仏教宗学研究会のブログ

「仏教宗学研究会」とは会の名称。「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

「仏教宗学研究会」とは「アンチ日蓮正宗」管理人が設立した会の名称。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。富士門流執着軍団批判は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄だが、「日蓮正宗系」以外の富士門流寺院の調査・研究は「仏教宗学研究会のブログ」の管轄。
「仏教宗学研究会」への誹謗中傷に対する反撃・糾弾は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
さらに正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」の公式サイト「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」から、カルト宗教対策、カルト宗教取締特別立法、カルト宗教拡散防止条約制定の活動部分を独立させたものが「国際カルト宗教対策委員会(Icat-Cult)」

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2012年12月

宇治平等院(3)~漆・金箔が貼ってあった平等院鳳凰堂・阿弥陀如来像

■宇治平等院3(阿弥陀如来像)

 

□光り輝く浄土の世界の象徴であり権威・権力の象徴でもあった「金」

 

次に私が興味深かったのは、平等院鳳凰堂に祀られている本尊・阿弥陀如来像。

その阿弥陀如来像があまりにも巨大であったことと、もうひとつ。この阿弥陀如来像に金箔が貼られていたこと。鳳凰堂見学を案内してくれた係員の説明によれば、鳳凰堂の阿弥陀如来像は寄木造りで、漆・金箔が貼ってあるとのことでした。

寄せ木造りとはなんぞや、という話になりますが、寄せ木造りと対照的なのが、一木造り。

一木造りとは、一本の木から仏像を彫り出す技法のことで、寄木造りとは、数本の木材を寄せ合わせて仏像を彫る技法のこと。

漆塗り・金箔貼りになっている仏像は、全国各地の大寺院にあることはある。

「金」とは、現世での富や豊かさの象徴であり、仏教の世界においては、古くから至高の存在として、仏の三十二相の「金色相」の如く、光り輝く浄土の世界として表現されてきた歴史がある。そして同時に「金」は権威・権力の象徴でもあった。

日本ではじめて自然金が確認されたのは奈良時代中期のことである。それ以前の弥生・古墳・飛鳥時代の金製品・金メッキ・金箔製品の金は、海外から輸入されたものである。弥生・古墳時代の金の装飾品は、まさに権力者の富の象徴だった。

日本では滋賀県野洲町の甲山古墳(6世紀前半)から日本最古の金糸が発見されている。

奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末~8世紀はじめ)では、天文図の星が金箔で表現されていることが確認されている。仏教伝来後の飛鳥時代になって、仏の三十二相の中の「金色相」の考えに基づき、仏像・仏具で金が使われはじめた。

 

「日本書紀」によれば、仏教は552年に百済国から金銅の仏像や経典が日本に伝わり、飛鳥時代から造仏が盛んになった。当時の仏像・仏具は銅で鋳造され、金メッキが施された。仏像や仏殿での金の使用は、仏の三十二相の「金色相」があり、仏像は金色とされ、西方浄土の世界も金色と記されているため。現在も日本を含め仏像・仏具には金色が尊ばれ、金箔が張られている。

743(天平15)年、聖武天皇は奈良・東大寺の大仏造営を決定し、仏像に金箔を飾ろうとしたところ、749年に陸奥国(宮城県)で「金」が発見され、900両の金が天皇に献上された。

天皇は年号を天平感宝と改め、歌人・大伴家持は

「すめろぎの 御代栄えむと東なる みちのくの山に 黄金花咲く」

と詠んだ。

鳳凰堂8
 

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宇治平等院(2)~僧侶の導師席も信者・参拝客が座るスペースもない平等院鳳凰堂

■宇治平等院2(導師席も信者が座るスペースもない)

 

□奈良・平安時代の寺院には僧侶の導師席も信者・参拝客が座るスペースも必要なかった

 

平等院鳳凰堂の中は、ほとんどが本尊・阿弥陀如来像が祀られているスペースで占められており、僧侶や参拝客が入るスペースがほとんどない。又、阿弥陀堂内には、僧侶が座る導師席など一切設置されていない。

ここで儀式や法要をやるとなったら、阿弥陀堂の中に入れるのは、導師の僧侶だけで、参拝者は全員、外に出て参拝しなくてはならくなると思われる。

そう考えると、何と都合の悪い造りにしたものだと考えがちだが、しかしながら、藤原頼通が創建した当時は、こういう造りのほうが都合が良かった、ということである。

藤原頼通が平等院を創建した時代というのは、平安時代。その時代は、一般庶民に仏教は弘まっておらず、もちろん当時の庶民は仏教信仰とはほとんど無縁に近かった。

奈良・平安時代に仏教を信仰していたのは、僧侶の他には天皇・皇族・公家・貴族といった上流階級のみ。一般庶民が仏教を信仰し始めたのは、「南無阿弥陀仏」、座禅、「南無妙法蓮華経」といった鎌倉仏教が弘まって以降のこと。

しかし、鎌倉時代以降、庶民が仏教信仰をするようになったとは言っても、大伽藍を持つ仏教寺院は一般大衆の信仰に支えられていたわけではなく、天皇・皇族・公家・貴族、将軍、大名、武家といった特定の上流階級によって経済的に支えられていた寺院が多かった。この平等院とて長い間、摂関家・藤原氏丸抱えの寺院だったのであり、藤原氏の供養によってのみ成り立っていた。当然、そのころは一般庶民とは無縁だったということ。

これは平等院のみならず、飛鳥・奈良・平安時代に建てられた大寺院の中を見れば、一目瞭然である。

日本に仏教が伝来した当初の飛鳥・奈良時代の寺院の金堂(仏殿)は、その寺院の中心本尊・根本本尊を祀るための堂宇であったので、金堂(仏殿)の建物の内部は、仏像本尊を安置する壇(須弥壇)がほとんどのスペースを占めている。

これは飛鳥・奈良・平安時代においては、仏教を信仰していたのは、天皇・皇族・貴族・公家ほんの一部の上流階級・支配階級のみであり、この当時の寺院も、ほとんどが天皇・皇族・貴族・公家の財力・経済力で建てられた官寺であり、この時代において、仏教を信仰していたのは、僧侶と皇族・公家・貴族といった上流階級のみであり、まだ仏教は一般庶民まで広く流布していなかった。金堂(仏殿)の建物に、たくさんの人を収容するスペースは不要だったのである。

これは、飛鳥・奈良・平安時代に建てられた東大寺、唐招提寺、興福寺、薬師寺の金堂、法隆寺の金堂、夢殿、平等院鳳凰堂の中は、皆そのようになっている。東大寺の大仏殿(金堂)も、中に祀られている大仏は巨大であるが、大仏殿の前に参詣者が入るスペースはほとんどない。

ただし、東大寺等、創建は飛鳥・奈良時代でも、戦乱等で焼失して再建された寺院も多い。

そういう意味で、飛鳥・奈良・平安時代に建てられた堂宇がそのまま残っている法隆寺や平等院鳳凰堂の存在はまことに貴重である。

 

鳳凰堂6
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宇治平等院(1)~平安時代の創建当初の堂宇が今も残る宇治・平等院鳳凰堂

■宇治平等院1(平安時代の創建当初の堂宇)

 

平等院とは、京都府宇治市にある摂関家・藤原氏ゆかりの寺院で、鳳凰堂が十円硬貨の表の絵柄として、あまりにも有名。私も寺跡調査で、何度か来ています。

平等院は、周書異記の末法初年説である1052(永承7)に、関白・藤原頼通が父親・藤原道長から譲り受けた別荘を寺院に改めて創建したのがはじまり。

平安貴族が夢見た極楽浄土を形にした鳳凰堂は、創建の翌年、1053(天喜元年)、阿弥陀如来像を安置する阿弥陀堂として建立されたもの。

当初、平等院は広大な境内と伽藍を持つ大寺院であったが、たび重なる戦火によって焼失。現在、残っている創建当初の堂宇は鳳凰堂のみ。観音堂は鎌倉時代の堂宇、塔中の浄土院は明応年間(1492 - 1501年)、最勝院は承応3年(1654年)の創建とされている。

平安時代の平等院には、阿弥陀堂の他、金堂、講堂、法華堂、宝蔵等があったとされる。

鳳凰堂は、正式には阿弥陀堂と言うが、なぜ鳳凰堂と言うかというと、まず阿弥陀堂の屋根に鳳凰が乗っていること。

そして建物全体が両翼と尾を伸ばしたような形になっているため、あたかも鳥が羽を広げたようにも見えることから、鳳凰堂と呼ばれるようになった、ということ。

阿弥陀如来像も阿弥陀堂も、堂内の壁画等もすべて、国宝に指定されている。本尊である阿弥陀如来像は、仏師定朝の最高傑作とされる。

 

平等院見学の大きなポイントは、鳳凰堂の見学であることは、言うまでもありません。鳳凰堂の見学に入ったのは、2010年に平等院参拝に行ったときのことです。

鳳凰堂の見学は、事前申し込み制で、501グループによる見学。つまり1回の見学で申し込みが50人を超えた段階で締め切りになり、次の時間の見学に回されてしまう。

鳳凰堂入り口のすぐ近くに見学受付があり、拝観料200円を支払って見学を申し込むと、○○時△△分と書いた見学券をくれる。

境内を見学した後、集合時間5分前に鳳凰堂入り口に行くと、すでに長蛇の列ができていました。

私は1550分からの見学。

見学開始に当たって、鳳凰堂に入る前に係員から注意事項の説明があった。内容は

○写真撮影、ビデオ撮影、スケッチ等はすべて禁止。ご遠慮くださいとのこと

○堂内の立ち入り禁止エリアには絶対に入らないでください、とのこと。

○鳳凰堂は国宝なので、柱や壁にもたれかかったり、物を置いたりしないでください。国宝、文化財保護のために、ご協力をお願いします。

とまあ、こんなような内容の注意事項。何か特別なお達しでもあるのかな、と思って聞いていましたが、きわめて当たり前の内容でした。

鳳凰堂8
 

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成田山新勝寺(2)~整備されて繁盛していた成田山新勝寺表参道の商店街

■成田山新勝寺2(新勝寺表参道)

 

真言宗智山派大本山・成田山新勝寺への表参道は、JR成田駅、京成成田駅の中間にある交差点から新勝寺総門にむかって伸びている。そしてこの表参道の両側には、所狭しと商店、食堂、レストラン、喫茶、カフェ、みあげもの店等々が軒を連ねている。

新勝寺商店街5


まず私の目に付いたのは、この表参道がとても綺麗に舗装され、整備されていること。

新勝寺商店街7


そして表参道の両側に軒を連ねる商店等が、どの店もきちんとした店舗を構え、しかも新築した店舗が多いこと。見た感じとしては、どの店も商売繁盛している様子。

新勝寺商店街8


参道で目を引いたのが、高級うなぎ料理の店が数軒あること。

メニューに出ている、うなぎ料理を見てみると、これがビックリするくらいの高級うなぎ。一食がなんと3000円から4000円するものまである。

東京都心の繁華街、銀座、赤坂、六本木、新宿、渋谷、恵比寿、八重洲、上野界隈にも、こんな高級ウナギを取り扱っている料理店があっただろうかなあ、と思ってしまうくらい。しかもそれが一軒や二軒ではないから、なおさら驚いてしまいました。

 

もちろんこういう高級料理店だけではなく、大衆料理店もたくさん軒を連ねています。

私も、とある大衆料理店に入って食事。入ってみると昭和のころの大衆食堂そのものといった感じ。まるでタイムスリップして昭和時代に戻ったかのような錯覚になりそうです。

私が店に入ったのは、ちょうど夕食の時間帯で、参詣客のグループが2グループほど座って、ビールや日本酒を呑みながら、ずいぶんと話しが盛り上がっている様子。見た感じ、この店のなじみ客のようで、店員とも親しげに話していた。

 

それと、もうひとつ目を引いたのが旅館。おそらく成田山新勝寺参詣の人が宿泊するのでしょう。

電車は東京からJR線と京成線があり、高速道路も東関東自動車道があるが、いかんせん、どのルートでも所要時間が1時間以上かかる。時間かかりすぎですね、これは。

それと成田山新勝寺大本堂の朝の護摩が午前6時からはじまるため、これに参詣するには、新勝寺の近辺に宿泊しないと無理です。6時の護摩もさることながら、9時の護摩に参詣するにも、新勝寺近辺に宿泊しないと無理なのではないか。

それとどの旅館も、外から見た限りでは、立派な建物を構えた高級旅館。すごいですね。

成田山新勝寺参詣でこれらの旅館に宿泊する人が、いかに多いかと言うことでしょう。

新勝寺商店街9
 

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成田山新勝寺(1)~新年初詣で約298万人の参詣がある成田山新勝寺

■成田山新勝寺1(初詣で約298万人の参詣)

 

成田山新勝寺といえば、関東地方の初詣のメッカとして有名な寺院。

関東地方の初詣は、1位・明治神宮が約320万人、2位が成田山新勝寺で約298万人、3位が川崎大師・平間寺で約296万人と言われています。面白いことに2位と3位がともに真言宗智山派の大本山になっている。

これは正月三が日の参詣人の数だから、かなりの人数である。成田山新勝寺でも、お正月は1日約100万人の参詣がある、ということになる。これはたいへんな数である。

だから初詣のときは、JR成田駅、京成成田駅から新勝寺までの参道はまさに大混雑である。とても見学どころではない。お賽銭を投げ入れて参拝したら、あとは帰路につくしかないくらいである。

あと初詣のメッカにしては、東京からのアクセスがいいとは言えない。

JR東京駅から総武線快速電車で行くと1時間以上かかる。京成線のほうも、以前は特急スカイライナーが京成成田駅に停車していたが、2010年にスカイライナーが成田スカイアクセス線経由になり、京成成田駅を通らなくなった。

その替わりとして、特急シティライナーが運行されたが、東日本大震災の電力使用制限令で12往復まで削減され、そのままの状態がつづいている。

正月は、JRでも成田エクスプレスの一部が成田駅に停車したり、初詣臨時列車を運行しているが、それでもアクセスがいいとはいえない。

 

真言宗智山派とは、弘法大師空海を始祖、真言宗中興の祖・興教大師覚鑁(1095-1144年)を開祖とする新義真言宗と呼ばれる宗派の中の一つ。

天正5年(1577年)に根来山の学頭職となった玄宥(1529-1605年)が、天正13年(1585年)、豊臣秀吉による紀州征伐で焼き滅ぼされた根来山・智積院を、慶長6年(1601年)、徳川家康の許可を受け寺領を拝受し復興させたことを端緒に創建された宗派。

といっても、なかなかわかりにくい。

真言宗智山派総本山は、京都市東山区にある智積院。総本山智積院の歴代化主が智山派管長を務めている。

大本山が神奈川県川崎市川崎区大師町の川崎大師平間寺、東京都八王子市高尾町の高尾山薬王院、そして千葉県成田市の成田山新勝寺の三寺院。

この他に別格本山として東京都日野市の高幡不動金剛寺と愛知県名古屋市中区の大須観音宝生院がある。大本山・別格本山の5寺院のうち、4寺院が関東地方にある。

真言宗というと、高野山真言宗が有名で、智山派といっても、あまりなじみが薄い名前ですが、数年前、mixiで、あの「桜千歳」なる者が所属している宗派として、有名になった宗派。

それと、成田山新勝寺は、屋号「成田屋」の市川團十郎、市川海老蔵が成田山の不動明王を信仰していることでも有名である。

 新勝寺1

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