■川越・川越市立博物館2(天台宗檀林・恵心流の謎を追って2)

 

□寛永の大火で室町期の古文書が焼失してしまっていると明かした市立博物館学芸員

 

「いやー、どうだろうなあー。わからないこともあるからなあー」と、渋々出てきたという感じの学芸員。「この人、やる気があるのかな」とも思ったが、しかし学芸員と話が出来る千載一遇のチャンスであるので、早速、質問。

 

○「今日、喜多院と中院に行ってきて、中世の無量寿寺にあった天台宗談義所についてお話を伺ってきたのですが、喜多院で回答してくれたのは若い僧侶でした。私はもっと位の高い僧侶、例えば教学部長とか、住職とかに話が聞ければ、と思ったのでしたが…」

学芸員「いやいや、そんな教学部長なんていう人は、あそこ(喜多院)にはいないですよ。あそこは、いわゆる家族経営ですから。御住職がいらっしゃって、息子さんがいて、修行に来ている人は、いるのかなあ。その受付にいた僧侶は、息子さんか、修行に来ていた人か、そんな所でしょう」

「御住職も寺院経営に忙しいはずで、そういう室町時代の天台宗談義所とかの詳しい知識は、もちあわせていますか、どうですかねえ」

○「私も、あっちこっちの寺院に行ったり、博物館に行ったり資料館に行ったりして、お話を伺ったりしているのですが、一般的に寺院はガードが堅く、博物館や資料館に行ったときのほうが、詳しいお話を聞けたりします」

学芸員「まあ、いきなりお寺に行ってもダメなケースは、よくありますよ。ただし、今のケースは、本当にわからなかったんじゃないでしょうかねえ」

○「ここの展示にもありますが、仙波の無量寿寺仏地院には天台宗談義所があり、中世の頃は関東天台宗の本山だったと書いてあります。中世の日蓮宗・富士門流の古文書には、大石寺の法主が登座する前の若かりし頃、仙波の天台寺院で修学した、ということが出てきます。天台宗の僧侶が入学する天台宗談義所に、日蓮宗の僧侶が入学するということがあり得たのか、という問題がひとつあるわけです。喜多院の若い僧侶の話では、懐疑的な見解でしたが、学芸員の方の見解はどうでしょうか」

学芸員「んー、そうーですねえー。おそらくその僧侶の言うとおりではないかと思うんですがねえ。

たしかに天台宗談義所に他宗派の僧侶が入学して修学するということは、あり得ないと言えば、あり得ないでしょう」

「まあ、江戸時代以降でしたら、文献が残っているんですけども、それ以前に関しては、ほとんど文献が残っていないんですよ」

川越市立博3 

 

○「喜多院には、中世の古文書は残っていないんですか」

学芸員「寛永の大火がありましたでしょ。あれで焼失しちゃっているみたいなんですよねえ」

○「土蔵とか宝蔵というものは、喜多院にはなかったんですか」

学芸員「その当時はないでしょう。川越の大火で蔵造りが焼け残って、蔵造りの建物が川越にたくさんできたのは、明治の話しですから。寛永年間以前に、蔵造りの建物が川越にあったというわけではありません」

○「日蓮宗の檀林の記録を見てみると、檀林の能化(校長)が誰それで、卒業生が誰それで、どの人が後に、どこどこの本山の貫首に晋山しているとか、法主に晋山しているとか、といった記録が残っていますが。とは言っても江戸時代のことですが」

学芸員「あー、お血脈とか、そういうことですね。そういうのは、無量寿寺の天台宗談義所でもあったとは思いますが、いかんせん、寛永の大火で古文書が焼失してしまっているため、確かなことは言えないですねえ」

 

こんな感じで質疑応答が続いていったのですが、無量寿寺・喜多院・中院の古文書が、寛永の大火で焼失してしまっていて、室町時代の天台宗談義所の詳しいことが、わからなくなってしまっているとのこと。

というわけで、天台宗談義所に日蓮宗僧が入学していたかどうか等々のくわしいことは、わからないという見解でした。