■湯之奥・猪之頭線4・室町時代、日有が往還に使った上人路・「湯之奥・猪之頭線」4

 

□毛無山麓に大石寺9世日有が金山衆を引き留める為に創建した日蓮正宗寺院・有明寺

 

私は、湯之奥・猪之頭線の調査を行っていた時、日蓮正宗大石寺9世法主・日有が創建したという寺院・有明寺にも行っています。

ここは、富士川街道・JR身延線・甲斐ときわ駅前から大杉山方面へ行く県道があり、さらに有明寺入り口は、この県道から右斜め方向に分岐して、細い道を下っていきます。この分岐した細い道の突き当たりが、日蓮正宗寺院・有明寺です。

有明寺3


有明寺に行く道は、車一台がやっと通れるような道路でとにかく狭い。こんな狭い道では、車のすれ違いすら困難である。有明寺では御会式や御講などの年中行事が行われているはずですが、大きな行事があって、たくさんの信者が参詣したときなど、不都合は生じないのだろうか。

有明寺の前には広い駐車場があるので、車で有明寺に参詣する信者はかなりたくさん居ると思われる。有明寺につながる道路が、こんなすれ違いも困難な道一本しかないのでは、行事が終わって信者が帰宅しようとするときなどは、大渋滞になるものと思われるのだが。

それとも、車だけではなく、徒歩で参詣する人もかなりいるということなのだろうか。

 

私が有明寺に行ったとき、庫裡・本堂の修理工事が行われていました。この工事の施工業者は、ここの信者なのでしょうか。

ここの庫裡・本堂は、どこにでもあるような外観の寺院建築になっていて、本堂に向かって右側は、広々とした広場になっていて、そこに大石寺9世日有の廟がありました。大石寺9世日有の墓は、大石寺の歴代法主の墓地にも建っています。

古文書によると、大石寺9世日有は14829月に有明寺で遷化(死去)したとなっていることから、そうすると日有の遺骨は、有明寺に埋葬されたということになる。それでは、有明寺の日有廟が、正墓ということか。日有廟のとなりには、日有手掘りの井戸なるものがあり、大石寺68世法主・早瀬日如の銘文もありました。

それでは、大石寺の歴代法主墓地にある日有の墓は、あれは正墓ではないということか。そうすると、大石寺には、日蓮、日興、日目、日有のいずれの正墓もない寺院ということになる。

まあ、大石寺に日有の正墓がないと言っても、日蓮正宗の信者たちは、また「有明寺から大石寺に分骨したのだ」などと言い張るのだろうが…。しかし有明寺から大石寺に日有の遺骨を分骨した証拠など、どこにもないはずなのだが…。

日有正墓1

 

50年に1度に行われる遠忌大法要が重なる日蓮の遠忌と大石寺9世日有の遠忌

 

ところで大石寺9世日有が遷化した1482年という年は、日蓮が入滅した1282年からちょうど200年後になる。ということは、日蓮の遠忌の年と、日有の遠忌の年が同一年になるということです。

1981年の日蓮七百遠忌の年も、日有五百回遠忌の法要が大石寺で行われています。日有の遷化は929日で、日蓮の遷化は1013日だから、日有五百回遠忌の法要が行われたのは、日蓮七百遠忌大法会のわずか二週間前のことである。

日蓮正宗という宗派は、実質的な宗祖・開祖は日有である「日有宗」とも言うべき宗派ですから、大石寺の日蓮の遠忌の年と、日有の遠忌の年が同一年になるというのは、何とも皮肉に見える。

有明寺の境内に立って周囲を見渡すと、まさにここは、室町・戦国・安土桃山の世に、金山衆(かなやましゅう)たちが金鉱掘りを行っていた毛無山の山麓であることがわかります。

まさに有明寺は、毛無山の麓にあるわけです。

ちょうど金鉱掘りが盛んに行われ、金山衆が多数いた毛無山のすぐ麓に、大石寺9世日有が有明寺を建立したという目的は、まさに大石寺9世日有が金山衆を自分の元に引き留めること以外の何物でもないということです。金山衆からの金の供養は、大石寺9世日有の莫大な経済力の源泉であり、金山衆は日有にとっては、最大のスポンサーだったわけです。

大石寺9世日有としては、何としてでも金山衆をつなぎ止めておきたかったでしょうし、金山衆の金の供養が他に行かずに、自分の手元に入ってくるように、ありとあらゆる策を施したことでしょう。

そのひとつが、まさに「戒壇の大本尊」の偽作。ここからはじまって二箇相承、日興跡条条事、日蓮本仏義、唯授一人血脈相承、百六箇抄、本因妙抄、産湯相承事、本尊七箇相承、御義口伝等々といったものが、次から次へと偽作されてくる。

有明寺の境内に立っていると、大石寺9世日有の黒い魂胆が見えてくるような気がしました。

有明寺1