仏教宗学研究会のブログ

「仏教宗学研究会」とは会の名称。「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

「仏教宗学研究会」とは「アンチ日蓮正宗」管理人が設立した会の名称。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。富士門流執着軍団批判は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄だが、「日蓮正宗系」以外の富士門流寺院の調査・研究は「仏教宗学研究会のブログ」の管轄。
「仏教宗学研究会」への誹謗中傷に対する反撃・糾弾は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
さらに正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」の公式サイト「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」から、カルト宗教対策、カルト宗教取締特別立法、カルト宗教拡散防止条約制定の活動部分を独立させたものが「国際カルト宗教対策委員会(Icat-Cult)」

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2013年02月

湯之奥金山博物館(2)~大石寺9世日有の経済力を解き明かす最大のポイント・湯之奥金山博物館2

■湯之奥金山博物館2・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館2

 

□昭和63年度に始まる「ふるさと創生事業」の一環で平成9年4月に開館した湯之奥金山博物館

 

この湯之奥金山博物館は、JR身延線・下部温泉駅から徒歩45分くらいのところにある。

あの当時は、東海道線の東京~静岡に特急「東海」が走っており、富士駅で身延線の特急「ふじかわ」と連絡していた。乗り換え連絡があったため、割とスムーズに東京から下部温泉に行けたのです。この特急「東海」は20073月で廃止され、今は走っていませんが。

スムーズに東京から下部温泉に行けたとは行っても、身延線は富士~富士宮は複線になっているのですが、富士宮~甲府は単線区間。

特急列車も単線区間に入ると、さすがにスピードダウンする。そういうわけで富士駅から下部温泉駅まで、約1時間くらいかかった。

博物館に到着して、早速、入場料を支払い、中の展示を見学。

この湯之奥金山博物館は、昭和63年度に始まった「ふるさと創生事業」の一環として平成元年に湯之奥金山調査団と調査会を組織、以後3箇年にわたって発掘などの総合学術調査が実施され、考古学・文献史学・民俗学・鉱山技術史・地質学等々からなる学際的総合調査が進められ「湯之奥金山遺跡」の姿が解明され、この調査結果をもとに平成9年4月に開館したもの。

したがって建物は、まさにできたての新館。まことにきれいな造りの建物であった。

私はまず順路の通りに進み、館内の展示の見学とメモをはじめたのでしたが、展示されていた湯之奥金山の概要、あらまし、金の採掘、金鉱山の様子、金山衆の概要…。

はじめてここに来たときの私にとっては、まさに目からウロコであった。

 

湯之奥金山博物館2続きを読む

湯之奥金山博物館(1)~大石寺9世日有の経済力を解き明かす最大のポイント・湯之奥金山博物館

■湯之奥金山博物館1・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館

 

□ありとあらゆる資料をひっくり返して調べ、ようやく見つけた「甲斐黄金村・湯之奥金山博物館」

 

□大石寺の『戒壇大本尊』は9世日有の偽作だ

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_161878.html

□戒壇大本尊は9世日有の偽作だ001080

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_628700.html

□戒壇大本尊は9世日有の偽作だ081150

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_628705.html

□戒壇大本尊は9世日有の偽作だ151200

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_628708.html

日蓮正宗大石寺の「戒壇の大本尊」偽作解明の最大のポイントは、「経済力」「財力」であり、「戒壇の大本尊」を偽作した日蓮正宗大石寺9世法主日有の経済力を解き明かす最大の鍵は、大石寺から北方約15キロくらいのところにある「湯之奥金山遺跡」。

武田信玄の隠し金山とも伝えられている湯之奥金山を紹介する博物館が、JR身延線の下部温泉駅から徒歩3分ぐらいのところにある「甲斐黄金村・湯之奥金山博物館」である。

大石寺の「戒壇の大本尊」偽作解明を進めていく中で、いろいろな大きなポイントがあるが、中でも最大のポイントは、「経済力」「財力」である。

「日蓮は、経済力がなかったが故に、『戒壇の大本尊』を造立していない」

という論を立てるには、逆説的に「『戒壇の大本尊』を偽作した者は、経済力・財力を有していた」

ということになる。その経済力は、楠木をどこからか入手し、漆、金を入手し、仏師を雇って板本尊を彫刻し、漆職人、金箔職人を雇って、板本尊に漆加工、金箔加工を完成させた、とても大きな経済力である。

大石寺の「戒壇の大本尊」を偽作したのが大石寺の法主ということになれば、どうしてその法主は、どこからそんな大きな経済力を入手できたのか。こういう疑問からスタートした。

私は、日蓮正宗の歴史を30年以上前からいろいろと研究しているが、大石寺二祖日興・三祖日目入滅後から江戸時代以前に於いて、大石寺には、目立った大檀那はいない。

つまり、とても有力な大檀那がいて、「その大檀那の経済力で」という説は成り立たない。

そうすると、大石寺の近くに金山か、銀山かが、あったとしか考えられないわけで、私は、静岡県、山梨県に、金鉱山がなかったか、徹底的に調査したわけである。

地図、観光案内、JTBハンドブック、るるぶ情報板、iジャパン…ありとあらゆる資料をひっくり返して、徹底的に調べたところ、ついにこの「甲斐黄金村・湯之奥金山博物館」を発見したという次第。

場所は、大石寺の北方、毛無山の山頂・静岡県と山梨県の県境から、山梨県に入ったところ。下部温泉の中。下部温泉と言えば、大石寺9世日有が湯治をしていたことが、大石寺17世法主日精の「家中抄」に書いてある、あの温泉である。

湯之奥金山博物館2 

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三縁山増上寺(7)~徳川六代将軍家宣の正室・天英院の正墓がある増上寺3

■三縁山増上寺7(六代将軍家宣の正室・天英院の正墓3)

 

□徳川幕府による大石寺三門供養の言い訳の為に建立された大石寺の天英院五輪塔

 

それでは、なぜ大石寺は、天英院を篤信の大外護者であるかのように祭り上げ、天英院の正墓があたかも大石寺にあるかのようなウソをついているのか。

歴史上の人物・偉人で二つ以上の墓がある人物は、それこそたくさんいる。例えば織田信長の墓・廟・供養塔と称するものは、全国に少なくとも13ヶ所ある。

1京都市中京区の本能寺にある「信長公廟」

2京都市上京区寺町の蓮台山阿弥陀寺にある「織田信長公本廟」

3高野山奥の院の五輪塔「織田信長墓所」

4 京都市北区の大徳寺塔頭・総見院の五輪塔。

5安土城二の丸跡「織田信長公本廟」

6富山県高岡市の高岡山瑞龍寺にある「織田信長公御分骨廟」

7岐阜県岐阜市の神護山崇福寺の「織田信長父子廟所」

8愛知県名古屋市中区の景陽山総見寺の「信長公廟」

9愛知県清須市の興聖山総見院 「織田信長供養塔」

10大阪府堺市の南宗寺本源院 「織田信長信忠公供養塔」

11福井県越前町(旧・織田町) 「越前二の宮 剣神社」

12 「信長を祀る神明造の小祠」愛知県清須市清洲古城跡

13 「伝織田信長の首塚」静岡県富士宮市西山本門寺

 

だから、複数の墓・廟・供養塔が存在すること自体、別に悪いことでも何でもない。問題はその建てられた動機・目的である。純粋に「弔いたい」「供養したい」ということで建てられたのならば、墓・廟・供養塔はいくあってもいいと思う。

しかし大石寺の場合は、天英院を「弔いたい」「供養したい」という純粋な動機・目的からの五輪塔ではないと思われるのである。

ではなぜ大石寺は、五重塔の傍らに天英院の五輪塔を建てたのか。

第一の動機は、徳川幕府による大石寺三門供養の言い訳である。

日蓮正宗の教義によれば、大石寺は未入信や退転者などの「謗法者」からの供養は受けない、という建前になっている。そうすると、浄土宗増上寺、天台宗寛永寺を菩提寺とする徳川将軍家から大石寺三門供養を受けたと言うことは、教義に矛盾することになる。

そこで大石寺が考え出した言い訳が

「実は当時の将軍家宣の正室・天英院が大石寺の信徒だったのだ」

というもの。教義上の矛盾に対する、苦し紛れのゴマカシである。

増上寺4家宣廟




















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三縁山増上寺(6)~徳川六代将軍家宣の正室・天英院の正墓がある増上寺2

■三縁山増上寺6(六代将軍家宣の正室・天英院の正墓2)

 

□天英院は将軍家菩提寺の増上寺に土葬されたのであって大石寺には絶対に分骨されていない

 

増上寺の説明によると、天英院は夫の六代将軍家宣とともに同じ徳川正廟に葬られているという。これがまさに天英院の正墓。

増上寺が発行している小冊子「浄土宗大本山増上寺」によれば、天英院の正墓は元々、独立した宝塔が建てられていた。ところが1945(昭和20)の東京大空襲で、増上寺は壊滅的な打撃を受け、堂宇、伽藍の大半を焼失。徳川正廟もほとんどを焼失してしまった。

1958(昭和33)、改めて文化財保護委員会による発掘調査が行われ、土葬されていた遺体は全て荼毘に付され、改めて徳川将軍家の正廟が再建された、ということである。

したがって、天英院は、最初から菩提寺の増上寺に土葬で葬られていた、ということになる。

六代将軍家宣の正室・天英院は、文昭院殿(家宣)の墓所の宝塔の中に、いっしょに葬られて眠っている。増上寺に葬られた六人の将軍の墓所は全て宝塔が建てられ、その中に、正室も入っている、というわけである。

ところが日蓮正宗は「天英院は大石寺門流の信者だった。大石寺に三門を供養した大石寺外護の大檀那」と言い張っていて、大石寺五重塔の脇に建てられている天英院の五輪塔が天英院の正墓であるなどと言い張っている。

日蓮正宗にとって、東京芝・増上寺に天英院の正墓がある、ということがわかるのは、まことに都合が悪いため、日蓮正宗の信者たちは、こう言って反論する。

「天英院の正墓は増上寺にあるのかも知れないが、大石寺には遺骨が分骨されたのだ」

 

日蓮正宗の信者は、「大石寺には日蓮・日興・日目の正墓はない」と批判・追及されたときも、「遺骨は大石寺に分骨された」などと、何の証拠もないのに、虚しい妄想にしがみつこうとする。

苦し紛れの「分骨」の言い訳である。

天英院の正墓の場合も、「大石寺への分骨」などという言い訳は、絶対に通らない。

なぜなら、天英院は、増上寺に葬られたときは、土葬されたのであり、火葬して荼毘に付されたのは、1958(昭和33)に増上寺の徳川正廟が再建されたときだからである。

これは、増上寺が発刊している小冊子「浄土宗大本山増上寺」に書いてある。

それとも日蓮正宗の信者は、天英院の遺体が荼毘に付された1958(昭和33)に増上寺から大石寺に遺骨が分骨された、とでも言うのだろうか。

1958(昭和33)に増上寺から大石寺に天英院の遺骨が分骨されるなどということは、絶対にあり得ない。

増上寺4家宣廟




















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三縁山増上寺(5)~徳川六代将軍家宣の正室・天英院の正墓がある増上寺

■三縁山増上寺5(六代将軍家宣の正室・天英院の正墓1)

 

□新井白石・間部詮房が失脚した江戸時代大奥の一大事件・江島生島事件で有名な天英院

 

さて東京芝・増上寺でのもうひとつの研究課題は、徳川六代将軍正室・天英院の正墓についてである。

増上寺・徳川正廟に埋葬されているのは、二代将軍秀忠、六代将軍家宣、七代将軍家継、九代将軍家重、十二代将軍家慶、十四代将軍家茂の6人の将軍、5人の正室、5人の側室。

徳川六代将軍正室・天英院も、将軍家宣といっしょに埋葬されており、正墓もここ増上寺にある。

天英院とは本名を近衛熙子といい、父は近衛基熙、母は後水尾天皇の娘・品宮常子内親王。

夫・六代将軍家宣の死後落飾して天英院(てんえいいん)と名乗ったため、一般的に天英院と呼ばれている。

天英院という名は、一般的には江戸時代大奥の一大事件「江島生島事件」で有名である。

江島生島事件とは、江戸時代中期に江戸城大奥御年寄の江島(絵島)が歌舞伎役者の生島新五郎らを相手に遊興に及んだことが引き金となり、関係者多数が処罰された綱紀粛正事件。

家宣が六代将軍になった後、お喜世の方(のちの月光院)が側室に迎えられたことによって、夫婦関係は疎遠になっていったという。

お喜世の方(月光院)が産んだ家継が七代将軍宣下を受け、月光院とは不仲であったといわれている。御年寄にして月光院の腹心であった絵島が大奥の門限に遅れた江島生島事件では、老中や譜代大名と結託して、月光院と側用人・間部詮房と新井白石らの権威失墜を謀ったという天英院陰謀説がある。

当時の大奥には、7代将軍家継の生母月光院を中心とする勢力と前将軍家宣の正室天英院を中心とする勢力とがあった。月光院が家継の学問の師である新井白石や側用人の間部詮房らと親しい事から、大奥では月光院側が優勢。

この事件により天英院側が優勢となり、2年後の正徳6年(1716年)に七代将軍家継が亡くなると、若い家継に子がなかったため、天英院が推していた紀伊藩主徳川吉宗が8代将軍となった。

そのため、江戸幕府を牛耳っていた新井白石・間部詮房を追放するために天英院と譜代大名や老中がスキャンダルをでっち上げたのではないかという陰謀説が唱えられている。

増上寺7徳川家廟










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