伝教大師と生まる」(御書全集p1093)

「聖徳太子は用明の御子なり…南岳大師の後身なり 救世観音の垂迹なり」(御書全集p1098)

「伝教大師 …天台の後身なり」(御書全集p1100)

 

これは日蓮の遺文(御書)「和漢王代記」の記述で、これは日蓮真筆が、大石寺の近所にある富士門流本山寺院・西山本門寺に格蔵されている。日有の時代、大石寺と西山本門寺は交流があり、この遺文(御書)は大石寺9世日有も目にしていたはずである。

こういった日蓮一門の聖徳太子崇拝、伝教大師最澄崇拝思想からすれば、法隆寺本尊、延暦寺本尊をモデルにすることは、必然的に起こったことと言えよう。

 

そもそも大石寺9世日有は、「戒壇の大本尊」なる板本尊を、日蓮に見立てて、「戒壇の大本尊」=日蓮=本仏という教義まで発明し、人間の等身大に造立した板本尊である。

等身大に造立された秘仏本尊として、あまりにも有名なのが、世界最古の木造建築寺院・法隆寺の夢殿の本尊である救世観音立像。この救世観音立像は、623(推古31)年、聖徳太子入滅の翌年に造立されたと伝承されている仏像で、737(天平9)に、夢殿本尊として祀られている。

それが1884(明治17)年、諸堂並びに古書画調査のためにやってきたアメリカ人フェノロサ、ビゲロー、岡倉天心らが法隆寺に来寺し、彼等の要求により絶対秘仏だった救世観音像が数百年ぶに開扉されたことは、あまりにも有名である。

このとき、フェノロサと岡倉天心は、仏罰が下るとおそれる法隆寺の僧侶たちを説得して、無理矢理に開扉せしめ、救世観音立像との対面を果たし、その美を世に伝えた。

救世観音1

 



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■奈良法隆寺4(化儀を輸入した日有)

 

□板本尊(板位牌・寺位牌)・秘仏・等身大の本尊は京都・奈良仏教界の化儀だ

 

もちろん日蓮正宗大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊は、文字漫荼羅であり、法隆寺夢殿本尊・救世観音立像は、仏像だから、そこは大きく相違しているが、その他の側面を見ると、共通性が多多あるわけである。もちろん、共通性があるのは、救世観音立像だけではない。日蓮正宗大石寺9世法主日有は、何をモデルにして「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作したのか、共通性があるものを、まとめてみた。

 

□板本尊

 

13世紀のころ、栄西、道元が中国から日本に伝えた禅宗とともに、中国から日本に伝来した位牌。その位牌の中でも、特に板位牌。寺位牌。

位牌堂2総持寺祖院


 

□秘仏

 

■延暦寺 根本中堂本尊 薬師如来立像 

延暦寺の根本中堂(国宝)は、伝教大師最澄が建立した一乗止観院の後身。中央の厨子には最澄自作の伝承がある秘仏・薬師如来立像を祀っているが秘仏になっていて、前に「前立」本尊の薬師如来像が祀られている。

日蓮自作を詐称する秘仏・「戒壇の大本尊」の最大のモデルは、伝教大師最澄が自作したと伝承されている根本中堂本尊である薬師如来立像である。

■園城寺 本尊 弥勒菩薩像 

金堂本尊の弥勒菩薩像(弥勒如来とも)は、天智天皇の念持仏と伝え、唐からの請来像ともいうが、絶対の秘仏で公開されたことがなく、写真も存在しない。

■園城寺 観音堂本尊 如意輪観音坐像(重文)     33年に1度の開扉

■園城寺 智証大師(円珍)坐像(国宝)  「中尊大師」、「御骨大師」の2体あり。中尊大師は1029日の祥忌法要で開扉されるが、御骨大師は開扉なし。特別展などで数回公開されたことがある。

■園城寺 新羅明神坐像(国宝)  特別展などで数回公開されたことがある。

■園城寺 不動明王像(黄不動、絵画、国宝)  厳重な秘仏として知られ、寺では書籍等への写真掲載を厳しく制限している。特別展などで数回公開されたことがある。

■法隆寺 夢殿本尊 救世観音 

聖徳太子の等身像とされる。約数百年の長年秘仏であり、白布に包まれていた像で、明治初期に岡倉天心とフェノロサが初めて白布を取り、「発見」した像とされている。現在も春・秋の一定期間しか開扉されない秘仏である。

救世観音1


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■奈良法隆寺3(夢殿本尊・救世観音立像)

 

1884(明治17)8月にフェノロサ、岡倉天心らによって始めて開扉された救世観音立像

 

法隆寺のもうひとつのメインは、聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立されたと伝承されている東院伽藍である。東院伽藍の回廊で囲まれた真ん中に八角円堂の夢殿が建っている。ここが東院伽藍の中心である。

夢殿とは、上宮王院とも呼ばれ、ここは行信僧都が聖徳太子の遺徳を偲んで奈良時代の天平11(739)年に建立した日本最古の八角円堂。堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像や奈良時代の肖像彫刻の傑作とされている行信僧都像などを安置している。

 

この夢殿に安置されているのが、あまりにも有名な国宝の救世観音像である。これが夢殿の本尊であり、1300年以上もの長い間絶対秘仏で、現在も春と秋の決められた期間しか開扉されない秘仏である。

法隆寺の公式文献に依れば、聖徳太子が死去した622(推古30)年の翌年、623(推古31)年ころ、救世観音像が造立されたとしている。(法隆寺発行『救世観音』年表より)

つまり飛鳥時代に造立された像であるわけで、造立から1380年以上経っていることになる。

ちなみに、この法隆寺発行の公式文献は、法隆寺の売店のみで販売されているもので、東京の書店には並んでいない。

この救世観音像は、像高が約179センチ。聖徳太子の等身大の像と伝承されている。どういうことかというと、聖徳太子・救世観音後身説、つまり救世観音=聖徳太子という思想から、まさに聖徳太子そのものの像として、聖徳太子の等身大に造立されたというわけである。

救世観音1

 

この救世観音像は長年、絶対秘仏として夢殿の中央厨子の中に格蔵されたままになっていたのだが、1884(明治17)8月、法隆寺諸堂と古書画調査のためにアメリカ人のフェノロサ、ビゲロー、岡倉天心らが法隆寺に来訪し、この調査の中で、フェノロサ、岡倉天心が「仏罰で地震が起きる」と開扉を拒否していた法隆寺僧侶を説得し、救世観音像を開扉せしめた話は、あまりにも有名である。

623(推古31)年の造立から1884(明治17)年まで一度も開扉されなかったのか、その間に何度か開扉されたのか、については諸説有るが、絶対秘仏に近い像だったことは間違いない。

今でも、この救世観音像は秘仏であり、411日~518日と1022日~1123日のみ開扉される秘仏である。

 

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■奈良法隆寺2(金堂・本堂・院号)

 

□塔頭の名前が京都大寺院と同じ「○○院」の院号になっている奈良法隆寺

 

法隆寺に行くには、近鉄奈良駅前バスターミナルから、奈良交通バスの法隆寺前行きで約1時間。終点で下車するか、ないしは、JR奈良駅からJR大和路線に乗り約11JR法隆寺前駅で下車。

さらに法隆寺駅前から奈良交通バスの法隆寺門前行きに乗って約10分。終点下車というコースがあるが、私はJR線を利用するコースで行きました。

 

法隆寺の入り口は、「南大門」になっていて、ここから境内に入っていく。

ここからまっすぐ一直線に歩いて行くと、法隆寺の塔中をぬけて西院にたどり着く。

法隆寺の塔中は、中院、宝珠院、西園院、弥勒院、実相院、普門院、福園院、福生院、北室院、というふうに「○○院」という名前になっていて、これは東大寺塔頭、園城寺塔頭、延暦寺里坊から京都の各仏教大寺院の塔頭の多くが「○○院」という名前になっている。

京都にある富士門流本山・要法寺(現・日蓮本宗本山)で、こちらの塔頭は真如院・本行院・本地院・妙種院・顕壽院・法性院・信行院・実成院というふうに、「○○院」となっていて、法隆寺、東大寺、園城寺、延暦寺風の名前になっている。

これに対して、日蓮宗総本山身延山久遠寺、日蓮正宗大石寺、冨士妙蓮寺、讃岐本門寺、北山本門寺、西山本門寺、岡宮光長寺等々の塔中(塔頭)は、「○○坊」になっている。

これが関東の池上本門寺になると院号・寺号の混合になる。

 

西院の正面には中門があるが、ここからは入れず、向かって左側の拝観入り口から入る。

中門から向かって右に金堂、左に五重塔があり、これらを平面「凸」字形の回廊が囲んでいる。中門の左右から伸びた回廊は北側に建つ大講堂の左右に接している。

金堂、五重塔、中門、回廊は聖徳太子在世時のものではなく7世紀後半頃の再建ということであるが、7世紀後半頃の再建であっても、これが世界最古の木造建造物群であることは間違いないということである。

 

金堂というのは、法隆寺の「本堂」ということで、「本堂」のことを、法相宗、華厳宗や真言宗あたりでは「金堂」というが、「金堂」という言葉そのものは飛鳥時代から平安時代前半にかけての古代創建の寺院で多く使われている。

法隆寺西院の金堂が、まさに法隆寺の「本堂」で、金堂は、東院にはなく、ここだけである。

法隆寺の場合、「金堂」と「本堂」を独特の使い分けをしていて、法隆寺の「金堂」に対して、塔頭の中院、宝珠院、北室院、宗源寺、中宮寺に「本堂」がある。

つまり塔頭では「本堂」、法隆寺の本堂は「金堂」という使い分けをしているようである。

法隆寺22金堂
 

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■奈良法隆寺1(ユネスコの世界遺産)

 

□推古天皇15年に日本仏教興隆の祖である聖徳太子が創建した奈良・法隆寺

 

奈良・法隆寺とは、現存する世界最古の木造建築物群で、法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたことで有名な、あの法隆寺である。

別名を斑鳩寺(いかるがでら)というらしいが、ここの町を斑鳩町(いかるがちょう)という。

創建は推古天皇15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約187千平方メートルある。境内を歩くと、なかなか広く感じる。

法隆寺は聖徳太子ゆかりの寺院で、法隆寺は、「日本仏教興隆の祖である聖徳太子が創建した寺院である」とするのが、一般的・常識的理解、いわゆる通説である。

20世紀末頃からは「聖徳太子は実在しなかった」とする言説、いわゆる「聖徳太子架空人物説」が盛んに言われるようになっているが、これには反論も出されている。

『聖徳太子の誕生』の著者である大山誠一は、超人的人物として信仰の対象となっている「聖徳太子」は架空の存在だとしながらも、「聖徳太子」のモデルとなった厩戸王という人物の存在と、その人物が斑鳩宮及び斑鳩寺を建てたことは史実と認めている。

 

現存する法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時のものではなく、7世紀後半 - 8世紀初の建立であることは定説となっており、この伽藍が建つ以前に焼失した前身寺院(いわゆる若草伽藍)が存在したことも発掘調査で確認されている。

また、聖徳太子の斑鳩宮跡とされる法隆寺東院の地下からも前身建物の跡が検出されている。以上のことから、「聖徳太子」の人物像には後世の潤色が多く含まれているとしても、そのモデルとなった厩戸王によって7世紀の早い時期、斑鳩の地に仏教寺院が営まれたことは史実と認められている。

 

通説によれば、推古天皇9年(601年)、聖徳太子は斑鳩の地に斑鳩宮を建て、この近くに建てられたのが法隆寺であるとされる。

金堂「東の間」に安置される薬師如来坐像(国宝)の光背銘には

「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子があらためて推古天皇15年(607年)、像と寺を完成した」

という趣旨の記述がある。しかし、正史である『日本書紀』には(後述の670年の火災の記事はあるが)法隆寺の創建については何も書かれていない。

法隆寺4夢殿


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■奈良東大寺7(勧学院)

 

東大寺の、隠れた有名な建物として、「勧学院」という堂宇がある。勧学院は、東大寺真言院の境内にある。真言院は、東大寺・別当も務めた弘法大師空海が、弘仁13年(821年)、勅許を受けて開設した灌頂道場が始まりであり、南都における真言教学の拠点となった所。

東大寺30勧学院

 

フリー百科事典・Wikipediaによれば、勧学院とは元々は、弘仁12年(821年)、藤原冬嗣によって創建され、貞観14年(872年)以前に大学別曹として公認された。大学別曹とは有力氏族の学生のためにつくられた寄宿舎のこと。

本来は大学寮内に寄宿しなければならないが、大学別曹として公認されると寮内に寄宿する学生と同等の資格で授業・試験に出ることが出来た。のちには任官試験を経ずに地方官に任命される特権(年挙)を朝廷から認められた。また、優秀者には学問料が払われて後の文章生への登用に有利に働いた。また、藤原氏の公卿に慶事があると職員・学生達が挙って祝辞を述べに参上し、その答礼として彼らを饗宴でもてなすという「勧学院歩(かんがくいんのあゆみ)」という恒例行事があった。

維持管理は藤氏長者の職務とされ、藤原氏一門の大納言級から任じられる公卿別当、弁官から任じられる弁別当以下の職員の任免を行った。財政は一族からの荘園寄付によって賄われており他の大学別曹に比べ、非常に豊かであった。

また、寄宿舎としての機能の他にも一族に関係する事務を行う氏院(うじのいん)としての機能を行うための政所も設置されていた。具体的には藤原氏の氏寺である興福寺や氏神である春日大社などの祭祀に関する事務である。また延命院の管理も行った。藤氏長者は長者宣を出す際に実際の事務文書にあたる下文が勧学院で作成されて添付された。

貴族社会の衰微とともに鎌倉時代には勧学院は消滅したと言われているが、興福寺などの有力寺院が寺内に設けた僧侶育成機関に「勧学院」の名が用いられたのは、ここに由来していると言われている。

 

勧学院の名前は、けっこういろいろな宗派にあり、東大寺の他、園城寺、成田山新勝寺、高野山等にある。

現在の東大寺勧学院は、聴講無料の講演会や講義が行われている案内が建てられていた。

東大寺31勧学院
 

 

 

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■奈良東大寺6(東大寺戒壇堂)

 

□大石寺9世日有が独自に発明した「事の戒壇」は東大寺戒壇堂のパクリか

 

東大寺の調査・取材のポイントは、大仏殿もそうだが、むしろ戒壇堂のほうである。

東大寺の戒壇は、出家者が正規の僧となるための戒律を授けられる儀式・受戒するための施設として、天平勝宝7歳(755年)に鑑真を招いて創建された。現在の建物は享保18年(1733年)の再建であるが、内部は創建当時のものが再現されている。

近代になる以前の日本では、今とはちがって僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」で授戒されない僧侶は、僧侶としてすら認められなかった。 当時の日本では、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本には、比叡山延暦寺の他、奈良・東大寺、唐招提寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺等の官寺にしか存在しなかった。

鑑真は754年、東大寺に戒壇を築き、同年4月に聖武天皇をはじめ430人に授戒を行なった。これが最初の戒壇である。その後、東大寺に戒壇院を建立し、筑紫の大宰府の観世音寺、下野国(現在の栃木県)の薬師寺に戒壇を築いた。これ以降、僧になるためには、いずれかの戒壇で授戒して戒牒を受けることが必須となり、国(国分寺)が僧を管理することになった。

大和国の東大寺、法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられたが、822年、伝教大師最澄の死後、比叡山延暦寺に戒壇の勅許が下され、大乗戒壇が建立された。

当時は、中国の仏教界は比叡山延暦寺の大乗戒壇を、戒壇としては認めておらず、ここで受戒した僧は、中国では僧侶として認められなかった。また、官立寺院(官寺)ではない比叡山延暦寺に戒壇設置を認められたことに東大寺をはじめとする南都(奈良)の寺院の反発を招いた。東大寺は、日有が生きていた時代でも、日本三大戒壇のひとつであり、総国分寺であった。

 

東大寺は、京都から南に下ること約40キロの所にある奈良、つまり旧平城京があった所から東へ約4キロぐらいの所にある。

私が、日蓮正宗大石寺9世法主・日有が独自に発明した「事の戒壇」と似ていると言っているのは、東大寺大仏殿のことではなく、東大寺の戒壇堂のこと。ここは、出家者が受戒(正規の僧となるための戒律を授けられる)するための施設として、天平勝宝7歳(755年)に鑑真和上を招いて創建された。現在の建物は享保18年(1733年)の再建である。

東大寺10戒壇
 

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■奈良東大寺5(東大寺大仏殿)

 

□写真撮影が禁止されていななかった東大寺大仏殿

 

今年の10月に東大寺に行ったときは、「光明皇后千二百五十年遠忌法要」の準備のため、正面から大仏殿には入れず、回廊を歩いて正面左側から入っていった。

資料に依れば、大仏殿は高さ46.8メートル、間口57メートル、奥行50.5メートルで、2,850平方メートル(約862坪)。

それに対し、奈良、鎌倉時代の大仏殿は、高さは約50メートルと同じですが、広さは間口約86メートル×奥行約50メートル=4,300平方メートル(約1,300坪)はあったという。

現在の大仏殿は、高さと奥行は創建時とほぼ変わりないが、東西の幅は奈良・鎌倉時代の大仏殿の約3分の2に縮小されているということになる。

この巨大な大仏殿の中に、巨大な大仏が座っている。

国宝指定名称は「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」。像高は14.7メートル。大仏は『華厳経』に説く盧舎那仏という名の仏という意味らしい。

東大寺17大仏

 

もちろん、この大仏は、東大寺の本堂である「金堂」すなわち大仏殿の中心本尊であることは言うまでもないが、面白いことに、この大仏殿の中は写真撮影が禁止されておらず、参拝客・観光客のほぼ全員と言っていいくらい、大仏の写真をパチパチと撮りまくっている。

かく言う私も、大仏の写真を何枚も撮影してきている。

 

だいたいどこの宗派の寺院の本堂も、中では撮影禁止というのが一般的で、本堂の中の本尊を撮影するなど、もってのほか。参拝者による本尊の写真撮影など厳禁というのが仏教界の常識みたいなものになっている。

実際、あっちこっちの大伽藍・大寺院を訪れると、「撮影禁止」の看板・立て札をよく目にする。

 

しかし東大寺大仏殿は、写真撮影が禁止されていない。

もっとも、元々はここも撮影禁止だったのかもしれないが、大仏殿に入った途端、大仏の威容に圧倒されて参拝客が写真を撮り始めてしまうため、大仏殿の中を撮影禁止にしても有名無実であり、意味がないのかも知れない。

ただ、大仏殿には行っていきなり撮影するのではなく、「大仏に手を合わせて参拝してから撮影して欲しい」旨の東大寺のコメントを見たが。

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■奈良東大寺4(東大寺大仏殿)

 

□仏教各宗派によって使い方がまちまちの本堂・金堂・仏殿・本殿・客殿・御影堂の使い分け

 

東大寺「大仏殿」の「大仏殿」という名前は、いわば通称名であって、正式には「金堂」(こんどう)という。「金堂」というのは、金でできた堂宇という意味ではなく、「本堂」と同じ意味である。

東大寺26大仏殿


本堂(ほんどう)とは、仏教寺院において、本尊仏、本尊を安置する堂宇・建物の名前。

日本では一山の本尊を安置する、寺院の中心的な堂を指して「本堂」あるいは「金堂」ということが多い。

つまり「本堂」のことを、法相宗、華厳宗や真言宗あたりでは「金堂」というが、「金堂」という言葉そのものは飛鳥時代から平安時代前半にかけての古代創建の寺院で多く使われている。

なお、奈良時代創建の寺院でも、新薬師寺、西大寺のように現在は「本堂」という名称を使用しているところもある。また、室生寺、当麻寺のように「金堂」と「本堂」が別個に存在する寺院もある。

奈良法隆寺の場合は、伽藍が西院伽藍、東院伽藍、大宝蔵院に分かれていて西院伽藍の中心が釈迦如来像、薬師如来像、阿弥陀如来像を祀る金堂。東院伽藍の中心が有名な救世観音像を祀る夢殿である。

比叡山延暦寺など天台宗では本堂に該当する堂宇のことを「根本中堂」ないしは「中堂」といい、禅宗では「仏殿」という。

伝教大師最澄造立の薬師如来像を秘仏として祀る比叡山延暦寺の根本中堂は、東塔、西塔、横川に分かれる延暦寺伽藍の総本堂である。天台宗では比叡山延暦寺のみならず寛永寺や深大寺など本山・末寺でも本堂を「根本中堂」ないしは「中堂」と呼ぶ寺院が多い。

ただ天台宗でも、天台寺門宗総本山・園城寺(三井寺)は、「金堂」という言葉を使っている。

禅宗にあっても特に方丈形式の中心堂宇を指して「本堂」と称する場合もある。石川県能登の総持寺祖院では、客殿に該当する堂宇を「仏殿」と称している。

 

浄土真宗の寺院では、阿弥陀堂と御影堂の二堂が中心堂宇として建っているのが一般的で、阿弥陀堂は、本尊である阿弥陀如来像を祀る堂宇。御影堂とは、宗祖・親鸞の木像(御影像)を祀る堂宇。寺院の本尊は阿弥陀如来像なので、阿弥陀堂が本堂に該当することになる。

これは浄土真宗の各本山である東本願寺、西本願寺、高田専修寺、仏光寺、興正寺、錦織寺、豪摂寺、誠照寺、専照寺等に共通している。

浄土宗総本山知恩院では、本堂(御影堂)には法然像を祀り、阿弥陀堂には阿弥陀如来像を祀る。東京・芝の大本山増上寺は、大殿に阿弥陀如来像を祀り、この堂宇が本堂に該当すると称している。この他に安国殿があり、秘仏・黒本尊を祀っているが、黒本尊も阿弥陀如来立像である。

 

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■奈良東大寺3(東大寺大仏殿)

 

□日蓮正宗大石寺奉安堂の外観・設計は東大寺大仏殿のパクリか

 

東大寺南大門をくぐって、大仏殿に向かって一路歩いて行くと、中門に突き当たる。

これは東大寺金堂(大仏殿)の手前にある入母屋造の2階建ての門。これも江戸時代、享保元年(1716年)頃の再建という。

中門の正面からは中には入れず、向かって左側に歩いて行くと、入り口があり、そこから大仏殿に入っていくことになる。もちろん、中門から入ると拝観料を取られる。中門の両脇から「コ」の字形に回廊が伸び、大仏殿の左右に至るという構造になっている。

私が今年10月に行ったときは、「光明皇后 千二百五十年御遠忌法要」の準備のため、大仏殿正面からは入れず、回廊を通って大仏殿の脇から入って行かなくてはならなかった。

 

ところでちょうど中門から大仏殿を見ると、「あれえ、やっぱりそっくりだな」と思うことがある。

そう。東大寺大仏殿は、外観が日蓮正宗大石寺の奉安堂とそっくりなのである。

もちろん先にできたのは東大寺大仏殿だから、大石寺の奉安堂のほうが大仏殿を模して建立されたと言うことになる。早い話、大石寺の奉安堂の外観・設計は、東大寺大仏殿のパクリということになる。

大石寺奉安堂が、東大寺大仏殿を模して設計されたことは、奉安堂の設計を担当した建築研究所アーキヴィジョンの広谷純弘氏自身が認めていることである。

「奉安堂の規模とそれを支える技術・工法」

http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/ETC/Hoando/rep3.html

 

設計を担当したのは、建築研究所アーキヴィジョンかもしれないが、こういった東大寺大仏殿を模した外観にすることなど、一切は日蓮正宗の承認の元で行われていることである。設計事務所が、勝手に設計したわけではない。

つまりは、東大寺大仏殿を模した奉安堂の外観は、日蓮正宗の承認の元で設計されたのは当然のことと言うより、むしろ日蓮正宗の指示で、東大寺大仏殿を模した設計が為されたと見るべきではないか。

いくらなんでも、設計事務所側から日蓮正宗に対して、東大寺大仏殿をそっくり模した設計図を提案するなど、考えにくいことだからだ。

東大寺26大仏殿
 

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■奈良東大寺2(六宗兼学・八宗兼学)

 

では日本最初の戒壇、日本三大戒壇の一つとしての東大寺と、華厳宗総本山としての東大寺が、どうして両立するのか、という疑問にぶち当たる。

奈良時代のいわゆる南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)は、「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは中世以後のことである。鎌倉時代に「鎌倉仏教」と呼ばれる浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗といった新興宗派が起こってきたころが、今で言う「宗派」の起こりとする説がある。

完全に固定化されたのは、近世初期の1664年(寛文4年)に江戸幕府がキリスト教や不受不施派を禁制として、信徒に対し改宗を強制することを目的として制定された檀家制度、寺檀制度ということになる。

これは仏教の檀信徒であることの証明を寺院から請ける制度である。寺請制度の確立によって民衆は、いずれかの寺院を菩提寺と定め、その檀家となる事を義務付けられた。つまりどこかの宗派の寺院の信徒として固定化されたわけである。

寺請け制度ができる前は、けっこうあいまいな所があり、日蓮宗一門で言えば、ある信者は、日蓮正宗大石寺にも参詣すれば、北山本門寺にも参詣し、身延山久遠寺にも参詣するといった具合である。

 

寺院では、寺請制度の成立によって、現在の戸籍に当たる宗門人別帳が作成され、旅行や住居の移動の際にはその証文(寺請証文)が必要とされた。各家、各家庭には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招くという慣習が定まり、寺院に一定の信徒と収入を保証される形となったというわけである。

そのため、仏教界では、長い間、寺院の僧侶は、複数の宗派を兼学することが普通であった。

東大寺の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗るが、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。

しかし華厳宗は、六宗の中でも開山・良弁ゆかりの宗派として重要視され、近代以前においても日本における華厳宗研究の中心地として、多数の優れた学僧を輩出していた。

平安時代には空海によって寺内に真言院が開かれ、弘法大師空海が伝えた真言宗、伝教大師最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。

ここではないが、法隆寺に行ったとき、案内役員から

「法隆寺は、今で言うと大学のような部分があって、多くの学僧が学びに来ていた」

との説明を受けた。もっとも、東大寺が日本最初の戒壇であるとの地位を考えれば、法隆寺に限らず、「八宗兼学の寺」としての東大寺も、今でいう大学としての機能を持っていたと考えられる。

東大寺10戒壇
 


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■奈良東大寺1(日本最初の戒壇)

 

□ゆっくり見て回ると丸1日はかかるほど広大な東大寺の境内

 

奈良でいろいろ有名なものはたくさんあるが、中でも最大級に有名なのが、やはり「奈良の大仏」で有名な東大寺であろう。東大寺は、正式には華厳宗大本山の寺。

難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のこと。大仏鋳造が終わって、大仏殿の建設工事が始められ、大仏殿が竣工したのは天平宝字2年(758年)。ここから数えても1250年以上の歴史がある。

そういう長い歴史から、現・別当(法主)は、開山(初代別当)の良弁僧正から数えて220世・北河原公敬氏である。

東大寺は、聖武天皇より、奈良時代の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置づけられている。

 

東大寺は、奈良公園の中にあるのだが、東大寺だけでも、ものすごい広さの敷地である。いろいろと資料を調べたのだが、東大寺の敷地面積の正確なデーターは、見つからなかった。

資料によれば、東大寺の境内は平城京の外京の東端を区切る東七坊大路(現国道169号)を西端とし、西南部は興福寺の境内と接していたという。

又、かつては現存の堂宇以外にも多くの堂塔が存在しており、大仏殿の北には講堂と僧坊。東には食堂(じきどう)があった。僧坊は講堂の北・東・西の3面にコの字形に設けられたので「三面僧坊」と称していたという。

大仏殿の手前の東西には東塔・西塔(いずれも七重塔)があった。これらは、周囲を回廊で囲まれ、回廊の東西南北4か所に門を設けた「塔院」を形成しており、他寺に例をみない規模のものであったという。ということは、今の東大寺の敷地は、昔からは縮小されているものなのか。

それでも東大寺の境内は、広すぎるくらい広い。

これだけ広い敷地に、大仏殿、戒壇堂、二月堂、法華堂、南大門等々といった堂宇が立ち並んでいるため、これらの堂宇をくまなく見て回ると、およそ1日かかってしまう。

JTBの「るるぶ情報板」によれば、「じっくり拝観すれば、半日はかかる」と書いてあるが、半日では無理でしょう。丸1日は優にかかると思います。

 

私が東大寺に行った第一の目的は、日本最初の「戒壇」を調査するため。

東大寺の戒壇とは、出家者が正規の僧となるための戒律を授けられる儀式である「受戒」をするための施設として、天平勝宝7歳(755年)に鑑真和上を招いて創建された建物である。現在の「戒壇」の建物は江戸時代・享保18年(1733年)の再建。

東大寺4戒壇


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■小湊誕生寺3(御秘符の疑惑)

 

□日蓮正宗大石寺が信者に呑ませている「御秘符」を科学鑑定せよ

 

ところで誕生寺の祖師堂に祀られている日蓮像は、1991(平成3)年に修理のため解体したところ、胎内から4代住職日静の筆による古文書と薬草が発見されたというのである。

古文書によると「生身の祖師」の名と日蓮誕生の時と所が記載されていたという。またこれは、日蓮が母を蘇生させたという伝説から、「蘇生満願の祖師」とも言われているという。

誕生寺1

 

そういえば日蓮が母を蘇生させた云々という伝説は、日蓮正宗大石寺にもあることを思い出した。

日蓮が病身の母を蘇生させるために、自ら薬草を調合して飲ませたら、見事に蘇生したというのである。その日蓮が調合した薬草が、大石寺の歴代法主に「御秘符」(ごひふ)として相伝されているというのが、それである。

その日蓮の母蘇生の薬草が、ここ誕生寺にもあるというのである。

 

日蓮が調合した薬草と称するものは、大石寺と誕生寺にあるという。

こういったものも、現代科学による科学鑑定をすべきなのではないだろうかと考える。

しかも大石寺の場合は、今でも、病身の信者からの願い出によって、法主が薬草を調合して「御秘符」(ごひふ)なるものを信者に「薬」として与えているというのだから、驚きである。

ここまで行ったら、信仰とか宗教とかの問題ではなく、現実の「薬事」の問題になってくる。

 

まず、この大石寺の法主が信者に授与しているという日蓮の「薬草」、いわゆる「御秘符」なるものを科学鑑定すべきである。そして「御秘符」の「薬草」成分について、速やかに科学的に分析すべきである。

そしてこれが厚生労働省が薬として認可しているものに適合しているのかどうか。

薬でないものを薬として信者に飲ませているとなると薬事法違反の疑いがあるのではないか。

さらに仮にこれが薬として適合しているとしても、大石寺の法主は、薬剤師の資格を持っているのか。薬剤師の資格がないのに、薬を調合して信者与えているとすれば、薬事法違反の疑いがあるのではないか。

又、薬でないものを、日蓮から伝来している「薬草」としてカネをとって信者に授与しているとすれば、詐欺の疑いがあるのではないか。

こんな疑惑逃れのためか、日蓮正宗では信者に対して、こんな指導をしているという。

「御秘符は薬ではない。信心で呑みなさい」

しかし御秘符なるものが薬ではないとしても、日蓮正宗が信者に呑ませていることは事実である。

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■小湊誕生寺2(真鯛の群泳と日蓮)

 

誕生寺は日蓮誕生の霊跡としてあまりにも有名で、日蓮宗七大本山のひとつになっている。

寺伝によれば、日蓮誕生の時、海辺には蓮華が咲き、鯛が群れ、館の庭に清泉がわき出たという。これが今の蓮華ヶ淵、妙の浦、誕生水井戸であるという。

つまり日蓮が産まれた時、庭から清水が湧きだした、海には鯛が群れ集まった、海岸には蓮の花が咲き乱れたという三奇瑞が起こったという伝説があり、鯛ノ浦の真鯛は、長い間、禁漁が守られ、手厚く地元の人たちによって保護されてきたのだという。

建治二年(1276)10月、中老僧・日家と日保が、日蓮父母の館跡地に一宇を建立し、日蓮自ら高光山日蓮誕生寺と命名した。

当時の誕生寺は、今の鯛ノ浦にあったが、明応七年(1498)8月の地震・津波で押し流され、再建堂宇も元禄十六年(1703)11月の大地震による津波で流失。日蓮の生家があったところは、大地震による津波で海中に没してしまっているということになる。

 

鯛ノ浦は、千葉県鴨川市内浦湾から入道ヶ崎にかけての沿岸部の海域で、ここに真鯛(マダイ)が群泳することて゛広く知られている。

ここの真鯛は、特別天然記念物に指定されていて、域内では釣り等が禁止されている。

本来、真鯛は水深1020mを回遊する魚であるらしいのだが、鯛ノ浦のような水深の浅い海域に根つきになることはまず有りえないという。

古来からここの真鯛は名物とされていて、手漕ぎの舟でタイ見物をさせていたが、今は鯛ノ浦遊覧船により、鯛ノ浦周辺海域を廻り、エサづけされた真鯛を見ることができる。

 

この鯛ノ浦の遊覧船はもともと、市議会議員によって運営されてきたのだったが、1954(昭和29)年、小湊鯛ノ浦遊覧船企業組合が設立され、ここが遊覧船を運営している。

遊覧船に乗ると鯛ノ浦会館を出て、鯛の群泳鑑賞と弁天島周辺の遊覧を案内してくれる。鯛ノ浦の浅瀬に、真鯛が群泳しているというのは、本当のようである。

真鯛も、日蓮の化身として信仰され、弁天島は海中に没してしまった日蓮の生家に近いせいか、弁天が祀られ、ここへも年中、参拝者が絶えないのだという。

鯛の浦1
 

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■小湊誕生寺1(観心本尊抄・撰時抄等のレプリカ)

 

「小湊誕生寺」とは、千葉県鴨川市天津小湊にある日蓮の生誕を記念して建てられた寺で、1276(建治2)10月、日蓮の弟子・日家が日蓮の生家跡に高光山日蓮誕生寺として建立されたというが、この説は今は疑わしいとされている。

誕生寺の開祖・日家も、富士妙蓮寺の開祖・寂日坊日華と同一人だの、そうでないだのという論争がつづいており、未だに結論が出ていない。日蓮宗が発刊する「日蓮宗本山めぐり」の中の記述は、誕生寺の開祖・日家を誕生寺二世としており、富士妙蓮寺の開祖・寂日坊日華とは別人説に立っているように思われる。

 

1498(明応7)年と1703(元禄16)年の二度の大地震による大津波にあい、現在の地で水戸光圀の外護で「誕生寺」が再建されたが、1758(宝暦8)年に火災で焼失。1842(天保13)年に再建された。

誕生寺の境内には、仁王門、本堂、客殿、日蓮像が祀られている祖師堂、宝物殿などが建ち並んでいる。

境内中央にそびえ立っている大きな堂宇は祖師堂。この祖師堂の裏側に本師殿宝塔がある。

本堂、客殿、寺務所、布教殿堂は歩道橋を渡って奥にある。参道には売店が建ち並んでいて、普段から参詣人が多いことを伺わせている。

祖師堂はケヤキの大柱52本を使った国内有数の大堂で、日蓮像が安置される御宮殿は明治皇室大奥の寄進によるものであるという。

祖師堂内の右側の天井には南部藩の相馬大作筆による天女の絵が描かれる。堂内の天蓋等の仏具類は明治天皇の生母である中山慶子一位局や、大正天皇の生母・柳原愛子一位局による寄進によるものだという。

 

私がこの中で注目したのは、宝物殿である。

ここには、日蓮真筆の大漫荼羅本尊、日蓮真筆遺文「富木殿女房ご返事」、日蓮真筆の「観心本尊抄」「撰時抄」「立正安国論」のレプリカなどがズラリと展示されている。

日蓮真筆のレプリカではあるが、「観心本尊抄」「撰時抄」「立正安国論」は見ものである。

寺院の虫払いとか風入れの法要に行っても、見ることはできるかもしれないが、ゆっくりと間近で見ることはできない。

千葉県鴨川市天津小湊にある日蓮宗の古刹寺院・誕生寺・宝物館の展示は、数ある日蓮関係の寺院の宝物館における展示や「霊宝虫払い法要」における拝観などの中では、実にゆっくり展示を拝観できたし、内容的にもとても充実していたものだと思う。

この誕生寺宝物館の常設展示は9室に分けられていて、ここには国宝や重要文化財などがズラリと並んでいる。

小湊誕生寺4


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鎌倉・安国論寺3(日朗の荼毘所)

 

日蓮が松葉ヶ谷法難で一時避難した南面窟は、安国論寺境内のけっこう山の中にあります。外から見ると、ただの洞穴にしか見えない。

安国論寺の説明によると、日蓮は松葉ヶ谷法難の時、一時、南面窟に避難した後、お猿畠・法性寺に逃れたということです。

御法窟も南面窟も、安国論寺に来る度に、何度も来ているのですが、ここに来ると、何となく「ここが松葉ヶ谷法難があったところか」と、感慨無量な気持ちになります。松葉ヶ谷法難とか立正安国論というのは、実に有名な史実で、学生のころ、映画「日蓮」でも見ましたし、その後、映画「日蓮」のDVD版も取り寄せて持っていますので。

安国論寺14本堂

 

安国論寺の境内には、日蓮の六老僧第二・至孝第一といわれる、安国論寺第二祖・日朗の荼毘所がある。安国論寺では「日朗上人御荼毘所」と呼んでいる。

日朗は元応二年(1320)121日に78才で遷化(死去)しているが、出家得度の松葉ヶ谷の地で荼毘に付してほしいと遺言したため、この安国論寺に荼毘所があるという。

ただし日朗の廟所(正墓)はここではなく、逗子・法性寺にある。逗子の法性寺は、松葉ヶ谷法難の折、日蓮が白猿に導かれて避難したという場所。日蓮の岩窟や弟子の日朗の廟所がある。

日朗の廟所は、池上本門寺にもある。池上本門寺には、日蓮の灰骨を納めた「日蓮聖人御廟所」があるが、その隣には二祖日朗の廟所、三祖日輪の廟所が並んで建っている。

安国論寺12荼毘所

 

日朗という人は、関東・鎌倉方面を中心に布教をした人で、日朗を第二祖としている寺院は、安国論寺だけではなく、池上本門寺、鎌倉妙本寺などの日朗門流の寺院の他、日朗の弟子の日像門流の京都妙顕寺、さらにそこから別れた京都妙覚寺、岡山妙覚寺、岡山本覚寺等々、実に多数ある。

日興門流の人に言わせると、日興やその弟子の日尊は全国布教に活躍したというような話しをしますが、私が見聞した限りでは、日朗門流のほうが日蓮宗の布教をかなり広めているという実感があります。

関東で多いのはこの日朗門流であり、はじめて京都布教を成し遂げた日像は、日朗の弟子。

さらに日像門流から法華宗本門流、本門法華宗、法華宗真門流、日蓮宗不受不施派等が分岐している。こういう分岐した門流の祖は日朗であるわけで、こういうのも全て日朗門流に含めれば、日蓮宗関連では最大規模になると思われます。

 

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鎌倉・安国論寺2(御小庵の霊跡と認定)

 

鎌倉・安国論寺は、日蓮・松葉ヶ谷草庵跡地として、有名な寺院で、まずここには、戦前、神奈川県が建てた「松葉谷日蓮上人遺跡」と書かれた石碑が建っている。

安国論寺7御小庵

 

文中、紀元と書いてあるのは、西暦のことではなく、皇紀のこと。皇紀とは、神武天皇即位紀元といい、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年(紀元)とする、日本の紀年法のこと。紀元節(現在の建国記念の日)廃止までは、単に「紀元」と言った場合には、神武天皇即位紀元(皇紀)を指していた。

この石碑の漢字も、昔の字体になっていて、いかにも戦前に建てられた石碑という感じがします。

 

さてもうひとつ。安国論寺の門前には、鎌倉市教育委員会が建てた案内板があります。それには、次のように書かれています。

 

「当山は日蓮聖人松葉ヶ谷御小庵の霊跡です。御小庵の元となった岩窟(「御法窟」または「日蓮岩屋」という)が本堂の向かいにあります。この御法窟で日本国の安泰と人々の幸せを願って文応元年(1260)七月十六日、前執権北条時頼に建白した『立正安国論』が執筆されました。

翌八月二十七日に立正安国論に反感を持つ人々に庵が襲われました。これは「松葉ヶ谷の法難」といわれています。本堂の裏山に一時避難した「南面窟」があります。

境内は四季折々の花や紅葉で彩られています。なかでも御小庵の傍らの山桜は、日蓮聖人の桜の杖が根づいたといわれ、「妙法桜」と呼ばれています。サザンカやカイドウと共に、鎌倉市の天然記念物に指定されています。」

安国論寺15

 

このように鎌倉市教育委員会が建てた案内板があるということは、学術的に安国論寺が松葉ヶ谷御小庵の霊跡であることを認定されているということです。

日蓮が「立正安国論」を執筆したという御法窟とよばれる穴蔵は、外から見ると渡り廊下のような建物に覆われていて、中までは見えない。現在は非公開になっているとのこと。

保存のために、そうしているのでしょうか。理由はわかりません。

安国論寺1御法窟

 

現在、境内の一角に遺っている御小庵は、安国論寺の案内によると、尾張徳川家の寄進で、元禄年代に建立された堂宇。総欅造りになっている。

御小庵と言われるとおり、まことに小さな堂宇である。もちろん、日蓮在世当時の堂宇は、法難等で失われているのだろうが、しかし日蓮在世当時の御小庵は、こんな感じの堂宇だったのだろうか。続きを読む
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鎌倉・安国論寺1(立正安国論・松葉ヶ谷法難の霊跡)

 

安国論寺(あんこくろんじ)とは、神奈川県鎌倉市大町(名越)にある日蓮宗の寺院で、正式名称は妙法蓮華山安国論寺という、ちょっと長い名前である。

長勝寺と並び日蓮の鎌倉での布教の中心となった松葉ヶ谷草庵跡とされ、松葉ヶ谷霊跡・安国論寺とも言う。開山は日蓮とするが、弟子の日朗が文応元年(1260)に、日蓮が前執権北条時頼に建白した「立正安国論」を執筆した岩穴(法窟)の側に安国論窟寺を建てたのが始まりとされている。ここは、日蓮が北条時頼に提出した「立正安国論」を書いたという古刹寺院であり、日蓮は、ここに草庵を結び、布教活動の拠点にしたとされている。

またここは、日蓮の「松葉ヶ谷法難」の舞台になった所とされている。

日蓮・立正安国論の霊跡ということで、本堂には「立正安国」の扁額が掲げられており、境内には、立正安国論の墨筆を模写した石碑があります。

安国論寺13本堂

 

安国論寺の説明によると、日蓮が立教開宗して鎌倉に入った後、鎌倉・名越の松葉ヶ谷の岩屋に草庵を結んだ跡地が、現在の安国論寺の本堂の向かい側にある御小庵と、その奥に連なっている御法窟(御岩屋)であるという。

安国論寺10御小庵


しかし現在の御小庵は、日蓮が住んでいた庵ではなく、江戸時代・元禄のころに、尾張・徳川家の寄進によって建立された総欅造りのものということである。

御法窟という所が、日蓮が「立正安国論」を起草したところで、南面窟という所が、文応元年(1260)の「松葉ヶ谷法難」の時に、白猿に導かれて日蓮が避難した場所であるという。

安国論寺4南面窟

 

安国論寺の見解によれば、日蓮は、立宗宣言後の32才から龍口法難の50才のころまで、伊豆流罪・小松原法難前後中を除く約17年間、ここに草庵を結んでいたという。もしこれが本当だとすれば、身延山に滞在した9年よりも長く、日蓮が立宗宣言後、最も長く滞在した所になるのではないだろうか。

そうすると日蓮関連の霊跡としては、有数の霊跡になるはずなのだが、この安国論寺は日蓮宗本山には数えられていない。元は鎌倉比企谷・妙本寺の末寺であった。

 

境内には、日蓮の杖が根付いたとされる市原虎の尾という品種のヤマザクラである「妙法桜」というのがあり、鎌倉市の天然記念物になっている。

「市原虎の尾」という品種の桜は、非常に珍しい品種の桜であるという。

そこでちょっと「市原虎の尾」について調べてみたのだが、もともとこの品種は、京都の市原にあった桜で、小枝に花が密生してつくその様子が虎の尾に似ているところから、大谷光瑞という人物が「市原虎の尾」と名前をつけたという。

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■大野山本遠寺2(身延山周辺の楠木調査2)

 

大野山本遠寺への二度めの訪問は、前回と同じく身延山周辺における楠木の調査・取材をしていた時に、首尾よく身延町教育委員会の某役職についていらっしゃるA氏にめぐり会うことができ、A氏から、さまざまな学術的・学問的知識に関することについて、楠木の調査・取材に全面的に協力をいただくことができた。

これはたしか2006年くらいのことだったと記憶する。

身延町という町は、もともと身延山久遠寺の門前町ということで有名ですが、現在の身延町は、2004(平成16)913日に西八代郡下部町と南巨摩郡の中富町、旧身延町が合併して誕生したもので、新しい身延町には、身延山久遠寺、大野山本遠寺の他、下部温泉、中富和紙の里、本栖湖西岸あたりまでもが、身延町になった。

しかも「身延町教育委員会」では、学識経験者が多数いるようで、「身延町教育委員会」の役職者であるA氏は、身延町の歴史や文化財のことなどにとどまらず、それこそ実に豊富な知識をもっている方であった。また、私のほうからは、さまざまな質問をしたのでしたが、それらひとつひとつの質問については、実に懇切丁寧に答えをいただいた。

 

日蓮正宗や創価学会、顕正会、正信会が「一閻浮提総与の大御本尊」等とよんでいる「戒壇の大本尊」なる板本尊の日蓮真筆説の根拠にしている大野山本遠寺の楠木に関しては、大野山本遠寺そのものが、徳川家康の側室だったお万の方の菩提のために創建された寺院であり、そこに人工植樹された楠木の大木が一本あるだけである。

だから大野山本遠寺の大楠は、日蓮在世の時代には、存在していなかった。

それから、大野山本遠寺の大楠木が身延町の文化財(天然記念物)に指定されていることを以て、日蓮正宗側は、あたかも日蓮が生きていた時代から自生の楠木が繁茂していた証拠であるかのように言っているが、これは自生の楠木であるという証明なのではない、と私は考える

大野山本遠寺の大楠木が身延町の文化財(天然記念物)に指定されていることについて、「身延町教育委員会」のA氏に質問したところ、だいたい以下のような答えであった。

 

「天然記念物とは、動物、植物、地質・鉱物、天然保護区域などで、学術上価値の高いものとして国または地方自治体が指定したもので、動物の場合は生息地、繁殖地、渡来地を、植物の場合は自生地を、鉱物の場合は特異な自然現象を生じている土地を含めて指定される。ただし、これらの中には、長い歴史を通じて文化的な活動により作り出された二次的な自然も含まれる。」

「身延町の樹木の文化財(天然記念物)指定にあたっては、年輪やいつから繁茂しているかといったことは勘案されていない」

「樹木の年輪を測定してからの文化財指定というのでは、現実問題として無理であり、樹木の文化財(天然記念物)指定は、年輪や歴史よりも、その樹木そのものの地域の中での存在感とか、地域の人々に与える影響力とか、地域の人々との繋がりなどといった点が考慮されてのことである」

本遠寺の楠木2
 


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■大野山本遠寺1(身延山周辺の楠木調査)

 

山梨県南巨摩郡身延町大野にある日蓮宗寺院・大野山本遠寺を訪れたのは、身延山周辺の楠木調査をしていたときに訪れたのが最初。はじめて調査・取材のために行ったのは1990年代後半くらいのころだったと記憶している。

大野山本遠寺は、場所的には富士川西岸の大野山東麓に位置しており、JR身延線の身延駅前からのバスで二つ目か三つ目のバス停・大野で下車。そこから歩いて15分くらいのところで、日蓮宗総本山の身延山久遠寺からはほど近い。日蓮宗の本山寺院にはなっていますが、身延山久遠寺から独立した日蓮宗別格本山という位置づけになっているのだという。

大野山本遠寺1


 

この身延山周辺の楠木調査というのは、日蓮正宗大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊の偽作疑惑問題に関連するもので、「戒壇の大本尊」なる板本尊が後世の偽作である証拠のひとつとして、「戒壇の大本尊」なる板本尊が楠の木でできているということがある。

□大石寺の『戒壇大本尊』は後世の偽作だ

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_161867.html

 

具体的に言うと、日蓮在世の時代に、というか今でもですが、身延山および身延山周辺には、自生の楠木、自然の楠の木は存在しない。そもそも楠の木は、西日本に広く見られる大木ですが、一般的な学説では、日本本土では本来生していたものかどうかは疑問があり、中国南部などからの史前帰化植物ではないかとも言われる。日本では、自然植生の森林では楠の木は見かけることが少なく、人里近くに多く、人工的な神社林ではよく大木がある。

身延・富士周辺の神社・仏閣などにおいて楠木が見受けられるものについては、私たちが調査したところ、室町時代以降において人工的に植樹されたものであることがわかった。その謂われについて、森林組合や木材加工の専門家は、鎌倉幕府滅亡の後、建武の中興の時代、関西地方から楠木が植林されたものが最初だと、述べている。 したがって、日蓮が生きていた鎌倉時代には身延山周辺に自生の楠木はなかったというのは、疑いのない事実。

これが日蓮真筆だと詐称し、日蓮真筆だと無理やりにでも強弁している日蓮正宗の最高指導者職・最高位である法主(ほっす)という地位にあった、日蓮正宗大石寺66世・細井日達法主がこんなことを言っている。

 

「身延の入り口の大野山本遠寺という寺がある。此れは身延駅から身延へ行く手前に今 でもある。その寺にちゃんと千二、三百年前からの楠木が今でも生きている。もしそれ が千年の木としても、大聖人様が七百年とすれば、まだ三百年以上の木があったわけで ある。何もそれ一本というわけではない。まだ沢山、あの辺には古い楠木があったはず なのである。それを見てもわかる。……」(昭和47年9月12日の日正寺・龍口法難会の説法会)