■池上本門寺9(2011年・池上本門寺お会式紀行2)

 

池上本門寺のお会式は、1011日からスタート。午前11時から第1会の報恩法要が大堂ではじまる。

法要は「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)と唱えながら大堂須弥壇の向かって右側から僧侶がぞくぞくと出仕。大導師席には池上本門寺82世・酒井日慈貫首猊下が着席したが、この他に副導師として、鎌倉の本山貫首二名が副導師席に着座。どこの本山だったか、名前は忘れました。片瀬・龍口寺と鎌倉・妙本寺の貫首猊下だったと思ったが。

私も日蓮宗寺院の法要は全て参詣したわけではないが、私が見た限りでは、大導師の貫首は僧侶の出仕行列の中にはいって、いっしょに堂内に出仕してくる。

これは身延山久遠寺の法主の場合も同じだったと思う。

ところがこれが大石寺になると、先に僧侶・信者が堂内に着席した後、僧侶・信者が唱題をする中、法主が仲居僧を従えて、偉そうに出仕してくる。だから大石寺の法主はひときわ偉そうな人物に見える。

さて池上本門寺御会式・第1会の報恩法要の大導師と副導師は、三角頭巾のような僧侶の帽子をかぶり、袈裟・衣も他の僧侶の僧衣と比べて、ひときわ派手。大導師・副導師は、正面向きで着座していましたが、他の出仕僧侶は二列になって向かい合わせに着座。須弥壇に向かって横向きに座る。こういう光景は、日蓮宗の法要の他にも他宗法要でもよく見かける。

出仕僧侶の僧衣は、薄墨色の衣に鼠色の袈裟。僧侶の帽子は、インターネットで調べたところ、帽子と書いて「もうす」と読むとのこと。これが儀式用の正装ということ。

威儀を正すために冠られるぼうしに近い用途のもので、中国の宋代の禅宗に端を発し、鎌倉時代に臨済宗・曹洞宗の伝来と共に日本に伝えられたという。中国の俗服の冠にかえて、僧服にも使用されるようになった。禅衣を用いる宗派では、正装に用いる。

禅宗以外で帽子を着用する宗派は、浄土宗、日蓮宗、時宗、新義真言宗であるということですが、日蓮宗でも帽子を着用しない宗派もある。たとえば日蓮正宗では、法主は帽子を着用しない。

しかし日蓮正宗大石寺法主は帽子を着用しないが、他の富士門流本山の小泉久遠寺、西山本門寺、伊豆実成寺貫首は帽子を着用する。

浄土真宗も帽子は着用しないと思いますね。私は浄土真宗僧が法要で帽子を着用しているのを見たことがありません。

さて法要は、法華経の読経からスタートするのですが、僧侶の読経の声を聞いていても、法華経のどの品のどのあたりを読んでいるのか、ほとんどわかりませんでした。わかったのは、方便品・寿量品以外の品をかなりたくさん読んでいたこと。ただし28品全てを読経していたわけではありません。

御会式21大堂
 

□参詣信者が読経しない形で数百年の間、定着してきた池上本門寺御会式

 

外陣には、団体参拝とおぼしき信者さんたちがたくさん座っていましたが、信者さんが読経していた様子はなし。読経していたのは、僧侶だけだったように思いました。

一部の参詣信者の人は経本を片手に読経している人もいましたが、大半の人は読経していません。これは日蓮宗寺院の法要に参拝すると、ほぼ同じ光景である。

ここで断っておかなくてはならないが、私は法要に参詣している信者の人たちが読経していないのはよくない、などと言っているのではない。そんなことを言う気は全くない。

私は「在家の読経は、大衆文化として根付かない」という説に立っている。

池上本門寺御会式は、数百年もの昔から今日に至るまで、大衆文化として深く根を下ろしている。

がこれは、御会式の万灯練り供養に信者の人たちが参加し、信者をはじめ多くの人が池上本門寺に参拝することが定着しているのであって、信者の人たちが法要で読経することが定着してきたわけではない。

こう言うと日蓮正宗や創価学会の信者は口をそろえて「信者が読経しないのは、本当の宗教ではない」などと言って、自分たちは勤行でちゃんと読経していると胸を張る。

しかし日蓮正宗や創価学会の信者が欠かさず勤行・読経している、というのはウソである。実際、信者自身が、勤行をよく休んでいることを認めている。彼らとて、読経が日常生活の中に定着していないのである。

実際は勤行をよく休んでいるのに、さも毎日欠かさず勤行をしているかのように偽るよりも、読経しないという、ありのままの姿で、そのまま文化として定着している方が、よほど人間らしいと思う。

誤解のないように附言すると、私は「在家は読経するな」と言っているのではない。それは、在家の方で、読経がおできになる方は、それは素晴らしいと思いますし、そういう方は、読経をおやりになられるのは、結構なことだと思います。でも、仏教寺院の法要で見聞する限り、そういう方は、今でも非常に少ない。

もうひとつの観点から言うと、鎌倉仏教の宗祖は、だれでもできる易行で、だれでも成仏できる、ということを説いているわけですが、日蓮も「南無妙法蓮華経と唱えれば、誰しもが成仏できる」と説いた。ならば、在家に無理矢理、読経しろと押しつけるのは、「南無妙法蓮華経と唱えれば、誰しもが成仏できる」と説いた日蓮の教えにも反しているのではないのか。

 

本門寺参道や本門寺通り、本門寺境内には、初日の日中からすでにテキ屋の露店が所狭しと店を構えていました。しかし初日は、まだ参詣の人も多くはなく、テキ屋の露店もほとんど開店休業のような感じ。おそらく初日から場所取りをしておこうということなのだと思われます。

御会式14的屋