■三縁山増上寺4(寛永寺と交互に将軍霊廟が建てられた)

 

徳川将軍家の菩提寺は、天台宗本山・東叡山寛永寺と、浄土宗大本山・増上寺のふたつだった。

よって日光東照宮に祀られている徳川家康、徳川家光と、東京谷中霊園に葬られた最後の将軍・徳川慶喜の三人を除く12人の将軍の正墓が、寛永寺と増上寺のふたつに二分されて築かれている。将軍の他、正室もいっしょに菩提寺に葬られている。これは自明の理である。

徳川家康・徳川将軍家は、浄土宗に帰依したと言われているが、浄土宗一辺倒だったわけではなく、武田合戦の時は北山本門寺の「鉄砲曼荼羅」を守護本尊として陣中に持ち出しているし、川越・喜多院に天海大僧正を招いている。

後に、徳川秀忠は天海を招いて、江戸城の丑寅の方角に寛永寺を創建している。

しかし戦国時代ら安土桃山時代にかけて、最大級の武装仏教勢力だった真宗本願寺派を、東西本願寺に分裂させた分裂劇に関与しているのも徳川家康。

日蓮宗に対しては、豊臣秀吉の方広寺大仏殿の千僧供養時に、出仕を拒否した不受不施派を、公儀に従わぬ者として日蓮宗が他宗への攻撃色が強い事も合わせて危険視。不受不施派の日奥を対馬国に配流。家康死後も不受不施派は江戸時代を通じて弾圧され続けた。

日蓮宗に対しては、あまり好意的に見ていなかった、という見解も成り立つ。

浄土宗の知恩院を新たに門跡に加え、天台宗・真言宗の頂点として輪王寺に門跡を設けたことにより、知恩院・輪王寺は江戸幕府と強い繋がりを持ったことは事実のようだが、ただし、浄土宗に帰依していたかどうかについては、疑問符も残る。

増上寺の本殿・安国殿後方にある徳川将軍家の正廟は、普段は非公開になっている。しかし一年に数回、特別公開があり、私も一度、徳川正廟特別公開の日に見学に行ったことがあります。

徳川将軍家正廟は、本殿・安国殿の裏手にあるため、ここに行くには、三門から入って、安国殿の東側を通って裏手にぬける。

徳川将軍家正廟・特別公開の時は、正廟入り口の脇に、受付が設けられ、ここで拝観料を支払って、通用門をくぐり、正廟の中へ。正廟の中に入っていくと、巨大な塔が四隅に建てられていて、それぞれの塔の中に、将軍と正室が葬られている。

私がはじめて徳川正廟特別公開の見学に行ったときは、少々雨模様の日でしたが、年に数回の特別公開ということで、たくさんの見学客が来ていました。中高年の見学客が多かったように思います。

増上寺・徳川正廟に埋葬されているのは、二代将軍秀忠、六代将軍家宣、七代将軍家継、九代将軍家重、十二代将軍家慶、十四代将軍家茂の6人の将軍、5人の正室、5人の側室。

この5人の正室の中に、天英院がいる。

増上寺10徳川家廟
 

旧徳川将軍家霊廟は、御霊屋とよばれ、増上寺大殿の南北に並んで建てられていた。ここは、戦前は国宝に指定されていた。

ところが1945(昭和20)の東京大空襲でほとんどが焼失。国宝指定も解除され、1958(昭和33)に、文化財保護委員会が中心となって詳細な学術調査が行われ、土葬されていた遺体は荼毘に付され大殿の南北にあった墓所は一ヶ所にまとめられて、現在地に改葬された。

「大江戸お寺繁盛記」という本に、増上寺の徳川正廟にまつわる、面白い話しが載っている。

 

増上寺の権威は、将軍の霊廟があること。将軍の霊廟は幕府の費用で建立されるが、回向のための祭祀料も幕府が寄進した。将軍の葬儀はもちろん幕府の費用負担による、いわば「国葬」。

将軍の葬儀には、三百諸侯と言われた大名も香典を包む。六代将軍家宣が死去したときの香典は、60万石以上の大名は白銀30枚、25万~59万石クラスの大名は20枚といった具合に、幕府が諸大名に額を指定していたという。

さらに大名の他に、旗本・御家人と言った幕臣も香典を包む。葬儀の時だけで莫大な金が増上寺に入った。

さらにその後の祥月命日には、現将軍が増上寺に参詣する。霊廟に詣でるのは将軍の他に、江戸にいる全ての大名が詣でる。毎月の命日には、老中が将軍名代として代参した。

その折りにも、回向料が増上寺に納められるため、将軍の霊廟が建てられると、後々まで莫大な金が入る。

そのため、徳川将軍家の菩提寺である増上寺と寛永寺で霊廟の争奪戦になった。

家康の遺言により将軍家の菩提寺に指定された増上寺に、二代将軍秀忠は葬られた。以後の将軍も増上寺で葬儀を行い、増上寺に霊廟が建てられるはずだった。

ところが三代将軍家光は、天台宗の天海大僧正を信頼し、天海を招いて建立した寺院が寛永寺。

寛永寺は、比叡山延暦寺をモデルにしていた。伝教大師最澄が京都の鬼門の方角に比叡山延暦寺を創建したのに倣い、天海は江戸城の鬼門の上野に寛永寺建立を願い、許された。

山号は東の比叡山ということで東叡山。寺号は延暦寺創建の元号が延暦だったことに倣い、創建時の元号、寛永をとって寛永寺と名付けられた。

家光は、死に臨み増上寺ではなく、寛永寺で葬儀を行うよう遺言。家光の子である四代家綱、五代綱吉も、父と同じく寛永寺で葬儀が行われ、霊廟も寛永寺に建立された。

こうした寛永寺の菩提寺化に危機感を募らせたのが増上寺。幕府に対して、将軍の霊廟は自山にという運動を展開。その結果、六代家宣死去の時は増上寺で葬儀が行われ、霊廟も建立された。そうなると今度は寛永寺が巻き返しに出て、八代吉宗の霊廟は寛永寺に建立されたが、以後は両寺のメンツを立てる形で、ほぼ交互に霊廟が建立される形が定着した。

 

こんな話しが「大江戸お寺繁盛記」という本に、載っています。

大江戸お寺繁盛記1