■湯之奥金山博物館6・日有の経済力を解き明かす湯之奥金山博物館6

 

□湯之奥金山の金山衆たちは富士門流の信者が多かった

 

湯之奥金山遺跡学術調査会・調査団の学術的総合調査によって、湯之奥金山博物館展示図録は、はっきりと中山金山の金山衆たちの菩提寺は、静岡県富士宮市にある富士門流八本山のひとつ・北山本門寺であったと特定している。ならば「北山本門寺の信者であった湯之奥金山の金山衆が、なぜ大石寺法主・日有に金を供養したのか」ということになるが、ここで当時の時代背景をよく考察する必要がある。

まず第一に、日蓮正宗大石寺9世法主日有の時代は、富士門流の中でも、まだ大石寺と北山本門寺が同一の門流として、互いに交流がさかんにあった時代であり、今のように全く口も聞かないほど決定的に分裂していなかったということ。

第二に、この当時、鎌倉・室町・戦国時代の仏教界は、今のように信者名簿や寺檀制度が整備されていたわけではなく、信者で「二重信仰」「三重信仰」していた人は、それこそたくさんいた。

富士門流内においては、京都・日尊門流、大石寺門流、西山本門寺、北山本門寺、保田妙本寺、小泉久遠寺等は、相互に交流があったわけだから、この富士門流の中で、例えば大石寺と日尊門流、北山本門寺と日尊門流、あるいは北山本門寺、小泉久遠寺、日尊門流といった風に「二重信仰」「三重信仰」の「かけもち信仰」をしていた信者は、ごく当たり前のように存在していた。

寺院と信者の関係が完全に固定化されたのは、江戸時代の寺請制度により、本山寺院信者の檀家制度が整備されて以降のことである。

したがって、日有の時代の金山衆たちは北山本門寺に参詣していたであろうが、同時に、大石寺にも出入りしていたであろうし、信者であれば、御講やお会式などの寺院参詣の折りや葬儀・法事・結婚式などの冠婚葬祭の折りなどには、供養を大石寺にも出すが北山本門寺にも差し出す。

湯之奥金山の掘間を所有し、金山を操業・経営し高度な技術を持っていた金山衆たちは、大石寺に供養した折りには、当然、自分達が生産した金を差し出したことは、疑いないことだ。

日有は、北山本門寺など他の富士門流本山寺院に先んじて、黒漆塗りに金箔加工を施した板本尊を造っていることからして、富士五山などの富士門流の本山寺院の中でも、特に湯之奥金山の金山衆たちと密接な関係があったと考えられる。

湯之奥金山遺跡学術調査会・調査団のさまざまな学術的総合調査によって、山梨県身延町(旧下部町)の甲斐黄金村・湯之奥金山博物館の展示や湯之奥金山博物館展示図録のみならず、湯之奥金山博物館館長・谷口一夫氏の著書「武田軍団を支えた甲州金」など学術研究者の著書においても、はっきりと湯之奥金山の金山衆は、「墓石からそのほとんどは法華の信者であった」と記載しており、湯之奥金山の拠点である中山金山の金山衆たちの菩提寺は、静岡県富士宮市の北山本門寺であったと特定している。

北山本門寺39仁王門


 

□仏教寺院と檀家・信者の関係が固定化されたのは江戸時代の「宗門改」以降である

 

寺院と信者の関係においては、島原の乱の翌年の1638(寛永15)年、江戸幕府がキリスト教を厳禁するとともに、キリスト教そのものの取り締まりを強化するために、人々がキリシタンかどうかを調べる宗門改めを行い、すべての人々をどこかしらの寺の檀家とし、その人が仏教徒であることを寺が証明する制度(寺請制度)を設けて、寺院と信者の関係を完全に固定化している。

しかしながら、それ以前においては、寺院と信者の関係は、特定の寺院所属の信者として固定化されておらず、特に日有の時代の頃までは、南無妙法蓮華経を唱える法華の信者であれば、北山本門寺にも参詣すれば、大石寺にも参詣するといった信仰生活をしていた。

日興の門流の系統である富士門流の本山寺院である大石寺も北山本門寺も、特に区別して見られていなかったのである。

山梨県文化財保護審議会委員・湯之奥金山博物館運営委員の堀内真氏は、1998(平成10)117日の湯之奥金山博物館第4回公開講座で、金山衆の末裔の家筋、富士市・富士宮市につながる家筋、金山遺跡に残された石造物の調査などの結果から

「中山金山で活動していた金山衆は、元々甲州(甲斐の国・山梨県)の人間ではなく、駿河(静岡県)の人間であった可能性が極めて高い」(『金山史研究』第1p73より)

と結論付けている。このような学術研究の結論からすると、湯之奥金山の発見から開発に当たっては、静岡県富士宮市・富士市側に住む、元来から北山本門寺や大石寺など富士五山と呼ばれる富士門流の本山寺院に参詣していた人たちが、湯之奥金山に入って金鉱を掘り、金山を開発していったということになる。

そうであるならば、湯之奥金山で活動していた金山衆たちが、日蓮正宗大石寺9世法主日有のもとに、自分たちが掘った金を供養するなどということは、極めて自然な行為である。

まさに、この湯之奥金山の金山衆たちが大石寺9世日有に供養し差し出した「金」こそが、対せ恥の「戒壇の大本尊」なる板本尊偽作に使われ、大石寺をはじめ富士門流の歴史を大きく変え、20世紀に入って、数千万人というおびただしい数の人々の人生を狂わせる結果をもたらした。

一方で、「それならばなぜ菩提寺の名前が大石寺にならずに、北山本門寺として特定されることになったのか」という問題が出てこよう。

それは、日興・日目が入滅した直後から、日興門流・富士門流の「総本山」は、日興の正墓がある北山本門寺と見なされていた、ということが大きいと考えられる。

大石寺9世日有は、湯之奥金山の金を使って「戒壇の大本尊」なる板本尊を偽作して大石寺の中心本尊とし、その大石寺を、日興の正墓がある北山本門寺を凌ぐ富士門流の総本山に、日蓮の正墓がある身延山久遠寺・池上本門寺を凌ぐ日蓮宗・日蓮一門の総本山にしようと企てた。

しかし大石寺・本門寺周辺から疑惑の声が止まらず、明治になって富士門流の八本山寺院で「日蓮宗興門派」「日蓮本門宗」を立ち上げた時も、本門宗の総本山は大石寺ではなく、北山本門寺であり、宗務院も北山本門寺に設置されていた。