■宇治平等院3(阿弥陀如来像)

 

□光り輝く浄土の世界の象徴であり権威・権力の象徴でもあった「金」

 

次に私が興味深かったのは、平等院鳳凰堂に祀られている本尊・阿弥陀如来像。

その阿弥陀如来像があまりにも巨大であったことと、もうひとつ。この阿弥陀如来像に金箔が貼られていたこと。鳳凰堂見学を案内してくれた係員の説明によれば、鳳凰堂の阿弥陀如来像は寄木造りで、漆・金箔が貼ってあるとのことでした。

寄せ木造りとはなんぞや、という話になりますが、寄せ木造りと対照的なのが、一木造り。

一木造りとは、一本の木から仏像を彫り出す技法のことで、寄木造りとは、数本の木材を寄せ合わせて仏像を彫る技法のこと。

漆塗り・金箔貼りになっている仏像は、全国各地の大寺院にあることはある。

「金」とは、現世での富や豊かさの象徴であり、仏教の世界においては、古くから至高の存在として、仏の三十二相の「金色相」の如く、光り輝く浄土の世界として表現されてきた歴史がある。そして同時に「金」は権威・権力の象徴でもあった。

日本ではじめて自然金が確認されたのは奈良時代中期のことである。それ以前の弥生・古墳・飛鳥時代の金製品・金メッキ・金箔製品の金は、海外から輸入されたものである。弥生・古墳時代の金の装飾品は、まさに権力者の富の象徴だった。

日本では滋賀県野洲町の甲山古墳(6世紀前半)から日本最古の金糸が発見されている。

奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末~8世紀はじめ)では、天文図の星が金箔で表現されていることが確認されている。仏教伝来後の飛鳥時代になって、仏の三十二相の中の「金色相」の考えに基づき、仏像・仏具で金が使われはじめた。

 

「日本書紀」によれば、仏教は552年に百済国から金銅の仏像や経典が日本に伝わり、飛鳥時代から造仏が盛んになった。当時の仏像・仏具は銅で鋳造され、金メッキが施された。仏像や仏殿での金の使用は、仏の三十二相の「金色相」があり、仏像は金色とされ、西方浄土の世界も金色と記されているため。現在も日本を含め仏像・仏具には金色が尊ばれ、金箔が張られている。

743(天平15)年、聖武天皇は奈良・東大寺の大仏造営を決定し、仏像に金箔を飾ろうとしたところ、749年に陸奥国(宮城県)で「金」が発見され、900両の金が天皇に献上された。

天皇は年号を天平感宝と改め、歌人・大伴家持は

「すめろぎの 御代栄えむと東なる みちのくの山に 黄金花咲く」

と詠んだ。

鳳凰堂8
 

□平安時代の藤原氏の権勢を象徴している平等院鳳凰堂・阿弥陀如来像の金箔

 

平安時代末の12世紀、平泉・中尊寺金色堂に代表されるように、奥州には藤原氏により約100年にわたって、華やかな黄金文化が栄えた。

1124(天治元)年、奥州の実力者・藤原清衡が平泉に中尊寺金色堂を完成させたのである。光堂とも呼ばれる中尊寺金色堂の内外には金箔が張りめぐらされた。奥州藤原氏初代・清衡が建立した中尊寺には、寺や塔が40余り、奥州藤原氏二代・基衡が建立した毛越寺にも40に及ぶ寺や塔があった。これらの寺や塔の内部も金箔が張りめぐらされ金色に輝いていたと言われている。

中尊寺に蔵されている、仏教の全てを集大成した6000巻を超える経典である一切経には、初代・藤原清衡による金銀字交書一切経や三代・藤原秀衡の金字一切経がある。金泥で写経した経典には、奈良の大仏が建立された天平時代の写経、平清盛の平家納経や奥州藤原三代の中尊寺経などがある。藤原秀衡は、金字一切経のテキストである中国の宋版・一切経を金105000両を支払って購入したとされている。

奈良時代の日本における金発見以来、室町・戦国時代まで、日本の金のほとんどが奥州から産出したものであり、藤原清衡の棺の中には、32グラムの金塊が納められていた。

 

一方、当時の日本の首都・京都では、仏師定朝によって1053(天喜元)年に造られた京都・宇治の平等院・鳳凰堂の阿弥陀如来座像には、座像と光背、さらに光背を固定する吊り金具に金箔が施された。平等院は、そもそも摂関家・藤原氏の権威・権力によって創建された寺院であり、その寺院の本堂に祀られる阿弥陀如来像が漆塗り・金箔貼りになっているということは、まさに平安時代の藤原氏の権勢を象徴している、と言うことが出来る。

金は、仏教権威の象徴であるばかりでなく、権力と富の象徴だったのである。

 

さらに平等院鳳凰堂には、壁画が描かれていて、観無量寿経に説かれる西方極楽浄土の阿弥陀如来の宮殿を模しているという。

平安時代の日本において、他に比類する者がいないくらい絶大な権勢をふるっていた摂関家・藤原氏においてすら、西方極楽浄土への往生成仏を願っていた、ということが如実に伝わってくる。

鳳凰堂9