一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

2013年10月

■京都・鹿苑寺金閣4(天皇になろうとした男・足利義満と金閣2)

 

□井沢元彦氏が「逆説の日本史」で書く『天皇になろうとした男』足利義満と鹿苑寺金閣2

 

鹿苑寺金閣は、日本国王・足利義満の宮殿だったという井沢元彦氏。そうなると、金閣が建立されることになった根源は、足利義満が「源道義」の名前で明国皇帝から「日本国王」に封じられたことになる。ではなぜ、足利義満は、明国の冊封体制の中に入る屈辱外交で明との国交を開き、明国皇帝から「日本国王」に封じられて日明貿易をはじめたのか。この淵源について、井沢元彦氏は、南北朝の紛争で、南朝の皇子で九州を一時征服した懐良親王が明国と結んで、明国の冊封体制の中に入る屈辱外交を行ったからだとする。「逆説の日本史」から要旨を引用してみる。

-----「日本は、遣唐使の廃止(894)以降、中国とは貿易はするが正式な国交は持たなかった。貿易ならば中国の宮廷を通さなくても民間商人を相手にすれば可能だからだ。日本人の『実力者』にとって、中国と正式な国交に踏み切るのはタブーであった。なぜタブーであったかは、中国は外国との対等な関係を認めないから、国交を開きたければ卑弥呼のように、皇帝に貢ぎ物を奉り『あなた様の家来でございます』と言わねばならない。この『屈辱的』な外交を、久しぶりに展開したのが、南朝の皇子で九州を一時征服した懐良親王。国が二つに割れた場合、権力者が絶対にしてはならないことが一つある。それは外国勢力と結ぶことである。言うまでもなく、それをやれば外国の介入を招き、最悪の場合、領土が奪われることになる。イギリスが、自分の国よりはるかに大きなインドを征服したのも、このやり方であり、こういう措置が不幸を招いた例は数限りない。いかに苦し紛れとはいえ、足利幕府憎しとはいえ、外国に『臣従』を誓ってはいけない。こういう形をとれば、いずれ『日本国王からの要請があった』という口実で、中国は日本に軍を派遣できる。しかし、足利義満の最初の外交課題は、『日本国王』を懐良親王から奪うことであった。

足利義満は、なぜ懐良親王の持つ『日本国王』の称号を狙ったのか。一つは、南朝が明と結んだら大変なことになるという危機感である。明は超大国である。その超大国が懐良の要請を聞き、日本に攻めてきたら、まさに元寇の二の舞になってしまう。しかしそれだけではない。それだけなら、『日本国王』懐良だけを討ってしまえばそれで済む。足利義満が『日本国王』の座を狙った、もうひとつの目的は、天皇家を乗っ取ってしまうためである------「逆説の日本史」7巻主旨)

足利義満は、『日本国王』を懐良親王から奪うため、天皇家を乗っ取ってしまうために、まず南朝と北朝の二つに分かれていたのを、合一させる「南北朝の合一」からはじめた。なぜ「南北朝の合一」からはじめなければならなかったのか。それは南朝が持っていた「三種の神器」「錦の御旗」を北朝に取り返させるためだと、井沢元彦氏は「逆説の日本史」で書いている。

逆説の日本史7 

(井沢元彦氏の著書『逆説の日本史』)

 

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■京都・鹿苑寺金閣3(天皇になろうとした男・足利義満と金閣1)

 

□井沢元彦氏が「逆説の日本史」で書く『天皇になろうとした男』足利義満と鹿苑寺金閣1

 

今の鹿苑寺舎利殿(金閣)は、1955(昭和30)年に再建された堂宇だから、再建後、まだ60年弱。室町時代の創建当初のころの金箔も、こんな感じだったのだろうかと考えてしまう。フリー百科事典・Wikipedia「鹿苑寺」で、金閣焼失前の白黒写真を見たが、堂宇も金箔も、永年の風雪でかなり色あせて見える。金沢市立安江金箔工芸館で購入した書籍によれば、再建金閣に張ってある金箔は、金沢産の金箔であるとのこと。さてこの金閣再建費用は、どれくらいかかったのか。

「金についての豆知識」によれば、こんなことが書いてある。

「金閣寺の総費用額…

…この金閣寺は足利義満によって1397年に建立されましたが、当時の建物は1950年に火災で炎上、現在の建物は昭和30年に再建されたものです。費用は30年当時のお金で7億4000万円。外壁に張った金の量は約20キログラムとの事です。これを1グラム、1000円で換算すると、2000万円となります。現在使われている金箔は通常の金箔より厚くなっています。金箔の厚さは通常、0.1ミクロンですが現在の金閣寺は0.45~0.55ミクロンと通常の金箔の約5倍の厚さになっています。…」「金についての豆知識」

http://www.kaitoru.jp/blog/%E9%87%91%E9%96%A3%E5%AF%BA%E3%81%AE%E7%B7%8F%E8%B2%BB%E7%94%A8%E9%A1%8D/

この金閣は、室町幕府三代将軍・足利義満が建立した堂宇だが、井沢元彦氏が著書「逆説の日本史」の中で、注目すべき独自説を唱えている。それは天皇家ではないのに「天皇になろうとした人物」という説である。井沢元彦氏は、かく書いている。井沢元彦氏の文はとても長いので、文の要点を当方でまとめた。

「足利義満は、日本史の一大特徴である『天皇』を語るのに欠かせない。つまり『天皇になろうとした将軍』だからなのである。もちろんこれは歴史上唯一人だ。それは天皇家の出身でないにもかかわらず、天皇になろうとした、ということである。人によって弓削道鏡を思い浮かべるかもしれないが、あれはそうではない。道鏡が、というより称徳女帝が道鏡をそうさせたかったのは、むしろ『皇帝』なのである。歴代将軍つまり幕府(武家政権)の主に限ってみても、天皇になろうとした男など、足利義満の他には一人もいない。結論を言ってしまえば、義満はとうとう天皇にはなれなかった。言ってみれば『あすなろ天皇』である」---「逆説の日本史」7p236237)

「平将門は確かに新皇(新しい天皇)になろうとした。だが、将門は坂東(関東)八カ国の独立が目的であって、いわば西の天皇に対して東の天皇になろうとしたのだ。また、将門には、自分が桓武天皇五世の孫という誇りもあった。…」---「逆説の日本史」7p255)

逆説の日本史6

(井沢元彦氏の著書『逆説の日本史』)

 

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■京都・慈照寺銀閣1(全く銀箔が貼られていない銀閣)

 

□京都・東山で京都駅からのアクセスがかなり不便な所にある足利義政の山荘・慈照寺銀閣

 

慈照寺とは、室町幕府八代将軍・足利義政が鹿苑寺舎利殿(金閣)を模して造営した観音殿・銀閣、観音殿を含めた寺院全体は銀閣寺として知られる寺院で、鹿苑寺と同じく臨済宗相国寺派の寺院。ここも「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

ここは、室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建築というふうに言われるように、京都・洛東の東山になるが、同じ東山でも知恩院、南禅寺、平安神宮、祇園がある東山三条からは、かなり離れている。ここはJRや地下鉄の最寄り駅はかなり遠く、京都駅からのアクセスがなかなか不便。ここへは、修学旅行で来ているほか、自分で旅費を支弁した個人旅行で最初に来たのは、1988(昭和63)年に四国旅行に行く途中。1993(平成5)年の全国旅行でも慈照寺に来ている。これらの個人旅行は自家用車で来たのでしたが、寺跡調査で2008年に慈照寺に来たときは、京都駅から銀閣寺前行きのバスに乗った。しかしこのバスは、京都駅からの所要時間が長い上に、バスの中が大混雑で、始発から終点まで、ずーっと立ち席。かなりきつかったですね。さらにその上に、銀閣寺前バス停で下車してから、慈照寺総門までの距離が長い。しかも、ゆるい登り坂になっているので、京都駅から慈照寺に着いた頃は、かなり体力的に、へばってしまった。バスでここに行くのは、かなりきついものがありますね。

バス停から総門につづく参道脇には、料理店、そば店、露天風の店、みあげもの店、定食店などが軒を連ねている。フランクフルトを売っている店もありましたが、表示は「ウインナー」。京都では、フランクフルトのことを、ウインナーと言うらしい。そういえば、私の子どもの頃、私の母親が「ウインナー」という言葉を使っていた様な気がする。2008年に慈照寺に来たときは、銀閣は修復工事中であった。

通称・銀閣とよばれる堂宇・観音殿は、鹿苑寺金閣と比べたら、実にこじんまりした山荘に見える。一見して、中世の上流階級の山荘か、別荘に見える。名前は「銀閣」と言うが、ここに金箔や銀箔が貼ってあるわけではない。観音殿(銀閣)の後方は、山肌になっていて、月待山の山肌には、展望所があり、山の上から慈照寺銀閣を見下ろすこともできる。慈照寺にも日本庭園が広がっているが、こちらの日本庭園は、鹿苑寺の日本庭園と比べたら、こちらは狭く感じる。

慈照寺銀閣2 













(慈照寺観音殿・銀閣)

慈照寺銀閣4 











(慈照寺総門)

 

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■京都・鹿苑寺金閣2(金閣の絶景・外国人観光客)

 

□人工的な景観美としてはこれ以上のものは他にないと思える鹿苑寺金閣の絶景

 

鹿苑寺金閣の歴史について、鹿苑寺が発行した公式パンフレットによれば、次のようにある。

「お釈迦様のお骨をまつった舎利殿『金閣』が特に有名なため、金閣寺とよばれていますが、正しくは『鹿苑寺』と言い、臨済宗相国寺派の禅寺です。(1994年、世界文化遺産に登録されました。)

この地は、鎌倉時代に西園寺公経の別荘・北山第が在りましたが、足利三代将軍義満が大変気に入り、応永4(1397)に西園寺家から譲り受け、山荘北山殿を造りました。金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世に現したと言われ、後小松天皇(一休禅師の父)をお招きしたり、又、中国(明国)との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した所で、この時代の文化を特に北山文化と言います。義満の死後、遺言通り夢窓国師を開山(初代の住職)とし、義満の法号・鹿苑院殿から二字をとり、鹿苑寺と名付けられました。」(鹿苑寺が発行した公式パンフレット)

舎利殿(金閣)についての鹿苑寺の見解は、以下の通りである。

「二層と三層は、漆の上から純金の箔が張ってあり、屋根は椹(さわら)の薄い板を何枚も重ねたこけら葺で、上には中国のめでたい鳥といわれる鳳凰が輝いています。一層は寝殿造で法水院、二層は武家造で潮音洞とよばれています。三層は、中国風の禅宗仏殿造で究竟頂とよばれ、三つの様式を見事に調和させた室町時代の代表的な建物と言えます。昭和62(1987)秋、漆の張り替えや金箔の張り替え、更に天井画と義満像の復元を行いました。又、平成15(2003)春、屋根の葺き替えを行いました」(鹿苑寺が発行した公式パンフレット)

 

金箔が張り巡らされた楼閣である舎利殿(金閣)は、外から拝観するだけで、中に入ることはできない。鹿苑寺を訪れた大勢の観光客は、あらかじめ決められたルートを歩いて見学するだけである。しかし、金箔が張り巡らされた建物を直に、間近で見ると、その金箔の迫力に圧倒されてしまう。間近で見ると、やはりすごいですね。金閣は、鹿苑寺の広大な日本庭園の大きな池・鏡湖池のほとりに建っており、遠くから見ると、池のほとりにポッカリと浮かんでいるかのように見える。遠くから見ても、近くで見ても、金閣の景観は、何度見てもまさに絶景。人工的な景観美としては、これ以上のものはないのではないかと思うくらいである。

私はこの鹿苑寺金閣には、何度も来ています。最初に来たのは、確か修学旅行の時だったと思うが、自分で旅費を支弁した個人旅行で最初に来たのは、確か1988(昭和63)年に四国旅行に行く途中、京都見学をしたとき。その後、1993(平成5)年の全国旅行でも鹿苑寺に来ているし、1994(平成6)年ころ、京都要法寺等に寺跡調査に来たときにも、ここ鹿苑寺金閣の見学に来ている。寺跡調査で京都に行ったときは、特に鹿苑寺金閣に来る予定はなかったのだが、つい自然に足が鹿苑寺金閣のほうに、向いて行ってしまった。その後は2008年と2010年に鹿苑寺金閣を拝観している。

鹿苑寺金閣3 

(鹿苑寺金閣)

 

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■京都・鹿苑寺金閣1(仏舎利が祀られている舎利殿)

 

□三層部分に仏舎利(釈迦如来の骨)が祀られていると伝承される鹿苑寺舎利殿(金閣)

 

鹿苑寺金閣とは、一般的には「金閣寺」の名前で知られている。寺号は金閣寺ではなく、鹿苑寺という。鹿苑寺とは、臨済宗相国寺派の寺院。相国寺派とは1392年、夢窓疎石により創始された宗派で、大本山は室町幕府三代将軍・足利義満により建立された京都の相国寺。末寺は日本各地に約100か寺ほどあり、有名な鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)はこの相国寺派の寺院である。「鹿苑寺」の寺号は、足利義満の法号である鹿苑院殿に因んでいる。正式寺号は北山(ほくざん)鹿苑寺という。

鹿苑寺が発行した公式パンフレットによれば、「お釈迦様のお骨をまつった舎利殿『金閣』が特に有名なため、金閣寺とよばれていますが…」とあり、鹿苑寺の舎利殿『金閣』には、釈迦如来の骨が祀られていると書いてある。フリー百科事典・Wikipedia「鹿苑寺・舎利殿(金閣)」の項目を見ると、「三層は禅宗様の仏殿風で『究竟頂』(くっきょうちょう)と称し、仏舎利を安置する」とあり、金閣の三層に仏舎利が安置されていると、書いてある。ただし、鹿苑寺が発行した公式パンフレットにもフリー百科事典・Wikipediaにも、鹿苑寺金閣の仏舎利(釈迦如来の骨)が、どのような経緯で鹿苑寺に伝承されるようになったのか、という「伝承の経緯」については、一言も触れていない。

鹿苑寺金閣は、応仁の乱、天文法華の乱、禁門の変の戦災を免れ、明治維新・廃仏毀釈の破脚を免れたが、1950年(昭和25年)72日、学僧・林承賢(21)の放火により全焼してしまった。

金閣に祀られている仏舎利は、金閣全焼以前から祀られていたのか。金閣全焼の時に、仏舎利も全焼したのか。金閣再建後、どのような経緯で金閣に仏舎利が祀られたのか、等々について、鹿苑寺が発行した公式パンフレットにもフリー百科事典・Wikipediaにも記載がない。

鹿苑寺金閣の正式名は「舎利殿」という。これは仏舎利を祀るに因んだ名前だと思われる。ただし鹿苑寺の参拝客は、舎利殿(金閣)の中に入ることができないので、金閣の中に入って仏舎利に参拝することはできない。金閣の外側から拝観するのみである。

というか、鹿苑寺金閣の拝観に行っても、漆地に金箔を押した豪華絢爛な三層宝形造の金閣の建物そのものに圧倒されてしまって、中にある仏舎利のことまで関心が向かない。私も何度か鹿苑寺金閣の拝観に行っているのだが、鹿苑寺が発行した公式パンフレットを見て、はじめて金閣に仏舎利が祀られているのを知ったくらい。そしてここに来ると、ものすごい数の観光客が来ており、特に1994年に世界文化遺産に登録されて以降、鹿苑寺金閣を訪れる外国人観光客が激増。2011年の東日本大震災、2012年の竹島・尖閣諸島問題が起きる前は、中国人、韓国人観光客が多かった。2008年、2010年に鹿苑寺に行ったときは、金閣の前で中国人、韓国人をはじめ、外国人観光客が撮影する合間をかいくぐって、金閣を撮影することに神経が集中してしまう。しかも鹿苑寺の境内は一方通行で、金閣の拝観が終わると、庭園方向にどんどん進んで行かなくてはならない。

 

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■倶利伽羅不動寺3(平等院鳳凰堂の造りによく似ている西之坊鳳凰殿)

 

□京都宇治・平等院鳳凰堂の造りによく似ている倶利迦羅不動寺西之坊鳳凰殿

 

倶利伽羅不動尊は、誰が、どのような縁由で、開山したのか。これも津幡町の公式ウエブサイトにわかりやすく載っているので、こちらを引用してみたい。

「石川県と富山県にまたがる歴史国道「北陸道」が走る倶利伽羅峠には、約1300年の歴史を持つ倶利迦羅不動寺(山頂本堂)があります。成田不動尊(千葉県)、大山不動尊(神奈川県)と並び、日本三不動尊の一つとして知られ、縁日の28日には県内外から多数の参詣者が訪れます。地名にもなっている「倶利迦羅」は、「剣に黒い龍の巻きついた不動尊像」という意味のインドのサンスクリット語に由来します。倶利迦羅不動寺の創建は、718(養老2)年に元正天皇の勅願により、中国から渡来したインドの高僧、善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)法師が倶利迦羅不動明王の姿をそのまま彫刻し、奉安したのが始まりと伝えられています。この本尊が安置された奥之院は3年に1度開扉され、大法要が営まれます。それから約100年後の812(弘仁3)年に、弘法大師(こうぼうだいし)が諸国を巡る途中で、不動明王を拝まれ、あまりの有難さに扉を閉めると、本尊と同体の不動尊像を彫り、御前立(おまえだち)の不動尊として安置されました。この時、別当寺(べっとうじ)として長楽寺(ちょらくじ)が開山されたといわれています。その後、不動信仰の長楽寺と「手向(たむけ)の神」を祀(まつ)る手向神社が習合していったと考えられます。この「御前立不動尊」は現在、本堂に安置されています。1183(寿永2)年の倶利伽羅源平合戦の際、兵火に遭い、多くのお堂や寺宝、記録などが焼失しましたが、その後、源頼朝によって再興されました。戦国時代の天正年間(15731592年)には衰退し、廃寺同然となりましたが、江戸時代の寛永年間(16241644年)に秀雅上人(しゅうがしょうにん)が再興し、さらに加賀藩主前田家の祈願所や参勤交代の休憩所となったことから、社殿の再建や寺領の寄進が行われ、寺運が再び隆盛しました。

江戸末期の1836(天保7)年に門前の茶屋から出火し、山門や不動堂が焼失しました。再建されないまま明治維新を迎え、1899(明治2)年に明治政府の神仏分離令によって、長楽寺は廃され、手向(たむけ)神社となりました。その当時の仏像類は金沢市の宝集寺、小矢部市の医王院、津幡町倉見の専修庵などに譲渡されました。廃寺から50年後の1949(昭和24)年に、高野山の金山穆韶大僧正の尽力により、長楽寺跡に堂宇が再建され、倶利迦羅不動寺として復興されました。奥の院の不動堂は、旧高松小学校(現かほく市)の御真影奉安殿、本堂は旧金沢卯辰山忠魂祠堂を移築したものです。以後、次第に道路や寺観を整えて、現在に至っています。

1998(平成10)年1010日には、倶利迦羅不動寺の西之坊鳳凰殿(にしのぼうほうおうでん)が竹橋(たけのはし)地区に復興されました。平安時代の寝殿造りの様式を取り入れた、左右75メートルの壮大な木造建築となっています。」

(津幡町公式ウエブサイト「倶利伽羅不動寺」より)

倶利伽羅不動5 

(倶利伽羅不動寺・山頂本堂)

 

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■倶利伽羅不動寺2(交通不便な所にありながら参拝者が多い)

 

□倶利伽羅峠越え山頂付近の交通不便な所にありながら参拝者が多い倶利伽羅不動寺

 

倶利伽羅不動寺のある所は、石川県と富山県の県境付近の天田峠から、さらに奥に入ったところ。ここに行くには、電車ではとても無理で、自家用車かバスになる。とはいっても、倶利伽羅不動寺に行くには、倶利伽羅峠(天田峠)の曲がりくねった蛇行した道を登って行かなくてはならない。

近くには国道8号線・津幡バイパスや国道8号線旧道もあることはあるが、天田峠の麓を通っているだけ。国道8号線は天田峠を登らず、倶利伽羅トンネルで石川・富山県境を走り抜ける。

倶利伽羅不動寺の最寄り駅は、JR北陸線の倶利伽羅駅ということになるが、最寄り駅と言うには、倶利伽羅不動寺から、あまりにも遠い所にあるばかりか、倶利伽羅駅から倶利伽羅不動寺、古戦場跡までの交通手段は、ないに等しい。しかもJR北陸線の倶利伽羅駅は、無人駅で、北陸線の各駅停車(普通列車)しか停車しない。JR北陸線とJR七尾線が分岐する津幡駅からも、石川県のターミナル駅である金沢駅からも、倶利伽羅不動寺への交通アクセスはないに等しい。

これだけ交通不便な所なら、参詣者はいないのでは、と思ってしまいがちだが、ところがそんなことはない。縁日の28日には県内外から多数の参詣者が訪れる他、善無畏三蔵法師が倶利迦羅不動明王の姿をそのまま彫刻し、奉安したと伝えられる本尊が安置された奥之院は3年に1度開扉され、大法要が営まれ、多くの参詣者が訪れる。

私も平日の昼間に、何度か倶利伽羅不動寺に来ていますが、観光バス等を利用して、けっこうたくさんの人が参拝に訪れていた。もっとも中高年の人が大半ではあったが。駐車場には大型観光バスが数台停まっていたので、団体参拝の人ではないかと思われる。

倶利伽羅不動寺の創建は、718(養老2)年に元正天皇の勅願により、中国から渡来したインドの高僧、善無畏三蔵法師が倶利迦羅不動明王の姿をそのまま彫刻し、奉安したのが始まりと伝承される寺院であるが、今でもこれほど不便な所であるのに、上古の昔の倶利伽羅不動寺への交通は、どれほどだったのだろうか。津幡町の公式ウエブサイト「歴史国道『北陸道』」から引用してみたい。

「津幡町と富山県小矢部市にまたがる「倶利伽羅峠」を越える旧北陸道は、源平合戦の「火牛の計(かぎゅうのけい)」に関わる史跡や加賀藩の参勤交代(さんきんこうたい)のための往還道など、その歴史的、文化的価値が評価されて、1995(平成7)年6月に国土交通省が進める「歴史国道」の全国12箇所の1つとして認定されました。1996(平成8)年11月には、文化庁の「歴史の道百選」にも選ばれています。

712年(和銅5)年に、越中から加賀へ通じる加越国境の砺波山(倶利伽羅山)の麓に、越の三関(越前・越中・越後)の1つである砺波関(となみのせき)が設けられました。746(天平18)年に越中の国守(こくしゅ)として赴任した万葉集の歌人、大伴家持は、この地で多くの歌を残しました。」

倶利伽羅不動6

(倶利伽羅不動寺・山頂本堂)

 

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■倶利伽羅不動寺1(倶利伽羅峠源平合戦古戦場・天田峠の近く)

 

□昭和40年代ころまで国道8号線が通っていた天田峠越えの近くにある倶利伽羅不動寺

 

倶利伽羅不動寺(くりからふどうじ)とは、石川県と富山県の県境付近にある山頂本堂(山頂堂)と、石川県津幡町の西之坊鳳凰殿がある古刹寺院。寺格は高野山真言宗の別格本山。高野山真言宗は総本山・金剛峯寺(和歌山県高野町)、次に大本山・寳壽院(和歌山県高野町)、そして遺跡本山(ゆいせきほんざん) の神護寺(京都市右京区)、観心寺(大阪府)があり、その次が別格本山で高野山内に27ヶ寺、高野山以外の全国各地に33ヶ寺あるが、倶利伽羅不動寺はその中のひとつということになる。

成田不動尊(千葉県)、大山不動尊(神奈川県)と並び、日本三不動尊の一つと称される倶利伽羅不動尊とは、通常は約1300年の歴史がある山頂本堂を指す。倶利伽羅(くりから)とは、日本にあって日本ではないような地名であるが、これは「剣に黒い龍の巻きついた不動尊像」という意味のインドのサンスクリット語に由来するという。「倶利伽羅」の名前は、倶利伽羅峠、倶利伽羅そば、JR倶利伽羅駅など、地域の名前になっている。

この山頂本堂は、倶利伽羅峠と呼ばれる石川県と富山県の県境が複雑に入り組んでいる峠越えのてっぺんに近い所にある。正式にはこの峠の名前を「天田峠」という。天田峠の峠越えの道は、今、車で走っても、車がやっとすれ違いが出来るくらいの狭い道。しかも峠の山肌を這うように、曲がりくねって蛇行している山道である。私が子どもの頃は、この曲がりくねって蛇行している天田峠越えの道が、国道8号線の幹線道路であった。こんな狭い道を昭和40年代のころまで、排気ガスを思いっきりはき出して大型トラックやバスが走っていた。富山県に私の母親の実家があるので、子どもの頃、父親が運転する車に乗って、この天田峠を通った記憶がある。

これではあまりにも不便だというので、国道8号線の倶利伽羅トンネルが開通。天田峠越えの山道は、国道から県道に格下げになった。従来からの国道を走っていた大量の自動車交通は、倶利伽羅トンネルを走るようになり、天田峠越えは一気に静かになった。そんな天田峠の峠越えの頂上付近から、さらに奥に入ったところに倶利伽羅不動寺・山頂本堂がある。

今は北陸自動車道が全通しており、さらに国道8号線・津幡バイパスも開通しているので、倶利伽羅不動寺のすぐ近くまで、自動車輸送の波がおしよせることはなくなった。しかし倶利伽羅不動寺は、有名寺院であるためか、倶利伽羅不動寺の名前にちなんで、北陸自動車道には「不動寺パーキングエリア」がある。ただし名前は「不動寺パーキングエリア」とはなっているが、北陸自動車道のわりと倶利伽羅不動寺に近い所に設けられているだけで、ここが倶利伽羅不動寺と繋がっているわけではない。

倶利伽羅不動7



(倶利伽羅不動寺・山頂本堂)

 

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■比叡山延暦寺8(「千日回峰」2度の酒井雄哉師が遷化)

 

□記録が残る織田信長の焼き打ち(1571年)以降で3人目だった「千日回峰」2度目の達成

 

924日、天台宗大阿闍梨・酒井雄哉師遷化のニュースが流れた。読売新聞ニュースとmixiニュースから引用してみたい。

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「千日回峰」2度…大阿闍梨、酒井雄哉師が死去

天台宗総本山・比叡山延暦寺(大津市)に伝わる荒行「千日回峰(せんにちかいほう)」を2度達成した大阿闍梨(だいあじゃり)、酒井雄哉(さかい・ゆうさい)師が23日、歯肉がんで死去した。87歳。 延暦寺一山(いっさん)葬は27日午後0時30分、大津市坂本6の1の17生源寺(しょうげんじ)。喪主は弟子の藤波源信・大阿闍梨。自坊は同市坂本本町4239、延暦寺一山長寿院。

大阪市生まれ。39歳で得度した。54歳だった1980年には、地球1周にあたる約4万キロを7年かけて歩き、このうち9日間は不眠・断食で真言を唱え続ける荒行「千日回峰」を達成。記録の残る織田信長による比叡山焼き打ち(1571年)以降では、最高齢で「大阿闍梨」となった。60歳の87年には2度目も満行。3人目の快挙で、生き仏とたたえられた。

20139240309  読売新聞)

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<訃報>酒井雄哉さん87歳=大阿闍梨、千日回峰行2回

比叡山の荒行「千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)」を2度達成した天台宗大阿闍梨(だいあじゃり)の酒井雄哉(さかい・ゆうさい)さんが23日、心不全のため死去した。87歳だった。通夜は26日午後6時、葬儀は延暦寺一山葬として27日午後0時半、大津市坂本6の1の17の生源寺(しょうげんじ)。葬儀委員長は山本光賢(こうけん)延暦寺副執行(しぎょう)財務部長。自坊は大津市坂本本町4239の飯室不動堂長寿院。喪主は弟子の藤波源信(ふじなみ・げんしん)大阿闍梨。

1926年、大阪市生まれ。旧制中学を卒業後、鹿児島県で特攻隊員として終戦を迎えた。戦後は職を転々としたが、結婚2カ月の妻が自殺したことなどをきっかけに39歳で得度した。73年に90日間、堂にこもって念仏を唱えながら堂内を歩き続ける「常行三昧(じょうぎょうざんまい)」を達成した。80年10月には、比叡山中など計約4万キロのコースを7年かけて徒歩で順拝し、このうち9日間は不眠、断食などをする「千日回峰行」を達成。その半年後には2度目の挑戦を開始し、87年7月、60歳で満行した。千日回峰行は比叡山に伝わる修行で、これまで計50人が達成しているが、2度目の達成は、記録が残る織田信長の焼き打ち(1571年)以降で3人目だった。

90年に15年ぶりに下山し、講演活動などを通じて社会問題にも積極的に発言。自身が修行で体験した人間の極限状況を基に、教育問題や日本人の心のあり方を論じ、多くの人々の共感を呼んだ。 著書に「生き抜く力をもらう」(共著)「がんばらなくていいんだよ」などがある。

(20130924 13:20 毎日新聞・mixiニュース)

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