仏教宗学研究会のブログ

「仏教宗学研究会」とは会の名称。「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

「仏教宗学研究会」とは「アンチ日蓮正宗」管理人が設立した会の名称。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。富士門流執着軍団批判は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄だが、「日蓮正宗系」以外の富士門流寺院の調査・研究は「仏教宗学研究会のブログ」の管轄。
「仏教宗学研究会」への誹謗中傷に対する反撃・糾弾は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
さらに正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」の公式サイト「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」から、カルト宗教対策、カルト宗教取締特別立法、カルト宗教拡散防止条約制定の活動部分を独立させたものが「国際カルト宗教対策委員会(Icat-Cult)」

□正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」(アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ)
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2012年09月

比叡山延暦寺(7)~サイトを主宰していると言った途端に態度が急変した延暦寺国宝殿の係員

■比叡山延暦寺7(国宝殿)

 

比叡山延暦寺・東塔の境内の中に「比叡山国宝殿」という建物がある。

比叡山延暦寺では、伝教大師最澄の直筆の書物をはじめ、仏像、仏画、書跡、美術工芸品等々、数多くの国宝やら重要文化財やらを所有しているとのことだが、そのうちの63点の国宝、重要文化財、寺宝等数百点の中から選んで展示している所ということである。

まあ、私からすると、比叡山延暦寺の中にある博物館みたいなところかな、という印象。

450円の拝観料を支払って中に入ると、それこそ仏像やら、仏画やら、さまざまな書跡やら、さらには比叡山延暦寺の年表やらまでが所狭しと展示されていた。この年表は、なかなか詳しく書かれていて、私も興味深かったので、早速、手帳にメモをとっていた。

そうすると、国宝殿の入り口にいた係の中年女性が、かなり怪訝な表情を浮かべながら、私のそばへつかつかと歩み寄ってきて

「こんなに近くでメモをとってもらっては困ります」と苦言。

「メモをとるな」とは言わなかったが、あたかもメモは困るとの態度に見えた。

 

私だって、ただ比叡山延暦寺まで来たのではない。寺跡調査・取材のために来ているので、「メモをとるな」と言われて、そのまんま変えるわけにはいかない。

ああそうですか。ならば質問させていただきましょう、と思い、入り口の係の女性に、延暦寺のことについて、いろいろと質問をした。

するとその女性は、わからないと言いだし、「私は専門家ではありませんので」と言い訳しながら、受付の奥にいた延暦寺の僧侶に聞きに行った。

そうすると今度は、奥から黒い僧衣を着た若い僧侶が出てきて

「そういうことは、○○に行って聞けばいいでしょう」

と、この返事。

また、質問者をただの「たらい回し」にしようという、不誠実な返事。こういう返事は、あっちこっちの閉鎖的寺院で、いやというほど聞かされてきた私。

今度の国宝殿にいた僧侶の返事にちょっとカチンときた私は、

「そういう言い方はないだろう。せっかく質問しているのに、比叡山の中をたらい回しにするつもりですか」

と、僧侶と係の女性に抗議をした。

そうすると、この係の中年女性は

「おたく様は、どういうお方でしょうか」と私に逆質問。

私は「実はサイトを主宰している者なのですが…」と、こう言ったとたん、係の女性の態度がガラリと急変。うってかわって急に愛想がよくなり

「あーそうですかあ。サイトを運営していらっしゃる方は、いろいろとお詳しいですからねー」

などと、急に私をヨイショしはじめたのである。

比叡山国宝殿2


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比叡山延暦寺(6)~伝教大師・最澄が生涯をかけた宿願・天皇勅許による戒壇院

■比叡山延暦寺6(戒壇院)

 

比叡山延暦寺に行ったからには、弘仁13(822) 、伝教大師最澄の死後7日目にしてようやく許可された大乗戒壇を一目見ておく必要があった。

延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者・伝教大師・最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教・南都六宗から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようにしようということである。

当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかった。

最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。その伝教大師・最澄の宿願であった大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく朝廷から許可されたものであった。

この戒壇院は、延宝6年(1678年)の再建の建物というえことだが、それ以上の詳しいことはわからない。というか、この戒壇院は、伝教大師・最澄が生涯をかけた宿願である建物なのに、どういうわけか、比叡山延暦寺・比叡山振興会議が発行している公式パンフレット「比叡山」には、一言も紹介されていないのである。戒壇院は、観光資源としての価値がないと目されているのか。

 

そういうこともあってか、私は、最初に比叡山延暦寺に行ったときは、てっきり戒壇院=根本中堂と勘違いしていたくらいだった。その後、ある人と話した折に、比叡山延暦寺の根本中堂と戒壇院は別個の建物であることがわかり、二度目、三度目にここを訪れたときは、両者を混同しなくなったという次第。

それともう一つ、この戒壇院は、伝教大師・最澄が生涯をかけた宿願である建物というわりには、そんなに大きな建物ではない。むしろ根本中堂のほうが二倍、三倍以上、大きな建物である。

しかも表の扉は固く閉められていて、中の様子を伺い知ることはできない。なんとも閉鎖的な建物で、こういうのは、あまりいい印象を人に与えないでしょうね。

見ていると、日蓮正宗や創価学会のような閉鎖的でダーティなイメージがかぶって見えてしまう。

まあ、もっとも比叡山延暦寺は、室町・戦国時代に、何度も焼き討ちにあっているから、再建されたときに規模が小さくなってしまったのかもしれないが、私としては、見た感じ、期待とは裏腹に、いささか拍子抜けした印象を持ちました。

延暦寺3戒壇3
 

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比叡山延暦寺(5)~比叡山延暦寺・大講堂に団体参拝して法要を営んでいた日蓮宗信者

■比叡山延暦寺5(大講堂)

 

比叡山延暦寺の見所は、根本中堂の他にもいろいろあるが、そのうちのひとつが大講堂である。

大講堂という所は、僧侶が法華経の講義を聞いたり、お互いに問答して、勉強する学問修行の場という意味らしい。

延暦寺の大講堂は、根本中堂のほぼ隣に位置している。今の延暦寺・大講堂は、寛永11年(1634年)の建築の建物で、もとは東麓・坂本の東照宮の讃仏堂であったものを1964年に「大講堂」として移築したものである。なぜこんなことをしたのかというと、重要文化財だった旧大講堂は1956(昭和31)年に火災で焼失しているからである。

ちょうどこのころ、日蓮正宗大石寺では、創価学会二代会長・戸田城聖の寄進で「大講堂」が建設中であった。日蓮正宗や創価学会では比叡山延暦寺大講堂炎上焼失のニュースを聞いて

「これは迹門の大講堂(延暦寺)が滅びて、本門の大講堂(大石寺)が勃興する奇瑞だ」

などと言って、躍り上がって大喜びしていたというから、全くあきれてしまう。

いくら他山・他宗のこととはいえ、寺院・伽藍の火災を大喜びするなどという非常識な振る舞いがどこにあろうか。

 

比叡山延暦寺・大講堂の本尊は大日如来ということだが、私にはよくわからなかった。というか、「天台宗なのに、なんで本尊が大日如来?」というきわめて初歩的な疑問が沸いてしまう。

しかも根本中堂の本尊が薬師如来で、なんで大講堂が大日如来?という疑問も沸いてくる。

まあ、私としては、天台宗の教義にまで、さほど深い関心がないので、それ以上、深追いはしなかったのだが、私には、別のことで目を引いたことがあった。

 

本尊の両脇には向かって左から日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍の像が安置されていて、これらの僧はいずれも若い頃延暦寺で修行した高僧。これらの像は関係各宗派から寄進されたものであるという。堂内を見渡してみると、木像とは別に、これらの高僧たちの大きな肖像画も掲示されていた。

私がさらに興味を引いたのは、大講堂の本尊に向かって右側で、僧侶の唱導により大勢の信者による読経・法要が始まったこと。

「何の法要なんだろうか」と興味津々にその様子を見ていたが、見ていて、どうも天台宗の信者には見えなかった。そうこうしているうちに、この法要で信者たちが何と「南無妙法蓮華経」を唱えだしたのである。「あれれれれ、日蓮宗?」という感じ。

どうやら、日蓮宗のどこかの寺の信者が、住職の引率で比叡山延暦寺に団体参拝し、大講堂の日蓮の木像の前で法要を営んでいたということのよう。

延暦寺6大講堂2
 

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比叡山延暦寺(4)~織田信長の焼き討ちで消え立石寺中堂から分灯された不滅の法灯

■比叡山延暦寺4(不滅の法灯)

 

比叡山延暦寺・根本中堂で、観光客にいろいろと説明していた尼僧が

「足利義教・織田信長の焼き討ちでも『不滅の法灯』は消えなかった」

と言っていた内容は、明らかにおかしい。足利義教・織田信長の焼き討ちで、少なくとも比叡山延暦寺の根本中堂は全焼しているのに、「不滅の法灯」が消えなかったわけがないではないか。

あまりにも疑問に思ったので、私も帰宅してたから、少々調べてみた。

するとインターネット・フリー百科事典・wikipediaの「延暦寺」の項目には、次のように書いてある。

「本尊厨子前の釣灯篭に灯るのが、最澄の時代から続く「不滅の法灯」である。この法灯は信長の焼き討ちで一時途絶えたが、山形県の立石寺に分灯されていたものを移して現在に伝わっている」

根本中堂2

 

どこからどう調べたのか、わからないが、今の比叡山延暦寺・根本中堂の「不滅の法灯」は、山形県の立石寺に分灯されていたものを移して、今に伝わっていると書いてある。

やはり、織田信長の焼き討ちで「不滅の法灯」は途絶えたことを認めている。私は、山形県の立石寺にも「旅紀行」で訪れたことがあったが、この根本中堂の「不滅の法灯」が分灯されていたとは、全く知らなかった。

そこでインターネット・フリー百科事典・wikipediaの「立石寺」の項目には、次のように書いてある。

「大永元年(1521年)、寺は天童頼長の兵火を受けて一山焼失した。天童頼長は斯波兼頼の孫の斯波(天童)頼直を祖とする天童家の末裔である。永正17年(1520年)、頼長は山形盆地に進出した伊達稙宗と戦うが、この際立石寺が伊達側に加勢したために、頼長の怒りを買い、翌年焼き討ちを受けたものである。なお、現存する立石寺中堂は後世の改造が多いものの室町時代中期の建物とされている。焼き討ちの際に、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消滅し、再度、分燈することとなるが、1571年の比叡山焼き討ち後の再建時には、立石寺側から逆に分燈されることとなった。」

 

つまり立石寺も何度も焼き討ちの被害に遭っており、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消滅して、再度、分燈されたのだが、織田信長の比叡山延暦寺焼き討ちのさいには、逆に立石寺の法灯が延暦寺に分灯されたとしている。

やはり、織田信長の比叡山延暦寺焼き討ちで、「不滅の法灯」は消えてしまったが、その後、立石寺の分灯が「分灯」されたわけですね。

それならそれで、そういうふうに尼僧も説明すればいいのに、なぜ虚勢を張って「比叡山延暦寺焼き討ちでも「不滅の法灯」は消えなかった」などとウソを言うのだろうか。

こういうところは、比叡山延暦寺に限らず、日本仏教界の悪しき体質なのかもしれない。

比叡山延暦寺(3)~比叡山延暦寺の秘仏・根本中堂の伝教大師最澄自作の薬師如来像

■比叡山延暦寺3(根本中堂)

 

根本中堂というのは、天台宗総本山・比叡山延暦寺の総本堂であり、東塔にある。延暦寺の根本中堂(国宝)は、伝教大師最澄が建立した一乗止観院の後身になる。東塔の中心となる根本中堂は、延暦7年(788)に伝教大師最澄がこの地に草庵を結んだ場所とされる。

とは言っても、私なんかは、はじめて比叡山延暦寺を訪ね歩くまで、延暦寺の本堂とは戒壇のことだと勘違いしていたくらいで、延暦寺に行って、はじめて比叡山延暦寺の総本堂=根本中堂だと知ったくらいでした。

比叡山坂本からケーブルカーで比叡山に登っていくと、東塔に到着するので、ケーブルカーの駅から根本中堂までは、そんなに離れてはいない。

根本中堂の入り口からは回廊を歩いていき、伝教大師最澄自作の薬師如来が祀られている根本中堂に入っていく。回廊には、延暦寺のあちらこちらの伽藍、修行僧の様子などを写した写真が展示されている。

ここにはけっこう観光客が来ていて、根本中堂の中は、信者と言うより、観光客であふれかえっているという感じ。私を含めた観光客に対して、延暦寺の尼僧がいろいろ細かく説明してくれる。

根本中堂中央の厨子には最澄自作の伝承がある薬師如来立像が祀られているが、しかしこの本尊は秘仏になっていて、普段は公開されておらず、参拝客が根本中堂で目にする薬師如来像は、仏師が彫刻した「前立」本尊ということである

秘仏になっている最澄自作の薬師如来立像は、延暦寺開創1,200年記念の1988年、その後、2000年、2006年に開扉されたことがあるというなぜこのときに開扉されたかというと、天皇陛下が比叡山延暦寺に御親拝になられたので、秘仏の薬師如来像を開扉したのだという。

つまり天皇陛下の御親拝といった特別なことでもない限り、秘仏の開扉はなされないのだという。

せっかくなので、私も尼僧にいろいろと質問をした。

秘仏になっている最澄自作の薬師如来立像と、参拝者が目にすることができる仏師彫刻の「前立」本尊である薬師如来立像は、全く同じ造りになっているのかどうか、ということだが、尼僧の話によると、これが「全く同じではない」という。

これはどういうことかというと、仏師というのは、いわば「彫刻のプロ」なので、いろいろ細かいところまで、微に細に彫り込んであるが、伝教大師最澄という人は、彫刻のプロではないので、最澄自作の薬師如来立像は、きわめてオーソドックスな造りになっているという。

なるほど。しかし、はるばる比叡山延暦寺の根本中堂まで行って、秘仏・最澄自作の薬師如来立像にお目にかかることができないというのは、まことに残念という意外にない。

根本中堂2
 

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