■湯之奥・猪之頭線3・室町時代、日有が往還に使った上人路・「湯之奥・猪之頭線」3

 

□湯之奥・猪之頭線を実際に車で走って室町時代の大石寺9世日有の足どり調査2

 

私は車で、富士宮市猪之頭地区から、国道139号線に出て本栖湖方面に北上。本栖湖畔で国道300号線に出て、身延町方面に向かいました。このあたりも大雨の影響による、がけ崩れがあり、一部の区間で、迂回走行しなければならない区間がありました。

湯之奥・猪之頭線の山梨県側の入り口は、富士川沿いを走るJR身延線・下部温泉駅入り口にあります。ここは、国道52号線・富士川街道から入っていきます。

JR身延線の踏切を渡って、下部温泉駅前を通り過ぎ、右手に、湯之奥金山博物館を見ながら、毛無山方面へと車を走らせる。下部温泉駅から下部温泉までは、すぐなのですが、その途中、下部川沿いを走る湯之奥・猪之頭線が大雨の影響で、道路の一部が川に崩落し、修復工事が行われていました。下部温泉駅から下部温泉まで、車で行けば、すぐに着いてしまいます。徒歩で行ったとしても、ものの数分で着くのではないかと思われます。それくらい、近い所にあります。

下部温泉は、戦国時代、武田信玄の隠し湯と言われた温泉であると同時に、大石寺9世日有が、下部温泉に湯治に来ていたことが、大石寺17世日精の著書「家中抄」に書いてあります。

湯治という行為は、日本においては古くから行われていたが、古くは湯治を行っていたのは権力者など一部の人に限られていた。一般の人の間でも湯治が盛んに行われるようになったのは、江戸時代以降である。これは、街道が整備されたことにより遠方との往来が容易になったためである。大名と大名の合戦が行われなくなったことにより、農閑期に時間が発生した農民が、蓄積した疲労を癒す目的で湯治を行うようにもなった。

室町時代・戦国時代において、下部温泉で湯治をしていた人たちといえば、甲斐の国の大名、武田氏や穴山氏、大名の家臣、武士、近くの湯之奥金山で金を掘っていた金山衆(かなやましゅう)たちといった、裕福で経済力のある人たちだった。大石寺9世日有も、甲州・湯之奥金山で金を採掘していた金山衆からの供養により、かなり大きな経済基盤を保持していた。

湯治とは、本来は、温泉地に少なくとも一週間以上の長期滞留して特定の疾病の温泉療養を行う行為であり、日帰りや数泊で疲労回復の目的や物見遊山的に行う温泉旅行とは、別のものである。したがって、当時は長期滞在を前提とした湯治客のみが温泉宿に宿泊できたため、一泊のみの旅行者は温泉宿には泊まることができなかった。しかし、一泊宿泊の温泉客は後を絶たず、その抜け道として、一日だけ湯治を行うとする一泊湯治などと称して温泉宿に宿泊したという。

さてもうひとつ温泉宿で特筆すべきことは、この当時、温泉宿においては、すでに「湯女」(ゆな)と呼ばれる女性たちがいたということである。

大石寺9世日有の時代は、当然のことながら、温泉宿の風呂・銭湯は、当たり前の常識として、「男女混浴」の風呂であった。それは下部温泉の場合も同様である。

湯之奥金山が金山衆(かなやましゅう)によって採掘されていた室町・戦国・安土桃山時代のころ、湯之奥ないしは下部に遊郭があったということです。ただし発掘調査では、遊郭跡は発見されなかった。今の下部温泉に、遊郭や花街は全く存在していません。

 下部温泉3

下部温泉の温泉街は、下部川沿いの山肌に面したところに、湯之奥・猪之頭線、下部川に沿って、ホテル、旅館、立ち寄り湯などが立ち並んでいます。

下部温泉のホテルや旅館は、ずいぶん昔から営業しているところばかりのようです。

道路は、下部温泉から湯之奥地区に向かって走っていくにつれて、どんどん狭くなって行きます。

所によっては、乗用車がやっと一台通れるくらいまで狭くなっている箇所もあります。

室町・戦国・安土桃山・江戸時代に金堀りが行われていた湯之奥集落は、下部温泉街から、毛無山方面に向かって、山の中に入った所にあります。下部温泉街を通り過ぎると、民家はほとんどなくなり、道路も狭くなり、登り坂が延々とつづきます。

さて、下部温泉街からどんどん山道の登り坂を車で上って、しばらく走った頃、何と左側の山肌から濁流が流れ出し、これが湯之奥・猪之頭線の道路を横断して、右下の下部川に流れ込んでいる、という箇所に出くわしました。

つまりこれは、山肌で、がけ崩れが起こり、鉄砲水が噴出して、これが道路を横断して、下部川に流れ込んでいるというわけです。見ていて「これはヤバイなあ」という感じです。

下部湯之奥線1


しばらく私も、道路を横断している鉄砲水の流れを見ていましたが、ここで引き返したら、私としても納得がいきません。私は、道路のど真ん中を横断して流れる鉄砲水を強行突破して、湯之奥集落に向かいました。

さてどんどん山道をどんどん進行していったのですが、湯之奥集落にたどり着くまでの間に、がけ崩れが起きていて、修復工事が行われている所が数カ所ありました。

「これで湯之奥まで、たどり着けるのかな」とも思いましたが、なんとか湯之奥集落にたどり着くことができました。ここは、毛無山で金鉱掘りが行われていた時代、金鉱掘りをしていた金山衆(かなやましゅう)の集落が元になったもので、今も湯之奥金山の「湯之奥」の名前が残り、湯之奥金山の古文書を多数格蔵している門西家もここにあります。

私がこのとき走ったルートは、富士川街道から下部温泉に入り、湯之奥にたどり着くというルートでしたが、静岡県側からも、大石寺から朝霧高原を北上して猪之頭地区に入り、そこから林道・湯之奥・猪之頭線に入って、湯之奥・猪之頭トンネルを抜けると、湯之奥集落にたどり着きます。

今、トンネルになっている所は、毛無山の山頂に近い所ですが、このあたりでは、戦国時代から江戸時代前半にかけて、さかんに金鉱掘りが行われていた所です。

もちろん室町・戦国の世に、トンネルはなかったとは思いますが、静岡県富士宮市側から毛無山に登る登山道は今もいくつも残っています。

金鉱掘りは江戸時代に廃止され、その面影はありませんが、集落は今も残っています。

下部湯之奥線4