■池上本門寺11(2011年・池上本門寺お会式紀行4)

 

池上本門寺・お会式二日目の「宗祖御更衣法要」は、内陣は多数の僧侶が座って、ほぼ満席状態。内陣の両サイドにある外陣には、壇信徒席が設けられ、ほぼいっぱいの信者が座っていた。この法要でも、私が見聞した限りでは、実際に読経をしていたのは、内陣に座っていた僧侶のみ。外陣に座っていた信者は、読経している様子はなく、ただ合掌して座っているのみ。

仏教寺院の勤行や法要なんて、こんなものじゃないかと思います。浄土真宗本山の法要で満堂の参詣信者が、正信偈を読む声に唱和していたのを見たことがあったが、浄土真宗でよく読んでいる正信偈は、お経とよく似ているが、正確に言うと、仏典ではない。正信偈とは「正信念仏偈」といい、親鸞の著書『教行信証』の「行巻」の末尾に所収の偈文のこと。これは読経とよく似ているのだが、読経とはやや違う。

さて日蓮宗寺院の法要に出ると、熱心な信者さんが、経本を見ながら読経している姿をごくたまに見かけますが、そういう人は、法要の中に居ても1人か2人くらい。

こういう話しを書くと、日蓮正宗や創価学会の信者は、目くじらを立てて「それではダメだ。実際に読経が出来なければ、ダメなのだ」などと言い出しそうですが、私は、全くそんなことはないと思う。

つまり、「在家は無理して読経ができるようにならなくてもOK」という考え方なのである。

前にも書きましたが、池上本門寺のお会式は、それこそ数百年前から今日に至るまで、地域の文化として、地域行事として、完全に根を下ろして定着しているものです。もちろんこれは、「在家・信者は読経せず合掌しているだけ」という形で定着している。これで充分ではないでしょうか。

これが、日蓮正宗や創価学会のように、「在家も読経ができなければダメだ」式に、在家に読経を強制していたら、池上本門寺のお会式は、こんな数百年の間、地域文化として定着しなかったのではないか。

 

それでは、日蓮正宗や創価学会の信者が、毎日欠かさず朝夕の勤行を行っているのかというと、決してそうではない。実際、信者自身が、勤行をよく休んでいることを認めている。こういうのを、定着しているとは言わない。私は、「在家の読経は、文化として根付かない」という説に立っている。

実際は勤行をよく休んでいるのに、さも毎日欠かさず勤行をしているかのように偽るよりも、読経しないという、ありのままの姿で、大衆文化として定着している方が、よほど人間らしいと思う。

誤解のないように附言すると、私は「在家は読経するな」と言っているのではない。それは、在家の方で、読経がおできになる方は、それは素晴らしいと思いますし、そういう方は、読経をおやりになられるのは、結構なことだと思います。

でも、仏教寺院の法要で見聞する限り、そういう方は、非常に少ないです、今でも。

御会式2立て札


 

□大衆文化として定着してきた宗教は大衆に難行・苦行を無理矢理押しつけてはいない

 

大衆文化として定着した宗教は、大衆に難行苦行を無理矢理押しつけたりはしていない。難行苦行を押しつけたりしていなかったからこそ、一般大衆に広まって定着したと考えられる。

世界中に約20億人以上の信者がいるといわれているキリスト教と比較してみよう。

信者は毎週日曜日は教会に行くように言われるようだが、しかし信者全員が毎週欠かさず、教会に行っているわけではない。

キリスト教の主な宗教活動とは、祈祷・聖書の朗読・聖体ないし聖餐にかかわる儀式、司祭や牧師らによる説教が行われる。祈祷はしばしば歌唱を伴った聖歌や賛美歌のかたちで行われる。席上、信者からの献金が集められることが普通であるが、献金は義務ではないという。

又、キリスト教の信者が、毎日、日蓮正宗や創価学会の信者が行っているような、長時間の読経・唱題といった、むずかしい修行を行っているとは聞いたことがない。キリスト教の祈りといっても、教会で両手を握って、だまって祈っているだけである。

まあ、こういう簡単な、誰でもできる修法だから、世界中に広まったというのも、なんとなく、うなずけるものがなくもない。

日本の法然、親鸞は「南無阿弥陀仏と唱えれば、誰でも、どんな悪人でも極楽往生できる」と説き、この教えが日本中に広まった。いわゆる浄土教の教え、今の浄土宗、浄土真宗である。

この「南無阿弥陀仏と唱える」という修行法は、だれでも簡単にできる修行法である。それまで仏教という宗教は、天皇、皇族、貴族、武家といった上流階級の人たちが信仰する宗教だったのが、「南無阿弥陀仏と唱えれば、誰でも極楽往生できる」という教えが、一般庶民の間に急激に広まったわけである。特に鎌倉時代、室町時代に急激に全国各地に弘まったことは有名である。

もちろん浄土宗、浄土真宗の寺院に行けば、儀式・法要では僧侶が読経する。葬儀・法事などでも正信偈を読むということは行われている。

しかし浄土宗や浄土真宗の信者が、日蓮正宗のカルト信者のように、長時間の読経や念仏三昧を自慢していたなどと言うのは、聞いたことがない。

又、葬儀や法事などにおいても、僧侶は正信偈を読むが、ほとんどの一般参列者は、正信偈を読むということはしていない。が、浄土宗や浄土真宗の法灯は代々受け継がれてきており、ある程度は、庶民の間に今も定着していると言えよう。日本の大衆には今も「南無阿弥陀仏」が深く浸透していると言うことが出来る。

もうひとつの観点から言うと、鎌倉仏教の宗祖は、だれでもできる易行で、だれでも成仏できる、ということを説いているわけですが、日蓮も「南無妙法蓮華経と唱えれば、誰しもが成仏できる」と説いた。ならば、在家に無理矢理、読経しろと押しつけるのは、「南無妙法蓮華経と唱えれば、誰しもが成仏できる」と説いた日蓮の教えにも反しているのではないのか。

というわけで、私は「在家は無理して読経ができるようにならなくてもOK」という考えで、今の状態でも充分だと考えている。