■湯之奥金山博物館2・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館2

 

□昭和63年度に始まる「ふるさと創生事業」の一環で平成9年4月に開館した湯之奥金山博物館

 

この湯之奥金山博物館は、JR身延線・下部温泉駅から徒歩45分くらいのところにある。

あの当時は、東海道線の東京~静岡に特急「東海」が走っており、富士駅で身延線の特急「ふじかわ」と連絡していた。乗り換え連絡があったため、割とスムーズに東京から下部温泉に行けたのです。この特急「東海」は20073月で廃止され、今は走っていませんが。

スムーズに東京から下部温泉に行けたとは行っても、身延線は富士~富士宮は複線になっているのですが、富士宮~甲府は単線区間。

特急列車も単線区間に入ると、さすがにスピードダウンする。そういうわけで富士駅から下部温泉駅まで、約1時間くらいかかった。

博物館に到着して、早速、入場料を支払い、中の展示を見学。

この湯之奥金山博物館は、昭和63年度に始まった「ふるさと創生事業」の一環として平成元年に湯之奥金山調査団と調査会を組織、以後3箇年にわたって発掘などの総合学術調査が実施され、考古学・文献史学・民俗学・鉱山技術史・地質学等々からなる学際的総合調査が進められ「湯之奥金山遺跡」の姿が解明され、この調査結果をもとに平成9年4月に開館したもの。

したがって建物は、まさにできたての新館。まことにきれいな造りの建物であった。

私はまず順路の通りに進み、館内の展示の見学とメモをはじめたのでしたが、展示されていた湯之奥金山の概要、あらまし、金の採掘、金鉱山の様子、金山衆の概要…。

はじめてここに来たときの私にとっては、まさに目からウロコであった。

 

湯之奥金山博物館2

 

□武田氏が戦国大名の地位を確立する以前から金山衆によって稼業・経営されていた湯之奥金山

 

下部温泉駅前にある湯之奥金山博物館は、開館した当初は下部町だったが、2004年の下部町・中富町・身延町の合併で身延町になっている。

湯之奥金山博物館の展示は、概ね

□湯之奥金山の歴史・年表

□湯之奥金山の概要

□湯之奥の中山・内山・茅小屋の三金山と身延町内の金山

□湯之奥金山の金鉱石の特徴

□日本の金山・銀山分布

□戦国時代の甲斐国の金山

□武田信玄の甲州金と甲州金・江戸時代の金貨・貨幣制度

□武田氏と湯之奥金山・武田氏の古文書

□湯之奥村と穴山氏・穴山氏の古文書

□金山衆の生活と信仰

□湯之奥金山での作業・金堀・粉砕・灰吹・他金との比較

□日本・世界の金の歴史

こんなところである。

 

湯之奥金山は、「武田氏の隠し金山」と呼ばれていたらしいが、甲斐国の領主・武田氏、武田氏の家臣・穴山氏、そして実際に湯之奥金山で金を採掘し、金山を経営していた金山衆(かなやましゅう)にスポットが当たっている。

武田氏は湯之奥金山の経営に従事していた人たちのことを「金山衆」と呼んでいたらしいが、この金山衆は、一人一人が自分の掘間とそれに付随する権利を持つ独立した事業主だった。そして配下に多数の技能集団を抱えて、金を採掘していた。

そして湯之奥金山は、武田氏が戦国大名としての地位を確立する以前から、金山衆たちによって稼業・経営されてきていた。そして武田氏の領国統治が進む中で、金山衆も職人集団のひとつとして、武田氏に掌握されていったということ。

したがって湯之奥金山を含む甲斐国にあった諸金山について、武田信玄が開発したとか、あるいは武田氏の直轄事業であったというのは、間違いで、佐渡金山のように、幕府や諸藩が役人を派遣して直営した江戸時代の金山経営とは、根本的に違っているというのが、湯之奥の実情だったようである。

湯之奥金山博物館では武田氏や穴山氏が金山衆に発給した古文書が展示され、年表もつくられているが、武田氏・穴山氏が出した最も古い古文書は、1568(永禄11)11月のものである。

武田信玄は、1569(永禄12)年、甲斐国から駿河国に侵攻し、大石寺、北山本門寺、岩本実相寺を焼き払うという軍事作戦を行っている。

おそらく、このころ武田氏は、湯之奥金山を掌握し、大石寺等々から金の利権を取り上げたと考えられる。こういうことからして古文書と周辺の史実が一致している。

湯之奥金山の採掘がはじまったのが15世紀前半だから、武田氏が湯之奥金山を完全掌握したのは、約150年も経ってからのことということになる。