■川越・喜多院5(江戸時代以前の喜多院の歴史)

 

□鎌倉時代後半から室町時代前半ころが最盛期だった無量寿寺の天台宗談義所

 

本堂外陣と賽銭箱の間に、受付があり、そこに若手僧侶が二人いて、数珠やお守りの類のものが売られていました。私が軽く会釈をすると、二人の僧も軽く会釈。

「本は売っていないのかな」と思い、本を探したのですが、そこには本が見当たらない。

そこで僧侶に「こちらでは喜多院に関する本は売っていないのですか」と質問。すると僧侶が

「本は、先程入ってこられた庫裡の受付で売っております」との返事。

つまり拝観券を売っていた庫裡の受付で売っていたということなので、私は僧侶に礼を言って早速、入ってきたルートをバック。本堂から渡り廊下を通って客殿、書院を通り、庫裡の受付へ。

そこには何冊かの本が売られていたのですが、とりあえず私は喜多院の歴史と堂宇に関する資料が欲しかったので、小冊子「喜多院 上 歴史」と「喜多院 下 文化財」を購入。

この小冊子「喜多院 上 歴史」を読んでみると、喜多院の歴史がまことにわかりやすく書いてあった。それを紐解いていくと……

 

今の喜多院の院号は、江戸時代初期に天海大僧正が住職になってからの名前で、元々の名前は無量寿寺の一子院であった北院(本来は仏蔵院)。江戸時代にこの北院が発展して喜多院になった。寺伝によれば、無量寿寺の開創は830(天長7)に慈覚大師円仁がこの地を訪れた時、寺を建立し、星野山無量寿寺仏地院という勅号を天皇より賜って、天台宗寺院として成立したと伝えられるという。

しかし円仁が関東布教をした形跡は見当たらず、検討の余地があるとするが、しかし816(弘仁7)、伝教大師最澄が関東地方に下向しており、9世紀前半の関東地方の情勢からして、このころ無量寿寺が成立していた可能性は否定できないとしている。

さてその後、無量寿寺は元久年間(12041206)に、兵火によって焼失し、廃絶となり、1世紀近くたったのちに、1296(永仁4)、慈光寺の尊海が勅を奉じて再建に着手した。

尊海とは、武蔵国足立郡の出身で足立郡川田谷村(桶川市)泉福寺の心尊(信尊)の弟子で、中世関東の天台教学の中心的人物とされる。小冊子によると、中世関東の天台宗教学は独自の発展をしていたという。

これはあまりに密教化した天台宗の体質を、本来の天台教学に戻そうとする、いわば復古運動が関東地方で独自の動きを見せたのだという。

尊海の師である心尊は、このような復古運動の代表的人物で比叡山延暦寺で修行した後、泉福寺に住して談義所を開設した。談義所とは、教学研究の学問所のこと。

喜多院4


その心尊の門下から、多くの学僧が輩出し、尊海は心尊門下の中心的な人物になった。

関東における天台教学の第一人者である尊海によって再建された無量寿寺は、関東の天台宗の中心的な寺院になっていく。尊海は無量寿寺の中に談義所として仏地院(後の中院)を建てるとともに、修行の場として仏蔵院(後の北院・喜多院)を建立している。

現在は廃寺になっている南院も、このころ成立したとされる。

1301(正安3)に、後二条天皇の綸旨が下されて、関東天台宗の本山となるべきことが勅された。このようにして、無量寿寺仏地院(後の中院)は「関東天台の教寺五百八十余寺仙波に附属し」(星野山仏地院濫觴)のように、関東の総本山としての地位を得た。

無量寿寺の最盛期は、鎌倉時代後半から室町時代前半のようで、関東の天台宗教学の拠点寺院として、関東天台宗580余ヶ寺の総本山として、仏教史上、重要な役割を果たしたとされる。

ところが室町時代の半ばを過ぎると、さまざまな社会動向などによって勢力は衰退していき、1537(天文6)7月の北条氏綱による河越城攻めによる兵火で焼失してしまう。

その後、小田原城の後北条氏の庇護はあったようだが、復興とまではいかなかった。

復興がなされるのは、江戸時代初期の天海大僧正のときで、それまで約半世紀は荒廃したままだったと言われている。……

 

小冊子によれば、江戸時代初期の再建以前の喜多院の歴史は、概ね、こんなような流れになっている。

そうすると富士門流の史書に出てくる大石寺6世日時、8世日影、9世日有、13世日院が武州仙波(川越)の天台宗談義所に入檀して修学していたのが、この無量寿寺だったとすれば、それはまさに無量寿寺の全盛時代だったということになる。

はたしてこの時代、日蓮宗や富士門流の僧が、無量寿寺の天台宗談義所に入って修学していたのか。そしてここで本当に恵心流本覚思想ないしは恵心流天台口伝法門とよばれる教学が教授されていたのか。

喜多院9