仏教宗学研究会のブログ

「仏教宗学研究会」とは会の名称。「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

「仏教宗学研究会」とは「アンチ日蓮正宗」管理人が設立した会の名称。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。富士門流執着軍団批判は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄だが、「日蓮正宗系」以外の富士門流寺院の調査・研究は「仏教宗学研究会のブログ」の管轄。
「仏教宗学研究会」への誹謗中傷に対する反撃・糾弾は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
さらに正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」の公式サイト「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」から、カルト宗教対策、カルト宗教取締特別立法、カルト宗教拡散防止条約制定の活動部分を独立させたものが「国際カルト宗教対策委員会(Icat-Cult)」

□正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」(アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ)
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2014年03月

真宗・西本願寺(2)~親鸞命日忌11月28日を太陽暦に換算した1月16日に御正忌報恩講を営む西本願寺

■真宗・西本願寺2(御影堂・報恩講)

 

1999(平成11)年より約10年間、国庫補助事業として施工された御影堂「平成の大修理」

 

西本願寺御影堂は、東西48m、南北62m(2976m2)、高さ29m。外陣は441畳敷で約1200名が一堂に参拝できる。227本の柱で約115000枚の瓦を支える世界最大級の木造建築である。御影堂は1636(寛永13)年の再建で、今日まで約370年以上が経過している。その間、1800(寛政12)年から1810(文化7)年までの約10年をかけた大修理が行われた他、数度の修理が行われてきている。しかし再建から370年、19世紀の大修理から200年以上が経過し、損傷が激しく見られるようになった。そこで御影堂は1999(平成11)年より、親鸞七百五十回遠忌記念事業として約10年間にわたり、文化財保護の国庫補助事業「平成の大修理」が行われた。この西本願寺御影堂「平成の大修理」は、「NHKスペシャル・西本願寺 御影堂10年大修復」でも取り上げられた。

「平成の大修理」で西本願寺御影堂を覆い尽くした素屋根は、高さ約31m。高さ29mの御影堂をすっぽりと覆い尽くした。そして平面積が7248m2。総重量は2300トン。この素屋根の中で、瓦の葺き替え作業が行われた。2000(平成12)1月から瓦を屋根から降ろす作業を開始し、2005(平成17)3月に全ての瓦を葺き替える作業が完了している。御影堂の屋根瓦の総数は115000枚。これを熟練の瓦職人が一枚一枚丁寧に取り外し、約10ヶ月かけて取り外し作業が完了した。損傷のない瓦は再利用されたが、約75000枚もの瓦が、新しい瓦に葺き替えられた。「NHKスペシャル・西本願寺 御影堂10年大修復」でも、西本願寺御影堂の瓦葺き替え作業が取り上げられ、西本願寺門徒が瓦一枚一枚を手作業で綺麗に洗って拭いている姿が映し出されている。

そういえば最近、大石寺でも御影堂大修復工事を終えて落慶法要を行ったというニュースが流れたが、大石寺の御影堂大修復で日蓮正宗の信徒が瓦一枚一枚を手作業で綺麗に洗って拭いたなどとは、聞いたことがない。

浄土真宗本願寺派・本願寺出版社刊「本願寺グラフ」によれば、屋根瓦の葺き替えの他に、御影堂内陣格天井の84枚の天井絵の修復、御影堂内部の梁や柱の彩色補修が行われている。

さて西本願寺御影堂には、真宗本廟・東本願寺御影堂のような「写真撮影禁止」の立て札が全くなく、参拝者を監視する警備員もなし。御影堂内では参拝者がデジカメやスマホ、携帯のカメラ等で、須弥壇や親鸞像の写真撮影をしている。御影堂内には西本願寺僧侶もいたが、誰も写真撮影を咎めたりはしていない。というわけで、私も西本願寺御影堂内で写真撮影をしてきました。

御影堂1 



















(西本願寺御影堂)

西・御影堂修復D2 



















(瓦を手作業で洗って拭いている西本願寺門徒・NHKスペシャルの映像より)

御影堂中7 



















(西本願寺御影堂内部須弥壇)

 

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真宗・西本願寺(1)~日蓮正宗大石寺客殿とは浄土真宗東西本願寺御影堂に対抗して建てたパクリ建築である

■真宗・西本願寺1(御影堂)

 

□御影堂を「みえいどう」ではなく「ごえいどう」と読む浄土真宗本山・東西本願寺御影堂

 

真宗・西本願寺とは、浄土真宗本願寺派本山・本願寺で通称名は西本願寺。正式名は龍谷山本願寺という。本願寺とはもともと宗祖・親鸞の廟所である大谷廟所から発展した寺院。大谷本願寺、山科本願寺、石山本願寺の変遷があり、織田信長と石山本願寺戦争(石山合戦)を行う。石山合戦は、織田信長との講和・石山退去によって終結。本願寺教団が石山退去の翌日、石山本願寺は焼き払われてしまう。石山本願寺明け渡しを巡って、本願寺11代門主・顕如(15431592)を中心とする勢力は織田信長との講和を受け容れたのに対して、顕如の長男である教如を中心とする勢力は、これを拒んで籠城を主張した。そのため、教如は顕如から義絶されてしまう。

その後、本願寺教団は、寺基を紀州(和歌山)鷺森、和泉(大阪)貝塚、大坂天満へと転々とした後、1591(天正19)年、豊臣秀吉から現在の京都堀川七条の土地を寄進され、今の西本願寺が造営された。教如は大和、近江、安芸など流浪するが織田信長が本能寺の変で死去すると、顕如と教如は和解する。本願寺11代門主・顕如の没後、12代門主は当初は顕如の長男・教如が後を継いだ。しかし豊臣秀吉は、教如が父・顕如から義絶されたことがあること、石山合戦で最後まで籠城を主張して織田信長に反抗したこと等を理由に、教如が本願寺門主を務めることに異を唱える。

しかし豊臣秀吉は10年に限り教如が本願寺門主を務めることを認める裁決を下すが、教如派はこれを不服としたため、豊臣秀吉は教如を直ちに隠退させ、本願寺11代門主・顕如の三男・准如を12代門主とした。しかしその後も教如は、教如を支持する末寺や門徒に絵像を授与するなどの門主としての活動をつづけた。こうした中で教如と徳川家康が接近していく。1598年の豊臣秀吉の病没、1600年の関ヶ原の合戦で徳川家康が全国の覇権を掌握すると、1602(慶長7)年、徳川家康は京都烏丸六条に寺地を教如に寄進。さらに徳川家康の仲介によって、群馬県妙安寺伝来の親鸞座像(ご真影)が教如に寄進され、ここに東本願寺が造営された。徳川家康は、教如を中心とする教団を追認したわけだが、これは巨大勢力を保って織田信長に約十年にわたって石山合戦を挑んだ本願寺教団を東西に分裂させたまま固定化し、弱体化を図った徳川家康の宗教政策であるとする説が一般的である。

西本願寺も、真宗本廟・東本願寺と同じように、本尊である阿弥陀如来像を祀る本堂(阿弥陀堂)と親鸞御影を祀る御影堂の二堂が中心堂宇になっている。ただし真宗本廟・東本願寺は、北側が御影堂、南側が阿弥陀堂になっているのに対して、西本願寺は南側が御影堂で、北側が阿弥陀堂になっている。つまり、東西本願寺で、御影堂と阿弥陀堂の配置が逆になっている。

その御影堂だが、浄土真宗十派の本山には、いずれも阿弥陀堂と御影堂が並んで建っている。浄土真宗十派は「御影堂」を「みえいどう」と読む宗派と、「ごえいどう」と読む宗派に分かれる。西本願寺も真宗本廟・東本願寺も御影堂を「ごえいどう」と読む。

 

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旅紀行(2)~京都で宿泊した個人民宿・ホテル松井本館・料亭旅館花やしき浮舟園

■京都府2・京都2・「民宿・松井本館・花やしき浮舟園」1(宿泊)

 

□食事中に主人がトイレの汲み取りをはじめ部屋の中が糞尿の悪臭で充満した京都の民宿

 

京都に行って寺跡調査・寺院巡りをすれば、少なくとも京都で1泊ないしは2泊ぐらいはすることになる。私はそれこそ日本全国各地に寺院巡りの旅に行っているが、私にとっての寺院巡りの旅は、自宅を出た瞬間にはじまっている。だから私にとっては、寺院の中の出来事のみならず、電車やバス、車、航空機の旅からホテルの宿泊、食事、入浴からセックス、スナックやレストランに入ったことまで、全てが寺院巡りの旅の出来事に入ってしまう。これらの全てが、寺院巡りの旅の1ページになっているのである。

寺跡調査・寺院巡りの旅は一人旅ないしは二人旅。宿泊先は、大半がビジネスホテルやシティホテルになる。格安のビジネスホテルやシティホテルもJTBで予約が出来る。ビジネスホテルやシティホテルは、京都駅周辺や寺院仏閣が多い東山周辺でよく宿泊した。この場合は食事は、夕食は外のレストランで朝食はホテルのバイキングというパターンが大半。入浴は大浴場があるホテルと大浴場がないホテルがあり、大浴場がないホテルだと、部屋にある風呂に入らなければならない。男と女の二人旅だったら、この他にセックスが加わる。()

ここでは、食事付きの民宿、ホテル、料亭旅館に宿泊した時のことを書いてみたい。

私がまだ三十代のころの全国旅行で京都に来たとき、京都東山の慈照寺銀閣にほど近い民宿に宿泊したことがあった。ここは、二十年以上経っても、とても印象に残っている民宿。

というのは、車で民宿に着いた後、「さあ、どうぞどうぞ」とばかりに、部屋に案内された。民家の中にある狭い風呂に入った後、部屋で食事。料理が次々とテーブルの上に並べられ、ビールは何と大瓶のキリンビール。大瓶のビールが出てきたというのも珍しかった。

この民宿がもうひとつ特徴的だったのは、トイレが水洗式トイレではなく、昔ながらの汲み取り式トイレだったこと。私の実家もそうだが、昔からつづく民家は、みな汲み取り式のトイレだった。これが市町村の下水道事業が推進され、徐々に水洗式トイレに変わっていった。この時、すでに私の実家ですら、地元T町の下水道事業で水洗式トイレになっていたのに、京都市内にあるこの民宿が、まだ汲み取り式トイレだったので、「あれ、まだ汲み取り式トイレなの」と思ったくらい。

さらにこれには、オマケ話しがついた。私たちが部屋でビールをのみながら食事をしていた最中、何とこの民宿の主人が、汲み取り式トイレの糞尿の汲み取りをはじめたのである。これにより、汲み取り式トイレから糞尿のものすごいクサイ臭いが、食事をしていた部屋の中にまで立ちこめてきた。しかも主人の汲み取りが長時間にわたったため、食事をしていた部屋の中は、糞尿の悪臭で充満してきた。これではとてもビールや食事どころではない。二人で早々に部屋で寝たのだが、もちろん糞尿の悪臭が充満する中で寝ることになり、とてもゆっくり寝るどころではなかった。

 

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真宗本廟・東本願寺(3)~東大寺大仏殿よりも面積が広い世界最大の木造建築・真宗本廟・東本願寺御影堂

■真宗本廟・東本願寺3(世界最大の木造建築・御影堂)

 

□東大寺大仏殿よりも面積が広い世界最大の木造建築・真宗本廟・東本願寺御影堂

 

1598年の豊臣秀吉の病没、1600年の関ヶ原の合戦で徳川家康が全国の覇権を掌握すると、1602(慶長7)年、徳川家康は京都烏丸六条に寺地を教如に寄進。さらに徳川家康の仲介によって、群馬県妙安寺伝来の親鸞座像(ご真影)が教如に寄進され、ここに東本願寺が造営された。真宗本廟・東本願寺の実質的な開基は徳川家康だと言うことができる。徳川家康の東本願寺寺域寄進が、本願寺の東西分立を固定化させた。徳川三代将軍家光のときに、東本願寺は新たに六条と七条の地を加増している。

しかし東本願寺は、江戸時代に合計四度の火災にあい、現在の御影堂、阿弥陀堂は、幕末の1864(元治元)年の禁門の変で焼失した後、明治28年(1895年)に再建が落成している。

教如が東本願寺を創建した当初の御影堂、阿弥陀堂は、現在の堂宇ほど大規模なものではなかった。「古寺巡礼・東本願寺」(淡交社)によれば、御影堂の間口で約三分の二、阿弥陀堂の間口でも約八割弱の大きさだったという。これが1661(寛文元)年の親鸞四百回忌を機に新たな御影堂、阿弥陀堂再建がはじまる。御影堂の再建は1652(承応元)年にはじまり、1658(明暦4)年に竣工している。「古寺巡礼・東本願寺」(淡交社)に載っている「歴代の御影堂・阿弥陀堂の規模」によれば、慶長度の創建時の御影堂は40.91m×32.72m。明暦・寛文度の再建の御影堂は61.81m×44.99m。単層入母屋造りから重層入母屋造りに改められている。明暦・寛文度の御影堂が、1788(天明8)年の大火で焼失。さらに1823(文政6)年には失火で焼失。さらに1858(安政5)年には安政の大火の類焼で焼失。さらに1864(元治元)年の禁門の変の兵火で焼失した。先の三度の焼失については、すぐに再建作業にとりかかり、短期間で竣工しているが、禁門の変の兵火での焼失からの再建は、幕末・明治維新の激動期でもあり、なかなか実施されなかった。これが1879(明治12)年になって、ようやく明治政府が再建を発令。全国末寺門徒の協力で再建資金と巨大な巨木が集められ、明治13年(1880年)に起工し、明治28年(1895年)の竣工。再建工事に携わった大工は、御影堂が延べ約128万人。阿弥陀堂が約56万人。再建工事での殉職者は105人。ケガをした人は292人。かなりの難工事だったようである。

現在の東本願寺は約93000m2という広大な寺域の中に、南北76m、東西58m(4408m2)、高さ38m、堂内927畳の御影堂。そして南北52m、東西47m、高さ29mの阿弥陀堂がある。

現在の東大寺大仏殿は高さ46.8m、間口57m(2667m2)、奥行50.5メートル。高さは東大寺大仏殿のほうが高いが、面積は東本願寺御影堂のほうが広い。よって世界最大の木造建築とは、東本願寺御影堂ということになる。ただし奈良時代、鎌倉時代の大仏殿は、高さは約50mと同じですが、広さは間口約86m×奥行約50m(4300m2)となっている。奈良時代、鎌倉時代の大仏殿と比較しても、現在の東本願寺御影堂(4408m2)のほうが、わずかに面積が広い。

御影堂1




















 

(真宗本廟・東本願寺御影堂)

 

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真宗本廟・東本願寺(2)~「大谷」姓を名乗る親鸞已来の代々の血族が門主(門首)を継承してきた真宗本廟・東本願寺

■真宗本廟・東本願寺2(親鸞已来代々血族の門主継承)

 

□石山本願寺合戦・本願寺の東西分裂により人工的に生まれた真宗本廟・東本願寺

 

浄土真宗大谷派本山・真宗本廟・東本願寺へは、何度も行っており、直近では20141月に参拝している。私は、ほぼ12年に1回くらいのペースで京都に行っているのだが、東本願寺には何度も行っている。というのは、東本願寺は地理的にJR京都駅からとても近い所にある。JR京都駅烏丸口から北へ伸びる烏丸通り沿いに東本願寺があるのだが、東本願寺の前で、烏丸通りが東側にグニャリと道が曲がりくねる。これは地上を歩いているとよくわからないが、JR京都駅烏丸口の前にある京都タワーの展望室から見ると、グニャリと曲がりくねる烏丸通りが実によく見える。

東本願寺門前の、御影堂門・阿弥陀門と曲がりくねった烏丸通りの間は、東本願寺の大きな行事等で団体参拝があったときに、バスターミナルに早変わりするようである。

東本願寺に行くと、今まで寺院の堂宇・伽藍よりも、東本願寺前でグニャリと曲がりくねる烏丸通りのほうが、印象に残っていた。というのは、東本願寺の場合、巨大な御影堂、阿弥陀堂や御影堂門、阿弥陀門は印象的なのだが、仏教寺院の総本山や大本山によく見られる塔中子院がない。

だから御影堂と阿弥陀堂と、曲がりくねった烏丸通りが印象に残っていた。

真宗本廟・東本願寺に塔中子院がないのは、東本願寺が江戸時代初期に徳川家康の寄進で造営されたという創建因縁が大きく関係していると思われる。つまり真宗本廟・東本願寺は、仏教寺院の総本山や大本山のように「自然発生」的に生まれたのではなく、本願寺の東西分裂、徳川家康の寄進、本願寺を東西に分裂させたまま固定化するという江戸幕府の宗教政策という、いわば「人工的」に生まれた寺院であることが大きいと思われる。では真宗本廟・東本願寺は、どういう経緯で生まれたのか。島田裕巳氏監修「はっきりわかる日本の仏教宗派」(成美堂出版)の記事を元に話を進めてまいりたい。

真宗本廟・東本願寺の創建は1602(慶長7)年。1600年の関ヶ原の合戦の二年後、1603年の徳川家康の征夷大将軍任命の前年である。なぜ真宗本廟・東本願寺が生まれたのか。これは有名な本願寺の東西分裂によって生まれた。ここまでは知っている人は多いと思われる。

本願寺がなぜ東西に分裂したのか、というと、織田信長と石山本願寺の合戦である「石山合戦」の終結をめぐって、退去か籠城かで意見が分かれたことが発端である。本願寺11代門主・顕如(15431592)を中心とする勢力は織田信長との講和を受け容れたのに対して、顕如の長男である教如を中心とする勢力は、これを拒んで籠城を主張した。そのため、教如は顕如から義絶されてしまう。石山本願寺の織田信長明け渡し後、石山本願寺は火を放たれ灰燼に帰してしまう。

教如は大和、近江、安芸など流浪するが織田信長が本能寺の変で死去すると、顕如と教如は和解する。その後、豊臣秀吉の天下統一の翌年、1591(天正19)年、豊臣秀吉が京都七条堀川に広大な寺域を寄進する。これが今の西本願寺である。本願寺11代門主・顕如の没後、12代門主は当初は顕如の長男・教如が後を継いだ。

 

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