一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

2013年03月

■京都妙顕寺4(大石寺の客殿・勅使門は妙顕寺の客殿・勅使門のパクリ3)

 

□往古の昔から勅使門、客殿、庫裡等の堂宇の配置は変わっていない京都妙顕寺

 

大石寺による京都妙顕寺客殿・勅使門パクリ問題で、私が注目しているのは、勅使門と客殿の位置です。勅使門は、臨済宗建仁寺派大本山・建仁寺、京都市右京区嵯峨野の天台宗寺院・二尊院、臨済宗天龍寺派大本山・天龍寺、真言宗御室派総本山・仁和寺、臨済宗大徳寺派大本山・大徳寺、臨済宗妙心寺派本山・妙心寺、臨済宗東福寺派大本山・東福寺、臨済宗南禅寺派大本山・南禅寺、曹洞宗大本山永平寺にもありますが、勅使門の位置が京都妙顕寺や大石寺とは異なっている。臨済宗大本山の場合は、勅使門、三門、法堂、方丈が一直線上に建ち並んでいますが、京都妙顕寺や大石寺の場合は、客殿の前に勅使門があり、客殿と方丈(大坊)が並んでいる。

そして客殿の奥に宝蔵、書院がある、という並び方。これが京都妙顕寺と大石寺に共通している。

さて数年前に京都妙顕寺を訪問した折、庫裡の中に入って、客殿、勅使門を見学させていただくことができました。あいにく、京都妙顕寺は大覚大僧正六百五十回遠忌の本堂修復工事中で、勅使門の写真は、外からではなく、内側の客殿の側から撮影した写真です。

妙顕寺10勅使門


庫裡に入って行ったところ、京都妙顕寺の若い僧侶が、客殿の中のほうへ案内してくれて、いろいろと説明していただけました。僧侶の話では、本堂が修復工事中であるため、本堂に参詣する参拝客や信者は、一旦、庫裡に入って、庫裡から本堂に入って行っているのだという。

京都妙顕寺の僧侶の説明に依れば

○「京都妙顕寺の勅使門は、基本的に勅使がお通りになる場合以外には開けない」

○「勅使は勅使門を通って客殿に入り、客殿でもてなしを受けるようになっている」

○「客殿は、普段は行事等は行われておらず、団体参拝の信者の接遇など゜に使われている」

○「京都妙顕寺は室町時代から、応仁の乱、天文法華の乱や比叡山延暦寺宗徒の焼き討ち等々の戦乱で何度も焼失しているが、勅使門、客殿、庫裡等の堂宇の配置は変わっていないと考えられる」

 

概ね、このような説明がありました。

堂宇の配置の問題ですが、江戸時代の京都妙顕寺の古図が、インターネット上にアップされていますが、これを見ても、現在の京都妙顕寺の堂宇の配置と大差がない。

http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/nitiren.htm

http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2003toba/myokenji31.jpg

http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2007to_0//myokenji92.jpg

よって「京都妙顕寺の勅使門、客殿、庫裡等の堂宇の配置は昔から変わっていないと考えられる」という僧侶の説明は、間違っていないと思われます。

妙顕寺11客殿 

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■京都妙顕寺3(大石寺の客殿・勅使門は妙顕寺の客殿・勅使門のパクリ2)

 

□対外的には「不開門」と言い自宗の信者には「勅使門だ」と二枚舌を使って騙している大石寺

 

前回の大石寺の客殿・勅使門パクリ問題の日記に関連して、賢明なるお方から

「大石寺の勅使門はその頃(大石寺9世日有の代)からあったのですか?

また当時勝手に勅使門の五本線の使用をして、処罰の対象となったりはしないのでしょうか?

寺社奉行などは当時誰だったのでしょうか?

門跡でもないのにこれほどまで身勝手な建立などにも目が届かなかったのでしょうか?」

との、まことに鋭いご質問を頂きました。まことにありがたいことであります。ここにご質問に対しまして、ご回答いたしたいと思います。

 

□大石寺の勅使門はいつごろからあったのか

 

大石寺の公式見解では、勅使門の創建時期については「創建は明らかではない」としています。

大石寺の最も古い古図は、室町時代の大石寺14世日主の古図ですが、これを見ると、今の大石寺の鬼門、客殿、勅使門、大坊・内事部、大書院、宝蔵、奉安殿がある一角が、まとめて「大坊」となっており、この時期に勅使門があったのかどうかは不明。これは江戸時代の古図も同じです。

つまり大石寺の文献を見ても、勅使門がいつ創建されたのかどうかが、不明のままです。

しかし、「戒壇の大本尊」大石寺9世日有偽作説などを追及していく中で、大石寺の勅使門は大石寺9世日有が、京都妙顕寺の客殿・勅使門のパクリで創建した、という結論に至りました。

では、なぜ大石寺の勅使門が大石寺9世日有が創建したと言えるのか。

1に、大石寺の68人の法主の中で、唯一、京都天奏の経験があること。なかんずく、「天皇の勅使がまみえて、そのために勅使門が必要」というシステムを知っていたことです。

もちろん、現代であれば、こういうことは、ちょっと研究している人であれば、誰でも知っていることです。しかし、天皇が完全な雲の上の神様のような存在で、殿上人しか天皇に拝謁できなかった時代の人が、はたしてどれだけの人が、このシステムを知っていただろうか。

つまり大石寺9世日有は、実際に京都に行って天奏を行った経験があったからこそ知っていたのではないかと考えられるわけです。

2に、勅使門がある寺院は、京都妙顕寺の他、臨済宗建仁寺派大本山・建仁寺、京都市右京区嵯峨野の天台宗寺院・二尊院、臨済宗天龍寺派大本山・天龍寺、真言宗御室派総本山・仁和寺、臨済宗大徳寺派大本山・大徳寺、臨済宗妙心寺派本山・妙心寺、臨済宗東福寺派大本山・東福寺、臨済宗南禅寺派大本山・南禅寺、曹洞宗大本山永平寺など、大石寺、永平寺を除けば圧倒的に京都にある寺院です。臨済宗の寺院が多いのですが、しかし鎌倉にある臨済宗大本山である建長寺、円覚寺には、勅使門がありません。したがって、京都天奏ならずとも、京都に行った経験がなければ、勅使門の存在すら知り得なかったのではないかと考えられます。

妙顕寺10勅使門 

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■京都妙顕寺2(大石寺の客殿・勅使門は妙顕寺の客殿・勅使門のパクリ)

 

□京都妙顕寺客殿・書院・宝蔵・勅使門の配置が酷似している大石寺客殿・書院・宝蔵・勅使門

 

「アンチ日蓮正宗」「仏教宗学研究会」で大石寺の他宗派教義・本尊・化儀・堂宇のパクリ問題を取り上げているが、大石寺の客殿・勅使門は、京都妙顕寺の客殿・勅使門のパクリである可能性が極めて高いという結論に至っている。

大石寺の客殿と勅使門の配置は、客殿の前に勅使門が建てられていた。1964(昭和39)年の旧客殿の解体・大客殿の落慶、その後の大客殿前にあった大化城の解体、1989(平成元年)の大客殿前広場の造成等々の変遷を経て、客殿と勅使門の位置がずれたこともあったが、元々の位置は、客殿の前に勅使門が建てられていたものであった。

この大石寺の客殿・勅使門の配置とそっくりな寺院がある。それは、日蓮宗の大本山・妙顕寺である。京都妙顕寺とは、日蓮の京都布教の遺言を受け、日蓮門下では京都ではじめて布教をした日像が開祖になっている寺院である。

大石寺と京都妙顕寺は、客殿と勅使門の配置が似ているだけではなく、庫裡、大玄関、大客殿、勅使門、さらにその裏手の宝物殿(宝蔵)、書院の配置までそっくりなのである。

そもそも京都妙顕寺とはどういう寺院かというと、開祖・日像は、六歳の頃から日蓮に薪水給仕して、日蓮から経一丸という名前を授かり、本尊も授与されている。13歳のとき、日蓮の入滅に臨んで、日蓮から直々に枕元に呼ばれ、京都開教を遺命された。

1294(永仁2)年、日蓮の京都布教の遺命を果たすべく、京都に上洛。日像は、京都の街角にて辻説法を行い、たちまち京都の町衆から帰依を受けた。しかし比叡山延暦寺等々から排斥を受け、1307年(徳治2年)から1321年(元亨元年)までの間に3度京都から追放する院宣を受けた。

1321年(元亨元年)に追放を許されて、後醍醐天皇より寺領を受け、ここに妙顕寺を建立。さらに、1334(建武元年)4月には、妙顕寺を勅願寺として法華宗号の綸旨を受ける。

勅願寺(ちょくがんじ)とは、時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のことだが、実際には、寺が創建されてから、勅許によって「勅願寺になった」寺のほうが数多い。勅願寺は全国で34ヶ寺あるが、天下の三戒壇の他は、天台宗、真言宗、臨済宗が大半で、日蓮宗で勅願寺になっているのは唯一、妙顕寺だけである。

妙顕寺2世・妙実は、1341(暦応4)年に妙顕寺を四条櫛笥に移転。

1358(延文3)年に大干ばつが起きたとき、天皇の勅願によって僧侶300人を従えて桂川のほとりで祈雨の祈祷を行ったところ、たちまち数日の間に雨が降って、山野田畑が潤ったことから、その功績によって、後光厳天皇より日蓮に大菩薩号、日朗・日像に菩薩号が、そして妙顕寺には四海唱導の称号が、妙顕寺2世貫首・妙実には大覚の称号と大僧正の位が下賜された。これにより妙顕寺の寺勢は隆盛を極めた。

妙顕寺1


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■京都妙顕寺1(三門の寺号額に皇室の菊花紋章を使っている)

 

□三門の寺号額に皇室の菊花紋章を使っている日蓮宗七大本山・京都妙顕寺

 

京都妙顕寺とは、日蓮宗七大本山のひとつで、日蓮から京都弘教を附属された日像が開山となった寺院。具足山妙顕寺という。南北朝時代、朝廷から日蓮大菩薩、日朗菩薩、日像菩薩号が下賜され、日蓮宗で唯一の勅願寺になっている寺院である。

日蓮宗七大本山とは、池上本門寺、小湊誕生寺、千光山清澄寺、中山法華経寺、北山本門寺、京都本圀寺、京都妙顕寺の七ヶ寺。身延山久遠寺は祖山・総本山。日蓮宗七大本山のひとつということで、かつて京都妙顕寺貫首が日蓮宗管長になったこともあった。

妙顕寺、妙覚寺、立本寺の三寺で「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれている。龍華とは、開祖・日像の「肥後阿闍梨龍華院」から来ている。

平成25(2013)に大覚大僧正650遠忌を迎えるということで本堂が工事中でありました。

大覚(12971364)とは妙実ともいい、妙顕寺4世。

1358年(延文3年)後光厳天皇の命により、雨乞いの祈祷を行い効験が現れた。この功績により、日蓮に大菩薩号、日朗に菩薩号、日像に菩薩号が下賜され、大覚は大僧正に任じられた。

大覚は備前法華の祖と仰がれている。

ここは日蓮宗唯一の勅願寺ということで、三門の寺号額には、皇室の菊の紋章が使われている。菊の紋章は、勅使門にも使われている。

「菊花紋章」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E8%8A%B1%E7%B4%8B%E7%AB%A0

鎌倉時代には、後鳥羽上皇がことのほか菊を好み、自らの印として愛用した。その後、後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、ことに十六八重表菊が皇室の紋として定着した(「十六弁菊は南朝の紋で、三十二弁菊(十六弁八重菊)は北朝(および現皇室)の紋である」との説明も見かけるが根拠不明である)。

江戸時代には幕府により葵紋とは対照的に使用は自由とされ、一般庶民にも浸透し、この紋の図案を用いた和菓子や仏具などの飾り金具が作られるなど各地に広まった。

菊紋のうち、八重菊を図案化した菊紋である十六八重表菊は、日本の天皇及び皇室を表す紋章である。俗に菊の御紋とも呼ばれる。親王などの皇族はこの紋の使用が1869年(明治2年)の太政官布告をもって制限され、1926年(大正15年)の皇室儀制令(大正15年皇室令第7号)13条発布を経て「十四裏菊」や「十六裏菊」に独自の図案を加えたもの(有栖川宮家・伏見宮家など)や「十六八重表菊」を小さな図案によって用いたもの(秩父宮家・三笠宮家・久邇宮家など)を各宮家の紋としている。

妙顕寺2


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■東叡山寛永寺4(天璋院篤姫の墓所がある寛永寺)

 

寛永寺の寺跡調査のもうひとつのポイントは、ここに天璋院篤姫の墓所があること。

篤姫は、日蓮正宗に言わせると、大石寺の信仰をしていた、というのである。ところが篤姫は、寛永寺の五代将軍徳川綱吉の廟の中にいっしょに葬られているのである。大石寺には葬られていないのである。

そもそも天璋院篤姫が大石寺の信仰をしていたなどという話しは、一体、どこから出てきた話なのか。天璋院篤姫が、大石寺の信仰をしていたなどという証拠は、どこにもないはずだ。

では天璋院篤姫とは、一体、どういう人物なのか。

まずフリー百科事典・Wikipediaの記述から

「天璋院」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%92%8B%E9%99%A2

天璋院(てんしょういん) / 篤姫(あつひめ、天保61219日(183525日) - 明治16年(1883年)1120日)は、江戸時代後期から明治の女性で、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所となった人物。実父は薩摩藩主島津家の一門・今和泉(いまいずみ)領主・島津忠剛。母は島津久丙の娘・お幸。薩摩藩9代藩主・島津斉宣の孫である。

幼名は一(かつ、もしくは、いち)。本家当主で従兄・島津斉彬の養女になり本姓と諱は源 篤子(みなもと の あつこ)に、近衛忠煕の養女となった際には藤原 敬子(ふじわら の すみこ)と名を改めた(この際に篤の名は君号となり、篤君(あつぎみ)となった)。」

「天保61219日(183525日)、今和泉島津家の当主・島津忠剛の長女として生まれる。嘉永6年(1853年)、従兄である薩摩藩主・島津斉彬の養女となり、同年821日に鹿児島を陸路出立し熊本を経由して江戸藩邸に入る。渋谷の藩邸から江戸城までの輿入れは先頭が城内に到着しても最後尾は依然、藩邸にいたという。 安政3年(1856年)に右大臣・近衛忠煕の養女となり、その年の11月に第13代将軍・徳川家定の正室となり、年寄の幾島を伴って大奥に入った(輿入れの経緯・詳細については後述)。なお、家定に嫁いで以降、生涯を通して故郷・鹿児島に戻ることは無かった。しかし安政576日(1858814日)に家定が急死し、同月16日(824日)には斉彬までもが死去してしまう。篤姫の結婚生活はわずか19ヶ月であった。家定の死を受け篤姫は落飾し、戒名は天璋院殿従三位敬順貞静大姉、通称天璋院と名乗る。同年12月、従三位に叙位。」

 

寛永寺にも天璋院篤姫の略歴を記した掲示がある。

天璋院に関する一般的な見解とは、そう大差がないように思われる。

寛永寺16篤姫墓案内


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■東叡山寛永寺3(室町時代だったら天台宗談義所に日蓮宗僧修学はあり得た)

 

寛永寺への参詣・見学は、上野駅公園口から上野公園を歩いて行くか、あるいは鶯谷駅から上野公園方面に歩いて行くか。いずれかが定番。「東の比叡山」という意味の山号・東叡山というくらいあって、中心堂宇は、比叡山延暦寺と同じ根本中堂。本尊も延暦寺と同じ伝教大師最澄自作の薬師如来像。

ただし、根本中堂の大きさは、比べものにならないほど、延暦寺のほうが大きい。

境内を見学していると、「寺務所」の看板が出ている堂宇を発見。「あそこに行けば資料があるかも」と思い、寺務所の中へ。すると私が寺務所に入ったと同時に、奥の方にピンポーンと呼び鈴が鳴り、奥から若い僧侶がすっ飛んで出てきた。「何か?

「寛永寺さんで出しておられる公式パンフか小冊子とかは、ありませんか」

「ございますが、有料です」

ということで、表題が「東叡山寛永寺」と書いてある小冊子を購入。予想に反して、思いもかけずに僧侶が出てきたので、宗学研究についての質問をしてみることに。

寛永寺も江戸時代は大伽藍を誇った天台宗の関東総本山。天台宗関連の宗学研究課題は、「室町時代の天台宗談所に、日蓮宗僧が入学・修学していたのかどうか」という点。そして

「日蓮本仏義とは中古天台教学の恵心流本覚思想のパクリなのかどうか」という点。

 

○「寛永寺さんにも江戸時代には天台宗談所があったのでしょうか」

僧「江戸時代にはこの寛永寺にも大伽藍がありましたので、僧侶が通う談所はあったと思います」

○「日蓮宗関連の古文書『富士宗学要集』等に、室町時代の富士五山のひとつ・大石寺の法主が修行僧だったころに、武州仙波(川越)の天台宗談義所で修学した、ということが書いてあります。

武州仙波の天台宗談義所とは、無量寿寺の中院・喜多院のことと思われます。天台宗談義所に他宗派の僧侶、日蓮宗関連の僧侶が入って修学したということが、あり得たのでしょうか。」

僧「私の個人的な見解ですが、室町時代だったらあり得たのではないかと思われます。今だったら、あり得ませんが。そもそも日蓮という人が、若かりし頃、比叡山で修学された方ですし、日蓮宗とは言っても、それは実質的に天台宗から別れてできたようなものです。ですかから、室町時代だったら、あり得たのではないかと思います」

 

かつて喜多院の僧侶にこれと同じ質問をしたところ、「それはあり得ないのではないか」という見解でした。今度は、全く正反対の見解だったので、私も驚きました。

寛永寺1 

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■東叡山寛永寺2(比叡山延暦寺と同じ最澄自作の薬師如来像)

 

寛永寺の根本中堂は、当初は1698(元禄11)に建立。間口25(45.5m)、奥行き23(42m)、高さ32mもある大伽藍だったという。

しかし1868(慶応4)の彰義隊戦争の際に全山を焼失。現在の寛永寺・根本中堂は1879(明治12)に、川越・喜多院の本地院(寛永15年に徳川家光が建立)を、寛永寺子院・大慈院の地に移して、寛永寺の本地堂の用材も加えて再建したもの。

根本中堂の正面に掲げられている「瑠璃殿」の額は、東山天皇御宸筆の勅額。この勅額と境内の二つの大水盤は、戦火を免れて、創建当時の面影を伝える。

寛永寺境内には、徳川幕府四代将軍家綱霊廟の梵鐘、中興の学僧・慈海僧正の墓、日本最初の講義を伴う公開図書館・勧学寮を設立した名僧・了翁禅師の塔碑、座像、その他多数の史跡がある。

寛永寺根本中堂中央の大きな厨子に祀られているのが、平安時代初期に造像された等身大の立像・薬師三尊像で秘仏になっている。中尊の薬師如来像は日本天台宗宗祖・伝教大師最澄の自作と伝承されている。

比叡山延暦寺根本中堂の秘仏・薬師如来像も伝教大師最澄自作の像と伝承されている。寛永寺は「東の比叡山」である東叡山だから、根本中堂の本尊は、延暦寺と同じく伝教大師最澄自作の像でないと、つりあいがとれないということだろうか。

寛永寺の薬師如来像は、古くは近江(滋賀県)・石津寺(せきしんじ)に祀られていた像であったが、寛永寺の根本中堂建立に際して、石津寺から寛永寺に移されたという。

もともとは、伝教大師最澄が1本の木から彫った2体の薬師如来像のうち、1体を比叡山延暦寺の本尊として祀り、1体は石津寺を建立して石津寺の本尊として祀ったと伝承されている。

石津寺の本尊・薬師如来像は、江戸時代初期に天海僧正によって上野寛永寺に移されて、寛永寺の本尊として祀られている。現在の石津寺は、重要文化財の本堂だけが残る無住のお寺となっている。

左右の日光・月光の両菩薩像は、同時に山形県・立石寺(山寺)から移された像。寛永寺の見解によれば、薬師如来像は近江・石津寺から、日光・月光の両菩薩像は、立石寺から移された像であるにもかかわらず、最初から三尊仏として造像されたかのように釣り合いが取れている、となっている。須弥壇上・本尊厨子の両脇には、四天王像、十二神将像等が祀られている。

寛永寺14根本中堂 

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■東叡山寛永寺1(比叡山、東叡山、日光山の三山管領の宮)

 

東京・上野の寛永寺とは、天台宗関東総本山の寺院。正式には東叡山寛永寺円頓院と号する。

1622(元和8)、天海大僧正が徳川幕府二代将軍・秀忠と相談して、徳川家の安泰と天下の平安を祈る祈願寺として、江戸城の丑寅、鬼門の方向に創建が決められた。その三年後の1625(寛永2)10月に落慶した寺院。開基(創立者)は徳川幕府三代将軍・徳川家光。開山(初代住職)は天海大僧正。

山号の東叡山とは東の比叡山という意味。寺号の寛永寺は、比叡山延暦寺が朝廷の勅許を得て、延暦としいう元号を寺号にしたのと同様に、創建時の元号である寛永を寺号にしたもの。

本尊は薬師如来像で比叡山延暦寺根本中堂の中心本尊と同じ。寛永寺の中心堂宇も「根本中堂」という。

現在の上野公園中央噴水あたりに徳川幕府五代将軍綱吉が建てた根本中堂があり、ここは間口25(45.5m)、奥行き23(42m)、高さ32mもある大伽藍だったという。

徳川幕府八代将軍吉宗の代には、堂塔伽藍30余棟、子院36坊、境内地305000余坪(1006500m2100ha)、寺領11700石になった。1万石以上の領地を持つ武家を大名と言ったので、寛永寺の寺格は、まさに天下の大名と同格ということになる。

単純に面積だけで比較すると、大阪城公園(大阪) 106.7ha、紫禁城(北京) 72.5ha、大石寺(富士宮) 70haなので、江戸時代の寛永寺境内は、現在の大阪城公園とほぼ等しかったということになる。

 

天海大僧正の生前からの願いであった天皇家から皇子を山主(貫首)に迎えたいとの構想は、徳川幕府四代将軍家綱の代に実現した。

後水尾天皇の第三皇子・一品守澄法親王が寛永寺に入山。朝廷より輪王寺宮の称号が下賜それて、以降、幕末まで寛永寺山主(貫首)は、輪王寺宮(法親王)によって、受け継がれた。

寛永寺の末寺は、東日本、西日本から九州にまで及び、約1800余ヶ寺あったという。

輪王寺宮は、比叡山延暦寺、東叡山寛永寺、日光山の三山の山主(貫首)を兼任し、三山管領の宮とも言われた。

しかし慶応4年(1868年)の上野彰義隊戦争で全山を焼失。明治維新後、境内地は政府に没収され、輪王寺宮は還俗。明治6年(1873年)には寛永寺旧境内地が上野公園になり、寛永寺は廃止状態に追い込まれるが、明治8年(1875年)に再発足。

子院の大慈院の地が本坊の境内となり、川越・喜多院の本地堂を移築して根本本堂(中堂)として復興したが、寺の規模は大幅に縮小した。第二次世界大戦の東京空襲では徳川家霊廟の建物の大部分が焼失している。

現在の境内は約3万坪(99000m210ha)、山内子院は19ヶ坊になっている。

寛永寺33


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■川越・川越市立博物館2(天台宗檀林・恵心流の謎を追って2)

 

□寛永の大火で室町期の古文書が焼失してしまっていると明かした市立博物館学芸員

 

「いやー、どうだろうなあー。わからないこともあるからなあー」と、渋々出てきたという感じの学芸員。「この人、やる気があるのかな」とも思ったが、しかし学芸員と話が出来る千載一遇のチャンスであるので、早速、質問。

 

○「今日、喜多院と中院に行ってきて、中世の無量寿寺にあった天台宗談義所についてお話を伺ってきたのですが、喜多院で回答してくれたのは若い僧侶でした。私はもっと位の高い僧侶、例えば教学部長とか、住職とかに話が聞ければ、と思ったのでしたが…」

学芸員「いやいや、そんな教学部長なんていう人は、あそこ(喜多院)にはいないですよ。あそこは、いわゆる家族経営ですから。御住職がいらっしゃって、息子さんがいて、修行に来ている人は、いるのかなあ。その受付にいた僧侶は、息子さんか、修行に来ていた人か、そんな所でしょう」

「御住職も寺院経営に忙しいはずで、そういう室町時代の天台宗談義所とかの詳しい知識は、もちあわせていますか、どうですかねえ」

○「私も、あっちこっちの寺院に行ったり、博物館に行ったり資料館に行ったりして、お話を伺ったりしているのですが、一般的に寺院はガードが堅く、博物館や資料館に行ったときのほうが、詳しいお話を聞けたりします」

学芸員「まあ、いきなりお寺に行ってもダメなケースは、よくありますよ。ただし、今のケースは、本当にわからなかったんじゃないでしょうかねえ」

○「ここの展示にもありますが、仙波の無量寿寺仏地院には天台宗談義所があり、中世の頃は関東天台宗の本山だったと書いてあります。中世の日蓮宗・富士門流の古文書には、大石寺の法主が登座する前の若かりし頃、仙波の天台寺院で修学した、ということが出てきます。天台宗の僧侶が入学する天台宗談義所に、日蓮宗の僧侶が入学するということがあり得たのか、という問題がひとつあるわけです。喜多院の若い僧侶の話では、懐疑的な見解でしたが、学芸員の方の見解はどうでしょうか」

学芸員「んー、そうーですねえー。おそらくその僧侶の言うとおりではないかと思うんですがねえ。

たしかに天台宗談義所に他宗派の僧侶が入学して修学するということは、あり得ないと言えば、あり得ないでしょう」

「まあ、江戸時代以降でしたら、文献が残っているんですけども、それ以前に関しては、ほとんど文献が残っていないんですよ」

川越市立博3 

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■川越・川越市立博物館1(天台宗檀林・恵心流の謎を追って)

 

□女性職員に引っ張られて「わからないこともあるからなあ」と言いながら渋々出てきた学芸員

 

喜多院で僧侶の話を聞くことはできたのですが、どうも消化不良な感じがぬぐいきれないため、「天台宗檀林に日蓮宗僧が入学して修学していたのか」「大石寺の日蓮本仏義は本当に中古天台宗教学『恵心流』のパクリなのか」の謎を追って、私は川越の小江戸巡回バスに乗って、川越市立博物館に入りました。

川越市立博物館とは、川越城の北側にあり、二の丸跡地に川越市制60周年を記念して建てられたもの。外観は、川越の蔵造りの家をイメージしたような建物になっている。実際の蔵造りは黒っぽい家ですが、ここは全体が白っぽい色になっている。

博物館に行けば学芸員がいるはずだし、川越の歴史を織り交ぜて、学芸員から話が聞けるのではないかと思い、けっこう期待して博物館の中に入っていった。

川越市立博物館の建物は、けっこう真新しい建物。中の常設展示は、まことにわかりやすい展示が、所狭しと並んでいる。かなり資金を掛けて造られているのがわかる。

常設展示室は、大小5室ぐらい。広い部屋にも小さい部屋にも、川越に関するさまざまな展示が、ぎっしりと並んでいて、あっちこっちで博物館の女性係員が、見学者に対して熱心に説明している姿が目を引いた。

「熱心な人たちだな」と思いました。見学者も熱心だし、係員の方も熱心。私もいろいろな博物館や史料館・資料館を見学に行きましたが、あまりこういう熱心な光景は、見かけませんでした。

無量寿寺、喜多院、中院は、もちろん川越市内にある寺院。中世のころは、天台宗580余寺の本山だったというから、当然、学者としての学芸員の視点や見解があるはず。

その前に、博物館内の常設展示をひととおり見学。

常設展示は、縄文・弥生・大和・奈良・平安・鎌倉・室町・江戸・明治と時代毎に展示が別れていたが、展示の中心は、どうも江戸時代という感じがする。

もっとも喜多院が最も栄えたのが江戸時代だし、代々の川越城主は、幕府の大老、老中をつとめた人物が何人もいるとのこと。

さらに新河岸川を使って江戸に米が運搬されていたということで、水運を中心にした経済が栄えたと言うことで、まず川越市立博物館の常設展示のメインは、江戸時代のもの。

次いでメインは明治時代。明治に川越の大火があり、その時に蔵造りの家が焼けずに残ったということで、川越復興にあたり、次々と蔵造りの家ができた。これが川越の伝統的建造物保存地区になっているということで、明治時代の川越の大火に関する展示もメインのひとつ。

その他の時代に関しては、わりと簡単に済ませている感じがする。

川越市立博1 

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■川越・中院1(天台宗八箇檀林・日蓮伝法灌頂の寺)

 

□日蓮伝法灌頂の寺院にあった天台宗談義所で日蓮宗僧が修学していた、ということか

 

恵心流中古天台宗口伝法門や天台宗談義所に日蓮宗僧が入檀していたか、という謎を追って、喜多院の次に、となりの中院を訪ねました。堂宇は、喜多院、仙波東照宮、中院というふうに並んで建っている。中院の正式名は星野山無量寿寺中院で、今も無量寿寺の寺号を残している。

中院は、星野山無量寿寺の仏地院だった所で、ここに天台宗談義所が置かれていた。

ただは中院の場所は、当初から当地にあったのではなく、今の仙波東照宮があった所にあり、仙波東照宮ができるに当たって、今の地に移転したもの。

喜多院が栄えるようになったのは、江戸時代に天海大僧正が再興して以降であり、もともとの天台宗談義所は仏地院(中院)にあった。

そういうことから中院も訪問。

中院の三門には「元関東八箇檀林」「天台宗別格本山」という看板が出ている。

この関東八箇檀林なのですが、中世の天台宗檀林は

長野県・津金寺、埼玉県川越市・中院、埼玉県児玉郡・大光普照寺、千妙寺、茨城県桜川市・月山寺、茨城県稲敷市・江戸崎不動院、栃木県芳賀郡・宗光寺、茨城県水戸市・薬王院、逢善寺、千葉県長生郡・長福寿寺、群馬県前橋市・龍蔵寺、群馬県渋川市・真光寺、滋賀県米原市・円乗寺にあったとのこと。

関東八箇檀林というからには、八箇所の檀林だったと思われるのだが、しかし、埼玉県、茨城県、千葉県、栃木県、群馬県にあった天台宗檀林は少なくとも九箇所以上ある。

ということは、1ヶ寺が関東八箇檀林に入っていないと言うことになるが、どれが入っていないのか、不明。詳しい方、教えていただけたら幸いです。

 

さて中院の三門前には、「日蓮上人伝法灌頂之寺」と書いた石塔が建っています。

中院6 





















伝法灌頂とは、僧侶の阿闍梨号を授与する儀式のこと。

「伝法灌頂」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E6%B3%95%E7%81%8C%E9%A0%82

「日本密教では、四度加行(しどけぎょう)という密教の修行を終えた人のみが受けられる。正しくは金胎両部伝法灌頂(こんたいでりょうぶ・でんぽうかんぢょう)という。ここで「金・胎」とは、中期密教の宇宙的世界観を表す金剛界(こんごうかい)と胎蔵界(たいぞうかい)を意味する。

インドに始まり、日本密教や中国密教、チベット密教においては、この灌頂によって、密教の奥義がすべて伝授され、弟子を持つこと(教師資格)が許される。また、密教においては仏典だけに捉われず、口伝や仏意などを以って弟子を指導することができることになる。更には、正式に一宗一派を開くことが出来るともいわれ、それ故、阿闍梨灌頂、または受職灌頂ともいう」

 中院1

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■川越・喜多院7(恵心流と本仏儀の関連付けを全面否定)

 

□大石寺9世日有は恵心流を知っていたとしても恵心流から日蓮本仏義を偽作したのではない

 

「天台宗の談義所に、日蓮宗の僧が入学して修学したかどうか」の話題について、これ以上、この僧侶と話してもムダだと思い、話題を恵心流法門と日蓮本仏義の関係に切り替えることにした。

 

○「もうひとつ、お尋ねしたいことがあります。天台宗教学の中に恵心流本覚思想ないしは恵心流口伝法門とよばれているものがありますね。日蓮宗・富士門流関連の古文書の中に、鎌倉時代から室町時代のころにかけて、武州仙波の天台宗檀林で『恵心流』が教授されていた、とするものがあるのです」

僧「あー、恵心流ですか。はいはい、ありますね。恵心流とか檀那流とかいうものですよね」

 

恵心流とは恵心僧都源信を祖とする天台宗の一学派。檀那流とは、檀那僧都覚運を祖とする天台宗の一学派。恵心僧都源信(9421017)とは、貴族向けの仏教解説書である「往生要集」を著して、「観想念仏」を効果ある念仏の方法として勧めた僧として有名。浄土宗の僧と誤解されがちであるが、平安時代後期の天台宗の僧である。源信の教学としては「恵心流」よりもむしろ、「往生要集」のほうが有名。ただし1006年(寛弘3)には、一切衆生の成仏を説く『一乗要決』をまとめた。

『一乗要決』とは、法相宗において人の資質や能力に応じて声聞・縁覚・菩薩に固有の3種の悟りの道があるとする三乗説に反駁し,天台宗の立場から法華経に説く,悟りに導く教えはただ一つしかなく,いかなる衆生もすべて仏になれるとする一乗説を主張。一乗思想が真実の教えで,三乗思想が方便であることを立証した著書である。

 

○「実は、日蓮宗の中の富士門流、さらにその富士門流の中の日蓮正宗という宗派の教学に、日蓮が末法の本仏であるとする日蓮本仏義というものがあります。日蓮宗の学者の中に、日蓮本仏義は「恵心流」のパクリではないかという説を唱えている人がいるのです。

日蓮本仏義とは、簡単に言ってしまうと、日蓮を本因妙の教主・久遠元初自受用身如来とし、釈迦如来よりも上位の仏であるという思想です。天台宗の「恵心流」法門も、これとよく似た教学で、日蓮本仏義の元になっているという説を唱える人がいるのですが、これについてはどうですか」

僧「あー、それは違います。違いますね。「恵心流」とはそんな教学ではありません。私も僧侶の学校で「恵心流」というのを学びましたが、そんな思想ではありません。

たしかに「恵心流」の本覚思想というのは、ありますが、そんな本仏義に結びつけるというのは、ものすごく極端な解釈なのであって、それが「恵心流」の本筋・本論ということではありません。

まあ、「恵心流」の細部については、ものすごく専門的な教学で、私もついていけないような部分があります。しかし本仏とか日蓮本仏義とか、そういったものに結びつくような思想ではありません」

喜多院5 

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■川越・喜多院6(他宗僧の天台宗檀林に入学・修学を否定)

 

□天台宗談義所が天台宗僧限定になったのは江戸時代以降の可能性が高い

 

喜多院の受付で売っていた小冊子を買って読みましたが、大まかな歴史の概略は載っていたのですが、恵心流とか日蓮宗の僧が天台宗談義所に来ていたとかは載っていなかったので、「やはり僧侶に聞いてみるしかないな」と思い、再び慈恵堂(本堂)へ。

まずは正面のお賽銭箱に賽銭を入れて合掌・参拝。

本堂横の受付に行くと、先程の若い僧侶が二人。お守りを売っていたので、まずは「勧学除災お守り」を購入。すると若い僧侶が「これは学生さん用ですよ」

?。一般の人が買っちゃいけないんですか」

「いえ、そういうわけではありませんが」

こんなやりとりがあって、結局、お守りを購入。こういう話しから僧侶に質問。

 

○「先程、庫裡の受付で売っているとおっしゃっていた本は、これですね」

僧「そうです。それですね」

○「この本の中に、かつて喜多院には、室町時代の頃、天台宗談義所があり、無量寿寺は関東地方の天台宗総本山であったと書かれていますが、この天台宗談義所に、日蓮宗などの他宗の僧侶が入学して修学したということは、あったのでしょうか」

僧「んー。談義所というのはここだけではなく、となりの中院もありますし、今は廃寺となった南院もありましたから」

 

なんとなく僧侶の会話の姿勢が、逃げかかっているのがわかりましたから、ここでちょっと強めにプッシュしました。

 

○「そりゃ確かに、中院や南院もあったでしょうが、しかし喜多院も中院も南院も、関東天台宗総本山の無量寿寺の子院だったわけでしょう」

僧「…」

○「質問の主旨はこういうことです。実は、室町時代の日蓮宗・富士門流の本山法主の座に登り詰めた複数の人物が、修行僧(所化僧)だったころに、武州仙波の天台宗檀林で修学したと書いてある古文書があるのです。仙波というのは、ここ川越でしょ。川越の天台宗談義所といったら、無量寿寺の喜多院か、中院か、それしかないじゃないですか。そこを確認したいのです。

これが天台宗の古文書に書いてあるなら、わざわざここに来て確認する必要はありません。しかし日蓮宗側の古文書に書いてあるので、ここに確認に来たわけです」

僧「いやー、天台宗の檀林というのは、あくまで天台宗の僧侶が学問する所ですから。他宗の僧侶は来ていないはずです。それに、だいたい日蓮宗の僧侶が、天台宗の教学を修学するというのは、どうなんでしょうか」

喜多院4


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■川越・喜多院5(江戸時代以前の喜多院の歴史)

 

□鎌倉時代後半から室町時代前半ころが最盛期だった無量寿寺の天台宗談義所

 

本堂外陣と賽銭箱の間に、受付があり、そこに若手僧侶が二人いて、数珠やお守りの類のものが売られていました。私が軽く会釈をすると、二人の僧も軽く会釈。

「本は売っていないのかな」と思い、本を探したのですが、そこには本が見当たらない。

そこで僧侶に「こちらでは喜多院に関する本は売っていないのですか」と質問。すると僧侶が

「本は、先程入ってこられた庫裡の受付で売っております」との返事。

つまり拝観券を売っていた庫裡の受付で売っていたということなので、私は僧侶に礼を言って早速、入ってきたルートをバック。本堂から渡り廊下を通って客殿、書院を通り、庫裡の受付へ。

そこには何冊かの本が売られていたのですが、とりあえず私は喜多院の歴史と堂宇に関する資料が欲しかったので、小冊子「喜多院 上 歴史」と「喜多院 下 文化財」を購入。

この小冊子「喜多院 上 歴史」を読んでみると、喜多院の歴史がまことにわかりやすく書いてあった。それを紐解いていくと……

 

今の喜多院の院号は、江戸時代初期に天海大僧正が住職になってからの名前で、元々の名前は無量寿寺の一子院であった北院(本来は仏蔵院)。江戸時代にこの北院が発展して喜多院になった。寺伝によれば、無量寿寺の開創は830(天長7)に慈覚大師円仁がこの地を訪れた時、寺を建立し、星野山無量寿寺仏地院という勅号を天皇より賜って、天台宗寺院として成立したと伝えられるという。

しかし円仁が関東布教をした形跡は見当たらず、検討の余地があるとするが、しかし816(弘仁7)、伝教大師最澄が関東地方に下向しており、9世紀前半の関東地方の情勢からして、このころ無量寿寺が成立していた可能性は否定できないとしている。

さてその後、無量寿寺は元久年間(12041206)に、兵火によって焼失し、廃絶となり、1世紀近くたったのちに、1296(永仁4)、慈光寺の尊海が勅を奉じて再建に着手した。

尊海とは、武蔵国足立郡の出身で足立郡川田谷村(桶川市)泉福寺の心尊(信尊)の弟子で、中世関東の天台教学の中心的人物とされる。小冊子によると、中世関東の天台宗教学は独自の発展をしていたという。

これはあまりに密教化した天台宗の体質を、本来の天台教学に戻そうとする、いわば復古運動が関東地方で独自の動きを見せたのだという。

尊海の師である心尊は、このような復古運動の代表的人物で比叡山延暦寺で修行した後、泉福寺に住して談義所を開設した。談義所とは、教学研究の学問所のこと。

喜多院4


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■川越・喜多院4(日蓮本仏義偽作の検証も含めて訪問)

 

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■川越・喜多院3(天台宗檀林と日蓮宗3)

 


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■川越・喜多院2(天台宗檀林と日蓮宗2)

 

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■川越・喜多院1(天台宗檀林と日蓮宗1)

 

喜多院とは、埼玉県川越市内にある天台宗の寺院で、ここと中院はかつて星野山無量寿寺という寺院の子院だった。かつては関東天台宗580余ヶ寺の本山として栄えていた寺院。喜多院の山号は今も「星野山」(せいやさん)といい、星野山無量寿寺の山号が名前に残っている。

そしてここに天台宗の談義所が置かれ、ここから多くの天台宗の僧侶を輩出したという。

無量寿寺には北院(喜多院・仏蔵院)と中院(仏地院)の他に南院、その他にも塔頭子院があったとのことだが、明治維新の廃仏毀釈等で廃絶になっており、残っているのは喜多院と中院のみになっている。ずいぶん前から、喜多院・中院の研究課題として取り組んだことがあり、それは

 

1 室町時代から戦国時代にかけて天台宗檀林に日蓮宗僧が入学して修学していたのか

 

これがひとつあります。

もちろん安土桃山時代以降になると、関東、京都周辺に日蓮宗檀林が数多くできて、日蓮宗僧侶は、日蓮宗の檀林に入檀して、そちらで修学している。天台宗檀林に入檀していたかどうかは、日蓮宗の檀林ができる前の、室町時代から戦国時代にかけてのこと。

フリー百科事典・Wikipediaに、天台宗檀林に日蓮宗僧が入って修学していた、ということが出ている。この根拠になっているのは、おそらく富士門流の史書だと思われる。

中でも大石寺門流の史書である「家中抄」「下野阿闍梨聞書」「日有御物語抄」といった史書に、中世の大石寺法主である6世日時、8世日影、9世日有、13世日院が、武州仙波の天台寺院で修学したという文が出てくる。

日蓮正宗では、これらの史書に載っている文を、そのまま、何の検証もせずに史実として自宗の出版物に載せている。

これを史実としているのは、日蓮正宗だけではない。日蓮正宗を「棄教」したと自称する宗教法人無心庵責任役員をはじめ、彼らの取り巻きの者たちも、これについて何の検証もしないで、史実としている。

「本当に室町時代から戦国時代にかけて天台宗檀林に日蓮宗僧が入学して修学していたのか」

ということが、こうして研究課題となったわけです。

 

確かに日蓮宗の宗祖・日蓮は、比叡山延暦寺で長い間修学している他、園城寺などの京都、奈良の仏教大寺院で修学している。

比叡山延暦寺は、天皇の勅許によって建立された大乗戒壇であり、南都六宗の寺院も皆、官立の寺院。奈良、平安、鎌倉時代は、朝廷公認の官立寺院、ないしは戒壇で授戒した僧侶のみが、僧侶として認められていた時代。官立の寺院で得度するわけだから、僧侶の地位はほとんど国家公務員に等しかった。

喜多院2


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■高岡・山町脇・土蔵造り資料館2(蔵造り・土蔵の謎を追って3)

 

□高岡市土蔵造りのまち資料館に掲示されていた明治の高岡大火と焼け残った土蔵造り

 

高岡市指定文化財・旧室崎家住宅が、高岡市土蔵造りのまち資料館として、一般公開されている。室崎家は現当主で九代目となる歴史のある家で、明治初期にこの場所に移ってきたもので、それ以前は、道路を挟んで向かい側の家に住んでいた。室崎家は、昭和20(1945)まで、綿糸や綿織物の卸業を手広く営んでいた、高岡でも屈指の商家。現在は石油商を営んでいる。

室崎氏の転居にあたって、高岡市がこの土蔵造りの民家を資料館として、一般に公開している。

ここも土蔵造りの調査で、入りました。

土蔵造りというのは、家屋の外側の話しであって、家の中は、至って普通の数寄屋造りの民家になっている。この家の土蔵は別にある。つまり民家も土蔵も両方が土蔵造りになっているというわけである。

土蔵造りのひとつのポイントとして、土蔵がある家は、裕福な家、財産家、資産家と言われる家が多かったこと。大切な家宝、財産を厳重に保管するために土蔵を造ったわけである。

土蔵そのものは、昭和3040年代のころまで、北陸地方の各地にあったようである。私も子どもの頃、土蔵造りの蔵をよく見かけた記憶がある。

江戸時代から明治、大正のころを生きた人たちは、「火災が多い」という常識の中で生きていた。そういう中、資産家たちは、自分たちの大事な財産が火災によって灰になってしまっては困るので、江戸時代から明治時代にかけて、土蔵を造っていった。そこで、土蔵の中には、財産が隠されているということで、第二次世界大戦後の混乱期に「土蔵破り」と言われる盗賊が出没した事件が多発していたという。

しかし戦後の高度経済成長の中で、次第に民家の新築が進み、立て替えが進んでいく中で、古い土蔵造りは姿を消していった。高岡市の場合も同様で、土蔵造りの家屋の立て替えが進み、土蔵造りの家が少なくなっていき、残ったところが重要伝統的建造物群保存地区になったのだという。

この資料館には、女性の係員が一人いて、私の質問に、わりと親切に回答してくれました。

「土蔵造りに関する本か資料はありませんか」と係員に質問すると

「いやー、そういうのは、ないですねえ」との答え。

資料館の中の明治の高岡大火や土蔵造りの説明が書いてある写真パネルを、「写真に撮ってもいいですか」と尋ねると、「あー、どーぞどーぞ」との答え。

そこで私が写真撮影していると、この女性係員が、奥の方から高岡市教育委員会が発行した高岡の土蔵造りに関する資料を一冊もってきて、手渡してくれました。「なんだ、ちゃんと資料があるじゃないですか」と言うと、「あまり人に見せていない資料」なのだとか。

土蔵造り資料館3


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■高岡・山町脇・土蔵造り資料館1(蔵造り・土蔵の謎を追って2)

 

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■川越・蔵造り町並み・蔵造り資料館1(蔵造り・土蔵の謎を追って1)

 

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■伊東葛見神社1・「戒壇大本尊」偽作の楠木調査で訪問した伊東・葛見神社1

 

□ここでも神木として祀られていた静岡県伊東市・葛見神社の大楠木

 

静岡県伊東市にある葛見神社にも、国の天然記念物に指定されている大楠の巨木がある、ということで調査に行きました。

この葛見神社は、JR伊東駅からは、かなり離れた所にあり、だいぶ歩いて行った記憶があります。しかしJR伊東駅前の観光案内所の係の女性が、とても親切な方で、地図に赤鉛筆で印を付けて、歩くルートまで懇切丁寧に教えてくれたため、歩いたものの、迷わずに葛見神社まで、たどり着くことが出来ました。

伊東市の中心部からは、少し離れた所にあり、あまり目立たない場所にありました。

国の天然記念物に指定されている大楠の巨木は、神社本殿に向かって左側にありました。

ここの葛見神社の大楠も、熱海市の来宮神社の大楠ととてもよく似た巨木でした。

 

まず、ものすごく太い幹で、楠木が上に広がるように繁殖している。これは自生している楠木の巨木の特徴的なものです。そして、この葛見神社の大楠も、熱海市の来宮神社の大楠と同様に、太いしめ縄が張られ、巨木の根の部分には、ミニ社が造られていました。

葛見神社楠木も、「神木」になっているということです。御神体そのものではないですけども、神木として地元の人たちから崇められているようです。

 

それと、ここ葛見神社の大楠や熱海・来宮神社の大楠は、見るだけで明らかにわかるくらい、幹の太さが、身延山久遠寺の祖師堂前にある楠木と比べたら、ぜんぜん太いですね。これは比べものにならないくらいです。

まあ身延山久遠寺と、東伊豆の熱海・伊東とは、比べものにならないくらい東伊豆のほうが温暖です。葛見神社の大楠や熱海・来宮神社の大楠の幹の太さは、どちらかというと西日本、九州地方に自生している大楠の巨木に似ています。それだけ、東伊豆地方の海岸に近い所は、それだけ気候が温暖だということなのだと思います。

こういうことを書くと、日蓮正宗法華講員たちが、ここの楠木に飛びついて来そうですね。

しかし残念ながら、日蓮一門に、東伊豆の楠木の大木を身延山まで運搬させる経済力・財力も労力もなかった。東伊豆から身延山に楠木を運搬したなどという記録はひとつも残っていない。

そもそも神を崇敬していた日蓮が、神木になっている楠木の大木を切り倒すはずがないのである。

葛見大楠1 

 

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■熱海来宮神社3・「戒壇大本尊」偽作の楠木調査で訪問した熱海・来宮神社3

 

□楠が神木になっていることが大石寺の「戒壇の大本尊」が後世の偽作である証拠だ

 

来宮神社の楠木は、「神木」になっているわけですが、この「神木」とは、神体としての木や神聖視される木、であると同時に、伐採をしないとされる木ということである。

「神木」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%9C%A8

「神木(しんぼく)とは、古神道における神籬(ひもろぎ)としての木や森をさし、神体のこと。また依り代・神域・結界の意味も同時に内包する木々。一般的に神社神道の神社、神宮の境内にある神体としての木や神聖視される木、その周りを囲む鎮守の森や、伐採をしないとされる木を指す。

この他、神社の所有地、民間の所有地にあって民間伝承などの特別な謂われのある木を指す。」

 

このようにはっきり書いてあります。

この来宮神社の楠木も、神木であり、古くから伐採を制止してきた木なのである。

このことは、境内に建てられている来宮神社の建て札にはっきりと書いてあります。

「大樟(大楠)

天然記念物  文部大臣指定 昭和八年二月二十八日

樹齢二千年 周囲二〇米 高さ二〇米

…其の頃、此の社の森には七本の楠や椎の木、細葉の大木、羊朶類等が自生していて昼なを暗く大地を覆っていました。ところが今から約百二十余年前の嘉永年間と云ふ年に熱海村に大網事件と云ふ(流刑者まで出した)全村挙げての大事件が勃発し其の訴訟費など捻出するため、五本の大楠は伐られてしまったのです。現在残されている其の中の一本の此の大楠をも伐ろうとして樵夫が大鋸を幹に当てようとしたところ、忽然として白髪の老人が現れ、両手を広げて此れを遮るような姿になると、忽ち大鋸は手元から音をたてて二つに折れ、同時に白髪の老人の姿は消えてしまったのです。此れは神のお諭しであるとして村人等は大楠を伐る事を中止してしまいました。此の木が即ち現在ある御神木であります」

来宮大楠2 

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■熱海来宮神社2・「戒壇大本尊」偽作の楠木調査で訪問した熱海・来宮神社2

 

□神々を敬っていた日蓮が神木になっている楠木を伐採するはずが絶対にない

 

来宮神社に来ると、まず目につくのは、やはりこの神社にある大楠木に関する看板であり、どれも「国指定天然記念物」「樹齢二千年」というふうに書いてあります。

ここはもともと7本の大楠木があったところが5本を伐採したので、残っているのは2本ということ。

神社の入り口から入っていくと、まずは第二大楠があります。太い楠木にはしめ縄が張られ、ミニ鳥居、ミニ社が造られていて、完全に神木扱いになっています。

この第二大楠のさらに奥にあるのが第一大楠で、こちらのほうが第二大楠よりも幹が太いし、高さも高い。枝分かれしている部分を含めても、楠の大きさも第二大楠よりも大きい。もちろん第一大楠も「しめ縄」が張り巡らされ、ミニ鳥居、ミニ社が造られていて、こちらも神木になっています。

私がここに来た日も、たくさんの人が訪れていて、第一楠木の前で、合掌・礼拝している人がいました。ここ来宮神社には御神体があるのでしょうが、こういうのを見ていると、ここの実質的な御神体は、二本の大楠木であるような気がします。

さて神社境内には、大楠木に関する案内板が立っています。

「日本最樹齢の樟 国指定天然記念物

大 樟

文部大臣指定 昭和八年二月二十八日

樹齢 二千年以上 周囲 二十三.九米 高さ 二十六米以上

御由緒

古代においては、此の樟 神の御霊をお招きしてお祀りしておりました。現在は当社の御神木となっております」

来宮大楠3

この大楠木が、この神社の御神木であると、はっきり書いてあります。

 

「神木」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%9C%A8

「神木(しんぼく)とは、古神道における神籬(ひもろぎ)としての木や森をさし、神体のこと。また依り代・神域・結界の意味も同時に内包する木々。一般的に神社神道の神社、神宮の境内にある神体としての木や神聖視される木、その周りを囲む鎮守の森や、伐採をしないとされる木を指す」

 

ここにはっきり書いてあります。神木とは、神体としての木や神聖視される木、その周りを囲む鎮守の森や、伐採をしないとされる木のことである。

 

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■熱海来宮神社1・「戒壇大本尊」偽作の楠木調査で訪問した熱海・来宮神社

 

大石寺の「戒壇の大本尊」の楠木の調査で、いろんなところに実地調査に行きましたが、その中で静岡県東伊豆地方の楠木調査に行ったときのことをここに紹介します。

静岡県東伊豆地方には、樹齢千年を超える大楠木がありますが、「鎌倉・江戸小氷期」といわれる時代においても、ここに楠木が自生していたと思われること。

そして身延山から最も近いところにある楠木自生地域だと考えられる。というわけで、ここに楠木調査に行っています。

来宮神社というのは、静岡県熱海市のJR伊東線・来宮駅から徒歩で78分くらいのところにある神社です。熱海駅からタクシーで行っても、ものの5分もかからないくらいで着いてしまいます。

来宮神社のすぐ前には、JR東海道線・伊東線が走っていて、さらに東海道新幹線の高架橋もあります。来宮神社の入り口は、東海道新幹線の高架橋の、すぐ真下ぐらいの所に位置しています。

創建時期は定かではないが、社伝によると和銅3年(710年)、熱海湾で網に木の根が掛かる事が3度重なり、不思議に思った漁師があらためると神像のようであったので、近くの松の下に祀って、持っていた麦こがしを供えたところ、その夜の夢に五十猛命が現れ、潮騒が耳障りであるとの神託があり、現在地に遷祀したといい、木の根を神体としたところから「木の宮」と称えたという。

坂上田村麻呂が戦勝を祈願し、当社の分霊を東北地方の各地に鎮座させたという伝承もある。

来宮神社には推定樹齢2000年以上と伝承され、国の天然記念物に指定されている大楠木が二本ある。もちろん、日蓮正宗大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊が後世の偽作である証拠の一つが、楠であるわけで、国の特別天然記念物、天然記念物に指定されている楠の中では、この静岡県熱海市の来宮神社の大クスと、静岡県伊東市の葛見神社の大クスが静岡県にあり、これが最も身延山に近い。

日蓮正宗カルト法華講員たちと論争していると、全く関係ないものまで、ありとあらゆるものを大石寺の教義や本尊に、無理矢理にでも結びつけようとします。

「鎌倉時代の身延山には楠木がない」というと、「静岡県にある」などと言う。

「鎌倉時代から江戸時代にかけて、地球は『鎌倉・江戸小氷期』と呼ばれる寒冷期だったので、身延山には楠木がなかった」と言うと、「1本もないはずはない。いくら小氷期でも身延山に1本ぐらいは楠木があったはずだ」と言い張って、あるはずがない「たった1本の楠木」に無理矢理にでもしがみつこうとする。

この来宮神社の大楠木は、推定樹齢2000年ということだから、太平洋に面して比較的温暖な熱海・東伊豆地方にあって、「鎌倉江戸・小氷期」と呼ばれる寒冷期の時代もこの熱海で生きていたと思われるが、しかし楠木が静岡県にあると言っても、熱海や伊東にある大楠木を鎌倉時代に、日蓮が住んでいた身延山まで運んだ信者は一人もおらず、そんな記録も全く残っていない。

来宮大楠10


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■金沢市安江金箔工芸館4・日有が偽作した「戒壇の大本尊」金箔加工の調査4

 

□金沢市立安江金箔工芸館・学芸員との単独会見記3

 

学芸員「もし大石寺の板本尊が、日蓮が造立した板本尊ではないとしたら、誰が造立したのですか。板本尊を造立した人物とは??。その人物は、金を入手できる人物だったのですか。」

○「います。日蓮正宗大石寺の『戒壇の大本尊』なる板本尊を造立した人物とは、大石寺9世法主の日有という人物です。この日有が大石寺の法主に登座して間もない頃、大石寺の北方15キロぐらいの所に金鉱山が発見されています。場所は、山梨県と静岡県の県境から山梨県側に少し入った所。毛無山の奥地にある湯之奥金山という名前の金山です。

学芸員「そうですか」

○「大石寺9世日有が法主に登座して間もなくの15世紀前半のころ、湯之奥金山で金の生産がはじまっています。このころは甲斐国の領主・武田氏も、駿河国の領主・今川氏も、湯之奥金山の存在を知らず、金山衆(かなやましゅう)と呼ばれる人たちが、金の生産を行っていました。その金山衆たちは、日蓮宗系の法華信者、大石寺や北山本門寺の富士門流の信者が大半だったことが、現地の学術調査で判明しています。金山衆が大石寺9世日有に金を供養したか、あるいは、大石寺9世日有をはじめとする大石寺僧が自分たちで金を堀に行くことだって可能だったわけです。」

学芸員「なるほど。そうですね」

○「大石寺9世日有は、甲州(甲斐の国・山梨県)・湯之奥金山から産出した金を入手していた日蓮正宗大石寺九世法主・日有は、その金を足掛かりにして、大きな経済力を持つにいたった。

大石寺9世日有は、この金による経済力を使って、京都天奏を行い、黒漆塗りに金箔加工を施した板本尊「戒壇の大本尊」の偽作や「紫宸殿の本尊」の模刻本尊などを造立し、大石寺に御宝蔵や客殿といった伽藍を建立するなど、大石寺の堂宇を整備し、日蓮門下一門・富士門流の本山寺院としての主導権を握ろうとした。

そして金による経済力を以て行った日有の京都天奏が、 「戒壇の大本尊」偽作と密接に結びついているわけです。京都天奏によって日有は、比叡山延暦寺、園城寺、建仁寺等々の京都の大伽藍を備えた大寺院を目の当たりにし、客殿、宝蔵、不開門、勅使門といった伽藍、秘仏という化儀、本山・末寺の僧侶教団、戒壇論という教義を輸入し、これが「戒壇の大本尊」偽作に大きな影響を与えることになった。したがって、「戒壇の大本尊」偽作の最大のキーワードは、湯之奥金山の金による「経済力」「財力」ということになります。

それによって「戒壇の大本尊」なる名前の黒漆塗りに金箔加工を施した豪華絢爛な板本尊を偽作することに成功した。この金を元手にした経済力を使って、楠木を買い入れ、漆を買い入れ、門下の信者に漆加工、金箔加工を行なわせて、板本尊を造立したと考えられるわけです。

つまり日蓮は経済力がなかったが故に、「戒壇の大本尊」なる板本尊を造立できなかった。経済力がなかったが故に、楠木も漆も金箔も入手できなかったし、漆加工、金箔加工もできなかった。

しかし日蓮正宗大石寺9世法主日有は、莫大な経済力を有していたが故に、「戒壇の大本尊」偽作ができたというわけです。ポイントは、経済力です」

湯之奥線2 

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■金沢市安江金箔工芸館3・日有が偽作した「戒壇の大本尊」金箔加工の調査3

 

□金沢市立安江金箔工芸館・学芸員との単独会見記2

 

私と学芸員との話は、「日蓮は金箔加工が自力でできなかったのか」という話題から、はじまりました。

学芸員「日蓮が自分で金を手に入れて、その板本尊に金箔加工をしたということはあり得ないのですか」

○「それは絶対にあり得ません。その第一の証拠が、日蓮自らが書き記して今日に残っている遺文(御書)です。その中には、身延入山後、日蓮が極貧の生活をしていたことが書き記されています。

「飢渇申すばかりなし。米一合も売らず。餓死しぬべし。此の御房たちもみなかへして、ただ一人候べし」(富木殿御書・御書全集p730・日蓮53才・文永11517)と述べている。

つまり「飢餓状態はひどいものだ。米一合も売ってもらえない。餓死するかもしれない。ここにいる僧たちも養うことができないので、皆、里へ帰した。今はただ一人この山にいる」と言っている。

日蓮54才の時の「乙御前御消息」(御書全集p898899・建治元年84)では

「日蓮を不便(ふびん)と申しぬる弟子どもをも、たすけがたからん事こそ、なげかしくは覚え候へ」

日蓮55才の時の「南条殿御返事」(御書全集p974・建治2年閏324)では

「各々も不便(ふびん)とは思へども、助けがたくやあらんずらん」と述べている。

さらに日蓮57才の時に書いた「兵衛志殿御返事」(弘安元年1129)では、

「雪かたくなる事金剛のごとし。今に消ゆる事なし。昼も夜も寒く冷たく候事、法にすぎて候。酒は凍りて石のごとし。油は金に似たり。鍋・釜に小水あれば凍りて割れ、寒いよいよ重なり候へば、着物うすく、食乏しくして、さしいづるものもなし」・・・・ (御書全集p1294)

「坊は半作にて、風、雪たまらず、敷物はなし。木はさしいづるものもなければ火もたかず。古き垢づきなんどして候、小袖一つ着たるものは、其の身の色、紅蓮・大紅蓮のごとし。声は波々大波々地獄にことならず。手足寒じて切れさけ人死ぬことかぎりなし」 (御書全集p1295)

「去年の十二月の三十日より、はらのけ(下痢)の候ひしが、春夏やむことなし。秋すぎて十月のころ大事になりて候ひしが、少しく平癒つかまつりて候へども、ややもすれば起こり候に・・・」

「此の二つの小袖なくば、今年は凍死に候ひなん」・・・・  (御書全集p1295)

 

「富木殿御書」「乙御前御消息」「兵衛志殿御返事」「上野殿御返事」…これらの日蓮の遺文(御書)によれば、米一合もない。餓死するかもしれない。僧たちも養うことができないので、皆、里に送り返した。 食は乏しく信者から供養もない。下痢が起こっている。小袖がなかったら、凍死していたかもしれない。・・・ まさに日蓮は飢え死寸前の状態だったということです。 そのような人物に金を入手できる経済力はなかったことが明らか。金を入手していたら、こんな極貧・飢え死寸前の生活をしているはずがありません」

日蓮・草庵跡5 

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■金沢市安江金箔工芸館2・日有が偽作した「戒壇の大本尊」金箔加工の調査2

 

□金沢市立安江金箔工芸館・学芸員との単独会見に成功

 

金沢市立安江金箔工芸館に入って行くと、大まかな金箔工芸の歴史や金箔工芸製造過程の展示が多く、私が見学していると、女性係員の人が熱心にいろいろと説明してくれました。

金沢市は、日本の金箔の90%以上生産している所ということで、金箔の生産の説明については、特に熱が入っていました。

ただし私がここで聞きたかったのは、今の金沢の金箔生産のことではなく、日本の鎌倉時代、室町時代の金箔加工について。これを質問すると

「そーですねえー。こういう専門的なことは館長か、学芸員に聞いてみないと、…」

との返事。というわけで、安江金箔工芸館の学芸員が奥から出てきて、私と単独会見することになった。

学芸員(がくげいいん)とは、日本の博物館法に定められた、博物館(美術館・科学館・動物園・植物園なども含む)における専門的職員および、その職に就くための国家資格のこと。

欧米の博物館・図書館・公文書館では職種としてキュレーターが置かれているが、日本ではキュレーターを学芸員と訳している。

学芸員の職については、博物館法(昭和26年法律第285号)の第4条第3項に定めがあり、「博物館に、専門的職員として学芸員を置く」とされている。また、学芸員補という職もあり、学芸員補は、学芸員の職務を助けるために博物館におかれる職である(博物館法第4条第5項・第6項)。なお、ここでいう「博物館」とは、歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を扱う機関のことであり、「博物館」の名称を持つ施設のほかにも、美術館なども含まれている。

金沢市立安江金箔工芸館も博物館法の博物館ということで、学芸員がいた。その日は、館長が不在ということで、学芸員が私の質問に対する応対に出たわけである。

しかしこの学芸員は、当初、私の訪問目的をあまりよく理解していなかったようで、「金箔」「金箔加工」の研究と言うからには、安江金箔工芸館の展示を見に来たと思い込んだようであった。

確かに展示を見学しに来たことは事実だが、実際に来てみると、ここの展示は、地元金沢の金箔加工や創立者・安江氏の所蔵品が中心であり、いささか拍子抜けしたことも事実。

もちろん、金沢の金箔中心、安江氏の所蔵品等の展示は、とても貴重なものであり、すばらしい展示であることは事実。

安江金箔工芸館の説明によれば、今の日本の金箔は金沢産が99%を占めているということだから、ここの安江金箔工芸館の展示が、金沢の金箔中心の展示になるというのは、致し方ないことなのかもしれない。

安江金箔工芸館1 

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■金沢市安江金箔工芸館1・日有が偽作した「戒壇の大本尊」金箔加工の調査1

 

□金箔に関する工芸館としては全国でも珍しい博物館・安江金箔工芸館

 

□大石寺の『戒壇大本尊』は9世日有の偽作だ

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_161878.html

□戒壇大本尊は9世日有の偽作だ001080

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_628700.html

□戒壇大本尊は9世日有の偽作だ081150

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_628705.html

□戒壇大本尊は9世日有の偽作だ151200

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_628708.html

日蓮正宗大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊の偽作問題を掘り下げて研究していく上において、「金箔加工」「金」は、研究の大きなテーマである。それは、「戒壇の大御本尊」なる板本尊は漆塗りの上に、文字の部分が金箔加工が施されているからである。

鎌倉時代の身延山中で、日蓮は極貧の生活をしていた。これは日蓮の遺文に明らかである。

「飢渇申すばかりなし。米一合も売らず。餓死しぬべし。此の御房たちもみなかへして、ただ一人候べし」(『富木殿御書』・御書全集p730・日蓮53才・文永11517)

日蓮54才の時の「乙御前御消息」(御書全集p898899・建治元年84)では

「日蓮を不便(ふびん)と申しぬる弟子どもをも、たすけがたからん事こそ、なげかしくは覚え候へ」

日蓮57才の時に書いた「兵衛志殿御返事」(弘安元年1129)では

「雪かたくなる事金剛のごとし。今に消ゆる事なし。昼も夜も寒く冷たく候事、法にすぎて候。酒は凍りて石のごとし。油は金に似たり。鍋・釜に小水あれば凍りて割れ、寒いよいよ重なり候へば、着物うすく、食乏しくして、さしいづるものもなし」・・・・(御書全集p1294)

「坊は半作にて、風、雪たまらず、敷物はなし。木はさしいづるものもなければ火もたかず。古き垢づきなんどして候、小袖一つ着たるものは、其の身の色、紅蓮・大紅蓮のごとし。声は波々大波々地獄にことならず。手足寒じて切れさけ人死ぬことかぎりなし」 (御書全集p1295)

「去年の十二月の三十日より、はらのけ(下痢)の候ひしが、春夏やむことなし。秋すぎて十月のころ大事になりて候ひしが、少しく平癒つかまつりて候へども、ややもすれば起こり候に・・・」

「此の二つの小袖なくば、今年は凍死に候ひなん」・・・・ (御書全集p1295)

日蓮58才の時には「上野殿御返事」(弘安21227)の中で次のように述べている。

「・・・五尺の雪ふりて本よりも通わぬ山道ふさがり、訪いくる人もなし。衣も薄くて寒ふせぎがたし。食たへて命すでに終はりなんとす・・・」(御書全集p1437)

日蓮・草庵跡5 

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■輪島漆器会館1・大石寺9世日有が偽作した「戒壇の大本尊」なる板本尊漆塗りの調査4

 

□漆の基礎知識。漆塗りの工程、漆に関するさまざまな展示を行っている輪島漆器会館

 

石川県輪島漆芸美術館での四柳嘉章館長との単独会見を終えた私は、徒歩で輪島漆器会館に向かった。

輪島漆器会館とは、輪島漆器商工業協同組合が経営している会館で、一階が輪島漆器商工業協同組合直営の漆器展示販売所。ここは、輪島市内約100の漆器専門店が共同出店している販売所で、輪島塗のありとあらゆる漆器が販売されている。

輪島塗とは、輪島漆器会館の見解に依れば、次のようになる。

「輪島塗の起源については諸説ありますが、鎌倉時代後期から、室町時代の初期(西暦1400年頃)と推定されています。その考証として、市内の重蔵神社本殿にある応永4年(西暦1397年)のものとされる内障の扉には、朱塗りの形跡が見られ、また文明8年(西暦1476年)建立の重蔵権現講堂の棟札には、塗師三郎次郎定吉の名が記されています。その他、市内東山の養覚寺より収集された黒塗八隅膳と椀一組は、稚拙な製作技術からみて鎌倉時代後期から室町時代のものと推定されています。さらに近郷の能登町柳田字合鹿や当目、および北河内においても、その当時から漆器づくりがなされていたと伝えられています。

現在の輪島塗に近いものができるようになったのは、桃山時代後期から江戸時代初期の頃と考えられていますが、それは珠洲市飯田町の乗光寺より収集した四つ椀揃い八隅膳からの推察であります。…

寛文年間(16611673)に至って、当時輪島に発見された珪藻土の一種を焼成粉末にして「地の粉」をつくり、漆に混入し、塗り研ぎを何度も繰り返して堅牢な下地を作る工法がされました。これが本堅地法で「布着せ」とともに今日の伝統工芸輪島塗の基本的工法となっています。

輪島塗に文様を施すようになったのは、江戸時代中期以降で、それまでは朱漆で絵付けされたものもありましたが、ほとんどは無地物でした。享保年間(17161736)頃には、輪島独特の華やかな沈金技法が考案され、蒔絵は文政年間(18041829)頃、会津から来た安吉夫婦によって会津蒔絵が伝えられたのをはじめ、京、加賀からの技術技法の導入や、蒔絵師の移住などによって次第に改善され普及し、華麗さを加えました。

輪島塗の販売が全国各地に広まったのは、江戸時代中期からで、とくに文化文政年間(18041829)頃には品種も多様化し、現代にも劣らぬ優秀な技術の職人があらわれ、格調の高い名品がつくられて、今日まで遺されているものがあります。

(輪島漆器会館の「輪島塗のあらまし」より)

漆器会館1 

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■輪島漆芸美術館3・大石寺9世日有が偽作した「戒壇の大本尊」なる板本尊漆塗りの調査3

 

□石川県輪島漆芸美術館の館長室にて四柳嘉章館長との単独会見2

 

○「日蓮正宗大石寺の『戒壇の大本尊』なる板本尊は、大きさが縦は約143センチ、横は約65センチ。だいたい畳一畳ぐらいの大きさです。畳一畳ぐらいの大きさの板に漆を塗るとなると、どれくらいの量の漆が必要になりますか」

四柳氏「だいたい2号から3号ぐらいでしょう。ただし、漆というのは、1回だけ塗って終わりなのではなく、通常は三回塗ります。まず1回目を下地塗りといい、2回目を中塗り。3回目を上塗りといいます。漆というのは、塗ると木の中に染みこむのです。そのための下地塗りが一回目。中塗りと上塗りが仕上げです。だから、3回塗るという工程から考えると、2号から3号よりももっと多くなります。おそらく1升以上は必要になるでしょう。」

○「鎌倉時代、日本における漆の産地、漆工芸が行われていた所を教えていただけませんか。山梨県の身延山周辺で、漆工芸や漆の生産は行われていたのでしょうか」

四柳氏「中世、鎌倉時代になると、日本全国、かなり広範囲に漆の生産が行われていました。漆製品・漆工芸品が全国各地の遺跡から出土しています。現在、漆工芸が行われていない地域でも、中世の昔は漆生産や漆工芸が行われていた可能性はあります」

○「鎌倉時代、ないしは室町時代、漆職人はどのあたりにいたのでしょうか」

四柳氏「京都、奈良、鎌倉にはいましたね。それから大きな寺院の周辺。大きな漆の需要がある所の周辺に、漆職人はいましたね」

○「そうすると、鎌倉時代、身延山の山中で、日蓮一門が漆を生産し、畳一畳大の板本尊に漆を塗る漆加工を行うことは可能だったわけですか」

四柳氏「素人が漆を塗ったかどうかということになると、問題があります。素人に漆を扱うことは、とてもむずかしいことです。もし、畳一畳大の板本尊に漆を塗ったとすれば、それは日蓮一門が自分たちで行ったのではなく、金銭を支払って漆を買い、工賃を支払って漆職人を雇って、漆塗りを完成させたと見るほうが現実的でしょう」

 

仮に鎌倉時代の身延周辺で、漆生産が行われ、漆工芸が行われていたとしても、日蓮一門の手で漆を扱うのは非常にむずかしく、外部から漆職人を雇って漆加工を完成させたと考えられるというのである。つまり日蓮正宗大石寺の「戒壇の大本尊」なる板本尊と漆の関係を解明して行くに当たって、四柳嘉章館長の見解に依れば、仮に鎌倉時代に身延周辺で漆生産や漆工芸が行われていたとしても、日蓮一門の手によって「戒壇の大本尊」なる板本尊に漆塗りが行われたとは非常に考えにくいということ。なぜなら、素人には漆の取り扱いそのものが非常にむずかしいため、「戒壇の大本尊」なる板本尊に漆塗りは、日蓮一門が自分たちで行ったというよりも、金銭を支払って漆を買い、工賃を支払って漆職人を雇って漆塗りを仕上げたと考えたほうが、非常に現実性が高いというのである。

漆芸美1 

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