■川越・喜多院1(天台宗檀林と日蓮宗1)

 

喜多院とは、埼玉県川越市内にある天台宗の寺院で、ここと中院はかつて星野山無量寿寺という寺院の子院だった。かつては関東天台宗580余ヶ寺の本山として栄えていた寺院。喜多院の山号は今も「星野山」(せいやさん)といい、星野山無量寿寺の山号が名前に残っている。

そしてここに天台宗の談義所が置かれ、ここから多くの天台宗の僧侶を輩出したという。

無量寿寺には北院(喜多院・仏蔵院)と中院(仏地院)の他に南院、その他にも塔頭子院があったとのことだが、明治維新の廃仏毀釈等で廃絶になっており、残っているのは喜多院と中院のみになっている。ずいぶん前から、喜多院・中院の研究課題として取り組んだことがあり、それは

 

1 室町時代から戦国時代にかけて天台宗檀林に日蓮宗僧が入学して修学していたのか

 

これがひとつあります。

もちろん安土桃山時代以降になると、関東、京都周辺に日蓮宗檀林が数多くできて、日蓮宗僧侶は、日蓮宗の檀林に入檀して、そちらで修学している。天台宗檀林に入檀していたかどうかは、日蓮宗の檀林ができる前の、室町時代から戦国時代にかけてのこと。

フリー百科事典・Wikipediaに、天台宗檀林に日蓮宗僧が入って修学していた、ということが出ている。この根拠になっているのは、おそらく富士門流の史書だと思われる。

中でも大石寺門流の史書である「家中抄」「下野阿闍梨聞書」「日有御物語抄」といった史書に、中世の大石寺法主である6世日時、8世日影、9世日有、13世日院が、武州仙波の天台寺院で修学したという文が出てくる。

日蓮正宗では、これらの史書に載っている文を、そのまま、何の検証もせずに史実として自宗の出版物に載せている。

これを史実としているのは、日蓮正宗だけではない。日蓮正宗を「棄教」したと自称する宗教法人無心庵責任役員をはじめ、彼らの取り巻きの者たちも、これについて何の検証もしないで、史実としている。

「本当に室町時代から戦国時代にかけて天台宗檀林に日蓮宗僧が入学して修学していたのか」

ということが、こうして研究課題となったわけです。

 

確かに日蓮宗の宗祖・日蓮は、比叡山延暦寺で長い間修学している他、園城寺などの京都、奈良の仏教大寺院で修学している。

比叡山延暦寺は、天皇の勅許によって建立された大乗戒壇であり、南都六宗の寺院も皆、官立の寺院。奈良、平安、鎌倉時代は、朝廷公認の官立寺院、ないしは戒壇で授戒した僧侶のみが、僧侶として認められていた時代。官立の寺院で得度するわけだから、僧侶の地位はほとんど国家公務員に等しかった。

喜多院2


これが室町時代になってくると、多少、変わってくるものの、それでも「朝廷勅許の戒壇で授戒した僧侶のみが僧侶だ」という風潮は依然として残っており、特に比叡山延暦寺がこれを死守しようとしていた。言わば、既得権益の死守といったところか。

日蓮宗は、南北朝時代に日像の京都開教が機縁となり、比叡山との対立を繰り返す中で、今の京都妙顕寺が「勅願寺」となる。これに反対したのが比叡山延暦寺で、この日蓮宗と天台宗の紛争は、比叡山宗徒による妙顕寺焼き討ち事件が起こり、さらにこれが天文の法難に発展する。

いわば、室町・戦国時代というと、天台宗と日蓮宗は、天敵に近い関係だったのではないか。

そういう対立関係にあったのに、「本当に室町時代から戦国時代にかけて天台宗檀林に日蓮宗僧が入学して修学していたのか」という疑問が沸騰してくるわけです。

 

 

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