仏教宗学研究会のブログ

「仏教宗学研究会」とは会の名称。「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」が管轄。「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。「仏教宗学研究会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」は表裏一体の同体異名。日蓮正宗、創価学会・SGI・顕正会・正信会、さらに富士門流執着軍団…らを批判する主旨は同じ。 (背景写真は高野山真言宗総本山・高野山奥の院灯籠堂参道)

「仏教宗学研究会」とは「アンチ日蓮正宗」管理人が設立した会の名称。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。富士門流執着軍団批判は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄だが、「日蓮正宗系」以外の富士門流寺院の調査・研究は「仏教宗学研究会のブログ」の管轄。
「仏教宗学研究会」への誹謗中傷に対する反撃・糾弾は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。
さらに正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」の公式サイト「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」から、カルト宗教対策、カルト宗教取締特別立法、カルト宗教拡散防止条約制定の活動部分を独立させたものが「国際カルト宗教対策委員会(Icat-Cult)」

□正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」(アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ)
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2014年11月

真宗・仏光寺本廟(1)~浄土真宗仏光寺派本山・仏光寺の親鸞御廟である仏光寺本廟

■真宗・仏光寺本廟1(仏光寺の親鸞御廟)

 

□仏光寺本廟の親鸞御廟に入っている親鸞遺骨とは高田・浄興寺から分骨されたものなのか

 

真宗大谷派本山・真宗本廟・東本願寺の親鸞廟が大谷祖廟・東大谷、真宗本願寺派本山・西本願寺の親鸞廟が大谷本廟・西大谷であるが、浄土真宗仏光寺派の本山である仏光寺にも親鸞御廟がある。それが京都東山にある仏光寺本廟である。仏光寺本廟も東大谷、西大谷と同じく京都東山にあり、三門もどことなく、東大谷、西大谷の三門とよく似ている。境内の中には、本堂、寺務所、親鸞御廟、一般墓地があるが、そんなに広いという印象はない。

この仏光寺本廟は、私が京都・寺跡調査旅行で宿泊したウエスティン都ホテルの数軒となりにある。仏光寺本廟の南側には、青蓮院、知恩院、円山公園、大谷祖廟・東大谷がある。私もウエスティン都ホテルから徒歩で京都市内の寺跡調査に出るときに、偶然、ここを見つけて入った。

仏光寺本廟の親鸞御廟は、拝殿はなく、石造りの御廟があるだけ。この仏光寺本廟の親鸞遺骨は、どこから来たものなのか。新潟県・高田の浄興寺の話しによれば、仏光寺や高田専修寺にも浄興寺から親鸞頂骨を分骨しているのだという。であるならば、ここ仏光寺本廟の親鸞御廟に入っている親鸞遺骨とは、浄興寺から分骨されたものなのか。ただし、浄興寺は東本願寺、西本願寺、興正寺からの分骨礼状を格蔵していて、宝物殿で公開しているが、仏光寺、高田専修寺からの分骨礼状はなかった。

いろいろ聞いてみようと寺務所に入るが、誰もいない。そのうち、仏間から数人の門徒らしき人が出てきて、そそくさと靴を履いて寺務所から出て行った。そのうち、受付に寺務員の女性が出てきて、いろいろ話しをしたが、この女性、ずいぶんと愛想がいい女性でした。

本廟5





















本廟3





















本廟1



































 

(仏光寺本廟三門)

御廟2





















御廟3



































 

(御廟)

本堂1




















 

(本堂)

寺務所1




















 

(寺務所)

 

 

大谷本廟・西大谷(2)~石山戦争等からして浄興寺から西本願寺への親鸞頂骨の分骨説がまことに説得力が高い

■大谷本廟・西大谷2(親鸞真骨2)

 

□石山戦争等からして浄興寺から西本願寺への親鸞頂骨の分骨説がまことに説得力が高い

 

西本願寺を本山とする真宗本願寺派の親鸞廟所が大谷本廟・西大谷であるが、親鸞遺骨の行方を追っていく中で、本願寺の基となった大谷廟堂とその後の大谷本廟成立の歴史は、まことに興味深いものがある。浄土真宗本願寺派・本願寺出版社が出している冊子「本願寺グラフ」には、「本願寺の歴史」と題する次の文が載っている。

「もともと本願寺は、親鸞聖人の廟堂から発展した。親鸞聖人が弘長2(1263)年に90才で往生されると、京都東山の鳥辺野の北、大谷に石塔を建て、遺骨を納めた。しかし聖人の墓所はきわめて簡素なものであったため、晩年の聖人の身辺の世話をされた末娘の覚信尼さまや、聖人の遺徳を慕う東国の門弟たちは、寂寞の感を深めた。そこで10年後の文永9(1272)年に、大谷の西、吉水の北にある地に関東の門弟の協力をえて、六角の廟堂を建て、ここに親鸞聖人の影像を安置し遺骨を移した。これが大谷廟堂である。この大谷廟堂は、覚信尼さまが敷地を寄進したものであったので、覚信尼さまが廟堂の守護をする留守職につき、以後、覚信尼さまの子孫が門弟の了承を得て就任することになった」(冊子「本願寺グラフ」p6)

つまり本願寺の基は、親鸞の遺骨を納めた大谷廟堂だということで、その留守職に大谷廟堂を寄進した覚信尼の子孫(つまり親鸞の子孫)が就任することになり、これが今の本願寺門主(宗主)ということになる。これは西本願寺門主・東本願寺門首も親鸞・覚信尼の子孫である。

ところがこれと異なる見解が本山浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」の中に載っている、盛岡大学長・元上越教育大学長・上越市史編集委員長の加藤章氏が「浄興寺小史」と題する論文である。加藤章氏は次のように書いている。

「親鸞は、しばらくこの地で布教し、貞永元年(1232)ごろ、京都に帰るにあたり、弟子の善性にその跡を譲った…」「浄興寺の宗教的権威を支えるものは、まず本寺(浄興寺)が宗祖親鸞の浄土真宗開教の道場であること。さらに最も崇敬される宗祖の頂骨を護持しつづけてきたことがあげられる。」(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」p2223)

浄興寺の寺伝によれば、浄土真宗の宗祖・親鸞は90才にて京都で遷化(死去)。京都・東山の鳥辺山墓地で荼毘に付されて葬られた。しかし親鸞の頂骨と遺品は、親鸞二十四弟子の一人、善性に相伝され、善性が護持してきたと伝承する。その善性に随って親鸞の頂骨と遺品は、京都から稲田草庵へ、さらに長野へ、そして高田の浄興寺に至るというわけである。

さてもうひとつ、親鸞に関する興味深い研究・論説がある。それは井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」である。井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」8巻から、井沢元彦氏の親鸞に関する興味深い研究・論説親鸞に関する研究・論説の要旨を引用してみたい。

 

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大谷本廟・西大谷(1)~鳥辺山の親鸞「御荼毘所」とは離れた所に建っている真宗本願寺派の親鸞廟所・西大谷

■大谷本廟・西大谷1(御荼毘所・親鸞真骨)

 

□鳥辺山の親鸞「御荼毘所」とは離れた所に建っている真宗本願寺派の親鸞廟所・西大谷

 

真宗本廟・東本願寺を本山とする真宗大谷派の親鸞廟所を大谷祖廟・東大谷と言うのに対して、西本願寺を本山とする真宗本願寺派の親鸞廟所を大谷本廟・西大谷と言う。東大谷も西大谷もどちらも京都・東山にある。東大谷が東にあり、西大谷が西にあるというわけではない。これは大谷祖廟は、東本願寺(真宗本廟)の親鸞廟であるから東大谷、大谷本廟は西本願寺の親鸞廟であるから西大谷と呼ばれているものと思われる。西大谷は、室町時代のころから共同墓地で有名な鳥辺山にある。この鳥辺山は、大石寺・要法寺・保田妙本寺三祖日目の墓所がある日蓮本宗(要法寺門流)實報寺がある、あの鳥辺山である。

大谷本廟・西大谷の三門は、京都・東山五条の交差点脇にある。JR京都駅から東山五条までは、徒歩で行けないこともないが、私はここに行くときは、バスかタクシーを利用する。西大谷の境内は、東大谷と比べてかなり広く、親鸞廟所の拝殿もきちんと整備されている。真宗本願寺派の門徒数は約780万人。寺院・教会・布教所数は10369。教師(僧侶)数は19465。これだけ大規模な宗門であるので、それだけ参詣者も多いということだろうか、親鸞廟所も念入りに整備されているのが印象的。西大谷・親鸞廟所の後方には、広大な門徒(信徒)の墓地が広がっている。このあたりは上古の時代から、鳥辺山墓地とよばれた所である。

実は親鸞が火葬・荼毘に付されたのがここ京都・鳥辺山なのである。親鸞は90才で京都鳥辺山の延年寺で火葬され、荼毘に付されたと本願寺の寺伝では、伝承している。親鸞が荼毘に付された所を、真宗本願寺派では「御荼毘所」と呼んでいて、「御荼毘所」は京都・鳥辺山に今も残る。鳥辺山の中にあるのだが、大谷本廟・西大谷と同一所ではなく、離れた飛び地になっているところが面白い。しかもその飛び地に行くには、同じく鳥辺山にある大石寺・要法寺・保田妙本寺三祖日目の墓所がある日蓮本宗(要法寺門流)實報寺の墓地の中を通って行かないと、行けないのである。

 

□明治維新の時に京都市からの廃寺命令でとっくに廃寺になって消滅していた鳥辺山・延年寺

 

現在、鳥辺山ないしは鳥辺山近辺には、鳥辺山墓地が存在するが、それは實報寺墓地、西大谷墓地、ないしはその近辺にある寺院の墓地であって、延年寺ないしは延仁寺という名の寺院は存在しない。鳥辺山の山道をどんどん登っていくと、「延年寺旧跡墓地」という名の墓地があるが、鳥辺山に延年寺という名の寺院は存在しない。「延年寺旧跡墓地」には、別の管理者がいる。そこで

「延年寺旧跡墓地」管理者(鈴木花店)にお話を伺ってみると、延年寺という寺院は、今日、存在していないという。「いつなくなったのですか」と質問すると、「延年寺は明治維新のときに、なくなりました」との回答。「廃仏毀釈でなくなったのですか」と質問すると、「いいえ、そうではありません。京都市のほうから、廃寺命令が出て、なくなりました」との回答でした。

 

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真宗・仏光寺(3)~大石寺9世日有が浄土真宗仏光寺派・専修寺派から輸入した「唯授一人の血脈相承」

■真宗・仏光寺3(法脈のパクリ)

 

□大石寺9日有が浄土真宗仏光寺派・専修寺派から輸入した「唯授一人の血脈相承」

 

ひきつづき、浄土真宗の歴史の概略、真宗専修寺派の「唯授一人口決」、真宗仏光寺派の「法脈」の概略については、井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」8巻から要旨を引用してみたい。

----つまり親鸞の血脈を持たない僧侶も、仏光寺なら親鸞の「法脈」に連なることが可能になり、その法脈に連なることができるかどうかの認定権を仏光寺が握った。つまり仏光寺は、「法脈」の看板を与えて、師範にすることもできれば、住職に任命することもできる。又、逆に「破門」にすることもできるわけで、僧侶は「法脈」の絵系図という「免許」を得るために、仏光寺の忠実な奴僕になる。仏光寺は、信者が抱える不安に巧みにつけいり、「名帳」なる名前の「極楽往生決定者名簿」を作り上げて、信者の心をつかんだ。信者の不安とは、

「本当に自分は極楽往生が決定しているのか」「自分の信仰には誤りがないのか」という不安。

仏光寺はここに巧みにつけ込んで、親鸞以来の正しい教えを標榜する「法脈」の他に、「名帳」なる名前の「極楽往生決定者名簿」を作り、この名帳に名前が記された者は極楽往生が決定するとした。これが浄土真宗の信者の爆発的人気を呼び、われもわれもと仏光寺派に入信し、名帳に名前が記されることを願ったというわけである。

では仏光寺と同じ立場にあった専修寺では、どのように本願寺の血脈(親鸞直系の血筋・血統という意味)に対抗したのだろうか。この教派の代表的な僧は如道である。如道は次のように主張した。専修寺派の歴代住職は、親鸞から「唯授一人口決」を受け、親鸞と同格である、というのだ。

例えば剣術には免許皆伝という考えがある。これは師匠と同じ技量に達した、という意味だ。免許皆伝は技術の継承であるから、必ずしも師匠の子孫が受けるとは限らない。いくら実の子でも、技量が不足していてはどうにもならない。つまり、如道は、われわれ専修寺は親鸞から真宗の教義に関する「免許皆伝」を受けている、と言った。如道は親鸞からの「免許皆伝」は、専修寺の系統の僧だけに与えられた、とした。これが「唯授一人口決」である。これも実に巧みな作戦で、こうすれば本願寺は「ただの親鸞の子孫」に過ぎなくなり、「専修寺こそホンモノ」ということになる。如道は、「唯授一人口決」を受けた者(つまり如道自身)は、親鸞と同格になるとも言った。仏を念ずることによって、往生が決定した僧は、阿弥陀如来と同格であり、極楽もその胸のうちにある。したがって念仏も仏像を拝むことも、一切不要であり、逆に信者は仏ではなく、「仏と同格」であり身近にいる僧(もちろん専修寺の僧)こそを崇拝すべきだということになる。仏光寺の了源、専修寺の如道がなぜこんなことを言ったのかと言えば、こうすれば門徒がそれぞれの寺に集まり、教団が発展するからである。----(井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」8巻要旨)

この仏光寺の「法脈」、高田専修寺の「唯授一人口決」は、今の日蓮正宗の「二箇相承」「唯授一人の血脈相承」を頂点とする教団システムに全く瓜二つ。そっくりなのである。

 

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真宗・仏光寺(2)~親鸞の子孫の「血脈」に勝るとする「法脈」を強調し絵系図を考案して布教した仏光寺派・了源

■真宗・仏光寺2(法脈・絵系図)

 

□親鸞の祖廟を親鸞の子孫一族で独占して教勢を拡大しようと計って失敗した親鸞の曾孫・覚如

 

現在、浄土真宗の教団で最大宗派は、門徒数が約780万人、寺院・教会・布教所数が10369、教師(僧侶)数が19465人の浄土真宗本願寺派(西本願寺)である。が、室町時代はそうではなく、最大教団は、浄土真宗専修寺派、浄土真宗仏光寺派であった。この浄土真宗の宗史について、浄土真宗の教団側が出している資料の中に、これらをわかりやすく説明した資料がなかなか見つからず、むしろ井沢元彦氏の「逆説の日本史」の記述のほうが一般には、わかりやすいと思われる。そこで浄土真宗の歴史の概略、真宗専修寺派の教義、真宗仏光寺派の教義の概略については、井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」8巻から要旨を引用してみたい。

----親鸞の死後、本願寺教団は全く勢いがなく崩壊寸前だった。それが復活したのは蓮如という天才的な布教者が出て、一挙に教勢を挽回したから。蓮如以前の本願寺がいかに衰えていたか。開祖親鸞の死後、親鸞の教えを継ぐ者は、第一に親鸞の子孫だった。最澄にも空海にも法然にも栄西にも道元にも日蓮にも、直系の子孫はいない。しかし公然妻帯し四男三女をもうけた親鸞には、直系の子孫がいる。その親鸞直系の子孫が本願寺を建てた。しかし鎌倉時代から室町時代前期のころ、本願寺に参詣する門徒がほとんどいないほど衰え、逆に本願寺以外の真宗教団が隆盛していた。それが浄土真宗仏光寺派、浄土真宗専修寺派である。

浄土真宗仏光寺派も専修寺派も、いずれも浄土真宗宗祖・親鸞の弟子たちが開祖になっている。親鸞には直系の子孫の他に、何人かの直弟子がいた。とはいっても親鸞は、弟子を弟子とは呼ばずに「御同朋御同行」と呼んでいた。今風に言うと「同志」ということだが、親鸞の高弟たちは、親鸞の子孫である本願寺教団には従属せず、次々と独立して布教していった。

親鸞の死後、本願寺は浄土真宗の中で唯一絶対の総本山だったわけではなく、むしろ全国に多数ある浄土真宗教団のひとつにすぎなかった。本願寺は親鸞直系の子孫であり、開祖親鸞の墓を護っていたが、真宗の教義では、極楽往生を保証してくれる救い主は本尊の阿弥陀如来であって、凡夫の親鸞ではない。普通の人に過ぎない親鸞の「墓参り」には関心がなくなってしまったのである。しかしながら浄土真宗の各教団も、初期のころは、いくつかの教団に分裂はしていたものの、宗祖「親鸞」を統合の象徴としていた。それに飽き足らず、本願寺派の教線拡大を狙う親鸞の曾孫・覚如は、親鸞の祖廟を親鸞の子孫一族で独占して、教勢を拡大しようと計った。これが本願寺の起こりで、覚如は、本願寺開祖を親鸞とし、覚如を第3世として、本願寺住職で、親鸞の子孫である本願寺教団の代表者・最高指導者を「法主」と呼ばせた。しかしこれが失敗に終わった。

 

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