■池上本門寺31(池上「本門寺」寺号の由来)

 

□池上「本門寺」寺号は富士門流の「本門寺」思想とは全くの無関係である

 

池上本門寺の研究課題として、「本門寺」の寺号ということがある。

現在、日蓮入滅から200年くらいの間に創建された寺院の中で「本門寺」の寺号を名乗る寺院としては、北山本門寺、西山本門寺、讃岐本門寺と池上本門寺。北山本門寺の場合は、「法華本門寺根源」とか「富士山本門寺根源」と呼んでいる。

西山本門寺は「富士山西山本門寺」とか「富士山本門寺根源」を自称している。これは、「二箇相承」(偽書)にある「富士山本門寺」の寺号を名乗っていると考えられる。

讃岐本門寺は、正式には高永山本門寺というが、江戸時代から戦前にかけて、北山本門寺の末寺だったときは、法華寺を名乗っていた。

日蓮正宗大石寺も、将来的には「本門寺」の寺号を名乗るとしている。

そうすると、大石寺を含めても本門寺の寺号を名乗るのは、池上本門寺のみが日朗門流で、他は全て日興門流(冨士門流)ということになる。

日興門流には、古くから本門寺思想というものがあり、日蓮曼荼羅に「本門寺の重宝たるべきなり」との日興の加筆が散見される。

その他の本門寺思想からみの文献としては、百六箇抄、二箇相承、日順文書等があるが、百六箇抄、二箇相承は後世の偽作であり、日順文書についても日蓮正宗大石寺59世堀日亨が疑義を呈している。

本門寺思想の真偽はさておくとし、日興門流の寺院の「本門寺」寺号は本門寺思想から来ているとしても、そうすると日朗門流の池上本門寺の「本門寺」寺号は、どうして付けられたのか。いつから「本門寺」寺号を名乗っているのか、という疑問が出てくる。

この点、池上本門寺の公式ウエブサイトを見ても、

「長栄山本門寺という名前の由来は、『法華経の道場として長く栄えるように』という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられたものです。そして大檀越の池上宗仲公が、日蓮聖人御入滅の後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進され、お寺の礎が築かれましたので、以来『池上本門寺』と呼びならわされています」

として、本門寺の寺号は日蓮聖人が命名された、とは書いてある。そこで、池上本門寺の「本門寺」寺号について、池上本門寺の僧侶に質問したところ、下記のような見解であった。

大堂3
 

僧「本門寺の寺号については、池上本門寺の寺伝によれば、お祖師様(日蓮)が命名された、ということになっています。しかし、お祖師様のご遺文の中には、本門寺の寺号について書かれているものはひとつもありません。

ただし、古文書を紐解いていくと「本門寺 日朗」と書いた文献が存在しているので、日朗聖人在世のころには、すでに本門寺の寺号はあったと考えられます」

 

○「富士門流のほうでは『本門寺思想』ということを言っていますが、池上本門寺の『本門寺』の寺号は、『本門寺思想』と関係があるのですか」

僧「いいえ、池上本門寺の『本門寺』の寺号は、『日蓮聖人門下の寺院は全て法華本門の寺である』という考えから来ています。法華本門の寺であるから『本門寺』の寺号が付けられたものです。

冨士門流の『本門寺思想』というものは、関係ないですねえ」

 

○「冨士門流の『本門寺思想』というものは、お祖師様の教えではないのですか」

僧「先程も申しましたとおり、お祖師様の遺文に本門寺の寺号とか、『本門寺思想』に触れたものはひとつもありません。池上本門寺の『本門寺』寺号は、法華本門の寺という意味ですから。富士門流の『本門寺思想』というのは、さまざまな疑わしい点があるものです」

 

□池上「本門寺」寺号の名付け親は寺伝のとおり日朗の祖師・日蓮である可能性が高い

 

池上本門寺の『本門寺』寺号は、「日蓮聖人門下の寺院は法華本門の寺である」という意味から付けられた寺号で、富士門流の『本門寺思想』は全く関係ないとのこと。

池上本門寺の寺伝によれば、日蓮が「本門寺」と命名した、ということだが、日蓮の遺文に『本門寺』寺号に関するものは全くなく、二祖日朗の文書に「本門寺 日朗」と書いた文献があるとのこと。だから二祖日朗の代には、すでに本門寺の寺号があった、ということになる。

そうすると『本門寺』寺号を命名したのは、池上本門寺二祖日朗なのか。

日蓮が身延山から池上邸に入ったときから遷化するまでの間は、もちろん寺院ではなかったから、日蓮が「長栄山本門寺」の寺号を命名したという説には疑問符が残る。

しかし日朗が、師・日蓮が何も言わないのに「本門寺」の寺号を自分で命名したとは思えない。

確かに、日蓮遺文(御書)の中に「本門寺」に言及したものは全くない。それは、日蓮が身延山から池上邸に入ったときから遷化するまでの間は、病のため、筆も満足に執れない状態だったから、なのではないのか。

病の床にあった日蓮は、臨終間際の弘安五年(1282)10月になって、ようやく六老僧を指名したり、日像に京都開教を命じたりするなど、日蓮滅後のことについて遺言をしている。又、弘安五年(1282)9月に日蓮は自らの墓を身延山に建てよとも遺言している。

日蓮は病の床に伏せたが、「祖師の滅後はどうしたらいいのか」等、日蓮の滅後のビジョンを弟子の前に示さなければ、日蓮に入門した弟子・信者が納得しない。

「祖師の滅後、池上邸はどうしたらいいのか」「池上邸は将来は寺院化したい」「寺院化したときのために寺号を頂戴したい」

池上邸の病の床で、日蓮は、日蓮の床の側にいた日朗の言により、将来、池上邸を寺院化したときのために「本門寺」の寺号を命名したとしても、おかしくないと思われる。

御会式12巨塔