一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ

「一般社団法人 仏教宗学研究会」とは任意団体として2005年から活動している会の名称。2018年5月に一般社団法人登記。当ブログ名を「仏教宗学研究会のブログ」から「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」に改名。 「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「一般社団法人 仏教宗学研究会・公式ブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

2014年02月

■京都府1・京都1・「京都駅」1(西日本最大級のターミナル駅)

 

私はほぼ1年に1回、ないしは2年に1回くらいのペースで京都に行っている。もちろん主な目的は、仏教関連の寺跡調査だが、古都・京都には仏教寺院がそれこそ無数にあるばかりか、歴史史跡等も山のようにたくさんある。とてもじゃないが、1日や2日で全てを見学するなど不可能である。又、せっかく寺院に行っても、誰もいなかったり、充分な見学や調査ができないこともある。だから同一寺院を、何度も訪ねることだってある。

その京都へは、東京からは何十回と行っているが、実は実家のある北陸からも何度も行っている。東京から行く場合は東海道新幹線を利用することが一番多いが、自家用車を運転して東名・名神高速をかっ飛ばして行ったことも何度もある。上野駅入谷口、東京駅八重洲口から深夜バスを利用して行ったこともある。北陸から京都に行った時は、特急サンダーバード号(昔は特急雷鳥号)を利用したときと、自家用車で北陸道・名神高速をかっ飛ばしたときも何度かある。

新幹線、特急電車、深夜バスで京都に行くと、降り立つ所はJR京都駅。古都・京都のメインターミナルである。現在の京都駅の駅舎は、ものすごくモダンで立派な駅舎に生まれ変わっている。京都駅は、京都市街の南のはずれにあるが、駅のターミナルは北側と南側にある。北側は烏丸口。南側は八条口。烏丸口は主にバスターミナル、八条口は主にタクシー乗り場になっている。

東京から深夜バスで京都駅に着いたときも、烏丸口に停まりました。東京を24時ころ出た深夜バスは、京都駅に6時半ころ到着。運賃もなかなか手頃。かつて東海道線に「銀河」という寝台列車が走っていましたが、これも利用客が減少して廃止になった。単に運賃だけだと「銀河」も深夜バスもさほど変わらないのだが、「銀河」は運賃の他に特急券・寝台券を買わなくてはならないため、割高になった。

電車・深夜バスで京都に行き、さて京都市内を廻る交通手段として、京都駅烏丸口で1日乗車券を買ってバスを利用したことも何度もあった。たしかに1日バス乗車券は安いのだが、いかんせん、私は京都市内の路線バスがどうなっているのか、さっぱりわからない。だから例えば最初に京都御所に行き、次に金閣に行こうとすれば、どのバスにどうやって乗り継いで行っていいのか、さっぱりわからない。だからどうしたかというと、京都御所からバスで京都駅前に一旦もどり、それで京都駅烏丸口から金閣に向かうバスに乗ったという次第。さらに金閣から次の見学地に行く場合も同じ。だから1日バス乗車券を使って京都市内を廻ると、料金的には安いが、時間がえらくかかってしまう。「それじゃあ、京都御所に行ったのなら、その近くを見てまわればいいじゃないか」となるかもしれないが、そうすると、自分が行きたい寺院や旧跡に行けなくなる。だから京都市内の寺院巡りをするときは、京都駅近辺でレンタカーを借りるか、あるいはタクシーを乗り継いで寺院巡りになったこともかなりある。軽自動車をレンタカーで12時間借りても、ガソリン代や保険代、駐車料金を入れて8000円くらいかかってしまう。これだったら、タクシーを乗り継いだほうが安上がりになったケースが多々あった。

 

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■京都知恩院4(芸術的墨書の御朱印)

 

□知恩院僧侶に墨書していただいた見事な『書の芸術』・知恩院の御朱印

 

さて知恩院御影堂の脇に朱印所があり、参拝人が大勢つめかけて御朱印の申し込みをしていた。私も参拝記念に、集印帳を購入して御朱印をいただいた。御朱印は知恩院の僧侶が墨書していただいたのですが、これまた見事な芸術的墨書でした。ここに写真にて公開しますので、知恩院御朱印の芸術的墨書を御覧下さい。

御朱印1



御朱印2



御朱印3 

 

 

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■京都知恩院3(法然御廟)

 

□法然の弟子・源智が大谷廟堂を修理し法然の真骨を納めて建立した知恩院の法然御廟

 

知恩院には、法然御影像を祀る御影堂の他に、本尊である阿弥陀仏像を祀る阿弥陀堂がある。浄土真宗本山に行くと阿弥陀仏を祀る阿弥陀堂と親鸞御影像を祀る御影堂の二堂が中心堂宇として並んで建っているが、知恩院も阿弥陀堂と御影堂の二堂が中心堂宇として建っている。

御影堂のちょうど向かい側に泰平亭という名の売店・休息所がある。ここにたくさんの参拝人が入っている。売店で知恩院のグラビア写真集を買ったら、売店の女性が何と私に合掌礼。これには、びっくりしてしまいました。

さて「平成の大修理」工事中の御影堂の東側から経蔵を通って法然御廟へと足を運んだ。御廟に行くには、長い石段を登って行かなくてはならない。長い石段を登った突き当たりを左に曲がると、知恩院最古の堂宇・勢至堂がある。ここは法然終焉の地である大谷禅房の旧跡で、1530(享禄3)年の再建。御影堂ができる前は、この勢至堂が知恩院の中心堂宇だった。法然の幼名・勢至丸ゆかりの勢至菩薩像を祀る。この勢至堂がある所からさらに石段を登って、もう一段上の地に行くと、そこに法然御廟がある。ここに浄土宗元祖・法然の遺骨が納められている。

参詣人が立ち入ることが出来るのは法然御廟の手前に建てられている拝殿まで。拝殿でお賽銭を入れて参拝。御廟も拝殿も実に質素な造りになっている。

曹洞宗大本山永平寺にある道元禅師御廟の拝殿は「承陽殿」という大きな堂宇になっているし、日蓮宗総本山・身延山久遠寺の日蓮御真骨堂の拝殿も大きな堂宇である。大谷本廟(西大谷)の親鸞廟の拝殿も大きな堂宇。それに比べたら知恩院法然御廟の拝殿はまことに質素である。

さて泰平亭で買った知恩院グラビア「浄土宗総本山知恩院」には、法然の生涯とその亡骸がどうなったのか、遺骨がどこに納められたのかについて、知恩院の公式見解が載っている。それによれば、1212(建暦2)125日、法然は80才で入寂。門弟たちは、今の知恩院勢至堂がある場所、大谷禅房の傍らに法然の墳墓をつくった。その15年後の1227(嘉禄3)年に比叡山の宗徒が大谷禅房にあった法然の大谷廟堂を破脚。そこで弟子たちは、法然の亡骸を西山栗生野に移して荼毘に付した。ということは、当初、法然の亡骸は大谷廟堂に土葬にされていたということで、法然入寂の15年後に火葬にされたということになる。

そして1234(文暦元)年、法然の弟子・源智が大谷廟堂の荒れ果てた墓所を修理し、法然の真骨を納め、仏殿、御影堂、総門を建てて、知恩院大谷寺と号し、法然を開山第一世とした。つまり知恩院の御廟にある法然真骨は、源智によって当地に納められ、現在に至っているということである。

法然御廟5


 


















(法然御廟入り口門前)

法然御廟2


 


















(法然御廟に登っていく長い石段)

法然御廟14


 

































(法然御廟門)

法然御廟11 



















(法然御廟拝殿)

 

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■京都知恩院2(御影堂・平成の大修理)

 

2019(平成31)年まで「平成の大修理」の素屋根に覆われている知恩院御影堂

 

知恩院の表玄関は、三門である。2002(平成14)年に知恩院の三門と御影堂が国宝に指定されている。今の三門は1621(元和7)年、徳川二代将軍秀忠の建立・寄進によるもの。起工が1619(元和5)年だから、造営に二年の歳月がかかっている。知恩院の見解によれば、三門は高さ24m、横幅50m、屋根瓦7万枚。木造の門としては世界最大級のスケールだという。見るからに巨大な門で、三門前には駐車場が広がり、浄土宗信徒用の和順会館がある。20141月に知恩院に行った時には、駐車場に数台の観光バスが停車していました。団体参拝の人を乗せてきた観光バスではないかと思われます。

この時は、京都東山のウェスティン都ホテルに宿泊し、ホテルから徒歩で三条神宮道の信号から神宮道を歩き、青蓮院の門前を通って知恩院に行ったのですが、このあたりは車や人通りの騒音が全く聞こえない静寂な所。知恩院三門の位置は、京都市街のメインストリート・東大寺通から、少し引っ込んだ所にある。にもかかわらず大通りの騒音は全然聞こえてこない静寂な空間である。三門をくぐって男坂を登り御影堂、法然上人御堂(集会所)、阿弥陀堂近辺まで来ると、参詣者の話し声しか聞こえてこない。法然上人御堂(集会所)で僧侶の読経がはじまると、読経の声がマイクを通して境内に聞こえてくる。こういう雰囲気を味わえるのは、いいですねえ。

巨大な三門をくぐると、その先には男坂と呼ばれる急な石段がある。男坂の横手には、ゆるやかな石段の女坂がある。男坂、女坂の名の坂は、日蓮宗総本山・身延山久遠寺にもあります。

知恩院のメインの堂宇は、男坂・女坂を登り切った所にある御影堂である。ちなみに知恩院「御影堂」は「みえいどう」と読む。これが浄土真宗大谷派本山・真宗本廟(東本願寺)の「御影堂」、浄土真宗本願寺派本山・西本願寺の「御影堂」は、「ごえいどう」と読む。

知恩院「御影堂」は浄土宗開祖・法然の尊像(御影像)を祀る堂宇。御影堂は、入母屋造り・本瓦葺きで奥行き35m、間口45m、瓦の数は約9万枚という巨大な堂宇。堂内には約4000人が収容できるという。ここは1639(寛永16)年、徳川三代将軍家光によって建立されたもの。これも造営に二年かかっており、落慶したのは1641(寛永18)年である。

知恩院は1517(永正14)年に火災にあっており、多くの堂宇が焼亡しているが、法然御影像は焼亡を免れたという。戦国時代の京都は、応仁の乱、天文法華の乱等、市街地が焦土と化す戦災があり、これにより知恩院も災禍を蒙ったものと思われる。その知恩院は1530(嘉禄3)年、後奈良天皇より宸翰「知恩教院」「大谷寺」の勅額を授与され、勢至堂が再興されている。

御影堂の法然像は毎年1225日に御身拭式が行われていたが、平成23年(2011年)1225日には御影堂大修理に伴い、御身拭式の後、御影堂から法然上人御堂(集会所)遷座式が執り行われ、御影堂修理の間、法然上人御堂(集会所)に祀られている。

 

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■京都知恩院1(浄土宗元祖・法然が開山)

 

□歴史上はじめて庶民に仏教を流布した浄土宗元祖・法然が開山した浄土宗総本山知恩院

 

知恩院とは、正式には華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん・ちおんきょういん・おおたにでら)というが、一般では「知恩院」という通称名で呼ばれている。三門にも「総本山知恩院」と書かれている。総本山と書かれているのは、浄土宗総本山という意味である。

いかなる者も一心に阿弥陀如来の名を唱えれば極楽浄土に往生できるという「専修念仏」(せんじゅねんぶつ)の教えを説き、浄土宗を開いたのが法然である。その浄土宗開祖・法然が布教の拠点とした草庵を起源とするのが、この浄土宗総本山知恩院である。

法然は平安時代末期、1133(長承2)47日、美作国(みまさかのくに・今の岡山県)久米南条稲岡庄の押領使・漆間時国の長子として生まれた。幼名は勢至丸。勢至丸が9才の時、漆間時国の館が夜襲され、不意打ちに倒れた時国は、枕辺で勢至丸に遺言を遺す。

「恨みをはらすのに恨みをもってするならば、人の世に恨みのなくなるときはない。恨みを超えた広い心を持って、すべての人が救われる仏の道を求めよ」

ところで、この漆間時国の遺言を読んで、かつて中華民国(台湾)・蒋介石総統が戦後、「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)と言い、日本兵の復員に最大限の便を図ったり、日本への戦後賠償を放棄したことを思い出しました。蒋介石総統の言葉は、漆間時国の遺言とは関係ないのだろうが、この漆間時国の遺言は、だれかに聞かせてあげたいくらいの名言ではなかろうか。恨みつらみでテロや戦争を繰り返す人たち、過去の歴史がどうのこうのとアラ探しばかりする某国の人たち。日本の琵琶湖畔にも恨みつらみから抜け出せない人もいますね。

さて勢至丸はこの父の遺言に従い、菩提寺で修学した後、15才で比叡山に登って剃髪授戒。はじめは円明房善弘と名乗るが、1150(久安6)年、18才のとき、比叡山延暦寺西塔黒谷の慈眼房叡空の弟子となり、法然房源空となる。島田裕巳氏監修の「はっきりわかる日本の仏教宗派」(成美堂出版)によれば、法然の黒谷での約二十年の修行の中で、二つの転機があったとする。

ひとつは源信の著書「往生要集」との出会い。「往生要集」には、厳しい修行に耐えられない者は念仏を唱えるべきと記されていた。ふたつめは中国浄土教の僧・善導の著書「観経疏」との出会い。「観経疏」には「一心に口で念仏を唱えれば往生が叶う」と記されていた。善導の言葉を知った法然は、衆生が救いを得るためには、誰もが出来る称名念仏のほかにないとの答えを得る。(「はっきりわかる日本の仏教宗派」p63)

法然は1175(承安5)年、比叡山を下り、西山広谷を経て吉水の禅房、現在の知恩院御影堂の近くに移り住み、浄土宗を開宗。法然43才の時である。1186(文治2)年、大原談議において旧仏教高僧の前で法然の教説が披露されると、その教えは瞬く間に人々の信仰を集め、法然の教団は急速に拡大した。1190(文治6)年、法然は東大寺にて「浄土三部経」の講説を行う。1198(建久9)年、法然は「選択本願念仏集」を著す。

 

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□「2ブログ」による「富士門流信徒の掲示板」累計アクセス数ぶち抜きがいよいよ射程に

 

皆様には、いつもブログをご愛読いただきまして、まことにありがとうございます。

20142月、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」の累計アクセス数が35pvを突破。「仏教宗学研究会のブログ」の累計アクセス数が17pvを突破。「2ブログ」の総合累計アクセス数が52pvを突破しました。まことに、ありがとうございました。

■アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/

■仏教宗学研究会のブログ

http://bukkyoshugakukenkyukai.doorblog.jp/

どんどん「2ブログ」の総合累計アクセス数が伸びていく中で、いよいよ富士門流執着軍団の第一次公式ホームページ「富士門流信徒の掲示板」の累計アクセス数ぶち抜きが、いよいよ射程に入ってきました。マジックナンバー点灯と言っても過言ではありますまい。

2014222日現在の「富士門流信徒の掲示板」の累計アクセス数は、583455pv

2014222日現在の「2ブログ」の総合累計アクセス数は527126pv。あと56329pvまで迫っております。ここ1年間の「2ブログ」の月間アクセス数はだいたい25000pv3pvぐらいで推移していますので、あと数ヶ月で「2ブログ」の総合累計アクセス数が「富士門流信徒の掲示板」の累計アクセス数をぶち抜けるかと思われます。

さて「2014年、新年あけまして、おめでとうございます。」の中で、「2014年中に、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」と「仏教宗学研究会のブログ」の「2ブログ」のアクセス数累計が、「富士門流信徒の掲示板」のアクセス数累計を、ぶち抜けるかと思われます。」と書いたところ、これを見た「富士門流執着軍団」の面々が、大慌てに慌て、あれやこれやと聞き苦しい言い訳を、あちらこちらで並べるという、まことに見苦しい姿をさらしております。今回も、富士門流執着軍団の面々は、自らの恥も省みず、またも聞き苦しい言い訳を並べるのでしょうか。

まあ、こんな人たちは、ほおっておくとして、今後とも、「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」「仏教宗学研究会のブログ」の「2ブログ」を、よろしくお願い申し上げます。

錦織寺11 

 

 

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■長野善光寺4(2014年初詣4)

 

2014年初詣で善光寺内陣にていただいた見事な『書の芸術』・善光寺御朱印

 

以前の当ブログにて、「善光寺御朱印の毛筆は、この上ない達筆。まさに『書の芸術』と言うべきもの。善光寺御朱印の毛筆は、あまりにも芸術的な書なので、見ていると思わず心が洗われるような気持ちになる」と書いたところ、「どんな御朱印なのでしょうか」とのお問い合わせをいただきました。というわけで、2014年善光寺初詣で、本堂内陣にていただいた善光寺御朱印をここにご紹介しようと思います。見事な『書の芸術』を御覧下さい。

2014御朱印1



2014御朱印2 

 

 

 

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■長野善光寺3(2014年初詣3)

 

□極楽の錠前を探り当てる真っ暗な回廊の『お戒壇めぐり』と回廊入り口に祀られている仏舎利

 

内々陣参拝の後は、内陣にある御朱印受付にて、善光寺の御朱印をもらった。ちょうど20134月末の東京両国・回向院での善光寺出開帳の時、善光寺御朱印帳を買い求めており、そこに御朱印をいただいた。数年前、ある所で、僧侶の毛筆が達筆かどうか云々ということが話題になったことがあったが、善光寺御朱印の毛筆は、この上ない達筆。まさに「書の芸術」と言うべきもの。善光寺御朱印の毛筆は、あまりにも芸術的な書なので、見ていると思わず心が洗われるような気持ちになる。これは、善光寺参拝のいい記念になりますね。ただし断っておくが、私はあっちこっちの仏教寺院で御朱印をもらわないと収まらないような、いわゆる『御朱印マニア』ではない。

御朱印のあとは、『お戒壇めぐり』の階下に降りていった。内々陣の右側を通って奥に進むと『お戒壇めぐり』の入り口がある。これは、善光寺如来(一光三尊阿弥陀如来)像が格蔵される瑠璃壇下の真っ暗な回廊を通り、極楽の錠前を探り当てて、絶対秘仏の善光寺如来(一光三尊阿弥陀如来)と結縁するという主旨のもの。2003年の御開帳で善光寺に参拝したときは、『お戒壇めぐり』の真っ暗な回廊には入っていないと思います。20134月末の東京両国・回向院での善光寺出開帳の時、はじめて『お戒壇めぐり』を知ったくらいでしたから。

東京両国・回向院での『お戒壇めぐり』は、にわかづくりの『お戒壇めぐり』だったが、今回は善光寺での『お戒壇めぐり』。真っ暗の回廊を手探りで歩いて行ったが、全く何も見えない。私の後ろから、4人家族連れが歩いてきて、真っ暗な回廊の中で、ガヤガヤと喋りまくっている家族連れ。

この家族連れも、真っ暗な回廊の中で極楽の錠前を探していたようなのだが、歩いている途中で、若い男の子が「コレだ、コレだ」と、ガチャガチャと音をたてながら元気な声をあげていた。しかし回廊は真っ暗で何も見えない。「本当かね?本当にそれが極楽の錠前?」と、半ば狐につままれたような気持ちになった。

さてその『お戒壇めぐり』の入り口前には、釈迦如来像と仏舎利(釈迦如来の遺骨)を納めた厨子が祀られている。この仏舎利は、善光寺発刊の資料によれば、タイ国から日本に寄贈された仏舎利だという。タイ国から寄贈された仏舎利は、善光寺の外、全国各地の寺院にも格蔵されている。

さて再び本堂の外陣に出ると、外陣中央にものすごい人だかりができている。何事だろうかとその人だかりの所に行ってみると、びんずる尊者像のまわりにできていた人だかりだった。びんずる尊者像は、東京両国・回向院での善光寺出開帳の時にも来ていた。が、2003年の御開帳の時に参拝した記憶がない。ただし回向院の善光寺出開帳の時には、びんずる尊者像は白色のホータイでぐるぐる巻きになっていたが、善光寺本堂外陣では、ホータイはなし。びんずる尊者像参拝の長い行列に並んだ後、賽銭を入れて像を撫でて参拝。参拝の人は、全員がびんずる尊者像に触って撫でていた。像をよく見ると、かなり撫でられた痕跡が見られる。

善光寺18 



















(善光寺本堂)

 

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□東京都知事選挙立候補者一覧の中になかった某氏の名前

 

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■長野善光寺2(2014年初詣2)

 

□天台宗・大勧進と浄土宗・大本願が共同管理する『無宗派』の寺院・長野善光寺

 

善光寺の正式名は定額山善光寺。善光寺は天台宗大勧進と25院、浄土宗大本願と14坊によって護持・運営されている。大勧進住職は貫主とよばれ、天台宗名刹の僧が務める。大本願住職は善光寺上人とよばれ、代々公家出身者を住職として迎えている。善光寺住職は大勧進貫主と大本願上人の両名が勤める。このように独自の運営が為されている善光寺は、「無宗派」の寺院とされ、日本で仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であるため宗派に関係なく宿願が可能とされる。天台宗、浄土宗塔頭による共同運営の無宗派寺院といえば、宇治・平等院がある。また無宗派寺院といえば、仏舎利を奉安する名古屋・日泰寺も、十九仏教宗派の共同管理になっている無宗派の寺院である。そして昔から女人禁制があった仏教界で、上古の昔から善光寺が女人救済の寺院であったことも、特色の一つである。

善光寺の入り口に、浄土宗が管理する大本願があり、大本願の向かい側に浄土宗側の塔中が建ち並ぶ。常円坊、淵之坊、兄部坊、正智坊、白蓮坊、堂明坊、堂照坊、浄願坊、正信坊、随行坊、寿量院、善行院、玄証院、甚妙院、常行院、徳行坊、野村坊、鏡善坊、向仏坊である。

そして仁王門をくぐると「仲見世」と呼ばれる売店街があるが、その「仲見世」の裏側に、天台宗側の塔中がある。それが良性院、宝林院、長養院、本覚院、徳寿院、最勝院、玉照院、円乗院、威徳院、常住院、世尊院、蓮華院、尊勝院、常智院、教授院、吉祥院、福生院、常徳院、光明院、薬王院である。駒返り橋を渡ると左側に天台宗が管理する大勧進がある。

大勧進に入ってみると、ここにもたくさんの人が参詣している。大勧進の護摩堂の前では、テントが張られ、新春護摩祈願の受付をしていた。ここで午前10時からの護摩祈願を申し込む。

時刻はまだ午前9時で、護摩祈願の時刻まで約1時間の余裕がある。この間に本堂参拝をしてこようと、本堂に向かった。すでに本堂前にも本堂の中にも、ものすごい数の参拝客が来ている。本堂前では、10代後半くらいの若い人たちの野球チームだかサッカーチームの団体さんが記念撮影をしていた。現在の善光寺本堂は、宝永4(1707)に再建された堂宇で、国宝に指定されている。間口24m、高さ30m、奥行き54mある本堂は、東日本最大の堂宇なのだという。

本堂の中に入り、まずは外陣の賽銭箱に賽銭を入れて参拝。それから500円の内陣参拝券を購入して内陣に入る。内々陣前の賽銭箱に賽銭を入れて参拝。大勢の参拝客の大半は、外陣で参拝してお終い。しかし内陣参拝する人も、けっこうたくさんいた。

内々陣の須弥壇を見ると、戸帳が降りていて中は見えない。資料によれば向かって左側に本尊が祀られていて、右側には本田善光と奥方、子息の像が祀られているという。「お朝事」と呼ばれる朝の勤行のときに、戸帳が上がり、本尊が格蔵されている宮殿を拝することはできるが、本尊の善光寺如来(一光三尊阿弥陀如来)像は、絶対秘仏であるために拝することはできない。

 

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■長野善光寺1(2014年初詣)

 

□マイナス5度の厳寒の長野市内の街中を歩いて参詣した2014年・善光寺初詣

 

2014年の初詣は、長野・善光寺に行ってきました。善光寺に行ったのは2003年の御開帳以来のこと。久しぶりに荘厳な善光寺の雰囲気を肌で感じることができた、私にとってはまことに有意義な初詣になった。今回は、東京駅1924分発の長野新幹線「あさま号」に乗って長野へ。21時かぎに長野駅に到着。長野市内のビジネスホテルに宿泊。東京からは長野新幹線「あさま号」を利用すれば、約1時間3040分前後で長野駅に到着する。長野新幹線は、もともとは北陸新幹線の一部区間で、2015年春には、長野から金沢が開通し、いよいよ「北陸新幹線」としてスタートすることが決まっている。長野新幹線開業以前は、JR信越線経由で在来線特急あさま号が上野~直江津、在来線特急白山号が上野~金沢を運行していた。名古屋方面からは、昔も今もかわらず、中央西線、篠ノ井線経由で在来線特急しなの号が長野駅に乗り入れている。

長野には空港がないため、長野市に行くには電車、バスを利用するか、ないしは自分で車を運転して行くしかない。善光寺の最寄り駅は、新幹線や特急が停車する長野駅で、しかも長野駅から徒歩で行ける距離にあるので、割とアクセスは便利だと思う。ただし長野新幹線の開業で、上野~直江津を走る在来線特急あさま号が廃止になり、新潟・富山・金沢方面から長野への交通が不便になってしまった。がしかしこれも2015年春の北陸新幹線の開業で不便さも解消するものと思われる。長野駅も、長野新幹線開業によって、駅舎が新築され、ずいぶんモダンな駅舎になった。

長野新幹線「あさま号」が関東平野を走り抜け、高崎駅を過ぎた所で上越新幹線と分岐。碓氷峠のトンネルを抜けると長野県に入る。長野駅新幹線ホームに降り立つと、寒さに思わず身が震えてしまう。夜21時の長野市の気温は、マイナス2度。寒いですね。しかし長野市内にほとんど積雪はない。雪無しの状態で気温が低いのである。翌朝の気温はもっと低く、何とマイナス5度。思わず「寒いなあ」と言うと、ホテルマンは「長野で、これくらいの気温は、当たり前ですよ」と言う。

東京でマイナス5度まで気温が下がったことは、私の記憶の中にはない。マイナス2度になったら、それこそ「異常低温だ」「寒波到来だ」と大騒ぎになるだろう。

朝は、ホテルのレストランで、バイキング式の朝食。ホテルから善光寺までは、徒歩で参詣しました。長野駅周辺から善光寺までは、歩いて行ける距離にある。長野市という街自体が、古刹寺院・善光寺の門前街と言うことができる。しかし気温はマイナス5度。吐く息が白い。寒さに震えながら、足早に善光寺へ歩いて行った。

善光寺大門から三門の間には、「仲見世」と呼ばれる売店街がある他、長野駅から善光寺に行く表参道の両脇にも、参拝客をあてこんだ飲食店や商店が建ち並ぶ。仲見世や表参道で目立つのは、手打ちそば店。長野は信州そばの本場ということもあり、そば店が軒を並べている。

正月初詣客が多い時期には、参道にテキ屋の露店も軒を並べる。

 

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