■湯之奥金山博物館3・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館3

 

□戦国大名・武田氏の軍役も担っていた湯之奥金山の金山衆

 

それでは、実際に湯之奥金山で金鉱を採掘し、精錬、経営していた金山衆(かなやましゅう)と呼ばれる人たちは、いかなる人たちだったのか。これについては、湯之奥金山博物館の「金山に生きる」のコーナーの□「金山衆の生活と信仰」□「金山衆とはという項目」で、展示されている。

展示を見ると、金山衆がいかなる宗教を信仰して、どういう生活をしていたのか、ということが細部にわたって、発掘調査や古文書調査等々で判明しているというから面白い。

その証拠を示すものとして、湯之奥の中山金山付近で祀られていたという社の棟札、湯之奥金山周辺に残っている石造物、発掘調査で出土した磁器、陶器、陶磁器、銭貨、銅製品、碁石、武田氏が発行した古文書、朱印状、井出正次手形といった文献を挙げている。

金山衆の古文書については、湯之奥金山のすぐ隣の甲斐国・駿河国の国境(山梨県・静岡県の県境)付近に富士金山という金山があり、その富士金山を采配した金山衆の末裔である竹川家が現存しており、竹川家の古文書も調査されているという。

甲斐国・駿河国の国境をはさんで湯之奥金山と富士金山は隣接しており、金鉱脈は同一である。江戸時代の初頭の段階で、富士金山には16本の掘間があり、駿河代官・井出正次が竹川家に、湯之奥の中山金山の掘間の管轄を命じた文書が、先の井出正次手形である。

金山衆というのは、金山の経営を行う技術者であるが、彼等は金鉱の掘間を所有し、操業し、ときには戦国大名の要請に応じて、戦にも参加した。武田氏の発給した古文書に依れば、金山衆は馬の通行税も免除され、商業活動も行っていたということである。

戦国大名・武田氏の勢力が最も盛んだった元亀2(1571)、武田信玄が北条氏の属城である駿河国・深沢城(静岡県御殿場市)を攻略しているが、この戦には多くの金山衆が参加し、戦功を立てた金山衆に対して、褒美が与えられた文書が残されている。

この深沢城の戦の他、金山衆が参加して手柄を立てたという伝承を有する城がいくつかあり、金山衆は「軍役衆」と同じような役割も果たしていたという。

軍役(ぐんやく、ぐんえき)とは、戦時に、武士が主君に拠出すべく課せられる軍事力や兵糧その他のこと。

軍役は広義には民衆に課せられる夫役のうちの兵役なども含まれるが、狭義には封建制度における「御恩と奉公」の関係において、知行地の安堵(御恩)と引き替えに主君に軍事的奉公を行うことである。

軍役は半農半士の土豪・地侍にも課せられた。武田家菩提寺、恵林寺領の例を見ると家臣団の末端に位置して武芸を専らとする「同心衆」のほかに、年貢の一部負担を免除された「軍役衆」の存在が見られる。彼らはいわゆる惣百姓(一般名主)とは異なり、年貢や夫役の一部を免除されるかわりに、戦時においては武田家への軍役を担ったのである。

似た制度は兵農分離以前の時代にあって各戦国大名家にみられ、豊臣秀吉・太閤検地の実施で兵農分離が進められるまで、各大名家の戦力の一部を担っている。

湯之奥金山博物館2 

 

□茶の湯を楽しむほど裕福だった湯之奥金山の金山衆

 

湯之奥金山で金鉱の採掘を行っていた金山衆が、どのような生活をして、どのような信仰をしていたのか、というのは大きなポイントである。金山衆がかなり裕福な説活をしていたのではないかということは容易に察しがつくところである。

湯之奥金山博物館の□「金山衆の生活と信仰」□「金山衆とは」の展示を見ると、湯之奥金山にある石塔、発掘調査で出土した茶の湯用の道具である織部焼、天目茶碗、茶壺等々の陶器、磁器、陶磁器等々から、湯之奥金山の金山衆は、相当な経済力を有していたと結論づけている。

湯之奥金山の詳細は、湯之奥金山博物館の展示の他に、湯之奥金山博物館館長・谷口一夫氏の著書「武田軍団を支えた甲州金」にも書かれている。「武田軍団を支えた甲州金」という本は、湯之奥金山博物館の売店にも売られている。

「武田軍団を支えた甲州金」の中を開くと、「第2章 金山遺構の全貌」の「4 地位もある人もいた生活の場」や「第3章 湯之奥金山の『金』」の「3 陶磁器にみる湯之奥金山の盛衰」「4 金山の暮らしの痕跡」の項目に詳しく書かれている。

それによると、発掘調査によって出土した陶磁器等々から、湯之奥金山で金を掘っていた金山衆の生活は、かんり裕福で、茶の湯を楽しんでいたという。茶を飲む習慣と茶の製法は平安時代に遣唐使によってもたらされたが、鎌倉時代に、日本に禅宗を伝えた栄西や道元によって薬として持ち込まれた抹茶が、禅宗の広まりと共に精神修養的な要素を強めて広がっていった。

湯之奥金山が採掘されはじめた室町時代においては、飲んだ水の産地を当てる闘水という遊戯から、闘茶という、飲んだ茶の銘柄を当てる一種の博打が流行。また、本場中国の茶器「唐物」がもてはやされ、大金を使って蒐集し、これを使用して盛大な茶会を催すことが大名の間で流行した(これを「唐物数寄」と呼ぶ)。これに対し、村田珠光が茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説いた。これがわび茶の源流となっていく。

しかし江戸時代初期までの茶の湯人口は、主に大名・豪商などが中心のごく限られたものであったという。したがって室町・戦国・安土桃山時代の湯之奥金山で、茶の湯を楽しむなどと言うのは、まさに最高級のぜいたくだと言える。つまり湯之奥金山の金山衆は、大名か京都の豪商なみに裕福だったと言うことである。

湯之奥金山は、江戸時代に徳川幕府が佐渡金山や石見銀山に対して行った直接経営ではなく、最初に金山衆が湯之奥金山で金の生産を始め、後に武田氏が領有してから、金山衆が武田氏に従ったという、いわば間接経営であった。