■湯之奥・猪之頭線5・室町時代、日有が往還に使った上人路・「湯之奥・猪之頭線」5

 

□室町・戦国から江戸時代前半まで金鉱掘りの金山衆の町だった湯之奥地区

 

湯之奥・猪之頭線を下部温泉側から毛無山方面に向かい、切り立った山沿いを車でどんどん走っていくと、湯之奥地区にたどり着きます。下部温泉から湯之奥地区までの距離は、けっこう長く感じました。山梨県身延町の湯之奥地区とは、室町・戦国・安土桃山時代から江戸時代前半まで、毛無山山頂から今の山梨県側で採掘されていた湯之奥金山で、実際に金鉱を掘っていた金山衆(かなやましゅう)の町がおこりです。

湯之奥金山に関する古文書を格蔵している門西家も、湯之奥地区にあります。地区内には、金山跡に行くルートを案内する標識も立っていました。湯之奥地区は、元々は山梨県下部町になっていて、19891990年ころに行われた湯之奥金山跡の学術調査・発掘調査も、下部町だった時代のこと。その後、身延町、下部町、中富町の三町合併で身延町になっています。

湯之奥地区は、かなり山間部に入ったところにあります。湯之奥地区に通じる唯一の道路が、この湯之奥・猪之頭線で、この道路も、大雨があると、すぐにがけ崩れが起きてしまうような道路です。実際に下部温泉から湯之奥地区に向かう途中、何度もがけ崩れの跡に遭遇しました。

下部湯之奥線3










又、湯之奥地区の入り口付近には、1時間に○○ミリ以上の雨が降ると、通行止めになってしまうということで、何と道路上に、通行止め用の柵が設けられていました。そうすると台風や大雨になった場合、湯之奥地区自体が孤立してしまうことになります。これで大丈夫なのでしょうか。

湯之奥地区のある所は、もう毛無山の山の斜面に沿ったところにあり、ここから静岡県富士宮市猪之頭地区に抜けるトンネルに向かう林道・湯之奥・猪之頭線は、かなり急な斜面をはうようにできています。湯之奥地区内には、毛無山の山の斜面を利用して畑作が行われているようですが、水田は見当たりませんでした。

これよりずいぶん前のことですが、身延町教育委員会の職員に取材して、いろいろ話を聞いたときに、中世のころの、身延、下部、湯之奥近辺の人たちは、ずいぶん裕福な生活をしていた、という話しをしていました。当然、湯之奥金山の収入が大きかったと思いますが、その他に、林業をはじめ、さまざまな山林資源を採って、売っていたと言うことでした。山林資源の中には、きのこ、しいたけ、などの山菜類も入っているんでしょう。

資料によれは、しいたけは、古来日本では古くから産したものの、栽培は不可能で、山林で自生したものを採集するしかなかった、といいます。その一方で精進料理において出汁を取るためには無くてはならないものであり、道元が南宋に渡った際に、現地の僧から干し椎茸を持っていないかと問われた逸話があるほど高価な食材であった。精進料理とは、禅宗の寺院の僧侶の修行のひとつに、この精進料理をつくるというのがあります。

鎌倉時代に栄西、道元によって禅宗が日本に伝来しており、需要がそうとうあったにもかかわらず、供給のほうは、山林で自生したものを採取するのみ、ということでは、これは高く売れたでしょうね。今でも、しいたけは、相当に高価な食べ物です。その、しいたけは、江戸時代から、原木に傷を付けるなどの半栽培が行われ始めたといいます。人工栽培の方法が確立したのは、何と20世紀になってからだといいます。そういうことを考えると、中世の頃の湯之奥の人たちの裕福さというのは、相当なものだったと考えられます。

下部湯之奥線5


 




















□湯之奥金山閉山後も人が住み続けている湯之奥地区

 

室町時代中期、ちょうど日蓮正宗大石寺9世法主・日有が大石寺法主に登座した15世紀前半に発見されて採掘がはじまった湯之奥金山ですが、当初の15世紀から16世紀前半のころまでは、金山で金鉱掘りを行っていた金山衆(かなやましゅう)自身が、金鉱掘りそのものを経営していた。

しかし16世紀中頃、湯之奥金山は甲斐国の戦国大名・武田氏の家臣・穴山氏の支配下に入り、武田氏の金山となる。湯之奥金山を完全掌握した武田信玄が、この湯之奥金山から産出された金を元に、甲州金を造ったことはあまりにも有名です。武田信玄が造った甲州金は、日本ではじめて制度化された計数金貨であり、江戸時代の金貨・貨幣制度は、武田信玄の甲州金の制度を元に作られ、湯之奥金山は、武田信玄の「隠し金山」と言われたということです。

(湯之奥金山博物館の展示資料より)

武田氏が滅亡した後は、徳川氏の所領になり、江戸時代は、徳川綱吉等が大名として入ったこともあったが、その後は徳川氏直轄の天領と成っている。湯之奥金山は、徳川幕府直営の金山になります。しかし江戸時代中期になると、湯之奥金山の金鉱はほぼ掘り尽くされて枯渇してしまう。金鉱が枯渇したことによって、金山は閉山し、金山衆も山を下ってしまうわけです。金山衆は山を下りましたが、湯之奥集落には今も人が住み続けています。

静岡県富士宮市から毛無山トンネルをぬけた林道・湯之奥・猪之頭線が、この湯之奥地区を通って、そのまま下部温泉・有明寺方面にぬけていきます。

大石寺9世日有が大石寺と下部温泉、有明寺の往還に使った「上人路」(しょうにんみち)とは、今の林道・湯之奥・猪之頭線に間違いなく、日有はまさにこの湯之奥地区で、金山衆たちと面会し、金を供養されていたと考えられます。

法主が下向して、わずかでも滞在すれば、付近の信者が法主に面会して、供養を差し出すというのは、いわば仏教界の常識です。大石寺で、法主と信者が面会すれば、信者は現金を包んだ、それこそたくさんの熨斗袋を「奉御供養」として、法主に差し出します。

これは、信者団体の幹部が面会しても、一般信者が団体登山会等で面会しても同じ。

又、法主が末寺に下向して、総代をはじめ信者団体幹部と面会しても、信者は法主に供養金を差し出します。こういうのは、昔も今も変わりません。むしろ、今より身分制度が厳格だった昔のほうが、なにかと信者が法主に供養を差し出したのではないでしょうか。大石寺9世日有に面会した金山衆が差し出した供養金とは、まさに湯之奥金山から産出した金に他なりません。

湯之奥4