■宇治平等院4(摂関家・藤原氏)

 

□藤原摂関家・平安貴族たちが「観想念仏」をするために建てられた平等院鳳凰堂

 

実際に、平等院鳳凰堂の見学に行って、平安時代の日本において、他に比類する者がいないくらい絶大な権勢をふるっていた摂関家・藤原氏においてすら、西方極楽浄土への往生成仏を願っていた、という史実を目の当たりにすると、まことに心中複雑なものになりました。

藤原摂関家は、たしかに平安時代においては、絶大な権勢をふるっていたのかもしれないが、実際の政治は、というと、前九年の役や平忠常の乱、比叡山延暦寺と園城寺の紛争をはじめとする全国各地の内乱や焼き討ち、京都の大火、さらには飢饉や疫病流行に対して、なんら手立てを講じず、世は次第に戦乱の世になっていった。

ろくな政務もとらずに、世を乱れさせておいて、自分だけはひたすら死後の極楽往生を願っていたと言うのだから、今の時代の人が受ける印象は、よくないのではないだろうか。そんなに極楽往生を願っていたのなら、もっと徳治をすればよかったではないか、と言いたくもなる。

そういうことを考えると、仏教とは何なのか。宗教とは何なのか。救いとは何なのか。浄土思想とは一体何なのか、という実に奥深い課題に、つい嵌り込んでしまいそうになる。

 

奈良時代とか、平安時代という時代は、医療も医学もほとんどないに等しく、絶大な権勢をふるっていた摂関家・藤原家といえども、浄土教や浄土思想にしがみつくしかなかったということか。

何か病気にでもなれば、皇族や公家たちは、あてにならない当時の医師や薬師よりも、「病魔を退散させる」と自称して護摩行を修する霊媒師や僧侶を信頼していた。

最愛の人が寝込んでしまうと、皇族や公家、豪族たちは、病魔退散の僧侶を呼んできて、ひたすら祈祷させていた。

日本史研究家・著述家の井沢元彦氏は、ベストセラー本「逆説の日本史」の中で、日本史の謎を解明していくカギの一つとして「怨霊信仰」があると言っている。

井沢元彦氏は、日本の歴史には一貫して「怨霊信仰」が流れている、という。

井沢元彦氏は「怨霊信仰」と呼んでいるが、学問的には「御霊信仰」と呼ばれている。

「御霊信仰」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0

 鳳凰堂9

御霊信仰とは、天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なし、この「怨霊」を鎮めて「御霊」とすることによって、怨霊の祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本の信仰のこと。

怨霊とは、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊。怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらすと見なされていた。

こうした怨霊の官位を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀って、「怨霊」を「御霊」とすることによって、御霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が御霊信仰。通説では、平安期を通しておこったとされているが、井沢元彦氏は、大国主命を祀った出雲大社創建の太古の昔から怨霊信仰・御霊信仰はあったとしている。

 

さて怨霊信仰・御霊信仰はあったとしても、平等院鳳凰堂に祀られているのは阿弥陀如来像。

日本に、浄土思想はいつから弘まったのか。これもまことにわかりにくい話しなので、井沢元彦氏の「逆説の日本史」の記述を元に話を進めると…。

 

日本の浄土教普及の先駆者は、平安時代中期の僧・空也(903972)であるという。

空也は阿弥陀仏の名前を唱える口称念仏(称名念仏)を盛んにすすめた。称名念仏とは、言うまでもなく「南無阿弥陀仏」と称えること。これが誰でも出来る行であることから、庶民に弘まりだした。

しかしこれは一方で、貴族階級にはあまり受け容れられなかったという。貴族階級は、仏教のもっと高度な内容を求めたし、教えの内容が「ケガレ」た庶民と同じものでは満足しなかった。

この貴族階級の要求に応えたのが源信(9421017)。源信は、貴族向けの仏教解説書である「往生要集」を著して、「観想念仏」を効果ある念仏の方法として勧めた。

「観想念仏」とは、浄土三部経の「観無量寿経」に説かれている方法で、阿弥陀仏や極楽浄土をできるだけ「観想」する。つまり、思い浮かべることによって念仏を行う、というもの。

これが当時の平安貴族・公家たちの好みと一致した。

「観想念仏」をする一番効果的な方法は、この世に極楽浄土の有様さまを再現すること。

今日、国宝として残っている宇治・平等院鳳凰堂は、まさに「観想念仏」をするために建てられた堂宇である。

 

この井沢元彦氏の記述は、まことにわかりやすくて、説得力がある。

 逆説の日本史4