■湯之奥・猪之頭線6・室町時代、日有が往還に使った上人路・「湯之奥・猪之頭線」6

 

□湯之奥・猪之頭線を実際に車で走って室町時代の大石寺9世日有の足どり調査3

 

さて湯之奥集落から湯之奥・猪之頭線を逆に下っていくと、下部温泉に着きます。

ここは、古くから「武田信玄の隠し湯」といわれた温泉として有名で、さらに日蓮正宗大石寺9世法主・日有が、下部の湯に湯治に来ていたことが、大石寺17世日精の著書「家中抄」に載っている。

さらにこのあたりに、大石寺9世日有にまつわるものがあります。それは大石寺9世日有が創建した日蓮正宗寺院・有明寺です。有明寺は、下部温泉から、別ルートで毛無山方面に行く途中の杉山地区にあります。

湯之奥・猪之頭線からは少し入り組んだ所にありますが、位置的に言うと、まさに有明寺のある所は、金鉱掘りが行われていた毛無山山頂付近から、少し山梨県側に下った所です。

今は、毛無山方面に行く道から、「有明寺入口」と書かれた立て看板が出ている所から、脇道に入って行って、突き当たりが有明寺になります。

この有明寺のそばを通る毛無山方面への道は、今は静岡県側へは抜けられなくなっています。

がしかし、室町・戦国の世から富士宮方面からの毛無山登山道があるわけですから、山梨県側にも登山道はあったと考えられます。こうやって、毛無山付近をいろいろ調査していくと、大石寺、上人路、湯之奥・猪之頭線、湯之奥金山、湯之奥集落、下部温泉、有明寺と、大石寺9世日有にまつわるものばかりが出てきます。よってこれらの調査から、大石寺9世日有が

□大石寺と有明寺を斎日(7日・13日・15)ごとに往復していた。

□下部の湯へ湯治に行っていた

大石寺9世日有がこの往還に使っていたルートは、まさに今の林道・湯之奥・猪之頭線であると私は断定しました。つまりこれが、日蓮正宗が「上人路」(しょうにんみち)と呼んでいる道です。

私が積み重ねてきた調査の結果から、この上人路とは、今の湯之奥・猪之頭線しかあり得ない。

またこのルートは、大石寺9世日有が湯之奥金山で金鉱掘りを行っていた「金山衆」(かなやましゅう)から、湯之奥金山で採掘された金を受け取るルートのひとつであったと考えられます。

大石寺9世日有が毛無山山麓に、有明寺を創建したのも、この金山衆たちを大石寺信者として、つなぎ止めておく目的以外に考えられない。

第一、大石寺9世日有在世の代においても、毛無山、下部温泉、湯之奥、大杉山近辺で、日有に供養していた人たちと言えば、湯之奥金山の金山衆が最大であったことは間違いない。湯之奥金山博物館によると、湯之奥金山が発見されたのは、まさに日有が大石寺法主に登座した15世紀前半。この湯之奥金山が、甲斐国の戦国大名・武田家の家臣・穴山氏の所領になって、湯之奥金山の金が武田家の懐に入るようになったのは、16世紀になってからのこと。

湯之奥線2 





















15世紀前半には、比叡山延暦寺と戦争をした六代将軍・足利義教がいたが、その足利義教が1441年に家臣・赤松満祐に誅殺されて将軍の権威は地に落ち、15世紀後半の1467年に起こった応仁の乱で、京都が戦場になって、都が灰燼に帰して、世は戦国時代に入ります。

大石寺9世日有が法主だった時代は、足利幕府の勢力は完全に衰退し、甲斐国まで及んでいなかった。よって湯之奥金山博物館の展示資料からしても、湯之奥金山発見~穴山氏の所領になるまでの間、金山衆が自力で金山経営をしていたとしています。

 

湯之奥・猪之頭線の下部側の出入り口になる山梨県身延町下部温泉駅前にある湯之奥金山博物館の展示資料によると、湯之奥金山で金鉱掘りをしていた金山衆(かなやましゅう)たちは、南無妙法蓮華経を唱える法華の信者であったとしている。「それじゃあ、必ずしも大石寺の信者とは言えないのではないか」という疑問が起こるかも知れませんが、実は、これは疑問は当たらない。

鎌倉・室町・戦国の世といえば、現代社会のように、各宗教団体や寺院に「信者」「檀徒」「信徒」として登録されていたわけではない。僧侶の世界は、身分制度に厳格な縦型社会ですから、一旦、師僧のもとで出家得度すれば、所属の門流が決まるわけですから、他の門流との区別は存在します。しかし、信者はそうではありませんでした。

鎌倉・室町・戦国・安土桃山時代の一般庶民は、識字率は今とは比べものにならないほど極端に低く、仏典の読経が出来る人など皆無でした。そういう一般大衆からすれば、南無妙法蓮華経を唱える宗旨であれば、身延山久遠寺も、北山本門寺も大石寺も、小泉久遠寺も、いっしょくたん。

一般大衆が、一人一人、特定の寺院の檀信徒として登録されたのは、江戸時代、徳川幕府がキリスト教禁圧のために行った「宗門改」以降0のことです。

こういう時代背景の中で、大石寺9世日有は、「上人路」(しょうにんみち)と言われる、今の湯之奥・猪之頭線を歩いて、大石寺と湯之奥金山、湯之奥集落、下部温泉、有明寺を往還し、湯之奥で金山衆から金の供養を受けていたということです。

これが大石寺9世日有の莫大な経済力・財力の源泉になり、ここから大石寺の「戒壇の大本尊」偽作、数々の相伝書偽作、教義偽作が生まれた。まさに湯之奥・猪之頭線は、大石寺9世日有の莫大な経済力を生み、大石寺の「戒壇の大本尊」偽作、数々の相伝書偽作、教義偽作を生ましめた道ということができよう。

大石寺法主に登座した当初のころの大石寺9世日有には、先師の遺業を継承しようという純粋さが残っており、湯之奥金山の金による経済力を元手に、1432年、京都天奏に旅立つ。

しかし、朝廷・幕府への伝奏を司る比叡山延暦寺、園城寺等から、官寺修行や官寺の戒壇での度牒の経験のない日有は私度僧扱いされ、申状は門前払いにされてしまうという屈辱を味わう。

この後、大石寺9世日有は二度と京都伝奏をしなくなる。日有はこの経済力を元手にして、方向転換を計り、「戒壇の大本尊」偽作、相伝書偽作、教義偽作路線を突っ走って行くわけです。

湯之奥線1