■湯之奥金山博物館4・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館4

 

□湯之奥金山の金山衆は日蓮宗系・富士門流の「法華の信者」だった1

 

湯之奥金山で金の採掘・経営を行っていた金山衆は、いかなる信仰をしていたのか。

湯之奥金山博物館の「金山に生きる」のコーナー、「金山衆の生活と信仰」によれば

「金山衆の上層の人々は、祖母懐の茶釜や天目茶碗を用いて茶の湯を楽しみ、余暇には囲碁を楽しんでいた。彼等は亡くなると七人塚に代表される墓地に埋葬されたが、墓石からそのほとんどは法華の信者であったことが理解される」

とある。その証拠を示すものとして、湯之奥の中山金山付近で祀られていたという社の棟札、湯之奥金山周辺に残っている石造物、発掘調査で出土した磁器、陶器、陶磁器、銭貨、銅製品、碁石、武田氏が発行した古文書、朱印状、井出正次手形といった文献を挙げている。

金山衆の古文書については、湯之奥金山のすぐ隣の甲斐国・駿河国の国境(山梨県・静岡県の県境)付近に富士金山という金山があり、その富士金山を采配した金山衆の末裔である竹川家が現存しており、竹川家の古文書も調査されているという。

甲斐国・駿河国の国境をはさんで湯之奥金山と富士金山は隣接しており、金鉱脈は同一である。江戸時代の初頭の段階で、富士金山には16本の掘間があり、駿河代官・井出正次が竹川家に、湯之奥の中山金山の掘間の管轄を命じた文書が、先の井出正次手形である。

湯之奥金山博物館の谷口一夫館長の著書「武田軍団を支えた甲州金」によれば、湯之奥金山にある石造物としては、中山金山には10基、内山金山には2基、茅小屋金山には10基あり、これらの石塔の中に「南無妙法蓮華経」の文字が見えるという。

あるいは、石塔に刻まれた戒名を見ると「悲母妙安霊」「慈父宗安」「母妙養霊位」といった日蓮宗系の戒名になっている。

こういったところから、湯之奥金山博物館では、金山衆のほとんどが「法華の信者であったことが理解される」というふうに結論づけているわけである。

湯之奥金山博物館3 

 

□湯之奥金山を操業・経営していた金山衆は大半が法華の信者・富士門流信者だった

 

金山に暮らす人々の生活の様子は、発掘調査の出土遺物によって窺うことができる。金山衆の上層の人々は、祖母懐の茶壺や天目茶碗を用いて茶の湯に親しみ、余暇には囲碁などを楽しんでいた。彼等は亡くなると七人塚に代表される墓地に埋葬されたが、甲斐黄金村・湯之奥金山博物館展示図録によると

「墓石からその(金山衆の)ほとんどは、法華の信者であったことが理解される」(52ページより)

「中山金山や茅小屋金山に残る墓石や供養塔などには『富士北山村』といった村名が刻まれているものがある。これは湯之奥金山の金山衆たちが、現在の静岡県富士宮市とも深い関わりを有していたことを示唆しており、たいへん興味深い」(p55より)

「中山金山とは尾根を挟んで反対側に位置する富士()金山を采配した竹川家の文書にも、両金山の密接な関連を示したものがあり、このことを裏付けている」(p55より)

と記しており、さらに湯之奥金山博物館展示図録p54では、中山金山の金山衆の菩提寺として、北山本門寺を特定しているのである。中山金山の金山衆たちは、北山本門寺を菩提寺とする富士門流の信者だったのである。

日蓮正宗大石寺九世法主・日有の時代は、富士門流の中でも、まだ大石寺と北山本門寺が同一の門流として、互いに交流があった時代であり、今のように分裂していなかった。

両者が分裂するきっかけになったのは、1482(文明14)97日、日有の死去する直前、大石寺と北山本門寺・保田妙本寺・小泉久遠寺の僧俗信者が血脈・本山問題などで紛争を起こした事件からである。(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』9p51・日蓮正宗富士学林編纂『日蓮正宗富士年表』p155より)

一般大衆がどこか特定の宗派、特定の寺院に所属が固定化されたのは、寛文11年(1671年)に宗門人別改帳が法整備されてからで、これ以降、武士・町民・農民など階級問わず民衆は原則として特定の仏教寺院(不受不施派を除く檀那寺、藩によっては神社もあった)に属することが義務となり、その情報は全て寺院に把握されたこと以降においてである。

つまり、江戸時代の日本で宗門改(宗門人別改)によって宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)という民衆調査のための台帳が寺院に作成され、この宗門人別改帳が戸籍原簿や租税台帳の側面を強く持つようになっていったわけである。

ではそれ以前は、どうだったかというと、浄土宗・浄土真宗、天台宗、真言宗、禅宗、律宗、南都六宗ぐらいの区別は一般庶民でも知っていただろうが、日蓮宗だからといって身延山久遠寺のみに参詣していたわけではなく、身延山にも参詣・供養する一方で、大石寺にも供養し、北山本門寺にも供養していたのである。

とは言っても甲斐国(山梨県)は身延山久遠寺が有力であり、駿河国(静岡県)は富士門流が有力であったから、甲斐国の人たちは主に身延山に参詣し、駿河国の人たちは主に富士門流の寺院に供養していたと考えられる。

したがって、これらのことにより、富士門流の信者だった中山金山の金山衆は、北山本門寺のみならず、日蓮正宗大石寺にも出入りして当時の大石寺9世日有にも供養を差し出していたことが、窺うことができる。では何を供養として差し出していたのだろうかと言えば、当然のことながら、彼等金山衆自身が湯之奥金山で採掘し精錬した金であることに他ならないではないか。

 

湯之奥金山博物館2