一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

2012年10月

■鎌倉建長寺4(けんちん汁)

 

建長寺方丈をぐるりと一周して、見学してみると、公開されているのは本尊が祀られている広間と日本庭園のみ。何も貫首の住居が公開されているわけではない。

方丈と廊下でつながっている宗務本院は一般の立ち入り禁止になっているので、貫首の住居はそちらにあるのかもしれません。

建長寺の境内もなかなか広いのだが、同じく鎌倉にある臨済宗大本山・円覚寺と比べると、円覚寺の境内のほうが広いように思う。建長寺にはかつて1000人の修行僧が居て修行していたというが、1000人の修行僧が修行するには、いささか狭いような気がする。

ただし建長寺の境内は、完璧すぎるほどの人工的な景観美に彩られている、仏殿、法堂、方丈があるところから、奥の山手側のほうに広がっている。半僧坊、塔中は、仏殿、法堂、方丈があるところから、裏の山手、外側に広がっていて、昔はこのあたりも塔中、僧坊が建ち並んでいたのかな、と思う。

半僧坊道の脇には、今でも塔中支院がいくつかある。仏殿、法堂、方丈があるところは実に整備が行き届いているが、河村瑞賢墓入り口の看板が建っているあたりから、なんとなく荒れ果てた感じになります。このあたりは、建長寺の境内なのか、そうでないのか、よくわからない所。このあたりは、ほとんど整備されていない。

 

建長寺は正応6年(1293年)412日の鎌倉大地震により建造物の大半が倒壊炎上。

元から来日した一山一寧を第十世に任じて再建にあたらせる。

続いて正和4年(1315年)、応永23年(1416年)をはじめとするたびたびの火災で創建当初の建物を失った。

鎌倉時代末期には修復費用獲得のため、幕府公認で元へ貿易船(寺社造営料唐船)が派遣され、「建長寺船」と呼ばれた。

江戸時代には徳川将軍家の援助で主要な建物が新築または他所から移築された。

1923年の関東大震災でも建長寺は大きな被害を受けている。よって建長寺創建当初の堂宇・伽藍は失われてしまっている。

1886年、建長寺が修行僧学校・宗学林を設立。これが現在の鎌倉学園中学校・高等学校の前身。現在も建長寺は同校経営には関与しているが、宗教教育は行っておらず、男子中高一貫教育を行う進学校として運営されている。同校の出身者にサザンオールスターズの桑田佳祐がいる。

建長寺33山門
 

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■鎌倉建長寺3(人工的な景観美)

 

建長寺は鎌倉市内でもかなり山手にあり、交通の便はいいほうではない。建長寺へ行くと、今も大寺院としての広大な境内と大伽藍を持っているのがわかる。

建長寺総門前にある立て札には、次のようなことが書いてある。

「建長寺は今から七百五十年前、鎌倉時代、建長五年(1253)、禅によって国の興隆をはかるため、執権北条時頼公の発願により、中国の禅僧・大覚禅師(蘭渓道隆)を開山として創建された、日本で最初の純禅の大道場です。

建築は、総門・三門・仏殿・法堂・方丈が一直線に連なる中国の禅宗様式にもとづいています。

今の総門は、江戸時代、天明三年(1783)に京都・般舟三昧院で建立されたものを昭和十五年に移築しました。額「巨福山」(大きな福をもたらす寺)は、中国僧、一山一寧(一山国師)禅師(建長寺第十世)の筆です」

建長寺35総門

 

建長寺も、広い境内の中は総門・三門・仏殿・法堂・方丈・宗務院が一直線上に建てられている。これは臨済宗大寺院に共通した伽藍の建て方である。鎌倉・円覚寺もこういう建て方になっているし、京都の臨済宗大寺院にも共通している。

さて禅宗の寺院の場合、一般的に仏殿が、他宗寺院の本堂に該当する堂宇だとされています。

そこで、仏殿に行ってみると、こんな文が書かれた立て札が建てられていました。

「仏殿(重要文化財)

建長寺の本尊・地蔵菩薩を安置。北条時頼公と開山大覚禅師(蘭渓道隆)の衆生済度の願いが込められています。毎月一日・十五日の祝聖、二十三・二十四日の開山例月忌、釈迦三仏忌、開山忌などの法要がここで行われます。

現在の建物は、創建当初より四代目のものといい、東京・芝・増上寺にあった徳川二代将軍秀忠公夫人(お江の方、家光の母)の霊屋を建長寺が譲り受けました。仏殿前の庭園の柏槇は開山禅師のお手植え、古木は樹齢七百五十年です」

建長寺25仏殿

 

寺院の中心本尊が仏殿に祀られている、ということであるので、仏殿が本堂に該当する、という解釈は妥当だと思われます。

 

建長寺の境内はなかなか広いのですが、この広大な境内が、隅々に至るまで完璧に整備されている。まさにチリ一つ落ちておらず、雑草一本も生えていない、という感じ。

石畳、石段、参道、休息所、植えられている木々、庭園等々、どれをとっても、人工的な美観はお見事と感嘆してしまいます。境内の木々も、まことに綺麗に手入れが行き届いているのがわかる。

こういうと「そういうのは建長寺だけではない」と言われるかも知れない。

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■鎌倉建長寺2(鎌倉五山・実質的な国教)

 

□中世の全盛時代には1000人以上もの修行僧がいた?建長寺

 

建長寺の境内は広く、立派な伽藍・堂宇が、建ち並んでいる。

この建長寺の最盛期には、七堂伽藍を整え、1000人以上もの修行僧がいたという。ひとつの寺院に修行僧が1000人いたというのは、これは大変な事である。

第一、いくら大きな寺院とはいえ、ひとつの寺院の中に1000人の僧侶が寝泊まりするだけでも大変な事である。さらに寝泊まりするだけではなく、食事をしなくてはならない。禅宗の場合、僧侶が自分で精進料理をつくるらしいのだが、それにしたところで1000人分の食材を用意するだけでも大変なことである。

禅宗の精進料理というのは、肉や魚は一切使わずに、野菜や豆腐などすべて植物性の材料でつくるという、禅宗独特のものになっている。というか、こういった精進料理を自分で造るということも、僧侶の修行のひとつになっているのだという。

鎌倉市内には、禅宗の精進料理を扱っている料理店がいくつもあるが、精進料理というと、ごま豆腐、野菜の煮物、湯葉、けんちん汁といったものが多い。

ちなみに、このけんちん汁というのは、その昔、野菜を調理する際に出る、残り屑やむいた皮などを、建長寺の修行僧が、それらと、崩した豆腐を使って作った、建長寺汁がなまって、けんちん汁になったのだという。

それから1000人の修行僧がいたとすると、それらの僧侶が座禅を組む堂宇というのは、そうとう大きな堂宇だったと思われる。

こういうふうに考えると、中世の時代の、建長寺の全盛時代における隆盛というのは、すさまじかったのだろうな、ということが思い浮かばれます。

 

ところでこの建長寺は、鎌倉五山の一位にある寺院なのだが、鎌倉五山・京都五山の「五山」とは、いわば政府がその寺の住職を任命する禅宗の寺院ということであり、これは「官寺」の新しい形ともいえるものだった。実質的な国教と言っても過言ではあるまい。

ただし、この場合、政府というのは、天皇・朝廷ということではなく、幕府である。

この幕府の「五山」の制度は、室町時代に京都五山、鎌倉五山で確定するのだが、禅宗とは言ってもすべてこれは栄西を宗祖とする臨済宗の寺院であって、道元の曹洞宗の寺はひとつもない。

この建長寺も、臨済宗建長寺派の大本山である。

栄西という人は、政治的な能力をもった人だったようで、比叡山延暦寺や奈良の南都六宗が、朝廷の権威に依存していることから、栄西の臨済宗は、新興の鎌倉幕府に近づき、その「国教」になることをめざした。というか、信教の自由がなかったこの当時は、国家公認の宗教にならなければ、寺院・宗派の存続・維持が実質的に不可能だったのである。

建長寺31山門
 

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■鎌倉建長寺1(日蓮と蘭渓道隆)

 

建長寺(けんちょうじ)とは、神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山。正式名称を巨福山(こふくさん)建長興国禅寺(けんちょうこうこくぜんじ)という。

鎌倉時代の建長5年(1253年)の創建で、本尊は地蔵菩薩、開基(創立者)は鎌倉幕府第5代執権北条時頼、開山(初代住職)は南宋の禅僧蘭渓道隆。鎌倉五山の第一位に列せられている。

鎌倉五山(かまくらござん)とは、中国宋(そう)の官寺制に倣って定められた制度で、禅宗の寺格。京都五山に対し、鎌倉にある五つの大禅刹(ぜんさつ)をいう。

鎌倉時代末期頃より幕府が制定した京都と鎌倉の寺院で構成される五山制度が変化して、室町時代に京都の南禅寺を別格上位とする京都五山と鎌倉五山の寺格が固定された。

鎌倉五山の位は、(1)建長寺、(2)円覚寺 (3)寿福寺 (4)浄智寺 (5浄妙寺である。

官寺(かんじ)とは、 律令(りつりょう)制下で、堂塔の造営や修理、僧尼の費用が国家から給付され、国家の監督を受ける寺。個人的に建てられた私寺に対する言葉。

基本的な性格としては、天皇の発願で建てられ、皇室や国家の安泰鎮護の祈願が重んぜられた。古くはほとんどの寺院が官寺であった。国分寺、国分尼寺、勅願寺が官寺である。

中世以後は、幕府がとくに保護帰依(きえ)した禅宗寺院、臨済宗の京都・鎌倉五山、曹洞宗の永平寺・総持寺をさすようになった。これらの寺院は、天皇の勅宣により住持が定められ、「出世道場」ともよばれた。

ところでこの建長寺の開祖・蘭渓道隆に対して、1268(文永5)1011日、日蓮が書状を認めて送っている。いわゆる「十一通御書」のひとつである「建長寺道隆への御状」がそれである。

この中で、日蓮は蘭渓道隆に対して、痛烈に批判を浴びせている。

「念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説と云々」

日蓮得意の「四箇の格言」でジョブを浴びせたあと、蘭渓道隆本人を含めた極楽寺良寛、寿福寺、多宝寺、浄光明寺、長楽寺、大仏殿等の長老たちを「我慢心充満、未得謂為得」の増上慢の大悪人なり」と、痛烈な言葉で、斬って捨てている。

この書状を読んだ蘭渓道隆は、おそらく憤激した事と思われる。

蘭渓道隆は南宋から渡来した禅僧で、13歳で出家し、無準師範、北礀居簡に学んだ後、松源崇岳の法嗣である無明慧性の法を嗣ぐ。1246(寛元4)33歳で、入宋した泉涌寺僧、月翁智鏡との縁により、弟子とともに来日している。

まあ、僧侶の格から言うと、蘭渓道隆と日蓮とでは、それこそ親子、主君と家臣以上の開きがあったのではないか。その日蓮から、ここまで罵られては、蘭渓道隆のプライドが許さなかった事だろう。「何を小癪(こしゃく)な」という感じだったのではないだろうか。

建長寺33山門

 

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■鎌倉極楽寺2(現在の極楽寺)

 

極楽寺の実質的な開祖である忍性が極楽寺に入寺したのは文永4年(1267年)のこととされている(『忍性菩薩行状略頌』)。極楽寺の古絵図を見ると、往時の境内には施薬院、療病院、薬湯寮などの施設があり、医療・福祉施設としての役割も果たしていたことがわかる。

『吾妻鏡』によると、北条重時3回忌法要は、弘長3年(1263年)にこの極楽寺において西山浄土宗の僧侶・宗観房を導師として行われている。このことから、弘長3年の時点では極楽寺は浄土教系の寺院であり、忍性の入寺(文永4年・1267年)によって真言律宗に改宗したとする説がある。しかしながら、寺に伝わる仏具(五鈷鈴)に建長7年(1255年)の年記とともに「極楽律寺」の文字が見えることから、忍性の入寺以前に真言律宗寺院化していたと見る意見もある。

極楽寺は忍性の入寺から10年も経たない建治元年(1275年)に焼失するが、忍性自身によって再建された。最盛期の極楽寺には七堂伽藍に49箇院の子院が立ち並んでいたという。  

忍性の入寺から中世の頃にかけて、まさに極楽寺が最盛期にあったようである。

しかし現在の極楽寺に、最盛期当時の面影を見ることはできない。はたして最盛期には、七堂伽藍に49箇院の子院が立ち並んでいた大寺院だったのだろうか、と思ってしまうほど、今はこじんまりした寺院に見える。

 

資料を調べると、本堂裏(西)には鎌倉市立稲村ヶ崎小学校があるが、ここの校地が往時の極楽寺の中心伽藍のあった場所であるとされている。

小学校の西側のグラウンドのさらに西には極楽寺の奥の院(墓地)があり、忍性塔と呼ばれる大型の五輪塔をはじめ、多くの石塔が立つ。

江戸期に作成された『極楽寺絵図』によれば最盛期には現在の極楽寺から小学校の建つ谷一帯が極楽寺の境内であった。

そして現在江ノ電が走っている極楽寺川沿いの谷にはハンセン病患者など病者・貧者救済の施設があったと思われる。

極楽寺2
 

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■鎌倉極楽寺1(忍性の社会的評価)

 

極楽寺(ごくらくじ)とは、神奈川県鎌倉市極楽寺にある真言律宗の寺院で、正式名称は霊鷲山(りょうじゅさん)極楽寺という。開基(創立者)は北条重時で、開山は忍性(にんしょう)である。

中世には七堂伽藍をはじめ、子院49箇の塔中坊を有する大寺院であったが、度重なる火災や戦乱で伽藍の大半が焼失。現在は、山門や本堂などが、山影にひっそりと建っているのみである。

ここへ来てみると、「あの極楽寺って、こんなに小さい寺院なの」という感じで、ちょっとビックリしてしまうくらいである。

極楽寺の実質的な開祖である忍性が当寺に入寺したのは文永4年(1267年)のこととされている(『忍性菩薩行状略頌』)。

忍性(にんしょう・12171303)とは、鎌倉時代の律宗(真言律宗)の僧で、号は良観という。日蓮が、遺文の中で「極楽寺良観」と呼んでいる人である。

忍性(極楽寺良観)という人は、日蓮宗や日蓮正宗では、日蓮の遺文でポロクソに書かれているからか、大変イメージの悪い人なのであるが、忍性(極楽寺良観)は叡尊に惹かれて再度叡尊の下で授戒して弟子となり、1240年に常施院を設け、ハンセン氏病患者らの救済などの慈善活動、悲田院を改修して非人救済を行うなどの社会事業を行い、この間に律宗布教にも努めた。

悲田院(ひでんいん)は、仏教の慈悲の思想に基づき、貧しい人や孤児を救うために作られた施設のことで、鎌倉時代には忍性(極楽寺良観)が各地に開設した。それ以降、中世は非人の拠点の一つとなったといわれている。

忍性(極楽寺良観)の師の叡尊は民衆への布教を唱えながら、自分には不得手であることを自覚して当時の仏教において一番救われない存在と考えられていた非人救済に専念し、その役割を忍性(極楽寺良観)に託した。忍性(極楽寺良観)は非人救済のみでは、それが却って差別を助長しかねないと考えて非人を含めた全ての階層への救済に尽力した。

日蓮は、遺文の中で、忍性(極楽寺良観)のことを、

「三学に似たる矯賊の聖人なり」「僣聖増上慢にして今生は国賊、来世は那落に堕在せんこと必定せり」(「極楽寺良観への御状」・平成新編御書全集p376)

などと、口を極めてボロクソに非難しているが、他方では、このように、忍性(極楽寺良観)は、中世の時代では、全くといっていいほど見られなかった、社会事業、慈善事業に力を入れており、社会的な評価は、とても高い人なのである。

忍性1


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■園城寺(三井寺)4(閼伽井屋)

 

園城寺(三井寺)の起源についての通説は、概ね次の通りである。

大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。弘文天皇陵はこの園城寺にほど近い所にある。

大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。

「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。

「御井」(みい)の寺の由来になった井戸が「閼伽井屋」(あかいや)とよばれる井戸で、現在、国の重要文化財に指定されている。後に智証大師が園城寺の厳儀・三部灌頂の法水に用いたという。

これは、金堂の西に接して建つ小堂で、慶長5年(1600年)、金堂と同じく北政所によって建立された。堂内には三井寺の名の起こりとなった霊泉が湧出している。

もちろんこの霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたということからして、小堂そのものは北政所によって建立されたものだが、霊泉は天智・天武・持統天皇の御代からあったと考えられる。

閼伽井屋1

 

この園城寺・閼伽井屋以外で、「閼伽」の文字が使われている所は

□閼伽井嶽薬師

福島県いわき市平赤井にある水晶山玉蔵院常福寺(真言宗智山派)。「大師堂・弘法水」という堂宇は、弘法大師を祀り、堂は一大老楓の巨木を擁し放生池にい臨み、その下厳石の凹所より清泉を湧出している。昔弘法大師独鈷を以て岩石を穿ち湧出せしめた霊泉、如何なる大旱にも涸るることなく、毎晨朝本尊薬師如来に供する閼伽水となしているという。

□閼伽井坊塔婆

山口県下松市の八幡宮日本十六塔のひとつで、高さ13m、柿葺屋根の閼伽井坊塔婆(多宝塔)がある。、閼伽井坊は、花岡八幡宮の社坊九か寺の一つで現在は真言宗御室派の寺院。「閼伽」は仏に供える清浄な水をいい、閼伽井とはこれを汲む井戸のことをさす「閼伽」だが、実際に井戸があるのかどうかは定かではない。

□東大寺二月堂 閼伽井屋

鎌倉時代に建立された切妻造の建物で、国の重要文化財に指定されています。霊水の湧く「若狭井」の覆屋である。

□光明寺・閼伽井の水

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■園城寺(三井寺)3(園城寺金堂)

 

天台寺門宗総本山・園城寺は、まがりなりにも天台宗総本山・比叡山延暦寺に対抗して戦争を繰り広げたくらいの寺院だから、さぞや広々とした境内なのかと思っていたら、広いことは広いが、比叡山延暦寺ほどではないという感じ。

しかし江戸時代以前の園城寺の歴史とは、まさに戦乱の歴史とも言うべきもの。

比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し、この園城寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山延暦寺の宗徒による園城寺の焼き討ちは永保元年(1081年)をはじめ、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。

その後、源頼朝、北条政子、鎌倉幕府、室町幕府の庇護を受けたものの、文禄4年(1595年)、園城寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、欠所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられている。

園城寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。これにより園城寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。

当時の園城寺金堂は比叡山延暦寺に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。

慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって園城寺の再興を許可している。秀吉の再興許可を受け、当時の園城寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められ、現在の園城寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものであると言われている。

しかし、これだけ戦乱だの廃寺だのという歴史を繰り返してきたにもかかわらず、園城寺は、仏像、仏画、文書など多くの文化財を伝えている。これが実に、私には不思議に見える。

明治の大火一回で、寺宝の大半を焼失してしまった身延山久遠寺とはえらい違いである。

 

特に金堂本尊の弥勒菩薩像(弥勒如来とも)は、天智天皇の念持仏と伝え、唐からの請来像ともいうが、公開されたことがなく、写真も存在しないため、いかなる像であるかは全くの不明。

金堂は、豊臣秀吉によって強制的に比叡山延暦寺に移築されているのに、なぜ絶対秘仏の弥勒如来像が今日に伝わっているのだろうか、と思う。

この金堂本尊は、園城寺の絶対秘仏として有名だが、他にも

■園城寺 観音堂本尊 如意輪観音坐像(重文)     33年に1度の開扉

■園城寺 智証大師(円珍)坐像(国宝)  「中尊大師」、「御骨大師」の2体あり。中尊大師は1029日の祥忌法要で開扉されるが、御骨大師は開扉なし。特別展などで数回公開されたことがある。

■園城寺 新羅明神坐像(国宝)  特別展などで数回公開されたことがある。

■園城寺 不動明王像(黄不動、絵画、国宝)  厳重な秘仏として知られ、寺では書籍等への写真掲載を厳しく制限している。特別展などで数回公開されたことがある。

園城寺3


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■園城寺(三井寺)2(園城寺長吏)

 

天台寺門宗の総本山・園城寺(三井寺・みいでら)の旅紀行を書いている最中、新しい天台寺門宗管長が決まったというニュースが飛び込んできた。

2010926日付け「読売新聞」によると、総本山園城寺は、天台寺門宗第9代管長に、福家英明(ふけ・えいめい)・園城寺長吏(85)を選んだと発表したとある。

「長吏」(ちょうり)というのは、総本山の長ということで、日蓮正宗総本山大石寺、日蓮宗総本山身延山久遠寺、浄土真宗大谷派総本山・東本願寺などの「法主」、天台宗総本山比叡山延暦寺の「座主」に相当する職である。

つまり、大石寺、久遠寺、本願寺で「法主」と呼んでいる職のことを、園城寺では「長吏」と呼んでいるということ。園城寺では、実質的な開祖・円珍を初代長吏とし、現在は164世長吏・福家英明氏ということである。

 

ところでこの「長吏」という言葉には、ちょっとした意味が込められている。

辞書によれば、もともと「長吏」とは、中国、漢の官制で、600石以上の俸禄の者。地方では200石から400石くらいの役人をさす言葉だったが、これが転じて、日本では、寺の長として、寺務を統轄した役僧を指す言葉になった。特に、勧修寺長吏・園城寺長吏・延暦寺楞厳(りょうごん)院長吏などが有名。他の寺でいう座主(ざす)・検校(けんぎょう)・別当などにあたる言葉として用いられたが、しかし、園城寺・勧修寺では、長吏は別当より上位に置かれていた。

園城寺4

 

つまりこの意味の中には、当然のことながら「園城寺長吏は比叡山延暦寺・天台座主よりも上」という意味がある。「オレのほうが上だぞ」というのは、現代の日蓮正宗法主と創価学会・池田大作の戦争とよく似ている。宗創戦争そっくりの「オレのほうが上だぞ」戦争が、まさにかつては、比叡山延暦寺と園城寺の間で繰り広げられていた。

しかもこれが日蓮の遺文・報恩抄に書いてあるから、何とも皮肉な話である。

「智証の門家園城寺と慈覚の門家叡山と、修羅と悪竜と合戦ひまなし。園城寺をやき叡山をやく。智証大師の本尊慈氏菩薩もやけぬ。慈覚大師の本尊、大講堂もやけぬ。現身に無間地獄を感ぜり。但中堂計りのこれり」(御書全集p10171018)

 

それにしても、もし仮に日蓮が、現代の宗創戦争を見聞したとしたら、かつて自分が報恩抄に書いた延暦寺vs園城寺の戦争そっくりの戦争が、自分の門下で行われていることに、たいそう驚くことだろう。日蓮滅後700年以上経ってから、まさか日蓮を宗祖と仰いでいる宗派で、日蓮が報恩抄に執筆した戦争と、そっくりの抗争が繰り広げられるとは、まさか日蓮も予想していなかったにちがいない。

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■園城寺(三井寺)1(宗教戦争)

 

比叡山延暦寺を下りた私は京阪電車に乗って三井寺駅で下車。天台寺門宗総本山・園城寺に向かった。寺跡調査・取材をいろいろ行う上で、延暦寺に行ったなら、絶対に園城寺に行かなくては、と考えていたポイントである。

日本天台宗の総本山・比叡山延暦寺と並ぶくらいの天台宗のもうひとつの双璧・総本山が園城寺で、長等山園城寺(ながらざん おんじょうじ)。別名を三井寺という。これは「みついじ」ではなく、「みいでら」と読む。

面白いことに、この園城寺のある所も、比叡山延暦寺と同じ滋賀県大津市になる。正式名で言うと、この園城寺は、天台寺門宗の総本山ということになる。

天台寺門宗(てんだいじもんしゅう)とは妙法蓮華経を根本経典とする天台宗のもうひとつの一派で、高祖は中国南北朝時代から隋の時代の天台大師智顗(538年~597年)、宗祖は日本平安時代の第5代天台座主の智証大師円珍(814年~891年)(弘法大師空海の姪の子)。

総本山は園城寺(おんじょうじ)で、天台宗寺門派(じもんは)とも呼ばれる。

伝教大師最澄(767年~822年)が日本へ伝え、最澄が開祖になった日本天台宗の教えは、第3代天台座主円仁と第5代天台座主円珍の2人の巨人の登場により、日本天台宗本山の比叡山延暦寺で2つに分かれてしまう。

比叡山延暦寺は円仁派が占め、円珍派は比叡山を去り園城寺へ入った。これ以来、比叡山延暦寺へ残った円仁派を山門派、園城寺へ入った円珍派を寺門派と呼ぶ。

その後、園城寺の最盛期には、東大寺、興福寺、延暦寺と並ぶ日本の四大箇寺に数えられる寺院として栄えた。

この比叡山延暦寺と園城寺が、古くから抗争以上の戦争を繰り広げてきた。その両者の宗教戦争たるや、1990年代から続く日蓮正宗vs創価学会の「宗創戦争」顔負けの戦争である。

実は、この延暦寺vs園城寺の戦争が、皮肉なことに日蓮の遺文に出てくるのである。それは「報恩抄」と呼ばれている日蓮の遺文で、それには次のように書かれている。

「智証の門家園城寺と慈覚の門家叡山と、修羅と悪竜と合戦ひまなし。園城寺をやき叡山をやく。智証大師の本尊慈氏菩薩もやけぬ。慈覚大師の本尊、大講堂もやけぬ。現身に無間地獄を感ぜり。但中堂計りのこれり」(御書全集10171018)

 

これを読むと、単なる信者の取り合いにとどまらず、寺院焼き討ち等々の物理的な戦争を繰り広げていた。日蓮正宗vs創価学会の「宗創戦争」も、焼き討ちまでは言っていないが、現代の宗教戦争という意味では特筆もの。日蓮の報恩抄の文を読んでいると、これが日蓮正宗vs創価学会の「宗創戦争」とかぶって見えるのは、私だけだろうか。

私が園城寺を訪ねた目的は、日蓮正宗vs創価学会の「宗創戦争」も顔負けの宗教戦争を比叡山延暦寺との間で繰り広げた園城寺を見ると言う意味ではない。

園城寺1
 

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